いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

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最低賃金に関する議論~2

2009年07月31日 16時41分22秒 | 経済関連
前の記事の続きです。

個人的には、最低賃金をいきなり1000円にしたりすることには同意が困難というのはある。
最低賃金を上げるのはもっと引き上げ幅を細かくする方がよく、しかも持続的な方がよい。年率ではせいぜい1~2%くらいの引き上げ幅、ということだ。それ以上に重要なのが、デフレ脱却である。GDPは、名目値よりも実質値の方が断然大きいという、とんでもない事態が解消されるまでは、継続的な「金融緩和策」をとるべきである、ということだ。名目GDPが500兆円、実質GDPが520兆円、みたいな国は、世界広しといえども日本だけだ。それくらい異常な金融政策なのだよ。だから、これを是正しない限り、普通の経済政策とか経済運営をいくら目指そうとしても、うまくはいかないだろう。


賃金の話に戻ろう。
そもそも賃金を完全に自由に決めさせた場合には、「完全雇用が達成される」という仮定が極めておかしいのであり、現実にはそんな現象は起こらない。これはどうしてかといえば、まず「生存コスト」(今勝手に作り出した用語なので、悪しからず)があるからである。これを下回る賃金水準になると、労働者側は受け入れられなくなるから、実際には下限が存在しているはずであろう、というのが私の考え方である。奴隷を従事させるような、立場や交渉力の圧倒的格差が存在する場合には、「生存コスト」は大きく切り下げることが可能なのだ。

今、ある産業があって、売上が100あったとしよう。この時、支払う賃金総額が50で、一人当たり10の賃金を5人に払っているとする。ところが、この産業の業績が急激に悪化して、売上が50に減ってしまった。そうすると、払える賃金が25(必ずしも売上と同じく半分にはなったりせずに限界理論とかによって決まるのであろう)になってしまうと、失業がない賃金水準に自動的に変化するということで、一人当たりの賃金が10→5に減少する、ということなのである。これが、旧来からの”経済学理論”ということらしい。

最低賃金を決めてしまうと、この調整能をなくすことになるのでよくない、というのが、「経済学の常識」という世界に生きる人々のご意見なのであろう。労働者は生きていかねばならないので、上記労働者たちが生存する為に10の賃金のうちパンを買うのに6だけ充てていたとする。生存コスト=6、ということだ。もし労働者の賃金が下がると、労働者がパンを買うのに回せるお金が減少するので、パンの値段が相対的に高ければ需要が減少することになり、パンの価格は自動的に調節されるわけである。労働者はパンを食わずに我慢をして、価格が下がるまで買おうとはしなくなる、ということだな(笑)。

学者さんたちの信奉している世界では、こうした変化が一瞬のうちにして起こってしまうので、賃金がたとえ半分になってしまったとしてもパンが買えなくなるなんてことはないし、失業者が発生することもないわけである。賃金が5に減ったとて、パンの費用が払えなくなる、ということは有り得ないのだ。「賃金が5になれば、6のパンは買えないぞ」といったことにはならないのが、幻想の経済学が作り上げた世界に生きる労働者だ。


それは御伽噺の世界でしか通用しない理論だからではないのか。まさしく「不思議の国」なのだよ、学者が生きている世界というのは。そんな妄想世界の理屈を現実世界に適用しようとして、ラビリンスにハマっているのようなものである。
賃金の自動調節が起こった途端に、パンの価格が自動調節される、なんてことは現実には起こってない。水準訂正には、もっともっと長い時間がかかってしまうのだ。瞬時に起こる、なんて理屈の世界みたいには行かないのだよ。本当に売上高が半減したり、何分の1かに落ち込めば、その水準に合わせた賃金であると生存が不可能になるだろう。生存コストの方が上回る、ということ。そういう労働者は仕事にありつける場所に瞬間移動する超能力を発揮するそうだが、そんな人間には出会ったことがない(笑)。どこぞの経済学者は、こういう超能力者の存在を頑なに信じているのかもしれないが。現実世界には時間という制約がある、タイムラグがある、ということを考えられないような学者ばかりが大勢いるのだそうだ。

労働者の賃金が妥当である為には、労働者側には確実な「選択の自由」が保障されなければならない。例えば、失業給付を下回る賃金は全て拒否できる、高い賃金の仕事があれば自由に転職できる、などといった選択権である。労働者は、少しでも安い仕事や条件の不利な仕事からは完璧に逃避でき、違う仕事にありつくことができなければならないのである。交渉力が対等というのは、そういうことだから。現実に、そんなことが起こっていると?(笑)そんなのは、ウソだ。仕事といったって、机にふんぞり返って本のページをめくるくらいしかやったことのない学者先生には、到底判るまい。


仕事の働き口が50人分しか存在しないのに、そこに100人の労働者がいれば、賃金は下がるよ。労働力供給が超過しているからだ。そういう環境では、労働者側の交渉力は弱い。本当に生存ギリギリということになれば、パン一切れしか得られないのに労働者は労働力を提供してしまうだろう。企業側の交渉力が優位であると、そこでの標準的な生存コストを下回る賃金提示であったとしても、労働者は存在することになるのだ。まさしく奴隷みたいなものだ。植民地労働力とか。「生きるには、他に選択の余地がない」というような状態は多分存在するだろう、ということだ。
今の悲惨な低賃金労働者たちとは何が違うと思うか?

参考記事:

続々・賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?

労働者は「数字」でしかない

雇用問題について考える上で



経済学の論理を信奉する人々に、是非ともお尋ねしたい。

最低賃金が経済学理論では間違っている、不適切な政策である、というのが本当であるとして、ならば何故「日本以外の先進国」でそういう愚かな政策が採用されているのであろうか?
最低賃金制度のないOECD国は何カ国ある?
それ以外の国々では、どうして最低賃金を廃止してこなかったのか?
それは、経済学無知の愚か者だからか?(笑)
まあ、「吾こそは正しい答えを知っている」という自負のある人たちは、きっと愚かな人類の決定について哂うに違いない。


「どうしてその制度が存在しているのか、存在してきたのか」ということを、まず明らかにするべきなのではないか。全く意味のない制度など、存続してこなかったはずではないか、ということだ。




最低賃金に関する議論~1

2009年07月31日 14時00分58秒 | 経済関連
こちらに関して>はてなブックマーク - 上限金利規制と最低賃金 大竹文雄のブログ


大竹先生の記事について触れる前に、これまでの主張と大差ないが再び書いておこう。

日本の経済学者たちは、政策決定をする上で正しく論理的な判断ができるような、唯一の結論を得るべきだ。まず、自分たちの内部で一つの結論に到達できるように、互いが確実に説得できるようになれ。それすらできない人たちが、経済学には全く無関係な人々に何を教えられるというのか?経済学者同士ですら納得できないとか、結論を得られないというようなものについて、どうして経済学をよく知らない政策担当者たちが「正しい答え」を見つけられるというのか。

労働問題や労働市場なんて、今に始まったことではない。昔からあるではないか。
最低賃金が政策導入されたのは、一体いつからか?
次の民主党政権からですか?(笑)

これまで経済学者とか研究者とか、そういう人たちは大勢いたのではないか?
(労働問題の研究者たちだっていたよね)
何人もいたし、何年も時間はあったではないか。その間に、「最低賃金は政策的に妥当か、否か?」というたった一つの疑問点に対してですら、何らの共通理解や解答を得てこなかったのか?ごく一部の人たちは、「不当な政策だ」と主張し、一方では「いや、そうでもない」ということになっているのは何故なのか?どうして、過去何十年も「最低賃金は廃止せよ」という経済学の世界からの大運動が行われたり提言がなされてこなかったのか?人々に正しい答えを教えようとしなかったのは、経済学者たちが不誠実だったからか?(笑)

上限金利問題についても同じなのだが、これまでの学者さんたちってのは、何かの成果を得てきたのか?どうして、もっと昔から研究をしてこなかったのか?問題にされた時期は、はるか昔からであったのに、何故経済学的な答えを見つけ出そうとしてこなかったのか?

要するに、学者さんたちの怠慢みたいなものだ。結局、誰も答えを知らない、その時々でしか取り組まない、そういうことが繰り返されてきただけではないか。そうでなければ、もっと学術的検討がなされていたはずだし、何らかの答えを見つけることだって不可能ではなかったかもしれないのに。そういう取組みを、経済学者たちが行ってきたのかといえば、怪しいものだ。だからこそ、未だに「最低賃金は妥当か、否か?」なんていう古ぼけた話題にさえも、経済学者たちの共通理解など存在していないではないか。あるというなら、既に答えは出ているはずだ。その理屈でその他大勢を説得できる。

だから、まず、学者同士で結論を出すべきだ。答えを提示せよ。「経済学的裏付け」のある答えを用意できたなら、はじめて「間違っている」と言うべきだ。それすらできないのに、一般人を説得できるはずなどなかろうて。


米国のサブプライムローンが壊滅的打撃を受けてしまったことの理由をよく考えてみるべきだ。「外部性がない」というのも、本当なのかどうか疑わしいな。経済学の分野でそんな唯一の結論が得られたとでも言うのだろうか?(笑)


以前から、「借りたい人が借りられなくなる」とか非難する手合いは大勢いたわけだが、借りたい人には貸せばいいということで自由に貸せばどうなるか、ということのを考えたことがあるのだろうか。米国での貸出が必ずしも無軌道であったとまでは言わないが、貸し手が競って貸し出した結果、危機的状況に陥ったわけだ。恐らく金利が市場原理に基づいて機能していた(笑)であろう米国のサブプライムローン市場であっても、貸し手も借り手も正しく判断できるなんてことにはならない、ということなのではないのか。「高い金利でもお金を借りたい」という人々にローンを提供した結果、破綻したんでしょう?そこには、経済学者の言う金利や市場の機能は存在していなかった、とでも言うつもりか?(笑)
高利貸しに何故ヤクザが参入してきたか、そういうことを考えてみたらいいよ。これを合法化するべき、というのが経済学者の言い分なのか?もしそうなら、そういう結論の経済学的裏付けを取って、早速合法化の政策を政府に選択させるべきだろうね。



大竹先生は、
『今日暮すお金に困っているから高い金利でもいいと思って消費者金融から借りていた人を金利規制は排除しているのだから。』
と仰っていますが、トイチどころかもっと高金利を吹っかけて、たった1万や2万円を借りさせておいて、いずれは身包み剥がして死に至らしめる貸し手を正当化したいということのようだ。

こんなことを言いたくはないが、社会というものを知らないんだよ。学者大先生ってのは。
そういう現実を想像できないんだ。いや、私自身借りたこともなければ、そういう現場に出くわしたことなんかないが、漫画やドラマの世界ではどんな状況なのかは相場が決まっていると思うが(笑)。

「今日暮らすお金に困っているから高金利でもいいと思って借りてる人」が、払い続けられるとでも本気で思っているのだろうか?貸し手と借り手が対等な立場であると、本当に思っているのか?僅か1万、2万の、それどころか数千円というレベルの、「今日暮らすお金に困っている人」がどういう状況に置かれるか、金利などを正しく判断できるみたいな絵空事を言ってるんじゃねえよ、とは思う。学問的にどうだとかは、勿論判らんのだが。


まあ、上限金利反対派は、学問的正しさを証明したらいいですよ。
で、借りたい人が意志に反することなく借りられる社会、ということで、誰でもいくらでも自由に貸せるように規制緩和してやれよ。ヤクザの資金源になろうと、何だろうといいんじゃないか?(笑)
これで、日本版サブプライムローンの完成だな(笑)。一丁あがり、と。




祝 【ラグビーW杯2019】 日本開催決定(笑)

2009年07月30日 15時25分38秒 | いいことないかな
ラグビー後進国(?)の日本での開催が決定された、ということで、関係者たちは万歳三唱していることでしょう。何はともあれ、良かったですね、と思います。

多分、お目当ては日本企業の協賛金とか、放映権料とか、そういったものではないかと想像しますが、いかがでしょうか。

トヨタ、東芝やサントリーなどの一流企業が名を連ねている企業スポーツ関連はあまり多いとはいえず、珍しくラグビーがありますからね。日本での人気とかは、まず地味といった感じがしますよね。あんまり注目されてはいないように思いますが、どうなんでしょうか。それは多分、目立ってスターがいないから、ということではないでしょうか。


古くは「中村雅俊」、最近だと「橋本大阪府知事」とかですかね(笑)。
けど、プレイヤーとしてじゃない。

昔は、松尾、その後には平尾が君臨していたから。
ああ、僕が若い頃の話なんだけれども。


忘れられないラグビーの試合というのがあって、これは伝説の試合と言われているみたいだ。当時に、リアルタイムで試合をテレビ観戦していて、本当に良かったな、と思う。


僕はまだ学生で、うまくいかない実験か何かをやっていて、うんざりしていたのでテレビでも観ていたのかもしれない。というか、当時には新日鐵釜石を倒して新時代の王者に君臨しつつあった神戸製鋼の試合ということで、それなりに世間の注目を集めていたかもしれない。

当時の思い出としては、平尾はラガーマンには似合わず(という表現はいささか問題があるかもしれないが、どちらかといえば大八木みたいな風貌というのが一般的な印象かな、と)カッコよく、心の中では「襟を立てすぎなんだYO!」とか思っていたかもしれない(最近のラグビー選手の襟が立っているかどうかは、よく知らないけど)。

これは、まあいい。

問題の試合は、”終了間際の大逆転劇”というのがポイントで、「ああもうダメかも」と思わせといて、勝ってしまったのが凄いんだな。
探してみたら、ありましたよ。


試合の様子はこちら
Dive Addiction 33 伝説の試合 伝説のトライ


いやーん、じゃなかった、イアン・ウィリアムスへの平尾のラストパス、落としそうになりそうなボールをうまく捌いて独走する姿は、あの当時の興奮を蘇らせる。

挫けそうになりそうなつまらない作業に、いたく滅入っていたのが当時の僕だった。そんな作業の合間に偶然出遭った、「なんという試合!」がこの神戸製鋼対三洋電機の決勝だったのだ。だから、とても印象深く記憶されたのかもしれない。

当時のウィリアムスは評価が高かった。ここで決めるかウィリアムス!というくらい出来すぎの、劇的ドラマだった。
(個人的には日本にやって来た選手の中では、マコーミックが一番だと思うけど)


今後の日本ラグビーに期待したいが、どうなるんだろうかね。
開催国に恥じないように、頑張ってもらいたいね。

私なら、まず最強キッカーを育てる。
ドロップゴールを3発決められる選手を作る。海外のパワーと体格に優る選手に対抗するのが難しいからね。重装騎兵を並べられては勝ち目がないかもしれないから、飛び道具で対抗、みたいなもんだな。最強のアーチャーを作り上げるしかないんじゃないかな、と。




民主党の変節~「子ども手当て」は最悪の政策

2009年07月29日 15時15分44秒 | 政治って?
政治がその場限りの道具に過ぎない、ということが明確になるのは、こういう時期の特徴なのかもしれない。かつて社会党が与党側に回った時に過去の主義主張を捨て去ったわけだが、今の民主党もほぼそうした傾向を踏襲しているといえるであろう。

つまりは、野党というのが「反対の為の反対」というのを繰り返してきただけに過ぎない、ということ。政策的に何かの問題を解決したいとか、社会や生活をよくしたいとか、そういうことではないのだ。ただ単に、相手(=政権与党)側を攻撃し、批判してみたいだけということ。それが野党の存在意義であるかのように、錯覚しているのである。反対したって、何かの問題が解決できるようになるわけじゃない。これも幾度となく指摘してきたことであるが、「では、どうすれば良くなるか」ということが欠落しているのである。


finalventさんが極東ブログで指摘していたことであるが、インド洋の給油活動は違憲だ、という見解をとる立場であったのなら、可能な限り撤収させるのが当然ということになるだろう。オバマ大統領は選挙前の公約でイラク撤退を主張していたからこそ、就任後には撤退開始を実行した。これが、筋というものなのではないか。民主党は選挙が近づいた、というだけで、急に過去の主張を反古にするらしい。


もう一つ、判りやすい例を取り上げておこう。

民主党の公約の目玉と言われているのが、「子ども手当て支給」だそうだ。これには、賛成意見の識者たちもそれなりにいるようだ。必ずしも「全然ダメ」という政策ではないのかもしれないが、変化としてはかなり大きく、他の犠牲の上に成り立つ割には費用対効果には疑問符がついても不思議ではない、というのが私の個人的見解である。

民主党の姿勢というのは、過去の主張の変遷というものがあるであろう。
2000年には何と言っていたのか?
政府与党の出した「児童手当」には反対していたのではなかったか?公明党が中心になって実現にこぎつけた「児童手当」に文句をつけて反対したのは、民主党ではなかったか?

公明党が息巻いて反論したくなる気分、というのは、確かに理解できる。何故なら、民主党は昔から公明党の政策をクソミソに貶し、反対の立場を取ってきたからだ。勿論、採決にも反対票を投じてきたのだから。当時の児童手当法案というのは、1人目と2人目に5千円、3人目には1万円支給、学童期に入る前の6歳までが限度であった。所得制限も設けられていた。それは「財源問題」というのがあったからであろう。もっと単純に言えば、それしか大蔵省には予算が認められなかったから、だろう。公明党が連立を組むに当たり、自民党にどうしてもこれを通してくれ、というような要求があって実施されたものではないかと想像する。それでも、当時の公明党としては支持層の納得を得る為には全力で頑張ったものであったろう。民主党は、涙ぐましい公明党の努力を踏みにじり、反対に回ったのだ、ということ。


さて、今も現職国会議員に、民主党の小宮山参議員がいるはずである。民主党の子ども政策の中心的存在という議員先生かもしれない(実態は知らない)。この議員先生はかつてどんな主張をしてきたか、ピックアップしてみよう。

2000年4月26日>民主党:児童手当法改正案に対する質問(小宮山洋子参議院議員)

『税の扶養控除か児童手当のような手当でするのかを含めて、子育てをする 家庭で何を望んでいるのか、広く意見を聞き、議論する必要があると考えます。ある調 査によると若い女性の9割は子どもがほしいと考えているのに、官僚の皆さんが机上で 考えているから、出生率が下がり続けることになるのではないでしょうか』

『総理府の世論調査では、子育てのために必要な施策として、労働時間の短縮、育児休業制度の充実などを挙げる人が多く、児童手当などの経済的支援を求める声は、むしろ 少ない結果がでています。子育て支援の総合的なビジョン、施策がまずあって、それでは児童手当はどうするのかと考えるのが順序だと思います』

『児童手当は子育て支援のひとつの柱にすぎません。全体のビジョンがない上に、財源などについて朝令暮改のバラマキとしかいえない、問題の多い今回の改正案は、あまりに無責任であることを申し上げて、私の質問を終わります』

要するに、この最後の質問に書かれているように、全体ビジョンがない、財源が曖昧で朝令暮改のバラマキ、ということで、無駄だ、と。無責任だ、と。そういう主張であったようです。ところが、選挙前になると、急に大盤振る舞いですか(笑)。


民主党の子ども手当ての問題点を書いてみる。

①幼少期の経済支援は本当に効果的か?

当たり前なのだけれど、金をもらえないより「もらえた方がうれしい」「支援はあった方がいい」という意見は多く出るだろう。そりゃそうだ。だが、問題の本質は、若年世代の雇用が不安定であったり(非正規が多い)、収入水準が低い、といったことがそもそも問題なのであって、そこに年金保険料等の社会保障費の過重負担が加わるわけだから、税制や社会保障の問題、というのがまずあるわけだ。子育てしたことがある人ならある程度判ると思うが、子どもが小さいうちはそんなに苦痛というほど支出が増加するわけではないだろう。

それ以上に、女性の仕事が続け難くなるとか、キャリアが途切れるとか、仕事の急に休んだり早退したりが難しいとか、そういうことがあるだろう。子どもの急病なんかはお母さんにはどうにもできないからね。夫婦で所得があったものが、夫の収入だけに頼らざるを得なくなるというような事態が「子どもを持つこと」への経済的不安になったりするのではないかな、と思う。これを子ども手当てで穴埋めすることが若干はできるようになるかもしれないが、そういう政策を割当てずとも、積極的に「働くお母さんを支援する社会制度」を目指すべきだと思う。それが将来の少子高齢化への適切な対応策となるからだ。来るべき将来の労働人口減少、という事態にも対応できる政策だからだ。

子どもへの直接的経済負担は、幼少期であればそんなには大きくはないだろう、というのが、まずあるのだ。


②扶養控除廃止のダメージ

中学までしか子ども手当てが支給されない、というのが、かなり問題だろう、と。子どもへの支出が年齢と共に経済負担が増大してゆくのは、半ば常識的なのでは。
 小学生<中学生<高校生<大学生
という順序になっているのではないか、ということだ。

だから、一番教育費関係にお金のかかる時代が高校生~大学生頃なのだ。今の税制では、そういうことが勘案された控除体系になっているはずで、その減税効果が働いているのである。これが一律に廃止されれば、子ども2人世帯で、お兄ちゃんが大学生、妹が高校生、というような世帯では、教育費や生活費がかかる(食べる量が幼少期とは違う+携帯電話を持ったりする)上に、いきなり大増税が待っていることになるわけだ。子どもの扶養控除2人分で130万円くらい(だったか?)あったものが、いきなりゼロになって数十万円規模での大増税になるであろう。

多額の教育費に加え、住宅ローン返済も抱える厳しい世帯が、いきなり増税されることになる。小中学生世帯の恩恵よりも、こうした増税される世帯への大打撃の方が、影響が大きいのではないかと思うが、この辺は専門的な分析が必要なのではないか。

また、世帯数がどの程度か判らないが、老人と同居世帯でもはやり大幅な増税が待っている。親夫婦と専業主婦の妻の3人を扶養しているお父さんは、いきなり大増税をぶちかまされることになるので要注意。


③高額所得世帯にまで支援が必要か?

ある程度所得のある世帯にまで一律に同じ金額を支給するのは、極めてバラマキ感の強い政策と言わざるをえない。高額所得世帯は経済的支援がなくても幼少期の子育てには困らないと思うが。それよりも、優秀な夫婦がともに十分働ける環境を整えることの方が意味があるのではないかと思う。
一律に同額支給することの利点は、全く感じられない。

控除廃止を行って高額所得世帯への課税を強化したい、ということなら、子ども手当てということではなくて、子どものいない世帯であろうと高齢単独世帯であろうと、減税するなり別な給付を増やすなりをするべきではないのか。経済的支援の本当に必要としている人たち(優先順位の高い人たち)に、まず支援を多くするべきだ。ある水準の所得の人に「子ども手当て」を支給する以上に優先されるべきではないか、ということ。
今の制度のままでは、所得水準の低い人たちまでが逆に「一律に増税」を強いられることになってしまうだろう。


④経済的理由というのは、子どもの将来不安なのでは?

中学、高校、大学と、子どもの将来にかかる費用が、今の日本では高額かつ不確実だからこそ、子どもを持つことへの躊躇いを生じやすくするのではないか、というのが、私の見立てである。

子どもを産むのはいいが、自分の給料がどうなるかまるで見えない(いきなりボーナス半額やカットとか、賃金引下げとか)し、夫も妻もいつまで正規で勤めていられるかわからないし、それでいて塾や進学費用が多額にかかることは判り切っている、ということになれば、そりゃあ安易に「子どもでも産んでみようか」なんてことにはならないわけですよ。けど、将来は大学にだって「無償で行けることもあるのよ」ということが判っていれば、子どもが親の収入のなさのせいで大学進学ができなくなる、ということは回避できるわけですから、その分の将来リスク(不安)は軽減されるということになるんですよ。

だったら、それは奨学金や公的教育費の改善という政策を割り当てるべきで、子どもの小さいうちに金を配って「その金は将来の大増税(子ども手当てが打ち切られるから)と高額教育費に充当できるように積み立てておけ」というような政策にする必要性はないのではないか、ということなのである。子どもがある程度大きくなっていく時に、「どれくらいお金がかかるようになるのか、わからない」ということが根底にあるからこそ、経済的問題というのが大きくなってしまうわけで。

失業や賃金低下などは、子どもがいてもいなくても不安があるのは確かなので、これが必ずしも子育て不安を増幅するか、というのは判りません。だけれども、「お金がないから子どもを産めない」、「所得が低いので子どもを持つのが不安」ということの意味をよく考えてみるべきだ。若い世代の人たちがそう言うのは、ただ単純に「今、現金を持ってないから」ということではないと思うよ。後々、大学に出してあげられるか心配だ、1人ならば行かせられるが2人は無理だ、ましてや3人なんて無理だ、というようなことであって、1歳、3歳、5歳と今3人育てるのに大金がかかるので無理だ、というようなことではありません。


昔から、「貧乏子沢山」とか言ってきたではないですか。
経済的事由が本当に大きく影響してきたのなら、全然産めないに決まっていますよ。そういうことすら考えられなかったほどに、昔の女性が「何も考えていなかった」なんてことがあると思いますか?違うでしょう。

昔は、子どもの教育費にはそんなにかからなかっただろう、というのが世間一般の常識だったからなのではありませんか?
大学に行くなんて、大金持ちかエリートさんだけで、他はみんな小学校や中学校を出たら働いたからこそ、たくさん産めたんじゃないですか?労働力という点もあったかもしれませんが、でも、将来費用が少なければ産んでもいい、と考える人が多く出ても不思議ではないと思いますけど。


民主党の「子ども手当て」について、もっと専門的に批判する人たちがどうして出てこないのかが、大変不思議なのである。

少なくとも5兆円以上という大金を使ってやるべき政策とは、到底思えないのである。



ところで、与党側の反論とかも、全然ダメだね。
簡単にバラマキだ、とか財源が不明だ、とか言うだけでは、もの足りない。

オレならば、敵側主張を打ち砕く方法をきちんと考えるぞ。


どうだ?
党の非常勤の政策研究員とかで、契約しないか?(笑)

その代わり、こちらの勧める政策を実現に向けて実行してくれるなら、という条件付きだが。



日本の警察広報は見習うべき

2009年07月28日 12時49分36秒 | 俺のそれ
これって、警察の広報には素晴らしい貢献だよね。

レクサス最速の IS-F パトカー、配備完了(レスポンス) - Yahooニュース

(一部引用)

そんな超高性能セダンが、英国ヨークシャー州ハンバーサイド警察の車両担当者の目に止まり、パトカーとしての導入が決定。従来のスバル車に代わって、配備された。

ハンバーサイド警察では、IS-Fの導入に合わせて、異例の準備態勢を敷いた。精鋭警察官を選抜し、英国レクサスの協力の下、1年間に渡る特別訓練を実施したのだ。423ps、MAX270km/hの性能をフルに引き出すトレーニングである。

ハンバーサイド警察のマーク・ペック氏は「レクサスの協力で、史上最強のポリスカーが完成した」と自信たっぷりのコメントだ。

=====


日本でもGT-Rの高速パトとかはあったかな、と思うが、忘れた。

警察官募集のヘンなデザインの冴えないポスターとか、ダメキャラ「ピーポ君」(?、だったか?)を使ったパンフやポスター類を作成するくらいなら、パトカーに広報費をつぎ込んだ方が断然いいと思う。

だって、遠く英国の警察活動さえもが日本に届くくらいだもん。
ミニカーとかの模型自動車メーカーさんだって、喜ぶんじゃないですか?

実物車両があるから、パトカーなんだよ、という説得力が断然違うし。

そういう夢のあるような予算の使い方とか、大勢に喜ばれる日本丸パトカーとか、考えてみたらいいのにね。



観光庁の夏休み(笑)

2009年07月27日 17時40分45秒 | 俺のそれ
コレに触発されたわけでもなかろうが。

官僚たちの夏休み


当たり前か。

で、官僚が率先して夏休み取得を実施するんですと。観光庁では。
いいなあ~、観光庁。
うらやましいなあ~、観光庁。

とか、他の省庁からは思われているかもしんない。

因みに、環境省では冷房を抑える為に室温設定を28度にしているんでしょうか?本当にそんな温度で?

参考までに、ドラマの『官僚たちの夏』では扇風機が回っているだけで、窓全開状態のようですので、「かつては耐え忍べたんだから、今でもできる」とか、入省年次の古い方々から言われるらしい(ウソ)。
太っているだけで、環境省では暑苦しいということで、率先して体重削減が求められるとか?(笑)

ああ、厚生労働省では率先して「メタボ」予防の為に体重制限を課せられるのかな?それとも、将来医療費削減の為に健康管理を厳しくされるとか?禁煙は絶対命令とか?(笑)
それとも、ワークライフバランス重視で、残業禁止とかか?


省庁によって、「○○省(庁)だから」という理由で、率先するのが恐るべき内容となる場合もある、ということでしょうか。あたりハズレが大きいかも。


国税庁だから率先して他の国民よりも多く納税する、ということはないだろうね。




個人的に嫌いなヤツラ

2009年07月26日 18時20分39秒 | 俺のそれ
かなり偏った見解なので、本気にしないように(笑)。


・「経済学の常識」を語る”非常識”経済学者

→経済学云々の前に、最初に学ぶべきは「謙虚」である。


・「国立大学法人には埋蔵金が数千億円もある」という情報操作をするような財務?官僚と、その手先となって記事を流す記者&マスコミ

→財務省の官僚とその犬である記者の関係というのは昔からあったであろうが、小賢しい情報操作を実行してくるようなヤツがいるのが腹立たしい。「国家や社会の為に」という大義名分があるなら、まだ判らないでもないが、単なる個人の利益を優先してやってくるようなヤツだからこそ、余計に許せんのだ。

そんなにオレの記事が気に食わないってか?(笑)

耐えられない生温さ~2

血税をバクチに回す私立大学を許せるか


文句があるなら、真正面から来ればいいだろ。
やり方が汚い。
真正面から反論できないからって、間接攻撃をやるというその根性が嫌なんだよ。そういう部分ばかりは悪知恵が働くというか、才能を発揮してる。もっと有効に使えよ。肝心要のところにこそ、能力を使えっての。

それともナニか、国立大学法人の大学ってのは、運営交付金なんかを数百億円単位で資金運用に回して、資産を数百億円単位で減らしてたのか?そういう事実があったのなら、是非とも公表したらいいんじゃないか?(笑)


こういう情報操作を目的としてリークしたのはどの官僚なのか、というのが気になるわけだが、どこらヘンの管轄なんですか?
よく知らんけど。
官僚にも色々とあるのだろうけど、いい人間もいれば、そうでもないヤツもいるということか。性根の曲がったような、自己利益最優先という、官僚の風上にも置けないようなヤツがどこかに巣食っている、ということなんだろうね。



・財政審の情報操作とその犬

→これもマスコミにお先棒を担ぐ輩がいるんだよな~。マジで自己利益最優先。ムカっと来るね。

財政審の連中なのか、財務省の官僚なのか判りませんが、「こんにゃろめ」と思った人がいたんですかね?
まあいいんだけどさ。

拙ブログでかねてより主張してきた、社会保障費の抑制は止めろということに罰を与えるかの如き、「自然増、抑制堅持」という建議を出したんでしたか。電機業界が泣きだったので、「エコポイント」とかいうのを出したわけですが、それは当然ということのようで、社会保障費自然増よりもはるかに「バラマキ」だろうに。

財政審は昔からあるので、「国が無駄遣いをしてきたので借金が増えた」ことの責任は財政審にもあるわけです。彼らがそういう失敗の責任を認めたことがあったのか、というと、多分一度たりともないんじゃないですかね。

Murphys Law in Public Finance

財政審の心変わり

このヘンの記事に”酷評さゆり状態”で書かれたのが、そんなに悔しかったということなんですかね。

けど、税金を無駄遣いするのを決めてきたのは、オレじゃないから。一般国民でもないわな。
じゃあ誰なの?
それは一体、誰ですか?
例えば、散々酷評された「かんぽの宿」ですけど、この建設決定とか予算貼り付けとか、そういうのは誰がやってきたんだよ?


だからさ、そういう無駄遣いのバカ揃いは、徴税するな、というのが正解なんじゃないの?(笑)
これぞまさしく「小さな政府」だろ。そういう方向を目指したいんだろ?(笑)

「徴税するな」というのは何かというと、

  =集めた税金は返してね

ということだろ。つまりは減税だ。
定額給付金とはちょっと違うが、かなり近い。

それに、小さな政府にするには、税金を減らし、無駄の温床である徴税権を縮小して財務省官僚を大幅にリストラし縮小すること、だろ。

そうしたいんだろ?(笑)
だったら、財政審がそういう建議を出せばいいじゃないか。

そういうことが判ってないから、○○かって言われるんだろ。
本当にロクでもない連中が蔓延っているみたいなので、いっそ政権交代で破壊されてみたらいいよ(笑)。ホント、どうしようもないな。



最低賃金を巡るいろいろ(笑)

2009年07月25日 16時15分55秒 | 経済関連
前の記事に関連するけど。

日本には、経済学の専門家と称する、米国を見習えという礼賛主義者がいるわけだが、その米国では一体何が行われているか、というと、「最低賃金を引き上げ」である(笑)。こういうのは学者に限らず、経済団体のお偉いさんである大企業経営者なんかもいるわけである。愚かなり。

NIKKEI NET(日経ネット):主要ニュース-各分野の重要ニュースを掲載


この賃金引上げはブッシュ政権時代に決められたもののようであり、07年の5ドル85セントから今年の7ドル25セントまでの、1.4ドル引き上げということになる。5.85ドル→7.25ドルは、何と約24%もの引き上げに相当するのである。日本のマヌケ議論が笑えるかもしれない。

これは、時給600円→744円の引き上げに相当する。
07~08年にかけての米国の失業率は5%以下に落ちたので、賃金引上げは失業率を上昇させるということでもなかったわけである。金融危機以降には失業率がアップしたものの、これは世界同時に起こった変化あるので、どの国でも回避できないであろう。


米国での賃金が市場原理に基づいて伸縮自由なんていうのは、全くのガセネタなんじゃないのか?
それが証拠に、政府支援を受けた企業群でさえ、巨額賃金&ボーナスを止められないじゃないの。業績が急激に悪化したからといって、従業員がそう簡単に賃金引下げに応じたりなんかしないだろ。それは経営陣だってそうなのだよ。そういう「賃金の下方硬直性」が強く働いているからこそ、引下げには至らないんじゃないのか?

これって、新古典派の完敗なんじゃないの?(笑)



賃金に関するbojのペーパー

2009年07月25日 13時07分05秒 | 経済関連
これは中々よい分析ではないかと思った。

賃金はなぜ上がらなかったのか? ― 2002~07年の景気拡大期における大企業人件費の抑制要因に関する一考察 ―:日本銀行


拙ブログでも、過去に賃金に関する記事はいくつか書いてきて、日銀のペーパーは大体想像していた通りであったよ、と思って読ませていただいた。

分析としては、モデルがないので「primitive」(笑)というお断りが書かれていて、学問的にはそういう評価なのかもしれない。しかし、有り得ないような仮想モデルに更なる仮定を積み重ねることの意味は感じられず、そうであるなら日銀ペーパーの如くプリミティブな分析であろうとも、そちらの方にこそ事実を捉える分析結果があるのではないかな、と思った。他の経済学者たちの意見を聞いてみなけりゃ、評価は判りませんが。


参考記事:

価格とULC

デフレ期待は何故形成されたのか・3

続々・イルカはサメになれない~株主と従業員

イルカはサメになれない~補足編

無知が日本を不幸にする



ここ最近、日本の経済学分野への厳しい批判を書いていたが、こういう地道な分析を積み重ねていき、事実を得ることにもっと注力すべきなのでは。
仮説が違ったデータセットでも成り立つ議論なのか、影響度の重み付けはどうなのか、課題点はカバーされるか、或いは分析手法や考え方に批判を加えるべきかどうか、そういうことを複数の研究者が取り組むべきではないかと思う。一本のペーパーで確認できることは多くはないのだから、他の研究者たちの協力は必要であるし、彼らの「追試」に耐えうるものが求められるのも当然なのだ。他の研究者たちからも「同意できる」という評価を得られてこそ、共通理解として認識されるに至るのだから。




阪神は助っ人を頼むのを止めたら成功できる

2009年07月24日 16時19分19秒 | 俺のそれ
毎年毎年の恒例行事と言いますか、阪神の無駄な努力が笑えます。


阪神社長が渡米…外国人獲得ルート拡大へ(デイリースポーツ) - Yahooニュース


こんなにたくさん連れてきて、毎年クビにするというのも本当に大変なのではないでしょうかね。

印象に残る助っ人といえば、誰が何と言ってもグリーンウェルです。僅か数試合で帰国してしまいました。高額年俸が水の泡と消えていきました(笑)。他には、ディアーでしょうか。

阪神ファンの人たちは、応援歌をそれぞれに作ってきたのだろうと思うのですが、歌う前に(憶える前に?)クビになるか帰国してしまうか2軍に行ったまま戻ってこないか、ということが多くなり、ええ加減にせえよ、ということで余計に怒りが激しくなりそうな気がしますがどうなんでしょうか(笑)。


参考>阪神“ダメ助っ人”撲滅へ  33ページ - MSN産経ニュース

バース以外だと、割と良かった印象としてはオマリー、シーツくらいで、ここ10年くらいは思い出せないくらいに外人選手が多かったみたいですけど、パッとしないで終わったような印象ですよね。憶えられないもんね。

これならいっそ他球団からいい外国人を引っ張ってくることを考えた方が得なのでは。ジャイアンツはそうやってラミレスやグライシンガーを獲得していったじゃありませんか(ローズやぺタジーニもそうだったよね)。けれど、阪神が発掘してくるのは笑える助っ人が大半で、ウケ狙いなのではないかなと思わせるほどです。

多分、関西に合う外国人の選手じゃないとダメなんだろうと思います(ウソ)。
今年は途中から出場しているブラゼルが割と頑張っていると思いますけどね。こういう風に、他球団の発掘してきた選手をうまく獲得した方が、間違いが少ないように思えます。というか、阪神ほど「ハズレ」外国人を多数連れてきている球団って、あんまりないようにも思えますよね(笑)。


それにしても、この期に及んで、まだ「良い助っ人」獲得の夢を捨てていないのだから恐れ入る。多分、阪神という球団が連れてくるのが根本的な間違いの原因なのではないかな、と思わずにはいられない(笑)。それをやめて、球団選手育成に力を注げばいいのにね。これも阪神の伝統だから仕方ないのかもしれないが。



貯蓄率低下を脅しに使う前に

2009年07月23日 20時59分26秒 | 経済関連
経済学の専門家がこんなレベルだから、日本経済はダメなのだ。

貯蓄率急落の先にある悲劇:伊藤元重(NIRA理事長、東京大学教授)Voice - goo ニュース

今頃になって判った、ということでもあるまいに。

以前から伊藤教授には一目置いてきたものの、これではレベルが低すぎると感じるのである。もしも一般人向けの啓蒙を書きたいのであれば、財政赤字の危機感を煽る材料などにはすべきではない。せめて具体的な対策は~です、ということを明瞭にしてから、危機を訴えるべきだ。「地震が来たら、あなたの家は倒壊しますよ」と散々脅しておいて、対策はどうなるか判らないけどあんまりないよ、という話だけでは、多くの一般人は困るだけだろう。地震対策にはコレコレが有効と考えられます、くらいは言えるでしょう、普通はという話。


伊藤教授によれば、家計部門の貯蓄率は「かなり低下」しているよ、ということで、将来の財政赤字ファイナンスをどうするのかね、という脅しをしているわけである。ファイナンスの主体は誰になるでしょう、と。例えば、今の米国だと国の借金は『GDP比の200%超え』であり、世界で一番の借金大国には違いないわけだが、米国はほぼ海外の投資家によってファイナンスされているわけである。最も大きな主体は中国、次いで日本、後はロシア、ブラジル等々の世界中のほぼ全部の国がファイナンスしているわけだ。「借金は返せるはずだろう」という期待というか、近々の予想がそうなっているから、というだけだ。誰の、何の保証も当然あるわけがない。ただ、米国の稼ぎ(GDP)はそこそこ大きいから返せるんじゃないかな、という非常に曖昧な期待のみによって支えられているわけである。

多くの国々にとって、「今のこの体制を崩すわけにはいかない」という事情があるから、というだけであり、借金が本当に返って来るあてなど誰にもない。格付け会社は、たとえどれほど悪条件であろうとも、米国債の格付けを落とすわけにはいかないのだ。落とすと、本当にカタストロフが訪れるかもしれないからだ。それに、彼らには彼らの稼ぎの事情や利害関係があるからだ。たとえ投資家を裏切ることになろうとも、重要なのは自らの利益を守ることだからだ。格付け会社が、法の厳格な適用をする裁判所の如くルールに完璧に従う、などということは、単なる幻想だ。もしも厳格に判断基準を適用したら、国債の格付けなんてかなりメチャクチャなんだな、ということが判るだけであろう。

試験で大幅に「えこひいき」する教官みたいなもので、クラスで優等生の彼が80点なのに、どうしてあの子が98点なのか誰にも判らない、というようなのと同じだ。98点という採点基準が、他の誰にも判らない、という仕組みになっているからである。98点の中身を見ると、実はテストではたったの58点でしかないけれど、教官の「好きな生徒で印象が良い」というボーナス点の加算が40点あれば98点という点数を作ることは可能なのである。そういう情報をオープンにした途端に、彼らのメシの種を失うのだ。二度と格付けでは食べていけなくなってしまう(笑)。これは別に国債格付けだけに限った話などではなく、格付け情報を操作することによって得られる利益というものを利用してきたことは、世界経済同時危機によって明らかになってしまっただけなのだ。

これは、まあいい。本題ではないから。

貯蓄率が低下してきた話は、拙ブログでも取り上げたことがある。

05年7月>長期停滞の先にあるもの

私みたいなド素人ですら05年段階で知っていた事柄ですから、経済がご専門の方々ならば、みんな知っていて当然であろう。そればかりか経済財政白書にも書かれたくらいですので、業界内では周知の事実ということだ。


あと、

08年12月>日本再建を考える

この中で指摘したが、「企業貯蓄が増加した」ことが、まず問題だったのだ。

昔であれば、家計部門が貯蓄を増やす一方で、企業が貯蓄を赤字にして投資に回していた。つまり、設備投資等の投資を企業が行うことによって、貯蓄投資バランスではそこそこの投資額がGDP統計上で存在していたはずなのだ。しかし、デフレ期間に入って以降、多くの企業が負債を削減=企業貯蓄の大幅増、ということが起こったのである。その投資額減少は更なる景気後退を呼び寄せた。
家計部門は所得を削られ、挙句に増税や各種保険料増という負担増ばかりだった上に、低金利時代で利息収入は減少した。代わりに、企業の配当増を拡大した。


別に、家計部門が昔に比べて怠惰だから「貯蓄しなくなった」なんていう話ではないのだよ。
むしろ、今の20代とかは独身だからといって貴族になれるわけでもなく、浪費することなしに「貯蓄しようとする」という傾向すら報告されているではないか。

貯蓄率が低下している理由には複数要因があろうかと思うが、①高齢化②人口減少という構造的な問題は一般国民には対処できない話であり、国民のせいではない。それ以上に、将来に渡って持続的に問題になるのが、③家計所得の減少、だ。これは経済運営の問題。デフレを継続し、国民所得の伸びを止めた(マイナスにした)ことが、最悪の結果を招いているのだよ。代わりに、企業貯蓄が大幅に増加した、ということも言うべきだろう。

ご立派な東大の、経済学教授とあろうお方が、どうしてこういう部分を指摘しないのか、それが不思議だ。
ド素人でしかない私の意見を①~③のように書いてみたところで、単なる個人的見解に過ぎないのだけれど、そういうのは素人だから許されるという話であって、専門家なのであれば、もっと高度な部分まで網羅できていても当然であろう?要因も理由も、きちんと学問的裏付けを得るものであろう?違うの?


まあ、バブル崩壊以降の全ての負担を、一般国民に回したということさ。
銀行救済にしても公的資金で、それは国民が負担したんだよ。

ツケを払わされているのは、バブルで借金を大量に作り上げた銀行でもなければ大企業でもない、ただの一般国民だ。それどころか、当時には借金を作ることさえできなかった若年世代が、ツケの伝票だけ回されて、高齢世代の代わりに支払をする上に、「貯蓄率が下がっている」と文句まで言われる始末さ。貯蓄できるほどの余裕なんかないというのに。


こういう経済運営をもたらした責任の多くは、何度も言うようだが、無知無能な専門家たちだ。判ったような面した、態度だけは偉そうな人たちだ。

一般大衆がこういう事態を招いたのではない。

専門家はこういう時に何の責任も負うことなく、何らの痛痒も感じず、繰言みたいな無益な内容の言説を流すだけで、だからといって反省するでもなく間違いの責任を取るわけでもないのだ。


貯蓄率が低下している、ということなんだそうだが、じゃあ、経済学の専門家たちは何らかの新たな知見の一つでも獲得したのか?

「肥満は体に悪い」と言うのが一般素人レベルであって、専門家が明らかにするレベルではない。
「肥満」が他の内科的疾病(たとえば冠疾患や高血圧などの循環系疾患とか糖尿病とか)とどういう関係にあって、どういうリスクがあるとか、どんな対策が望ましいとか、そういうことを研究してゆくものなんじゃないの。
経済学の世界で、貯蓄率とか貯蓄のエキスパートなんて学者が存在するのか?そういう研究の真剣さが足りないんじゃないの、って、百万回言ってるんだよ。


何故日本の貯蓄率が下がってしまったのか、この主な要因は何と何と何で、どういう影響の大きさだったか、どうすれば改善可能なのか、或いは改善せずとも持続可能性には問題ないのか、改善する為の対策にはどのような弊害が発生すると考えられるのか、そういったことを一つ一つ明らかにしていこうとするのが、学問だ。
何故、そういう答えを探そうとしないのか?
どうして事実を積み上げようとしないのか?

「肥満は体に悪い、何故なら心臓死の可能性が高まるからだ」と言うだけなら、単なる素人さんなんだっての。そんな説明で満足しているのは、ド素人だけなんだっての。こういうのを「研究」とは専門家たちは呼ばないだろう?(いや、医者じゃないから、実際どうなのかは知らないんだけどさ)


経済学の偉い先生方は、本気で意識革命に取り組むべきだと思う。



続・経済学への期待と落胆

2009年07月23日 16時38分29秒 | 経済関連
つい先日の記事に関連するけれど。

珍しく(笑)エコノミスト誌と意見が似通っているかな、と思ったよ。

経済学の何が間違っていたのか  JBpress日本ビジネスプレス


経済危機を招いた実務家たちが傲慢だった、とか、色々と言われたりしたと思うが、日本においては経済学者たちやエコノミストが傲慢なのではないかと思わせることはあるね。それが証拠に、反省の弁を述べる人たちなんて、極々僅かしか存在しないからである。

日本の経済学のあり方について、よく考えてみるとよいのではないかと思う。



処女懐胎??

2009年07月23日 16時19分03秒 | いいことないかな
なわけないか。

こりゃ、シマウマ版のデキ婚では(笑)。


<釧路市動物園>シマウマが出産 赤ちゃん見付け、妊娠知らなかった飼育員らびっくり(毎日新聞) - Yahooニュース

(以下に一部引用)

このシマウマは静岡で生まれ、先月10日に来園。今月19日朝、飼育員が獣舎で赤ちゃんを見つけ、大騒ぎになった。同園の関係者は「母親はよく仲間にけられていた。いま思うと冷や汗もの」と言いつつ、予期せぬ授かりものに笑顔を見せた。

=====


しかし、気付かなかった飼育員さんたちも、どうなんでしょうか、ってな話ですわな。誰か一人くらい気づけよ、と。しかも、自分で無事出産しちゃって、気付いたら「子シマウマが増えていた」ってな有様ですからね。

自然って、やっぱ凄い(笑)。自分できちんと分娩するんだね。


それにしても、「よく仲間にけられていた」ってイジメじゃないか。
それは多分、身重になったお母さんシマウマへの嫌がらせか、身ごもらせた「夫シマウマ」の陰謀で「オイ、あいつの子どもを堕ろさせろ、やっちまえ」という指示の下、お母さんシマウマへ蹴りを入れるなどの暴力行為を働いていたのではないだろうか。

そうした迫害やイジメにも耐えて、出産したんだよ、お母さんシマウマは。母は強し、って、よく言ったもんだ。


とか、好き勝手に夫シマウマの悪巧みストーリーなどを考えてしまいましたが、ウソ八百です。

でも、夫が名乗り出ないわけでしょう?
勝手にやるだけやっておいて、やり逃げなわけですよ、夫シマウマは。で、メスに比べてオスの方はバカか身勝手なので、「ピピーピュ~♪♪」みたいに知らんぷりを決め込んで、素知らぬ顔で口笛吹いたりなんかしてるんだね。許せん!

シマウマの人生とか、オスとメスのやり取りなんかが浮かんでくるようで、人間の男と女の物語とおんなじなんだねー(笑)。

って、違うか。



安易なブログ…

2009年07月21日 17時19分05秒 | 法と医療
えー、有名になった「加古川事件」判決についてですが、事実誤認があるということが指摘されているみたい。

はてなブックマーク - 「加古川事件」判決への安易なブログでの批判は不当:日経メディカル オンライン


記事を読む為に、個人情報を日経グループさんに晒すという危険を冒して(笑、冗談です)まで登録してみました。


どうやら「転送先を探していたというのは誤り」、を言いたいらしい。そういう誤った事実に基づいて批判をするのは止めろ、と。なるほど、指摘はご尤もである。

タイトルにもあるように、「安易なブログでの批判」は不当、ということらしいので、ブログが安易なのか、批判が安易なのか、という問題はあるものの(恐らく後者であろうなとは思います、いや、ブログが安易でもかまいやしませんがね)、間違った批判はするべきでない、というのはそうだろうなと思います。

拙ブログにおいても、この「加古川事件」についての痛烈批判記事は書きましたので、安易なブログの仲間入り認定間違いなし、かと存じます。

Terror of jurisdiction ~加古川事件について

私のつけたタイトルがヘンだ、というのはおいといて(笑)、兵庫の研究会での指摘する論点とは若干違っているかな、とは思いますね。別に、市民病院の担当医が「転送先をいつから探していたか」ということにはあまり関係がありませんからね。

あと、補足記事はこちら>医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その4

時間経過の詳細を知っているわけではありませんが、受診から診察・検査して診断をつけて、とりあえずの応急的でも処置を行って、今後の対応を考えるとして、転送要請をいつの時点で可能であったか、というのがまず一つありますね。裁判所判断では、多分診断をつけた0時40分頃には転送をしろ、ということでしょう。確かにその時点で要請したとして、受け入れ先が見つけられたか、断られることはなかったのか、そういう問題はあるでしょう。

また、仮に0時40分に要請できて、転送先が見つかるまで10分、救急車に載せたりする移動に10分(ルート、シリンジポンプやモニター類などを付けた状態でストレッチャー移動しなくてはならない)、救急車の乗車移動時間が10分、という風にいくらでも時間は経過してゆきますよ。移動による病態悪化の危険性だって当然にあります。転送先病院到着後に処置開始までのタイムラグはどのくらいなのか、そういうのを計算できているのでしょうか?移動先到着までに30分経過していれば、既に1時10分なのですよ。
転送先が見つかることは、急に処置開始可能になる、ということを意味しないことは明らかです。加古川地域の医療水準では、電話で転送先が見つけられれば、直ぐにでも循環器の専門医が対応でき、PCIが実施できる環境下にあったのでしょうか?本当に、患者引受に何の障害もなく、受け入れられたでしょうか?転送後、処置開始までの最低所要時間はどのくらいなのか、という問題は誰か判っているのでしょうか。

救急隊が専門病院への移動先を見つけられずに、30分以上とか1時間以上もの間、救急車が動かずにいることだって珍しいわけではないということは、報道から多くの人々の知るところとなったでありましょう。本当にそんなに短時間で転送できて、処置開始が可能だったのでしょうか?裁判所がそういうことを理解した上で、時間の遅れを計算できるとは到底思われませんね。

だったら、救急隊が最短時間で病院へ搬送できなければ、ほぼ全例において「義務違反」を構成するということを認めるのでしょうか?


判決が萎縮をもたらすのは、当初に望んだ結果ではない、といくら主張しようとも、原告及び法曹が招いた現象である可能性は高いのです。加古川の救急医療体制の縮小を招いたのは、こうした「不当な」判決というものの結果なのではないか、ということを、真剣に考えるべきでしょう。
ヘタに受け入れて、自分の専門外の領域の疾病で、診断に時間を要したり、診断をつけられなかったり、自分の手に負えない状態だったりして、他へ転送させようにも受け入れ先を見つけ出すのが極めて困難であり(マスコミ報道などで言う『たらい回し』ですな)、そうして時間を浪費すれば「助けられたのに助けなかった、何もしてくれなかった」とか非難された挙句に訴えられ、裁判では論理構成のおかしい法曹の責め苦に遭い、最終的には賠償金を払うべく過失認定された判決を裁判長から食らう、ということになるわけですから。そんな目に遭うくらいだったら、確実にできるものだけ受け入れて他は断るべきだ(自分のできる医療のみ行う)、という防衛体制が強化されるので、「うちでは、できません」という返事が多くなるに決まっているのですよ。

受け入れを減らせば当然に稼げなくなるわけで、そうすると救急部門なんてのは赤字の筆頭格ですから、三位一体改革以降の自治体財政の苦しい折、市民感情に配慮したり市民の税金を”無駄”(笑)に投入するわけにはいかないという大義名分があるのだから、部門縮小なり廃止なりという方向になってゆくのは当然でしょう。つまりは、社会は回りまわって、自分のところに返って来る、ということなんですよ。

「不当なブログ批判」を批判する以前に、他に大事なことがあるのではないかと思うわけです。「不当なブログ批判」を撲滅したところで、何のメリットがあるのかよくわからないけれども、医療が良くなるとか救急体制が元に戻るということもないのではないかな、とは思いますね。個人がそういう「不当なブログ批判」の撲滅活動をやることがあっても判るような気もしますが、法曹や患者の団体等なのであれば、もっと他の重要な活動をやった方がいいのではないかと思いますね。


結果的に見れば、判決によって、被告側病院に「認めさせること」を、賠償金で得た数千万円かで得ることができたわけですよ。その数千万円は同時に「病院の救急部門の縮小」をも購入できたのです。自治体財政に貢献でき、いずれは他の誰かが健康や生命でその対価を払うということになるのではないかな、とは思います。




経済学への期待と落胆

2009年07月20日 14時08分19秒 | 経済関連
岩本教授の書かれた次の論文を目にする機会があった。

行動経済学は政策をどう変えるのか


経済学界では評価がそれなりに高いのだろうと思うが、私にはそれが何故なのかは、よく判らなかった。その理由というのが、内容を読めば判ると思うけれども、これは論文というものなのだろうかという疑問があるからだ。少なくとも、経済学に関する「読み物」としては大変興味深く読むことができた。しかしながら、「これを論文と称するのか」と問われると、それに同意するということには自信が持てないのである。


これまでにも何度か指摘したことがあると思うが、経済学の多くは事実や研究の積み上げ効果が乏しいのである。一般的にいう自然科学分野などの論文というのは、もっと違った体裁とか判定基準などがあるのかもしれないが、多くは事実を挙げて書かれているものである。単なる著者個人の意見や見解などを書いたとしても、それはレビューのようなものとか読み物的なものでしかないのではないか、ということだ。

岩本教授の書かれた論文の中には、何かの事実の指摘が一つでもあったのだろうか?
コロンブスの話は事実なのかもしれない。だからといって、経済学的知見が新たに加わるような論の提示でもあったのだろうか?

そう、経済学の多くの読み物の中には事実の指摘がないのである。
事実の指摘というのは、例えば「商品Aの販売量が、5月は100個、6月は150個」のようなものである。それとも、「ある地点Bにおける台風の発生は7月よりも9月の方が多い」というようなものである。どのような論の立て方をしようとも、上記ペーパーには著者の主観的な見解が書かれているのみで、事実がないのである。経済学の議論の多くは、こうした仮説・仮定の上に更なる仮定を積み重ねてゆくのみであるので、事実の確認のないままに「~は妥当である」「~正当である」「~は間違っている」という具合に、短絡的結論に結びつける傾向が極めて強いように思われる。


喩えを常用して申し訳ないが、上記ペーパーを読んだ時の主張点を別な分野に置き換えてみると、次のようなものであると感じた。

・薬剤には副作用がある
・薬効には個人差がある
・薬理効果が十分に発揮されないことがある

要するに、あまりに当たり前のことを、あまりに平凡な結論として述べているに過ぎないのである。

「政策には副作用がある」とか、「行動経済学では十分に分析できない(政策の妥当性の検証ができない)ことがある」といったような、ごく普通のことが書かれているに過ぎないのではないか、ということである。

これは行動経済学のみならず、経済学全体についても同じく言えるのではないか、と思うわけである。


だが、世の中の多くの経済学者とか、経済学の専門性を仕事としている方々の多くは、何故か「正しい答え」を確実に知っているというように振舞っているわけである。
その答えはどのように得られたのであろうか?
どうして正解が判るのか?

それは個人が単なる主観的見解を述べているに過ぎないのだ。答えを求めようがないのにも関わらず、さも正解が判っているかのように振舞うのが経済学者の常道なのである。誰もその証明すらできないものであるのに、どういうわけか彼らは「既に答えは知っている」のである。本当に不思議でしょうがない。

答えが判らないのであれば、初めから判ったフリをするべきではない。それは多くの人々を騙すのと同じだからだ。「正解は判っていないが」とか「十分明らかにされていないが」、という枕詞を常に並べて言うくらいの謙虚さがあってもいいくらいだ。そんなに学問的成果に対して謙虚な経済学者を、これまでただの一人も見かけたことなどはないが。

日本の経済学者たちの多くが陥っているのは、まさしく「ブードゥー」だ。

人体の構造や働きがよく判っていない、病気自体がよく判っていない、薬の種類や効果や性質もよく判っていない、確立された治療法もない、という、判らないことづくしであるにも関わらず、「コウモリの羽と、もみの木の葉を煮詰めたものを混ぜ、それに牛の糞とヤギの角の粉末をこねて、傷口に塗れば治る」みたいな意見を言っているのと何ら変わりがない、ということだ(新しい方の『大聖堂』に出てくる、旧式の知識しか持たない修道士とそっくりなのだ)。なのに、何故か最後の治療法の選択の部分だけは専門家だからということでしゃしゃり出てきて、「これが正しい、だからこうしろ、ああしろ」と断言するのである。

経済学に関する専門家の人々を見ると、誰も正解を知らないのに、よくそんなに簡単に断言できますね、という驚きが率直な感想である。


政策選択・決定というのは、簡単なことではない。
上の例で言えば、最後の治療法の選択・決定とほぼ同じようなものなのだから。
今の経済学の知識では、全くの不十分な情報しか得られない。治療法選択においては、知らないよりも知っている方が有利ではあるかもしれないが、断片的知識を繋ぎ合わせてみたところで正解には辿りつくには程遠い。

しかし、目の前の患者を放置することができないのと同じく、政策決定は時間との闘いなので、どうにか選んで決定せねばならないのだ。そういう時に、正解を知らない人間たちが沸いて出てきて、「この薬を塗れ」とか「包帯は効果がないのですべきではない」とか、口々に文句や命令を言い、人々を惑わせるのである。しかも、彼らのほぼ全部が、態度は尊大で自信満々ときている。無知な一般大衆を嘲り哂うか、権威を嵩に来たような傲慢さを持っているような人もいる。
結局、どれが正しい意見か見分けることなど不可能なのである。そういう誤った情報を撒布する、余計な口出しをしてくる連中があまりにも多すぎなのである。彼らを黙らせるには、いちいち個別に撃破しなければならないのである。そうなるまでは、決して黙ることがないのも特徴の一つかもしれない。


例えば、「医療サービスの提供は《政府/民間》が行う方がよい(望ましい)」という一つの結論を得る為の研究に何十年もかけてきた、ということがあったろうか?これに挑んだ研究者たちが知見や事実を積み上げてきたということであるなら、正しい答えが見つかるはずだ。もしそうであるなら、自信を持って結論を言ってもいいであろう。たとえば「政府はやるべきでない」とはっきり答えられるであろう。政府の失敗を非難するのも当然ということになるだろう。そういう手順を踏んでいない意見や議論があまりに多すぎであり、ニセ科学の如くニセの屁理屈が横行している、というのが経済という分野の現状なのである。


こうしたことを感じるのは、私が部外者であり、経済学のド素人であるから、なのかもしれない。