真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 何だかんだ話題のベスト&ワーストテン号でもある、映画芸術470号に荒木太郎が特別寄稿した『「ピンク映画」は終はつた。』に漸く目を通した。職場近くの紀伊国屋には紀伊国屋にも置いてなく、十九時で閉まる勤め人に優しくない図書館は発売後一週間を経て、依然先月号を最新号面で開架してゐやがる間抜けな始末。映芸に辿り着くのに、斯くも苦労するとは正直思はなんだ。以降表題始め引用に際しては、全て原文は珍仮名である。古き良きサムシングに対する郷愁が人一倍強さうな割に、荒木太郎が仮名遣ひに於いては過てる国語政策に唯々諾々と従つてゐる模様。全く以て、奇怪なる国家と国民ではある。

 閑 話 休 題、自身が―何処からどう見ても―昭和天皇に扮した2018年第一作が土壇場も土壇場の封切り前日に、のち中止に悪化する上映延期。以来、荒木太郎と脚本を担当したいまおかしんじがオーピー映画から締め出された「ハレ君」事件については、脚本をチェックした上で撮影させて初号試写まで済んでゐる以上、大蔵が梯子を外した挙句蜥蜴の尻尾の如く、荒木太郎―といまおかしんじ―を抹殺したとするのが当サイトの認識であり、その認識を改めるに足る新しい材料も、未だ少なくとも公には出て来てゐまい。この件に関する今回の記述はといふと、“それについては又いづれ”とあり、その内、再び荒木太郎が誌面に現れる日が来るのかも知れない。
 “終はつたといふよりも、終はつてゐたのだと思ひます”。挑発的な一文で火蓋を切る荒木太郎のピンク映画終息論のこゝろは、端的に掻い摘むとフィルム時代の終焉と、一般的な企業としては至極普通な人の異動にも伴ふ、大蔵の変節ないし変質。“本数が人を育ててゐた時代”、“点ではなく線としての育つ場”、“一本限りの、点ではない、帯としての戦ひ”といつた言葉は量産型娯楽映画の量産型娯楽映画ならではのアドバンテージを的確に捉へ、フィルムからデジタルへの移行を、“時代を進めたのではなく、時代を棄てた”と難ずるのも通り越し断じてみせる姿勢には、惰弱な繰言を超えた凄味が漲る。反面、同じ裸映画にも関らずな、性懲りもなく現存する“にっかつの差別意識”に触れておきながら、ピンクを“見てもないくせに、なぜ優越感を持つのだといふ怒り”は、後述する城定秀夫によるVシネ畑から返つて来る盛大なブーメランを免れ得ず、二言目にはケンシンケンシン“献身”を濫用するのも鼻につく。その手の利他を称揚か美化する態度は、目下の社会情勢にあつては平成を無駄死にさせるだけではなからうか。誰も儲からないのを平等と評してどうする、そんなものは単なる負の平等、みんなで儲けるんだよ。“終はつてゐたはずのものを終はつてゐないと希望をもつて終はつてゐないふりをして続けてゐた”ゆゑ、ピンクを撮れなくなつたとてさしたるダメージも負はないとするのは、負け惜しみぶりが余りにもいぢらしくていぢらしくてえゝいあゝ。
 界隈に目を向けると、ともに俳優部で対照的な反応を見せたのが、松浦祐也と川瀬陽太である。“今現在のピンク映画界をここまで真摯に書いた文章は少ない”とさへ捉へ、荒木太郎当人と映芸編集部に謝意を表する松浦祐也に対し、大雑把に要約か大概に意訳すると、よしんば非道い顛末で終らされたにせよ、アンタが終つたからといつて、ピンクも終つただなんて冗談ぢやねえといふのが川瀬陽太のレイジ。尤もその温度差は解釈なりパーソナリティーではなく寧ろ、松浦祐也がとうにピンクを通り過ぎた一方、川瀬陽太は令和の大杉漣に何時でもなれさうな今なほ、志半ばにして死んだ戦友をも背負ひ頑強に戦線に留まる。各々の立ち位置の相違に、より基づくものであるやうに映る。半ば以上に突き放した、城定秀夫の生温かい賛同以外に演出部のリアクションは、ネット上をザックリ探した程度では俄かには見当たらない。
 関根和美が死に、仁義を通さうとした池島ゆたかは塩漬け。新田栄と深町章は隠居、旦々舎も長く雌伏する。反面、ナベどころか、今上御大が伊豆映画で監督人生三つ目の元号に軽やかに突入し、吉行由実や清水大敬も―それなりに―堅調。国沢実や竹洞哲也よりは、加藤義一にまだ大成の目が残されてゐるやうな気がして来た。兎にも角にも、量産型娯楽映画は量産しないことには始まらないが、昨今のOPP+に重きを置いた外様組が一発限りの冷やかしか賑やかしで、量産しないとは必ずしも限らない。お山ならぬ小山の大将から脱け出せない友松直之は兎も角、本人が拒むのでなければ、城定秀夫や山内大輔は当然機会を与へられて然るべきである。希望の星たる小関裕次郎は、現時点で着弾してゐないため残念無念未見。荒木太郎は“街から国から「ピンク映画」が消えた”、“「ピンク映画」を許す世界が消えた”と芝居がかりにぶつてのけるが、そもそもそれでも残存するフィルム上映の小屋は何時消えた。それは不遜にして、非礼極まりない勇み足。流石にピンク映画ごと終つたとまでいふのは、守旧的な観点からも些か早計で、勝手に終らせて貰つちや困る。尤も近隣の旗艦館たる前田有楽を喪つた時点で、当サイトは小屋に対するセンチメンタリズムも捨てた。書物を全くの実用品と見做した森鴎外に倣ひ、ピンクもいはば実用品。未知の新作との間にさしたる差異を認めない、未見の旧作含め円盤だらうと配信だらうと、形はどうあれ見られればそれでいい。極論するならば、小屋も未配信の弾が飛び込んで来る、最早チャンネルのワンノブゼンに過ぎない。小屋で観る、フィルムで映写されたものこそが、あるいはもののみが映画。本来の然るべき在り様としては確かにさうであつたにせよ、真正を標榜する保守らしからぬ出鱈目をいふやうだが、この期に及んでその手の綺麗事なり絵空事に囚はれてゐたところで始まらない。立ち止まりたい者は、立ち止まればいい。旗を下したい者は、辛抱しないで下せばいい。俺はさう思ふし、前から後から、もとい前か後か知らんけど、もう少し歩いてみるつ・も・り(๑´ڡ`๑)


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 新妻真昼の暴... 箱の中の女 ... »
 
コメント
 
コメントはありません。
コメントを投稿する
 
名前
タイトル
URL
コメント
コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。