晴走雨読

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『マルクスの逆襲』

2009-08-15 20:50:47 | Weblog
 青森県三内丸山遺跡は、約5,500~4,000年前の1,500年間も縄文人が生活していたところです。このやぐらは、残っていた基礎の大きさから想像して作ったもので、用途は不明です。集落のシンボルなのか、倉庫なのか、舞台なのか・・

 縄文人は、ここで原始共産制社会を営んでいたのでしょうか。



 『マルクスの逆襲』(三田誠広著 集英社新書 2009年刊)

 三田誠広といえば、唯一1977年に芥川賞を受賞した『僕って何』しか読んだことが無い。その、ストーリーはほとんど思い出せないが、丁度私の過ごした学生時代(1973年から1980年にかけて)の雰囲気そのもので、学生運動の高揚期が過ぎた大学のキャンバスが舞台で、挫折感、無力感の漂う学生たちが、赤、白、青など色とりどりのメットをかぶり、何やら繰り広げられる小ドラマを描いた作品だったように記憶している。

 その三田がマルクスを語るというので、買ってしまった。

 著者の論旨はこうだ。(以下、引用では無く、私なりの言葉にした。)
先ず、かつてマルクスは神だった。ヨーロッパにおいても、この国の学生運動においても、マルクスは大きな影響力を持ち、この矛盾に満ちた社会を変革する希望の星だった。
 しかし、1970年代、マルクスを信奉した者達の末路は、社会主義社会の現実、連合赤軍の同志粛清であり、社会的な信用は地に落ちた。
 そして、何という皮肉であろうか、マルクスが描いた計画経済の理想は、実は官僚主導によって高度経済成長を遂げたこの日本社会にあった。
 さて、小泉政治で格差社会になったこの国を建て直すには、どうしたら良いか。それは、マルクスが理想とするコミュニティの再構築だ。そのためには、コミュニティの核となる家族、郷土、国家を愛することから始めるべきだ。

 読んでいて、まさか再生の鍵が愛国心に繋がるとは予想しなかったが、価値観が異なるゆえ、駄本とか、トンデモ本と言って切り捨てることは簡単なのだが、上記の三田のような考え方は、世の中の一般的な見方なのかも知れない。左翼が振り向きもされない現実からは認めざるをえないのだろう。

 わずかに三田に反撃をすると、ソ連も中国も、レーニンも、トロッキーも、ポルポトも、学生運動の諸セクトも、全共闘も・・全部まとめてマルクス主義者という大雑把な括り方にはあきれるばかり。

 なぜ、都市への労働力の供給源として農村共同体が解体され、また核家族化された家庭も資本主義経済の中で解体に瀕し、国家もグローバル企業により国境が乗り越えられているのか。それらの現実から歴史が後戻りできない情況において、あえて家族、郷土、国家愛を唱える突然の飛躍した論理。

 

 
コメント
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