いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

殿様商売の新幹線は敗退を繰り返す

2015年09月30日 09時08分39秒 | 社会全般
インドネシアにおける高速鉄道の受注は、以前から注目されていた。一旦は、日本と中国の競争を白紙に戻し、高速は必須でなく中速でもいいというような報道発表がなされた。

しかし、結局は中国の受注が報道されることになり、恐らく「高速は必要ない(=もうちょっと遅くても問題ない)」。とインドネシア政府が言った時点で、日本の新幹線方式が敗退することはほぼ確定的であったろう。


日本側の姿勢がどういうものであるか、というのは、交渉現場の人々だけじゃなく、他の一般人の反応を見ても手に取るように分かろうというものだ。


こんなの>http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1855211.html


事業内容を比較したりできないような人々ですら、こんなに「上から目線」っぽい、ってこと。最初から、日本=素晴らしい、中国=ハイ御仕舞、みたいな先入観と図式を信奉しており、そういう思考パターンや態度が相手側にも伝わってしまうのではないかとさえ思える。日本が中国との受注競争に敗れたのには、負けるべくして負けた、まさしく不思議の負けはないということだ。


この結果が意味するところを、日本の政治家も鉄道事業者も経産省やJICAあたりも、あまり考えていないのではないか。日本の鉄道事業は、今後旅客数が減少する一方の日本国内で寂れてゆくであろう、という危機が現実になるかもしれない、ということである。


これに似たビジネスがかつて存在していた。
それは、携帯電話事業である。


日本の通信技術は品質がいいだのと御託を並べていても、現実に供給されてること、時間や金額を少なくできること、そういうことの重要性が理解されていなかった。

中国の携帯電話なんて、と誰しも思っていたかもしれない2000年代初期に、日本は携帯事業でことごとく中国企業との競合で敗退したわけだ。アフリカ大陸を見るがいい。電線網がなく、有線回線も全く存在しない、アフリカにおいて、携帯電話は貴重なインフラとなった。その基地局建設を推進したのは、主に中国系企業だった。彼らは、日本以外の先進国企業との苛烈な競争に打ち克ち、受注を繰り返すことで成長してきたのだよ。実際、ほとんどの地域で携帯電話だけは繋がる。少々の問題があろうとも、だ。

そして、携帯通信網というインフラを足掛かりとして、中国企業のアフリカ進出は他分野でも進んでいったわけだ。携帯基地局の受注利益以上のものが、経済波及効果として得られたのではないかということである。勿論、外交面でも、だ。


今や、世界2位の通信設備供給を持つ華為技術(ファーウェイ)は、日本の携帯事業者よりもずっと先にいる。

>http://www.nikkei.com/article/DGXKZO85767830W5A410C1X11000/


10年前、中国企業を鼻で嗤っていた者たちは、大勢いたのではないか?
そして、同じことが今も起こっており、日本企業の敗退の原因を考えてはいないということ。


インドネシア以外でも、マレーシアやタイやベトナムなどでも同じことが起こるかもしれない、という危機感が全くなかったということだな。勝負はやる前から、見えていたということだ。がむしゃらに仕事を受注しにくる中国と、武士の商法みたいにプライドだけは高くて、真剣に競争に勝つ気が見えない日本では、負けて当然だということ。


以前に、米国向けに高速鉄道事業の素案を書いたことがある。金欠に陥ったリーマンショック後の話であり、公共投資が経済下支えの意味を持つので効果ありと考えたものだ。


>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fe5fa48c8b215f730753a941ef1205d2

(再掲)

③米国に於ける高速鉄道建設事業

一番の肝になるのは、これだ。米国での雇用を作る、という目的がある。日本の新幹線を米国で運行してもらえるようにするのである。
スキームは以下の通り。

 ・米国に合弁の事業会社を設立
 ・米国側資本(企業やファンド)が95%、日本側はJRが5%(+銀行や商社等を入れてもいい)
 ・この事業会社に日本の持つ外貨準備のうち仮に百億ドルを貸出
 ・30年の長期ローン、利率は現在の米国30年債と同等金利(or上乗せ0.1~0.5%)でよい
 ・返済は事業スタート後の運行収益から返済してもらう
 ・JRは技術やシステムの移植、訓練や教育で協力する
 ・建設事業や車両製造事業などは米国内企業で行う(どうしてもできないものだけ日本国内で担当するとか、指導人員派遣などで対応してもよい)

概要だけだが、こういう感じでどうかな、と。

まず公共事業として米国自身でやろうとすれば、これは予算がないと着手できないので難しい、ということがあるかもしれない。なので、初期費用を日本が拠出し将来収益で返済してもらえばいいだけだ。日本がドルをただ持っているだけでは米国債を買うくらいしかないので、積んでおいても意味がないのと同じ。それなら、いっそ米国労働者の雇用を増やす方がずっと有効だ。約七千億ドルの米国債を売却しなくても、数千億ドルは保有しているはずなので、費用捻出は難しくはないと思う。




当時、米国の財政赤字が深刻だったので、初期費用は日本側が拠出する、ということで考えたものである。運行収益から返済するというのも、ごく普通の発想であろう。今回中国が提案したのも、こういう初期費用ナシ、というものだったらしいので、日本に工夫が足りなかった、ということだ。



また、中国の高速鉄道が脱線事故を起こしたことがある、というのを「新幹線絶賛派」の人たちが自慢げに語っているが、鉄道事故は中国だけが起こすわけでない。将来、事故が起こった時に後悔するがいい、みたいに言うのって、恥ずかしくないのか。


欧州でも鉄道事故は起こっているし、米国だってつい先日も事故った。

>http://www.newsweekjapan.jp/stories/us/2015/05/post-3638_1.php


米国の鉄道より、中国の方がまだ安全だ、ということなら、それを選択する国があっても不思議じゃない。TGVだって無事故ではないし。



要するに、上から下まで、日本は最高、素晴らしいという先入観と奇妙な価値観に凝り固まった日本人が、殿様商売をやって、その愚かさに気づくこともできず、まんまと敗退を繰り返し、世界のビジネスで大きく後れをとり、中国企業からは大きく水をあけられているんだ、ということ。ハイテク製造業の惨敗さえ、無様な固定観念から目覚めさせることができなかったということを、今回の新幹線大絶賛の連中が示してくれたのだ。




金融庁は恣意的処分を繰り返すのか

2015年09月29日 10時48分37秒 | 法関係
東芝の会計問題では、未だ監査法人に対する金融庁側の姿勢が見えない。


かつて、ライブドア事件の時には、あれほど刑事事件にしていったのに、だな。
そもそも、監査法人とて社会の歯車の一部でしかないから、事情があるのかもしれないが。


かんぽの宿ですら、まともな監査なんてできてなかったわけで。

12年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6c8f0ce5618fbdc3953c1a30e1fff721


オリンパス事件しかり、東芝の件もしかり、監査機能がどの程度「効いているのか」というのは、分からないわけだな。

09年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/326b7577db499492391ebfa5590a95be


日経記事より:

http://www.nikkei.com/article/DGXLASDZ07IG7_X00C15A9TJC000/


(一部引用)

会計不祥事で、証券市場の信頼を守る「番人」たる会計監査の在り方も問われる。東芝の第三者委員会は、同社が問題発覚を免れるため新日本監査法人に事実を隠蔽していたなどと指摘した。だが今回の不適切会計は長期間にわたり、決算訂正額も大きい。新日本は過去に会計不祥事を起こしたIHIやオリンパスも担当していた。「なぜ見抜けなかったのか」との批判も出ている。

 金融庁の公認会計士・監査審査会は新日本の監査などに落ち度がなかったかどうかを精査し、必要なら新日本の処分を金融庁に勧告する方針。オリンパス事件で金融庁は新日本と、あずさ監査法人に対して業務改善命令を出した。

 公認会計士の自主規制機関である日本公認会計士協会も新日本の本格的な調査を始める。担当会計士などを聴取する。

========



中央青山は解体となってしまったわけだよ。

06年>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e449e800d33f3212d90a38e033d7bc36


ホリエモン潰し、ライブドア叩きというのは、必要悪だったとでも言うつもりか?


その後、日興、三洋と粉飾決算が問題になったわけだが、監査法人なり監査役に厳罰など食らってないわけだ。
これで、東芝のような事件でも何もない、となれば「国策捜査」的に、金融庁は相手を恣意的に選んで事件を作り上げているんだ、ということになりかねないのではないか?


公認会計士への信頼性はどうなのか?
あるいは、金融庁の手法というのは、どうなっているのか?


今回の楽天銀行の件にしても、金融庁検査なりを適正に行っているのかどうか、金融庁の不作為が問題にされうるだろう。行政の監督責任としてどうなんだ、という話である。



続・楽天銀行の口座凍結措置は杜撰ではないか?~山本一郎の説は本当か?

2015年09月29日 08時09分17秒 | 社会全般
山本一郎の説によれば、顧客本人の口座利用やヤフオク等の問題があるのであって、楽天銀行には何ら問題ない、ということらしい。おまけに、ネット銀行が詐欺の温床となっており、その結果の反映であるかのような物言いだ。


>http://kirik.tea-nifty.com/diary/2015/09/post-9b53.html



だが、当方も他社ネット銀行系の口座はあるが、そんなことは起こったためしがないし、注意喚起の特別のメールが来たわけでもない。
山本一郎の言い分は俄かには信じがたい。

そこで、調べてみたが、金融庁には楽天銀行に関する行政指導等が行われた文書などは、情報公開が見つからなかった。


他には、これがあった。
>http://www.fsa.go.jp/status/kouzafuseiriyou/index.html


情報提供件数は、特定の銀行に決まっているものではないが、傾向は分かるだろう。
ネット銀行は、その他の金融機関に分類されているものと思われる。


『金融機関としても、預金口座の不正利用と思われる情報があった場合には、直ちに調査を行い、本人確認の徹底や、必要に応じて預金取引停止、預金口座解約といった対応を迅速にとっていくことが肝要』

預金口座の不正利用に係る情報提供件数等
>http://www.fsa.go.jp/news/27/ginkou/20150731-5/01.pdf



データから、以下に必要部分を4半期ごとに挙げてまとめてみた。
総件数には、強制解約等、利用停止、調査中、その他とあり、その他には利用に問題なしか不存在というものである。
特に、ネット銀行が区分されていると推測されるのは、その他金融機関で、これをを「他金融」と表記した。また、「その他」と「利用停止」件数は、いずれもその他金融機関での数である(都銀、地銀、信金、信組等は除外した数字ということ)。


年/Q  他金融/総件数  その他   利用停止

24/1Q  405/946   45    301
 /2Q  344/880   37    201
 /3Q  222/575   15    169
 /4Q  159/430   18    130
25/1Q  137/372   -9    132
 /2Q  212/404   10    134
 /3Q  205/428   47    110
 /4Q  208/495   39    126
26/1Q  170/316   36    89
 /2Q  135/303   19    83
 /3Q  208/335   26    109
 /4Q  131/223   55    64
27/1Q  110/215   -2    64
 /2Q  66/128   -15    27

 
  
どうみても、次のようなことが示唆される。

・総件数もその他金融機関も減少傾向
・その他金融機関の割合がとりわけ増加しているということはない
(約半分程度、というくらいか)
・利用停止件数は減少傾向、特にここ1年はかなり減少
・犯罪利用口座摘発の成果が表れている


振り込め詐欺事件の手口が、銀行口座を使わせず、直接現金を郵送宅配させたり手渡しに移行している、という傾向と一致しているな。


すなわち、山本一郎が言うように、ネット銀行の口座を使った詐欺なり犯罪が増加している、という傾向は、窺うことができないということだ。



なのに、何故ここ1年くらいで楽天銀行の口座凍結がこれほど目立つのか?
ここ一年で264件の利用停止、犯罪に無関係か不存在が64件あり、その64件が楽天銀行に集中しているなら、その特別な理由というものがあるはずだろう。


説明できない場合、山本一郎の説はどうなのかということ。
情報提供のあった口座数は、減少傾向にあるだろう。


少なくとも、ネット銀行系の口座での詐欺被害が増えている、ということは、窺うことができないわけで、むしろ減少傾向なのではないか、というのが数値により示唆される。特に、27年に入ってからは、かなり減ったなという印象だが、楽天銀行だけは昨年末くらいから今年にかけて、利用停止口座が増えている印象(コメントやツイートなどで)となれば、何らかの説明なり合理的理由というものが存在しないとおかしいよね、という話にはなる。


普通だと、本人確認を厳格に行う、住所地などを確認する、といったことで口座凍結などは回避されうると思えるが(特に金額が少額なので)、本人に連絡がついているにも関わらず、完全利用停止とはおかしい。


闇金被害も似た傾向があって、相談件数と警察の検挙件数や被害人数・被害金額などは、増減が同一傾向にあったはずだ。
つまり、銀行口座の情報提供件数が減少してきている、となれば、犯罪利用の口座の摘発は着実に成果を挙げてきて、「減少した」と考えるのが自然である。なのに、山本一郎はまるで業界内の特段の事情を知っているかのような物言いなので、きっちりそのへんを説明できることだろう。


ああ、家でアップした記事を、いったん表示できなくしただろう?
ネットワークまでいじるなんざ、汚い手を使いやがって。

そんなに記事を書くのを邪魔したいか?
マズい話になって困るからか?

クズども。
余計な手出しするんじゃない。



楽天銀行は、例えば運用損が確定するのを恐れて、払出現金が不足してしまい、顧客の口座凍結になった、という推測を、どのように払拭できるのか、という話だな。
例のビットコインのマウントゴックスの際に起こった、払出不能状況と似ているのではないか?という話である。


説明すべきは、銀行側だろう。

参考>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e93f26454f65f99ebbfd3fb60be51264



楽天銀行の口座凍結措置は杜撰ではないか?

2015年09月28日 01時25分07秒 | 法関係
けっこう話題になっていたようです。

>http://yonezo.biz/?p=4405


楽天銀行なんて使いたいとも思ったことがないから、全然知らんかったわ。


すると、あの山本一郎がコメント欄に降臨し、記事を放り込んでいったようだ。


>http://b.hatena.ne.jp/entry/kirik.tea-nifty.com/diary/2015/09/post-9b53.html


山本一郎からすると、楽天銀行が口座凍結するのは何ら問題なく、利用者かオークション運営側などに責任があるかのような物言い。
本当かよ?



眉唾っぽく感じたので、少し調べてみました。当方の素人見解ですが、一応書いておきます。


1)基本的に口座凍結措置は、ハードルが高い

全銀協の資料があったので、見てみました。ただ、ちょっと古い。7年くらい前です。


>http://www.caa.go.jp/planning/pdf/1115siryou1.pdf


原則として、外部からの情報提供というのが重要のようです。捜査機関や弁護士などですね。犯罪に利用されている可能性が高い、という指摘を受けないと銀行側の判断だけでは、中々難しいということではないかと。



2)振り込め詐欺の被害救済を目的としている


現在でも下火にならない詐欺事件ですが、振り込め詐欺は以前より困難になってきたのではないかと思います。現金を送らせる手口に移行してきているといった報道があったように思います。

で、口座の取引停止が条文で規定されている法律は、数が少ないのです。代表例が振り込め詐欺に関する以下の法律で、取引停止の法的根拠となっています。


『犯罪利用預金口座等に係る資金による被害回復分配金の支払等に関する法律』


○第三条

 金融機関は、当該金融機関の預金口座等について、捜査機関等から当該預金口座等の不正な利用に関する情報の提供があることその他の事情を勘案して犯罪利用預金口座等である疑いがあると認めるときは、当該預金口座等に係る取引の停止等の措置を適切に講ずるものとする。

2 金融機関は、前項の場合において、同項の預金口座等に係る取引の状況その他の事情を勘案して当該預金口座等に係る資金を移転する目的で利用された疑いがある他の金融機関の預金口座等があると認めるときは、当該他の金融機関に対して必要な情報を提供するものとする。




つまりは、犯罪利用の疑いが濃厚である、ということが要件となっているわけで、普通は捜査機関からの情報提供となろう。
他行にある犯罪口座との取引があるということなら、楽天銀行宛てにその情報提供がなされる、ということであろう。

仮に、向うの口座が停止措置となっているからといって、そこから楽天銀行の口座まで犯罪が明らかでないのに停止されるというのは、どうなのだろうか?

犯罪に関係しているのではないか、ということを当局に報告義務があるからといって、全部を疑いの段階で停止措置を取るというのは妥当とも思われないわけである。


3)マネーロンダリングや組織犯罪対策の法律での停止措置は手続が別

暴力団対策とか、その他の犯罪やテロ対策という側面もあることはある。


『犯罪による収益の移転防止に関する法律』

この法律では、取引時確認事項が決められており、簡単に言えば、顧客の身元を明白にしろというものである。

○第五条  
特定事業者は、顧客等又は代表者等が特定取引等を行う際に取引時確認に応じないときは、当該顧客等又は代表者等がこれに応ずるまでの間、当該特定取引等に係る義務の履行を拒むことができる。


顧客が確認を拒否したら、取引に応じないことができるよ、ということであって、全部を停止してよい、ということにはなっていないし、少額取引その他除外規定もある。
また、顧客が虚偽申告ないし虚偽の告知を確認事項で行っている場合には、厳格な取り扱いもやむなし、ということになっているだけで、普通の人ならば停止措置を食らうようなことはないだろう。


○第八条  
特定事業者(第二条第二項第四十三号から第四十六号までに掲げる特定事業者を除く。)は、取引時確認の結果その他の事情を勘案して、特定業務において収受した財産が犯罪による収益である疑いがあり、又は顧客等が特定業務に関し組織的犯罪処罰法第十条 の罪若しくは麻薬特例法第六条 の罪に当たる行為を行っている疑いがあると認められる場合においては、速やかに、政令で定めるところにより、政令で定める事項を行政庁に届け出なければならない。

2  特定事業者(その役員及び使用人を含む。)は、前項の規定による届出(以下「疑わしい取引の届出」という。)を行おうとすること又は行ったことを当該疑わしい取引の届出に係る顧客等又はその者の関係者に漏らしてはならない。


(以下略)


この届出を行うということは、捜査機関が捜査をするということを前提としているわけだ。楽天銀行では、犯罪利用が膨大に存在する、ということなのか?だとすると、口座開設時の、審査に問題があったということであって、楽天銀行の監督はどうなっているのかということになるわな。


『組織的な犯罪の処罰及び犯罪収益の規制等に関する法律 』で没収する場合であっても、手続は法に規定される通りに実施する必要がある。基本的には裁判所命令が必要。

なので、楽天銀行が口座凍結というか、取引停止を実行しているのは、どういう権限なのかはよく分からない。



4)民法上ではどうなのか?


一般的に、預金は消費寄託契約と言われるので、その規定となる。


(消費寄託)
○第六百六十六条  
第五節(消費貸借)の規定は、受寄者が契約により寄託物を消費することができる場合について準用する。

2  前項において準用する第五百九十一条第一項の規定にかかわらず、前項の契約に返還の時期を定めなかったときは、寄託者は、いつでも返還を請求することができる。



いつでも返還請求できる、となっており、返還がどの程度遅延しても許されるか、というのは不明である。ただ、一般的な取引慣行上、銀行預金の払い戻しが一定の営業時間内に行われてきたのであるから、その取引慣行に従わない場合には、その合理的理由がなければおかしいだろう。


はっきり言えば、楽天銀行の措置は、意味不明であり、対応が杜撰であるとしか思われない。
届出義務があっても、それは当該口座の完全取引停止を意味するものではなかろう。ATM取引や少額取引など除外されうる場合もあるかもしれないのに、それも不可とは理解に苦しむ。


例えば銀行側の運用上の都合で、払い戻しが停止されているのではないかと勘繰られたら、返答に困るだろう。

このような銀行を野放しにしておく金融庁も、どうなっているのか。
政府の産業競争力会議の一員だから手加減でもしているのかと金融庁が責められるのではないか?


こんな銀行は初めて見たわ。



続・イエメンを巡る代理戦争~日本のスーダン支援という奇怪

2015年09月27日 12時03分37秒 | 外交問題
昨日の記事で、イエメンへの軍事介入を宣言した国々有志10カ国連合軍には、スーダンが含まれていたと書いた。
スーダンには、スーダンなりの事情というものがあるのであろう、とは思う。

具体的には、エジプトやサウジ他GCC諸国などから加わってくれと言われたら、政策上は従わざるを得ない、といった事情である。
自国内ですら不安定かつ経済力が乏しいというのに、戦争に加担して何の益があるのか、ということになるわけだが、金か利益になるからこそ、イエメン攻撃に参加したい、と言うに決まっているのだよ。


外務省の情報は、以下の通り。

>http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/sudan/data.html#section1



ここから分かることは、少なくともスーダンは国際社会から厳しく糾弾されてきた立場である、ということだ。自衛隊のPKOにしても、南スーダンの状況は悪いということが言われていたわけである。隣国が火薬庫になっているのに、遠く離れたイエメンへの攻撃参加というのがどういう意味なのか、お考えいただきたいということである。


スーダンは、

・米国による経済制裁を96年、06年に受けている
・09年にICCが逮捕状
・11年に南部スーダンの「住民投票の結果」を受けて分離独立が決まる

ということであった。


日本は、安倍政権以後、13年、14年、15年のいずれも2月補正予算で(恐らく予算消化を優先したい、とかいうお役所主義の結果か?)人道支援の名目で合計約8400万ドルが拠出された。

上で見てきたように、隣国(それも元統一国の一部だった地域だ)が戦乱が続いている中、自国内ですら不安定なのに、他国の戦場に出かけて行きたいということは、普通では考え難いわけだ。特別の事情でもない限り、そんな余裕があるはずもない。戦費負担はどうするのだ?

他国から支援を受けないとやっていけない状況なのに、戦争にだけは加担した、と。そういうことなんだよ。


そもそも米国が経済制裁を課してきた国に対して、どうしてスーダンにだけは甘いのだろうか?
普通、日本政府が金銭的に支援するというのは、おかしいんじゃないか、と思いませんか?
8400万ドルは、どういう経路で、何に使われたのだ?


13年2月には、WFP3億円、NGOに約6300万円、15年2月には、WFP3.9億円、NGOに約3800万円だけだ。
合計すると、約8億円にしかならない。ドル円が平均100円だったとしても、84億円のうち10%程度しか、分からない。人道支援で14年2月にはどこに金が流れたのだ?


米国が制裁対象国にした場合、日本は常々右へ倣えでやってきたんだわ。イランへの制裁だって、外為法違反とかで国内企業を摘発してたりしただろう?それなのに、スーダンにだけは、こんなに甘いってのが、どうも裏があるんじゃないですかと勘繰りたくなるわけだ。


イランの場合

12年3月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d1910c7bfd12726e0272bb15c3a90cbd

勿論、この後に実施されたインドのICBM発射実験は、何らの問題にもされず制裁も課されなかったけどな。


日本が人道支援と称して、スーダンに金を入れ、その隣国には自衛隊を送り込む、と。
犯罪人の国家を支援するという謎。


そのスーダンは10カ国有志連合としてイエメンに攻撃参加を表明する、と。


こうして戦乱ビジネスは、回ってゆくということなんだよ。
シリアへの攻撃は、こうした紛争・戦乱ビジネスの「市場」開拓の一部でしかない、ということだ。



シリアの破壊と混乱は、こうしてもたらされた。


13年8月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/963d763211363121dddbc96208d3cf6c

13年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/808b0173b976212af4c721c37b261b46

13年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/dd3c160cfc9a245c383c731fd6ccb663

13年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b97676ce70276f2fa13a664b7f6d7ddd



この次は、イスラム国かイエメンでやりたい、ということで、今、やってる最中と。


ああ、それと、ちょっと追加だけど、南スーダンの分離独立の根拠なしたのは、住民投票の結果である、自決主義的な決定を尊重したもの、ということでしょうかね。そうすると、クリミアでの住民投票結果を何故否定できたのか、南スーダンは良くて、クリミアはダメというのも、理屈としては変だよね、という話になるかも。


>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/2b9634a2f71c93f179285b56d034b1d0


要するに、時と場合で、屁理屈を都合よく使い分けている、というのが実情なのでは。



イエメンを巡る代理戦争~「中東紛争を欲す」のは誰か

2015年09月26日 17時56分51秒 | 外交問題
現在も混乱が続くイエメン情勢であるが、その遠因が米国の仕業であったということは以前にも書いた。

10年1月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/de846af652d19a46c5d98041c79f5095


その約2年後には、国内の混乱収拾の為、サレハ大統領が追われることになった。


■サレハ大統領、GCC調停案に同意し退陣
11年11月>http://www.asahi.com/special/meastdemo/TKY201111230580.html


後任に座ったのはハディ副大統領で、この交代劇を主導したのはサウジ(形式的にはGCC諸国)だった。
これはまるで、かつての「三国干渉」の如く、外国の圧力によりサレハが排除されたということである。だが、混乱は一層酷くなり、政府軍、フーシ派、アルカイダの三つ巴戦となっている。幕府軍、薩摩、長州のような戦乱と似ている。


「イスラム国」騒動で戦乱を狙った米軍は行き詰まり、今後に米軍が戦争を主導するのは目立ち過ぎることと戦費がかさむということで、イエメン紛争は代理諸国へと役割が移された。


■米軍撤退
3月22日>http://www.cnn.co.jp/world/35062103.html


■ハディ暫定政権支持の議長声明
3月23日>http://www.news24.jp/articles/2015/03/23/10271532.html

混乱が拡大する中東・イエメンについて、国連の安全保障理事会は22日、緊急会合を開き、政権の掌握を宣言したイスラム教シーア派系の反体制派を非難する議長声明を全会一致で採択した。
 イエメンでは先月、シーア派系の反体制派武装勢力が首都・サヌアを掌握したが、ハディ大統領が南部の都市・アデンに逃れて徹底的に抵抗する意向を表明するなど混乱が拡大し、内戦に陥る懸念が指摘されている。AP通信によると、反体制派は22日、南部の都市・タイズを制圧し、抵抗する住民たちと衝突、1人が死亡した。
 混乱の拡大を受け、国連安保理は22日緊急の会合を開き、ハディ大統領の正当性を支持するとした上で、全ての当事者が解決に向けて話しあうよう促す議長声明を全会一致で採択した。


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議長声明のすぐ後、サウジアラビアが中心となって、10カ国有志連合が発表されるに至ったわけである。

■サウジアラビアの声明
3月25日>http://www.saudiembassy.net/press-releases/press03251501.aspx
(これについては後述する)



拳を振り上げたものの、若干の問題が残ったままになった。安保理決議は採択されなかった。

■安保理継続協議
4月4日>http://www.asahi.com/articles/ASH453FRXH45UHBI00F.html


また、10カ国有志連合軍のうち、パキスタン軍は派兵を国会が承認せず、空爆も参加する見込みはないだろう。サウジアラビアの国土防衛には協力するが、イエメン国内への攻撃は辞退する、ということだった。

■パキスタン軍、派兵拒否
4月11日>http://mainichi.jp/shimen/news/20150411ddm007030102000c.html



イエメンへの有志国連合軍の攻撃は、シリア情勢と似たものとなっている。今年2月の拙ブログ記事に書いたものを実行したかのようですね。

2月13日>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/9bd2212390f5f52161566e6f0483925d

(再掲)
革命軍B(イスラム国)が報道で言うようにテロであり犯罪者集団ならば、正統政府軍がこれを掃討すべきであり、政府軍が外国軍に鎮圧の加勢を頼む=条約や協定締結なら、その行為は治安維持(叛乱や暴動鎮圧)であって戦争ではないし、集団的自衛権行使の対象とはなり得ない(=安倍政権の政府答弁はおかしい)。



イエメンの場合だと、

・ハディ大統領暫定政権を正統政府とみなす
・反政府のフーシ派勢力とアルカイダ&ISILの掃討が必要
・外国軍に加勢を頼む

ということで、外国軍に該当するのが10カ国有志連合軍となる。


前記のサウジ声明文を一部引用する。

In a letter, dated March 24, 2015, President Hadi requested, based on the principle of self-defense, enshrined in Article 51 of the U.N. Charter, as well as in the Arab League charter’s collective defense mechanism, a request for immediate support – by all means necessary – including military intervention to protect Yemen and its people from the continued Houthi aggression and to support it in fighting al Qaeda and ISIL.”

“Based on the appeal from President Hadi, and based on the Kingdom’s responsibility to Yemen and its people, the Kingdom of Saudi Arabia, along with its allies within the GCC and outside the GCC, launched military operations in support of the people of Yemen and their legitimate government.”



これによると、ハディ政権と国家としてのイエメンによる支援要請の存在は確認できるだろう。また、51条の個別的自衛権とアラブ連盟の集団的防衛メカニズムに言及されており、10カ国が集団的自衛権によるイエメンでの軍事行動ではないと認識しているだろう。


同盟国の列挙が、GCC諸国と非GCC国となっているが、これについてもやや疑問点があるものと思う。以下にそれらを。


①国連憲章8章は適用されていない

イエメンの個別的自衛権行使は問題ない。暫定政府の正統性が問題にはなるが、形式的にはギリギリ安保理議長声明でどうにか保たれているのかもしれない(国際司法の判断は分かりません)。
けれども、52条の地域的取極と53条1項の強制行動は、認定されていない。

アラブ連盟による軍事行動が正当化されるとして、21カ国の合意(例えば軍事委員会での正式決定)があるのかどうか。
アラブ連盟域外国のパキスタンが入っているのはおかしい、ということになる(後日離脱しているので、現在は9カ国なのかもしれない)。GCC国と言いながら、6カ国全部ではなく、オマーンは離脱している。これについても、GCC内での合意決定があるのかどうか。更には、安保理での許可が得られていない強制行動はとることができない。

ボスニア紛争やコソボ紛争時のNATO軍のような「風味」を醸し出したかったのかもしれないが、安保理での決議が得られていない以上、合法の強制行動ではない。


②自衛権だけで有志国の軍事行動は認められるのか?

国連憲章8章の適用外であると、例えばアラブ連盟の相互防衛協定の根拠だけでイエメン内戦に軍事介入できるのであろうか?
それとも、有志国の集団的自衛権行使が正当化できるのか?

もしも集団的自衛権を根拠とするなら、声明文には最初からそのように発表するだろう。けれども、恐らくはその主張は困難であるとの認識の下、地域的機関(アラブ連盟)を挙げてきたものと思われる。8章での行動を予定していたものの、安保理協議が中に浮いてしまい、合法性の担保はないまま軍事作戦に踏み切ったものと思われる。外見的には、内政干渉というか、内戦への軍事介入と呼ぶものでしかないだろう。

因みに、オマーンを除くGCC5カ国以外の国は、エジプト、ヨルダン、モロッコ、スーダン、パキスタンであった。


これまでは米軍がやってたのを、サウジ他が肩代わりしましたよ、という体裁であろう。代理戦争であろうとも、弾薬や爆弾やミサイルなどは消耗し在庫が減るということなのだから。
願わくば、シリア領内で地上戦を派手にやりたい、ということだったのでしょう。それが予定変更(規模縮小)となったわけだな。テロとの戦いと称して、以前よりも増して酷くなってしまったということである。



日本語は、やっぱり難しいな…

2015年09月25日 14時52分22秒 | 俺のそれ
大した話ではないんだが。


先日、文化庁の調査とかで、『枯れ木も山のにぎわい』の用例についてニュースがあった。

>http://b.hatena.ne.jp/entry/www3.nhk.or.jp/news/html/20150921/k10010243611000.html



で、自分でも、ブログ内で書いた記憶があって、探したらあったわ。

06年2月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/10dee76b18a07942664f235d325b731d


コメント欄で書いてた。

『公務員にはわからんだろうな。』への返答として。
僕は公務員じゃないし、一度もなったことがないって、以前から言ってるよ。まあ、ウチの寂れブログではコメントが少なめなので、思わず返答に用いてしまった、ということだったのではなかろうか、と。当時の自分が分かるわけではないけど(笑)。



話がズレるが、今朝の読売のコラムで、「馬車馬」「独楽鼠」の用法があって、その誤用例で「狛犬のように働く」というのが取り上げられていた。

そういえば、独楽犬って記憶があったので、探したら発見できた。


04年>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/247d0dca4b90913b7ea2e005aa8855d2

08年>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cfe50e29352830dd1896ac647ad5574c



ネームに用いるのは、意図的なものもあるから、遊び心ということで。




続・リフレ?一派の暗黒史

2015年09月21日 23時39分18秒 | 経済関連
最近来日されたらしく、ちょっと話題になっていたようなので。


via >https://twitter.com/shavetail/status/645712598051090432


>http://d.hatena.ne.jp/himaginary/20150921/japans_economy_crippled_by_caution

(一部引用)


これまでの疑わしい達成結果について驚くべきは、実際にはデフレと闘う絶対確実な方法が存在する、ということにある。即ち、紙幣を印刷する際、それを資産を買うのに使うのではなく、モノを買うのに使う、ということである。つまり、輪転機で支払われる財政赤字を計上せよ、ということだ。
お好みとあらば、中央銀行が古い債務を買い上げる一方で新しい債務を発行することにより、赤字財政を洗い替えすることもできる。経済学的にはそれは何ら違いをもたらさない。
しかし誰もこの明白なことをしようとはしない。むしろ世界中の先進国の政府は、財政緊縮策に取り組んでいて、中央銀行が経済の梃入れを図っている中、却って自らの経済を押し下げている。安倍氏は世界の大部分の政権よりは非伝統的であったが、彼でさえ、無分別な増税によって自分の政策プランを後退させてしまった。



=======


クルーグマンの論説で、紙幣印刷でモノを買う、の例示があったようである。
これは、拙ブログでも、既に書いたことがあるのをご記憶の方もおられるかもしれない。


13年3月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6890b766733008cae666b26deca52197


安倍政権誕生直後、アベノミクスで吹き上がっていた連中が大挙して観察された時期である。黒田日銀も発足したばかりで、「りふれは」達は勝利を誇り、期待感を膨らませていた時だ。


当時、拙ブログには次のように書いた。

(再掲)


③財政政策批判はどこまで妥当なのか?

金融政策の重要性を説くことは別にいい。だが、リフレ原理主義的な連中というのは、まるで「やること自体が間違い」みたいに決めつけるわけだが、本当に検討した結果なのだろうか?

また例で考えてみよう。
有名な「ヘリマネ」という話があるだろう。お金をヘリコプターから播けばいい、という思考実験的な喩え話だ。バーナンキ背理法なんかにも通じる話である。

これには必ず言外の前提というものがあるはずだ。
それはどういうことか?
「もらったお金を人々が使うであろう」
というものである。


木の葉が降ってきたら、どうするか?
箒で掃いて、ゴミ袋なんかに入れてしまうだろう。そう、そのまんま、だ。燃やしてしまう人もいるかもしれないが、木の葉を店に持って行って支払う人はいないだろう。
では、お金が降ってきたら?(笑)
まあ、普通は使ってしまう。だけど「お金の量を増やせば、物価が上がる」という直結状態ではない、という場合が存在する、ということを考慮しておく必要があるはずだろう、ということを言っているのである。


お金を貰った人がきっと使ってしまう、そういう暗黙の了解が存在していないと、ヘリマネの議論は成り立たないし、バーナンキ背理法も同じく通用しないだろう。お金を受け取った人が、ポリ袋に入れて木の葉の如く退蔵しているとか、お財布か貯金箱に入れたまんまでどこにも使わなかった場合、物価は上昇しない。だから、単純にベースマネーを増やして、日銀金庫に大量の眠らせてあっても、世の中の資金量(循環)には殆ど影響を与えない、ということがあり得るだろう、ということに注意する必要があるのではないか、と言っているのである。


「貰ったお金は必ず何かに使う」という前提が必要なのである。
お金を貰って使う立場が誰か、ということで場合分けができる。
政府が使えば、公共事業なんかの様々な政府支出となる。一般の個人が使う場合には、減税、給付金、医療費補助や生活保護費等々になるだろう。企業が使う場合というのは、法人税減税、研究開発費等補助金、中小企業対策費などである。日銀が使う(というのが妥当な表現かどうかは不明だが)場合には、各種資産買入ということになる。


ヘリマネは大袈裟な表現ではあるものの、具体的政策として考えるなら定額給付金に近いもの、ということになるだろう。そして、通常は「使わずにはいられない」ということであり、何か食べるとか買うということで、使えば需要増大が起こる。そのことがデフレ圧力を改善するはずだ。しかし、誰一人全く使うことなく保管されてしまうと「貨幣供給は増大したのに物価は不変」ということになる。


従って、お金を使う経路、というのがどういうものになるか、というのは考える必要があるはずなのだ。財政政策なしでいいという場合には、政府、個人、企業が使う立場になることを否定するわけであり、その場合には日銀が資産購入に充てるよりない、ということになってしまう


========


盲信してた人たちは、経済学の御旗を掲げて、財政政策を徹底的に否定していたのではなかったか。
マンデルフレミングモデルなんかを知らんのか、と罵倒し、クラウディングアウトや円高を招くから外需減で効果がないんじゃボケが、みたいな意見を言ってなかったか?

彼らは、以前よりはるかに円安になったのに、輸出苦戦をどう説明してくれるか、財政政策の意味をどう解釈するのか、聞いてみたいものだね。


クルーグマン先生のご意見は、当方の発想とはそう遠くないようにも思えますが、うぬぼれでした、すみません。


「りふれは」は過去の反省会をやったのかな?
何が妥当性が高く、何が悪かったか、どうして言わないのだね?


自分たちの言説を振り返ることがなく、反省の弁もなく、主張の変更宣言もないとなれば、ただの狂信集団であったということになりかねないのでは?


まあ、彼らの言い分というのは、学問ではない、ということなのかもしれないね。
無能な経済学部とか、ホント無駄ではないかと小言を言いたくはないが、かなり危ないわな。まさしく存立危機事態w


参考:http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fc25e12cbdfd9f782b223b9d4213527c



憲法9条に関する私見~3・自衛隊について

2015年09月17日 14時16分32秒 | 法関係
シリーズ最初の記事で、自衛隊については後述すると言っていましたが、今回はそれについて書いておきたいと思います。

過去の法学研究の中で、自衛隊論や9条解釈を巡っては、何冊も本が書けるほどに議論されてきたことは周知の事実でしょう。既に諸説が出尽くしてきたものと思いますし、それぞれの利点、欠点のような部分についても学界内で批判が繰り返されてきたものと思います。ですので、当方が何か新説を出せるわけではありませんが、あくまで当方の理解というか、基本的考え方について述べておきたいと思います。


拙ブログでは、自衛隊合憲説を採用すると言いましたけれども、その主な理由としては、大雑把に次の3点を挙げました。

・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない


これらの説明も含めて、自衛隊合憲説について書いてみたいと思います。


1)個別的自衛権は認められる

砂川判決においては、次のように示された。
『わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと』

『憲法9条の趣旨に即して同条2項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条1項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条 2項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうもの』

本最高裁判決より後年に改定された1960年安保条約の前文においても、個別的・集団的自衛権を有することは確認されています。
集団的自衛権が果たして国家固有の権利と言えるかどうかは別として、本来的な意味における自衛権(個別的自衛権)は否定されないと考えられてきたものと思います。


イラク戦争の際に、空自の行為が違憲と言われた名古屋高裁判決でも、自衛隊の存在自体が違憲であるとされたものではありません。
08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/59e81c56baa9f00d9d3cc4367332ccb0


2)必要最小限度の実力組織≠戦力

9条1項が禁じているのは、「国際紛争解決手段としての」
 戦争(=侵略戦争)
 武力による威嚇
 武力の行使
であり、相手国に侵略戦争を仕掛けられた時に反撃できるという武力行使、すなわち個別的自衛権の発動が禁じられているものではないでしょう。

2項でいう「陸海空軍その他戦力」とは、砂川判決で示された「侵略戦争」を実行できないようにする為に「保持しない」ということであり、警察官もピストルを持っちゃいかんのか、というような話にはならないでしょう、ということです。

自衛の為の武装は、どのくらいなら許されるのか?
自動小銃は?RPGは?船搭載の20mm機関砲は?……
これは、時代によって変わるから分からない、ということでした。ただ、戦略爆撃機や空母や核ミサイルのようなものは、認められないと例示されてきたわけです。あくまで程度問題ということでしょう。
竹やり部隊でも戦力と呼べるし、北朝鮮広報ビデオの如き徒手空拳の超人的兵士にしても、「戦力」と言うならそうかもしれません。


日本では、過去に行ってきたような侵略戦争を諸外国に行わないんだ、ということと、「わが身を守る」必要最小限の実力組織として自衛隊の存在が認められてきたものです。


完全無防備でもいいのではないか、とする意見があることも承知しています。ただ、日本国内でも「誰でもよかった」として殺戮が無差別に実行されたりすることがあります。普通の人たちなら犯罪が利害得失から見て不利益が大きいと容易に判断できるのに、敢えて合理的判断を無視して犯罪をやってくる人たちは後を絶たないわけです。
そういう人が全くいない社会なら、警察がいなくてもある程度大丈夫かもしれませんが、人間は過ちを犯すものだということのようです。そう考えると、世界のどこかの国が、偶然にも狂犬みたいな無謀な指導者によって侵略戦争を企てないとも限りません。
これについては、訓練を受けていない一般の人たちでは対抗しようがないのです。ヤクザものやチンピラなんかが一般人に暴力を振るったり、銃撃したりすると、私たちのような普通の人であろうと、最高裁判事であろうと、大臣だろうと、「止められない、止めようがない」ということなのです。警察が必要だというのは、そういうことです。

必要最小限度において、身を守る為の実力組織を用意することはやむを得ないのではないか、というのが拙ブログでの考え方です。


3)過去の非自民政権でも廃止されてない

過去において、自衛隊違憲論というのは設立当初からずっと存在し続けてきたわけです。裁判所が決定打となる判決を出さなかったということもありますし、法学の世界においても諸説存在してきたもので、「たった一つの正しい答え」のようなものは、実のところ誰にも分からなかった、と当方は理解しています。

自民党の長期与党時代が長かったわけですが、自衛隊違憲論や安保違憲論を唱えていた政党政治家たちが野党には存在していました。政権を獲れなかったから自衛隊廃止が実現できなかった、という言い訳は使えていたのかもしれません。

一方で、細川内閣、村山内閣、最近では民主党政権時代と、自民党以外から総理大臣を送れたことがあったわけですが、その際にも自衛隊廃止論というのは主要な政治課題となることはありませんでした。


それは、当時の政権の選択としてもそうですし、国民側からの「自衛隊を廃止してほしい」という政策実現の要望は皆無に等しかったのではないか、ということです。国民の選択結果として、自衛隊廃止を熱望したりはしてこなかった、ということではないかと思います。あの福島みずほ議員でさえ、大臣になって入閣したわけですが、いくら昔に自衛隊反対を唱えていても現実の政策として実行したりはしなかったということです。


結果論的には、大多数の国民が望んでいたわけではなさそう、ということです。自衛隊の存続は、あくまで国民の選択結果である、ということです。これは、統治行為論を掲げてきた裁判所の判断に照らせば、合憲と見做さざるを得ないということになりましょう。



4)9条解釈、自衛隊の違憲問題は戦後史の産物

ご存じの通り、自衛隊は当初より自衛隊ではありませんでした。警察予備隊、保安隊、と名称を変えて誕生してきました。近年、防衛庁から防衛省へと昇格も果たしたわけです。

昭和20年代ですと、国会においても、再軍備についての議論というのは存在していました。今は軍隊を持たないといっても、将来時点では改憲して軍備すべきだという発想の議員さんたちは、そこそこ存在していたということです。戦前生まれは大勢いましたから。


警察予備隊は当初、警察権拡大という名目で作られたわけですが、米国の都合が押し付けられただけでした。保安隊になったのも、そうです。
事実上の占領統治下にあり、主権回復もまだの日本においては、拒否できる権限などなかったということでしょう。米国からの武器供与を受けるのも、自衛隊の装備拡充も、日本国民が積極的に政策として望んだというものではなく、あくまで米国の指令に従って、言われるがままに受け入れてきてしまった、ということなのです。


ここに、合憲か違憲かという争いの種が生じてしまったわけです。米国から命じられると、これを覆せるだけの政治力が昭和20~30年代の日本には、備わっていなかったのだということだろうと思います。
いかに現代から見て「違憲のものなのに、作った昔のヤツラが悪い」などと言ってみたとしても、当時の人々にはそれしか選択の余地がなかったのだろうということなのです。そんなに理屈通りに物事が進められるなら、誰も苦労はしませんよね。種々の矛盾を抱えたままでどうにかせねばならなかったからこそ、苦しんできたわけで。

こうした過去の政府なり日本国民がやってきたことなりを、自分の言い分でもないのに受け入れねばならないのです。当方には、当時に選択権さえなかったわけで(生まれてないから無理だ)、たとえ不本意な結果でも受け入れざるを得ないということです。どんなに過去の理屈が気に入らず、現時点において「ちょっと無理がある説明だろ」と感じようとも、現実にそうなってしまっているわけですから。過去の政府を、今の自分が選べるわけではないということです。


結局、「米国に逆らえない」「米国に命じられたから作った」「米国に言われるがままに軍備を持った」というような、国家間の力関係が反映された結果、日本国憲法よりも「別の何か」を尊重・優先するようになってしまったのだ、ということでしょう。

そして、そうした傾向は今でも続いているのだ、ということです。現在の日本の政治状況を見ても、あまり変わっていないということです。

そのような日本国政府だから、信じることができない、ということでもあります。例えば英仏独のような軍隊を持たせたとして、きちんと管理・運用・制御できるとは思えないのが、日本の政治家なのです。
これは、原発事故の対処を見ても一目瞭然です。前から言ってるけど。
12年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7e8ac77dd6ec39eef54e313ccf406772



要するに、「米国には従わざるを得ない」という逃げをこれまで同様に認めてしまうことになるので、いつまで経っても解決が困難ということなんだろうと思います。自分たちの問題は自分たちが解決できる、という基本的姿勢が司法・行政・立法全部にあったのなら、とっくの昔に違憲問題など解決ができていたことでしょう。

日本は、そういう国ではなかった。
未熟な民主主義しかなかった。
これから、変えていけるかもしれないし、ダメかもしれない。


やはり、国民の選択の問題なのです。
自分はどんな社会にしたいか、どんな国を目指しているか。



憲法9条に関する私見~2

2015年09月16日 11時48分17秒 | 法関係
続きです。


今回の重要な論点の一つが、政府が憲法解釈を変更することができるのか、という点でしょう。


現在までの日本の政治体制で考えると、憲法その他法令解釈の変更はできるものと思われます。ただし、そこには無条件にどのような解釈も或は解釈変更も認められるということではないでしょう。

昨日取り上げた答弁書中にもあった通り、『憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきもの』であって、『国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではない』。
『中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならない』とするのが、従前の政府見解であり、当方もそのように考えるべきであると思います。


例えば最高裁判例についてみれば、時代の変化に応じて判例変更がなされるということはあり得るし、現実にそうした判例変更が行われてきました。かつては合法だったものが違法とか、その逆もあるとはどういうことなんだ、と。法が永遠に変化しないものでない、ということでしょう。ただ、変更の瞬間というのはあるわけで、その際の逆転現象のようなものは、非常に大きな変化と見えるでしょう。
そうであるが故に、大法廷での判例変更ということになりますし、変更に至った理由や論理について、最高裁が説明を尽くすわけです。その議論の過程や検討課題も含めて、裁判官の補足意見も全部付けて示されるわけです。


そういった「変更」の根拠、理由、必要性などを、過程も含めて説明しないと、多くの人は納得・理解できないからですね。ですから、法解釈が変更されうる、というのは当然のことでもありますし、憲法解釈変更が決して許されないというものではないということです。


元々、拙ブログでは最高裁判決についてでさえ、数々の批判をしてきました。裏を返せば、最高裁判決が司法判断の最終解であるということは認めてはいるものの、その論理には批判されるべき点は多々あると思っているし、当方から見て妥当性が必ずしも高いとは思えないものもあると考えているということです。例えば、以下のような記事です。


最高裁判決への批判した記事

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/509b563a19d8666854674bfce8baacab

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7ba6028750bbe31e7bb3c5a609ca3bbd

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5680abe732d9633c5570a5bbee445caa


なので、最高裁がこう言ったから正しいと自分も考える、という単純なものではありません。最高裁に対してでさえ、こうなのですから、これが行政府の行う法令解釈について、全幅の信頼を置いているかというと、そうとは限らないでしょう。対立見解を支持することも多々あります。


そうであるなら、どうして従前の政府見解を採用するのか、という非難があるかもしれません。最高裁だけじゃなく行政府の法令解釈を信頼していない人間が、集団的自衛権行使は違憲であるとする従来説を信じるのはおかしいのではないか、と。

確かに、そうかもしれません。
が、当方からの評価は、そうならざるを得ないということなのです。


最高裁が自衛隊の存在や集団的自衛権行使が合憲か否かについて、判決を出せるということは現実的ではありません。ブランダイス・ルールのような原則が全く無視されてよいということでもないわけです。即ち、司法判断を仰げる機会は、殆ど無きに等しいということです。ならば、どうしたらよいのだろうか。


政府が提示する法令解釈と国権の最高機関たる国会での議論を、ある程度重視するよりないわけです。それが内閣法制局答弁書に示された内容ということでもあります。また、砂川事件の判決で述べられた『終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきもの』ということになるわけです。


在日米軍が違憲や否や、という論点に限らず、政治全般については、そのように考えざるを得ないということです。国民の批判、これしかないのだということになるわけです。


これは、最高裁判決についても同じであると考えます。
つまりは、法令解釈、憲法解釈というものは、主権者の国民からの批判に耐えうるものでなければならず、批判を仰ぐ上では判例変更のような「明示的に議論の全てが説明される」必要があるということです。政府の解釈変更でも同様でありましょう。


そして、今回のような憲法解釈変更によって大きな変化がもたらされるであろうと、国民が考えるのであれば、手続としては「憲法改正」か、より説得的な議論や説明がなされて当然であるということです。憲法改正に匹敵するような変化なのかどうか、その重要度についての評価は、あくまで主権者たる国民が決めるべきことなのです。

総理が「この変更は大したものでない」とか、与党議員が「変更は許される、お前ら大衆はよくわかってないだけなんだ」とか、変化の大きさや重要度を国民の意見を無視して自分勝手に決めてよいというものではないはずです。この変更は重大だと多くの国民が考える以上、政府が「いやいや大した変更ではない」と否定できるものではないということです。


9条の解釈問題については、過去の国会での議論の積み重ねが長く、言ってみれば長期に渡り政治的批判に耐えてきた中で作り上げられてきた考え方です。洗練されているかどうかわかりませんが、鍛錬されてきたというようなことです。

政府見解は、警察予備隊から自衛隊に至る変遷も勿論あったですし、主権回復前後での議論も国際情勢が変化する中での議論により、若干の変更は行われてきたものです。そうではあるけれども、大多数の国民がその変更範囲については、政治的に認めてきたということでもあり、国民の許容する範囲内での政府の行動であったと言えなくもないわけです。


ところが、今回については、必ずしもそうではないかもしれない。国民が許容できる範囲であるとは思ってないようだ、と。
そのことは、今後の歴史が示すことになるのでしょう。



憲法9条に関する私見~1

2015年09月15日 22時24分14秒 | 法関係
いよいよ戦争法案の強行採決ないし衆院再議決が近づいていることであろう。現状のままであれば、国会で多数を占めるのは安倍支持派であろうから、成立は時間の問題ということになろう。これに対する抵抗手段となると、国民側からすればかなり限定的ということになろう。

ところで、政府案支持者たちからは、具体的合憲説の提示が少ないわけであるが、違憲説への批判が未だ止まないようだ。基本的には、日弁連の意見書で殆どの説明は出ているのであるから、政府案支持者たちが反論文書を提出すれば済む話である。

日弁連意見書
>http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150618.pdf


参考になるものとして、政府与党の想定している集団的自衛権行使の具体的事例というのは、次のような国会審議で示されている。

>https://www.jimin.jp/activity/colum/128047.html
小野寺議員の質疑である。

邦人救出・輸送中の米艦防護
『多数の日本人を退避させるために、アメリカ軍の輸送船などを共同でお願いし、輸送することになります。このことは、日米の防衛協力ガイドラインにも規定があります。これにより、米軍の輸送艦が日本人を含めた市民を輸送して、我が国に退避させることになります。』

『まだ日本が攻撃されていないという時点で、日本人を助けるために自衛隊の船が公海上において武力を行使したら、この行為は国際法上どのように判断をされるか、外務大臣にお伺いしたいと思います。』

(岸田文雄外務大臣)
『ただいま委員が示された例、すなわち、我が国への武力攻撃がない場合に、在留邦人を輸送している米艦艇が武力攻撃を受け、そして同艦艇を我が国が防護すること、こうした行為は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当すると考えられます。』


『もし、この自衛隊の宿営地の隣に位置する国連の事務所、NGOの事務所が武力集団に襲われた場合、そして、この国連の職員から、日本の自衛隊、助けてくれ、そのような要請があった場合、これは現実に起こり得ることだと思います。この場合、自衛隊員は武器を使用してこの国連職員を守ることができるのか、現行法制でできるのかどうかを防衛大臣に伺いたいと思います。』

(中谷防衛大臣)
『PKO活動というのは国連が実施をする平和維持活動でありまして、日本の自衛隊も二十年以上、この活動を実施してまいりました。小野寺大臣も現地の視察をされましたけれども、現行法では、御指摘のように、ともに現場に所在をしない国連の職員、またPKO活動に従事する者などから救援の要請を受けても、自衛隊が武器を使用してこれらの者を守ることができません。』

以前に拙ブログでも述べたが、想定事例がおかしいのであるが、そうであっても、必ずしも不可能なものでもないし、現行法においても例えばPKOでの自己の管理の下に入った者の生命・身体の防衛の為の武器使用は認められ得る。現場における「自己の管理の下」が、実際上不動であることの方がおかしい。こうした低レベルの議論は検討に値しないので、今はおいておく。


で、小倉弁護士のツイートを見てたら、次のようなものに遭遇した。

>https://twitter.com/kamatatylaw/status/643322507756335104

自衛隊合憲、集団的自衛権行使違憲を憲法の文言で基礎づけるのはネッシーを探すよりむつかしい


なるほど、現役の弁護士さんが従前の政府見解について、納得できない様子ということですか。今までの日本の政府、国会、与党政治家等々というのは、みんなしてネッシーをネッシーだと信じ込んできたのだ、と宣言しているに等しいですな。

当方は、「自衛隊合憲+集団的自衛権行使違憲」説を採用しており、これについての私見を述べておくことにする。というか、ほぼ過去の政府見解そのまんまというものですが。
憲法議論に関しては、現行の日本国憲法が制定されて以降、幾多の書物や議論が出ており、諸説あるのは勿論のこと、それぞれの流派?からの批判合戦となっていることは、凡そ理解している。それらの批判全部に耐えうる意見が出せるものではないが、現状での当方の理解として述べておくものである。



まず、自衛隊合憲、これについては後日細かく述べることとするが、基本的な路線としては、
・個別的自衛権の保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない
である。
言いたいことは、もうちょっとあるので、別記事で。


【参考例】2010年4月22日 政府答弁書

憲法第九条第二項は「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、同項で保持することが禁止されている「陸海空軍その他の戦力」には当たらない



次に、集団的自衛権の違憲性についての議論である。ここが、若干厄介ではある。
集団的自衛権が否定される理由は、政府見解では次のようになっていた。


1972年10月14日 参院 政府提出資料

平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない



それ以前の国会での議論や政府答弁においても、似たようなものが積み重なってきたわけであり、これ以後についても同様である。
9条2項の戦力、この部分は既に自衛隊合憲と述べた。


残りの「国の交戦権は、これを認めない。」であるが、この解釈がどうなのかということになる。


交戦権についての政府見解は次の通り。

【参考例】1985年9月27日 政府答弁書
憲法第九条第二項の「交戦権」とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であつて、このような意味の交戦権が否認されていると解している


憲法上の「交戦権」は、英語文献での表記が

 the right of belligerency of the state

だったそうです。
一般的な国際法であれば、
 belligerent right   または
 right of belligerent
というのが普通のようです。

恐らく、日本国憲法制定時での考え方というのは、従来からある「交戦国」と「交戦権」という定義か概念とは、若干異なるものであるということが認識されていたのかもしれません。日本の帝国議会議員たちがそう考えていたかどうかは、分かりませんが。


話がズレますが、諸外国の軍隊には、いわゆる交戦規定(ROE)というものがあります。
rules of engagement です。
これにはいくつかの段階があって、個人レベル、部隊レベル、国家レベルといった具合に、細かく規定があるのだそうです。
日本の憲法に言う交戦権は、これとは厳密には異なるわけですが、単なる「ことば」としての「交戦する権利ないし権限」を想像してしまうと、憲法解釈ができなくなるのではないかと思われます。

日本の憲法が禁じているのは、「国の交戦権」です。すなわちROEでの考え方に似て、自衛隊の構成員たる個人に対しては、別の観点からの検討がなされるべきではないか、ということが考えられます。端的に言えば、個人の自己防衛・自己保存的な権利、というようなことです。これは否定されていない、と考えるべきかと。

同時に、政府答弁にある通り、「国の交戦権」が国際法上では一般的に認められるであろう、国家が主張できる法的地位や権利というものが、日本の場合には「全部を無条件に肯定・認めているものではない」ということです。それが、2項後半の、「国の交戦権は、これを認めない」ということの意味合いではなかろうか、ということです。


そうすると、憲法上では、自衛権について、個別的と集団的の明文での区分がなされていないわけですが、少なくとも、日本の場合には「交戦国が保有するであろう国際法上の権利」が無条件には認められていない、ということですから、「100%のフルスペックでの自衛権行使」が具備されていると解することはできない、ということです。

では、その制限はどこにあるのか?範囲の限界はどう見るべきか?
極端に言うならば、0%だという主張もあり得るでしょう。その場合、一切の交戦が不可ということになります。無防備宣言とかノーガードということです。打たれるがまま、と。

しかしながら、国の交戦権が不可であっても、個人レベルではどうなのか?これが民衆蜂起といった水準に該当するものではないのか?
では、部隊(小集団)なら?
独立闘争の武装集団は、交戦団体として認められるでしょう。民族自決主義に倣えば、交戦権が必ずしも否定されていないのではないかと。更に、国の交戦権が個別的自衛権だけ容認されている(全体の何%と言うべきかは不明ですが)と解釈することはできるでしょう。
砂川判決でも、国家としての自衛は肯定されているものです。


つまり、2項でいう「国の交戦権」とは、その名の通りに、
  the right of belligerency of the state
であり、日本が本来国家として有するであろう国際法上の権利行使については、使えないように凍結されているというようなものです。

具体的に言えば、臨検、拿捕、占領、港湾や海上封鎖、軍政等々が「認められない(=国際法上の権利はあるが、凍結されていて使えない)」ということでしょう。


よって、専ら自国の防衛の為に実力行使をすることは、自己保存的権利として認容されている(個別的自衛権)としても、それを超える武力行使は認められないと解するべきでしょう。従前の政府見解で言うところの必要最小限度を超えている、と。他国防衛たる集団的自衛権は、認め難いでしょう。


侵略の定義に関する決議の3条(g)は次のようになっています。

上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与


日本の領域外で日本が行う武力行使が侵略行為に該当する可能性が出てくる、ということになります。集団的自衛権行使であると日本が主張・宣言したとしても、法的評価が侵略行為に該当する可能性があるような行為については、政策として取り得るものではないでしょう。


最後に、従前の政府見解がよく分かる答弁書を挙げておきたいと思います。


衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書

内閣衆質一五六第一一九号
  平成十五年七月十五日


一及び三について
 お尋ねの「政府の統一解釈・統一見解」とは、憲法を始めとする法令の解釈に関する政府の見解を指すものと考えられるところ、一般的に、憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきものである。政府による法令の解釈は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであり、御指摘のような国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えられる。中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。
 行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行うものであるが、内閣法制局は、内閣法制局設置法(昭和二十七年法律第二百五十二号)に基づき、「閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること」、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」等を所掌事務として内閣に置かれた機関であり、行政府による行政権の行使について、憲法を始めとする法令の解釈の一貫性や論理的整合性を保つとともに、法律による行政を確保する観点から、内閣等に対し意見を述べるなどしてきたものである。
 なお、御指摘の「武力行使との一体化」論とは、仮に自らは直接「武力の行使」をしていないとしても、他の者が行う「武力の行使」への関与の密接性等から、我が国も「武力の行使」をしたとの法的評価を受ける場合があり得るとするものであり、いわば憲法上の判断に関する当然の事理を述べたものである。これは、我が国の憲法が欧米諸国に例を見ない戦争の放棄等に関する第九条の規定を有することから生まれる解釈であり、「独りよがりの解釈となっている」との御指摘は当たらないと考える。
二の1及び4のアについて
 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
二の2のアについて
 我が国に対する武力攻撃が発生しこれを排除するため他に適当な手段がない場合に認められる必要最小限度の実力行使の具体的限度は、当該武力攻撃の規模、態様等に応ずるものであり、一概に述べることは困難である。
 憲法第九条の下で保持することが許容される「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度については、本来、そのときどきの国際情勢や科学技術等の諸条件によって左右される相対的な面を有することは否定し得えず、結局は、毎年度の予算等の審議を通じて、国民の代表である国会において判断されるほかないと考える。
 これらはいずれも、解釈によって示された「必要最小限」という規範に対する個別具体の事例の当てはめの問題であり、「内閣法制局は、法令解釈権を放棄した」との御指摘は当たらないと考える。

二の2のイについて
 憲法第九条第一項は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定し、さらに、同条第二項は、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。
 しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権や憲法第十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。
 我が国がこのような自衛のために行う実力の行使及び保持は、前記のように、一見すると実力の行使及び保持の一切を禁じているようにも見える憲法第九条の文言の下において例外的に認められるものである以上、当該急迫不正の事態を排除するために必要であるのみならず、そのための最小限度でもなければならないものであると考える。
二の3について
 「専守防衛」という用語は、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいうものであり、我が国の防衛の基本的な方針である。この用語は、国会における議論の中で累次用いられてきたものと承知している。
 政府は、従来から、「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、(中略)そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。」(衆議院内閣委員会鳩山内閣総理大臣答弁船田防衛庁長官代読、昭和三十一年二月二十九日)との見解を明らかにしてきており、石破防衛庁長官の平成十五年一月二十四日の衆議院予算委員会における答弁等は、このような従来の見解を繰り返し述べたものである。このような見解と、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめるなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう専守防衛の考え方とが、矛盾するとは考えていない。
 前記のように、専守防衛の考え方は憲法の精神にのっとったものであり、政府としては、これを変更することは考えていない。
二の4のイについて
 御指摘の事態については、自衛権発動の三要件が満たされないことから、これに対応するために我が国が自衛権を発動することはできない。
二の4のウについて
 お尋ねは、仮定の事実を前提とするものであるが、一般論として述べると、憲法第九条の下において自衛権の発動としての武力の行使が許されるのは、自衛権発動の三要件が満たされる場合に限られる。

信金口座開設拒否は「イスラム国」呼称問題が原因なのか~その後

2015年09月15日 10時56分56秒 | 社会全般
あれからどうなったのか気になっていたのですが。

イスラム国という呼称が問題にされて、それが差別的取扱を招いたんだ的な意見が見られたような。
で、『日本イスラーム圏友好協会』さんのHPは未だ探せないけど、口座はどこかの銀行に開設できたんでしょうか?

朝日新聞や産経新聞は、どうして後日談を検証して報道しないのかな?
名称のせいで口座が開設できなかったのなら、改善させなくてもいいんですか?それとも、放置ですか?(笑)



過去記事:

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/ed3270623f407b614c2fa00ab1693301

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/ffc29e20d37fd1c02cd11ca5dbba0898

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cd4c5183cbe337925a2e1e6c95de971f




当時の記事も載せますね。



>http://www.sankei.com/life/news/150302/lif1503020042-n1.html


静岡・沼津信金「イスラーム友好協会」名義の口座開設を拒否…「総合的に判断」

 沼津信用金庫(本店・沼津市)が任意団体「日本イスラーム圏友好協会」名義の普通預金口座開設を拒否していたことが2日、関係者への取材で分かった。

 口座開設を拒否されたのは、元大学講師で御殿場市の無職、斉藤力二朗(りきじろう)さん(66)。

 斉藤さんによると、2月24日に同信金上町支店(同市)に電話で同協会名義の口座を開設する申し込みをしたところ、担当者が開設を拒否した。理由について、「イスラムがいろいろと問題になっていることもあり、総合的に判断した」と説明されたという。

 斉藤さんは口座開設の目的について「メールマガジンの購読料などを管理するため」としており、「口座開設の拒否はイスラム全体への偏見で、大きな問題だ」と主張している。

 一方、同信金業務部の担当者は産経新聞の取材に対し、「任意団体の口座開設は不正利用を防止するため、通常電話で受け付けることはない。団体名に『イスラーム』が含まれていたことが拒否の理由ではなく、対応に問題はなかったと考えている」とコメントした。



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>http://www.asahi.com/articles/ASH2V64S9H2VUTPB01Q.html

団体名に「イスラム」、口座開けず 沼津信金が拒否
長尾大生2015年3月1日07時45分


 静岡県御殿場市の男性が、自ら立ち上げた任意団体「日本イスラーム圏友好協会」名義で沼津信用金庫(本店・静岡県沼津市)に口座を開設しようとしたところ、団体名に「イスラム」が含まれることを理由に断られた。男性は「『イスラムは怖い』という偏見そのもの」と話している。

 男性は斉藤力二朗さん(66)。エジプトのカイロ大卒で、中東系銀行の日本勤務のほか、日本の大学でアラビア語講師などを務めた。その後、10年前からイスラム圏の政治情勢や事件などについて、自らのブログなどに書いてきた。

 過激派組織「イスラム国」(IS)が日本人を殺害したとみられる事件が起き、その影響で「イスラムは怖い」という偏見が日本に広がっていると感じた。「正しい情報を発信したい」と1月に協会を設立。メールマガジン発行や講演会開催といった活動を始めるにあたり、資金管理用の口座を作ろうと、2月24日に沼津信金上町支店(御殿場市)に電話で相談すると、職員から「イスラムという名前が入った団体では口座は開けない」と言われたという。


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朝日新聞社の長尾記者は、何故『「イスラムは怖い」という偏見』について、検証しないのでしょう?他銀行で開設できて、当該信金だけが差別的取扱であったのなら、大きな問題なのではありませんか?
実際は、そうじゃなかった、ということですかね?
いい加減なんだね。新聞社って。



それから、朝日記事の記述で『10年前から~自らのブログなどに書いてきた』とあったので、探してみたんですが、以下のものしか発見できないわけですね。ブログと呼ぶのかどうか分かりませんが。


>http://www.nikkanberita.com/index.cgi?cat=writer&id=200503231648343



このページには特徴的なことがあるのですね。



基本的に、2009/08/02より以前のものとそれ以降のもの、ということです。例えば、09年最後の記事のタイトルはこれ。

『イラク抵抗勢力と米軍の協議はイラクに不利 アルジャジーラにみるアラブの世論』



次が、何故か2015年まで飛んでいるんですね。

御殿場で男女共同参画講座開催

この記事の日付が、3/5なんですよ。何と、拙ブログ記事(3月の過去記事)が投稿されていた日付よりも、後だということですね。10年前からブログ記事を書いてきた、と朝日の長尾記者の取材に答えたらしい「斉藤」さんが、09年来記事更新がなったのに、口座問題が発覚してから更新を開始した、ということですね。


しかも、特徴がまだあるんですね。
それは署名。

齊藤力二朗


というものと、


斉藤力二朗


とがある、ということです。09年以前の記事は前者のものしかないんですね。しかし、2015年以降の記事だけは、いくつか別署名が見られるわけです。

また、過去記事の数十本の記事は、全部中東関連かメディア論でもアルジャジーラとか日本国外の中東に関するものしかない、というのに、3/5の記事と、何故か昨日の記事だけは国内記事であり、それも「御殿場で」なのですよw。


御殿場でお母さん主体の「憲法学習会」



つまり、手口が似ている、ということ。発想の乏しい同一人物が御殿場での国内記事を作成しました、ということでしょうかね。
また、自分自身の署名が異なるというのは、通常では考え難いわけです。09年以前には統一的であったのに、何故か数年ぶりで更新が再開された2015年以降だと異なる「斉藤」が使われているわけですから。


これって、どういう理由が考えられると思いますか?ww

因みに、14日の午前0時半くらいに、この下書きを保存してから、9/14の記事が更新されたというのも、凄い偶然ですね。先回りが、アダとなった典型ですかな。手口が雑ですな。




対「イスラム国」宣伝戦のモデルケース?~その3

2015年09月14日 00時26分10秒 | 俺のそれ
ふと、自分の過去記事を目にして、その後どうしたのかググってみたよ。
すると、意外な結果が。


これの続きです。


15年2月

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1d2e81c50059a3f220f326367eed5635
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/c3943605f16aeab3a8ee1f6127c7bec5


2番目の記事で、名誉毀損か偽計業務妨害のレベルでヒドいと書いたのだが、その後、高橋教諭は石井孝明を本当に提訴してたんですと。

>http://togetter.com/li/811019

>http://danshi.gundari.info/sue-against-takaaki-ishii.html



石井孝明は、自分のブログ記事でスラップ訴訟だ、みたいに言ってたみたいですが、その記事が今では削除されており読めなくなっていますね。
何か月か粘ってみたという形跡もなく、数日くらいで、あっと言う間に示談へと変更したようですな。


まあ、勝てる見込みは皆無だったのでしょう。だって、酷いもんね。
石井孝明は、あっさりと白旗だったということですか。あんなに威勢よく煽っていたのにね。
職場にも電話しろ、って煽動するのは普通考えられないでしょう。


上毛新聞や夕刊フジも問題があったと言わざるを得ないですわな。
どういうコネクションが使われたのかは不明ですが。


ジャーナリストを名乗るなら、謝罪記事の掲載とか無かったんですかね。
何か、ビフォーアフターの落差が激しくて、笑えますね。

負けた時には口をモゴモゴ、みたいに歯切れが悪いってなことですかな。
お仲間が一人脱落したということで、彼らも残念に思っているんでしょうかね(笑)。



水災害と政策優先度のこと

2015年09月12日 10時25分36秒 | 社会全般
関東、東北などの広範囲で洪水、浸水等の水災害が発生してしまったようです。
被害に遭われた方々にお見舞い申し上げます。


こうした災害発生時には、いわゆる「犯人探し」といったようなことが行われるように思えます。
そのことは、原因究明で役立つものであればまだいいのですが、そうではなく別の目的や意図があってのことのように見えたりもします。


似ている傾向としては、事が起こってから文句を言うとか、「○○に責任がある」的な追及をする、ということです。そういう大事なことであったなら、どうしてもっと以前から指摘しておかなかったのか、と普通の人ならば思いませんか?


対策にはコストがかかります。
優先すべき順序があるものであり、効果の高いものから行われるべきであるということだと思います。だからといって、全部を防げるわけでもありませんし、費用の割に効果が乏しいものもあるでしょう。


それらは、実施と検証を繰り返す以外にはないように思えます。

そういう点からすると、防衛関連費用は、効果が乏しいにも関わらず、多額の費用を浪費しているとしか思われません。アパッチが何の役に立っているのか、と。MLRSが誰を救っているのか、と。無駄の象徴なんですよ。



話が逸れましたが、水害対策についての過去記事を挙げておきたいと思います。例の八ッ場ダム問題に関する記事です。


09年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/ffe8a1c52c6d99da7f1e6334de137fb2

(再掲)


ここで一つ、かなり厳しい質問をしてみたいと思います。
これから40年以内に集中豪雨による水災害が起こって、この流域に洪水が発生し、3人が死亡したとしよう。だが、ダムがあれば氾濫しなかったかもしれない。
この時に、「ダムに1千億円かかるよりも、3人死亡で済んだから、安上がりだった」と言えますか?
そういう覚悟で「ダムは無駄だから要らない」と言うべきだ、ということなんですよ。

仮に40年後に水災害が発生し、その被害額が3000億円になってしまうとして、これがダムがあれば防げるのであれば、現時点での1000億円投入は「無駄にはならない」かもしれない、ということを言っているんですよ。そういう将来時点での損失額をカバーできるかどうか、ということについて考える必要がありますよ、ということです。建設コストや維持管理に係るコストが発生するとしても、これから事業継続をした場合に必要となる金額が、将来時点で発生する水災害の被害・復旧コストよりも小さいのであれば、ダムの存在価値が「無駄になる」ということにはならないでしょう、ということを言っているのですよ。

更に言えば、将来時点で死亡する人の命の値段と、ダムのコストとの比較をせよ、ということを求められるわけですよ。
それが、本当にできていますか?
立ち退きを命じられる村々の人々は、多くがそういう苦渋の決断を迫られてきたのではありませんか?
「下流域の人々が洪水で死んだらどうするんだ、責任を取れるのか」ってね。
この時に、将来時点の失われる人命の重さを考えれば、ダム建設に反対するのは容易ではないわけなんですよ。ダムが無駄なんだ、2000億円の方が大事なんだ、という人々は、命の重さよりも「たった今、現在のお金の方を大事にしたい」と言っているのと同じなのだ、という自覚を持つことが必要ですよ。
このことの意味が、本当に判っていますか?


例えば平成16年に起こった新潟の水害は甚大な被害をもたらしました。数百億円、数千億円規模での被害額でした。それにもまして、尊い人命が失われました。中越地震災害も大きいものでしたが、水害だって決して甘いものではありませんでした。こうした被害を、ダムの存在がどの程度縮小できるのか、どのくらい防げるのか、ということは不確実な部分が多いので、正確に「金額に置き換える」というのが困難なのですよ。それでも、優先順位を定めて、できるだけ費用を圧縮できるように事業をスリム化せねばならない、ということなのです。

その為には、例えば単位時間当たり降水量の推定や条件設定による違い、流域・地域の耐性というか水増量に対する許容限度(?、正しくは何と言うか知りません)、下流域の経済規模や推定される損失額(水害を受けた場合に先端工場など地域産業にダメージが大きければ、防災対策の優先順位は上がる)、みたいなものを専門的に比較検討しない限りは、判定できるはずがないのです。他の水害対策では耐えられないのか、といったことも、一般人などに判るはずがないのです。

近年では、俗に「ゲリラ豪雨」と呼ばれる集中豪雨が問題にされますが、時間降水量が200mmで耐えられる治水対策なのか、それとも500mmに耐えられるようになっていなければマズい地域なのか、もっと許容限界を大きく取る為に24時間降水量を700mmくらいを想定すべきなのか等々、条件によって対策も優先順位も異なるでしょう、ということを言っているのです(数字は全くの適当です)。

こういう数字の検討や比較が、本当に出来ているのでしょうか?
これを理解して、「ムダなダム」と言っているのか、ということなんですよ。


=========


勿論、全部を防げるというものではないでしょう。
けれど、死亡者が発生したり、広範な被害が出てから、「~が悪かったんだ」といくら言ってみたところで時間は戻せないのです。大きな被害が出る以前から、考えてみるべきことなのではないか、ということです。


そして、事前に注意を促していたにも関わらず、適切な対処が取られなかったという場合には、事前に注意をしていた人からすると痛恨事となるでしょうから、文句の一つも言いたくなるかもしれないですよね。単なる犯人探しに終わらぬように、とは思います。




法学者は信頼に足るか?~自覚なき学者たち

2015年09月09日 09時08分13秒 | 法関係
憲法担当の法科大学院教授が問題漏洩事件でマスコミを賑わせているようだ。よりによって、話題の”憲法”担当教授とはね。当方は、思惑が働いていないと信じるほど、お人よしではないのですよ(笑)。

世の中、偉い人でも間違いを犯すことはあるから、そういう人もいるんだなということで、おいといて。


何が言いたいかというと、現役の大学教授であっても、本当に答案をきちんと書けるのかという疑義があるということです。


安念中大教授の記事を書いたことがある。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8da760d94d6e08b3bcd32f30c09ab5b5
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/47abaa3da2f8bd403eb50c75b593efcb
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/77a9b7a8c38a0b2586ffae141f394084


現役教授で弁護士の方が、素人以下の説明しかできないというのもどうなんだろうなと感じるわけです。答案の添削指導でも受けた方がよいのではないかと、思わないでもない。

その安念教授が反省の弁を述べていたらしい記事がこちら
>http://www.gepr.org/ja/contents/20150907-01/


安念教授曰く、
『行政機関に対して、理屈よりも「黄門様の御印籠」を振りかざすことを求めてやまないマスメディアの体質はさておくとしても、私自身も身を置く法律学者なる集団の無能・無責任も糾弾されて然るべきであろう。
法律上どこまでが行政機関に許される行為で、どこを超えると許されないかは、法令の綿密な解読という作業なくしては明らかにし得ないのであり、そこにこそ学者の本領があるはずだからである。自戒をこめて、そう痛感する。』
だそうです。


彼に必要だったことは、ド素人にいちいち指摘される以前に、まず己の説を他人に認めさせるべく「答案」の下書きでもやって、自己研鑽を積んだ後に原子力規制委員会の批判をすべきということだった。今更になって、法文を読んで考える、という時点で、専門家の立場として「終わってる」ということだ。
自戒を込めて痛感するのが、今なのか、ということだ。それで教授をよく名乗ってきたね、とは思う。もっと前から、弁護士資格をもらっている時点から、「法令の綿密な解読作業」をするのが当然なのであって、それでメシを食っているのではないのか、という話なのである。


そういうことを、「水戸黄門好き」の当方から指摘される前に、普通の学者ならば考え気づくべきであろうに。
『法律学者なる集団の無能・無責任も糾弾されて然るべき』との発言に至るまで、何年もかからねばならなかったのは、残念である。反省しないよりは、まだマシと呼べるのかもしれないが。


参考:
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/9414a13d01769c9505779098f736b605
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fadef836218ebfcb53feb5db1fb48bdc


安念教授におかれましては、『法律学者なる集団の無能・無責任』を改善すべく、努力をお願いしたく存じます。
学者さんが本来持つであろうはずの、優秀な能力を有用な方向に使っていただき、国民や後進のお役に立ててもらえれば幸いです。