「昭和をんなみち 裸性門」(昭和48/製作:日活株式会社/監督:曾根中生/脚本:大和屋竺/企画:岡田裕/撮影:森勝/美術:徳田博/録音:神保小四郎/照明:川島晴雄/編集:辻井正則/音楽:奥沢散策/助監督:浅田真男/色彩計測:木野尾信正/現像:東洋現像所/製作担当者:高橋信宏/出演:梢ひとみ《新スター》・絵沢萠子・江角英明・葉月かおる・沢田情児・堀弘一・三川裕之・長弘・玉井謙介・小森道子・橘田良江・田畑善彦・衣笠真寿男・久松洪介・賀川修嗣・北上忠行・大谷木洋子・氷室政司・吉田朗太・庄司三郎・しまさより・佐藤了一・萩原実次郎・伊達真人/技斗:田畑善彦)。出演者中三川裕之と、玉井謙介以降は本篇クレジットのみ。逆にポスターには載る大山節子の名前が、本クレには見当たらない。実際どつちなのかといふと、多分出てはゐないやうな気がする。クレジットはスッ飛ばす配給に関しては、事実上“提供:Xces Film”。
日傘を差した和装の女が、鳥居を潜るロングにタイトル・イン。個人の特定如きすて措けと、振り切れて思ひきり引いたカメラが清々しい。大正時代、本篇開巻はチャチい模型を用ゐての、まさかの口腔内から外を見た視点のショット。正直、この時点で嫌な予感はした。侯爵の桂川実篤(長)がナポレオンに扮する座長(堀)率ゐる一座を、屋敷に招いての観劇。石女―劇中いはゆる“不適切な表現”ママ―の妻・綾子(絵沢)が、ナポレオンと密通してゐるのを知る桂川は、自身も護衛役の藤堂貞之助(江角)の情人で女郎上がりの、戸田しの(梢ひとみの二役)を囲つてゐた。しのが二卵性の兄妹を出産、桂川が男児は綾子との間に生まれた子として育てる一方、しのと女児は放逐。桂川家執事(賀川)は藤堂に備前兼光を与へ、言外に母娘の始末を命じる。十九年後、の昭和七年。桂川の援助で今や道場も構へる藤堂に、今際の間際のしのから手紙が届く。何処ぞの田舎にSLで駆けつけ、しのの臨終を看取つた藤堂は、しのの娘・鏡子(梢)と出会ふ。
ぎりぎり女優部はまだしも、膨大な男優部にぼろぼろ手も足も出ない辿り着ける限りの配役残り、しまさよりは綾子の侍女。陣痛に苦悶するしのから、平然と扇風機を奪ふカットの非情さよ。久松洪介が、兄妹を取り上げる医師。藤堂に連れられ上京、あるいは帰京した鏡子は、頑なに母と同じ娼婦の道に進むことに固執する。玉井謙介は、遊郭にて“お父さん”と呼ばれる人。a.k.a.森みどりの小森道子と橘田良江は、淫売要員のセーラー服と、矢張り劇中“不適切な表現”ママでめつかち。田畑善彦ともう二名が、藤堂が鏡子を連れ戻しに来た悶着に、介入する江崎組の衆。そんなにさうも見えないが老いてなほ腕の立つ藤堂に、チョロッと捻られる。遊郭に、三人の一高生が現れる。我等がロマポ脇役部の雄・庄司三郎はもう一人で、沢田情児が成長した京子の兄にして、苗字は桂川の浩義。最終的には菊江(葉月)と壮絶な東映―ばりの大を通り越した超失血―死を遂げる一高三羽烏のリーダー格と、藤堂の一番弟子・木村が固定出来ない大きい役。見れば判るつもりの佐藤了一も、見切れなかつた。
初出演ではないが初主演の梢ひとみに、新人扱ひも何なので“新スター”と銘打つのが斬新に映る、曾根中生昭和48年第四作。ソネチューだ大和屋だとなるとシネフィル~な界隈での評価は概ね高いやうだが、直截にピンと来ない、しつくり来ない。何はともあれ、馬鹿みたいにデカいボカシは百歩譲つて兎も角にせよ、画を狙ふのは構はないが、女の裸は満足に見せろ。ロマポは専門外につきよく判らないがたとへばエクセスと国映を比べた際の如く、ピンクでは主に会社単位のカラーで異なる、実直に裸映画に徹するのと、ゲージュツに気触れてみせる。路線なり部署の相違が、日活単体の中で案外明確にあつたものなのであらうか。濡れ場も疎かに鏡子の激情は兎にも角にも激しくはあれ理解にも共感にも遠く、絶妙に間の抜けたハンサム止まりの江角英明と沢田情児、男メインの二人が二人とも弱い。無造作な大立回りは今となつては牧歌性の範疇を突破し得る類のものでもなく、何もかも置いてけぼりにした清々しい絶望感は鮮烈でなくもないものの、描写が足らないか端的に不手際でラスト木村が何者と刺し違へたのかがてんで判らない以上、出し抜けに浩義を左に振るのは木に竹も接ぎ損なふ。サブ以外唯一正方向に琴線に触れたのは、執事が藤堂に最後に言ひ放つ、「藤堂、お前は何時も自分を賭けるものを間違へてゐる」なる、殆ど唯一地に足の着いた、且つ見事に真実を撃ち抜いた地味な名台詞。
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