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経済学への期待と落胆

2009年07月20日 14時08分19秒 | 経済関連
岩本教授の書かれた次の論文を目にする機会があった。

行動経済学は政策をどう変えるのか


経済学界では評価がそれなりに高いのだろうと思うが、私にはそれが何故なのかは、よく判らなかった。その理由というのが、内容を読めば判ると思うけれども、これは論文というものなのだろうかという疑問があるからだ。少なくとも、経済学に関する「読み物」としては大変興味深く読むことができた。しかしながら、「これを論文と称するのか」と問われると、それに同意するということには自信が持てないのである。


これまでにも何度か指摘したことがあると思うが、経済学の多くは事実や研究の積み上げ効果が乏しいのである。一般的にいう自然科学分野などの論文というのは、もっと違った体裁とか判定基準などがあるのかもしれないが、多くは事実を挙げて書かれているものである。単なる著者個人の意見や見解などを書いたとしても、それはレビューのようなものとか読み物的なものでしかないのではないか、ということだ。

岩本教授の書かれた論文の中には、何かの事実の指摘が一つでもあったのだろうか?
コロンブスの話は事実なのかもしれない。だからといって、経済学的知見が新たに加わるような論の提示でもあったのだろうか?

そう、経済学の多くの読み物の中には事実の指摘がないのである。
事実の指摘というのは、例えば「商品Aの販売量が、5月は100個、6月は150個」のようなものである。それとも、「ある地点Bにおける台風の発生は7月よりも9月の方が多い」というようなものである。どのような論の立て方をしようとも、上記ペーパーには著者の主観的な見解が書かれているのみで、事実がないのである。経済学の議論の多くは、こうした仮説・仮定の上に更なる仮定を積み重ねてゆくのみであるので、事実の確認のないままに「~は妥当である」「~正当である」「~は間違っている」という具合に、短絡的結論に結びつける傾向が極めて強いように思われる。


喩えを常用して申し訳ないが、上記ペーパーを読んだ時の主張点を別な分野に置き換えてみると、次のようなものであると感じた。

・薬剤には副作用がある
・薬効には個人差がある
・薬理効果が十分に発揮されないことがある

要するに、あまりに当たり前のことを、あまりに平凡な結論として述べているに過ぎないのである。

「政策には副作用がある」とか、「行動経済学では十分に分析できない(政策の妥当性の検証ができない)ことがある」といったような、ごく普通のことが書かれているに過ぎないのではないか、ということである。

これは行動経済学のみならず、経済学全体についても同じく言えるのではないか、と思うわけである。


だが、世の中の多くの経済学者とか、経済学の専門性を仕事としている方々の多くは、何故か「正しい答え」を確実に知っているというように振舞っているわけである。
その答えはどのように得られたのであろうか?
どうして正解が判るのか?

それは個人が単なる主観的見解を述べているに過ぎないのだ。答えを求めようがないのにも関わらず、さも正解が判っているかのように振舞うのが経済学者の常道なのである。誰もその証明すらできないものであるのに、どういうわけか彼らは「既に答えは知っている」のである。本当に不思議でしょうがない。

答えが判らないのであれば、初めから判ったフリをするべきではない。それは多くの人々を騙すのと同じだからだ。「正解は判っていないが」とか「十分明らかにされていないが」、という枕詞を常に並べて言うくらいの謙虚さがあってもいいくらいだ。そんなに学問的成果に対して謙虚な経済学者を、これまでただの一人も見かけたことなどはないが。

日本の経済学者たちの多くが陥っているのは、まさしく「ブードゥー」だ。

人体の構造や働きがよく判っていない、病気自体がよく判っていない、薬の種類や効果や性質もよく判っていない、確立された治療法もない、という、判らないことづくしであるにも関わらず、「コウモリの羽と、もみの木の葉を煮詰めたものを混ぜ、それに牛の糞とヤギの角の粉末をこねて、傷口に塗れば治る」みたいな意見を言っているのと何ら変わりがない、ということだ(新しい方の『大聖堂』に出てくる、旧式の知識しか持たない修道士とそっくりなのだ)。なのに、何故か最後の治療法の選択の部分だけは専門家だからということでしゃしゃり出てきて、「これが正しい、だからこうしろ、ああしろ」と断言するのである。

経済学に関する専門家の人々を見ると、誰も正解を知らないのに、よくそんなに簡単に断言できますね、という驚きが率直な感想である。


政策選択・決定というのは、簡単なことではない。
上の例で言えば、最後の治療法の選択・決定とほぼ同じようなものなのだから。
今の経済学の知識では、全くの不十分な情報しか得られない。治療法選択においては、知らないよりも知っている方が有利ではあるかもしれないが、断片的知識を繋ぎ合わせてみたところで正解には辿りつくには程遠い。

しかし、目の前の患者を放置することができないのと同じく、政策決定は時間との闘いなので、どうにか選んで決定せねばならないのだ。そういう時に、正解を知らない人間たちが沸いて出てきて、「この薬を塗れ」とか「包帯は効果がないのですべきではない」とか、口々に文句や命令を言い、人々を惑わせるのである。しかも、彼らのほぼ全部が、態度は尊大で自信満々ときている。無知な一般大衆を嘲り哂うか、権威を嵩に来たような傲慢さを持っているような人もいる。
結局、どれが正しい意見か見分けることなど不可能なのである。そういう誤った情報を撒布する、余計な口出しをしてくる連中があまりにも多すぎなのである。彼らを黙らせるには、いちいち個別に撃破しなければならないのである。そうなるまでは、決して黙ることがないのも特徴の一つかもしれない。


例えば、「医療サービスの提供は《政府/民間》が行う方がよい(望ましい)」という一つの結論を得る為の研究に何十年もかけてきた、ということがあったろうか?これに挑んだ研究者たちが知見や事実を積み上げてきたということであるなら、正しい答えが見つかるはずだ。もしそうであるなら、自信を持って結論を言ってもいいであろう。たとえば「政府はやるべきでない」とはっきり答えられるであろう。政府の失敗を非難するのも当然ということになるだろう。そういう手順を踏んでいない意見や議論があまりに多すぎであり、ニセ科学の如くニセの屁理屈が横行している、というのが経済という分野の現状なのである。


こうしたことを感じるのは、私が部外者であり、経済学のド素人であるから、なのかもしれない。