いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

総務省の内紛?

2005年05月31日 17時27分39秒 | 政治って?
総務省の郵政行政局長が業者からもらったタクシーチケットを数枚使ったらしいということで、処分されることになったとのこと。しかも貰ったのが3年前。こんな細かい事はタレコミ以外、バレないよね?きっと追い落とし狙いとか内部の確執とかによる、内部告発情報なんじゃないのかな?先日の幹部更迭に続いて、新たな内部抗争の勃発なのでしょうか?よく分らんけど。


Yahoo!ニュース - 読売新聞 - タクシー券受け取り使用、総務省局長を処分へ

この記事より、以下に抜粋します。

所管する民間業者からの金品の受領を禁じた、公務員倫理規程に抵触すると判断した。関係者の話を総合すると、鈴木氏は電気通信事業部長だった約3年前、同社幹部からチケットを受け取ったという。鈴木氏は「もらったチケットは10枚ぐらいあった。このうち、2、3枚を使った」と事実関係を認めている。


どうやら総務省は内部抗争激化に陥ったらしい。人事抗争とは、恐ろしいものなのですね。特に本省の場合には。部外者が考えるほど甘いものではないということなんでしょうね。

更迭の記事:
「敵は霞ヶ関にあり」? その2

先日更迭されたと報道されていた清水郵政行政局長から、今の鈴木局長に代わったばかりというのに、早くもこのタレコミですから、これからも暴露合戦が見られるのでしょうか(笑)。官僚の世界は想像以上にみみっちい感じで、陰湿というかイヤミな世界なんでしょうか?

報復はまだまだあるのかもしれませんね。



ライブドアブログニュースで見つけたもの

2005年05月31日 13時55分05秒 | 俺のそれ
今日の「finalventの日記」で、画像付きのライブドアブログニュースというのが出ていたので、真似して見に行ってきました。そこで「livedoor社長日記」をちょっと覗いてみようかなと思い、初めて中身を見た。やけにシンプルなんだな、とか思いつつ、これが噂のブログか・・・と、見た感想は、
「はあ~ぁ~」って思った。

これのどこに人気があるのか分らなかった。しかも見れば「千コメント」行っているではないか。驚いた。この内容に、「千かよ、TBも百以上じゃねーか」と内心思いました。


で、コメント内容を見ると、これまた何だろな、って。同じコピペコメントがひたすら並んでいる(厳密に言えば数タイプに分かれていたけど)。多分同じ人が1人で「千」稼いだんだろうね。やっぱりこういう方が存在するんだな、と思いました。


それと、ひたすら「千コメント」に侵されるブログも可哀想だな、と思いました。でもこれはコメントスクラムとは違っていて、「コメント欄不当占拠型」かもしれない、と思いました。それとも、単にスパム?なのかな。アクセスの多いブログに書き込まれるコメントがすでに宣伝目的ということですね。人気があるというのも、ある意味困ってしまう、ということなのでしょう。私には関係ないので、良かったです。



サイバー・デモクラシーは醸成できるか~2

2005年05月30日 15時46分06秒 | 社会全般
ネット上の参加者の傾向について考えてみようと思う。ブログに関係する人達は、先日の総務省発表の推計によれば実数で約165万人、月1回以上の更新をするアクティブな人が約95万人、2年後にはブログ開設者数は782万人と予測されていますが、このうち実数は概ね半分として約390万人程度がブログ参加者ということになるでしょう。また、ブログを開設していない方も存在しており、その正確な動向は掴めませんが、主に主要な掲示板や各ブログ、HP、書き込めるサイトなどを巡回(若しくは漂流?)したりして、何かのご意見を書き込んでいくようです。その数がどの程度なのかは不明ですが、恐らくネット利用者総数から見ると、ブログ開設者の実数よりも多いのかもしれません。


そういう人達の求めるものというのは、政治には関係ないことが多いと思うし、関心の薄い層が大半で、政治的意思表出が数多く行われているとも思えませんね。アクティブなブログ開設者で考えたとしても、1割にも満たない程度であるかもしれません。多く見積もって10万人規模であれば、いい方かもしれませんね。ですが、そうした数の人達がそれぞれに政治的意思をブログに書くことで、そういう事柄に興味のなかった人達が偶然に読んだり目にしたりする機会は増加すると思います。また、情報源となっている元の新聞記事や省庁の公式発表・公開情報などに接する機会も増える可能性があります。これは、「現実」世界での、街頭演説・集会、政治的ビラ配り、街宣活動、政治家の講演会・パーティーなどに比べれば、ネット上での情報取得の方がはるかに一般人が政治的情報に接するチャンスが多く、そういう活動自体がより多くの人の分業体制で行われていることを意味しています。


それは、政治に携わっている人達にも理解されつつあり、ブログの威力を試そうとしているのかどうか判りませんが、少なくとも私のブログにでさえ、国会議員さんや選挙で次点で落選したが活動を続けている人からのTBが実際にあったくらいですから。そういう活動は、街頭演説よりも多くの人に届く可能性がありますが、自分の選挙区民ではないところが悲しいかもしれませんけれども。まあ、それはいいのですが、サイバースペースの方が現実の政治的活動よりも不特定多数を動員し、そこに意見の集積を行うことは容易であると思われます。少なくとも、現実に政治ビラを投函しにいって逮捕されたりするよりは、はるかに効率的で安全に政治的意見表出が可能であると思います。


「サイバー・デモクラシー」は醸成できるか~1

前回も書きましたが、現実乖離となるような議論を避けつつ、また過激な議論・言辞を防ぐ方策ということが必要になってきますが、「有効な場」を設定する必要があるかもしれません。


まず、時々目にするのは、何かのテーマについて色々な情報を収集・整理して、読者に提示してあるブログです。その情報源は新聞記事、公式記者会見、公式HP、行政府のHP、著書の論評、著名人・知識人のHPやブログ、等々さまざまですが、ある程度の信頼性の高い情報源が示されていることが重要で、そういう作業をやってくれる人が存在することが必要です(NHKvs朝日の時がそういう感じでした。特に時系列に従って整理する人が多く見られたように思う。熱心な人たちのお陰です)。しかし、これは全ての分野で行われている訳ではなくて、関心の高いテーマ(例えば、人権擁護法案関連)であれば多くの人達が作業するし、そういうブログもいくつか出来てきます。しかし、関心の高くないテーマであれば、作業を行っている人が非常に少ないので、そこに辿り着く人が少なく、その有効情報を目にする機会が乏しくなってしまいます。このようなテーマや関心の偏在をどうするか、ということも問題ではあります。


世論調査などでも示されるように、郵政民営化問題についての世間の関心は低く(悲しいけどね)、優先順位の上位にはなかなか入って来ません。しかし、ネット上で政治ネタを書いている人達の中では、そんなに関心が低いとは思えないし、議論の対象ともなっていますが、世間の動向を反映している訳ではないように思います。これがネットのコワイところで、何かの問題意識を持って見ていると、そういうブログにばかり出会うようになってしまうこともあるのです。これが、賛成・反対の分布についての錯覚(統計的な調査をした訳でもないのに、自分と同じ意見が多いと錯覚)をもたらす可能性が出てきてしまう訳ですね。


テーマ・関心の偏在を防ぐには、出来るだけ多くの人の目につくような問題提起をしたり、有力なブログが同じテーマを取り上げてくれる偶然を待つ、とか?でしょうか。まあ、これも難しい面があるのですが。後は各個人が頑張って、広める運動をし続けるとか。まさに、現実の政治活動と一緒ですね。駅の近くとかの街頭に立って皆さんに広く訴えるのと同じことを、ネット上でもしていく、ということになります。ですが、1人では限界がありますので、やはり「弱いリンク」によるネットワーク構造によって、より多くの人達に問題提起・情報提供を行うことが有効だと思われます。自分の持つネット上の関係の中に、いかに「弱いリンク」をたくさん築けるかによって、情報の広がり方が変わってくるのだろうと思います。その為には、できるだけ質の高い記事や言説を表現するよりなく、これも個人的資質に依存しています。


今何故か多くのブログで取り上げられているのは、「匿名か非匿名(ようは実名?)か論議」があって、どうしてこれほどまでにそういった議論が長々と続くのか不明な点が多い。良い面も多少あるが、どちらかと言えば非生産的な面が多いと感じています。ネット上の議論というのは、これに似たものが多いのかもしれませんね。このような非生産的議論は、「有効な場」というのがないからだと思われます。既に議論されたり、一定の評価を受けている既知・周知の事実などを整理して、論点を切り分けたり、それまで出た結論をまとめたり、次の論点を提示したりする人(又はそういう場=ブログとか)が明確に存在していないことが延々と同じような議論が続く原因ではないかと思います。「有効な場」があれば、ネット上で時々表現されている、「~~を嫁(読めということらしいです)」とその場を指定すれば、本来すぐに解決してしまいますね。それがないので、堂々巡りな非生産的議論が、壊れたビデオみたいに繰り返されるのでしょう。


「有効な場」には、①信頼性の高い情報源からなる、整理された基礎情報(若しくは、それがどこに明示されているかの情報)、②議論の途中経過で、そこまでの合意点・対立点などの論点整理、論点のズレ修正などを行う人、③議論の最低ルールを適用できる管理能力のある人、というような条件が必要と思われます。これらが揃えば、議論の質は一定以上に確保され、過激な言辞も排除可能となるかもしれません。今までのところ、①の条件を持つブログはたくさんあるように思われ、「現実」世界以上に情報の質・量は優れていると思いますが、②の能力となると、かなり条件が厳しくなるかもしれませんし、特に専門家の意見をある一定以上に評価したり判断できる客観性を持つ人の存在が重要となってきます。例えて言えば、A大学教授とB大学教授の意見が対立している場合に、その他の参加者が理解できるような論点整理・切り口を提示できるような人ということになります。憲法改正議論の場合には、NHKの番組中もそうであったし、その後の憲法記念日にいくつかのブログ記事に書かれたように、論者はそれなりに信頼性の高い人達(法学者、政治学者、・・・)が違った意見を出す訳で、これに双方の合意点はなかなか見出せないでしょうから(専門家同士であってもそうなのだから、一般人たちはなおのこと困難であると思います)、そういう議論の過程を見て自分がどのように考えるか、というのが多くの普通の人達にとっての議論の目的・意義となるでしょう。そのようなテーマである場合に、A大学教授の意見を自分の論拠としていかに相手に説得的に提示しても、その反論としてB大学教授の意見を根拠とする意見をぶつけられれば、これはもう、いつまでたっても終わりがないわけですね。これを整理し、次の論点に移せるような人が望まれますね。


そして、「炎上」などでも問題となる③の管理能力ですが、これは非常に難しいですね。参加者がいつも倫理的に望ましい行動をとるとも言えないですし、無駄な行為をしつこく繰り返す輩は何処にでも出没しますし、かと言って、コメント欄がないと今ひとつ関心が盛り上がらないという残念な傾向もあります。hot.wired.japanの提供している御三方のブログには、以前あったコメント欄をなくして、TBだけになっていますが、以前に比べると反応はかなり少ないように見えます。ということは、大抵の参加者が求めるのは、その場での「言葉のやり取り」がメインであり、本とか雑誌の記事みたいな文章を読むことへの期待がない、ということなのでしょうか。短文形式の方が望まれて、長文が嫌だということがあるのでしょうか?でも、長いコメントへの書き込みは珍しくなく(字数制限があれば別ですが)、傾向としては、「コメント欄が好きだ」ということなのでしょうか。よく分りませんけれども。コメント欄でしか議論が成熟しない、というのも変な話ですし、むしろTBの方が、自分の主張をたくさん書けるからいいような気がしますけれども。TBの方が冷静さもある程度保てそうです(私はそうでもなくて、時にお叱りを頂戴することになってしまいますが・・・)。そういう形が今後は望ましいかもしれませんね。例えば、なじみの常連さんには、ちょこっとしたコメント欄(字数制限かコメント数制限付きが可能)と、議論のためのTBというような形のブログが多くなるかもしれません。



「となり町戦争」のこと

2005年05月30日 01時34分59秒 | 俺のそれ
イラクで人質となっていた斉藤さんは死亡していたと報道されていた。まことに残念である。ご冥福をお祈りするしかないのであるが、斉藤さんの死ということが、私の中に「現実の死」というリアリティがなく、そのことに何かの罪の意識みたいなものを感じてしまう。今のイラクで起こっていることや、派遣されている自衛隊員達のことも、同じように私の知らない遠い場所で起こっている非現実的な出来事なのである。


『となり町戦争』(三崎亜記著)を読んだ。子供と妻が読みたいということで、図書館から借りてきていたのだが、もう読み終えたと言うので、私も読んでみたくなった。書店で何度も見かけていたのだが、忘れていた。一度に3人も読んでしまうと、著者に申し訳ない気もしますが、図書館の本ですからいいですよね。買わなくてごめんなさい。


読後の感想は、一言で言えば、「私が気になっていた心の中の一部を、作者がうまく表現し、代弁してくれたかのような作品」という感じだ。今のイラクの出来事や斉藤さんのことが、自然に心の中に浮かび上がってきた。ものすごくインパクトのある作品だった。


となり町との戦争という事業、戦争を遂行する行政、それに係わる住民達、リアルな戦争に参加する人達、監督官庁としての省庁(総務省)、戦争を請け負う民間業者達、そういったことが、今の日本の姿をあまりにうまく描き出しており、著者の卓越した視点とリアルを実感できないことの恐怖というか虚脱を感じた。そして、戦争という象徴化された出来事を通して感じる日常と、逆にそこにある戦争への認識を、冷徹な事実として書いている。戦争とは何なのか、という問いかけは、私の心にあった霧を消し飛ばした。恐らく自分がそこにいた時に、同じ考えに陥るだろうという人物が描かれていた。まるで心の中を見透かされたようだ。同時に「人の死」についての深い考察がそこにある。


そして、登場人物に語らせる言葉の中に、恐怖が含まれている。

「私たち行政の仕事は、事前に組まれた予算の範囲内で、事業を成り立たせていかなければなりません。それは、戦争という予測が非常に困難な事業を行う場合も同様です。そんな中で、私が考えなければならないのは、効率的な予算の運用であり、弾力的な予算の流用であり、一般会計から繰り入れを得るための効果的な資料の作成なのです」

「しかしそうした選択肢の中から、比較検討し、最も効率的かつ将来性のある事業としてわれわれ行政の立場で、このとなり町との戦争事業を選択しました。資料はすべて、情報公開制度にのっとって、皆さんに開示されています。ですから、戦争にいたる過程に不透明性があったという指摘はあたらないかと思われます。それより何より」
「そうした状況を踏まえて、最終的にとなり町との戦争を決定したのは議会です。この戦争は、皆さんの代表である議会の承認を受けて進めている事業です」


私のうわべだけの浅い考えは、リアルではない、現実の感触のないものとして、打ち砕かれた思いである。次の言葉に、私の生きている現実が表現されているように感じた。

『僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。』


道警裏金事件の刑事責任

2005年05月29日 15時44分54秒 | 法関係
民主党議員の告発を受けていたのだが、遂に立件という方針になったらしい。これは、本当の意味での「責任追及」なのか?単なる内部告発者への警告とか見せしめ的な意味合いなのだろうか?それとも組織防衛の為に用意された、スケープゴートなのだろうか?本当に警察組織は生まれ変われるのだろうか。

Yahoo!ニュース - 共同通信 - 北海道警裏金で初の立件へ 会計検査妨害容疑


警察裏金事件についての参考記事:

道警大量処分について
人権擁護法案擁護論への疑問1
人権擁護法案はどうなるか4


今までに書いてきた記事の中で、個人的な刑事責任を追及することが目的ではないと、何度も申し上げた。けれども、形だけの「責任追及」という為に起訴されてしまうならば、その警官はあまりに可哀想であろう。組織に切り捨てられた個人は、抵抗する術もない。ことの真相は分らないのであるが、これで警察組織の自浄が行われることもなく、上層部の責任も問われず、尚且つ単なる人身御供で終わらせようということならば、酷い話だと思う。その警官の犠牲は、報われることはないだろう。



談合三兄弟

2005年05月29日 13時04分54秒 | 社会全般
談合三兄弟―「A会、K会、道路公団」―に、遂に検察のメスが入れられた。今後も更なる追及がなされるだろう。検察捜査に期待したいと思う。行政システムに巣くう亡者達を一掃して欲しいし、役人体質に端を発したこういう悪しきシステムは改められるべきである。談合をなくすには公平な競争システムもそうだし、事業の客観的評価や工事の検証といった部分がそれぞれ独立的に行われるべきで、そういうシステムがきちんと組みあがれば、手抜き工事や理不尽な価格競争ということは抑制できうるのではないかと思います。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <橋梁談合>天下り40人超 出勤ゼロで年収1000万円も

これは名義貸し事件と同じでしょ?勤務実態がなかったのと同じですよ。ならば、健康保険法、厚生年金保険法、及び雇用保険法違反でしょ?この勤務実態がなかった天下り野郎達から、返還請求した方がいいですよ。今から5年前までの請求権はあるんでしょうか?急いで、保険給付を返還してもらって下さいね。それは出来ないのかな?どうなのか判らないけれど。

参考:
橋梁談合事件と「けじめの時代」
法と正義 4


今までに公益法人の想像される悪しきシステムについて、いくつか記事を書いてきました。だいたい思った通り、というのも悲しいが、そんなレベルの行政であったことを思うと、どの辺りまで適正な行政が行われているのか、国民には判らないだろう。どこに不正が隠され、どこまでが正しく業務を行っているのか、極論すれば誰が不正を働いていないのか、というレベルにまで落ちていってしまうな。こんな行政をどのように信じればよいのか、判らない。「人任せにせずに、国民自らが高い関心を持ってチェックすればよい」という意見もでるかもしれないが、それなら何のために公務員が存在するのか判らない。


政府管掌保険再編の真意
公益法人の構図
公益法人の構図2
財政改革の道は・・・
特別会計は抜本改革せよ


会社で言えば、株主がいちいち会社の会計監査をしないだろう?監査法人の監査結果を見て、皆が適正に業務に従事してくれたのだという暗黙の信頼関係があるから、監査報告書の結論を信じ、株主の議決権を行使するんでしょ?そういう形の統治になっているんでしょ?ところが、今の行政というのは、工事一件ごとに毎回「不正がないか」検査されないと、自分達だけだと正しく実行できないんですと。そういう連中の集まりなんですと。道路公団も、業者も、そういう組織なんだそうです。


これはあくまで一部に過ぎない。行政組織の裏金もそうなのだが、道警は道庁の裏金問題が発覚した時に、「警察は裏金などあるわけがない」と断言し、監査拒否をしたのだ。その後も、反省することなく、裏金作りは続けられた。結局のところ、「見つからなければ、やっていい」という判断を、道警はしていたのですよ。警察庁もそうだ。ですから、日本全体に蔓延るそういう不正の温床というのは、ごくごく普通に転がっており、他の部署や何処かの組織が司直の手によって摘発されたとしても、「自分達はもっと上手くやる、見つからないように」という考えなんだろう。談合三兄弟の前にあった談合組織は、前にも検挙されていたのに、またやったんだそうです。屁でもないと思っているんだそうです。検察の論告求刑風に言えば「反省の情が皆無、悪質な確信犯的・組織的かつ、常習性顕著にして、再犯の虞が著しく高い犯罪者集団であり、国民から徴した血税を不正に搾取しようとする悪辣極まりない犯行である」というような具合でしょうか。それくらい悪い方々です。


恐ろしい国である。こんな国の形を、今後の若者達や自分の子供達、子孫に残したいと思うのだろうか。


追記:
タイトルはいつも拝読している落合先生の「談合有利かもめ」というナイスな(死語ですか?)言葉に触発されて書いてみました(笑)。「談合坂」っていう地名があるのは知りませんでした。そこの地域の方々がちょっとお気の毒です・・・



「ぜんそく」で処分のおそれ

2005年05月28日 18時35分27秒 | 社会全般
日航の機長さんが、ぜんそくであることを言わなかったようであるが、処分される可能性もあるとのことである。パイロットの呼吸器の病気が、航空法でダメだったなんて初めて知りました。会社が管理責任があると思うし、そんなに重大な義務ならば会社で必ずドクターチェックしないとダメなんではないのかな?でも本当に喘息なんだろうか?精密な検査を受けた方がいいと思うな。一昨日ちょっと関連する記事(「睡眠時無呼吸症候群」の運転士?)を書いたんですが、単なる偶然だと思うけれど・・・バレたのは私のせいではないですよね・・・?普通は気管支拡張剤とか去痰剤などが多いと思うけれど(一番多いのは発作時スプレー?ですかね)、機長さん、ひょっとして抗ヒスタミン剤を投与されていたのかな?普通はあまり使わないような気がしますが。


Yahoo!ニュース - 共同通信 - 機長が服薬報告せず乗務 日航、航空法違反疑い


この記事より一部抜粋します。

日航によると、機長は2002年1月に気管支ぜんそくの診断を受けて以降、今年5月までに計30回通院し、症状が出た時には服薬もしていた。この間、運航乗務員に義務付けられた年2回の航空身体検査はパスしていたが、今月6日の検査で肺活量が基準値以下だったため医師が確認したところ、服薬を認めた。処方薬を確認したところ、眠気が出る恐れのある薬で、航空法に抵触する疑いがあるという。


このような経緯であったらしい。ちょっと本人可哀想。知らなかったら、言わないよね。でも知らないというのは法的責任を免れるわけではないらしいから、同情してしまうな。



ウチの子がまだ小さい時の友達に、「喘息」の診断を受けて投薬されていた子がいたけれど、本当に服薬が必要なのか、診断が適切か、というのは、診るお医者さんによっても違うことがあったらしい。特に小児の場合には、「喘息のケがある」などと言われて、親が「喘息」だと思い込む場合も多く、実際には喘息ではなかったりする。特にカゼをひいた子供がなかなかよくならず、投薬されているのに何日間も咳をしたりすると、お医者さんは「喘息のケがあるかもしれない」などと言って誤魔化すのではないかと思う。ウチの子にもそう言われたことがあったが、別に喘息でも何でもなかった。要するに患者から「診断が悪い」とか「投薬が不適切」などとは思われたくないからなのでは、と疑ってしまう。病名を言われても、疑う気持ちも患者側に多少必要だと思うな。私も少し調べたくらいですから。


私は過去30年くらい、病気で(特にカゼで)病院へ行ったことはかなり少ない(たぶん十回以下です、無駄に健康保険料を払っているんですよ、私は。殆ど回収していないです。まあ冗談ですが。健康が一番有り難いのです)。なので、何の時に病院へ行ったかだいたい覚えている。基本的に、カゼは寝て治すことにしてます。でも、あまりに辛い時に少しは病院に行ったことがあって、カゼなのに予防的な抗生剤投与を受けた経験もある。どうせ、カゼには効かないことが殆どでしょ?

学生の時には、カゼで熱がひどくて普通の近くの内科に行ったら、「注射をする」と言うので、看護婦のオバちゃんに「何の薬を注射するんですか?」って聞いたら、「まあ、いいから、いいから」とか言って腕の筋肉に注射された。「えっ、何?」って聞いている間に、プスって刺され、「咳止め、咳止め」と笑っていた。そんな注射して欲しくもなかったのに。どうせ、ビタミン剤とかだと思うけど。20年くらい前だから、まあ仕方がないんだけれど。私も若かったから(笑)、あんまり強くも言えなかったし。彼女は多分看護婦なんかではなくて、助手なんじゃないかと思った。看護婦は静脈注射をすることが殆どだからだ(あの、腕にゴム縛りみたいなのをするヤツです。健康診断の採血や献血の時にも、するでしょ?)。


話が逸れたが、要は「喘息」の診断は専門医とかでないと、適当に付けられる可能性のある病名だってこと。機長さんは大丈夫かな・・・定年間近だったのに・・・行政処分になってしまうんでしょうかね。最近航空業界は色々あったから(特に日航は)ね・・・厳しい態度で臨むとかってことになったら、厳罰が待っているのかな・・・



君達は理系をバカにしているのか!

2005年05月28日 03時30分40秒 | 社会全般
毎日新聞の「理系白書」という記事があるそうだが(私は読んだことはないが)、その記者たちが書いているブログ(理系白書ブログ)がある。そこでの記事に非常に不届きな記事(5/26)があったので、とりあえず紹介したい。

以下に一部を引用します。


文系の科学力

私たちが自問していることをいくつかあげると、

・科学を知らなくちゃいけない、というのはなんでか。知らなくても便利に暮らせればいいのではないか。動機付けを持たず、科学技術の恩恵で「もうおなかいっぱい」という人に、さらに教えなくてはいけないことってなにか。
・文系の理系音痴を言うのと同じく、理系の「専門馬鹿」(他の専門分野に疎い、無関心)は問題ではないか。
・理系、理系といい続けることが、すでに時代遅れではないか。
・文系、理系にこだわっているのはばかばかしいと思っていても、大学をはじめとする日本社会が、文系理系に分けたがっているのに、どうやったら変革できるのか。


理系の社会力

「理系は報われているか」
そして新しい問題。
「理系人の社会リテラシーは十分か」
文系が科学の素養を身に着けると同時に、理系が経済学の素養を身に着ける、というのなら、結局はこういう問題意識になる。
「文系、理系と分けることがナンセンスではないか。どうやったらなくせるか」



こんなことを公然と書き綴っている記者たちの顔が見たいものである。このような提起の仕方は、非常に不愉快であるし、何の社会的意義も感じられない。一体全体、自分達を「なにさま」(ガ島通信さん風に言えば、笑)のつもりでいるのだろうか。最も気になったところについてもう一度引用してみたい。

『文系の理系音痴を言うのと同じく、理系の「専門馬鹿」(他の専門分野に疎い、無関心)は問題ではないか。』
『理系人の社会リテラシーは十分か』

これを読んで誰しも感じることは、文系は専門馬鹿がおらず、社会リテラシー(記者たちはそういう言葉を用いているので、そのまま使うことにします。何なんだ、この言葉は)が備わっているが、理系は専門馬鹿がいて社会リテラシーが不十分である、ということである。この人達は何が言いたいのだろうか?
やはりこれがマスゴミ呼ばわりされる人達の正体なのだろうか。


社会リテラシーって何だろうか?メディア・リテラシーの社会版、ってこと?そう解釈するとして、記者諸君に「お前の社会を読み解く力は十分なのかい?」という問いを投げかけられて、理系だろうが文系だろうが、そんなこと個人が生きていく上で関係ない問題だろう?全くの個人的資質の話だろう?文系にはそれが十分であって、理系には不十分である、などという感想を持つこと自体に全く社会的意義がない。元来「専門馬鹿」という言い方は、文系とか理系に無関係に、頭脳明晰で優秀な学者さんなのに、研究に没頭しているから、一般常識や一般人が普通に知っているようなことを案外知らないというようなことを指すのではないか?そんなの文系研究者にだって同じように存在するだろう?裁判官だってそういう部分があるから、裁判員制度の導入をした方がいい、という面があるんでしょ?別に理系の研究者だから、専門馬鹿になる訳ではないだろう?哲学研究者は、社会を読み解く力が一般人よりもはるかに優れているのか?或いは、理系研究者よりも社会リテラシーとやらに優れているという調査でもしたのか?法学者はどうなのだ?宗教学者は?経済学者は?数学者とは大きく違うのか?


記者諸君は自分達が文系出身者だから、自分達は「社会リテラシー」とやらが十分備わっているという全くの勘違いか思い込みだか、思い上がりをしているんだろう。そうでなければ、記者さんの中に、暴言を吐いて社会全体から集中的に批判を浴びたり、他人の記事を盗用したりするような人達は存在しないだろう。これは他人の研究論文を盗作するようなものだろう?こういう文系出身者が殆どのマスメディアの記者さん達は、「社会リテラシー」が一般人や理系研究者達よりも十分備わっているとでも言う?ひどく尊大ですね。


多くの真摯な研究者に対する冒涜である。理系研究者への差別であり、偏見である。社会的な能力の高い人達はたくさんいるだろうし、そんなの文系・理系に無関係である。社会学に精通している研究者は、教育学、宗教学、言語学、哲学に一様に精通しているのか?矢原先生が「専門馬鹿がなぜ悪い?」と書いているのは、学問とか研究はそんなに簡単なものではなく、奥深さや探求の困難さをよく知っているからだ。そんなのは、他の文系分野であっても同じようなものだろう。そんなに簡単に文系分野が習得でき、いくつもの分野の第一人者になれるのなら、誰も苦労などしないぞ。理系研究者だって、物理学者が生物分野の一般人向けの読み物や記事を書いていることもあるし、自分の専門を超えて書いているものはたくさんある。歴史学や哲学に非常に詳しい理系研究者だってたくさんいる。それを知らないのは、記者諸君が不勉強であり無知であっただけだ。寺田寅彦の読み物だってたくさんあるだろう?国語の教科書に出てくるくらいですから。異分野について、理系研究者が多く語らないのは、学問というか自然や知の奥行きに驚嘆したり畏怖(畏敬かな?分からんけど)したりするから、軽々に表現することをしないからなんじゃないか?


文系と理系という区分はその意味が薄れていることは確かであり、経済学だって数学であったり物理学であったりするし、物理学は哲学だったりするし、心理学や教育学は認知科学や脳科学であったりするし、生物学だって社会学だったり考古学であったりする。旧来の区分では収まりきらない分野というのが増えているんだとは思う。だが大学の内部的な分類がそうなっており、それに基づいて予算や運営が決まるから、文系・理系が残されているんだろうと思う。教育のカリキュラムとかもそうなんだろうと思う。


理系の問題というのは、日本の中枢部分が(主に官僚組織ということですね)文系の牙城となっており(よく知らないですが、一般的に言えば東大法学部ということでしょうか)、そこでの政治力の差が大きいと思うのですけどね。もしも、理系分野の出身者が同じくらいの政治力を持つなら事態は改善されるかもしれないと思いますが。そういう政治的・政策的問題が一番の問題であると思う。現実には現場の人しかわからないだろうから、私にはよく判らないですが。


「理系白書ブログ」の物言いは、記者諸君が主張するところの「社会リテラシー」が非常に乏しいという印象は否めず、文系出身の記者諸君が少しばかり理系分野についてかじってみたら、「理系研究者って問題があるよね」と判ったような気になり、元々の偏見を書いているだけだろう。全くもって失礼である。



生物学的社会性

2005年05月27日 20時47分07秒 | 社会全般
昨日の日経新聞の「春秋」欄は興味深かった。サルの社会性についてのお話が殆どで、オチがよく判らなかった。
nikkei.netより、以下に転載します。



春秋(5/26)
 仕事のご褒美にもらうエサの質が、仲間より低いことを知ったオマキザルは、もらったエサを投げ出して、不公平に抗議する。利益の最大化をはかるなら、くれるというものは何でも、とりあえずはもらっておく手だが、まず情が働く。

▼チンパンジーで同じ実験をすると、つき合いの長い仲間との報酬格差は許容するのに、あまり親交のない個体との不公平には敏感に反応する。取引の原点では、合理性より情動がものをいうのか……。日経サイエンス7月号で米国・エモリー大学のドゥ・ヴァール教授が説く「動物たちの行動経済学」は暗示的だ。

▼野生のチンパンジーは集団で狩りをする。最後に獲物を手にするのは1頭のみ。しかし、ウイナー・テイクス・オールではない。勝者は自律的に仲間におすそ分けをする。それも狩りに参加した協力者のみに。協力への報酬である。毛づくろいなどの恩恵を受けたら、ちゃんと覚えていて「恩返し」で食物を配る。

▼不公平への怒り、親しきものへの寛容、協力への感謝、恩返し。彼らの経済行動からみえてくるのは、分配のルールというより、倫理の原型かもしれない。それにしても、不公平への反発か優遇への羨望(せんぼう)か、きのうまで喜んで受け取っていたエサを、無価値なもののごとく拒絶する激しさ。嫉妬(しっと)の源泉は大きく深い。




これを読んで結論に見えるのは、最後の「嫉妬の源泉は大きく深い」だけであり、これは人間の嫉妬心を想定していると思うのですが、それは生物学的に決まっており、その為に変えようがない、とか、嫉妬を防げないというような意味合いなのかな?ちょっとよく判らなかったのです。

数日前に人間の持つ社会性についての記事を書いた(人間の社会性と言葉)のですが、サルにもかなり複雑な社会性があるということなので、遺伝的にプログラミングされたものなのかどうかは判りませんね。後天的に獲得するということになれば、そういう集団性のある同種族と生活を共にすることで学習するということなのかな?不明なことが多いですね。


でも、この「春秋」は余りに暗示的で、未だに何が言いたいのか謎。嫉妬するな、ではなくて、嫉妬されないように、「恩返し」しなさい、ってこと?うーん、非常に哲学的な感じになってきましたね。でも、とっても勉強になりました。

いつもネットで読んでいますが、昨日のは是非紹介しておきたいと思った次第です。



「サイバー・デモクラシー」は醸成できるか~1

2005年05月27日 17時42分34秒 | 社会全般
今まで、ブログを中心とする政治的意思の表示機会・環境について、いくつか書いてきました。私の場合には、その動機として、「妄信というか、自己満足に過ぎないのかもしれないが、無意味ではないと信じたい」というスタンスです。その作用としては、「個人から個人」という本来のネットワークの性質に加えて、より社会的な影響力を持つという面では「個人からマスメディアへのカスケード」を期待する、とも書きました。

しかしながら、佐々木毅氏はサイバースペースへの政治的エネルギー滞留はマイナスであり、「サイバー・デモクラシー」は現実遊離であっていたずらに自己満足を見出すことになってしまう、という立場でした。こうした不利な面を克服しなければ、「サイバー・デモクラシー」の影響力を現実世界で求めることは難しい、ということでしょう。これについて、もう少し考えてみたいと思います。

参考記事:
ネット言論の試練1
ネット言論の試練2
「中国反日デモ」から見える日本政治~その3


「現実」に比べて、政治的意思の表出機会・環境で見ると、ブログというツールはそれなりのメリットがあると言える。各個人が表明するのは簡便かつ他者との意見交換も可能であり、ある程度の議論に耐えうるものである。ただし、これには勿論マイナス面もあるのであるが。政治的近代化という観点からすると、町内会の人々が会館に集合して討論会を開いたりせずとも、ネット上に議論の場があるので、代替となるように思う。勿論 face to faceということの良さはあると思います。ですが、現実には時間的・空間的制約も多いですし、サイバースペースを利用する方が即時的で、意思表出が行われ易いと思います。


厳しい指摘を受けた、「現実」からの乖離や遊離促進というものに対して、どのような対策があるのか、ということになります。これには、ある事項の専門家の意見というのが、重要になってきます。例えば、ある公共事業が行われる計画があるとして、その事業に反対するのか賛成するのかで議論が行われるとしましょう。仮に新幹線の延長工事であるとしましょう。その沿線住民とか駅予定地の住民とかで考え方は異なりますし、生活実態が掴めないこともありますね。地元自治体や議員さん達が陳情を繰り返したり、地元商工会のおじさん達が同じく誘致運動を繰り広げたりしている一方で、財政的な問題から反対するべきとか自然環境への影響で反対をする人達がいるかもしれません。騒音被害を考慮して、地元だけど線路近くの住民が反対するかもしれない。こうした意見をある程度積み上げないと、結論的には見えてこない、ということになるでしょうか。また、建設コストと効果の問題や将来の乗車数の確保とか地域振興にどの位の効果があり、その一方で通過駅になってしまう地域の損失がどうなのか、などの財政的検討についても議論される必要があるということになります。賛成派の方々は、反対派を説得するだけの論拠を用意することが必要で、その逆も同じですね。


こういう作業をやる時に、少ない人数で取り組むよりも多人数の方が進め易いし、分業体制となっている方がいいですね。従来の政策としては、こうした情報というのは公開情報となっていなかったりしましたが、近年の総務省の指導もあって情報公開を各省庁に求めるようになっておりますから、ネット上の調査能力の高い人達は効率的に重要情報を探し出して多くの人に提示できるようになってきています。この能力は、過去の旧タイプ人間には出来ないものであって、何処かの機関や調査組織が用意してくれないとならなかったのに、今では各個人が探し出せるようになって来ています。また、昔は町内会館に集められた周辺住民へは、「行政側」などの人間が自分達に一方的に都合のいい材料・資料・調査報告などを提示して、それを盾に議論を進めることも出来ましたが、今はそういう情報の「穴」とか「ウソ」(そこまで酷くはないでしょうが、例えば将来収益予想とか利用者数などの「色よい数字」などが用意されたことも少なくなかったのではないのかな、と)とかそういうことに目が向けられる個人というのが増えてきています。


これは、単なる例ですので、現実的にはもっと情報のレベルとか質に違いはあると思いますが、昔みたいに組織的に集められた参加者の集会で気勢を上げたり、演説中に大袈裟に拍手・掛け声をかけたり、鉢巻を巻いて「エイ、エイ、オー!!」とかやっていのに比べれば、「現実」がいつも優れた政治的議論や政治的意思表出が出来るとは限らず、サイバースペースであっても「現実」以上の政治的議論は出来うると思うのです。こちらの方が、政治的近代化は進んでいるようにも思えます。


そういった環境で、議論する時に更に重要なのは専門家の知識・意見表出です。従来の議論の際には、所属する集団・組織依存的に賛成・反対の意見表出となりがちであったと思うのですが、現在そういう単純さはネット上では減っていると思います。まあ、絶対的に専門家でなければならないということでもないですが、例えば新幹線とか鉄道事業の概要を掴めないと、事業計画が妥当なものかどうかの判断はつきにくいということになりますから、そういうことに詳しい人が客観的な意見を述べてくれると他の人の判断材料が増やせます。そういう情報は、身近な「現実」の政治集会などでは滅多に出てこないでしょう。ですから、そういう「現実」よりも判断の基になる「情報の量と質」と言う点では、サイバースペースに軍配であると思います(が、いかかでしょうか?皆様は)。だが、そういう専門的な意見が集積できないと、「現実」と乖離した議論を延々と続けてしまったりする可能性もあり得ます(新幹線の例で言えば、「沿線住民の騒音被害を考慮すれば、計画線をずらして迂回させるべき」のような、現実的な被害が想定されていないとか地元住民からの反対意見も全くないのに非現実的な解決策(迂回するには土地取得とか線路設計・停車駅などの多くの問題が出てくるかも)について議論してしまう、とか?)。情報の判断が難しければなおのこと、そういう枝葉末節とか現実遊離の議題が解決できず、延々と無益な議論を繰り返すようなものですね。それを防ぐ意味でも、やはり一定レベルにある人の判断・意見というものがどうしても必要となってきますね。


続きは、また。


低金利で得する人って?

2005年05月27日 13時36分50秒 | 経済関連
一般庶民にとっては経済原理などどうでもよいが、日々の暮らしぶりが悪化しないようにしてくれればよいのです。難しい原理や理論に基づいて政策・運営をやって貰えるならそれでかまいませんから。自らの経済理論の主張の正しさを結果と照らし合わせて、証明してくれれば何だっていいんですよ。


普通の給与所得者がバブルちょっと前に家を購入したとしよう(夫30歳、妻27歳、子供3歳と1歳にしようか。架空の家族が念願のマイホームゲット!ですから)。仮に2千万円の30年住宅ローンを組んだとします(昔は全額借入が出来ないはずで、自己資金は2割以上だったと思う。ですから総額ベースで言えば2500万円でその他に諸経費ですね)。そうだな、87年からということにしましょうね。当時の借入金利がどれくらいなのか知らないんですが、4%くらいはあったでしょうか?(住宅金融公庫の最高金利がバブル期頃の一時期5.5%だったような気がしますが詳しく知りません。まあそれよりも安いんではないのかなと。)ローン返済は2017年まで続きます。元利均等返済(ゆとり返済ならもっと悲惨だと思うけど)なら毎月の返済額が大体95500円です。これが30年続くわけですね。当時の借入は変動金利などではなく、固定金利であったでしょうから、未だにその金利のまま返済が続いていることになります(借り換えはしていないとしましょうね)。


バブル崩壊後に、預金金利は下がり利息収入は大幅に減少していき、現在は1年の大口定期ですら0.03%程度ですから、預金する意味は全くありませんね(繰上げ返済に全額回した方がいいに決まっていますね)。まあ、これは置いておくとして、97年頃の金融不安があって、借入から僅か10年くらいですが、利息は大幅に低下しています(半分程度まで落ちたでしょうね)。その後の金利下げによってさらに低下を続けました。民間銀行の良い住宅ローンが出始めたのは(借り換えを目論んで)2000年ころでしょうから、その時点で借り換えを検討したとしても、不動産価格は約3割ほど低下とすると(個別物件にもよりますが、土地下落がだいたいそれくらいかな?)、評価額が少なくとも3割減少し、建物の減価償却分も当然減るので、一般庶民は借り換えの際に残債と借り入れ上限の差額分の現金を支払う必要があります。土地・建物がそれぞれ1千万円(元の価値)として評価額は700万円と500万円(築13年の建物部分の評価額はきっともっと少ないはずですが、一応半分程度と仮定します)です。合計1200万円に対する銀行の貸付上限は7割くらいでしょうから、最大でも840万円しか貸し出されません。住宅ローンの今までの返済状況は、この時点までで返済元金は約6割以上残っており、借り換えすべき残債が1300万円とすると、先の840万円との差額460万円をキャッシュで銀行に払わなければなりません。この他に借り換えの事務手数料とか印紙代金、不動産登記手数料などがかかります。これもざっと25~30万円くらいになるかもしれません。となれば、結局500万円近くのキャッシュを用意しなければ借り換えられないことになりますね。


毎月95500円の住宅ローンを払いながら、500万円の現金となれば13年間毎月38500円くらい貯金を続けなければなりません。もしも預貯金を続けていたとしても、この間(87年~00年)に受け取るべき利息は昔なら3%とか4%とか貰えたのだが、その何分の一かしか手に入らなかったのです。この家のバランスシートは、不動産価格の下落によって相対的に借入比率が上昇した上に、金利負担分だけが重く残ってしまいました。給与が順調に上がってくればよいですが、多くの中小企業で見られたようにボーナス大幅減額とかカットなどで収入水準は大きく上昇していません。


「実質金利がどう」とか「経済原理がどう」、などということは分らないが、こうしたごくごく普通の庶民はたくさんいるし、彼らが払い続けた利息は、「マクロ経済」というどこかの闇に消え去ってしまった、ということです。この一家は、デフレや低金利で何か得をしたでしょうか?ユニクロの登場で、衣服が安く買えるようになったことかな(笑)。まあ、この一家は2017年まで払い続けねばならないでしょうから、可哀想だと思うけれど、消え去る運命の住宅金融公庫を儲けさせてやってくれ。


企業は確かに資金調達が楽になったが、特に儲けまくったのは金貸し屋とかだろ?低金利だからといって、企業の設備投資がもの凄く多くなって、雇用や民間需要を大幅に押し上げたりはしなかった。銀行もあこぎに、個人向け無担保ローンの旨みに飛びつき、高金利で昔の高利貸しと同じような商売をやり、愚かな弱小個人から稼いだのさ(消費者金融の広告)。


また、05年まで見ると、保険料負担は大幅に増加して(厚生年金、健康保険、雇用保険は何度もアップした)増税されたのと同じだし、介護保険料も増えたし、社会保険本人の自己負担額は1割(もしかしたら0円だったかもしれない)から3割に増えたし(年間医療費の実質的大幅増額と同じですね、病気にもなれないし、虫歯も許されないんだよ)、配偶者特別控除などがなくなったりして、実質大幅増税となってしまいました。金利負担だけが残る以上に、実質的な可処分所得は低下しました。これが、庶民の感覚だっての。頑張って生きてきて、真面目に働き、微妙に給与は上がったかもしれないが、その増加分を上回る勢いで、色んな分野でとられちまったのさ。こういう生き方をしているのが愚かなのだ、と言われればそれまでですが。


経済原理や理論は、普通の庶民を救済したりはしない。単に現象の記述がうまくなるだけだ。それが、日常生活というものです。冒頭の架空の家族は、今年、夫48歳、妻45歳、子供21歳と19歳で、住宅ローンとその重い金利負担は今も残っていますね。子供達は大学生になれたかな?無職の子供が残るのも、もっと辛いな・・・来年あたりが心配だな・・・。

お父さんがクビになったりせずに生き延びてこれたのかな・・・?リストラされたりしたら、更に厳しいですね。何だか切実ですね、こう考えると。



蘇る企業、危篤の政府、激痛の庶民

2005年05月26日 21時46分34秒 | 経済関連
金融不安の払拭について、全銀協、竹中大臣や細田官房長官などからコメントが出されました。銀行は救われたのです。リストラ・合併などと共に、株式持合い解消などで大幅な株式放出、不良債権処理が進められ、行政主導の強力な(半ば強制的な)指導力発揮のもと、銀行の経営健全化が行われました。竹中プランの早期達成で、「どうだ、出来たじゃないか。私の理論は正しかったのだ」と、平ちゃんは自慢してもいいですよ(自分で自分を褒めてあげて下さい)。その代わり、リストラされた銀行員達からは恨まれてるかもしれないが(笑)。


一般庶民の私としては、金利が低すぎて預金する気にはなれず、どうしてもリスク商品へと資金が向かいますね。しかも、もっと腹立たしいことは、金利以上に銀行手数料が高いので、利殖のために銀行に預けておく意味がほとんどない。ということで、銀行定期や積立は決してやるべきものではない(責めてるわけではありませんから。銀行は4行くらいに取引を分けていますね)。国を信じるならば、個人向け国債の方がはるかに利回りがよいですぞ(でもね、国が破綻しないという保障はないので、自己責任でお願いしますね。国債が絶対安全などとは言えませんからね、笑)。銀行は今のところ決済以外の目的はないな。ああ、投資信託を少し買っていましたね。


ここまでの道のりで、国内経済全体で考えると、企業業績は徐々に回復し、大企業のボーナスが過去最高になる見通しということで、家計にも多少の潤いとなるだろうが、国民一人当たり(若しくは世帯当たり)で見た時の家計収入は果たして増加しているのだろうか。中小企業業績やその他の業種で家計収入が大幅に改善したりはしていないだろうと思う。こうした企業収益の回復に隠されたその他の部分には、かなりのしわ寄せがあるはずだと思う。また依然雇用情勢は厳しく、失業率の改善が大幅には進んでいない。特に若年層の収入基盤の弱さが深刻であると思われる。これも多くの指摘がある通り、フリーターやニートなどの問題がある他、高学歴という先行(教育)投資に見合う仕事場のない人達もいるということのようである(大学院とかロースクールとか・・・)。従って家計部門での資産増加とか収入増加というのはあまりなさそうで、全体では増加した人というのは少ないかもしれない。だからこそ、勝ち組とか呼ばれる人々への羨望は強くなっているのだろうか。また、政府部門では赤字が続き、収入自体に大きな増加がないばかりか、借金総額は大幅に増加した。


今まで銀行を含めた企業業績アップのために、企業の贅肉をそぎ落とし筋肉質へと肉体改造したり(これは清原と同じじゃないか!)して、今は随分と元気になったし、健全に近くなった。その過程で、個人が一緒に切り落とされたり、人件費抑制策の為にアウトソーシングとか非正規雇用などで対応したり、ということが昔に比べて多くなった。その結果、丈夫な体を手に入れたのだから、今後は銀行は企業育成・再生とか地域貢献などを行うことが必要であり、その他の大企業群も雇用創出に繋がるような事業展開を行うべきである。また、行政と経済産業界は、日本の基幹産業となるような新規事業を展開できるように努力するべきである。政府投資は将来的に減少すると思うので(当面借金返済が順調にいくまで、縮小は避けられないだろう)、その分民間投資を増やさないと経済全体の規模が縮小していくと思う。なので、民間企業は相当頑張らないと、ダメだぞ。

それと、会社に子供とともに出勤して、勤務中は子供を預け、帰りには一緒に帰ることができる、というような会社作りをするべきである。大企業ならできるでしょ?中小企業はちょっと難しいかもしれないけれど。なので、今後は託児・保育分野のアウトソーシング業務が狙い目なんではないのかな?判らんけど。従業員への変な福利厚生よりも、はるかに人気が出るかも。


何度も言うようですが、医療・健康市場はこれからも増加するので成長市場と捉えて、今までよりもコストの安い人員配置を増やすべきだ、と思っています。だって、いまから新規産業で「10兆円規模」の産業育成をするとなれば、これはもう大変ですよ。でもね、医療・介護分野で見れば、今後その市場規模が必ず出現(今大体35兆円くらいですから、いずれ45兆円市場となる、ということです)するわけですから、その周辺市場も含めると大きな経済効果と言えます。どうしたって利用する実人数の増加は避けられず需要は増えますから、雇用人員の数自体を増やさないと業務が出来ませんね、多分。だから、一人当たり給与単価を下げて、その代わりに人数を多くした方が社会的にバランスはいいですよ。


社会的な将来不安が後退すれば、個人の消費心理も好転するでしょうし、小売業界も生き返るかもしれないですが、現状のような暗い未来しかないような状況では、多くの人が消費意欲を抑えてしまい、貯蓄に多く回そうとすると思いますね。そりゃそうでしょ?とりあえず「信じられるのは、現金」って思っている人は多いと思うけどね。これでは、買い控えがいつまでたっても終わらないんじゃないでしょうか。早く、明るい未来を見せて欲しいぞ。それには社会保障改革だって。



「睡眠時無呼吸症候群」の運転士?

2005年05月26日 20時27分15秒 | 社会全般
前に書いた記事に「睡眠時無呼吸症候群」は味気ないので、「ピックウィック症候群」と呼んでほしいと書いたのですが、一般社会からは受け入れられなかったようです。そりゃそうか。落合先生もこのsyndromeについての危惧を書いておられましたね。

Yahoo!ニュース - 読売新聞 - 公共交通の運転士、最高8%が睡眠時無呼吸症候群

参考記事:言葉の触発


交通機関の運転をする人にこの症候群の方がいれば、突然の睡魔が襲ってきますので危険性が高く、このような病気になった職員は内勤に変更するなどの安全対策が求められます。

また、他の病気でも服用している薬剤によっては眠気が副作用のものもあり、十分な注意が必要ですね。「抗ヒスタミン剤」「向精神薬」などの一部はそうした副作用のものがあります。そういうのは、自己申告になりますから、病院とか薬局で運転業務に携わっている人が自分から申し出ない限り、うっかり投薬されてしまうかもしれません。その場合には、服用者自身が副作用について留意することが必要ですが、どうなんでしょうか?

航空機のパイロットの場合には、かなり厳密であると思いますが・・・


「脳機能学」って、どんな学問?

2005年05月26日 13時48分17秒 | 俺のそれ
切込隊長のブログで番組出演の告知があったが、何故か肩書き欄は他の方々と違っていた。
「山本一郎(切込隊長)」

WWW.NNN24.COM

って、職業が「切込隊長」ってことですね(爆)。
以前に表記関係を書いたけど(@入りの名前?)、「切込隊長@山本一郎」を見た人が、勘違いしたんじゃないのかな?


これは、「切込隊長こと山本一郎」であると思っていたのですが、実は、「陶芸家 ○○」とか「作家 ~~」とかそういう感じで解釈すると、「切込隊長 △△」ということになって、そうか、「「切込隊長」っていう「その道」があるんだ」的発想ですね。判るような気もするな。でも、インタビューとかで「どういったお仕事をされているんですか~?」と聞かれたら、「切込隊長やってます」というのも有り得ないでしょうけれども。これは多分担当者のシャレでしょう。


他の参加者には、宮崎氏(評論家)のような中教審の委員に選ばれるような方も出ておられるが、最近ネット上で時々目にしていたお名前である「苫米地」氏もご一緒ということだ。苫米地氏は、肩書きが「脳機能学者」ということであるが、これも「切込隊長」と同じく非常に珍しい肩書きである。普通の学者さんの場合には「社会学者」とか「教育学者」などのような普遍的なものか、「外科医」「精神科医」のような職種的区分や「医学博士」「工学博士」「理学博士」などの資格(学位が資格と呼ぶものか不明であるが)、それか「東大教授」「京大教授」などの所属を示すものがほとんどであろう。ところが、「脳機能学者」というのは、「地球物理学者」と同じような分け方ですから、そういう確立された分野があるのでしょうね。


大脳生理学とか神経生理学などの他、脳機能マッピングとかの分野もあるけれど、そういうのと違った分野だろうし、苫米地氏の「脳機能学」というのは、どんな研究なんだろう?人工知能とかニューラルネットワーク研究とかも違うんでしょ?経歴から見れば、コンピュータ研究なのかと思うけれど、でも機械だけの研究で、生物(生体)研究をしていないのに「脳機能」は有り得ないだろうし。私のような素人の想像を超えているね。誰か詳しい方がおられましたら、教えて下さいね。



麻生大臣の戦い

2005年05月25日 16時06分29秒 | 政治って?
先日の総務省幹部更迭の一件では、自民党内から「大臣なら体を張れ」と非難も受けた麻生君。庇う声も聞かれたが、官邸の強力な指示には逆らえなかった模様である。確かに、CEOから「あいつをトバせ」と言われたとしても、グループ社長であるところの各省庁大臣が突っぱねることが出来れば、幹部社員である官僚を更迭せずに済んだであろう。そこまでのリスクを採れなかったか(大臣更迭が有り得るということ?麻生君の更迭など、現実的には有り得ないだろう。そんなことをしたら、自民党の内部抗争が激化して、内閣は瓦解するだろう)、麻生君が庇えないほどの何かがあったのかもしれない。真相は判らないのであるが。

「敵は霞ヶ関にあり」? その2


郵政民営化では、平ちゃんと対立しながらも決して譲らず、小泉裁定に持ち込んだ。三位一体改革においても、地方への圧迫が強まる中、地方財政の擁護を考えた(それか、中央の影響力行使を残すことを考えているのか?)発言をして、財務省&谷垣君と徹底的に対立しても一歩も引かず、経済財政諮問会議での民間議員達とのバトルでも、「学者や経済人と、政治家は別だ」というスタンスを貫く(本当にそんな思想なのかは知りませんが、何となくそんなイメージです)姿勢には、政界でもまれ実力を付けてきた自負のようなものが感じられる。平ちゃんとの対立の中でも、「学者風情に何が判る」「理屈と(政治)現場は違う」という雰囲気を漂わせていた(これも単なる印象とかですから本当かどうかわかりませんよ)。総務省への思い入れがどうの、ということではないだろうが、総務省としての言うべきことは必ず言う、ということは一貫している。そんな麻生君でも、抵抗勢力への「内通者」「機密漏洩者」と目された幹部の更迭を受け入れざるを得なかった。


前にも述べたが(次期首相候補は誰?)、私の個人的な印象は、麻生君が首相というのはちょっと嫌だけど、政治家としてのスタイルや実務面では評価できると思う。福田さんもそうだが、実務を頑張って行けばいいんじゃないのかな。でも、麻生君は顔が怖いんだよね。昔の政治家スタイルを踏襲しているかのようですね。「たたき上げ」って感じだし。だが、人物としては中々面白いと思うな。外務大臣あたりをやらせてみたい気もするけどね。会談でも、「顔で威嚇」出来そう(笑)。麻生君の外交センスはどうなんでしょうか?よく知らないけれどね。スマート町村さんよりも、強力そうだけど、センスが大事ですからね、やっぱり。


それはそうと、細田官房長官は記者会見にラフなシャツ姿で登場しましたが、今まで見た細田さんの中では一番良かったですよ。いつもあれでいった方が、印象は随分いいと思いますけどね。笑顔も良かった。ああ、だけどシャツの折りたたみ線がくっきりついていたのは、いただけない。買ったばかりで、袋から出して直ぐに着たのが判ってしまいますから。誰かアイロンかけてくれなかったのかな? 笑

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - 細田官房長官 「ノータイ、ノー上着」で記者会見に登場


その細田さんは、例の帰国問題について、「コメントを控える」という立場をとることにしたようですね。とりあえず沈静化を図って、その後の対応を探るということになるようです。

Yahoo!ニュース - ロイター - 中国副首相帰国、これ以上のコメントは生産的でない=官房長官


全く関係ないんですが、昨日から同じ所からTBが延々と30以上送られてきます。これって、スパムでしょうかね?どうしたら、これを防げるか分かりません。何か方法はあるのでしょうか?とりあえず今は削除しておりますが・・・それと送られてきた先のブログ(?、だと思うけれど・・・)は怖くて見てみることができません。どうすれば良いでしょうか?何か良い方法を知っている方は、教えて頂けないでしょうか?