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福島産科死亡事件の裁判・その4(追記後)

2007年04月30日 23時53分11秒 | 法と医療
詳しい記事を発見したので。

FrontPage - 周産期医療の崩壊をくい止める会

第2回、第3回を読んだのですが、検察側尋問が同じ質問を何度も繰り返すので、くどい印象。それと何かの出来事について、正確な時間を記憶できる人はあまりいないのではないかと思うので、時系列を振り返って順序とか細かい2~3分の違いとか、正確に思い出せる訳がない。できるなら、例えば、昨夜と一昨日の夜に食べた夕食のメニューを正確に思い出してごらんよ。更に、初めに箸を付けた食べ物と、最後から3番目に食べた物と4番目に食べたものを言えるかね?順序を間違えることなく、思い出してごらんなさい。記録にあるものは、記録にある通りとしか言いようがないでしょう。麻酔チャートに書かれていることもそうだが、看護師が別に記録を付けているのだから、それらを照合すれば、大体の流れは理解できるはずでしょう。

証言から共通することは、「出血はあった」ということ、「出血はいつもより多かった」ということ、それは量的には多かったと表現されるものであると思いますよ。胎盤剥離終了までに数千は出ていたので、羊水込みであっても、「危機的状況を生み出すくらい多かったか」と聞かれれば、それはそうだろうと思いますよ。ただ、その出血を「防ぎえたのか」と聞かれれば、それは判らないとしか言いようがないでしょう。ヴィーン1500、へスパンダー1000と入れてるのだから、それだけ出てたというのはそうだろうと思います。

弁護側も質問の方向性がオカシイ。証人の「記憶違いではないか」「チャートの間違いではないか」というようなことを印象付ける必要性はない。「産科医のミスではなかった」を言う為に、他の医師を生贄に捧げてもしょうがないのですよ。なぜいきなり輸血しないで、へスパンダーを入れたか、ってそれは普通なんだろうと思いますよ。「そんなに出血する」ということを前提にしているわけではないですから。

血圧が50/30以下とかにストンと落ちているのだから、「相当量の出血があった」というのは当たり前であろうと思われた。エフェドリンを既に入れていたのだし、ノルアドを入れても上が70くらいにしか上がらないというのは、「かなり出てた」ということはそうですよ。記入時間とか、どの時点で出てたとか、それはハッキリと判らないかもしれないが、「出血してる」というのは麻酔医には直ぐに判るはずだ。看護師がガーゼ重量とか計算する時間とかあるから、「リアルタイム」の出血量なんて正確には測れないけれども、サクションで吸ったのがボトルに溜まるから、みるみる増えていくのは「チラッ」と一瞥するだけで判るだろう。なので、「出てるな」と判っているからこそ、pumpingを既にやっていたのだと思いますよ。

それから、血圧や脈拍数は完全な記録ではないですよ。機械が自動的で測定するが、かなり血圧が落ちれば正確性は悪くなるし、心電図の表示は条件で数値変動はいくらでも変わる。だから、流れの中で判断していくしかない。表示されている数字を記録するのはそうだが、何故「たった一つの数字が下がっているか」なんてのは機械の要因かもしれないし、測定誤差かもしれないし、実際下がったのかもしれないし、色んな理由があるから何とも言えないでしょう。

血圧低下と頻脈が普通なのではという質問があったが、ノルアド入れた後で血管抵抗が増加しているので、一時的に頻脈が改善されたのかもしれないし、出血量が多ければ徐脈傾向になる可能性もないわけではないのではないか。

ヘッドダウンのことだが、脊椎麻酔なので低い方(頭部側ということ)に麻酔薬が効くと胸部まで麻酔されることになり、呼吸抑制など他の影響が大きいので難しいと思うが、どうだろうか。それを行うのはリスクを伴うと思う。全麻に移行したことを検察も取り上げていたが、当然の判断であろう。挿菅している方が呼吸管理を行いやすいのと、脊椎麻酔が切れてくると痛みが抑制できなくなるし、患者が「動いてしまう」から、当たり前だろう。検察は「呼吸困難があったのではないか?」とかバカな質問をして、必要性を全く理解できなかったのだと思うが、「体を動かさない」ようにどうやってするのか考えたことがないのか?一知半解の知識(笑、これは池田信夫氏お得意の表現で、真似して使わせてもらうことにする)で自分たちの考える理屈に誘導しようという魂胆だけはよく判るが、全然違うだろう。患者が動かない為には、「脊椎麻酔を追加する」とか「筋弛緩薬を使う」とかしないとならない。脊椎麻酔は「体位」を取らないとできないので、術中になってしまうとできない(だから、執刀前の最初にやるしかない)。残されるのは、筋弛緩薬を使うくらいしかないのである。意識を奪う薬を使っても、疼痛反射が必ずあるので、痛けりゃ勝手に体が動いちゃうでしょ(念のために書いておくと、筋弛緩薬を用いれば、呼吸が止まる。そのままであれば死亡しますよ。なので挿管して呼吸を人工的に行わせないとならない。検察官はこういう基本的なことさえ理解できないので、呼吸困難だったんじゃないか?みたいな的外れな質問をするのだ。事前に細かくレクチャーを受けておくべきだ。そもそも何も知りもしないのに、何故起訴だけはできるのか判らんが。時間の浪費、質問そのものが無駄である。裁判官はこうした誤った印象付けをされて、まんまと煽動されるということなのかもしれないが)。


取り急ぎ。後で追加するかも。

ちょっと追加。


ルートを別にもう一本入れるのは何故しなかったか、とか弁護側尋問で出てたが、血圧が50とかに落ちている時「自分1人で」それにトライしている余裕などなかったのではないかと。血管収縮でどうにか循環維持をしていて、その「閉まってる」血管に太いゲージを入れるのは大変だろう。しかも全麻してないから、胸から上は「普通の状態」でしょうし。首を動かされたら?リスクが大きいと考えるのは普通なのでは。それに必死にpumping していて、それどころではないでしょう。

こう言っては申し訳ないが、検察側の姿勢というのが「裁判に勝つこと」だけに思え、何とか「穴」を見つけて印象付けようとしているかのようで、それは法廷戦術であって「正義」に基づくものとは思われない。第4回公判でも、看護師に尋問した時、「目だけしか出てないのに、何故表情がわかるのか」という質問を見れば、「相当頭が悪い」か「悪意に基づく質問」だと思うね。質問した検察官レベルの低い観察力では到底医療従事者にはなれないだろう。それか、「そんなの判るに決まってる」と心の中では思っていながら、「自分よりも弱い」と考えている「獲物」(=証人の看護師)に対して追い詰めようと画策したということだろう。発言のミスを誘う為の、ショボイ戦術ということだ。要するに、かまをかけただけ。

こんな法廷戦術だけが続いていくのもおかしな話だ。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その3

2007年04月29日 16時36分16秒 | 法と医療
これまでは主として司法側の問題について取り上げてきました。今回は医療側の問題点について考えてみたいと思います。

かつて民事事件の医療裁判というのは、原告側(遺族とか本人とか)が勝つことは容易ではありませんでした。うろ憶えですが、勝訴率は3割強くらいで、近年は増えてきていて5割くらいになっていたと思います。昔は「原告の立証責任」という壁があったからであろうと思います。基本的に原告側が被告(医療)側の「過失について立証しなければならない」ということになっていて、あくまで素人に過ぎない原告側が医療側のミスを適切に証明することは、誰がどう考えても不利であり困難です。しかも、素人の意見を「ハイ、そうですか」と裁判所が認めてくれるはずはありませんので、必ず「鑑定医」を見つけて専門的立場からの意見を附与して、医療側の過失があったことを立証せねばならなかったのです。その嫌な役回りである鑑定医を見つけ出すというのは、多くの原告にとって大変なものであったろうことは想像に難くはありません。そういうこともあって、中々「勝てない裁判」というのが医療裁判であったろうと思います。

しかし、時代とともに裁判所の考え方が変わってきて、高度に専門的な分野について原告側に立証責任を課すのは厳しすぎる・不公平である、ということが認められるようになり、被告側が立証責任を負う方向へと進むことになりました。鑑定医の意見についても、昔より改善されてきました。これら要因もあり、勝訴率は上がってきたのではないかと思われます。最近の司法側の姿勢については、これまでの記事でも触れてきましたので、ここでは省くことに致します。大雑把に言うと、このような流れで今日に至った、ということです。

医療裁判の実情に詳しい訳でもないのですが、私の個人的印象を書いておきたいと思います。


・勝利至上主義的な医療裁判

まず第一に、昔の裁判のあり方とか、論点についてかなり問題があったのではなかったかと思います。医療側のありがちな行為としては、所謂「カルテ改竄」です。証拠として提出しなければならないでしょうけれども、原告側はそれら記録から過失を探し当てたりしなければならなかったので、記録が不正確であったり書き換えられたりしてしまえば、証拠など見つけられるはずもありません。そうした行為は多かったかどうかは知りませんけれども、ないとは言えなかったでしょう。裁判所は「不誠実な証拠」に基づいて判断を下さざるを得ませんでした。故に、簡単には勝てない、と。

それから、被告側弁護人は当然ついていたでしょうけれども、この弁護人自体が「悪い方向」へと導いた面もあったかもしれません。それは裁判のテクニックであって、非難されるべきものではないかもしれませんが、「裁判に勝つこと」と「問題を解決へと導くこと、真実を明らかにすること」というのは全くの別物であった、ということです。更に、そうした裁判を積み重ねても、「医療側の過誤防止」などには繋がり難かったのであろうと思うのです。それは「原告が負ける=これまで通りでいいんだ」という勝手な解釈で改善せずにやるとか、あくまで個別の問題としてしか医療側が受け止めておらず、医療界全体で「何とか改善していこう」という風には動いていかなかった、ということなのではないかな、と。

不正確かもしれませんが、昔の判決文などを目にする機会があって、ありがちな医療側主張に「特異体質であった」というのを幾度か見たように思います。「特異体質」を理由として原告敗訴というのは、事件の原因にも迫っておらず、科学的な考え方でもありません。そもそも「特異体質」なる体質など存在しているのかさえ疑問であると言わざるを得ません。しかし、当時にしてみると、「特異体質に過ぎなかった」、だから患者は他の人には有り得ない反応を示したんだ、それ故医療側には過失がなかったんだ、という「定型的な流れ」と言いますか裁判上の論点として駆使されがちな「お決まりのパターン」ということだったのではないかと思います。これを主導したのは誰かと言いますと、そういう判例の流れを作った裁判官たちであり、それを巧みに利用して何度も主張を繰り返していた「被告側弁護士」です。医療側はそうした「司法の欠陥」というか、司法側の盲点・不備に乗じていたに過ぎず、「本当は知っているけど黙っておこう」という態度で過してきたのではないかと思うのです。医療側は原因究明という立場を殆ど放棄してきたのではないでしょうか。そういうことを長年繰り返していたんだろうな、と。

これら背景があった医療裁判に関して、医療側が常に真実を明らかにしようとしていたなら、もっと違った形が現在にはできていたかもしれませんし、そういう方向に誘導してきた「裁判のテクニック」とか「裁判のあり方」というものについて司法側ももっと深く検討するべきであったのではないかと思うのです。それでも、段々と司法側の対応が変わっていって、原告に不利な要因ばかりではなくなってきています(むしろ、医療側が目の敵にされているかもしれません)。最近の裁判で「特異体質であった」とかいう主張を見たことはありませんし(笑)。

<寄り道:
特異体質であった、との理由が通用しなくなったのは何故なのか判りませんが、勝手に想像させてもれえば、何度も何度も「御馴染み」の理由であったので、さすがに裁判官も「こんなに特異体質というものが度々あるのはオカシイんじゃないか?」とふと疑問に思った人がいたのかもしれませんね(笑)。だって、この人もあの人も「みんな特異体質」ということであれば、極めて稀なのではなくて「(ひょっとして)ありがちな体質なんではないか?」と普通は疑問に思いますよね。実際にどれくらいこの理由が通用していたのかは、よく知らないので、判例数として多かったかどうか判りませんが。>


・コミュニケーションの不足

第二に、裁判になるというのは、医療側の対応に問題があったケースが多いのではないかということです。不幸な転帰となった例が全て訴訟提起されるということではないと思いますし、発端としてありがちなのではないかと思うのは、感情のこじれのようなものがある場合なのではないかな、と。通常の人であると、医療側が「誠実に、隠したりウソをついたりせずに」対応をしているのであれば、裁判に訴える、という風にいきなり紛争とはなり難いのではなかろうか、と思うのです。そこでは何が一番不足しているかというと、多分「対話」なんだろうな、と思うのです。原告側としては、「話しを聞きたい、真実を知りたい」ということが大半なのではないかと思われ、そこで「相手に判るように、きちんと理解できるように」説明したりすることが必要なんだろうと思いますけれども、それが中々難しかったりします。特に、医師が時間を多く割いて遺族等と会話を積み重ねるというのは、現状の医療システムからすると大変なのです。そのような余裕が医療側にはないのであろうな、と思うのです。医療側は相手が「納得できない」と言い続ける限り、際限なく説明を繰り返さざるを得なくなるでしょう。そういうことが負担になっている場合もあるかもしれないですね。或いは、感情的に許せない、だから相手を罰して欲しい、何らかの制裁・苦しみを与えて欲しい、というような気持ちになることがあるかもしれません。

現在の医療制度の大きな欠陥の1つには、こうした「会話の為のコスト」というものが考慮されておらず、医療側が実行しようとしても、絶望的な状況であることです。医師本人が話すことは当然必要なのですが、患者・家族側の聞きたいことというのは、必ずしも専門的なことばかりとは限らないし、的はずれであったりどうでもいいような質問なんかも多く含まれることも多々あり、それを全て担当医師が応対しなければならないというのはかなり困難なことなのです。そういう「会話を積み重ねられる人」が誰か必要なのですが、看護師が対応していることがあるかもしれませんけれども、ありとあらゆる説明をできるかと言えば、それは難しいのですよね。つまり医師と患者やその家族を結ぶ通訳者といいますか、仲介者が必要なのではないかな、と。説明する側がよく知っていることを話すのと、説明を受ける側がそれを理解できるのとは違いがあるのです。聞く側の理解力や理解可能な内容などは、個人差によってかなり大きな開きがあり、説明にかける時間も随分と違うのではないかと思われます。

事前説明の不足や会話不足を補うという意味で、医師以外の人材が必要であろうと思います。判決に見られる詳細な「説明義務」を果たしていく、ということを達成する上でも、こうした専門性の高い(医師と同等のレベルが求められるであろう)人材の配置が可能な医療制度が必要だろうと思います。もしも医師にそれを行わせるのであれば、その為のコストを認めるべきであり、医師以外の人材でもよしとするのであれば、その人材配置に係るコストを認めるべきであろうと思います。


・期待権と医療水準の乖離

最後に、患者側の期待と医療側が提供可能な医療の質の乖離について考えてみたいと思います。患者側には「当然こういう医療を受けられるであろう」という期待権が認められており、医療側は現在の医療水準に照らして妥当な水準の医療を提供する義務があると考えられています。「提供するべき義務を負う医療水準とはどのレベルなのか」ということは、過失認定においても重要なのです。近年の裁判の傾向で見れば、この水準がかなり高く設定されていると思われる面があり、原告側主張では「当然受けられたであろう医療の質」をかなり上げてきていると思うのです。そしてそれが認められ、勝訴することで、患者側期待は更に大きく膨らみ、医療側に負担を強いる結果となっているのであろうな、と思われます。期待権の権益は現実(医療現場の実態)を無視しており、社会的に可能な範囲(行政施策上の範囲)を超えて拡張していく一方である、ということです。

紛争例では、「何もしてくれなかった」という遺族側主張が見られますが、「医師であれば全ての治療行為が提供できる」とか「病院であれば最善の治療を受けられる」というような、現実には困難としか思えない過度な期待というのが根底にあるような気がします。加古川事件のように「点滴だけしかしてくれなかった」というのも、その場ではTNGやリドカインを入れていたので、治療行為は行われているわけです。それを理解して欲しいと言ったとしても、「納得できない」という究極の反論を返されてしまえば(以前にも書いたが、相手が納得するまで説明(or謝罪)する、というのは永遠に納得してくれないことが有り得るので究極的なのである)、それ以上はどうにもできないのです。


また例で考えてみます。
「カレー店」が多数存在するとして、「カレーを食べられる」という期待には応えるべきでありましょうが、全ての店で「カツカレー」が食べられるべき、というのは難しい場合があります。それとも、「ちょっと辛口の美味いカツカレーに目玉焼き乗せ」というメニューであるとか、「餃子カレーも食べさせてくれ」という期待をされても、できないものはできないのです。患者側期待として、例えば、90%以上のカレー店では「カツカレーを出している」という一般的に認識されている事実があるとすれば、「カツカレーを食べられたはずなのに」ということは言えるかもしれないが、「ちょっと辛口の美味いカツカレーに目玉焼き乗せ」という稀なメニューを「期待していたのに食べられなかった」と主張することは無理なのではないでしょうか。提供(医療)側としては、取りあえず「カレーを出す」ということくらいしかできないので、たとえ相手の意に沿わないにせよ「カレーを出す」のです。これを「何もしてくれなかった」「放置された」と言われてしまうと、「当店は万能ではなく、置いてないメニューは作れません」としか答えようがないのです。「だって、店に入る前に入り口に書いてなかったから判らない」とか、「カレー店としか理解できない、他との区別がつかないからしょうがない」とか、そういう理由を投げかけられても、全てのカレー店のメニューを詳しく表示したり全員に理解できるようにさせることは無理なのです。それをやろうとするなら、分厚い医学書と同じ情報を各個人に理解してもらうしかないのではないでしょうか。もの凄い複雑なメニューが必要になってしまう、ということです。

もっと厳しいのは、カレー店で「○○パスタのオイルは通常Aなのに、A以外の種類に変わっていたことが何故判らなかったのか」とか言われてしまうことです。パスタについては、カレー屋さんにとってはよく判らないことが多いだろうと思うのですが、「パスタは専門外ですので…」という言い訳は通用しない、ということでしょうか。日本全国で「自分の好きな食べたいカレーのメニューが何でも作れる」カレー店を整備し、カレーばかりには限らず「パスタにも、うどんにも、ソバにも、中華まんじゅうにも、にも、にも…にも」精通しているスーパーカレー屋を生み出せる錬成システムを、誰も何の努力も負担もすることなしに「作っておいてくれ」=だから「全員できるのは当然である」ということなんでしょうか。

医療側が「当店は普通のカレーライスしかやってません」とか、「カツカレーはできます」とか、そういう情報提供を行ってこなかったことにも問題があったかもしれません。それは情報開示というか、技量に関する幻想を抱かれないように、「あれもこれもできるわけじゃないんですよ」と平易に言わなかった、ということなのではないかと。業界内部では、「ああ、こういう症例は~~大学病院に行きなさい、紹介するから」とか、そういう人的繋がりでやってきたのかもしれませんが、他の多くの人々にとっては医師の区別なんかは正しくできないわけですし、技量を見抜くことも勿論できないので、「平均的な医師とはこれくらいで、スーパードクターは滅多にいないんですよ」と明確にしてこなかったのかもしれません。普通の人々にとってのブラックボックスがブラックボックスであるがままにしてきた、ということの結果が、「スーパードクター」のような幻想を生み出してしまったのではないのかな、と。


・まとめ

このように、医療側にも色々な原因を作ってきた責任はあるので、今後それらの改善に向けて努力を求められていると考えるべきではないかと思います。ただ単に「無理なんだ、できないんだ、間違ってなんかいないんだ」ということを言うだけでは、普通の人々にも司法界の人々にも、理解は得られ難いのではないかと思います。



日銀は予想屋と同じなのか(追記後)

2007年04月28日 18時24分16秒 | 経済関連
日銀のレポートが出てた。いくつか気になる点について、見ていきたい。

この前、「ちゃんと点検しとけ」と文句を言ってしまった(参考記事)ので、私自身がそれを見ていないとなれば「文句言う資格なんかないだろ」と日銀サイドから反撃を食らうかもしれませんね(笑)。それは冗談ですけど。


日銀の基本的見解はこれ。
経済・物価情勢の展望(2007年4月)

気になる部分を挙げていく。
(以下、引用部分は『』で示す)

①『成長率の水準は、2007年度、2008年度とも、潜在成長率を幾分上回る2%程度で推移する可能性が高い。』とあるが、潜在成長率の想定が2%未満であると解釈される。この根拠とは何か?

参考として、日銀のペーパーを見てみる。
GDPギャップと潜在成長率の新推計
ここで示される06年5月時点の想定では、06年度中にはほぼ2%に達する水準であると思われるが(グラフの感じから見て、ですけど)、いかがであろうか。書かれたのがそれより少し前だとして、06年3月頃の潜在成長率見込みは1.8~1.9%くらいではないかと思われます。05年末~06年初め頃の所謂「潜在成長率論争」では、吉川先生とかが1.7%程度、竹中大臣が2%くらいということを言っていて、日銀(福井総裁)はもっと低い1.5%くらいだ、というようなことを言っていたわけです。因みに同じ頃、経産省は「チーム+0.5%」を結成(これは冗談で、私が勝手に命名しただけです)して、潜在成長率を2.2%にするんだ、という目標を掲げていたのですよね。どの時点を考えての議論なのか、ということで多少上下はあるわけですが、少なくとも06年度末には05年度末の条件とは異なっているであろうと思われるのです。06年3月頃よりも現時点の方が潜在成長率は下がって行ってる、というのであれば、勿論「2%を抜けてない」ということも想定されるわけですが、それは考え難いのではないかと思います。

05年度末時点で考えられていた潜在成長率と06年度末での潜在成長率が同じ水準なのである、とか、2%には到達できない、とか、そういった根拠があるのであれば出すべきでしょうね。普通に考えて、経済活動は上向きであるし、成長率もこれまでよりは数値的に良くなっているわけで、あのグラフの傾き具合からすると、07年3月(06年度末)時点では、2%超えであっても不思議でも何でもないように思える訳です。あくまで素人考えに過ぎないので、専門の方々のご意見を伺ってみなければ判らないので、是非検討されることを期待します。少なくとも、日銀の公式見解に『潜在成長率を幾分上回る2%程度』なる表記を用いる訳ですから、それ相応の論理的根拠があることは当然なのであり、私のような素人が考えるのとは次元が違います。なので、正確性についても緻密さが要求されるのは至極当然でしょう。日銀の出す数字というのは大体の水準でいいのである、ということであれば、適当な解説をしている評論家やアナリストなんかと何ら変わりなし、ということでいいんですね?そうであるなら、その程度の裏付けしか持たないんだなと、理解することに致します。


②『ユニット・レーバー・コスト(生産1単位当たりの人件費)は、なお低下を続けているものの、賃金の緩やかな上昇のもとで、下げ止まりから若干の上昇に転じていく可能性が高い。』とあるが、これは05年末頃から同じことを言っていながら「依然としてマイナス」ということが1年以上の長きに渡り続いてきたのではないか。「ULCはプラスに転じていく」という見通しを立て、それを金融政策(量的緩和解除や利上げ)の理由の一部として使ってきたのに、結果は全然違っていたのではないか?つまりは「見込み違い」であったのであり、「判断は誤りであった」ということなのであろう?「理由に使ってきた」にも関わらず、「間違っていた」のではないですか?

家計への波及ということも似ているのであるが、賃金上昇とか、家計収入増とそれを背景とした消費増とか、そういうものの見通しとしては、日銀サイドの判断は「誤りであった」のだろう?誤った判断に基づいて、量的緩和解除や度重なる利上げに「自分勝手な思惑で」踏み切ったのですよね?最終的に出てきた数字が、「ほら成長率は大体イイ線行ってたじゃないか」ということであって、それはタダの「結果オーライ」ってやつだろ。競馬の予想屋だって、いくらでも理由は付けられるっての。結果的に「ホラ、1-5で当たったじゃないか」ということに、どのような裏付けがあるというのだ?日銀のやっていることは、適当にヤマ勘でやっているのと同じです。競馬の予想と同じレベルでしかありません。

ちょっと途中ですが、退席しますので。



戻りましたので追加です。


③『金融環境などに関する楽観的な想定に基づく、金融・経済活動の振幅の拡大である。企業や金融機関などの財務面での改善が進む中、実質金利が極めて低い水準にあることから、金融・経済活動が積極化しやすい環境にある。また、大都市で地価の上昇傾向が明確化してきているなど、資産価格の動きも、そうした行動を活発化させる方向に作用すると考えられる。』
『例えば、仮に低金利が経済・物価情勢と離れて長く継続するという期待が定着するような場合には、企業や金融機関などの行き過ぎた活動を通じて、中長期的にみて、経済・物価の振幅が大きくなったり、非効率な資源配分につながるリスクがある。』

少し引用が長いのであるが、手短に言うならば「お前らバブル気分に浸ってんじゃねーよ」ということです。乱暴でしたか?そうですね。『金融環境などに関する楽観的な想定』とは、低金利(の持続)ということです。『実質金利が極めて低い水準』=経済活動積極化(通訳すれば、バブルのにおいがプンプンです)、地価上昇もそうだろ、大都市圏では資産価格(土地・株)上昇でプチバブってるんだろ、と言いたいようです。低金利が長く続くという期待定着がイカンのだ、危険だ、ということを主張しているのです。

低金利が継続するのではないか、という期待というのが果たしてどれ程の効果があるのでしょうか?それは経済学的な説明が与えられているものなのでしょうか?低金利が継続するのではないかという期待は、バブルを引き起こす原因なのでしょうか?
正確には判りませんけれども、必ずしもそればかりとも言えないのではないかと思えます。一応、参考として米国のITバブル期を見てみることにしましょう。

FFレートの推移を大雑把に言うと、次のような感じです。
88年10%→92年末3%まで下げられ、これが94年初めまで続き、94年3%→95年春頃6.25%まで上げられました。その後5%前後が99年まで続き、99年4.7%→00~01年にかけて6.5%まで上げられました(ITバブル期)。その後バブル崩壊となり、01年末1.75%まで急速に下げられました。つまり01年には6.5%程度→1.75%という急速な緩和策が取られたということです。それ以後も調整期間があって、01年1.75%→04年1%と低金利期間が続きました。04年途中からは底入れして06年末までの上げトレンドとなり、今の5%くらいまで引き上げられました。
ITバブル期の本格化する99年直前の段階では4.7%くらいのFFレートで、数年は5%前後で安定していた時期であり、特に低金利が定着しているとか低金利持続が期待されていたとも思われません。それでも後年「ITバブル」と呼ばれるバブルは発生したのですよね。

実質金利を見てみると、98年4%超くらいだったのが、00年2.2%まで低下してきましたが、01年には3%くらいに上昇、その後バブル終焉となって緩和策が取られた為に02年には0%まで低下、その後の低金利期間にも実質金利低下は続き、04年の-1.8%まで低下したようです。つまり、バブル発生直前の段階では実質金利はむしろ高かったと思われるのです。01~04年の低金利期間には実質金利を敢えてマイナスにして、調整を進めることができたと見えなくもありません。

金利水準の期待ということよりも、やはり物価上昇率の影響の方が大きいように思え、「低金利が続くとバブルが云々」とか言うのであれば、日本のゼロ金利期間の長さを考えれば、もっと早くに経済が回復できたでしょう。現実には、金利が低いからといって投資が異常に活発となったりはしませんでした。日銀よりも、一般大衆の考えの方が経済学的合理性があるということなのかもしれませんね(笑)。デフレ期間においては、消費や設備投資に金を回すよりも「現ナマ」で持っている方が利益になるということなんでしょうか。

そういうわけで、日銀の見解というのは、未だに何の進歩も見られないのではないかと思います。過去の教訓を活かすことができないのは何故なのか、本当に不思議でなりません。








Terror of jurisdiction ~加古川事件について

2007年04月27日 20時41分34秒 | 法と医療
これが典型例ですね。現実に取り得る対応が無理なのに、それを求めるというものです。

健康、病気なし、医者いらず

こちらの記事を読んで知りました。


新聞記事はコレ>asahicom:加古川市に3900万円賠償命令 心筋梗塞の男性死亡 - 関西

(一部引用)

橋詰均裁判長は「効果的な治療を受けていれば90%程度の確率で助かった」として、請求通り約3900万円を支払うよう同市に命じた。

判決によると、男性(当時64)は03年3月30日、自宅で心筋梗塞の症状が出たため、午後0時15分ごろ、妻が同病院に連れて行った。担当医師は同0時40分ごろ、急性心筋梗塞と診断して点滴を始めたが、症状が変わらないため、同1時50分ごろ、効果があるとされる経皮的冠動脈再建術(PCI)が可能な同県高砂市の病院への転送を要請した。しかし男性の容体は悪化し、同3時35分ごろに加古川市民病院で死亡した。判決は「約70分も転送措置が遅れており、医師に過失があると言わざるを得ない」とした。




この判決のポイントとしては、①転送要請が70分遅れた、②この遅れがなければ効果的治療を受けられた、③その結果90%程度の確率で助かった、というものです。
つまり、「70分遅れずに転送できていて、PCI が実施できていれば、90%程度の確率で助かる」ということですね。これはまさに「50m間隔で救命員を配置しておけば助かったに違いない」の論理ではないでしょうか。現実に困難なことを「当然である」として裁判所が主張するものです。
第一に、日本全国で70分以内に転送可能かつPCI を即時実施可能な医療機関網が整備されているのか。大都市だけの特殊な事情で時間基準を語られても現実には実行不可能である。「○○分以内に治療を受けられれば助かった可能性」を語る時には、普遍性のある基準を適用するべきである。70分以上とか2時間以上行かないと無理だという地域もあるのなら、それらは「治療を受けられる権利、助かる権利があったにも関わらず、国や自治体がPCI を実施可能な医療機関を整備しておかなかったことは不法行為に該当する」ということなのか?

<寄り道:
参考までに言えば阪神大震災の時、「15分以内に派遣要請でき、自衛隊や米軍が展開していれば助かった可能性が高い」ということはあるだろう。検死では15分以内の死亡が65%であったが、残り35%はそれ以降の死亡である。つまり、救助が1時間以内とか2時間以内に到着していれば助かった可能性はあった。5時間も6時間も経過してから要請したりしなければ、神戸市内にもっと早く救助部隊が到着できた。即ち首長に過失があったと言わざるを得ない、と言えよう。>


第二に、受け入れ先が決まっていない時に救急車が来ても、行き先がないと動きようがない。救急隊は「何処に行きますか」とまず確認するであろうし、受け入れ病院もないのに、運んで行ってはくれない。行き先指定は、基本的に医師が行う以外にない。受け入れを打診された側は、結論を直ぐに出せるものではない。奈良の死亡事件でも触れたが、連絡のやり取りや受け入れ決定過程で時間がかかってしまうのは回避できない。要請側要因ではない(電話をかけるしかできないので、時間を浪費しているのは要請側ではない)にも関わらず、これを過失と認定されてしまえば、お手上げであろう。

大体、診断がついていて、「ここではできない」ってことがハッキリと判っているものを、どうしてもここに置いておかねばならない、などと誰も考えたりはしない。しかもAMI という事態がどういったものであるかなど、裁判官に言われたくはないであろう。

遺族感情としては、数時間前まで普通に歩いていたのに、僅かな時間で死亡に至ったことや特別な治療(テレビなんかに出てくるような緊急手術みたいなものか…)もしてくれず、ただ放置されていたということへの不満があるのは想像できるが、「どうにもできない」場面というのは必ずあるのであり、その場で最善を尽くしたとしても救命できない例は存在するのである。


裁判官の判決にあった「90%程度の確率で救命できた」という理屈は、恐らくAMI の時間経過と死亡率の関係から推定されたものと思われる(これは私の推測に過ぎないので判決文を読んでみないと判らないのであるが)。発症から時間経過と伴に「死亡率がどんどん高くなる」というのは確かにそうなのだが、たとえ「1時間以内」に治療開始であっても「全員が助かる」訳ではないのである。仮に9割が救命されたとしても、死亡は10%存在するのである。

急性心筋梗塞治療の最前線

こちらの記事によれば、「専門施設のある病院到着後の死亡率は5~10%」となっており、「専門施設があるからといって全例助かるわけではない」し、死亡率をゼロにできるわけではないのである。

裁判官は「降水確率90%」という時に雨が降らなかったとすれば、「90%の確率で雨が降るのに雨が降らないはずない、絶対にオカシイ」と言って過失認定(笑)するのかもしれないが、そもそも考え方が根本的に間違っているのである。100例集めれば90例は救命できた、ということであっても、特定の「1例」が10例に入るものか90例に入るものかは特定できるとは限らない。降水確率90%の予報の時、雨が降ることを約束するものではないし、100回中10回程度くらいは雨が降らないことも有り得るのである。今日も明日も同じ降水確率90%である時、今日雨が降ったからといって、「明日もきっと雨が降る」とか「今日降ったから明日は降らない」とか決定できるものでない。明日はやはり「90%の確率」で降るか降らないかのどちらかとしか言えない。

裁判官の論理を用いるならば、「降水確率90%」と言った時には、「明日必ず雨が降ります」と絶対的に正確な予言をしているのと同じである。「救命率が90%であれば、必ず助かった」という予言を判決で述べているのであり、裁判所とは胡散臭い霊能者と同じような予言を授ける場所なのであろうか?(もしも特定の1例が救命可能な90%に入る、ということを明確に主張するのであれば、裁判官はその立証責任を負うはずであろう。なぜ救命できないかもしれない10%に入ることなく、残りの90%であるのかそれを証明する必要があるだろう)。

他の法曹は、なぜこうした判決について真剣に検討したりしないのであろうか?
本当に検討されているとすれば、このような判決は出されるはずはないのではないかと思う。裁判官たちの能力について、誰もその責任を負わず、結果責任も問われず、過失認定されることがないからなのではないか?こうした判決が放置されていることに疑問を感じざるを得ないのである。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その2

2007年04月27日 16時26分36秒 | 法と医療
シリーズの続きです。

◎医療については刑事責任を問うべきではない、と言えるか

前回は業務上過失致死罪について書いた。もっと大きな問いとして、刑事責任を問うことについて書いてみたい。
よく聞くのは、「過誤を無くすことにはならない」とか、「ミスを隠すことになるので逆によくない」といったものがある。確かにそうした一面はあるのかもしれない。けれども、全てを不問とすることが望ましいのかと言えば、それには懐疑的だというのが私の意見である。

やや現実離れした想定になってしまうのであるが、所謂「人体実験」のような、医療行為を用いた「非倫理的行為」が絶対に生じることはなく、それら事実が皆無である、という確信は持てないからである。言い方によって印象は変わるかもしれないが、漫画などで描かれるような狂人的科学者の人体実験とまでは行かないまでも、「新たな挑戦」「誰もやったことのない手術」といった未開領域に携わることは今後も起こってくるので、そうした時に「何の歯止めもなくて大丈夫なんだろうか」という不安は残るのである。手続の問題とか、体制整備の問題なども関係してくるのであるが、「倫理的に」責任を負うだけでいいのか、ということである。新技術を生み出すことは必要であるし、その恩恵を受けられるようになった方がよいことは多々あるが、それを医療者側の倫理だけに依存することは、システムとして問題があるのではなかろうか、ということだ。

よって、医療側に課せられる責任としては、行政責任、民事責任は当然であるとして、刑事責任を完全に外すのがいいかと言えば、残しておくのは仕方のないことではないか。現在紛糾の種となっているのは、刑事責任の適用範囲が拡大されたり不可解な適用の仕方であったりするので、そのあり方を考えるのは当然としても、完全に刑事責任を負わせないようにすることがベストであるとは思われないのである。

理由としては、大体次のようなものを挙げておきたい。

・生命身体に重大な影響を及ぼす強力な権限を有している
・医療行為と称して倫理に反することが実行可能である(人体実験等)
・社会通念上許容し難い過失は起こり得る(誰もが思う重大な過失等)
・犯罪行為を目的として行われる可能性がある(見せかけ殺人等)

もしも今のような刑事責任の問い方というものを改善できていくならば、理不尽な責任追及は減少していくはずで、そうであるなら、仮に刑事責任を負っていても圧倒的大多数の医療従事者たちには問われないことが多くなるであろう。なので、今の刑事責任の追及の仕方を変えるべきではあっても、刑事責任を無くすことが良いということにはならないのではないかと思う。


これまでの問題点の大きな部分は、責任を問うているのが警察であったり、検察であったりすることで、「何もよく判っていない連中が、彼らの理屈に基づいて闇雲に追及している」という反感が多いのではなかろうか。この辺は当事者たちの意見を聞いた訳ではないので、実際どうなのか全く知らないのであるが、少なくとも「何にも知らないヤツラ」に、「オマエがやったんだろう、ミスったんだろう」みたいな犯人扱いを受けることが我慢ならないのではないかな。更に取調とか逮捕等という事態で犯人扱いをされると、報道による被害によって社会的制裁を受けることが多々あり、そこでも被害が拡大することになるので、許容し難いということではないか。

裁判所の判断にしても、専門的知識を欠いており(それは全ての分野の専門家になれないので止むを得ないのだが)、裁判官ごとでバラツキや主観が大きく左右してしまい、妥当性に欠けている面が見られるということなのではないか。これら司法権力への不信感が募っていることの解消を考えるべきであろう。裁判官側からすると、遺族感情とか遺族補償への配慮という別な側面もあり(刑事事件に限らず、民事事件にそうした傾向が窺えるかもしれない)、やや無理な理屈が持ち出される可能性はあるかもしれない。

なので、医療行為の妥当性とか責任の判定というものと、賠償の問題とをシステム的には分離しておくことが望ましいと思う。医療行為の有責性には関係なく、保険によるカバーがあるべき、ということである。これまで問題になりがちであったのは、「賠償責任の発生」が医療側の過失認定に密接につながっており、その為に必ず過失を認定しなければ「賠償されない」ということが起こってしまうことだったのではないかと思えるのである。医療側の過失がないとしても、言ってみれば「事故保険」のようなもの(疾病に起因しない、医療行為に伴うaccident)として支払対象とする、というようなことだ。これについては、本シリーズで後ほど検討してみたい。


まとめとしては、

・刑事責任を負うことは残されるべき
・取調を警察や検察から他へ移すべき
・専門性に基づいて判定が必要
・責任の判定と賠償は分離すべき

といったところでしょうか。
次からは、具体的な内容を書いてみようと思います。



その1の補足

2007年04月26日 21時54分41秒 | 法と医療
前の記事の続きですが、ちょっと別方向なので…


弁護士の業務について少し考えてみることにする。

依頼者は「Pという主張をしたいので提訴したいが、どうだろうか」と弁護士に相談したとする。すると、弁護士は何と言って依頼を受けるのか判らないが、依頼を受けたとする。ここで疑問を生じるので、それを書いておく。

①弁護士は「Pという主張に対して、それは退けられ、Qという意見・解釈が採用されるかもしれない」などと、全件答えているか?
②Qという解釈が採用される確率、或いはPという主張が認められる確率などについて、依頼者に予め答えているか?
③弁護士のこれまでの実績について、同様の事件の取扱い件数やその勝訴率などの情報を事前に依頼者に説明しているか?
④依頼者の期待する結果と異なる場合には、その責任はどこにあると考えられるか?
⑤裁判でQという解釈が採用されてしまった場合、事前にそれを予期できなかったのは過失なのではないか?
⑥裁判に負ける場合、依頼者の期待権に反しているのではないか?

法的な理論とか何らかの理屈に基づいて裁判が行われているのであるから、そもそも全件で事前に「こうなる」という予測は立つ訳である。もしそれが判らないとすれば、「相手側主張(検察も含めて)」とか「裁判所の判決」は、法曹に共通する何らかの理論に基づいていないのではないか?何らかの理論に基づくのであれば、相手側主張も当然のことながら予測できるはずであり、自ずと裁判の結果も予測できるはずである。従って、事前に「模擬的裁判」をシミュレートすることも可能であり、弁護士に依頼した時点で、「Pという主張をすれば、相手側はQと反論し、結果的にPの採用される可能性は低く裁判をやっても勝てる確率は○○くらいでしょう」と答えねばなるまい。依頼者は勝つと思って依頼しているわけで、負けてもよいからやってくれ、などというお人よしはかなり少ないであろう。時間と金を消費された挙句に思いもよらぬ結果であるというのは、明らかにおかしいのである。勝つ可能性が半分以上でなければ、裁判をやる意味なぞ初めからないはずなのだ。弁護士は「半分以上の確率で勝てる」という見込みを立てるので依頼を受けるのであるし、そうであれば勝てなければおかしいのではないか。負けるのは見込みを間違えた、つまり弁護士に落ち度があったからに他ならないのではないか?

たとえそうであっても、弁護士は結果について責任を取らされたりはしない。それは何故なのであろうか?弁護士が裁判を行う時には、「一か八か」で依頼を受けてもいいし、負けても何の責任も負わずに済むということなのか。相手側には弁護士等法曹(刑事事件の時には検察官か)が付いており、相手の立場も基本的に同じはずである。相手側弁護士に考えられることが、何故こちらの弁護士に考えられないのか?オカシイですよね?それと、裁判官の理屈が正しいのであるとすれば、採用されなかった弁護士の主張は誤りではないのか?誤りの主張であるものを、なぜ弁護士は主張するのであろうか?その行為自体が、既に過失なのではないか?裁判官から見て、「弁護人の~が主張する内容は誤りである。故に採用できない」ということなんだから(正しいのであれば採用されるであろう)、裁判官には判り切っているものなのに、どうして弁護士にはそのことが事前に判らないのであろうか?

裁判というのは、「勝ち」「負け」と書かれたサイコロを振るのと何が違うというのだろうか?もしも「やってみなければ判らない」とすれば、事前の理屈というものはほぼ無きに等しい。「やってみなくても判る」のであれば、裁判をやる以前に大体答えが出ているので、無駄に裁判をやる必要がないであろう。相談した時点で、答えは見つかっている。それに基づいて対応すればよい、ということになる。そうであれば、「敗訴」なるものは生じないのではないか?極めて稀に、「負けてもいいのでやってくれ」という話題性重視の人とかくらいしか提訴しないのではないか?

要するに、裁判とは非常に曖昧なシステムなのであり、結果についてもいい加減なものなのである。法曹同士でありながら、その適用される理屈というものが、「まるでわからない」というものが多く含まれており(含まれていないなら、事前に全て判るからである)、判らないままやったとしても誰も責任を問われないし、過失も認定されることがないのである。当然結果責任を負うこともない。そういう商売なのである。それでいて、勝訴率なんかの成績を全部出していなかったとしても、「依頼人はもっと高度な弁護が可能な事務所を選択し、そちらに依頼することもできたのに、その機会を奪ったので義務違反」などとは言われずに済むのである。負けるリスク、考えられる敗訴要因、勝敗に影響を与える論点、これら全てについて事前に説明を受けることなどないにも関わらず、義務違反と言われることなど有り得ないのである。なぜ弁護士であれば、こうしたことを言われずに済むのか?

疑問は残されたままである。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

2007年04月26日 18時26分06秒 | 法と医療
大袈裟なタイトルで申し訳ないのですが、これから数回に分けて、医療過誤の問題とか、医療裁判や責任追及の問題、賠償の問題等について、あくまで私見を述べていきたいと思います。最終的には「望ましい制度」というところまで、個人的見解を続けていけたらな、と思います。で、初回は業務上過失致死罪というものについて考えてみたいと思います。

◎医療における業務上過失致死罪

1)刑法第211条

医療過誤に関する刑事責任の追及が続いている。このような状況が続き、深刻な事態を招いていると言えよう。医療崩壊の要因の一部となっていると思われる(参考記事)。
今回は、業務上過失致死罪の適用が果たして妥当性のあるものであるかどうかについて、考えてみたい。

刑法第211条の条文を見ると、次の通りである。
『業務上必要な注意を怠り、よって人を死傷させた者は、五年以下の懲役若しくは禁錮又は百万円以下の罰金に処する。重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。
2  自動車を運転して前項前段の罪を犯した者は、傷害が軽いときは、情状により、その刑を免除することができる。』

条文から見れば、前段部分は①業務上必要な注意を怠る、②その因果関係をもって死傷に至る、ということであろう。後段に書かれている、もう一点の「重大な過失により人を死傷させた者」というのは、「重大な過失」についての認定が問題になってくるであろう。これらについて、それぞれ考えてみることにする。


2)前段部分について

業務上過失致死傷罪 - Wikipedia

Wiki から引用すると、
『本罪にいう「業務」は社会生活上の地位に基づき反復継続して行う行為であって、生命身体に危険を生じ得るものをいう(最判昭和33年4月18日刑集12巻6号1090頁)。』となっている。
医療過誤における業務上過失致死罪が成立する為の「構成要件」とは何か?構成要件を満たさない場合には、適用にならないとすれば、犯罪の成立が構成要件によって決まるということであろうか。

構成要件 - Wikipedia

『罪刑法定主義の観点から、構成要件は条文に一般人が認識可能な形で定められていなくてはならないとされる。』とあるが、医療過誤における構成要件が「条文中に一般人が認識可能な形で定められている」とは思い難い。どの行為が該当するか、というのは、「解釈次第」ということであろう。そうした判断を行っているのは、警察であったり、検察であったり、裁判所であったり、という司法権力を持つ機関であって、そもそも「解釈」が正しく行えるかどうかは無関係かつ罪刑法定主義には反した「恣意性」ということが広く行われている、というのが現状ではないか。言ってみれば、司法権力側の「胸ひとつ」ということでもある。やろうと思えば、いくらでも「こじつけ」が可能である、ということだ。こうしたことが現実に可能であるというのは、先の鹿児島で起こった冤罪事件を見れば明らかであろう。

法的解釈として、「注意を怠る」ということの定義がなされていないのではないかと思われるが、どうなのであろうか。例えば「過失」と「リスク」との境界が曖昧であり、そのことを判定する能力が「裁判所にはない」ということでもある。全知のような能力が備わっている時、全ての事柄について事前に「注意」することは可能であるが、普通の人間にはそのようなことはできない。しかし、裁判所の求める注意義務のレベルは、普通に考えられる人間のレベルをはるかに超えているとしか思われない。極めて稀な事象をも「注意せよ」「事前に判定せよ」ということを求めているのである。現実的に不可能な水準を求めているとしか思われない。


かなり変な例で申し訳ないが、具体的に考えてみたい。

Aはゴムボートで川下りをする専門の人である。Aは川下りを熟知しており、川のどこにどのような危険性があるのか知っている。今、全くの素人であるBという人がやってきて、Aの操るゴムボートで「川を下りたい」と同意したとしよう。

事例1:Aの操縦するボートが岩場に激突し、Bは転落して溺死した。

この時、川をゴムボートで下るのであるから、ボート転覆とか乗客の転落という危険性は予め容易に想像でき、「注意」とはこれら予見可能な危険性に見合う対策を講じておくべき、というものであろう。具体的には、ア)搭乗者にライフジャケット及びヘルメットを装着させる、イ)サポート専用のボートを常に随伴させる、ウ)50m間隔で監視所を設置し救命員を配置しておく、といったものが考えられるとしよう。
仮に、社会的に可能な水準とはア)であって、イ)やウ)といった対策を講じることは理論的に「不可能ではない」としても、現実社会においてはそうした体制をとることが実質的に不可能である、というものである。裁判での判断の際に求められる水準とは、こうした「社会的に可能な水準」であれば適用された側の反発は少ないであろうが、裁判所の判決の中にはイ)やウ)のレベルでやるのが当然である、というものが含まれるのである。医療裁判などでの反発が多い部分というのは、こうした現実には達成が困難である水準を求められることであろう。ウ)の対策を講じることが最も望ましいことは誰しも判っており、しかしそれが実行可能かというと「無理だ」としか言えないのである。それは川下り業者であれば自由に営業可能であるから、ウ)の監視所を設置してその人員とか設備にかかった費用を価格転嫁すればいいかもしれないが、医療ではそれができないからである。ここに司法判断と医療側及び行政との乖離を生じることになる。ウ)の水準の対策が講じられていれば「助かる可能性はあった」という認定を行うことは、裁判所が社会的な状況を無視しているとしか思われないのである。

事例1の因果関係を見てみると、「川下りをしなければBが死ぬことはなかった」、と言えるであろう。「手術をしなければ死ぬことはなかった」というのも同じである。具体的な構成要件となると、どうなのであろうか。ゴムボートの操縦をする人が1000人いる時、平均的な能力を有する人が操縦していた場合、「激突を避けることは可能であった」かどうかが問題となろう。つまり「操縦技術」ということであり、操縦ミスの有無が問題となるであろう。裁判所が判断する場合に、「名人クラスの人間ならば回避できた」という理屈を持ち出すことは多い。それは意見を求める相手として、技術ランクの低い人間ばかり選ぶことはないと思われるからである。

1000人のゴムボート操縦手がいて、「そのうち○%が回避可能であれば、操縦ミスと呼ばざるを得ない」という具体的指摘を、裁判所は行うべきである。半分以上が「回避不可能である」と思うような状況について、「操縦ミスであった」と認定するので、他の操縦手にとっては「恐るべき判決」としか思われなくなるのである。不幸にして、もしも次に自分がその立場に置かれたら間違いなく「操縦ミスであった」と認定されてしまうからだ。Aが操縦するボートではなく、他のボートに搭乗していたなら死ぬことはなかった、という可能性の大きさを判断するべきであろう。その確率が半々程度でしかない時でも、「半分は助かるのであるから、Aのケースを操縦ミスと呼ぶ」では、判定される方ではたまったものではないのである。しかも捜査を行う為に判定するのは、一度もゴムボートを操縦したこともない(乗ったことさえない?)、何の知識も有していない警察や検察という司法権力を持つ人間が行うのであり、操縦技術について判断などできないに決まっているのである。そういう程度でしかない司法権力に「令状」を与えているのも「裁判所」なのである。

もう一度構成要件に戻って考えてみると、ア)の対策を取っていれば「助かったかもしれない」ということについては、「注意を怠った」と認定できよう。社会通念上、容易に予見可能であった危険性については「対策を講ずるべき」ということである。これならば、判定を受けた側にも、対策の立てようがあるし、注意義務を果たせるであろう。内容が具体的であるからだ。しかし、「Aの操縦ミスがあった」ということを認定する場合には、「操縦技術に関して求められる水準」というものについて、極力曖昧さを排除して具体的判断基準を示すべきである。罪刑法定主義などと言いながら、それが誰にも客観的に判らないからである。所詮、裁判官の主観でしかないのである。

例えば発電所にスイッチMとNがあるとして、Mを押すと大変な危険性があることが判っている時、Nを押すべきところを誤ってMを押してしまった、というのは明らかに「過誤の存在」が認定できる。行為内容が具体的であるし、客観性もあるからである。ボートの操縦という行為に過誤があった、ということを認定する場合、「船外機を誤って作動させ、スクリューの逆回転をさせた」とか、「オールを使うべきでない状況で、誤って向けるべきでない方向に船首を向けた」とか、具体的な行為について過誤を認定するべきであろう。ところが、「いつもより川の流れが早く、ゴムボートが思いのほか流され岩場に激突した」という時にも、「操縦ミスだったからだ、岩場は回避できたハズだ」という曖昧な理屈で過誤を認定される、ということなのです。どの行為が過誤であったのか何も示されず、「回避可能であったはず」という憶測のみで認定されるのです。「岩場に激突するのを回避するべき義務があったにも関わらず、その注意を怠った」という主張には、具体的な過誤が入っているでしょうか?


事例2:Aの操縦するゴムボートに流木が激突し、ボートが破裂して空気が抜けBは転落死亡した。

Bにはライフジャケットもヘルメットも装着して注意していたのに、このような不幸な結果を招くこともある。こうした場合にありがちな指摘として、「流木が流れてくることは予期できた」とか、「ゴムボートであったから」というものがある。川のことも、川下りのこともよく知らない人間が言いがちなことかもしれない。

社会的に見て、多くの人々がゴムボートで下っている場合、「ゴムボートであったことが過失である」ということを証明するのは容易ではないだろう。しかし、裁判所の認定とは、必ずしもそうした社会的背景や影響などを考えているものばかりとも言えない。「ゴムボートではなく、木製・金属製・グラスファイバー製の船体であったならば、ゴムボートが裂けることもなく、空気が抜けなかったはずで、そうであればBは死亡するに至らなかった」という理屈を適用されるというものである。現実の社会で取られている手段として「ゴム製」が一般的であるとしても、「グラスファーバー製の船体は存在している」というような非現実的な理屈を適用されることで、過失を認定されるということである。その為のコストは行政の問題なのであり、裁判所としては行政制度の事情を斟酌して判定するのではなく、単純に「もっと取り得る手段は存在する」ということを示す、ということである。「グラスファイバー製の船体が存在する」ことは正しく、そうであれば空気が抜けることもなかったのも事実であるが、それを実現できる制度・社会体制であるかどうかについて、裁判所が適切に判断した上で判決を出すべきであろう。上記対策のウ)を実施せよ、というようなものと同じであろうか。現実には取り得ないような対策を求めている、ということである。

もう1つの、「流木が流れてくることは予期できたはず」という指摘は有り得るのであるが、その確率の問題なのであって、流木が流れてくることはA自身も熟知しており、たとえ予期していたとしても「必ず回避できる」とは限らないのである。このことは、手術における大量出血のようなものであろうか。手術というものについては「出血する」のは当然であるし、「大量出血する場合もある」ということは誰しも知っているのであるが、通常であれば「回避できる」「対処できる」という前提の下に手術を行うのである。そうであっても、想定外の事態に見舞われるからこそ、不幸な転帰を辿るのである。つまり「流木が流れてくる」ということは殆どの場合で想定されているし、それに対しては「回避できる」だろうという予測で(そして事実「これまで回避してきた」のである)川下りが行われているのである。それでも、どんな流木が、どのように流れてくるか、周囲の流れの状況とか、川のどの地点で接近してくるか、といったことを、事前に全て正確に知ることはできない。それでも、「他で回避できているのであるから、避けられたはずだ」という後付けの理屈で責任追及がなされるのである。通常の回避技術をもってすれば回避できることは多いのだが、全部を完璧に回避できるかといえば、不可能なのである。中には神業師的な操縦技術によって「奇跡的に回避」できることもあるかもしれないが、それはあくまで「神業」なのであって奇跡の一部に過ぎず、確率的に言えばそちらを期待する方が困難に決まっているのである。そうであっても「流木が流れてくることが予期できたのに、川を下ったことが誤りだ」と主張するのであれば、川下りを全面禁止とするしかないであろう。


事例3:川下り中に突然のスコールに見舞われ、Bは落雷を受けて死亡した

川下り中にスコールが発生すること、スコールと伴に雷の発生があること、2点が事前に知られていたとしよう。こうした場合に、「スコールや雷発生が知られていたにも関わらず、落雷の注意を怠った」という認定がなされる、ということである。雷発生を知っていたとして、避雷針を設置しておかねばならなかったのか、それとも、スコールが過ぎるまで雷の落ちなさそうな場所に退避しているべきであったのか、正確には判らないのであるが(これまでそういう理由で逮捕に至るケースがなかったから)、際限なき注意義務を課せられる、ということである。雷が発生することは予期できるとしても、落雷で死亡することは極めて稀であり、その注意義務を求められるのは妥当なのか、という疑問がある。

台風の通過した翌日で増水していることが容易に想像できたのに、危険を承知であえて川を下った、ということなら、「注意を怠った」という認定をするのは判らないでもない。増水期間を避けて、危険の少ない時期を選択することは可能であるからだ。スコールとか雷が、「相当の確率で」発生することが予想されたのに危険を承知で下るのも、判断の誤りがあったのではないか、という主張をするのは理解できない訳でない。だが、多くの操縦手にとって、「回避するべきリスク」とは考えられていない危険性についてまで、「判断に誤りがあった」「回避すべきであった」という後付けの理屈を言われると、「何故なのか」という反発を招くのではないかと思う。天候がやや曇りで、「ひょっとしてスコールに合うかもしれない」と内心思っていたとしても、落雷の危険性を回避するべきと判断しない人の方が多いのである。スコールの事前予想確率は20%以下、雷発生は5%以下、ましてや落雷となればずっと低い、というようなリスクだとすれば、「今日は曇りだ」という理由で川下りを回避せよ、とはならないはずなのだ(それを実行すれば、川を下れない人々が大勢出てくることになる)。運悪く途中で予想以上のスコールに見舞われ、雷まで発生し、最悪の落雷となってしまった時、「空があれほど曇っていたのにスコールが来るのがなぜ判らなかったのか、スコールに伴って雷が発生することも判っていたのに何故雷を回避しなかったのか」と事後的に追及されてしまうのである。

ある場面での危険性というものについて、99.7%が回避したのだが、回避できなかったもの(例えば「流木」とか「落雷」とか…)が0.3%である時、「他の99.7%は回避しているのだから、回避できなかったのはおかしい。本来全て回避できて当然なのだから、回避できなかったこと自体が『注意を怠った』証拠なのである」という論法を用いられているとしか思われないが、どうだろうか。


3)後段部分について

「重大な過失」とは何か?

医療過誤に限らず「重大な過失」の認定は有り得るわけだが、「重大な」という言葉は非常に曖昧な基準であり、誰が重大と考えるかよく判らない。少なくとも捜査段階では警察や検察が「重大」であると判断すれば捜査は行われるであろうし、その為の令状は裁判所が与えているであろう。つまり裁判所は「重大かどうかは判らないし、その判断は別にして」令状を与えている、ということである。いい加減な令状でいい、ということだ。その結果として、社会的には大きく評価が下がるとか、容疑者としてマスメディアに吊るし上げられたり、仕事を辞めねばならないといった不利益を実質的に蒙ることになる。ここで、建前論的に「容疑段階では犯罪は確定していないから、仕事を辞めたりするのは裁判所の責任ではない、警察や検察捜査の責任ではない」などという理屈は、止めてもらいたい。いくら建前論を並べられても、実質的に社会生活上で「大損害」を覚悟せねばならないのだし、実際に結果として家庭崩壊とか冤罪などが生み出されていることは事実であろう。

そもそも「重大な過失」というものがごく簡明で客観的なものとして一般に認識されているのであれば、警察官であろうが検察官であろうがその他一般人であろうが「重大な過失」なのだな、と判るはずなのである。ところが、警察とか検察が「重大な過失」と勝手に認定しているものが、本当に「重大な過失」なのかどうかは誰にも判っていないのである。路線バスが制限速度をはるかに超えて暴走していれば、それは誰(多くの一般人)が考えても「重大な過失」と判るのであるが、医療行為の中で何が「重大な過失」なのかは不可解なことが多いのではないだろうか。医療過誤事件において、「重大な過失」が要件で業務上過失致死罪が認定されることがあるかどうかはよく知らないのであるが、仮に薬剤Xを投与するべきところ、誤ってYを投与し尚且つ投与量が致死量を超えていた、とか、そういう過誤であれば「重大な過失」というのは理解できるかもしれないけれども、「大量に出血した」というような基準の曖昧なものについて「重大な過失」として認定されると、その適用範囲や定義の疑問が生じることになるのではないか。


4)小まとめ

無駄に長々と書いてしまったが、要するに「構成要件」というものについて、警察も検察も裁判所も「明示していない」というところに根本的な問題があるのではないかと思われる。行為者である医療側の多くが「認識できない」のに、「構成要件を満たしている」との理屈を後付けで行われることが「そもそもオカシイ」ということではないだろうか。法学的な考え方ではどうなっているのか不明なのだが、検事や弁護士などで「判断が分かれる」ということから見て、「構成要件」なるものが本当に規定されているとは到底考えられないのである。

更に、「監視員を50m毎に配置すれば、防げたかもしれない」「グラスファイバーの船体を用いていれば防げた」などといった、社会的には有り得ないor現実世界では条件を満たすことが極めて困難な対策を講じる義務を認定することが起こっている、ということなのではないか。

殆どは防げるものについて、残りのごく僅かな部分に「過誤」認定することの是非がある。不可避的なリスクについて、「多くが避けているのだから、流木は避けられる」とか「落雷が予想できたので回避できたはず」との論法を用いられていることが疑問なのではないか。スイッチの押し間違いのような「明確な過誤」というものではないものについては、過失を認定するのであれば客観性のある定義や基準に基づくべきではないか。


全然まとまっていないが、とりあえず一区切りとしたい。



警視庁幹部はウソが下手だね(笑)

2007年04月24日 13時28分02秒 | 社会全般
人間というのは不思議なもので、ウソをつこうとする時には、大抵余計なことを言う(笑)。それは「相手を信じ込ませようとする」という姑息な思惑があるからだろうか。公式発表でウソをつこうと思うのであれば、時間をある程度取って、完璧なストーリーを組まなくちゃ。疑いを持たれる隙のない情報にしておかないと、バレやすくなりますよ(笑)。そんなんで、よく警察をやっているな、とは思うよね。容疑者を絞りあげる方は得意だが、絞られる方は不得意なのかもしれないけれど。

もうちょっと慎重に発表した方がいいですよ>警視庁どの

マスメディアには緘口令が敷かれたであろう。警察から情報をもらえなくなっちゃうからね。突入前後に関する情報(映像・音声等)は、「装備等の機密が漏れる可能性があるので、無闇に公開しないように」とか。まあ、それはそれでいいでしょう。


これまで書いたことの繰り返しですが、そもそもの疑問点は「血が乾いていた」ということと、「発砲音」なんですよ。犯人が発砲した際には、周辺に割りと「ハッキリ聞える」くらい大きな音がします。銃声だもんね。そりゃ、デカイ音がしますわな。で、記事を見ると、最後の発砲音はずーっと前の時点なんですよ。

住人全員が人質、突入も突然 町田の発砲・籠城-事件ですのニュースイザ!

この記事によれば、最後に聞えた銃声は12:40分頃。それ以降には発砲音が確認されていない。
ネゴシエーションはその後に行われており、発表では「16時半頃を最後に携帯電話に出なくなった」ということらしい。

デイリースポーツonline

電話で最後に話したのが何時なのか正確には判らないが、少なくとも12:40分以降には「生きていた」ハズだ。こちらの記事からすると、携帯電話のバッテリー切れかもしれないけれども、自分で切ったとすれば16時半頃の時点でも生きていたであろう。即ち、その時点から突入までの間に自殺した可能性が高いことになるが、この間銃声を聞いた者は果たしているのであろうか?ということだ。報道陣は到着していたので、銃声がすればきっと直ぐに気付いていたはずだ。映像も音声も拾っていたハズであるし。画像に記録として残される。しかし、実際には16時半~突入直前までの間に、「銃声はなかった」とみんな証言するであろう。けれど、警視庁発表からすると、少なくともこの間で犯人は自殺を図っていなければならないのである。オカシイですよね?誰もその銃声を聞いていないのに。

銃声が聞こえにくいように、枕なんかに押し付けて発砲する可能性がないとは言えないが、今死のうとする人間が何故わざわざ枕を挟んで発砲しなければならないのか?暗殺者みたいなプロでもあるまいし、そんなことをするハズがないのですよ。なので、自殺の為の1発は「必ず銃声が聞える」はず、というのが普通に推測されるのです。しかし、12時40分以降に銃声を聞いた者はいたか?多分誰もいないのですよ。


警察は集音マイクで犯人が移動しているのを調べていたので、もし自殺を図って歩く音が完全に消えたなら、その時間帯は確実に判るはず。発砲音が聞き取れるはずだし。可能性としては「マイク設置前に既に自殺していた」という場合が有り得るが、そうであるなら、(移動する音に関して)全くの無音となっているはずで、音の情報からは「犯人の居場所を推定することができない」はずである。それとも捜査員は無音状態で、冷蔵庫のモーターが時折回る音くらいを何時間も黙って聞いていたのか?(笑)


それと、イザの記事では12:40までの間に聞き取られた発砲音は9発。しかし、落ちていた薬莢数は11個。これは何故か?
犯人が連射してしまって、1発に聞えた音が実は2発であった、という可能性はなくはない。犯人にそんな射撃技術があったのか疑問ではあるが。それとも、警察がやって来るまでに本当は発砲音があったかもしれないが、証言が曖昧になってしまって正確にカウントされていない、ということは有り得るかもしれない。けれど、突入時に聞えた銃声のような音は2発の後に1発。これが発砲音と薬莢数の2個の差に関係していないと言えるだろうか?

催涙弾は数発(10発以上?)撃ち込まれた、ということのようだが、全部にハッキリした発砲音など聞えてきてなかった。少なくともテレビ局の音声マイクには正確に拾われていなかったであろうと思う。あんなにハッキリした「パーン」みたいな音がするのであれば、何発も撃ち込んだのならそれこそ花火がバンバン鳴ってるみたいな派手な音がするんじゃないか?もし3つの音が「催涙弾の発射音」という説明なのであれば、どうも疑問なのですよ。何故3発に聞えたのか?同時にガス弾発射であったから?いやいや、違うでしょう。ニュース映像では、そうは見えなかった。


これら矛盾点がいくつもあるので、突入時に犯人は生きていたとしか考えられないのですよ。
にも関わらず、「血は乾いていた」という発表。

これがもしも「突入直前の催涙弾を入れた段階で、犯人が観念して自殺を図ったと見られる」という発表であったのであれば、「まあ、そうなんだろうな」という程度で疑うことはなかったかもしれない。でも、「血は乾いていた」と。この証言があまりに奇妙で、引っ掛かるのですよ。突入のずっと前の時点で自らこめかみを撃ち抜き自殺を図っていて、それから何時間か何十時間か経過した後に「手を振り、音声に反応する」ということが信じ難いのですよ。搬出される時の感じでは、「まさにたった今撃たれました」という図のようにしか思えませんでした(笑)。


何かを隠そうとして、ウソをつくんだろうが、それがあまりにお粗末だとかえって逆効果になってしまうという好例であろうか。わざわざヒントを与えるようなものだ(笑)。それをやっているのが警視庁ということで、取調べが大得意の警察が考えたにしては、余りに酷いのではありませんか、ということです。



福島産科死亡事件の裁判・その3

2007年04月23日 21時33分48秒 | 法と医療
検察側の「過失」と考えている論点について、裁判記録が出ていたので少し判りました。

医と健康のフリーマガジン「Lohas Medical ロハス・メディカル」ブログ 福島県立大野病院事件第三回公判(2)


もう1ヶ月以上前になっていたようです。

この検察側証人尋問での狙いは、たぶん次のものであると思われた。
・胎盤剥離をクーパーを用いて行ったこと
・クーパーを用いたことが大量出血の原因となったこと
(「クーパー」というのは、簡単に言うと「ハサミ」のこと)

<検察側ストーリーとしては、大量出血が予想できたのに予期していなかったこと(予見性の問題)、更に上記2つ(器具選択と手技的誤り、その結果出血を招いた)に続発して、大量出血が原因で死亡に至った、故に執刀医は業務上過失致死罪である、と。>

まず、検察官の想定しているであろうことを考えてみたい。それはまず誤解であろうな、と。
恐らく、血管からの出血というものについて考える時、血管というのは水道管に接続するようなゴムホース(庭に水をまく時に使ったりするヤツ)みたいなものを想定しているのではなかろうか?で、そのゴムホースを、「誤って切断してしまった」と。すると、ジャブジャブ漏れるよね、と。切断したのは、「クーパーだった」と。きっと、こんな感じで考えているんじゃないのかな。

血管のイメージは近いかもしれないが、それは相当デカイ血管だけだ。それと、大血管の出血は確かに断面積が大きいので大量に出血するだろうが、逆に止血しやすいはずだろう。何故なら、「デカイ」からだ。出血点を確定しやすいのと、血管を縫合すれば確実に止められる。出血点が明確である時には、かなり強力な圧迫で止血効果が得られるし。摘出臓器に繋がる血管なのであれば、完全結紮してもOKだろうから、気がねなく閉じられるだろう(血管を必ず残さねばならない時には、血管の断端を確実に繋がなければならないので、逆に大変になるだろう)。つまり、ちぎれたゴムホースの口を糸で完全に閉じてしまうことができる、ということで、これなら出血は止められるのである。検察官のイメージする血管というのが、「デカイ血管を切ったのだから、出血が多くなるはずだろう」というものだと思うが、それは多分違うだろう。

次に、そんなゴムホースみたいなデカイ血管が完全切断されるか、というと、それはほぼ有り得ないだろう。ホースの一部分だけ亀裂みたいに損傷することは有り得ても、離断というのは有り得ないと思う。それと、血管の太さだが、大腿動静脈みたいに本当に太いのはあるが、子宮にはそんな太さの血管はあるのでしょうか?よく知らないけれども、もっと細いんじゃなかろうか。

逆に、血管が細くて、多数の出血点からジワジワ出る方が出血は多くなるだろうし、止血しづらいのではなかろうか。同時にいくつもの止血操作ができないからだ。医師の数は限られているし、手の数は決まっているので物理的に限界があるからだ。出血点が多数に及べば、「どこから出血しているか」というのが確定しにくくなり、細動脈とかの結紮が困難になるだろう。検察官のイメージでは、風呂に水を張るみたいに「太いゴムホース」からジャーっと出てるから「大量出血」、実際にはそうではなくて、1つひとつは「細くて小さい」が同時にあちこちから出血するので止血困難=結果的に「出血量が多くなる」なんだろうと思う。


もう1つの論点、クーパーの使用のことだが、これが過失に該当する、というのは立証はかなり難しいと言えよう。その理由は、
①クーパーを用いたのは「切る」ためではなく、「剥離する」ためである
②器具選択は医師の好みや得意なものなどがある
③教科書的な使用方法しかできない方が技術的に未熟である
なのではないかと思うからだ。

実際にググッてみると、出てきました。
コレ>基本的な外科手術器械

ここで、そもそもクーパーというのは、その形状が「鈍」で、さきっちょで突き刺したり切ったりというのはできない器具なのである。他の器具(写真ではメッツェンやメーヨー)ではもっと尖がっていたりするから、さきっちょで切ったりできるかもしれんが。

更に言うと、剥離用の剪刀があるのだが、こちらの方がよっぽど鋭いぞ。
コレ>剪刀 耳鼻科用ハサミ

耳鼻科用のものだから、というのもあるかもしれないが、元々「剥離剪刀」というのはクーパーよりも細くて鋭くできており、検察官が勘違いをしているような「クーパーで血管を傷つけた、切った」ということは、「剥離専用」の剪刀の方がはるかに起こりやすそうではないですか(笑)。クーパーが「切れる」というのはあくまで「剪断力」で(ハサミの基本原理とはそういうものですよね?)、ちょっと根本の方で切れるのであって、さきっちょで鋭く切れたりはしないのである。血管みたいな丈夫なものを切るには、完璧に刃と刃の間に挟み込み、根本側でしっかり切らねば切断なんかできない。血管と周囲組織は想像以上に丈夫なもので、たとえていうと、髪の毛をひと束掴んで引っ張っても中々千切れないのと似ている。糖尿病の老人とかの「ボロボロの血管」とかでもない限り、そう簡単に切れたりはしない。でも、一定以下の細い血管ならば手で引っ張れば離断するだろう。

「巻き寿司」みたいなものを考えるといい。包丁とかで切るのは簡単だが、手で引きちぎろうとすると結構難しいでしょう。しかも、ちぎれた断面はギザギザになる。手で胎盤剥離すれば、その断面は鈍的になるので、巻き寿司の断面がギザギザになるのと一緒であろう。もしも剥離操作の時に、ハサミの刃で切り離すという操作を行っていたのであれば、手で剥がすよりも簡単に引き剥がされる。髪の毛のひと束を手で引き抜くよりも、ハサミで切る方が時間もかからず容易に決まっているのだ(笑)。クーパーで「切って」離そうとした、ということは、極めて考え難いのである。それなら、いっそ電メスで切る方が何倍も簡単で早いのだし。

ハサミ=剪刀という名称なので、検察官の「先入観」があるのではないかと思う。これは切るためだけの道具なのではない。剥離する時、剥離剪刀をどのように用いるのかと言えば、殆ど切らないで「開いて使う」のである。普通の工作のハサミならば、親指と薬指を穴に入れているとすれば、その両方の指を閉める(近づける)ことで「切る」という動作を行うだろう。ところが剥離動作では逆に動かす。開くのである。簡単に言えば、完全に閉まっているハサミで刃の部分が開いていく動きをする、ということである。これは親指と薬指を開いていくということであり、通常のハサミで切る動作とは全く逆の動作なのである。これが「剥離」の殆どの操作である。切って離すのではない。まるで暖簾を両手で左右に開くかのように、剪刀の先を目標部分に挿入し刃の部分が開く動作で剥離が行われるのである(勿論、結合組織等を切ることもできるので、時には本来のハサミとして使うこともあるだろうが、その機会はかなり少ない)。

どのような術場であっても、全ての用具・器具が揃っているかといえば、そんな理想的な術場ばかりとは限らないのである。通常のセットに入っていない「剥離専用の剪刀」を出してくれ、とか看護師に常時頼めるだろうか?急いでいる時に、求める器具が滅菌されていないかもしれないし、剥離専用の剪刀を探し求める時間すら惜しいことはあるかもしれない。そうであれば、代用可能な器具があれば、それを用いることは何ら不思議ではない。戦場で「器具の○○がないから、君の処置はできないんだよ」などと言うことがあるだろうか?術場とは、戦場と同じなのである。「○○がないから、~ができない」などという言い訳をするのは、大体下手くそとか不器用な人間が多いに決まっており、器用で上手けりゃ最小限の道具だけで同じことができてしまうのである。道具とはそういうものだ。包丁だって、たくさん種類もあれば、専用のものも多いのだが、技術的に上手けりゃ、1本の包丁で色々なことができてしまうのと何ら変わりない。刺身包丁がないからといって、「刺身包丁がないから、刺身が切れません」とか言うヤツがいたら、是非ともお目にかかりたいものである。

より完璧性とか時間的効率を求めて行けば、当然専用の器具があった方がいい場合は多いだろう(その為に術式や分野によって専用器具が開発されてきた)。しかし、限られた環境の中で、全ての器具が揃っていなくたってやらねばならないのだし、それが「できる」というのは、より優れた技術がなければできないのだ。剥離専用の剪刀がなくたって、クーパーでそれができてしまうことは、上手を意味することはあっても、不手際とか技術的未熟さを意味することはない。基本は大事だが、その後の工夫や技術的向上で道具をカバーできるようになるのである。魚のサバキ専用包丁?がなくたって、愛用の出刃包丁1本で同じく3枚におろすことができてしまう人がいても不思議ではないのである。


そういうわけで、検察側の想定している論点は否定的であると考えている。
弁護側戦術としては、過失立証に必要な部分をつき崩すことで、クーパーを用いたこと、クーパー使用ゆえに大量出血したこと、この両方を否定することは可能であると思う。従って
・剥離剪刀の代わりにクーパーを用いても過失とは言えない
・出血原因はクーパーを用いて剥離したことではない
を反論として言うべきではないかと。

肝臓の部分切除みたいな場合だと、肝組織そのものに血管が豊富なので大量出血は予想されるのだが、それは組織的特徴なのであって、使用器具の問題なのではないのである。



奨学金や特待生制度は悪いことなのか?

2007年04月23日 11時35分38秒 | 教育問題
これまで奨学金制度などを積極的に推奨してきた私としては、誠に残念です。
野球憲章の歴史的経緯などをよく知らないのですが、日本の制度上、私立のお金がある学校が「金にものをいわせて有力選手を集めてくる」ことが悪い、ということなんでしょうか?

機会を奪っているのは、憲章の方なのではありませんか?
這い上がれるチャレンジの芽を摘むことが、そんなに良いことなんでしょうか?
成功はいけないことなんでしょうか?


ダル母校・東北高が春の予選出場辞退、特待生問題か(読売新聞) - goo ニュース

(一部引用)

前山・法人総務部長によると、同校には中学時代の実績や学力をもとに学費が免除などされる「文化・スポーツ特待生制度」がある。音楽や野球、サッカー、陸上などで特に優れ、中学校長からの推薦を受けた生徒が対象で、4ランクに分け、授業料などが減免される。例年、この特待生制度で野球部に一学年20人前後入学するという。




何故、野球だけがダメなのでしょうか?
奨学金とか、授業料や入学金減免というのは、「持たざる者」であっても成功できる機会を持てる、ということなんですよ。そういう教育機会を与えられるチャンスなのですよ(参考記事)。なのに、どうしてその機会を奪うのでしょうか?


先日の西武球団の資金提供問題などでプロ野球の「闇」みたいなことになってしまいましたが、隠すからいけないだけで、完全オープンにして企業が資金を供出するのは、将来への投資と思ってやった方がいいと思えます。これは、プロ野球の問題なので、ちょっと外れますので後で考えたいと思いますが、どう考えても「高校野球」の生徒が「奨学金を受けたから」「特待生だから」ということを理由にして、部活動を制限するのはオカシイのではないかと思います。


アメリカの貧困層がどうやって高校や大学へ行く金をもらうかと言えば、バスケや野球やアメフトなんかで「成功」を収めることです。絶対的貧困の中から、這い上がれるチャンスを掴むこと、その原動力はこうした奨学金制度であるように思えます。そして、もっと何が重要かといえば、こうした成功者が他の貧困層のロールモデルとなり得ることであろうと思います。例えば貧しい黒人たちは犯罪者になっていくより、プロ選手として成功したヒーローを目指すことによって、「頑張ればドリームを掴めるんだ」ということを信じられるのだろうと思います。大学を出ればたとえプロ選手になれなかったとしても、別な「ディーセントな仕事」に就くことができます。大卒ですから。これが底辺からの脱出チャンスなのです。

日本では状況が違う、ということは確かにあると思います。しかし、(岡崎氏の嫌いな)「悪しき平等主義」のようなものが、残されているのかと思うと、とても残念です。よく考えてみてください。貧しい家庭に生まれて、学校に行く費用以外に、用具だの、合宿費用だの、遠征費だの、その他モロモロ…を全部家庭毎で自己負担しなさい、ということなんですよ?それは「金がある人」以外には、スポーツなんてやるな、金のかかる活動は諦めろ、というのと同じではありませんか。所詮お遊びなんだからやるな、とでも言うのでしょうか?金に余裕のある学校が、「教育」と「部活動」をできるチャンスを与えてくれるなら、それは有り難いことではありませんか。公立学校とかであれば一律に決められているから、中々そういう自由はないでしょうけれども、「全部自力で活動費用を賄える」という人たち以外にも開かれたチャンスがあることの方がいいですよ。それとも、そういうお金のない家庭の部活動費用を、誰かが出してくれるのですか?「平等じゃなけりゃダメなんだ」とか主張する人たちは、払えない家庭の人たちの分を学校に代わって費用を出してあげて下さい。


ピアノだって、フィギュア・スケートだって、水泳だって、ゴルフだって、スキーだって、一流になろうと思ったら多額の費用がかかるのですよ。資金提供を完全に止めれば、「金のないヤツラは結局何もできないのさ。悔しかったら全部自力でやってみろ」ということと同じではないですか。能力がある者のチャンスを奪うことがそんなに良いことなのですか?

勉強ができると奨学金や特待生制度を受けられるのに、音楽やスポーツができても同じように受けられないとか受けてはいけないとか、どうして言われなければならないのでしょうか?これまでにも何度も書いてきたけれども、学業成績がいいことと、他の運動能力とか音楽や芸術や伝統芸能や料理や色々な技量があることと、何が違うというのでしょう?どれに資金提供をするかは、私立学校の自由でいいではありませんか。バレーボールに力を入れてる学校もあれば、駅伝かもしれないし、吹奏楽かもしれないし、化学実験部かもしれないし(笑、これはどうかな?無いかも)、要するに何だっていいではありませんか。そういう能力を持つ者たちに機会が与えられ、「野球」という能力を持つ者たちだけの機会を奪うことがそんなに大事なことなんですか?それが正当であるとは、私には到底思われません。


・プロ野球界の資金のこと

高校生や大学生に対する資金提供が裏金になってしまうとこれは確かに問題だろうと思うし、何らかのルール作りは必要だと思うが、企業側からの資金提供そのものが悪だとは思えません。学校に行くのに、費用はかかるわけですし。資金を出せる企業があるのであれば、それはきちんとした表向きの奨学金とかの形で提供するべきでしょうね。協賛企業というような形で資金を一括で1つの団体にプールして、そこから与えられるようにするといった何かの制度がある方がいいと思いますが、よく仕組みを考えてもらって(他の奨学制度などとの兼ね合いとか)、できるだけ多くの学生にチャンスが与えられる方向でやってもらえればと思います。たとえ自分の球団に来なくてライバルチームに入ったとしても、結果としてプロ野球の中にスターが多く誕生していくことが最終的には野球界全体の利益に繋がっていくのですし。たとえば奨学金を受けた選手をたくさん獲得した球団はその金額に比例して拠出額を上乗せするとか、そういうことでいいではないでしょうか。所得比例部分(球団収入とか拠出能力に応じて払う部分)と、獲得比例部分(奨学金を受けた選手の獲得数に比例して払う部分)みたいにして、プロ野球界全体で裾野を広げてゆくことを考えた方がいいのでは、と思います。アマ側にしても、文句を言うばかりではなく、「野球」という競技を通じて(社会的に)何を達成していけるか、どうすればもっと良く運営できるか、プロ側と協力していくことがあってもいいかな、と思います。

長島、王の時代から、松井、イチロー、松坂という時代になってきましたが、やはりロールモデルとしての存在は大きいのではないかと思います。成功者を生み出せる「システム」としての資金提供制度が、色々な形で存在することが大事なのではないかと思います。それが「持たざる者」にとって、大きな飛躍のチャンスなのですから。



あの時、誰が撃ったのか?(追記後)

2007年04月22日 15時27分21秒 | 社会全般
昨日の疑問に思ったことの続きです。
今朝の「ザ・サンデー」という番組で、突入の時の映像が出ていたが、そこで気になったことがあったので、一応書いておく。

番組で流されたのはベランダ側映像だろうと思うが、画面の左側に室内側、右側に室外側、という映像で、隊員たちが中に入る前に糸を引くような閃光が画面右側から左側に映っていたように見えた。普通に考えると、発射された弾丸の軌跡、ということなのではないかと思えたが、どうなんだろうか。

方向としては室外側から室内側に向かっていたように見えたので、犯人が室内側から撃った弾ではないように思えた。隊員たちの上方(ちょっと頭の上)を通過していたので、やや離れた高い地点からの射撃なのではないかと思えた。援護の為の狙撃班が別の場所から撃ったのではないかと。初めの銃声2発は、その音だったのではなかろうか?


新聞報道から判ることもあって、疑問点が浮かび上がる。

asahicom:隣室に集音マイク、空き部屋で手順確認 突入の特殊班 - 社会

室内の映像から、竹下容疑者がベランダ側の部屋にいる可能性が高いと判断。21日午前3時すぎ、玄関が開かないよう丸太で外から封鎖し、玄関、ベランダ両側から催涙ガス弾を撃ち込んだ。捜査幹部は「拳銃を持った相手をベランダ側にあぶり出し、確保する想定だった」と話す。

説得に対する竹下容疑者の反応や人質の有無の確認、突入のための資材調達などが整った上での未明の突入だった。突入前に竹下容疑者が自殺を図ったとみられることについて、捜査幹部は「結果としてはあの時間であの方法しかなかった」としている。




それからこちら。

asahicom:特殊班が未明に突入 立てこもりの男、銃で頭撃つ - 社会

(一部引用)

突入時、竹下容疑者からの反撃はなく、血液が乾いていたことなどから、突入よりも前に自ら拳銃で頭を撃ったとみられる。入院中の竹下容疑者の容体は重体で、問いかけにかすかな反応があるという。

同庁は、隣室から集音マイクを使って部屋の状況を調べて人質がいないことを確認。竹下容疑者が再三の説得に応じず、住宅地で朝を迎えると人の行き来が増すことなども考慮し、午前3時すぎに踏み込む決断をしたという。




この記事を読むと、疑問点がいくつか出てくる。

①集音マイクがある為、突入前に自殺を図っていたとすれば、その銃声がハッキリ記録されていたはず
②室内映像で居場所と人質の有無を確認できているのに、自殺がわからないのは疑問
③突入前から犯人が瀕死であったのなら、突入時銃撃音はないはず
④血が乾くほど以前に頭部を撃っているのに、搬出時に応答(手を動かす、とか)があるのは疑問(求心路である聴覚も、遠心路の運動機能も維持されている)


要するに、音と映像の情報がいくつかあって、なおかつ自殺が判明していないことが不自然なのですよ。銃で頭部を撃ったのを、隣室で気づけないはずはない。映像にしても、スターライトスコープとかナイトヴィジョン(赤外線暗視装置?)とかで見ていたはずで、自殺を図った犯人が全く動かないことは判る可能性は高いように思える。犯人の行動を「視覚的に」観察できていないのに、隊員たちが窓際にあれほど近づけるハズがない。だって、犯人がベランダに近づいて、ガラス越しに至近距離から銃撃できるからね。


つまり、突入直前の時点で、犯人は「普通に生きて」いた可能性が高いと思う。私の想像は大体次のようなものだ。


明け方を襲うのは常道かも。以前にも触れたことがあるが、長時間に及ぶ緊張で疲労が蓄積するし、そのため眠気や油断が起こりやすいだろう。集中力も失われやすい。警察は犯人が「居眠りしているかもしれない」という判断をしたのではないかな、と。音が静かで、犯人の動きはほぼ止まっていたからだろう。で、突入の決断をしたのだと思う。

和室側に犯人がいる可能性が高かったので(恐らく警察から見えていたのではないか?)、玄関側から2名程度の突入チームを中に入れたのではないかと思う。部屋がかなり狭いので、あまり人数が多くても狭い空間では銃撃が難しいし、同士討ちになってしまう危険性があったからではないかと思う。犯人に拳銃を手に持たせないうちに制圧、という想定で侵入を図ったのではないかと思う。ベランダ側からは支援チームが遠くから観察していて、狙撃によるバックアップ体制となっていたのではないか。

隊員が部屋に入った後、犯人は気付いて拳銃を手に取りベランダ側に近づいたのではないかな。室外に向かって銃撃が可能な態勢を取ってしまった、ということだ(ベランダ側隊員たちには見えていなかったのかもしれないが、狙撃チームからは見えていたのではなかろうか)。ガラスの外には隊員たちが並んでいた。バックアップの狙撃チームは、犯人が銃撃する可能性が高いと判断し、腕とか肩付近を狙って狙撃した。おそらくヒットしたのが胸とかで、犯人は撃たれた衝撃で後ろに倒れたのではないかな。しかし、手にしていた拳銃が手から離れたわけではなかったので、そのままで自分を撃ち自殺を図った可能性が考えられる。

つまり、ニュース映像に見られたのは、まるで「曳光弾」のような燃えた弾(実際は燃えてないけど、温度が高いので。断固guyさんとは無関係だ、笑、念のため)の通過した瞬間であり、狙撃チームの撃った2発ではなかったか。初めの頃に聞えた2発くらいの銃声、その後ちょっとしてから聞えた1発の銃声、これは別々の銃から発射されたものだったのではないか(音の感じが初めの2つと後の1発では、何となく違っていたように聞こえたが、どうだったかな)。


SITを責めたい訳でもないし、勝手な個人的妄想に過ぎないので、あまり問題にしないでもらいたいです。狙撃チームが撃たなかった場合に、他の隊員たちが撃たれていたかもしれず、止むを得なかったのかもしれないが、突入の判断がどうであったか、というのは検討の余地があったのではないか(人質もいなかったのですし)。



日本の「警察力」~SAT&SIT

2007年04月21日 17時30分57秒 | 社会全般
SWATの記事を書いた翌日に、本当に立て籠もり事件が起こるとは思わなかった(エスパーか!!)。タダの偶然なんですが。

今回の強行突入を見て思い出したのは、かつての函館空港でのハイジャック事件。あの時は、日本の警察がよくやった、と心の底から思った。

全日空857便ハイジャック事件 - Wikipedia


日本ではSWATとは呼ばずに、SATとかSITなどと呼ばれる。ドラマとか小説なんかでは、もうお馴染みであろう。秘密ではなくなった、ということだ。昔だと、「警察の暴走を止められない」とか、「特殊部隊の存在そのものが危険だ」とか、色々と責められてしまう時代だったので、存在自体を極秘にしておかねばならなかったのだろうか。
一応、いくつかの呼称が出ているので、挙げておこう。
特殊部隊とは - はてなダイアリー


SATの歴史は、こちらが参考になる。
特殊急襲部隊 - Wikipedia

79年の銀行立て籠もり事件のことは覚えている。あまりに残忍であったこと(耳を切り落とせとか…)と、テレビを見ればずーっとこの中継をやっていたからだ。ニューナンブでの狙撃ということで、8発中3発しか命中しなかったが、翌日の新聞には大きく書かれていたように思う。射殺は当然だ、と殆どの人々が内心思っていたのではないだろうか。こういう事件の時にも、人権団体とかが容疑者の人権だの、捜査や警察対応なんかに文句を言うのであろうか…実際どうであったのかは知らないのであるが。

三菱銀行人質事件 - Wikipedia

『瀬戸内シージャック事件時は数人いた狙撃手のうち隙を見つけた者が単独で撃つというやり方を取ったが、事件後ある弁護士が狙撃手を殺人罪で告訴した経緯があった。そのためこの三菱銀行人質事件では、数人の狙撃手が一斉射撃することで狙撃手のうち誰の撃った弾が当たったのかわからないようにした。これにより罪状告発に必要な「犯罪者の単独特定」を不可能にし、また狙撃手一人が人を殺めたことで精神的苦痛に捉われることを少しでもなくそうとする配慮がなされていた。』

このように、「狙撃手を殺人罪で告訴」ということが、かつて本当にあったとは知らなかった。狙撃失敗だから、ということではなくて、人質が無事に救出されても「殺人罪」とか言われたら、どうやって人質を救出したらよいのであろうか?ひたすら「犯人の説得」ということなんだろうか?


今回の立て籠もり事件ではSITが突入したようであるが、早速書き込まれていた。スゴイね。誰か、ソッコウで追加しているんですね。

特殊捜査班 - Wikipedia

『この事件において警視庁SITが、フラッシュライトを装着したベレッタM92や、サブマシンガン(MP5)、銃床折曲式のガス銃を装備していることが確認された。
またMP5については、トリガーグループ(引き金と周辺部品)をSingle Fire-Trigger-groupに交換したMP5K PDW、もしくはMP5K-Nであり、フラッシュライトと、UMPの物と見られる折曲式銃床が装着されていた。』

ニュース映像なんかだと、MP-5っぽいのと、折曲式銃床が映っていたのは判ったが、ベレッタとか見えてた人がいるんですね。凄いな。ホンマに筋金入りのオタって、詳しく見ているんですね。参考までに、SATやSST(海保特殊警備隊)ではベレッタではなく、SIG P228(P226?)が採用されたらしい(ザウエルと言えば…スプリガンか!)。

因みに大石氏は、こう述べていた>大石英司の代替空港

小学生の頃、「ナポレオン・ソロ」とか「ルパン3世」のワルサーP38を見て、おもちゃの銃の中ではこれが一番美しい銃だと思っていたわけですが(イリア・クリアキンはワルサーPPKだったかな…)、旧日本軍の拳銃なんかを見るとあまりにダサいので何の興味もなかった。ドイツ軍戦車と日本軍戦車の違いみたいなものなんですかね、あのダサさというのは。今のベンツと初代カローラくらい違う(ゴメンね、カローラ)ような気がします。


あと、関係ないけど、町田は立て籠もり事件が過去にもあったんですね。土地柄?長崎もハイジャック事件とか、市長銃撃事件とか、結構あるね。偶然なんだろうけど。

町田の籠城犯は自殺を図ったということらしいが、あんなに催涙弾をぶち込まれたら、死ぬしかないと思っても仕方ないかも。初めの頃の数発の発射音は催涙弾の音なのかね?よく判らんのだけれど。
最後の1発は犯人が自分で撃った音であるとすると、「パーン」という一発しか音がしないと思うのだけれど。コメカミを撃ち抜いて、尚且つ生きていたのでもう数発自分で発射というのは、極めて考え難いのではないかと思うのだが。なので、ニュース映像で流れていた銃撃音みたいなのが数発あったのが気になるんですよね。



不幸の手紙

2007年04月20日 18時20分50秒 | 俺のそれ
最近、不安に思うことがある。
それは、自分に関する情報がどこかで漏れ漏れになっているような気がするからだ(笑)。それとは無関係だろうと思いたいが、何故か特定の分野からの「不幸の手紙」みたいな「お便り」が昨年~今年にかけて連続して届いているのである。


「不幸の手紙」とは言っても、とあるアンケート調査みたいなものなのであるが、どうして私のようなどうでもよい人間が何度も抽出されるのか不思議だからだ。かなり少ない確率でしか選ばれないだろうし、そうそう同じ人物に当たるはずがないと思うのですよね。にも関わらず、何度もお便りが届く。全く別々な所から。不気味だ。本当に少ない確率でしか有り得ないはずなのに…(笑)


それと、個人情報はかなり漏れただろう。ある部分、自分では意図的なこともあるのだが、それにしても国会議員の口の軽さとか、いちいち人のことをベラベラ喋る人なんかの存在が気になるわけだ。どうでもよい人間のことをネタにして喋ってないで、自分たちの身内にいる腐れ頭の議員の方を何とかしたらどうかね。そういうヤツラのことをマスメディアなんかに、ベラベラ喋ってやればいいじゃないか。


これまでのカルマなのか(笑)。祟りとか。
政治家、警察、検察、裁判所、マスメディア、役所、官僚、学者、大学教授……日本の権力機構に関係しているありとあらゆる分野に文句を書いてきたので、我が身に何らかの不幸が降りかかってきても不思議じゃない。弱小個人なので、本気で抹殺などされないだろうと思うが、個人を特定されているので、少し怖さはある。権力には所詮対抗できないからね。



Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する

2007年04月19日 20時56分53秒 | 法関係
これまで以上の訴訟社会の到来に備えておくべきなのであろうか。ありとあらゆる領域に、これまで以上に厳格な法の支配が及んで行く。「jurisdiction」は膨張し続ける。そこで哂うものは一体誰なのであろうか。

がんセンターの2医師、書類送検 手術で過失致死容疑(朝日新聞) - goo ニュース

(一部引用)

国立がんセンター中央病院(東京都中央区)で02年8月、子宮摘出手術を受けた都内の主婦(当時47)が手術中に大量出血して死亡した事故で、警視庁は、当時の執刀医(65)と麻酔医(44)を業務上過失致死の疑いで書類送検した。手術中の止血が不十分だったことなどが原因と判断した。




ちょっとズレてると思うが、例を考えてみる。

あなたが優秀なSWATの狙撃チームの一員であるとしよう。
射撃訓練では、99%が命中、ターゲットから3cm以内の着弾が95%という、素晴らしい成績の持ち主である。

とある事件があって、出動を命ぜられた。犯人が人質を取って、立て籠もっているという。犯人は「大量殺戮型殺人犯」に分類される凶悪犯で、解決方法の選択は「射殺」か、「射殺」以外である時には同じタイプの凶悪犯が街中にいるので少なくとも1千人が死亡するとしよう。射殺を諦めるという選択をすれば、「1千人が死ぬ」ということが判っているのである。

そこで隊長は「犯人射殺」を選択したとしよう。賢明な判断だ。あなたのような狙撃手の腕を持ってすれば、きっと犯人を射殺できるハズだ。観測手とペアで、あなたは犯人射殺のチャンスを待った。観測手は狙撃手と全く同じく見ることのできるスコープで、狙撃手に的確な指示を与えるためにいるのである。つまり狙撃は、観測手と狙撃手の二人三脚ということである。共同作業なのである。これまであたた方は一度も外したことのないペアだった。これまであなたが発射した全ての事件では、確実に犯人を射抜いてきたのだ。それ故、あなたと観測手には信頼関係があったし、外さないという自信もあった。

人質の影に隠れていた犯人が僅かな隙を見せた。あなたはチャンス到来と思ったはずだ。犯人が油断したその瞬間に、間髪入れず観測手も指令を発した。
「今だ。撃て!」
あなたは射撃訓練の時と変わらずに、冷静に引き金をゆっくりと引いた。スコープには人質の姿が大きく映っていたものの、スコープの中心に捉えた犯人の額を外すことなどないハズだ、と確信していた。それ故、観測手の発射指令に躊躇うことなく、引き金を引いたのだ。犯人射殺以外には解決手段などないのだから。罪もない人質を救出し、同様の凶悪犯を撲滅できるのは、「射殺」という選択をする以外にはないのだから。

次の瞬間、犯人の盾にされていた人質が大きく仰け反り、スコープから姿を消した。犯人は驚いて辺りを見回した後で、周囲の人質目がけて半狂乱になりながら銃を乱射した。人質は次々と撃たれて死亡した…。作戦は完全な失敗に終わった。95%成功率を誇る腕を持つ狙撃手でありながら、犯人射殺に失敗した上に、人質を無駄に死なせてしまったのだ。

この作戦から署に帰ると、刑事課長が待っていた。
「残念だが、お前を逮捕せねばならんのだ。悪いな、これも法律で決められているからな。業務上過失致死罪ってヤツだ。狙撃手と一緒に発射指令を出した観測手も逮捕だ。」
「何だって?何故なんだ!観測手も一緒とはどういうことだ?」
「失敗することが予期できたのに、お前の射撃を止めなかったってことだよ。」
「そ、そんな…」
「お前と観測手は同罪なのさ。これも法の掟なのだから仕方あるまい。」
・・・・・・

この狙撃は条件が悪かった。訓練では300mからの射撃であったが、今回は500mと厳しい条件だった。勿論、これまで同じ距離とか、それ以上からの距離であっても狙撃は何度も成功させてきた。だから、「きっとやれる」と信じていたのだ。けれども、距離が遠くなれば僅かな誤差も命取りになりかねない。更に悪いことに、犯人は視野を遮る為にカーテンを引いており、狙撃手からはごく僅かな隙間しか狙えるポイントがなかった。もう1つ、犯人の盾となっていた人質が急に体の向きを変えてしまうとは到底予想できなかった。それまで観察していた間では、あれほど体を動かすことなどなかったからだ。これも判断ミスなのだ、と言われてしまえば、そうなのかもしれないのだが。こういういくつもの悪条件が重なり、一度も外したことのなかった弾道は、今回に限ってほんの僅かに逸れてしまい、人質の胸を貫通してしまったのだ。そうして最悪の結果を招いてしまった。

もしも、こういうケースを「狙撃しない」ということにするなら、もっとたくさんの命が奪われることになるだろう。同じようなケースにおいて、誰も引き金を引けなくなる。選択の余地はとても少ないのだ。射殺するか、他の命が奪われるのを覚悟で黙って見ているだけにするか、いずれかしかないのだ。今回、リスクを取って引き金を引いたことが、結果的には人質の死に繋がった。けれども、同じようなケースで失敗確率が5%である時、この5%を怖れて射殺を選択しないということができるのだろうか?不幸にして5%に入ってしまえば「業務上過失致死罪」となってしまう時、狙撃を実行する勇気を持つ狙撃手と観測手は現れるのであろうか?


狙撃手は執刀医、観測手は麻酔医であることはお分かり頂けるだろう。結果が悪ければ、それを過失と呼ぶ、ということである。たとえ他の数千人を助けたとしても、ただの一度も失敗は許されない、ということなのである。血管損傷や出血というのは、想定外で起こるものであって、特別な過失がなくても生じうるのである。解剖学的位置関係というのは、モデルとか標本と寸分違わぬことなど現実には有り得ない。教科書に書いてあるからそれと全部同じであると思っているのかもしれないが、いくつかの異形はあるし、その存在確率は定まっているとは限らないけれども、確実にある。執刀医の年齢からすると大ベテランであり、所謂百戦錬磨の「つわもの」であることは想像に難くない。しかも「国立がんセンター」の医師なのだ。日本でも有数の医療施設なのである。新米ドクターが震える手で「ミスった」とかいうレベルとは全く違うのである。私には判断のしようがないのであるが、何ら意味もなく、というか理由なく、大量出血が継続していたなどとは到底考えられないのである。


医師というのは毎回与えられた条件の中で最善を尽くす以外にはないのであるが、何でもかんでも「刑事事件」として捜査・取調され、送検されて、裁判にかけられていくのである。


検察官に1つ言っておきたいことがある(関白宣言か!)。
エラー確率が1%であっても、1万件の裁判のうち100件は無罪判決となるということである。この100件を担当した検察官は、「業務上~」という刑事罰を与えられることにしておく場合、検察官においては「これまで通りに」何ら変わることなく起訴できるんですよね?エラーの場合は刑務所行きですからね?それでも、今までと全く同じく起訴できるはずですね?

裁判官にも言っておきたい。
上級審で逆転判決であった場合には、刑務所行きということにしたとしましょう。罪状は何でもいいですよ。作ればいいんですから。法理論というのは、完璧であるのが当然であり、裁判官毎に結果が異なるというのは学問上本来オカシイ訳です。試験問題でも、答えは1つですよね?なので、裁判官がミスをする度に、刑事罰を与えます。それでも、これまでと何ら変わりなく裁判はできるんですよね?まさか、今まではそれほど真剣にやってこなかった、とか言うのではありませんよね?判決が変わる度に、刑務所送りにするとしても、これまで裁判というものが「ミスなく行われてきた」ということであるならば、別に構いませんよね?誰が判決を書いたとしても「結果は全て同じハズ」であり、医療裁判と同様に判決文を鑑定に回して、違った意見である時には過失を認定するとともに裁判官の判事人生を奪うものとすればいいのです。司法資格があるので、弁護士にでもなってもらえればいいですね。それでも大丈夫なのですよね?裁判に誤りなど存在していないハズですから。それとも、「裁判は誤りがある、判決にも誤りがある」ということを認めるのでしょうか?認めるならば、「間違っているかもしれないけれども、裁判の判決を書いてしまっており、その正確性については誰も担保しないし、レベルもよく判らない」と、全国民に是非とも宣言して頂ければ有り難いです。


検察や裁判所というのは「3回チャンスがある」とか思っているのかもしれないが、医療では「一発勝負」でしかなく、全例やり直しなどはきかないので、今後全ての裁判でも同じく一発で正解を出さねばならないことにしてもらいます。時間も金も無駄にしているのは、いい加減な裁判なんですよ。医療に一発で100%の正解を求めるのであれば、司法がまずお手本を示して頂ければと思います。大体、3審制ってのは、甘いんだよ。もう一回やってみる、などという甘さがあるから判決がコロコロ入れ替わったりするのですよ。司法がやっていることというのは、そういう曖昧でいい加減なシステムを運営しているだけなのです。狙撃手にしても、チャンスは一度であり、引き金を引けば発射された弾は元には戻すことはできませんので(笑)。少ないチャンスに、確実にエラーなく仕留めなければならない、ということを医療では求められているのです。司法制度はそうでなくてもよい、という正当な理由があるなら是非とも拝聴したいものです。


もっと言うと、裁判所がはっきりと宣言を出して下されば、多くの国民に納得してもらえるのではないでしょうか。

「たとえ千人死んでもいい。凶悪犯を射殺を選択しないことの方が正しいのだ。5%のエラーが生じるのであれば、人質射殺のリスクが回避できず、100回狙撃すると5人の人質が犠牲になるからだ。だから狙撃を止めて、エラーを防げ。凶悪犯が暴れるのを黙って見ているしかない、千人殺されても狙撃手のエラーを防ぐことの方が大事なのだ。」
 
と。