真夜中のドロップアウトカウボーイズ@別館
ピンク映画は観ただけ全部感想を書く、ひたすらに虚空を撃ち続ける無為。
 



 「美人秘書 密通テレホンSEX」(1994『美人秘書 テレホンONANIE』の2006年旧作改題版/製作:プロダクション鷹/提供:Xces Film/脚本・監督:珠瑠美/撮影:伊東英男/照明:石部肇/音楽:鷹選曲/美術:衣恭介/効果:協立音響/編集:井上編集室/出演:藤本侑希・川島亜弥・本城未織・樹かず・石垣泰教・杉本まこと)。小林豊とする資料も見られるが、少なくとも本篇に助監督クレジットは見当たらない。
 ひとまづ電話をかけながらの、主演女優の自慰にて開巻。
 出社した女専務の坂出嘉代(川島)は、ドアに“来客中”のマグネットが昨日から貼り放しであつた瑣末に小言を垂れつつ、英文化卒の秘書・島村昌子(藤本)に英訳させたプレス―薮蛇ぶりが半端ない―に目を通す。すると、流石珠瑠美だとこの際感服するほかはないのか、書類の中から出て来た、昌子が私的に書いたオナニーに関するレポートだか散文詩だかを延々羞恥朗読。・・・・・

 何だこの謎展開?

 一体この人は、何を食つて生きてたらかういふ画期的に頓珍漢なシークエンスを思ひつけるのか。一々立ち止まつてゐると一切先に進めないので、一旦通り過ぎる。嘉代は劇中早くも藤本侑希二度目となる全裸自慰を昌子に命じ、しかもその様子をテレコに録音する。音源をネタに―動画に納めない辺りに、時代が感じられもしよう―嘉代は自身の明後日に旺盛な性欲の饗たる旨を、昌子に厳命する。ホテルに待たせたホストの健ちやん(杉本)との密会に飽き足らない嘉代は、支社から転勤して来た村木次郎(石垣)に狙ひを定める。不満足な物語しか存在しないのにメインも端役もないやうにも思へるが、杉本まこと(なかみつせいじの旧名義)も石垣泰教―村木は僅かに昌子とも接触するが―も、共に川島亜弥の相手を務める為だけに登場し事後は潔くスッパリ退場する超絶の濡れ場要員ぶりを、後述する本城未織(林田ちなみの旧名義)と同じく披露する。嘉代×村木戦と、晶子の独り寝とが交錯する夜は感動的に中途で放棄。二人の女優の濡れ場をシンクロさせておきながら、どちらも達することないまま平然と放置して済ます荒業といふのにも、初めてお目にかかつたやうな気がする。改めていふが、流石珠瑠美だ。映画的に別の意味でバイオレントな一夜明け、昌子はプリミティブにも腕つぷしに物をいはせ嘉代に逆襲に転じる。ここで吹き抜けるやうに登場する本城未織は、昌子が嘉代をよがり泣かせる目的でピンクチラシを元に調達した女。嘉代が達する直前に、今度は昌子が本城未織を制した再び一夜明け、ジャンボ機と、成田空港のショット。嘉代が非常勤役員として社内にも潜り込ませる、夫・勇作役の樹かずファースト・カットが、無造作も底が抜け激しく笑かせる。嘉代と昌子二人の専務室に、現在の目からは冗談のやうに馬鹿デカいサングラスをかけた勇作が、当初の予定を違(たが)へバンクーバーより緊急帰国。飛び込んで来るなり勇作は自分が外遊する間に散らかり放題の、自宅の様子の文句を性急にいふだけいふや、「帰る!」と退出。な、何だこりや?何しに現れたのかこの男は。それはカミさんに難癖をつけに来たのかも知れないが、それにしてもピンポンか。文字通りの顔見世ならぬ顔見せだ。カナダからの因縁はさて措き、昌子からは明確で勇作には曖昧な、互ひに対する記憶があつた。誰あらう勇作こそが、昌子の初体験の相手であつた。
 予め全ての意味を拒んだかのやうな、まるで難渋なコンセプトを抱いた芸術映画かの如き一作。吹いた与太の中身が自分でもよく判らないが、実際に訳の判らない映画である故この期には仕方がない。それでゐて星の数ほど全篇くまなく鏤められたツッコミ処の数々に対しても、果たして何処から手をつけたものやら途方に暮れる。とりあへず以降としては、自宅での夕食に招いた昌子に、嘉代の方から勇作を宛がふ。といふ流れになりはするのだが、その段にも、先に勇作が席を離れ、すると嘉代は目の前に座る昌子から筆記具を用立てると、書きにくからうにナプキンに何事か記して渡した中身が、“カレと 今夜ファックOK”。面倒臭い女だな。直接口でいへよ、そんなどうでもいい文句。大体がオープニングから、美人かどうかは意見も分かれさうなところでもあるがそれはさて措き、“秘書”が“テレホンONANIE”してゐることに関しては清々しく―原―看板を偽らないが、全くその限りで、特段どころか欠片も後々に有効に機能する訳では一切ない。主人公の初めての男といふことで、折に触れ挿入される勇作のイメージ・ショットの不安感すら惹起しかねないランダムさも何時もの珠瑠美で、鷹選曲のアヴァンギャルドに自由奔放な選曲も相変らず。濡れ場には感動的に親和しない徒な不協和音や妙に荘厳なシンセを、絡みに被せる感動的にちぐはぐなセンスを発揮したかと思ふと、それでゐて締めの昌子と勇作との一戦に際しては、堂々としたオーケストラで「ボレロ」を鳴らし、劇映画としてはまるで体を成さない一作を不可思議な安定感で締め括つてみせる。尺が満ちるか尽きると起承転結を転まででバッサリ打ち切つてしまふ、よくいへば―いへないが ―破天荒を故小林悟や小川欣也が仕出かすことも時にあるが、珠瑠美の場合はしばしばその更に先だか後を行き、そもそも起承転結が起から木端微塵。転までは一応あつらへた映画を放り投げる御大や小川欽也と、破壊力が大きい方は果たしてどちらなのか。俄には判断に苦しむところである、といふか、率直にいふとこの人の映画を観てゐると変なトリップ感でクラクラして来るので、最早そのやうな直截にはどちらでもどうもかうもないやうな問題を、一々アレコレ思案する野暮な余力なんぞ綺麗に霧消してしまふ。


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