いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「アンティキティラの機械」

2006年11月30日 21時32分31秒 | 社会全般
今日の読売朝刊に写真入りで出ていた。何だか、素晴らしい。

映画の「トゥーム・レイダー」シリーズに出てきそうな機械だ。


11月30日付、読売記事より一部抜粋(Yomiuri on-line には出てなかったのでリンクはないです)。


ギリシャ沖の海底でばらばらの状態で発見された2000年以上前の謎の青銅器具「アンティキティラの機械」を、アテネ考古学博物館や英カーディフ大などの国際研究チームがコンピューター画像で復元することに成功した。

チームは、この機械が、太陽、月の運行周期や日食などを予測する「最古のアナログ計算機」だったと推定している。30日付の英科学誌ネイチャーに掲載される。


本当に「スゲー写真!!」ですよ、復元画像は。

これはまさに何かの映画で見た天体の動く模型みたいな印象ですが、復元画像はもっとコンパクト。でも、非常に複雑な歯車や可動部のアームみたいなのがあって、よくぞこんな「歯車」とかきちんと作れたな、と驚嘆するばかり。歯の数は、かなりのものだと思うね。凄いよ、人類は。


2千年前にこうした機械を作れたのだとすれば、当時最先端を行く人たちの、(当時での科学的)「知識の結集」だったのかもしれないですね(笑)。

時間を正確に測るのは難しかったのに、運行周期を計算していたのだから、立派ですよね。そういう「発想」自体が、仮に多少の誤りや誤差があるにせよ、凄いと思う。



いつか、復活して欲しいと願いつつ・・・

2006年11月30日 21時15分34秒 | 俺のそれ
「ふぉーりん・あとにーの憂鬱」さんのブログが、遂に終わってしまった・・・。
とても残念だ。

いつも勉強させて頂いたのに、御礼の一つも言えなかった。


不愉快な思いをさせてしまったこともあると思います。スミマセン。


あと、ひょっとしたら誤解を与えてしまった面があったのではないかと思いますが、決して47thさんを批判していたのではありません。これは本当です。偶然にも批判の矛先の方向が近くなってしまったりしたものですから・・・・・でも、申し訳ありませんでした。



できれば御礼の言葉をコメント欄に書き込みたかったのですが、経済学信奉者たちからは「コメント・TB禁止」要求が出されていたので、それを無視することなどできなかった。それに、私がコメントを書くと、色々と迷惑をかけてもいけないと思いましたので。



恐らく届かないと思いますが、心からご活躍をお祈りしております。

いつかブログ復活の可能性にも、密かな期待を寄せております。



腰痛につき

2006年11月30日 20時01分11秒 | 経済関連
非常に辛いです。

まさか自分がこのような有様になろうとは・・・・


歳には勝てないのか。
我が家のわんこのお相手をしていたりして、グキッっとなってしまいました。
元々かなり危険だったのかもしれないな。


前にかがむことができません。
こうして老人たちも、腰が曲がってゆくのでしょうか。


立ち上がるのも凄く辛い。痛い。
腰の周りの筋肉は、咳をしたりするだけでも働くんですね。痛いもの。
ちょっとした動作の度に、痛みが走ります。
うーむ、何も運動をしてこなかった罰なのか・・・・



私の「こころ」は有限世界なのか?~その5

2006年11月28日 21時33分10秒 | 俺のそれ
ちょっと断続的になっていますが、続編です。

前回は、ネット世界の情報蓄積と、実験場的役割について書きました。この実験場に参加する人々の数は増えていってるし、今後も増加するでしょう。巨大なデータベースが構築され、個人の脳内情報の外部への移転(ネット世界への書き込み)が促進されるでしょう。


こうした情報はどのように活用されるかは、「情報と情報の繋がり」「何かの反応・反応系の誕生」というようなことに重きがあると予想しています。言うなれば、情報の「融合」と「洗練」という過程が大事なのではなかろうか、と。

まずは、「融合」ということから。別に、子どもたちが好きな「遊戯王カード」ゲームの「融合!!を発動!」とかいうのとは何の関係もありません(笑)。これは主に、何かを組み合わせたり、転換したり、そういうようなことが行われる、ということですね。あまり良い例が思い浮かびませんが(発想が貧困なもので・・・・)、例えば、「痛くない針」というのがありましたが、あれは「蚊」に刺される時に殆ど痛みを感じないのは何故か、というところからヒントを得て、商品にしたものだったと思います。これも、「蚊」「痛み」「針」というようなことから、それらの情報をうまく組み合わせた結果、商品開発に結びついていると思います。こういう「融合」が行われれば、現実のビジネスでも役立つ可能性があります。


これをある程度使える知識・知恵として用いるには、結構な確率を必要とします。情報が出会うことも必要であるし、正しい知識に基づく情報が得られなければならないでしょう。成功までの時間を短縮するには、こうした「正しい知識」というのが求められます。何処かの誰かがそういう知識を得て、公開状態(他の誰かがアクセスできる形)になっていることが望ましく、「正しい知識」の形になっていなければ自分でそれを得ることろから始めなければならないので、もっと時間がかかることになります。でも、「蚊」の研究というちょっとマイナーな分野を研究している人が少数でも存在していれば「ラッキー!」ということで、その研究成果を利用させてもらうことが可能になるのです。こういう具合に、他の誰かが調べてくれた知識と、自分の考える、或いはこれから得たい情報というのを「融合」させることで、新たな発想=新たな知識を生み出すことになると思います。


ここで、最も基本的なことは、「他人の脳みその中にあった情報」と「自分の持ってる情報」が出会うことが必要で、特に、「他人の考えた・研究した道筋・道程」というのが、とても役立つのですよね。これは、昔の豆腐の製法でも、ハムだとかチーズの製法なんかでも同じようなもので、他人の得た成果の上に、今度は新たな自分の成果を付け加えることで、新たな情報・知識を獲得するようなものなのです。これは化学反応の「カスケード」の上流から下流へと向かっていくのと似ています。これまでは、ある段階までカスケードが進んできていて、そこから新たな反応経路が獲得される、ということです。別な利用の形があるのであれば、そこで分岐して、別な反応経路が作られていく、ということですね。


これが起こる段階というのは、「産みの苦しみ」みたいな「低迷期」が直前にあることが多いように思います。よくビジネスの成功話なんかでも、研究開発段階で壁に突き当たり、行き詰まることが出てきたりしますよね。それと同じです。大抵は、ある瞬間にジャンプするようなことが起こるものです。何かの「閃き」とか、それこそ天啓(柳田先生風に言うと)のようなイメージです。これは、原子のエネルギー状態にちょっと似ていて、「励起状態」(より反応性が高い不安定な状態)になれるのは、ある一定以上のエネルギーを獲得できないとそこには到達できず、そのほんの僅かに足りない状態であっても、反応を起こせないのと近いイメージです。その歩みは、傾斜が一定の「坂道」を進んでいくのではなくて、部分的には「階段」になっているのであり、そこでガチンとぶつかるとまさしく「壁に突き当たる」ということになり、その階段をジャンプできるところまでエネルギーを溜め込んでいかないと決して乗り越えられないのです。


なので、考え抜いて、考え抜いて、「うーん」と死ぬほど唸ったりして(笑、別に唸らなくてもいいのだけれど)、エネルギーを溜め込んでいくのですね、きっと。四六時中、そのことばかり考えたりしていると、ある時、ハタと気付くというか閃くのだろうと思います。今やっている目の前の現場では、間違いの原因に直ぐに気付かないとか、いい解決方法がわからないといったこともあったりするのですが、何故か別なことをやっていたりボケっとしたてりする時に、電撃的に「あ、そっか」というような感じで判ってしまったりする、ということです。

要するに、「励起状態」に達するような、ある瞬間というのがあり、そこでパッと思いついてしまうのですね。それまでは、必ず「行き止まり」のような地点に迷い込んでしまうのです。閃く直前までは、暗闇なのに、ですね。


こういう「階段」の部分を越える為に必要な能力というのは何か、というのが重要ですよね。私にもよく判りません。が、あるいい加減な推測はあります。それは何か、と言えば、何かの専門的知識・思考を持っている、ということです。もっと平易に言うと、「職人的」ということかと思います(表現が良くなくて申し訳ないです、皆様)。研究者でも、SEでも、商品開発の人でも、将棋のプロ棋士でもいいのですが、そういう「職人的」な思考を持つ人は、きっと励起状態への「閃き」を持っていると思います。理由は判りません。経験的にそうした思考法に慣れているからなのではないか、とか、適当に思ったりしますが、これといった明確な裏づけも何もありません。でも、恐らくそうした「職人的」発想、思考そのものが、大変重要だろうな、と感じます。


そういうわけで、私の推奨としては、何の分野でも構わないので、「まず職人になれ」ということですね。音楽家でも、絵描きでも、囲碁棋士でも、寿司屋でも、農家でも、何でもいいのですが、「職人」になることを真剣にやってみた方がいいのではないかと思えます。カッコよく言えば、「スペシャリスト」ということですか。作業とか仕事のやっつけ方から始まって、適度に「経験的」思考法もあったり、無駄のない「合理的」思考法もあったり、そういうのを体験し身に付ける訓練になると思います。「何故この手順なのか」「何故これをやっておくのか」・・・・色々と判ることがあるものです。プロ意識も養われるかもしれません。で、同時にやっておくのが望ましいのは、全く異なる分野の知識習得です。これは、ある種のリスク軽減措置?でもあるし、後々重要になってくることかもしれませんので。


アメリカの大学でのスポーツ奨学金を得る学生は、学業成績が悪くなることは許されませんよね。プロスポーツビジネスが日本よりも発達しているのだろうと思いますが、それ故「リタイア組」が相当数に登るのだろうと思います。競争の参加者たちは「一発当てよう」と(本心で思っているか判りませんが、成功チャンスはあるし、成功した時のドリームはデカイので)しのぎを削るわけで、途中で振り落とされる人々(日本では所謂「負け組」などと言われるかも)がその後の人生で大きな挫折となってしまっても困るのです。ということは、挫折した場合にも、生きていけるようにそれなりの教育とか、技術習得とか、社会生活参加の準備なんかは行われているんじゃないのかな、と思います。大学教育というのも、スポーツだけではなく、普通の一般学生たちと同じように「学業」での成果を求められるのであろうと思います。このことが、競争に敗れた後のリスクを補うセイフティ・ネットの役割を果たしているのではなかろうか、と。


なので、ある特定領域に自分の精力の大半を傾けるのは勿論なのですが、今すぐ必要とも言えないかもしれないが、関係なさそうな領域についても学んでおくということは重要だと思うのです。このことが、別な意味で「閃き」のポイントにもなり得るのではないかと思っています。


ある程度仕事をやって、最低でもその分野の標準的な「職人」のレベルには到達する必要があるのですが、そういう中から新たな発想へと繋がる部分が芽生えてくるのではないのかな、と。大工が見習いから始めて、一通り仕事を覚え、現場に出してもらえて、ある程度1人でも仕事をこなせるようになったとしましょう。ある現場を担当している時、お客から意外な注文とか、「こういうのはできないもんなんでしょうか」とか要望があったり、そういうことがあるかもしれません。普通の大工であれば、それは無理だな、とか、そういうやり方はできそうにないな、とか、思ったりすることかもしれません。ですが、案外別な領域でのやり方を知っていれば、その知識を応用したりして、解決可能になることも有り得るかもしれません。そういう「別な力」を持つ、ということが柔軟な発想や、気付きそうで気付けない知恵に結びつくのではないのかな、と。職人的思考は単に「勉強」ばかりやっていてもあまり身に付かないようにも思えます。できるだけ何かの仕事や作業をやって、そのうち染み込んでいく・・・・というか、滲み出てくるということなのかもしれませんが、そういう印象です。


<ちょっと寄り道:
職人というので思い出しましたが、以前事故やミスを防ぐのにも職人の経験とか勘というのは案外と大事だ、みたいなことを書きました(金融政策とtarget)。数値を過信しない、ということもそうです。一見、「数字」というのは正しそうに見えることもありますが、実は「落とし穴」であることもあるのです。これは、実際にそういうことを自分自身が体験したことがないと、多分受け入れ難いのではないかと思います。でも、偽札だって、「手触り」で発覚して犯人が捕まったりすることはあるのですよ(笑)。ニセドル札にしても、人間の判定能力の方が機械よりも上回っているのが現状なのです。「職人」とはそういうものではないかな、と。調律も人間の方が優れているんですよね?確か。
なので、「ん?ちょっと待てよ」という「野生の勘」?を常に持っていた方がよいのではないかと思います。>


自分の専門とは別な領域のこと、つまりは異質性の高いことが、逆に新たな情報を生み出せることもあるのではないのかな、と思います。これは梅田氏の指摘していた5つの能力のうちの一つです(私の「こころ」は有限世界なのか?~その3)。


一つの容器の中に、似たような物質ばかりである時、反応形式や生成物というのは、同じようなものが出来やすくなってしまうかもしれません。そういう中に、全く異なる物質が投入される方が、反応形式のバリエーションは増えそうな気がします。前にも書きましたが、タンパク質のスープの中に、金属イオンがごく微量存在することで触媒として作用し、今まで起こらなかった反応が惹起されることもあり、そうした「触媒作用」は先の「励起状態」にジャンプする高さを大幅に下げてくれたりするのです。こうした「異質性」があることは、新たな創造の要因になると思います。



「大学塾!!」だってーー!

2006年11月28日 15時23分27秒 | 俺のそれ
毎度お馴染み、via 『ボツネタ』(ちょっと背伸びしてみました、笑)。


大学塾 - リアルな情報満載の大学WEBサイト

これを見ると、近頃の大学事情が少し見えて参ります。

「日東駒専」とか、「大東亜帝国」とか、知らなかった(笑)。特に、「大東亜帝国」は誰が考えたか知らないが、素晴らしいぞ。言葉になっているもの。


大学塾


6大学に、こんなに「理系」があるなんて、あまり知らなかったよ。更に下の方を見ていくと、面白い。


「偏差値ワープの溝」とか、「越えられそうで越えられない深い溝」とか、面白過ぎー!
そうだったのかー!と。初めて知りましたです。


「明治学院」は「鼻は高いが場所は田舎」という説明で、やや複雑というか、「何の鼻が高いんだろう?」という謎が残る。外国の学生さんが多いとか?違うか。「いちおうはハイソなつもり」というのも、金持ち家庭の入学者が多いのか?分らん。

「獨協」の「一線を越えちゃってるかも?」という説明も、謎だーー。
「日東駒専」との「こっちはこっちで越えられない深い溝」というのも、何故なんだーー!
更に謎は深まる。


次のDグループでは、6大学が「星」なんだって。そうだったのか。「日東駒専」のマンモス大学にとっては、倒すべきライバルということでもあるのか?よく分らんが。しかも、「大東亜帝国」が「彼らがここにいてくれる安心感」って、一体??
何だか、とてもタメになる。凄く。


Eグループの総括が凄すぎる!

「歴史ある伝統校も多いのだが、スポーツ経験者以外の学生を企業が見る眼は、厳しいといわざるを得ない。とはいえ、けっして教育水準が低いわけではないので、本当に自分の勉強したいことを見つけて、一生懸命に取り組めば、きっと道は開ける。しかし実際は、そんな覇気がある学生は少ない。」
って、やけに否定的じゃないですか。可哀想だよ、そんなこと言うのは。

「「何となく」入って「何となく」4年間を過ごしても、活路は見出せない。「なぜ大学に行くか」を考えた上で、自分がピンと来る何かを見つけ出す努力が必要とされる場所だといえるだろう。」
これ、どこの大学でも同じなんじゃないかな?
活路は見出せない、ってちょっと酷いね。

「全体的に「暖簾に腕押し」な空気」というのも・・・・うううっ


池田信夫氏とご同僚になられる田中秀臣先生の上武大学は出てなかった・・・・ちょっと残念。さすがに全部の大学を載せるのは無理、ってことなんですね。確かに、数が膨大になってしまいますもんね。


今度は、関西のDeep編を見ると、神戸女学院がありましたよー、内田先生。
「ザ・お嬢様!」って、いつの時代の方ですかー!!「ザ・ピーナッツ」ぢゃないんだから。
「ええかっこしー」度がお高いようで。
ところで、「甲南女子」って有名なのですか?
「今どきタカビー!」って説明も、コレ書いた世代がモロバレですがな。


勉強になります。
こういうお嬢様方と、一度でいいので合コンなるものをしてみたかったです(笑、ウソですから)。
一体どんな方たちなのかな?お金持ちが多いのでしょうか?


もしもタカビーであった場合、わたくしは終始無口だな。

「アナタ、時計もしてないのね」
(執事がいつも教えてくれるのさ、ハハハ、とか言わない。しないのが本当のオシャレなのさ、とウソをつく)

「何だか靴がシブい(=ボロい)けど、ビンテージモノなんですかあ?」
(う、うん、まあね。希少価値がある靴なのさ。他の人は多分持ってないと思うよ、と。)

確かに年代モノではあるかもしれない(笑)。そりゃ、正しいわな。
今どき、誰も履いてないワナ、こんな昔の靴。

面と向かって言ってしまうでしょう。

「人生はお金が全てじゃないんだー、もっと大切なものがある!」
と、心の中で負け惜しみを言い、
実際には卑屈に
「スゴイですねえ~」と、意味もなく誰にでも賞賛の言葉を向けてしまうでしょう(笑、冗談ですってば)。



サーチコスト(追記あり)

2006年11月27日 18時56分18秒 | 社会全般
前の記事にいくつかコメントを頂いたので、お答えしようと思います。
経済学的な考え方について、私のような無学者にも大変分かり易い例を挙げてご説明を頂きました。どうも有難うございます。

例として、コンビニとスーパーマーケットを説明下さいました。以下に、その一部をご紹介したいと思います。


まさくにさんのおっしゃっていることは、合理的な人間はコンビニの商品は高いから、安売りをしているスーパーで節約をするはずということなのです。ただ、コンビにはそれなりに便利だから(場所がよく、品揃えがタイムリーで、コンパクトな売り場でなどなど)高くても利用されているのです。そして金利規制というのは、例えれば、「スーパーの安売り品を利用せずにコンビニの高い商品ばかり買ってよい生活ができずに困っている人がいるから、コンビニもスーパーと同様安売りをするように価格規制をすべきだ」ということと同じです。そんなことしたらコンビニのビジネスモデルはうまくまわらず、コンビニはたくさんつぶれるでしょうし、いつもコンビニを使っている人間としては非常に迷惑な話なわけです。




ご説明頂いたように、確かに、コンビニがスーパーとは異なるサービスを提供することで、「同一商品の価格」を高く設定してあっても売れる、ということだろうと思います。これは以前に、缶ビールの例で考えた事があり、それに似ていると思いました。「サーチコスト」と呼ぶのですね。私は「審査コスト・捜索コスト」などと変な名称で呼んでしまいました。失礼しました。

論点は大体以下の記事中で考えてみたことと同じ範囲かな、と思います。


貸金業の上限金利問題~その13

理解に苦しむね

貸金業の上限金利問題14(かなり追記後)



何故コンビニで買う人がたくさんいるか、ということの考え方そのものは十分同意できます。また、政府の価格規制には害があることも多々ある、ということも理解できうるものです。私としては、是が非でも上限金利を規制し、利用制限を即刻設けろ、ということを願っているわけではありません。以前から書いていますが、「上限金利規制」でどの程度の改善が見込めるのかはよく判らないし、経済学的理論で「理にかなっている」ということを絶対に信じているわけでもありません。そうであっても、暫定的な措置としてでも、上限引下げには一定の効果が期待できるものであると感じています。時間的にも、実行可能性としても、今のところ上限引下げの方が有利ではないかな、と思います。


消費者金融市場で、特に貸金業界において、コンビニとスーパーの例で言えるような「差別化」、提供されているサービスの違いということはどのようなものがあるのか、具体的にはちょっと思い浮かびません。仮に、大手・準大手以外の貸金業者をいくつか思い浮かべようと思っても、私はまるで出てこないです。スーパーの存在を知る必要はないとしても、コンビニの存在は「ハッキリと」判るのが普通でして、それ故スーパーに行くよりもアクセスされるのですから。ところが、中小貸金というのが、普段その存在に気付くことは少ない訳で、宣伝広告効果は大手や準大手に軍配が上がると思います。中小貸金を「探すコスト」は、逆に高いのではないかと思えます。商品性に違いがあるというのも、その商品性には殆ど違いはないように思われ(借りた現金を受け取ることに変わりはなさそうなので)、付加的なサービス(例えば支払方法等、自分が何処かに返済に出向かなくても業者側から出向いて取りに来てくれる、とか)が異なっているかもしれません。特定の地域内では割と知られている、ということはあるかもしれませんが。扱っている商品が異なり、希少価値の高いものとか、量販店にはないようなものとか、そういった違いがあるのであれば、誰も存在に気付かないような小規模専門店で、高い価格で売られていても、関心の高い少数の誰かが買うこともあるでしょう。しかし、大手と中小貸金での提供されているものとは、どれほどの違いがあるでしょうか?「審査の違い」というのも、大手よりも厳しい、と池田氏などは解説していたわけで、逆に借りにくいのであれば、借り手はコストがかかってしまうように思えます。


経済学的には「取引に規制をするのは間違っている」という主張を度々目にする訳ですが、では、現実にそうした取引規制のあるものについての存在をどのように考えておられるのか、例外的なマーケットというものが存在していないのか、個別のマーケットの性質についてどれほど理解した(事実を知った)上で「規制するのは間違っている」ということを言っているのか、そういうことが大変気になる訳です。スーパーで買わずにコンビニで買うからといって、多くの人々の生活が破壊される訳でも、夜逃げしたりする訳でもないのです。それが人々の社会生活に重大な影響を及ぼしたり、阻害するといったことではないのです。しかし、消費者金融に関しては、その取引が数多く行われることによって、現実に様々な問題を招いており、そうした部分に関しては「規制も止むを得ないのではないか」と考えることが不当であるとは思いません。


例えば、株式市場にしても、価格制限はあります。値幅制限があるのは何故でしょうか?「ストップ高」「ストップ安」を設ける必要性などないでしょう。「買いたい人がいる」ということで、完全自由にするべき、と主張するべきですね。以前みたいに、よく判っていない素人投資家にワラントだの、EBだの、変額保険だのを掴ませるのも、「買いたい自由」に過ぎない、との理屈になってしまうように思えます。こういうのを「自由な取引」として、何の規制も法律もいらない、ということにするのが、社会的に望ましい政策であるとは思えません。経済学がそのようなことを教えているとも思っていません。一見すると自由な経済活動といえども、ルールの存在下で、或いは社会規範で制限を受けているのではないか、と思います。選択する側の個人というのは、それほど情報を十分知って理解している訳でもなく、全員同じレベルを期待できるものではないのが現実です。供給側に一定の規制するのは、取引参加者の参入障壁を下げると思うし(完全な知識がなくても参加できるようになるからだろうな、と)、マーケットが比較的安全(という表現は変なのだが、思いつかないので)な場であるならば、割と安心して参加できることになる。それが今の貸金でどうなのか?というのが問題なのではないか、と。


所謂ノイズ・トレーダーが中々いなくならないし、その存在が必ずしも悪ではないのかもしれませんが(経済学的な意味が存在しているのかもしれない、という意味で)、同じように「プレディター的業者」や「貸し込み業者」を排除できにくいのは確かではなかろうか、と思っています。病原性のある細菌だけを個別に撃破・退治せよ、というのは望ましいのはその通りなのですが、時にはある「抗生物質」で一気に叩く、ということも必要な場合があるのです(勿論、これにも副作用を伴うことが有ります)。善玉の腸内細菌が死んでしまうかもしれませんし、菌交代現象が起こってしまうかもしれませんが、それでもやる方がメリットが大きいと判断されることはあるのです。中小業者がやっていけない、ということになるならば、もっと別な業態に転換していってもらうしかないだろうな、というのが私の考えです。こうした中から、優良なタイプの貸し手だけが多く生き延びるのであれば、その方がメリットは大きいと思えます。そういうマーケットになってから規制を緩和していっても、問題は起こりにくいのではないかと思います。


上限引下げの論点については、反対の意見の側から「引下げ(上限規制)は~だからダメだ」というタイプの意見が多く、「○○の方が~でメリットがある、引下げ案よりも上回っている」という意見をまず見ないですね。現状の規制下ですら「症状」が存分に出てきている訳で、「引下げor規制」を止めて「こうしたらもっと良くなる(ハズ)」という具体的な意見を反対派が出さないのがとても不思議です(47thさんがいくつか出しておられましたが)。それとも、「放置がベスト」という選択をするのであれば、それはそれでいいと思いますが、多くの国民がそれを望んでなどいない、というのが今の状況ではないかと思います。これを衆愚とか大衆の感情論と批判するのであれば、当然のことながら、これを上回る「放置がベスト」の「論拠」を提示するべきでしょう。


私のこうした考え方が、「パターナリズムだ」「近視眼的だ」という範疇であることは承知しております。経済学的センスもない素人のクセに、ということも、何度かご指摘を受けましたので、そうだろうな、とも思っています。それでも、毎年生み出される数十万人の破産者たちや、数千人規模で自殺者が出るのを、黙って見てろ、ということに同意するつもりはありません。これを「僅かの犠牲なのだ」と考えることなど、到底受け入れられるものではないからです。目の前にある現実を見て、問題を解決するのに直結しているものが必要だと考えているからです。


追加です。

上限金利規制を完全固定にすべし、ということを絶対視している訳ではありません。

以前に書いた記事では、公的融資制度を拡充した方がよいと考えましたが、そこでの基準金利は年度毎の変動制でよいとしています。これは厚生労働省の元々の融資制度の適用金利が年度毎で見直されるという性格のものでしたので、それをそのまま用いても何ら不都合などないだろうな、と考えていたからです。公的融資制度の多くは、制度融資なども含めて、固定の制度はあまり見かけないのではなかろうかと思います。その年度の金利水準に応じて(通常は長期金利などを参考に決めているのではないかと思いますが)変化するのは普通ですよ。住宅金融公庫の金利でさえ、それなりに変動している訳ですから。

生活困窮者の対策と破綻処理(追加あり)


それから、銀行融資の例で大まかに考えてみた時にも、例えば「短期プライムレート+上乗せ部分」というような金利決定方法が不当であるとか、認められないなどとは考えていません。ただ、それを検討している人たちはあまり見かけませんね。

消費者金融市場の貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない


参考までに、深尾先生の記事を載せておきます(理事長に就任されたのですね、大学はお辞めになられたのでしょうか)。

ゼロ金利解除後の個人向け貸出市場


もしもこうした変動型の方が優れている、という評価があるのであれば、見直しを年度毎か、半期毎くらいに決めて、変動制の上限にするのも一法ではありましょう。基準日を2月と8月に決めるとか、3月のある一日にするとか、それは実務上支障のない時期を選択すれば済むことですから。時既に遅し、ではありますが(笑)。


経済学理論に基づいて、「上限金利規制は間違っている」と謳っていた人たちというのは、少なくともこうした規制にも反対でしょうから、検討したりはしてないでしょう。彼らの信奉している経済学理論によれば、規制自体が間違いだそうですので。これよりも良いプランをお持ちのはずで、深尾先生のご意見であっても、「経済学的に間違っている」と非難するのも当然でしょうけどね。経済学者の言うことが全く当てにならないのか、経済学信奉者たちが全くいい加減なことをばら撒いているのか、どちらなのか判りませんが、少なくともみんな「経済学」で繋がっているという訳で、どっちの主張を信頼するにしろ、経済学を掲げていてもかなり怪しいことは確かだ(議論も何も)。で、週刊東洋経済の記者氏は坂野先生に訊きに行ってきた、と。そうですか、たまたまの偶然ですね。


元々貸金業者たちが自分たちでよい市場を作っていこうとすれば、厳しい制限を受けることなどなかったはずです。校則を破ったり、酷い違反者が大量に出てくるので、学校側が規則をもっと厳しくしたようなものではないでしょうか。自らが蒔いた種なのですよ。自分たちが自分たちの首を絞めたようなものです。中小業者の8割が廃業する、という主張もありますが、その債権が全部消えたところで、1割程度に過ぎないのですよ。反対派が唱える「多重債務者はたった1割に過ぎない」というセリフと何も変わりないでしょうね。


<脱線しますが、貸金利用者数は週刊東洋経済の新しい号では700~800万人程度という試算が出ていましたが、エラク減少しているじゃないですか。口座数からの推計だから、定かではないようですが、1人平均3社ってのもアレだし、多重債務者比率が随分と増えちゃうんじゃないか?「たったの1割」どころではないかもしれんよ、下手すりゃ(笑)。まあ、もしも利用者に「何社も貸し込んでいれば」、そりゃ慌てるわな。実態が明らかになっていけば、やってきたことが少し周りにも見えてくるかもしれんね。貸金業界全部で800万人程度の利用者で、規制で800万人?に貸せなくなるかも、って、それは全員ではないか?(笑)ものは言いようだな。ナルホド。


それに、80年代に7割以上の業者が消えていったのは同じですね(恐らく6万社以上廃業となった)。それだけ大量に消滅したにも関わらず、現在でも貸金業界は残っているようです。本当に中小業者が特別な能力で貸出しているのであれば、全員で会社を一つ作って業務をやったらいいですよ>貸金業協会の方々。
資金調達コストも大幅に下げられるし、1兆円規模の貸出残高を持つ「大手」に比肩するよ、直ぐに。何故それをやらないのでしょう?



私の「こころ」は有限世界なのか?~その4

2006年11月26日 17時32分54秒 | 俺のそれ
ちょっと間が空きましたが、更にシリーズを続けたいと思います。

今のネット世界の中には、膨大な情報が残されています。これまでの歴史というか、長い時間経過の中で「何らかの形で保存されてきた情報」ということですね。そして、現在も刻々と情報量は増大し続けています。更に、このサイバースペースに保存されていない、別な保存形式(例えば古書や専門書等)のものも存在しています。今後の趨勢としては、この空間に様々な情報が保存されることが多いでしょう。行政文書などもそうですね。公開されているものは、全てネット上で見ることが可能ですから。


これらの膨大な情報がネット世界に残されて、何か起こるか?というと、それ単独では何も起きないでしょう。データベースとして活用できるだけで、情報そのものが何かのアクションを起こすという訳ではないですから。

例えば「名前」の情報がネット上で全て保存されたとして、名前の巨大データベースができあがるだけで、それ自体にはあまり意味はありませんね。「北野」という名前、「ジョンソン」という名前がある、ということが調べれば判るだけです。基本的に名前は文字列であり、そのデータベースには特に意味はないのです。ネット世界にそれがあるからといって、直ぐに何か起こるかというとそうではないでしょうね。

でも、検索によって「日本人の男子の名前」として件数の多いものがランキング付けされて並べることが可能です。グーグルのようなエンジンは、名前というデータの羅列の中から、そういうものを選び出してきて並べることができるということだと理解しています。では、このランキングには何かの意味があるだろうか?この時点でも、実際的な意味はあまりないですね。ランキングを調べたいと思う人とか、これから命名を考えようという人なんかには意味があるかもしれませんが、「大輝」という名前が最上位に検索(実際調べてないので判りません、全くの適当ですから)されてきたからといって、それが何かに繋がるというのもあまりなさそうです。調べる意図を持つ人の「考え」によると思います。


ネット世界の多くの情報というのは、これに類する羅列になっていて、それ自体では何も起こらないデータベースに過ぎないのです。今年の東京の正確な気温データを全てネット上に置いてみたとしても、それ単独では何の価値も生まれないし、何も起こらないのです。情報が何かをもたらすのではありません。今の所、あくまで人間の考えでしかないと思えます。


未来への希望も何もあったもんじゃない、とお怒りの方々もおられるかもしれませんので、もう少し話を進めてみましょう。先の名前のデータベースですが、これだけでは意味のない情報になってしまうかもしれないのですが、もっと活用という方向で考えてみます。例えば「安倍晋三」という名前データは、これ単独ではどうにも使いようのないデータに過ぎず、他の「鈴木健一」という名前データとあまり違いがありません。ところが、Wikipedia のような「人物の特定」と人物データに結び付けられるとどうなるかと言えば、「日本の総理大臣の人物経歴」のような違った形の情報を生み出してきます。情報と情報が結びついて、別な情報をもたらす可能性が生まれます。活用とはそういうことです。更には、名前データによって人物を個別に特定し、ネット上の取引の全てを抽出してくる、というようなことを可能にするならば、ネット上の取引全てについて正確に課税することが可能になる、とか、そういうのが情報の活用ということだろうと思います。単に情報の膨大なデータベースがあるからといって、それが役に立つものとなるとはならないのであり、「情報と情報を結びつける何か」という発想を人間が持たなければならないのです。


そう考えると、情報のデータベースというのは、電気と似たようなものですね。電力供給が行われていることによって、それを利用して別な器械だとか電化製品だとか、そういう活用を行っていく、ということになりますが、それには基本的インフラとしての「電気」がきちんと供給される体制になっていなければできないのです。昔は、書物だとか、そういうものをひたすら調べて、ごく少数の人がどうにかアクセスできる形で(何かに書くことが多かったろう、もし人間の頭の中だけに情報が置かれていれば他の人からは自由にアクセスできないので)記録されたが、そこから別な情報に結びついたり、有効に活用されるようになるというのは、時間も労力もかかったであろうと思う。ネット世界では、そうした時間や労力の軽減に繋がったであろう。インフラとしてのコストは大幅に下がったと言えるだろう。

現在はネット世界に巨大情報データベースの構築している段階で、まだ電力供給ほどの普遍的インフラには至っていないのではないかと思う。だが、いずれそれに近くなると思う。その時に情報をどのように使い、何と結びつけ、どんな形の新たな情報として取り出してくるか、ということの真価が問われるであろう。名前データだけが入力されているだけでもダメ、ランキングが判るだけでもダメ、もっと別な情報と繋がっていることが大事、ということだ。


有効な活用を促進するにはどうしたらよいか、というのは、私には判らない。言えそうなことは、ネット世界がその実験場の役割を果たしてくれそう、ということだ。昔だと、「実際やってみなけりゃ判らない」というようなこともあったろうし(毒キノコで死に目に遭う、というようなことだ)、「失敗だった」という教訓を得るまでに多くの投資コストがかかっていたのではないだろうか。ネット世界であれば、そういう先行投資コストが格段に安い。その投資もリスクも、全世界の個人がちょっとずつ分担しているような意味もあるかもしれないし。なので、あまり失敗を恐れずにできることが多いし、失敗したとしてもその損失は昔ほどじゃないだろう。仮想空間でのことなので。でも、現実世界でもそれを実行するとか、投資して事業とするということについては、それは現実の損失は当然あります。現実世界での実行となれば、リスクも実体化してしまいますからね。なので、ネット世界の実験結果をよく見て決めた方がいいと思います。


色々な物質をボサっと一つの容器に入れておくと、周囲環境の変化の影響もあるかもしれないが、中で何かの反応を生じたり、別な化合物ができたりするかもしれない。ネット世界とは、およそこれに近いイメージだと思う。新たに入れられるものが何か判らないけれども、偶然投入された何かがあれば、従来はなかった反応系ができたりするかもしれません。新たに生まれた物質のお陰で、今度は更に違った反応が起こるかもしれません。バラバラの個人がネット上に情報を増やし続けているのは、まさしくこうした容器の中に次々と何かを投入していっているのと同じではないかと思っています。自分自身もその容器の中のある物質に過ぎないのかもしれませんが。


こうした混沌の中から、ある反応系が誕生してきて、そこから更に別な反応系が作られ、・・・・こういうのを無限に繰り返していくという壮大な実験であり、そのうち「何か使える」ということができてくるかもしれない、ということです。雑多な情報をネット世界にどんどん溜め込んでいって、そのうち情報の融合が起こり、新たな創造に繋がっていくかもしれない、そういう感じです。


途中ですが退席します。追加したいと思います。



週刊東洋経済の大竹論説に関するコメントについて(回答追加)

2006年11月25日 21時26分27秒 | 俺のそれ
週刊東洋経済に掲載された大竹先生の論説を全文コメント欄にご紹介頂いたのですが、問題があるのではないかと考え、管理人の判断で削除させて頂きました。全文掲載の問題と、若干不適切な誹謗が含まれており、その可否について、問題が発生してはいけないかな、と考えたもので。

きっと、立ち読みしか出来なかった私に「全文を」とのご配慮を頂いたものと思いますが、大竹先生のブログでの池尾先生との議論の範囲を出るものではなかったので、基本的には大竹先生のブログ記事を読むのとほぼ同じではなかろうか、と思っています。


頂いているコメントには、後ほど記事に追加したいと思いますが、取り急ぎ。
今、ちょっと時間がなくて・・・・申し訳ありません。



追加です。

前の記事のコメントに少しお答えしたいと思います。

まず私は「まさくに先生」ではありません(笑)。「まさくに」とは仮名であり、教育・研究関係の職業でもありませんので、先生なんかではありませんので。

論点については、以前に書いた記事にある程度書いていますので、挙げておきます。

消費者金融市場の貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない・2


世の中全般で見れば、「預貯金」のない層という人たちが存在するというのも、やむを得ず借りねばならない状況ということも理解はしております。例えば報道されている、単身世帯を除いた調査などでは、金融資産のない世帯が2割超であるということも知っております。単身世帯を含めると、恐らくその数はもっと増えるかもしれませんね。合理的に選択した結果、貸金から借りている、ということも有り得るでしょう。ただ、その割合とか、実数がどの程度なのか、というのが問題になってくると思います。


どうしても借りなければならない時、初期借入を行うのが貸金である必要性というのはないと思います。探すのが面倒だから、とか、手っ取り早く借りたいから、とか、クレジットカードが持てるまでは時間がかかるから、とか、いくつか理由があって、貸金を選択するということは有り得るかもしれません。それが、圧倒的多数かどうかは定かではないと思いますけれども。また、本当に低金利業者からの借入を断られるという可能性も有り得るかもしれません。


では、断られる理由というのは何があるのか、ということになりますが、職業等の個人の属性が影響しているとか、収入基準とか、そういった審査基準があるのかもしれません。が、借入がゼロで、これまでの事故情報もない人が、果たしてどの程度断られるでしょうか?銀行やノンバンクが貸さない、クレジットカードも発行されない、ということは、それほど多いのでしょうか?とても急いでいるから、ということがあるのかもしれませんが、大多数が最初に断られるというのを想定するのは困難かと思います。

合理的に借入を行っている借り手であれば、
①金利水準について熟知している
②グレーゾーンが任意であるということを知っている
③他の低金利業者の存在や金利差を熟知している
④自分が行う借入の返済期間や返済総額・一回返済額について理解している

ということがあると思います。これらの要件について比較検討した結果、合理的にある貸金業者を選択する、ということになるでしょう。


更に、貸金業者の中で、例えば14~25%という範囲の社内金利を持つ大手貸金業者を選択せず、社内金利が26~29.2%という別な準大手貸金業者を選択する理由というのは、あまりなさそうです。自宅の近くにその支店があって、大手が選択できない、などといった理由なら有り得ますが、割合から言えばそういう場合はかなり少ないでしょう。ATM利用等は大手はカバー範囲が広く、サービス面で劣っているということは少ないであろうと思えるからです。現実には、高い社内金利を適用している準大手業者を1社目に選択している人たちは存在しています。この人たちの大多数が、金利差を知った上で、敢えて高い金利の業者を選び、その特別なサービスを求めたということになりますね。


上記①~④を満たす借り手というのは、とても少ないだろう、というのが私の推測です。多額の返還費用が発生しているのも、その顕れではないかと思えます。実際には、自分で理解していたのに、知らなかったフリをして「返還を申し出ている」ということを言えなくもないかもしれませんが、そうであれば初めから「任意の利払い」には応じたりしませんよね。合理的な借り手であれば、「借入に関する取引ルール」については十分知っているはずだろう、と思います。


借金をすること自体が非合理的である必要性などなく、クレジットカードで買い物をしている人たちはそれこそたくさんいますよね。私の記事には、借金をすることが非合理的な行動である、というようには書いてはいないと思います。記事中には、他の借入先を選ぶことが多いのではないかということを書いていますが。


既に銀行カードローンやクレジットカードからの借入がいくつにもなってしまい、残りは貸金しか借りられない、という人はいると思いますが、この人は貸金に行く時点で多重債務ですね。そういう人ばかりが1500万人とか2000万人もいるということでもないでしょうし、年収300万円とか400万円とかで、他に借入がないのにノンバンクや銀行カードローンが信用力不足で借入不可能という人はどれほど存在するのでしょうか?


もしも合理的な借り手が圧倒的多数であるとしても、「返済リスクに応じた金利設定」ということの説明にはなりません。業者間の結構なコスト差があることは疑う余地は少なく、高い金利を適用している業者について言えば、高コスト体質であるというのは言えるかと思います。リスクが高いから金利が高い、ということ以上に、コスト率が高いから、ということの方が多いのではないかと考えています。



続いて、×4さんへの回答です。

「借りなければ生活できない人たち」は、基本的に公的融資制度の利用を促すべきかと思います。金利増大には耐え切れないのであれば、そもそも借入の妥当性というのが問題になると思います。大竹先生は、借入を行った後に失業等で返済困難になった人たちは、生活保護を充実させるべき、というようなことを述べていましたが、それだと生活資金として給付した現金が貸金への返済に回されるだけになり、行政が貸金に金を回しているようなことと同じになってしまうので、あまり望ましくはないと思います。生活困窮で多重債務に陥った人に行政の援助を、というのは根本が違っていて、貸金から借入する前に、まず生活資金等の手当てを行政側に求められるようにする方がいいのではないかと思います。


朝日新聞の記事の方は、独力で訴訟を提起して全勝した方ですね。弁護士費用もないので、図書館で勉強したり、立ち読みしたり(私も同じだ・・・)して、勝ち取ったので凄いと思いますし、これまでどうにか返済を継続してきた、というのも、本当に凄いと思います。このような地獄の淵から生還という事例は、まず滅多にないのではなかろうか、とも思います。

上限金利問題が出てくるまで、私はグレーゾーンなどというものが存在するとは思いもよらず、全く知りませんでしたし。ただ、クレジットカードなんかの金利が凄く小さく書かれていて、かなり高い金利だな~くらいにしか知らなかったもので。それに、リボ払いを選択したことがないし、貸金の返済システムを調べたら、それが案外と複雑だし業者により異なるので驚いた、というのが本音です。



「大竹先生の異論」に異論あり

2006年11月24日 23時55分30秒 | 社会全般
ちょっと、予定を変更して書くことにしました。コメントで情報を頂いて知りました。大竹先生が週刊東洋経済の11/25日号に論説を出しておられたそうで、立ち読みしてきました(お金なくて買えませんでしたです、恥)。そこで、いくつか反論を試みたいと思います。まず最初に、大竹先生がこの問題に関して、サブタイトルで「経済学的検討は十分ではない」と示しておられたことについては、そうだろうなと私も思います(とは言うものの、私が同意しても何の意味もないのですが)。


大竹先生の意見に対して、池尾先生の論点(貸し手に「プレディター」が存在すること)が反論になっていない、とする回答については、専門家同士のご意見ですので、まあそうだろうな、と思います。貸し手に「プレディター」がいるとしても、それは「闇金」が存在しているのと同じようなものであり、「プレディター」を個別に取り締まれば済む問題であるということは言えるかと思います。今は取りあえず貸し手の問題は保留しておき、借り手の分類から考えてみましょう。


以前に書いたのですが、借入可能な消費者全体で見れば、「合理的な人」と「そうでもない人」というのは必ず存在すると思います。しかも大半の人たちは「合理的」であると予想しています。理由としては、「貸金業者から借入するか?」というような企業・業界イメージに関するアンケートなどでは、「借りない」と答える人たちの方が多かったはずだからです。その主たる理由は「金利が高いから」というものであり、あとは「怖い」という印象などがあります。つまり、割と合理的な人たちは、まず「貸金業者から借入を行う」という行動を選択したりはしないことが多いのです。そういう人たちは、そもそも「貸金業者の借り手」になってなっていない、ということです。なので、借り手の大半は合理的ではない人の可能性が高い、と見做すのが妥当だろうと考えています。勿論、中には合理的に選択している人もいるかもしれません。銀行のATM手数料を払うよりも支払金利の方が安いから、といった具合ですね。それならば、元々このような人は「多重債務問題」には関係がないのです。


借り手が本当に合理的な人たちが多ければ、初回借入は必ず低金利業者を選択します。20%で貸す業者よりも、銀行系の15%とかオリックスの8%とか、そういう方がお得なので、そちらを選ぶはずです。ところが、大手貸金を選択している人たちは、他のそういった低金利業者を知らないか、大手貸金との金利差に気付かないということがあると思います。クレジットカードのキャッシングにしても、高い業者をそのまま使用することが多く、ずっと以前から利息制限法を遵守してきたジャックスの18%というグレーゾーンではない金利のキャッシングをわざわざ利用する人は少ないだろう(他のサービスなどの兼ね合いもあると思うので)。


提携カードなんかで、イオンカードみたいな25.6%とかの高金利でうっかりキャッシングしてしまうのです、主婦なんかが。トヨタカードのように26.2%というグレーゾーン金利から17.8%に引き下げたところもあるが、こういうのも引下げ以前はただ単に知らないでキャッシングを利用してしていたに過ぎないと思います。引下げ前後で、顧客層が変わったでしょうか?それは違うと思います。今までカードを持ってた人にも、18%以下の金利を適用して貸しているのです。借り手である顧客が同じなのに、何故金利が下がるのでしょうか?顧客全員のリスクが変わったなどということがありますでしょうか?普通に考えれば有り得ません。


要するに、借り手は「金利水準について、十分注意深く選択しているとは言えないことは多々ある」ということです。消費者全体(潜在的な借り手)の中では、合理的である人は多いがその結果「借りない」という選択を行う人が多いのです。借りるとしても、もっと別な選択を行うということです。例えば、もっと低金利のサービス(銀行カードローン等)や、クレジット販売、目的別のローン等を利用することが多いと思います。


大竹先生の論説では経済学の理論から「一般的な解釈をしていく」ということでは意味があると思いますが、実際の出来事から見れば、もうちょっと違った解釈も出てきても良いのではないかと思えますが如何でしょうか。


一つ重要な質問があります。貸金利用者の特徴的なこととしては、「男性が多い」ということが挙げられます。女性の2倍以上いると予想されます。経済学的には「女性の方が合理的」とか「男性は非合理的な人の割合が多い」、といった傾向を決定付けることは可能なのでしょうか。双曲割引の傾向としては、男性の方が多いという傾向はあると思いますが、いかがでしょうか。元々の経済学理論では、男性、女性の性差を理論に反映することは行動経済学以外の分野ではあるのでしょうか?基本的な理屈では、男性も女性も「一様」なのではないでしょうか?需給や価格を説明する時、需要側の性差について、区別のあるものを私は知りません。


借り手になり得る消費者をざっと1億人(低年齢層は除外されると思うので)とすると、そのうち、多重債務の約230万人というのは僅か2.3%に過ぎません。世帯数だとして考えたって、ザッと6600万世あれば、約3.5%でしかないのです。それくらいの割合で「非合理的」な人たちが存在していたとしても、不思議でも何でもないように思えます。貸金利用者たちが合理的に行動できる人々だという大前提であるとすれば、性差は生まれないのではないでしょうか?女性の場合は、夫が主に借りてる(=妻が借りるわけではない)のでその分少ない、ということがあるとしても、同年代の男女比で1人世帯の男女を見れば男性の方が多いはずです。20代、30代の男性が大手貸金の新規借入者の大半なのですから。


自己破産者の借入状況などを見てみても、2000年以前からの借入で引下げ前の上限ギリギリである40%で初期借入を行い、その後にそれよりも低い金利で別な借入を行っている者は複数存在しています。これはどういうことか?何を意味すると考えられるか?

大竹先生が記事の論説で述べておられたように、「借入金利は返済リスクに見合った金利になっている」などということが、本当に成り立っているのでしょうか?初めに行った借入金利が40%、別な追加融資の金利が29%で、「返済リスクに見合った金利」という判断が成り立つと考える根拠というのは、一体何でしょうか?返済リスクは借入額が増加すれば「金利が上昇する」ということはあっても、逆に「下がる」と考える理由というのは何でしょうか?それも、10%程度下がる合理的理由というのがきっとあるはずではないかと思います。もしも、それがあるのであれば、是非お伺いしたいと思います。


借入金利の分布について、24%付近と15~18%程度の二つに山が存在していることについて、「借り手の返済リスクを全く考慮せずに金利が決定されているわけではないことを示唆している」とも述べておられましたが、これも、実態を余りに知らなさ過ぎなのではないかと思えます。そもそも、大手貸金が平均約定金利が23%超ですので、そこにピークが一つ来るのは当たり前であり(貸出額の7割を上位7社の大手が占めるのですから)、15~18%のピークは準大手のうち銀行系(モビットだの、キャッシュワン・・・・等々)の貸出金利がその設定であるからで、そこでの貸出額が割りと多いからに過ぎません。業者の社内金利範囲によって概ねそこに集まっているに過ぎないのです。借り手のリスクに応じて金利が決まっているのではなく、貸し手のコスト構造によって金利が決まっているに過ぎないと思います。調達金利等の諸費用のコスト率が異なっているからであり、高コストの業者はそれを織り込んで金利に乗せるし、低コスト業者は貸倒率が同じでも金利を低く設定できる、というだけに過ぎないのです。借り手のリスクに応じて金利が設定されているという可能性は、極めて低いのではないかと思えます。


大竹先生のお示しになられた場合分けというのは、理論に則って意味のあるものですが、それが実際にどのように現実のマーケットや消費者に適合できているか、ということになりますと、いささか不確実な部分はあると思います。経済学的な検討ということも、実証分析も含めて必要であるというのは、正しくその通りと思います。


追記
TBしましたが、何故か届きません。弾かれてしまいます・・・残念無念です。


それから、「貸し手独占があれば、上限引下げで貸出額は増加する」と大竹先生は述べておられましたが、85年頃から2005年位までの間では、一貫して「貸金業界の貸出額は増加」してきました。その間、数回に渡る上限引下げ(109.5→29.2%)があり、その度に貸出額は増加してきています。


また、「過剰貸出」という言葉を大竹先生は用いておられましたが、これは「多重債務」に陥るような人にとっては「過剰」なだけで、貸金業界全部が借り手全員に過剰貸出が行われているということではないのではないでしょうか。過重債務に陥るような人には「貸し込みが行われる」というだけであり、1社からしか借入のないような人には「押し貸し」のようなことはあまり起こっていないと思います。

逆選択の場合には、信用割当が行われるということも述べておられますが、民間金融機関が行っていた消費者金融市場の貸出規模は減少を続け、危険な借り手には貸さない、という選別が厳しく行われたであろうと思われ、その結果、「貸金業界」以外の消費者金融市場全体の融資額縮小は実際に起こっているということを付け加えておきたいと思います。



私の「こころ」は有限世界なのか?~その3

2006年11月23日 17時15分45秒 | 俺のそれ
食べることの工夫に関して、昔の人々は科学を知らなかったのに、とても賢いと思える。獲物や採取物の収穫の量的変動は必ずあり、その変動を均等化して行こうと考えたのだろう。麦や米を備蓄しておく方法がそれだ。「ない時」の為に、「ある時の分」をとっておく、という当たり前と言えば当たり前のことなのだが、これをやることで将来の不確実性というか、変動に対するリスクを小さくできるのである。人口の絶対数を増やすのにも役立ったことだろう。他にも色々な工夫は見られる。


昔は、どれが食べられるか、どれに毒があるか、などということは体系化されてはいなかった。それを知ることの為に、まさしく命懸けのチャレンジを行ってきたのだ。毒キノコかどうかは、誰も知らないのだから。食べられるかどうか、という情報を得ることの為に犠牲を払いながらも、次々と食べられるものを見出していったのだろうと思う。更に驚くことは、燻製だの、ハムだの、豆腐だの、アジの開きだの、よくぞこのような方法を見つけ出したな、と思えるものが多々ある。


普通、肉を腸詰めにして、長期間の保存に耐えられるようにしよう、とか思いつかないだろう。肉は放置しておけば、時間が経つと腐敗して腐ってしまう。魚もそうだ。折角大量に肉や魚を獲得しても、食べきれなければ腐ってしまう。それを無理に食べようとして、幾人もの命が犠牲になったことだろう。そういうのを乗り越えられるのは、知恵のお陰だ。肉や魚が獲得できない時であっても、長期保存が可能であれば、その保存分を食べることが可能になるのである。ハムとか、アジの開きというのは、恐らくそうした発想から生まれたのではないかと思う。偶然、誰かが干からびた肉や魚を食べてみたら、大丈夫だったとか、そういうことなのかもしれないが、何かのきっかけで製法を見つけ出し、工夫を重ねて完成度が高くなってきたのだろう。


豆腐を作る、納豆を作る、というのも、簡単に編み出せる製法ではないと思うが、食べることへの関心が高く、知恵を使ってきたのであろう。昔であれば、フグを食べたら死んだ人が必ずいたであろうに、食べることを止めず、どこを食べると「死ぬ」部分か、ということを知ったのも凄いと思う。毒の知恵はずっと昔からあったし、漢方の知識というのも、これに類する経験則の集積によるのだろう。昔の人々は、科学を知らなかったが、経験的に知った科学に近い知恵を応用して、生活の中に活かしてきたということだ。


土木や建築技術にしても、優れたものはたくさんあった。計算ができなければ、到底不可能であったろう、というレベルものが作られてきた。地図もなければ、GPSもないのに、あまり大きくもない船で航海し、あちこちと交易が行われていたというのも、かなり凄いと思える。琉球民族が台湾だの、マラッカ海峡だのと、はるか遠くに出かけていくのだから。日本から朝鮮半島へと渡って行くのも、1500年くらい前には出来たのだから。もしも現代人に同じ事をやってみろ、と言っても、簡単には真似できないものがたくさんあるのだ。昔と同じ小船を与えられて、「オマエ1人で行って来い」と言われても、多くが海の藻屑になってしまうかもしれません。


星だの、惑星だのを観察して、占いなどに用いられたりするのも、昔は観測・計測できるものが他になかった為に、大洪水の起こる確率、疫病の流行る確率、天候不順となる確率などを「何かの関係性」の中に見出そうとしたのだと思う。気象衛星もなければ、天気図もないし、降水量データもないので、自分たちが今観測できるものにしか「頼れるデータ」というものが存在しないからであろう。そういう経験則は航海においても同じく用いられていただろう。風向き、強さ、海の色、潮の流れ、そういったものを「体感」することで、自分の身体を用いて計測する、ということもあっただろう。羅針盤がなくとも、海図がなくとも、何かを観測することで、目的地に辿り着ける方法を知っていたということだ。


今の高校生くらいの人と、昔の偉人たちとを比べたら、前者の方が正しい知識は多いと思う。例えば、「天が回っている」などということを言わないからだ。昔の人は、「火と水と土と金から物質が構成されている」などということを言うかもしれないし。要するに、昔の人たちは「間違っていること」をたくさん信じていたし、知識の量では現代人に敵わないかもしれないが、違った頭の使い方があったのではないか。それこそ、少ない知識の中から「使える知恵」を組み合わせたりして、新たな知恵を生み出していたのではないか。考える能力のある人たちはあまり多くはなかったし、基本的な知識が乏しかったのでそこに到るまでには長い時間がかかっただろうが、経験から得られる情報などを活用して作り上げてきたのだろう。


このように考えてみれば、今の人は昔の人よりも正確な知識の量では優っているかもしれないが、昔の人々が必ずしもバカではなく、知識が少ないなりに実生活に役立つ知恵をつけてきたといえるだろう。そういう知の集積に多くの労力をかけた人々が必ず存在していて(その絶対数は多くはなかっただろうが)、着実に知識を増やしてきたのだと思う。ある時期から、人類はこうした知識獲得を開始したのだが、どうしてそれが起こったのかは判らない。


では、現代人はどうなのかといえば、知識は膨大な量に達するのであるが、果たしてハムや豆腐の製法を考え付くか、というと必ずしもそうではないだろう。そういう能力はまた別なのだと思う。ひょっとすると、知識の量が少なかった昔の人の方が「考える能力」が優れている、ということはあるかもしれない。これは、先日の梅田氏の記事に書かれていたことと関連してくるのであるが・・・・。

梅田氏の取り上げた「能力」について、再掲してみよう。


新しい情報環境をイメージしたときに重要性をぐんと増す能力とは何なのか。たとえば、能動的に情報を探索する能力、知を構造化する能力、断片的な情報から物事を俯瞰して理解する能力、情報の真贋(しんがん)を判断する能力、異質な情報を組み合わせて新しい価値を生み出す能力…。そういった能力は、どんな教育によって身についていくのか。新しい情報環境で陳腐化してしまう能力は何で、希少性ゆえに価値を生み出し得る能力はいったい何なのか。


ここで5つの例示された能力を箇条書きにしてみる。

・情報探索能力
・構造化能力
・断片情報から俯瞰して理解する能力
・真贋判断能力
・異質情報の組み合わせで価値を創造する能力


昔の人々は外部のデータベースが整備されていなかったことから、主に自然或いは現象の中に情報を求めることが多かっただろう。そして、先人を主とする他人の知恵と、自分の知恵を融合させて、前進する原動力としてきたのではないか。今よりも、「他の人の知識」を使える環境は非常に限られていただろう。


上の5つの能力は、昔の人のように生きていると、最も必要とされそうな気がする。有効な「知恵」として、生活環境を劇的に変えることが可能であったからではないか。だが、今の時代では逆にそういう能力を全員には必要とされないと思う。自分がやらなくても、誰も困らないからだ。ごく少数の誰かができていればいい。勿論、自分ができればそれに越した事はないが、できなくても仕方がないだろう。それで生きるのには困らないからだろう。


壁画を描くとか、石版に書くという記録を作って以来、人間は情報を書き遺すということができる場合もあった。しかし、殆ど多くの場合には、経験の中で伝承されたのだろう。口伝がほとんどだったろう。伝言ゲームのように途中で変わっていったりしたかもしれないが、それでも何とか後世に伝承されてきたのだ。書物などに記録できるようになる以前では、他の伝承方法を必要としたであろう。


例えば、歌・音楽のようなものはどうであろうか。一定の旋律を聴くと、歌詞を思い出せる、ということはあると思う。記憶の定着には役立つと思える。物語なんかもそうかもしれない。落語や講談などのようなものも、基本的には暗記であると思うが、内容的に多くのことを記憶するのが可能である。インド哲学なのか仏教なのか判らんが、他にもユダヤ教、キリスト教、イスラム教などの教えというものは、多分これに類する記録が用いられたのではないかと思う。


「書く」ということができるようになってからは、記録が変わった。個人の記憶ばかりに頼らずともよくなった。情報の主なデータベースは、「誰かの脳みその中」だけではなく、「書物の中」に置くことができるようになった。そして出版物が広く出回るようになれば、情報に接する人の数が飛躍的に増大して、伝播速度も格段にアップしたので、それまで「他人の知恵」と「自分の知恵」を融合するまでにかかった時間は、大幅に短縮されたに違いない。情報の出会い確率が向上したからだろうと思う。


こうして、情報はどこまでも膨張を続け、知識はいくらでも増えてきたのだが、「役立つ知恵」としてはどうなのか判らない。将棋の指し手の組み合わせは、それこそ膨大にある訳であるが、意味のある(勝利するという目的の為の)手というのは、その場その場で限定されているのである。その特定の組み合わせを見出していくことは、並大抵の能力では達成できないのである。しかも、過去に定跡として既に網羅されているかもしれず、そこからの新たな変化図を見つけられるなら有意義であるが、無駄なトライでしかないかもしれない。


お金や人口とか、地球環境のような有限世界の出来事や常識は、こと情報の世界では役立たない部分があると思っていた方がよいかもしれない。これは人間の神秘さにも通じる部分でもあるかもしれない。神秘というよりも、不思議さ、ということかもしれないが。人間は何かを知るということに、いつの間にか喜びを見出す生き物になったのであろう。それ故、知の探求をしてしまう。情報を求め、知恵を使おうとする。どういうわけか、知への欲求、知識への欲望が定着してしまっているのである。



私の「こころ」は有限世界なのか?~その2

2006年11月21日 17時12分56秒 | 俺のそれ
前回の続きです。


現在と同じ指標を用いた考え方でいくと、人口増加のような「物理的な大きさ」というものにはどこかで限界が訪れる可能性があり、全世界の国々が格差なく今の先進国と同じような状態になれば、成長率はある範囲に収斂していってしまう、ということになるだろう。櫻井氏が日本の人口減少に没落モデルの危惧を抱く気持ちは判らないではない。だが、ここで疑問が湧いてくるのである。


お金の大きさというのはタダの数字でもあるので、この大きさには限りがない。どこまでも大きくなっていける。つまり、価値の表し方で言えば「凄く大きくできる」ということでもある。ひょっとしたら、100年後には日本の経済規模が5000兆円(!)とかになっているかもしれないのである(笑)。この数字そのものを、どこまでも大きくすることは不可能ではない、と考えることがあってもいいはずだ。そういう意味では、「経済成長には終点がないだろう」ということは、「ごもっとも」と思える面がある。


また変な例であるが、考えてみよう。
江戸時代に歌舞伎というのはあったのですが、当時の貨幣、社会制度、経済システム(運営・諸制度等)は今と異なっており、その評価は今と同じとも言えないだろう。町人たちが歌舞伎を見るのに払っていた木戸銭があっただろうが、当時の価値がどれくらいであったのか、現在価値に置き換えるとどの程度であったのか、そういうのは知らないが、何文(何銭なのかな?何両、とかではないと思いますが・・・)という具合に払っていたのと、今の何円と払っているのは評価が異なると言えなくもないだろう。当時の経済価値と、今の価値では「違っている」というのは、普通なのではなかろうか、と。仮に今は2万円、昔は今のお金に換算してみれば5千円としたら、現代の方が歌舞伎の価値が高いかもしれないが、受ける効用というか、得られるものは「歌舞伎を観る」ということに変わりはなく、時代も違えば出演者も違うが、要するに「歌舞伎を観ている」のは一緒なのである。


人間が生きていく時、得られるもの、欲するもの、というのは、時代が変わっても同じ部分は多々あり、その価値の表現方法が昔は何文で今が何円であっても、本質的な部分というのはさして違いがない、ということでもあるかもしれない。そう考えると、経済成長とか経済規模が「数字の上で」大きくなっていく、ということに評価の(正当な)意味が込められているわけでもない、と考えてもいいのではないか。ちょっとうまく言い表せないが、数字で見て捉えようとする今の自分達の「判り易さ」ということを重視すると、経済成長や規模を、例えばGDPで何兆円という具合に見てみるとか成長率で見てみるというだけであり、それは相対的な評価の一手法ではあるものの、本質的な評価とは違うと思う。このような価値の表現方法を採用したのは、(過去の時間経過に比して)まだ最近のことである、ということもある。これがいずれ別な表現方法に変わって行ったとしても、何ら不思議ではないだろう、というのが私の直感である(かなりいい加減なのですけれど)。


将来脳科学とか心理学の研究が進んでいって、効用の仕組みがもっと科学的に解明されたりするかもしれない。すると、表現方法が定量的に「ドーパミン換算値で100単位ですな、この商品の効用は」みたいになっているかもしれない。「このゲームのストレス軽減効果は、基準ストレスホルモン換算で1000Uです。買いませんか?」というような具合になるかもしれない。脳内物質の定量的表現に置き換えられていれば、今の「金額」表現よりも優先する指標となっているかもしれない。こんなことは近未来では起こらないだろうが、表現方法や指標などというものは、その時代によっていくらでも変わってくるだろう、ということだ。100万石みたいに表現していた時代はつい百数十年前に過ぎず、その時代には貨幣もあったし経済活動も行われていたが、今とは異なる体制・システムだった、というだけのことだ。

高さ30mの松の木は、高さ50mの松より必ずしも「劣っている」ということではないし、今後50mまで大きくなれるかもしれないけれど、そうなれるかどうかが最も重要なのではなく、もっと広い範囲で見れば雑木林か松林か判らんが、自分を含めた木が安定的な「繁栄環境」を保てるかどうか、という評価があってもいいのだろうと思う。


江戸時代に蕎麦を食べたり、歌舞伎を観たりするのと、今の時代に同じことを行うのでは、その本質的な部分に違いなどなく、経済システムや表現方法の違いが最も重要という訳でもないだろう。そう考えると、「100年後の日本のGDPが5千兆円」と表せると考えたっていいし(100年後にそう表すのが有意義なのかどうかはまた別かもしれない)、いやいや「エコ単位導入なので、100/eco/人/年だ」(勿論、こんな変な指標はないですから。架空ですから)、とか表現したとしても、あまり根本的な違いはなさそうである。それが数字的に大きくなった結果なのか、より周囲環境に適応した結果なのか、日本人の賢明な選択の結果なのか、よく判らないが、多分100年後でも、蕎麦を食って、歌舞伎を観ているのではないか。


前回書いたように、民主主義を支えたのが資本主義的な経済活動であり、誰かが言ってたが(どこで見たか忘れました)、イギリス、オランダやアメリカなどのような国での経済活動・繁栄が民主主義の誕生・発展と表裏をなしてきたと考えていいのだろう。これまでの歴史の中ではその方法が割りとうまくいったので残ってきたのだが、かつての帝国主義が消えていったのと同じように、今の資本主義的な体制が永続せずに消え去る可能性は否定できないだろう。


物質面での欲望が満たされるに従い、それ以外へに欲望が向けられるようになるのではないか、というのが私の勝手な推測である。かつては、いつでも腹ペコだったので何とか多くの食糧を得ようと努めてきたし、その工夫も労力も惜しまなかっただろう。だが、食べられるようになれば、今度は別な工業製品などを欲するようになり、資本主義社会の中では金を欲するようになった。金への欲望の制御は未だ困難であるが、未来になれば「金への欲望」ということの比重が今よりも低下していくのではないかと思っている。もっと違う欲望が増大してくるのではないのかな、と思える。例えば、時間とか、老化とか、死とか・・・・これらは大昔からの、永遠のテーマではある。ただ食べて生きていくことさえ困難な時代では、そんなことを求める余裕はなかっただろうが、物質的に満たされるようになってくると、次の段階ではもっと手に入り難い次元のものが欲求の対象になるのではないかと思う。


食糧などを獲得しようという欲望があったからこそ、人間は工夫したり努力したり、一生懸命考えたりしてきたのであると思う。それは確かにそうなのだろう。しかし、物質的欲望が割りと容易に満たされるようになっていれば、もっと別な欲望の対象が必要になってくるのではないか。この欲望とその対象というのが、人間の活動に大きく影響を与えてきたと思っている。



私の「こころ」は有限世界なのか?~その1

2006年11月20日 19時53分17秒 | 俺のそれ
変なタイトルですみません。
色々な人の意見を見ているうちに、モヤモヤした感じがありまして(決して、「モヤモヤ病」=moya-moya-disease のことではないですよ。これは実在の病気ですので。笑)、それは自分の未来とか社会の行方とか、そういったことがとても気になったので。


はじめに、最近ネット上でも話題になっていたことと丁度符合している書評が読売新聞に載っていたので、それを取り上げてみたい。

11月19日付朝刊の「本のよみうり堂」から。
(まだ本そのものを読んでもいないのに、あれこれ書くのは気が引けるが・・・・ご容赦下さい)


一つは、ウイリアム・バーンスタイン著(徳川家広・訳)、『「豊かさ」の誕生』から。評者は第一生命相談役の櫻井氏。まず評者の記述を見てみよう。


経済の永続的成長には何が不可欠か。著者は私的所有権、科学的合理主義、近代的資本市場、敏速な通信・輸送手段の四制度の確立と、それ等の過不足ない組み合わせが必要だという。
(中略)

これは著者も認めている通り、フランシス・フクヤマ『歴史の終わり』の経済版である。フクヤマは、自由主義的民主主義だけが人類の誇りであると、経済を殆ど考慮しない断定をしたが、順序が逆と著者はいう。どの国も民主主義は、経済成長が何十年か続いた後に開花している。
成長はいつまで続くか。勝ち組では、繁栄そのものが成長の阻害要因になる。生活水準上昇に伴い勤労意欲は低下、先進国の成長は長期的に二%に収斂していると著者は指摘する。




経済成長が果たして持続されるものなのだろうか、という疑問は自然に生じうるだろう。そして、将来の危惧は、櫻井氏の言葉を借りれば、「この先数十年に亘り、先進国では高齢化と若年層への教育コストの増大により現役世代の負担は増す。成長した経済が行政サーヴィスに喰い潰される新型縮小均衡に向かうのではないかと、著者は懸念を表明している。今や日本は、没落モデルの典型になりつつある。」と記されている。


日本人の中に芽生えつつある「没落モデルの典型」ということが、将来不安に繋がっているのだろうと思う。ただ、こうした「没落モデル」自体が本当に「不幸せ」なのかどうかは、多分誰にも判らないだろう。前にも書いたが、電気もなければ、テレビもネットもないような世界に生きていたとしても、「幸せだ」と感じることは可能であるからだ。現に、そうやって人類は生きてきたし、今もそれに類する生活をしていて「幸せ」に暮らしている人々が存在している。もしも人口増加が成長の証であり、それが本当に「経済成長」の大部分を支えるものであるとすれば、いずれ限界点はやってくると思う。地球というのは有限世界だからだ。


参考記事:
「円高シンドローム」に初めて触れる

幸せはどこにあるか


人口増加が成長の条件であれば、いつかは物理的に不可能になってくるのであり、その時を迎えると、人類全体が「巨大な没落モデル」と化し、不幸のどん底へ向かって人類全体が転げ落ちていく、ということになってしまうだろう。それこそ、世界の悲劇ではなかろうか。本当に人間はそこまで愚かなのだろうか?


超巨大生物が今の世界では殆ど見られないが(本当は深海の何処かに潜んでいるのかもしれないし、ネス湖に住んでるとか、ヒマラヤ山脈の奥地に生きているのかもしれないが・・・・笑)、これと似ていて、巨体を持つクジラはサンマの群れのようには海を泳いではいないし、ゾウの群れが陸上動物たちの世界を席巻したりもしていないのである。巨大化することが生存とか環境適応に有利とも限らない。それに、大きくならないからといって、進化が止まっているとも言えない。樹齢数千年の木が、まるで「ジャックと豆の木」みたいに地上数km?にも成長して、天空に届いているわけではない。つまり、「物理的に大きくなっていくこと」と、「進化していくこと」「成長していくこと」というのは、若干意味が違うのではないだろうか。それは人口増加が必須要件ではないのと同じように思える。経済成長だけ見れば、人口が増える方が単に「手っ取り早く」大きくなれる、ということに過ぎないのではないか。


細胞もそうだと思う。一つで「超巨大」な大きさ(普通のものに比べて、ということだが)を持つことがあっていいように思えるのだが、何故かそれ程巨大な細胞は滅多に存在しない。人間の細胞では、卵子がデカイくらいで、他はみんな小さい。細胞数が爆発的に多くなるからといって、組織(tissue)や器官(organ)の性能が良くなるとか機能的に向上する、ということではない。マウスの心臓が馬の心臓に比べて小さく細胞数が少ないとしても、進化の程度が劣っているということでもないだろう。進化自体は、必ずしも「細胞の数」に左右されるというものではないだろう。それに、脳の比較では大きさや細胞数が違うのは普通で、確かに脳細胞の数が少ない生物は多いが、一定以上に多くなることがその性能を確実にアップすることを意味するものではないはずだ。「数(の多さ)」以外にも、向上をもたらす何かがある、ということではなかろうか。チンパンジーよりも脳細胞数が多い大型動物はいるかもしれないが、チンパンジーの知能が劣っているということにはならないだろう。


「成長」という時、「経済成長」と「人間の成長」という意味では異なっているかもしれないが、数が「成長の質」を決定付けるものとも言えないのではないか。それは経済成長であっても同じで、数量的(或いは数値的?)に大きくなることだけが有利ということでもないかもしれない。それは「成長」の定義問題であるかもしれないし、「進化」という側面を重視するかどうかであるかもしれないし、「成長の質」の評価軸がもっと違ったものになるかもしれない。


巨大な木が成長するスピードと「雨後のタケノコ」の成長スピードが、もしも同じ割合であったりすると、自然界は大変なことになってしまったかもしれない(笑)。ひょっとすると、過去にはそういう種があったのかもしれないが、それは絶滅してしまったのであろう。大きさがある程度に大きくなってしまえば、「環境」や「物理的要因」などによってスピードが鈍化しても不思議ではないように思える。経済成長もこれと似ていて、新興国のような場合には「急速に」成長を遂げていくが、ある程度の規模に達してしまえば、やはりプラトーに近づいていってしまうような気がするのである。これはあくまで感覚的なものに過ぎないのであるが、感覚的故に、バーンスタインの言うように「2%成長」に収斂していきそう、というのは、理解しやすい。ただ経済成長は、どの時点で「ある程度の大きさ」に達したのか、ということの何かの基準がある訳でもないし、他の例で見ることもできないので、誰にも判らないのであるが。もう既に「十分大きな木」になっているよ、とは誰から見ても判らないのである。


リスから見れば「君は十分大きな木さ」と言うかもしれないし、猿にとっては、「まだまだ大きい木はたくさんあるから、君はもっと大きくなれるはずさ」という評価かもしれないので、自分の大きさには気付けないのである。自分が松なのか、杉なのか、はたまたセコイヤなのか、決まっていないかもしれないからで、どこまで行けば「十分大きいよ」ということなのか決められないのである。なので、「まだ成長途上なのさ」と思っていても正解なのかどうかは不明であり、ひょっとすると「もう随分大きくなったから、これ以上はあまり大きくなれない」ということなのかもしれない。それは自分が決めるのではなく、環境などの周囲が決めることなのかもしれない。そして、別な方法か戦略に気付いてそれを選択するとすれば、もう成長は止めよう、と思うのかもしれない。この選択の結果は、長い長い時間が経たないと判定できず、正解かどうかは判らないであろう。それまでの長い時間経過の中では、評価の形が変わってしまっている可能性もある。


日本のお金は、単位も仕組みも時代と共に変化してきたし、現在の経済システム自体はまだ歴史が浅い。経済規模を評価する、という方法にしても、何かの指標を用いて世界の国々との比較などを行うようになっているが、それも時間経過はまだ短いと言えるだろう。今後50年後か100年後になった時、今の日本円という仕組みが続いているか、GDPという指標が用いられているか、アメリカドルは世界で使えるお金であるかどうか、誰も判らないであろう。その時点では、もっと違った評価方法が生まれている可能性は少なくないであろう。それらが今と違っていることそのものが、「成長」ということであるかもしれない。


テレビで『The Day after Tomorrow 』という映画を放映していて、初めて観たが結構面白い作品であった。先進国(特にアメリカ型)の浪費社会への警鐘とか、環境への配慮を真剣に考えるべきとか、色々な意味合いがあるとは思うが、最も印象深かったのは「それでも、人類は生き延びてきた」ということだった。人類の祖先が氷河期を乗り越えてきたんだ、ということが、我々に勇気を与えてくれる。そして、その当時の生存戦略の選択は、時間が長く経過しないと判らないということもだ。今まで生活してきた洞窟の中にこもって耐えて待つのか、逆に新天地を求めてそれまでの洞窟を捨てて不確実な土地を彷徨う方を選ぶのか、その時点では誰にも結果が判らないのである。映画の中では、主人公の高校生の息子は、父の教えた通りに耐えて待つことを選んだ。彼らと一緒にいた多くの人々はその場に「留まること」を諦めて、温かい土地を目指して進んでいったが全滅した。恐らくこれと似たような選択は、過去の歴史の中で星の数ほど行われ、みんなが同じ結論でなかったからこそ「誰か」が生き延びることができたはずだ。選択とは、そういうようなものではないか。



書評のもう一つは、L・マーフィ/T・ネーゲル著(伊藤恭彦・訳)、『税と正義』で、評者は川出東大教授である。

先のバーンスタインの四条件のうちの一つ、「私的所有権」に関する話である。評者が指摘する通り、原題に『The Myth of Ownership Taxes and Justice』とあるように、『所有の神話』というのが根本にあるということだ。記事には、次のように示されていた。


所有権とは社会的な慣習であって、個人の不可侵の自然的権利のようなものではない、という法哲学的な議論が控えている。こうした抽象度の高い議論に支えられつつ、それが課税ベース(消費税か所得税か)や累進性や相続といった具体的な税制改革上の争点へと巧みに展開されていく。資本主義経済の創造力をそぐことなく、それが生み出す深刻で巨大な経済的・社会的不平等を何としても是正していこうという、社会正義に賭ける著者二人の情熱が伝わってくる。




「所有権は社会的慣習のようなものであって自然的権利のようなものでない」というのは、余りに非日常的過ぎて、私のような凡人にはちょっと理解しがたい。多数の個人が政府という権力機構の存在を認め(生み出している、ということでもあるか?)、政府という権力があることで効力が発揮される法体系によって、初めて個人の所有権というのは認められうる、ということか。何となく、そうだったのか、と思うが、ピンとこない。法体系とは、そもそも「権力」の存在下でしか意味がない、ということなのか?漠然と、ああそうなのか、と思うしか私にはできないのであるけれども。


一番納得いかない(全く無関係ないが、この「納得できない」という表現は、無限に使える反論として法案審議なんかの時にもよく用いられ、いつまで経っても何を言っても「納得いかない」と言うことができてしまう最終兵器的表現である。禁じ手にすべきかも。笑)と思えたのは、川出教授が要約していた次の記述であった。


「本人が正当な所有権を主張できるのは、課税前ではなく、課税後の、すなわち政府の施策に必要な分を戻した後の所得に対してだけなのだ。」


衝撃を受けた。知らなかった・・・・。課税前所得は「オレのもの」ではないのだ。たった今、自分の手元に入ってきた収入は、一部に「政府からの預かり金」として私の下に置かれているに過ぎない、ということであろう。そうだったのか・・・・・。


でも、「自分は多額の税金を払っているんだから、云々~納税者として政府には色々と文句を言いつける権利がある」とか何とかをよく耳にするように思うが、そうなると、それに対して最強の反論が可能かもしれない。

「あなたが納税したと思っているそのお金は、初めからあなたのものなんかではありません。政府という権力機構及びそれに基づく法体系の使用料について”未払い”であったために、事後的に返してもらっているだけです。つまり、あなたが税金を納めたのではありません。政府があなたに預けておいた使用料を”正当に”返還してもらっているのです」


どうだろうか。このようなことを言われたら、詭弁だ、とか文句を言いたくなるが、実際、政府(行政)や法体系のサービス使用料として払っている金額というのは、普通の人だと大した額ではないかもしれない。それでも、警察権力で守ってもらうのは、貧乏人だからといって極端に「安く」なったりはしないだろう(要人などはちょっと多くかかっていると思うが)。きっと、そういうようなことなのだろう、と読みもせず納得したことにする。


こうして見ると、現在の社会体制(?と呼ぶのが正しいのかどうかは判らないが)を基本的に支えているのは、経済的繁栄=経済成長であり、元々その恩恵を受けて誕生した自由主義的民主主義があり、これらを制御する法体系(当然権力に裏付けられた)があるが、社会的慣習も経済活動や法体系の中に(例えば所有権)そっと埋め込まれている、ということなのだろう。


経済活動や経済成長自体が今の社会体制の礎を築き上げてきた、と言えるし、今後もそうであり続けるかもしれない。ただ、時間の経過によって、社会体制が変わらなかったことなどあまりなく、今と同じような世界が将来も続いているかどうかは不明だ。法体系にしても、根本的な権力機構に変化があれば当然変わってくるかもしれない。


遠い未来よりも、やはり近未来が気になるし、もう少し成長ということについて考えていこうと思うので、ヘンなシリーズにしてみました。

いずれ「こころ」にも触れる時が来ると思いますので、乞う期待!
(誰も期待してないと知っていますYO!)



中小貸金業者が淘汰されるとはどういうことか

2006年11月19日 17時48分55秒 | 社会全般
上限金利引下げに関連して、貸金業者の大半が淘汰されてしまう、という意見が出されている。確かにそういう一面はあるかもしれない。このことをもう少し考えてみよう。


まず、他の企業だとどうなのだろうか、ということを考えてみよう。

地方なんかだと、大型店の出店で「地元の商店街が打撃を受ける」とか、「価格競争では太刀打ちできないから、止めてくれ」とか、そういう意見が出される訳ですが、消費者にとっての利益はある訳ですよね。効率の悪い業者が撤退させられるのが「悪だ」ということを賛成している人は、「経済!経済!」言ってる人たちには余り見かけませんね(笑)。


弱小の洋品店、金物屋、家具店、時計屋、米屋、八百屋、酒屋、・・・・色々とある訳ですが、こういう個人経営とか中小規模の店なんかは、大手企業の出店攻勢で多くが「敗退」し、業者数は大幅に減少したのではないでしょうか?これを「業者数が減るから、競争が阻害され寡占化だ!」とか言いますかね。そうはならないと思うが。これまで、廃業してきた人たちが多く存在したじゃないですか。貸金業界の従事者全部よりもはるかに多くの人たちは淘汰されてきたでしょ。

少なくとも「業者数が減るから」というのは、反対の論拠としては説得力に欠ける。しかも零細貸金業者が消える最大の直接的な理由は、資本金規制なのではないかと思うが。資本金5千万円以上、というのが大半の零細業者にとっては厳しい条件だからであろう。単に上限金利の問題ではないですよ。


次に、中小貸金業の審査・回収能力等で本当に競争力を有していると仮定してみよう。他のノンバンクや銀行なんかには「真似のできない」特殊なノウハウや能力を有している、ということだ。銀行なんかだとそういうノウハウがないので、そのマーケットには「参入できない」、ということであるらしい。大手貸金業者にも「参入できない聖域?」のようなもの、ということだろう(もしも、大手が参入可能なのであれば、代替されるので中小業者が撤退していっても問題ないだろう)。


中小業者では、資金調達コストなんかを見ると大手業者よりもコスト率は「高い」し、勿論大手貸金よりも低い調達コストのノンバンクや銀行なんかと比べれば、その差は広がる。ということは、「中小業者が資金を調達してくる必要性はどれくらいあるのか?」ということが問題になるのではないか。仮に銀行等の民間金融機関が資金調達をして貸付原資とするなら、安く済むはずである。

大雑把ですが、大手業者の占有するマーケットを9兆円、それ以外の業者が1兆円とする。これを「大手」と「ニッチ」という2つの業者であると見做すことにする。「ニッチ」が貸し出してる1兆円の調達コストは、6%ならば600億円かかるわけです。

「ニッチ」のコスト構造を次のように考えてみる。

貸倒償却率 8%
調達コスト  7%
その他費用 8%
営業利益率 4%

合計で27%、つまり平均約定金利を27%で貸す、ということですね(今までのグレーゾーンだ)。ここで、調達コストとその他費用が15%あるのですから、その部分を金融機関に代わってもらうと考えれば済むことではないかと思えます。つまり、貸出資金や広告等の経費は全て金融機関が出せばいいのです。貸し手は金融機関(又は系列業者)とし、15%あった調達コストや広告費等の経費は金融機関が引き受けるのです。元々ATM網を持っているので、そこでの経費も小さくできますね(範囲の経済の効果が働くはずでしょう)。従って、審査・回収等のノウハウ提供と信用保証機能を貸出額1兆円の14%とし、金融機関は4%の取り分とすればいいのではないでしょうか。平均貸出金利が18%でもやっていけるのでは。金融機関は貸倒リスクがなく鞘が取れると思いますけれども。そもそも従来の「ニッチ」が保有していた顧客層は全てここに流せる訳ですし。


これで考えると、平均貸出金利18%で

金融機関の取り分 4%
「ニッチ」の取り分 14%

となり、「ニッチ」は貸倒償却率がこれまでと同じ8%であっても、残り6%を獲得できます(ここから経費を払うが、殆どが人件費だろう)。貸倒率を改善できる自信があれば、利益幅は大きくなるはずです。本当に持っているノウハウに競争力があるのであれば、こうした代行業務を引き受けても十分商売が成り立つのではないかと思えます。それをわざわざ自分で割高な資金調達をして個々に少額を貸し付けているのが現状で、それよりも効率的であるように思えますが。ノウハウは人的要素が強いのであれば、それを金融機関に売り込めばいいのではないでしょうか。だって、金融機関は「貸したくて仕方がない」と思っているのに、貸出先がうまく見つけられないのですよね。それを「顧客グループ」付きで、特殊な貸出審査ノウハウと一緒に「売りに出てる」ようなものであり、本当にまっとうな商売ならば「垂涎のシロモノ」なのではありませんか?


なので、わざわざ高い調達コストの資金を中小業者が直接貸す必要性というのは、あまりなさそうに思えますけどね。銀行とかには、運用先の乏しい資金は結構あるので、国債を買うよりも成績が良ければ、当然そちらに乗り換えるはずでしょう。僅か1兆円の振り向けなんて、民間金融機関で十分可能であると思えます。

だが、まっとうな商売のやり方でないとすれば、売れんわな。誰も買わない。


貸金業協会のお偉方は、本当に自信があるのであれば、都道府県単位でも全国共通に一つでもいいのですけど、会社を作って、現状1兆円規模の債務を審査・回収する保証機関を設立したらいいと思うよ。地域性も反映されるし、長年培ってきたノウハウは必ず活かされるのではないでしょうか。そう思えば、保証料はかなりいい商売ではないかと思えます。だって、業務の質というか中身は同じですよね?自分の金を貸すのと、ヨソの金を貸す違いくらいで、保証に伴う審査業務は「貸出審査と同じ意味合い」ですし、焦げ付きの回収業務にしてもこれまでと基本的に同じなのではありませんか?

これをやれば中小業者の廃業に伴う失業はかなり回避できるし、合法的な優良業者ほどいい顧客を持ってるから貸倒は少ないし、違法取立てをしなくても「回収」できる能力を元々持っているはずではなかろうか、と。タダの不良業者とか「貸し込み業者」でしかないのであれば、まあできない事業であるかもしれんけどね。今まで言ってた、「他が貸さない、リスクの高い借り手だけが借りる」とか、「中小ほど審査は厳しく、貸出管理している」とか、そういうのはあまり当てにはならんな、ということですわな。大半の業者が違ってた、と。そう解釈せざるを得ませんわな。


それと、ありがちな「病院代とか、生活費用に現金が必要」という理由があるんですが、今時病院だって「カード払」が可能なところは結構あるし、食料品とか生活用品の買い物で「カード払」は比較的容易なスーパーなんかもあるのですよね。つまり、それらを「リボ払い」した方が、同じ金額をキャッシュで借りて払うよりも適用される金利は低いことが多いでしょう。必ずしも全部を「現金」で借りなければならない、ということはないでしょう。割と大きいスーパー(ヨーカドーとかジャスコとか・・・地元系スーパーなんかの一部にもあるな、生協にもあるし)だと、提携カードがあるのは珍しくない。貸金から10万円を借りて10万円で生活するよりも、一部だけを借りて他をカードで買って払う方が、金利負担は若干軽減されるだろう。


そういえば、大手貸金業のどこかの社長が国会で泣き言を語ってたな。量的規制で、800万人に影響が出る、とか何とか。これは、上限金利じゃないですよ?

NIKKEI NET:経済 ニュース


あくまで年収基準ですけど、坂野論文を「論理的に」支持していた人たちは、何故黙っているのでしょうか?借入額は「破産の説明要因でない」とか言ってみればいいのではないですか?

ひょっとしたら、「いくらでも借りられる」とか、経済学理論で証明してくれるかもしれんよ(笑)。


因みに、ハッキリ言っておきますが、総額規制を書いたのも、賛成したのも、私ではないですからね。どちらかと言えば「難しいだろう」と書いてますから。

貸金業の上限金利問題~その12


年収基準の総量規制は官僚の考えたことですので、しょうがないでしょうな。金融庁の官僚なのかどうかは知らんけど。あんまり貶されたもんで、ビビッて総額規制を採用してしまったのかもしれないし(笑)。身内批判が一番堪えたのかもね。

経済学に大変お詳しい、優秀な官僚の方が考えてくれたことなんですから、まあ、折角ですから受け入れてあげたらいいんじゃないですか>業界の方々どの


それから、以前に記事を紹介(貸金業の不正)したのですが、その続編が出てました。

筆者のあまりにリアルな体験が含まれている為、その悲しみが伝わってきてしまい、私なんかだと、どうも同情的な読み方になってしまうのですが。情に流されやすいということで、水戸黄門的な、或いは感情的な世界観がモロに出てしまいます。


コラム:Biz-Plus


マーケット全体がある程度正常化するまでは、色々な手を考えるしかないのでは、と思います。銀行が手を引いていったことが、逆にマイナスに作用した可能性もあると思うし。金融不安や銀行の危機、不良債権への誤った処方箋などで、消費者金融市場も一緒に壊れていったのでしょう。多くの中小企業の息の根を止めたのとも、シンクロしているような気もするしね。


政府系金融機関改革の時の、ユーザー側代表者たちのヒアリングの光景が忘れられない。あの言葉だ。

「たった3百数十万だ」

きっと多くの悲劇があったことだろう(熱闘!官業金融~第1R)。借金をするということの為に、それにまつわる悲劇はたくさんあったと思うよ。借り手がマーケットを作っていく、という夢物語を語っていた経済学者を到底信じることなどできなかったよ。


大銀行等の金融機関にはそれなりの役割がある、というのはその通りで、社会的責任も道義的責任もあってしかるべきだろう・・・・・。それならば、貸金への資金供給や儲け方も、社会的に望ましいやり方で行けるように考えて欲しい。高金利業者たちに、挑める資金力も政治力もあるはずなのであり、合法的にビジネスの世界で勝負すればいい。そこで不良業者が淘汰されたとしても、誰も文句は言わんよ。

消費者金融市場が正常化へ向かえば、かつてのように貸出総額規模はある程度戻せるかもしれないし、それ以上に伸びる可能性だってある。貸倒率も低下させられるはずで、利益もそこそこ生み出せるようになるだろう。貸倒率が3%を切る水準は、僅か10年程度前だったのだよ?


ところで、スティグマにも経済学的効用があるかもしれない、という研究はあるようですので、あながち悪いとも言えんかもしれませんよ、スティグマ。



よく判らんが難しい

2006年11月18日 22時55分29秒 | 俺のそれ
梅田氏の記事。

示唆に富むが、印象としては「ちょっと難しそう」という感じかな。
でも、直ぐに答えは判らないと思う。むしろ、正しさなんかを機械が判定するようになる可能性が高くなるかもしれないな、とも想像する。ほら、アニメなどでもよくありがちな、「マザーコンピュータ」みたいな機械。何でも「正しい答え」を教えてくれるような「AI 」っぽいヤツ。


【正論】梅田望夫 「IT革命」から「I革命」の時代へ-コラむニュースイザ!

(一部抜粋)

新しい情報環境をイメージしたときに重要性をぐんと増す能力とは何なのか。たとえば、能動的に情報を探索する能力、知を構造化する能力、断片的な情報から物事を俯瞰して理解する能力、情報の真贋(しんがん)を判断する能力、異質な情報を組み合わせて新しい価値を生み出す能力…。そういった能力は、どんな教育によって身についていくのか。新しい情報環境で陳腐化してしまう能力は何で、希少性ゆえに価値を生み出し得る能力はいったい何なのか。





この後に来る「必要な能力」とは、世界の超巨大データベースに載ってない、どんな個人よりも優れてるはずの「人工知能」でさえ考え付かない、「トンデモナイ」能力だろうと思う。それはあまりに突飛であったり、奇想天外であったり、常識外れであったり、非論理的であったり、兎にも角にも、正確さでは絶対的優位にある「人工知能」が「マトモ」な思考経路・パターンで生み出せるようなレベルではないもの、なのではなかろうか。


あまり有効な前例がない、うまく答えを見つけるのが困難な発想、というようなものかな。生き物で言うと、突然変異のようなものか。そこで、急に「ジャンプ」するみたいな。簡単な例で言えば、「ソレハ○○ノ確率デ失敗デス」とか「99%以上ノ確率デ誤リデス」とか「機械」が答えるんだけど、うっかり間違えて発見とか、適当に「いいじゃん、やってみようよ~」という安易な(楽観的な?)人が意外な発見をしたりとか?かな。


でも、通常は1億回くらいのトライで1回成功、残りは全てエラー、みたいな稀な確率なのかもしれんがね。でも、人口が80億人いれば、1人1回トライすれば80回くらいは「意外な大発見」に繋がるかもしれんから、そう考えると、全地球上規模でそういう試行錯誤が行われるなら、十分有り得る話だ。でも、AI は十分かしこいから、そういうのも当然「読み」に入っているかもしれんね。だとすると、人間では人工知能に対抗できなくなるのかも。そうなると、チェスは勿論、将棋も、囲碁も、確実に負けてしまうかもね。だが、そんな能力を機械が獲得できるかどうかは判らんのだが。


今は「個人の能力」にあれこれと集められてきていて、一人の自分には「あの能力」「この能力」と、次から次へと獲得せねばならない能力が増えてきているのですね。ということは、いずれ処理能力を超えることになるので、機械が代替的に行ってくれるはずでしょうね。「投資・金融ロボット」みたいな感じで。


すると、何も考えずともよくなるな。生活に困らないもの。
それか、もっと大昔の哲学みたいな感じで、哲学っぽいことを「瞑想」するようになるのかもしれん。「私は誰?、何者?」というような?(笑)



年金の官民比較は妥当か?

2006年11月17日 20時43分21秒 | 行政制度
人事院の怪しげなご報告があったようです。報道からしか見てないので正確には判らないのですが、一応書いておこうと思います。

asahicom:「公務員の年金に税補填を」 一元化巡り人事院が見解-暮らし

以下に、記事より一部抜粋。


会社員と公務員の公的年金の一元化問題で、人事院は16日、退職金や年金の官民比較の実態調査の結果をまとめ、塩崎官房長官に提出した。公務員は上乗せ年金の「職域加算」と退職金を合わせて平均2960万円で、民間の企業年金と退職金の合計より20万円少なく、10年に予定される職域加算廃止後は民間の優位は242万円に広がるとの内容。人事院は、格差是正のため税金を投入して民間の企業年金に準じた制度を創設すべきだとの見解も提出した。これには新たに年間数十億円の国庫負担が必要で、官のスリム化に逆行するだけに批判の声が出るのは必至だ。

(中略)

これを受けて人事院は従業員50人以上の企業6232社の05年度の実態を調査(回答は3850社)。20年以上勤務した人が生涯に受け取る企業年金額と退職金の合計は、現在の価値に換算すると05年度で1人平均2980万2000円だった。一方、国家公務員の退職金の平均額は2738万6000円。職域加算の国の負担分を加えると計2960万1000円となった。




まず、民間側のポイントは、「退職金」と「企業年金」が約半分ずつということでしょうね。一方、公務員の方は「退職金」が約9割となっていますよね。

どうやら、この辺りにトラップがありそうな気がしますが・・・・どうなんでしょうか(笑)。


パッと直観的に思うことを言いますと、これはある意味「当然なのではないか?」ということです。
数十年に分けて分割で受け取る場合と、初めに一時金として受け取る場合、一般的にどちらの方が受取総額が多くなるでしょうか?それは前者ですよね。


例えば、60歳時点で1000万円全額を受け取る人と、毎年分割にして受け取る人とが存在する時、分割の人の方が多く貰えますよね。それは普通ですね。例えば、80歳までの20年間に毎年60万円ずつ受け取ると合計1200万円貰えます。これを考えてみましょうか。

言い換えると、支払う企業側は、「今すぐ一括で1000万円払う」か、「分割で20年払い」にするかのどちらかになりますから、後者ならその間の「利息相当分」を払わねばなりませんよね。ということは、企業側は「債務を負っている」ということとほぼ同じ意味合いであり、元利金等返済で20年払であると仮定しますと、『利率2%でも総支払額は1214万円』となります。なので、受取総額の単純比較なのであれば、一時金の退職金と企業年金の受取総額を比べるのは不適切であると言えます。

もしも、受取総額ではなく、一時金で受け取った場合の「現在価値」を算出して計算しているのであれば、比較は可能かもしれないが。人事院の計算結果がどうなのかはよく判らないですけどね。


因みに、大企業の企業年金訴訟の記事を以前に書いた(恩給・職域加算の減額は憲法違反か?その2NTTの行政訴訟)のですが、この時の「利率」は「えらく高かった」はず、と思うよ。引下げ前は、松下電器だと5.5~7.5%とかそういう給付利率だったんじゃないかな。これを若干引き下げたはずだけど、それでも一般的な「運用」よりは、随分と高いですから。なので、受取総額はかなり多くなると予想され、民間の受取総額がかなりかさ上げされているかもしれないですよ。そうであれば、利息で増えた分を合わせた額が、公務員の「一時払い」と同等くらいになってしまっているということになり、公務員の方がはるかに高い、という可能性すらあることを指摘しておきますよ。


参考までに言うと、企業の「統計もの」(正確な名称とか知らない)では、大企業には「必ず返答して下さいね」とかお願い攻撃があったりするので(あと、企業の余裕とか?)、大企業ほど「回答率が高く」、零細・中小企業ほど回答率は低いので、割と「偏った」アンケート調査結果が出やすい、という可能性も考慮する必要がある、と付け加えておきます。あのですね、サンプリングする時に、企業の存在割合か就業者数の割合に基づいて修正しているならいいですけどね。割と優良企業ばかりを狙い撃ちとか?なら、これはイケナイよね。因みに、回答してくる企業ほど「真面目で、いい会社」という確率は高いんじゃないのかな、とも思ってるけどね(どん底寸前とか、厚生年金逃れの会社とか、そういう企業は選ばれてもまず回答してこないだろうから、笑)。まあ、公務員の皆様をそういう会社と同じくらいの待遇にしとけ、と思っている訳ではないけれども、「民間」として書かれているデータそのものに「偏りがある」可能性は言っておきます(参考記事:早速ですか、「労働分配率」)。


企業年金は大企業ではあるかもしれんが、中小企業なんかではまず滅多に見ないので(自分の周り半径3メートルの経験則)、これを標準的と考えるのは「間違っている」とも言えますかね。本間先生風に言えば、「99.7%が中小企業なのであれば、大企業が特別なのです」ってことですよ(爆、判る人には判るよね)。中小企業の待遇が普通、ってことで。それと同じがいいかどうかは、また別問題だけど。

3階部分が必要で、それをしないと「公務員になりたいという優秀な人材が集まらない」ということであれば、大半の国民が認めればいいのかもしれないが、きっと多くの国民はそんなの「ウソだ」と考えるかもしれないですね。実際の所、優秀な人が集まらなくなって「困ったな」と考えるようになれば、「給料」そのものが上がるかもしれないけれど。破格の待遇で「急募!」とか?すぐ来るかな?どうなんでしょ。

優遇部分があっても、「これまでの(悲惨な)状況」ということでしたので、どうもね~、と疑りがちかも。それなりに「優秀な人たち」が集まってきていてこの程度というか、多数の失敗・腐敗でしたので、もっとお金をたっぷり使わないと「腐敗はなくならないんだー、今よりも良くできないんだー」というのも俄かには信じられないワケで。それとも、待遇が悪いので、それに見合う「優秀じゃない人たち」が集まってしまった、ということなのでしょうか?違いますよね?


人事院はちょっとお調子に乗ってしまったのでは?
秀さんも「うーん、ちょっといかんな、人事院」と言ってましたよ(笑)。墓穴を掘ったかもしれませんね。