真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「異常性ハンター 制服狙ひ」(昭和53/製作:プロダクション鷹/配給:日活株式会社/監督:和泉聖治/企画・脚本:木俣堯喬/撮影:久我剛/照明:西田光月/音楽:新映像音楽/美術:衣京介/効果:秋山実/編集:竹村編集室/助監督:麻屋明・大部誠/タイトル:ハセガワプロ/スチール:木村昌治/録音:東音スタジオ/現像:東映化学/出演:言問季里子・章文栄・与那城ライラ・高木マヤ・木村和子・村川由美・今泉洋・神山征二・城浩・仲台ひろし・竜谷誠・矢田健・吾桐芳雄)。出演者中、木村和子がポスターでは菅野和子。同じく村川由美、城浩から竜谷誠までは本篇クレジットのみ。代りなのか、広沢二郎とかいふ謎の名前と、木村昌治がポスターには載る自由気儘な世界。美術の衣京介は木俣堯喬の変名、恭しくないのは初めて見た。照明の西田光月も、矢竹正知の変名。たゞし、西田光月、だけでなく。一旦さて措き、配給に関しては、事実上“提供:Xces Film”。
 雑踏感弾ける70年代の渋谷駅前、劇中実は素性の全く語られない、猪俣三男(吾桐)が仮病で仕事を休まうとして、多分見破られる。綺麗に逆上した猪俣が、さりとて大人しく出勤する風でもなく。サラリーマンの河上正一(今泉)が覘き込む、往時の用語を蘇らせると“大人のおもちや屋”「トップポルノ」に大書タイトル・イン。猪俣も敷居を跨ぐ、店内がタイトルバック、ビニ本『リボンの少女 1』に監督クレジット。カプリコン・1的なタイトルなのかも知れないけれど、2以降『リボンの少女』のナンバリングされた続巻が存在するのか、グーグル先生に訊いてみたものの手も足も出なかつた。
 配役残り、河上が散財する本篇冒頭、顔も見せないトップポルノの女店員が村川由美でなければ、ほかにそれらしき人影は見当たらない。神山征二と章文栄は、正一の息子で高校生の正雄と、臨月を思はせるお腹の大きな後妻・笑子。女優部のビリングに然程意味はなささうな、兎も角一番手の言問季里子は正雄が電車痴漢を仕掛ける、猪俣の当寸法で化粧品のセールス・森美沙。美沙が正雄を車内で捕獲、そのまゝ拉致か連れ込む自宅。正雄が美沙に弄ばれる場に、後を尾けた猪俣が介入か突入するのが、猪俣と正雄のミーツ。そんなこんなな勢ひで、一緒に女を犯す一種の師弟関係が成立、どがな勢ひなら。木村和子は正雄が写真展用の撮影―モデルの高額バイト―を方便に誘き出し、大概開けた河原で手籠めにする同級生の植木洋子。美沙と洋子相手には中折れた正雄が、三度目の正直で強盗を装ひ笑子を凌辱する、正直もクソもねえ。城浩は、その結果笑子が流産した旨正一に告げる、北里研究所附属病院の医師。木俣堯喬の辞書に、血なり涙といつた項目はないらしい。与那城ライラは洋子に続く形で猪俣と正雄が二人で狩る、正雄の中学の同級生で、写真の現像所的な勤め先に就職したと思しき大木雪子。この人の登場辺り―全体的には佳境―から、改めて後述する焚かない照明部の本領発揮。しかも商業作であるにも関らず、映画が照明といふ概念を暫し喪失する。三番手を追走する形の高木マヤは、泥酔した正一が落としたガスライターを拾つてあげようとして、正一から手籠めにされるマサコ、矢張り女子高生。チラチラ白い足が辛うじて映り込みはする、引きの画が本格的な闇夜の黒牛状態。今まで知らなかつた黒を見せて呉れた、ドルビーシネマならもう少しは見えるのかしら。端から撮れてゐない映像が、見える訳がない。閑話休題、あと慎ましやかに脇を固める竜谷誠が教頭で、凄まじいもみあげの、仲台ひろしは熊か山男みたいな風貌のワイルド先生。あれ、誰か一人残してないか。
 当サイト得意の寡聞にして知らなかつたのが、当時ミリオンと買取系ロマポ以外に、大蔵でも戦つてゐた和泉聖治の昭和53年第四作。当年、和泉聖治名義でjmdbに記載のあるものだけで、ミリオンと買取系が三本づつに、大蔵二本。更に江夏純なる変名も大蔵限定で使用してゐたらしく、さうなると大蔵が三本増えて全十一作。結構な、量産ぶりである。尤も、江夏純なんて時空でも超えない限り、どうやつたら見られるのよと匙を投げかけたところ、翻刻も満足に出来ないnfajが、プリントを一本所蔵してゐる模様。
 幾ら昭和の所業とはいへこの時代、何をトチ狂つて強姦が斯くもカジュアルなのか。所詮はタイム・ゴーズ・バイの渦に呑まれたとて特に誰も困らない、寧ろ藻屑に消えるに如くはない気も否めない、実も蓋もない無体な一篇ながら。非道は非道なりの成就を、なほ妨げるのは。もうこの男、まるで間違へてこの世に生を受けて来たかのやうな、徹底的なレス・ザン・ヒューマニティの清々しさがなくもなく。あくまでエピゴーネンであるにせよ、なりきり原田芳雄ぶりもグルッと一周して紙一重、芸にならなくもない猪俣に対し。惰弱な小倅から一皮どころか、皮の半分も剥けやしない正雄の真性包茎的な役不足が、展開の深化を阻む一番大きな穴。猪俣がキメたティアドロップとベルボトムとで、ビートを暴発もとい散発的に加速。劇映画的には決して面白くはなくとも、退屈するほど詰まらなくもない反面、乳尻に真面目に拘泥する気配ないし情熱の薄い、裸映画としては別に大してエロくもない。既に完成した猪俣はさて措き、正雄に変化の兆しすら窺へず、攻め手を欠いた始終が、尺が満ちるのと同時に力尽きるものかと思ひきや。映画の神が土壇場も土壇場、ラストで素敵な気紛れを起こしやがるんだな、これが。
 事後―猪俣家から―雪子を往来に逃がした結果、恐らく猪俣ともども、正雄が現行犯逮捕。正一が教頭に呼び出された、応接室か職員室の一角。配役本当に最後の残り、片や加害者生徒の保護者、片や被害者生徒と保護者。娘のマサコを伴つた、父親の矢竹―確かにさう名乗る―役で西田光月が飛び込んで来る、あるいは矢竹正知=西田光月=矢田健といふ等式が麗しく成立する。それまで覚束ない断片に過ぎなかつた固有名詞が、量産型娯楽映画の織り成し積み重ねた線と面の中で遂に繋がる瞬間の興奮こそ、超弩級のエウレカにして、空前絶後のエモーション。映画単体の中身だとか評価なんて最早どうでもいゝ、どうでもいゝのかよ。加害者生徒の保護者が別の被害者と対面して、別件の加害者に転ずる。手際よく畳んでみせれば衝撃の再会がドラマチックに成立したところを、何故かわざわざ数十秒完全にテンポを失し、木端微塵にモタついてみせるのは正体不明の御愛嬌。

 主人公が義母を犯す点について和泉聖治と、義理の母である珠瑠美の関係を絡め取沙汰する巷説も散見されるやうではあれ、さういふ―判り易いのは判り易い―脊髄で折り返し気味の感興が、適正なパースペクティブであるとは必ずしも認め難い。木俣堯喬は生涯四度結婚、和泉聖治(本名:木俣堯美)は二度目の妻との間に生まれた長男で、珠瑠美は四度目。即ち、和泉聖治にとつて義母といふ存在が何も珠瑠美一人ではない、以前に。そもそも、木俣堯喬が和泉聖治より三つ若い珠瑠美と再々々婚したのは、今作三年後の昭和56年である。


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