いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

みのひとつだに なきぞかなしき

2007年08月31日 20時01分33秒 | 経済関連
デフレ脱却を誰が宣言するのか?
疑問ではあるのだが、とりあえず今は措いておこう。
ずっと足踏み状態が続いているのは変わりなく、凧揚げで言うと(また変な喩えでスミマセンね)どうにか落ちてはこない程度に、地面スレスレながらも浮いている状態だろう。けれども、風を受けてどんどん上に高くできるような状態じゃない。安定的な高度にも到達できていない。いつまで経っても糸を伸ばしていけないのである。糸巻きを握っている人が自力で走り続けて浮かせているだけなのである。

日銀は凧にこっそり糸をつけて、「揚がり過ぎないように」とかトンデモの理由をつけて引き落とそうと引っ張ったんですよ。余計な利上げを行ったり、市場のマインドに冷や水を浴びせたり、そういうことばかりをやってきたのである。そんなものがなくても、ライブドアショックとか、為替変動とか、サブプライムショックとか、いくらでもリスクは存在していて、日銀が敢えて懲らしめなくとも大幅下落を招いたりしているのですけれどもね(笑)。そもそも、凧が高く揚がってもいないうちから下に引っ張るっていうのは、嫌がらせにしか思えないわけである。

そんな状況ですから、デフレは継続したままである。

Yahooニュース - ロイター - デフレ脱却の動き、基本認識変わらない=大田担当相

マイナスなんだよ、依然として。折角昨年にデフレ脱却チャンスが訪れたのに、余計な利上げとかをやって、凧が揚がるのを阻止したのだ。

で、今度は与謝野さんが「下がってない」とか言ってるわけだ。日銀応援団の面目躍如ってところか。

Yahooニュース - 時事通信 - 「物価下落の数字ではない」=CPIマイナスで-与謝野官房長官

そりゃまあ、「0.1%」って数字は誤差の範囲かもしれない。でもね、そんなこと言うんだったら、統計の意味がない。コアコアとかも計算しているんだし、「デフレだね」ってことは判るわけだ。デフレスパイラルという危険な状態、危篤だった頃から見れば「良くなった」ということは言えるが、健康体ということではないからね。

Yahooニュース - ロイター - 全国コアCPIの‐01%、物価下落とは受け取っていない=官房長官

「日銀に全幅の信頼」とはこれ如何。
官房長官は経済閣僚ではない、ということで個人的見解を述べたに過ぎず、大した意味はないということかもしれないが、政府内とか日銀との間でのコンフリクトがあるというのは大変困るのである。内閣改造を経ても、未だに「みのひとつだに なきぞ悲しき」なのだ(笑)。経済政策の上では、何らの成果も期待できないということだ。大体、日銀の信頼とは政府が保証するものではない。国民とかマーケットから醸成されていくものなのではないかな。現状を見ていても、信頼からは程遠い。

あと、物価調査の意味としては、前年同月比とか、前月比という見方もあると思うが、物価下落と受取ってないというのは、「今、どんどん下ってる」ということでないというだけでしょう。それは主婦の人みたいに今のトレンドを感じているだけで、「昨年同月よりも今年の方が高い」とか感じ取れる人って、滅多にいないんじゃないかな、と。「最近のTシャツの値段は安定しているわね」という程度なのではないか。「4月から7月でも、値段の変化がないわね」と感じているみたいな。

でも、例えば電気料金とか、マッサージ代金とか、ネイルサロン代とか、そういうのを全部含めて、価格の変化を感じ取れる人ってのは、まず見かけないだろうね。自分としては「物価は下落していないように感じる」とかいくら主張してみたところで、説得力はあまりないということ。統計を否定するなら、数字を見る意味がないんじゃないですか、と。
内閣府とか統計局とかは泣いているよ、きっと(笑)。


少しばかり良いニュースは、失業率の低下が認められたことだ。3.6%となったようだ。後は、家計消費がもうちょっと盛り上がってくるようになれば、健康体へと近づいて行けるだろう。成長の軌道にうまく乗れば、引き締めの場面は当然出てくるだろう。それは凧の高さが十分揚がった状態でできることなのである。落ちてこないようになってはじめて可能なことなのだ。揚がってないのに、糸を巻き取ってもしょうがないんですよ。はやく自分で助走をしなくても、凧揚げができるようにしてほしいです。


庶民の立場からすると、こんな心情です。

 山吹の はながみばかり 金いれに 
    みのひとつだに なきぞかなしき



議員不祥事が大量生産中?

2007年08月31日 16時30分08秒 | 政治って?
内閣改造関連で、ちょっとメモ。

小池さんは残すべきでない、と書いたら、既に「辞めます」と本人からの宣言が出たみたいで、知らなかった私って、なんてマヌケな記事を書いているんだ、ってことになったわけです(爆)。更に、留任させてもよいのではないかと思ったのが菅総務大臣だけ、とか書いた途端に、事務所費問題などが一斉に報じられて、自分の目の節穴っぷりに驚いたわけですが(笑)、あれって本当のところはどうだったのでしょう?

問題の記事はコレ>第二次安倍内閣はこうなる?


詳しく判らないのですけれども、よくある話で、会社オーナーが個人所有の土地や建物などを会社である法人に貸した場合の、税務上の処理とかと似ているのではないのかな、と思ったりもしますけれどもどうなんでしょうか。この賃貸収入を社長が所得として申告していないなら問題になるんだろうと思いますけれども、申告して課税されているのであれば問題なさそうな気もするのですが、専門家の方々のご意見ではどうなのでしょうか。もし法人が社長個人に賃貸料を払っていない場合には、社長の申告漏れとか指摘されたりするのでしょうか?賃貸料を必ず取らねばならない、みたいな決まりになっているなら、正当な処理ということになってしまいますよね。政治団体に法人格がなければ会計処理は違うかもしれませんし、実態として同じように処理するのが望ましいということかもしれませんし、どうなんでしょうか、と。

マスメディアの方々は事務所費関連とか政治資金関連とかを、情報公開請求などから地道に調べておられると思うのですが、一方的に評判を貶めるだけの報道には注意された方がよろしいのではないかな、と思ったりもします。勿論、誰かが地道に調べてくれなければ、(玉沢議員の)多重計上なんかの発見はできなかったと思いますので、それはそれで頑張ったんだなとは思いますが、きちんと報道後のフォローもやっていった方がいいと思います。もしも、会計処理上でそうせざるを得ないということであって、菅議員本人には問題がなかったのであれば、そのように報じるべきかと思います。もしも処理として不適切であったのなら、現職閣僚だったわけですから、それなりの説明を引き続き求めていくべきかと思いますね。野党にしても、松岡議員の証人喚問要求だったかまで言っていたわけですから、問題があって解決すべきだ、という決意があるのであれば、等しく証人喚問要求とかをするべきでしょう。ここで終わってしまうなら、何だか組閣後には急速にトーンダウンして何かの陰謀論めいたものが感じられてしまいます(笑、「菅はずし」勢力の画策?)。



それから民主党議員の不祥事連発中のようですけれども、民主党の党紀委員会みたいなものは存在していないのでありましょうか。パパとか姫とかのゴシップ?もありますが、他にも選挙違反事件の関連が疑われており、しかも小沢さんの秘書の関与が取沙汰されています。今のところ野党だから、ということで国民からの非難がそれほど強まっているということでもないのかもしれませんが、党としての処分とかは全く別な話であろうと思います。以前に、ガセネタメール騒動だけで議員辞職となった永井議員でしたか、別に彼の擁護をしたいわけではありませんけれども、情報源として微妙に怪しいネタを質疑に用いたということを理由に辞職に追い込まれたことを思えば、現在ゾロゾロと出てきている不祥事というのは、それ以上に問題が大きいのではないかとしか思えないのですね。永井議員の場合には、目立ってしまったということもあったろうし、時の運みたいなのもあったろうし、ライブドア関連ということでマズかったのかもしれませんけれども、「うっかり信じ込んでしまいました」ということで本人の責任自体はそんなに重大ということには思えないのです。

現在の不祥事の当事者たちは、まず説明をしっかりやるべきであろうし、党としてどういった対処をするのか明らかにしてもらいたいですね。選挙違反事件なんて、不倫(笑)と違って違法行為なのですから、これこそ大問題だと思うのですよ。「違法性はないと認識している」って、答えになっていないと思うけど。疑われている側の言い分なんか聞くのではなくて、総務省?あたりに行為(の類型?)として違法性が疑われるのか否か、きちんと調べるべきでしょうね。警察が秘書まで手を伸ばすかどうかは判りませんが、「トカゲの尻尾切り」ということで済ませていい問題ではないでしょう。「違法性はない」という決め台詞は、故松岡大臣の発言と何も違いなどないのですから。




命でコストを払う社会

2007年08月30日 21時02分25秒 | 社会全般
また奈良県の問題がマスメディアに取り上げられたようだ。

搬送中に死産 ニュース 医療と介護 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

(一部引用)

昨年8月には、同県大淀町立大淀病院で分娩(ぶんべん)中に意識不明となった高崎実香さん(当時32歳)が計19病院に転院受け入れを拒否され、収容された同府内の病院で、出産から8日後に死亡したケースがあった。夫の晋輔さん(25)(奈良県三郷町)は、読売新聞の取材に「実香の死は何だったのか。この1年、何も改善されていなかったということだ」と憤った。晋輔さんは「緊急時のために医者も病院もあるはずなのに、受け入れ体制を作れないことが一番の問題」と述べた。




この事件の初めの頃の報道は、医療ミスがあったんじゃないか、ということだったように思う。産科の救急システムが云々という話ではなかった。

参考記事:
奈良の妊婦死亡事件について

続・奈良の妊婦死亡事件について


また変な例で申し訳ないが、考えてみることにする。
銀行などの窓口を思い浮かべて欲しい。仮に、対応可能な窓口があって、みんなは一列に並んでいるものとする。お客は空いた窓口から順次呼ばれる。
この方式の場合、窓口が多いと列が長くなり難いのは判りやすいであろう。窓口が2つしかないと直ぐに埋まってしまうが、5箇所の窓口があると空いている窓口から次々に呼ばれていくので処理速度が上がる。でも、自分が並んだ瞬間に全部の窓口が塞がっているなら、どこかに空きができない限り自分が呼ばれることはない。

窓口人員のコストを考えると、少ない方がいい。来客に波があるので、最大に混雑する場合に対応できる窓口ということにすれば、それほど混雑していない日などには暇な時間が長くなってしまうので、人員が無駄である。窓口が20箇所あれば、20人には同時対応可能となるし、2つしかない場合には2人しか同時対応できないが、前者では常時20人の職員を貼り付けておかねばならず人件費はたくさんかかってしまう。全体の効率ということを考えると、平均的な来客時に対応可能な窓口数が設置されることになるであろう。例えば、窓口数は3箇所で職員を3人貼り付けておき、平均的な来客時には若干の列は発生するものの、それほど多い待ち時間とならず対応できる、というようなことになるのである。これを10箇所10人とすると、混雑は大幅に緩和されるが、来客が少ない時には待機しているだけの人員が多くなってしまう。

これと同じような感じで救急とか産科救急の受け入れということを考えてみると、受け入れを断るのは「今、窓口は塞がっていて対応できません」という回答をする、ということである。受け入れ先の数を増やせば「塞がっている」という状態を減らすことができ、受け入れ確率は上がるであろう。しかし、必ずしも急患があるとも限らないので、受け入れ先を多くすると需要が少ない時には無駄に人員を配置することになってしまい、効率は悪くなる。ここに問題を生じることになるのである。


まず、窓口設置と人員配置にはコストがかかる。利用が少なければ、窓口や人員は廃止されてしまうのである。収益を生み出すのはあくまで窓口設置に対してではなく、どれくらい利用されたかによるからである。窓口1つ当たりの平均収益が損益分岐点を超えない限り、窓口設置はマイナスになってしまうのである。かつては医療機関の善意によって支えられていたこれら窓口というものが、次々と崩壊していったのだ。「空いている窓口」を許容しておけるほどの余裕がなくなったから、ということでもある。
以前には窓口が4つとか5つあったので、「飛び込み」で急に行ってもどれかが空いている確率はそれなりにあった。救急隊はそこを探して搬送すれば良かった。しかし、医療の経営環境は悪化の一途を辿り、損益分岐点を下回る窓口は次々と閉鎖になった、ということだ。「空いている窓口」はなくなっていくことになるであろう。5つから2つに減少すれば、「塞がっている確率」は高くなるに決まっているのだ。

次に、医療への期待が高まることで救急医療も含めた要求水準が高くなり、結果責任を問われてしまうようになった。普通は、救急搬送されて自分の所で対処できないとなれば他に転送ということになるのだが、加古川事件のようにその遅れが過失認定されるとなれば、下手に引き受けてしまって転送遅延の過失を問われてしまうくらいなら、初めから受けないという選択は出てくることになるであろう。引き受けた場合の利得というのが「微々たる収入」だけであり、万が一、遅延や過失を理由として訴訟提起され「微々たる収入」の数百倍か数千倍の賠償とか、それでは済まずに許認可の取消とか評判低下で病院存続が不可能となるなどの、あまりにも大きな不利益を補って余りある利益などないと判断されうるのである。

かつては収益は僅かであろうとも、患者やその家族が涙ながらに「先生、本当にありがとう」という感謝があって、そうした「無形の利益」だけが医師たちの支えになっていたかもしれない。「かつては助けられなかったであろう100人のうち、1人でもいいから助けたい」ということで必死にやってきたら、「100人とも全員助けなければならない、助けられなければ過失と非難される」ということになってしまったようなものだ。そこには、「金を払っているから当然だ」という歪んだ権利意識のようなものがある。昔なら「当然だ」ではなくて、「ありがとうございます」という心からの感謝であったのにという思いがどこかにあったりする。こうして医療従事者側にも患者側にも、ともに「感謝の念」が失われてきてしまったのである。病院がそこかしこに(物理的には)存在しているのに患者を受け入れられない理由とは、行き過ぎた「結果責任追及主義」と過剰なまでの「権利の拡張・期待水準の暴騰」である。医療機関側が「ウチでは期待には応えられません、できないものはできません」と正直に応じた結果にすぎないのである。


最後に、極端な話をしてみる。
以前に、命の値段を付けられるか?というようなことを記事に書いたのであるが、それと似たような話である。社会の決めることであって、何かの理論とかでは決めようのない話なのではないかな、と。

昔みたいに、救急車がなければ戸板に乗せて近隣の医者まで運ぶ(本当にそうだったかどうかは不明であるが、物語なんかではそう描かれていたりする)ということをやってみる、ということだ。救急車は常時出動しているわけではないので空き時間があるし、維持運営費もたくさんかかる、という理由で止めることはできる。仮に年間10億円かかるとして、止めればそれが浮くわけだが、蒙る不利益というのは現実損となってみなければ判らないものなのである。10億円を救急車には使わず他に使う方が得なんじゃないか、という意見に論理では対抗できない、ということ。社会的な合意みたいなもので選択するしかない、ということだ。

救急車を廃止した結果、どこかの誰かが運び込むまでの時間がかかってしまい、その結果死亡してしまうとして、10億円も損失となるのだろうか?こうした問いに答えない限り、救急車の配備には正当性が与えられない、ということだ。誰かの「失われる命」とか「失われる人生(時間)」の価値を金額に置き換えない限り、救急車と戸板で搬送の比較はできないだろう。そこに触れることなく、ただ単純に「人の生命が失われることには賛成できない」とするような感情的・感覚的意見とか、倫理的に許容できないというような主張は少なくないだろう。

世の中には、例えば「倫理」というような「極めて曖昧な非論理的思考」を毛嫌いしている人もいるだろう。それはそれで問題があるわけではない。そういう人は、自分や自分にとって大切な人が救急車が存在しないことで死亡することがあっても、戸板で十分満足できうるであろう。論理的に命の値段を算出できない限り、彼らには納得できないからである。そういう人々は自分の命や家族の命の値踏みを好きなだけやって、自らの命でコストを負担すればいいでしょう。言うなれば、「10億円かけて救急車を配備するよりも、命で払う方が得である」というような結論を導き出してくれることであろう。彼らにとっては、世の中には倫理など存在せずとも何かの論理さえあればいいだろうし、信じられるものとしてもそれで十分であろう。是非とも他人の倫理に依存しない生活を実践して頂けると有難い。それとも、論理的人物だけを集めて(今よりも)理想的社会を作り上げ、この社会から分離されることが双方にとって幸福なのではないか(笑)。


受け入れ可能な医療機関を増やすというのもこれに近くて、結局効率性は落ちることになるが受け入れ窓口を増やすかどうか、という問題になってくる。上述したように、窓口が100あるのと、2つしかないのでは、空きのある可能性というのが異なるからである。ならば、無限に多く設置した方がいいことになってしまう、というような極論もあるかもしれないが、現実にそんなことはできないことは誰しも判りきっている。なので、どこかで線引きをしなければならないのである。それは何処か?この論理的結論というものは、恐らく存在しないであろう。誰かが線を引くしかないのである。

ここでいう「誰か」とは、社会全体の人々のことであり、線引きは気分的に許容できうる限度というような極めていい加減で曖昧な基準でしか決定できないだろう。もしも正確な論理とかがあって、「受け入れ可能な医療機関の設置基準は○○」みたいに答えを出せるのであれば、是非ともご教示願いたい。受け入れ可能な医療機関を増やせば、その分多額のコストがかかってくる。設置しなければコストは減らせるかもしれないが、不幸にして命でそれを払うことになる人もでてくるかもしれない。その比較考量ということになってしまうだろう。

仮に、
①1時間以内に到着すると救命率は50%
②2時間以内に到着すると救命率は30%
という時、どちらを選択するかは「そういう社会」ということでしかない。
もしも②を選ぶのであれば、残念だけど70%の人々は「諦めてくれ」ということであり、「たった20%の人々を救う(改善する)為に多額の費用は負担できない」ということである。そういう社会を希望するならば、②の基準に従って受け入れ可能な医療機関を2時間圏内で区分して設置すればよい、ということになる。そういう意味である。この①と②の選択には、論理的な正しさなど存在しないのではないか、ということだ。


自分たちはどのような合意を目指すのか?
奈良県の問題というのは、そうしたことを厳しく問いかけていると思うのである。



「努力」は「才能」や「センス」にあっさりと打ち砕かれる

2007年08月30日 13時05分22秒 | 俺のそれ
こんなに大仰な見出しを付けなくてもいいんですが(笑)。
時々現実に起こってしまうのですよね、本当に。

時事ドットコム:新星トマス、驚きの才能=1年半あまりで世界王者に-世界陸上

(一部引用)

バスケットボールに熱中していたトマスのジャンプ力に目を奪われた友人がいた。その誘いを受けてこの道を選んだのが昨年1月というから驚くしかない。昨年は専用のスパイクもなく、スニーカーを履いて2メートル24を跳んだ。今回、銀メダルになったルイバコフは「去年、彼がスニーカーで2メートル23を跳んだのを見た。何てクレージーなやつだと思ったよ」と、あきれる。銅メダルのイオアヌも「ぼくは18年間もこれをやってきているのに」と感嘆した。




どうでしょうか。これが現実なんですね。

結局のところ、才能があるヤツには勝てない、ということは起こりうるのです。彗星の如く現れて、金メダルをさらっていくんですよ。勿論、運もあるでしょう。それでも、どれほど頑張って練習しても、こうした才能溢れる人に勝てないということはありがちなのです。数学とか科学などの偉大な成果も同じような面があって、「煌く才能」の前には平伏すしかなく、「凡人の努力」など無力であることを思い知らされるのです。

参考記事:「適応力」という能力


「所詮努力しても無駄なんだよ」
「どうせ勝てないんだ」
実際そういうことはあるかもしれません。
でも、落胆するのはまだ早い。
きっと、才能だけでは努力の全てを追い越すことができないでしょう。

世の中の殆ど多くの事柄は、才能だけによって生み出されたものではなく、多分凡人の血の滲むような努力の中から生み出されたものだろうと思います。まさしく、血と汗と涙の入り混じった努力の結晶なのです。

ハイジャンプでメダルを得ることは凡人にはできません。メダルは数に限りがあります。
けれども、努力のプロセスを得ることは凡人にもできるのです。
誰しも真似ることは可能だからです。プロセスを体験するということには、数に限りはないからです。折角努力したのにメダルを取れなかったとか、才能のある人やセンスのいい人には勝てなかったとか、恨めしく思う必要もありません。自分には努力したという体験が手に入ったのですから。

人生は長いのです。
才能が人間を幸せにしてくれるわけではないのです。
自分を幸せにできるのは、幸せを感じることのできる自分自身なのです。



新しい携帯電話にしてみた

2007年08月29日 22時40分25秒 | 俺のそれ
度重なる家族会議での討議の結果、今回新たな携帯電話の導入が決定された(大袈裟すぎ。本当はそんなに会議を開いていない)。
各人の希望とか利用状況調査―これもあまりにオーバーだね―などを基に導入コストやパフォーマンスについて検討していった。競合3社からの選定は難航したが、最終的に絞込みを行った。


苦節5年以上、最長機種では約7年くらい?使用されていた。全員の機種においてカメラは付いていなかった(笑)。着信音がほとんど聴き取れなくなった、という苦情などが顕著となったほか、バッテリーの持続時間が短すぎる、といった現象も起こってきた為、今回の新機種導入はやむを得ない、との判断となった模様。


で、結果は、「ソフトバンク」。
これに決定。
長年ドコモとPHS(現ウィルコム)を使ってきたのだが、あまりメリットもなくなったことから、一斉に変更となった。自分の使っていた携帯はバッテリーの持ちも良く、未だに問題なく使えていたので、ちょっともったいなかったな。

新しい携帯は、家族には大変好評。美しいもんね。
今の携帯電話というのがこれほどのものとは誰も知らなかったので、驚きであった。価格も昔と違って随分と高いな、と思ったが、仕方がないのかもしれない。ちょっとしたパソコンよりも高いもんね(笑)。何というか、高価なおもちゃだね。



是非オールスターメンバーを発表して欲しい

2007年08月28日 17時52分29秒 | 政治って?
いえ、大した話じゃないんですが。
改造内閣のメンバーに関する講評みたいなのがマスメディア関係とか、評論家関係とかから出たと思うので、一応メモ程度に。

色々なご意見というのがあるわけですが、ケチを付けるのなら常にどんなことでも言えるわけですね。代表例というのが、社民の福島さんみたいなものかな(笑、自分と社民以外は全部ダメ、ってことかもしれんけど)。


例えば、
「派閥均衡、派閥の論理という内閣は良くないんですねえ~」
「谷垣派は一人も入っていない。これはどういうことですか」

この片方だけなら、そういう意見なのか、とは思いますね。でも、同一の人間が両方を言うというのは変じゃないかな?と思うわけです。だって、派閥均衡みたいなのは良くないと言うなら、「派閥には無関係に人選せよ」ってことで、どこの派閥に偏りがあろうとも、関係ないじゃないですか。ある派閥には5人とかで、ゼロというのもある、ということでしょ?だったら、一人も入っていない派閥があることを取り上げて意見するというのは、何の意味もないと思うんですよ。それとも、派閥に均等にポストを割り振れ、って求めているってこと?(笑)

要するに、何だって批判したいだけ。不毛なだけ。


私自身もよくありがちなのは、自分が野球とかサッカーの監督になったかのような積もりで選手のオーダーとか起用法なんかを批判したりするんですよね。「オレだったら、清原は4番にしないよ」みたいな素人評論家談義は多い、ってことです(笑)。これはこれで、酒の肴にはなるし、満たされない願望とか鬱憤を晴らすにはいいんですけどね。意に反して負けちゃって、「あーあ…」という気分をなだめるには、「あそこでピッチャー替えないから打たれたんだよ」とか「FW悪すぎ、オレならスタメンには○○を使うけどな~」とか、空想世界である種のパラレルワールドを利用するんではないのかな、と。
「(自分なら)勝った」という鎮痛効果?といいますか打ち消し効果みたいなものかな。それで、自分はあまり率先して認めたくない不都合な現実を受容するというか、自分自身を納得させているのかもしれないですね。よく判らんのですが。


話がかなり逸れましたが、そういうわけで、政治評論関係の方々は是非とも、今「自分が安倍総理大臣だとしたら…」という仮定で、自分自身のベストオーダーを組んで頂き、発表して欲しいもんですね。それを元に、みんなからおもいっきり批判でも受けてみたら宜しいんじゃないでしょうか。

「何でこんな打線組んでいるんだよ」とか言っているなら、「理想的オーダー」を提示してくれればいいんですよ。
「松坂先発で、抑えは上原」みたいな現状では有り得ないオーダーもできないので、今いる駒の中からきちんと選択してみて欲しいですね。


そうやって出来上がったオーダーは、果たして批判を受けることなく、本当に理想的なものになっているのか?
評論家だの、論説委員だのが出せば、みんな同じオーダーになるのか?

何はともあれ、やってみてごらんなさいな。是非とも、それを発表して欲しい。そして互いに批評しあったらいいんじゃないでしょうか。10人出せば、みんな殆ど違う結果になると思うけど(笑)。自分で考えれば、かなり難しいんじゃないの?

けど、批判するのは容易い。他人が考えたことに対しては、何ともで文句を付けられるのです。

ああ、ついでに「~内閣」って自分自身で命名も宜しくね。その程度もできんのに批判してるなら、政治評論家や論説ナントカ、政界通とかの看板を降ろした方がいいな。所詮、素人監督の居酒屋談義、ってことだね(笑)。




改造内閣の感想

2007年08月27日 21時19分46秒 | 政治って?
まず、気になったいくつかをピックアップ。議員さんの評価とか全く判りませんので、個人的思い込み評価オンリーで。

・外相 町村信孝:以前にも成果を挙げていたように思うので、まずまず。実際配置されてみると、順当ではある。
・経済財政担当相 大田弘子:パワー不足感は否めないですが、系譜を維持ということか。
・金融・行政改革担当相 渡辺喜美:公務員改革関係では、突進力を発揮か。
・防衛相 高村正彦:一番感心した。中々うまい人事かもしれない。
・国土交通相 冬柴鉄三:興味ない。
・経済産業相 甘利明:留任だった理由が判らん。実際は有能なのかもしれない。

他の全然知らない人たちが結構いて、判らないのはパス。

ダメダメの「ガッカリ大賞」はこれだ!!>>文部科学相 伊吹文明
オワタ。NHKの「これから」に出てたのを見て、もっと評価ダウン。なんてたって「死人に口なし男」ですから。教育に不信感と絶望を抱かせる男。恐るべし。

それから、ウムム……??というのはこれだ。
・財務相 額賀福志郎:強面風なのもアレだが、豪腕タイプなのかな?意思強固過ぎ?財政再建一派に扇風機で大量の風(勿論フォローだ)を送り込みそうでコワイ。上げ潮が「退潮」路線となってしまうと、かなりキビシーイ!!
・法相 鳩山邦夫:由紀夫くんに嫌がらせ?(笑)セレブ一族だから?これは冗談ですけど、東大法だったハズなので法務は安心??

最も気になるよ、マズイよ、ヤバイよ、というのが次の2つ。
・ 官房長官 与謝野馨:日銀路線の連続って、何よ(笑)。竹中一派への牽制?与謝野さんは仕事ぶりがどうということはないと思うけど、財政再建路線にまたも強力なバックアップ登場。日銀も大喜び。どうなる、諮問会議&経済政策。
・厚生労働相 舛添要一:今回の目玉みたいな捉えられ方をしているかも。個人的には、この前、数少ない「入閣させるなリスト」に挙げていただけに、かなり危機感。しかもよりによって厚労相。政治学者だか憲法学者だか知らんけど、畑違いのような気が。親の介護をやったことがある、みたいな理由で大臣ができるんだったら、世の中に大臣になれちゃう人たちはごまんといるよ。でも考えようによっては、野党からの集中砲火を受けさせて黙らせる(潰す)、というのもアリかもしれんからね。苦渋を舐めてみろ、と。暴れ馬は閣内において、総理が手綱を引けばよい、と。そういう目論みもあるかもしれない。

他は割愛。
ああ、最後に、

総務相 増田寛也

マスダって、増田って、ひょっとして「はてな」?(笑)
これは冗談ですけれども、一番意外性のある登用でした。知事会と中央の官僚との関係というのはよく知りませんが、遺恨があって江戸の仇を…なんてことにならなければいいのですが。それとも、関係は良好で総務省との共闘路線とかだったのかな?それなら、むしろ協力関係は築きやすいかもしれないですがね。どうなんでしょうか。

それと、今回は「W中川」は見送りということだったみたいですね。




ハイド博士の答えは…

2007年08月26日 22時21分11秒 | 社会全般
ちょっと書くのが遅れたのですが、この前の結果が出ておりまして、拝見した感想などを少々。

答えの予想を書いたのがコレ>「最後の授業」とハイド博士


ハイド博士のヒント、、おっと失礼、ハイド博士もとい小田中先生がヒントとして書いておられた「最後の授業」ですが、これについては大体自分で記事に書いたようなことでした。すなわち、アルザス地方はドイツっぽいというか、殆どドイツじゃないか、と。

WIRED VISION 小田中直樹の「バック・トゥ・ザ・フューチャー」 第4回 気分はもう戦争・そのIV

で肝心の「国防=権利」?ですけれども、やや解答の核心部分というのがもう一つはっきりとしない印象でした。以下に、小田中先生の記事から一部引用してみます。


まとめよう。アルザス地方は(乱暴にいってしまえば)ドイツ!!である。

それでは、なぜドーデはこんなミスリーディングな話を書いたか。もちろん、そこには理由がある。彼はドイツに負けてくやしかった。かくなるうえは、いずれきたるべき対独復讐の日にそなえて臥薪嘗胆しなければならない。そのためには、フランス国民のあいだに、フランスはえらく、フランス人はフランスを愛し守らなければならないという感情を植えつけなければならない。こんな感情は、通常「ナショナリズム」とよばれている。「最後の授業」はナショナリズムのためのフィクションであり、そうしたものとして意図的に書かれたのである。

【3】
 話の筋があっちに行きこっちに戻りしてるようで、自分でも目が回ってきたが、カンのよい読者諸賢はもうわかっただろう。国防は権利であるという考え方を普及させるには、ナショナリズムの力を借りることが有効だし、簡単である。

フランス人が「国防=権利」と考えてきたとすれば、それらは彼らがナショナリストだからである。フランス革命はナショナリズムを生んだ。ナショナリズムは国民軍を支えた。20世紀末のフランスで国民軍の廃止に反対した左翼政党は、ナショナリストだった。

そして、ナショナリズムは強い。たとえば、「最後の授業」からしばらくたったころのフランスでは、右翼政党が対独復讐を唱え、左翼政党が植民地獲得を求める、という外交・軍事政策の対立があった。でも、どっちもナショナリズムに基づいていたことにかわりはない。


この部分を箇条書きにしてみると、次のようなことです。
・「最後の授業」はナショナリズムの為のフィクション
・「国防=権利」を普及させるには、ナショナリズムを利用するのが有効で簡単
・「国防=権利」と考えたとすれば、それはナショナリストだから
・フランス革命はナショナリストを生んだ
・ナショナリズムは国民軍を支えた
・前世紀末に国民軍廃止を反対した左翼政党はナショナリスト
・ナショナリズムは強い
・大戦前頃の右翼政党も左翼政党もナショナリズムに基づいていた

ここまで読めば、3番目が答えということであり、「ナショナリストだから」というものかなと思いました。

因みに、前回の質問部分というのは、
『なんでフランス人は「国防=権利」って考えてるのかね、まったく。
ちなみにそのヒントは 「最後の授業」』
でした。
つまりは、
◎「国防=権利」と考えるのは、フランス人がナショナリストだ(orが多い)から
ということになるかと思います。フランスにはナショナリストが多い(だろう)ということは、箇条書きの部分を拝見するとそうなんだなと思います。ただ、ナショナリストだから、ということを知ったとしても、何となく答えに辿り着けていないような感じを抱いてしまいました。次のように書いてみると、その疑問が残っている感触というのを判って頂けるのではないかと思います。単純化しすぎ、というご批判はあると思いますが、とりあえず。

①ナショナリストは「国防=権利」と考える
②フランス人はナショナリスト
③故に、フランス人は「国防=権利」と考える

こうしてみると、前回の質問文、『なんでフランス人は「国防=権利」と考えてるのか』の「フランス人」を「ナショナリスト」に置き換えただけのようにも思え、どうしてなのかが不明のままな気がしてしまうのです。何故ナショナリストであると「国防=権利」と考えるのか?ということが判れば、一番有り難いのですけれども…ないものねだりをしてもしょうがないのですが、普通ナショナリストというのは国防を権利だと考えているのでしょうか。
平凡に考えると、「徴兵制を復活せよ」とか唱える集団などが言いそうなことは「兵役は国民の義務だ!」みたいな感じじゃないかな、とは思ったりします。つまり、国民の義務だ、みたいな主張は多くありそうかな、とは思うのですが、「権利だ」と主張するのって結構難しそうかな、と思うのです。


そういうわけで、ナショナリストは何故国防を権利と考えるのか、ということは依然謎に包まれています。うーん、どうしてかな?



続・派遣は悪か?

2007年08月25日 23時36分55秒 | 社会全般
前の記事の続きですが、字数がオーバーしたので、別にしました。


6)何が間違っているのか

これまで見てきたように、本来的には企業が派遣労働力に対して、正規の同じクラスの労働力よりも一時的には多く払わねばならないということです。企業が負担するべきコストは、タイムラグ減少分、育成に関する手間暇分、新卒の中途退職リスク分、仲介手数料分、などです。労働者側からすると、同一店舗のコンビニのレジと商品陳列のような「移動障壁の殆どない場所」を移動するのではなく、異なる企業間の移動となるので移動障壁は高くなるでしょう。その分は「多くもらえなければならない」ということになります。更に、投入された場所で短期間に成果を挙げねばならないので、期間が長い場合に比べるとやや不利ではあります。成果が大きい場合であっても、報酬が増えることは殆どないでしょうからね。成果が小さくなるとすれば、自分の評判や評価が低下する恐れがあるので、そのリスクに見合う上乗せが必要ということになるでしょう。

弁当屋で「完成品」を購入する場合には、自分で作る手間暇とか時間を購入するのと同等であって、例えば「カレー弁当」みたいなのを作るとすれば弁当屋で購入すると500円かかるが、自分で作れば100円で作れてしまう、というようなものです。完成品というか、既に出来上がったものを調達するということになれば、割高になるのですね。派遣を利用している企業は、自前で作るのを止めたのに、割高な完成品を求めるのではなく、「自前で作る100円よりも安いカレー弁当を買わせろ」というようなことを求めている、ということです。工業製品みたいに、ネジのようなものを自分でたった一つだけ作るよりも、大量生産の恩恵を受けた市販品を購入する方が安く済む、ということも有り得ますが、労働者はこうした工業製品とは異なるのだし、大量生産も難しいので自前で作るより完成品購入の方が割安ということにはならないでありましょう。

企業というのは、戦線に敵が押し寄せてきていても、「何処に余っている砲兵がいるか」ということを発見し難いのです。発見するにも時間がかかるし、その間も戦闘は続いているわけですから、自力で探してきて増援部隊を戦線投入するとなればタイムラグが生じてしまうことになるのです。一方労働者側は、自分は手が空いていても「何処の戦線で自分が必要とされるのか」ということとが正確に判りません。なので、自分で必要とされそうな戦線を探し当てるとなれば時間も労力もかかってしまいますが、紹介屋の指示に従えば必要とされている戦線が容易に見つけられるのです。「伍長クラスの狙撃兵(=労働者個人)」も「戦線に張り付いている正規部隊(=企業)」も、戦線全体を見渡せるわけではないので、どこに行けば互いを発見できるのか判り難い、ということです。
紹介屋は戦線全体を見渡せるので、必要とされている戦力、必要な地点、余っている戦力、の双方がわかっているのです。なので、マッチングを行いやすい、ということになります。


間違いの元になるのは、こうした紹介屋は「情報の差」や「交渉力の差」につけこんでいるということです。企業もそれに便乗していると言えます。

発注側企業は、「多くの紹介屋がいるから、他に頼むよ」ということを暗に交渉力として利用している、ということです。「支払う給料は1等兵、でも曹長の働きができる人材を」ということを求めるか、派遣会社に「仲介手数料を下げろ」と求めるということです。仲介手数料がどういった仕組みなのか判りませんけれども、例えば「派遣する人材の月給の○%」みたいになっているならば、手数料引き下げは自動的に「月給引下げ」に直結してしまいがち、ということです。なので、派遣会社の競争激化によって、仲介手数料の引下げ競争が起こってくると、派遣労働者の「月給引下げ」とか、仲介手数料減少分を派遣する労働者の取り分(賃金)からピンハネしてしまうことが有り得る、ということです。

次に労働者と派遣会社との交渉力を考えると、派遣会社は全ての情報を得ているので有利な立場ですし、最大の理由としては労働者側が「仕事にありつけないと生きていけない」ということを知っている、ということだろうと思います。本来的には、派遣される人は、戦線(企業)から次の戦線(企業)へと空白が少なく移動できるというメリットを享受するはずでしたが、派遣会社は「次がないと困るでしょう?」という足元を見た交渉を行うことが可能になってしまうのです。同じ軍曹でも、「安すぎて引き受けられない」と全部の軍曹が断れば値崩れするのを防げるかもしれませんが、安い水準を提示されたとしても背に腹は替えられずに応じてしまう抜け駆け者が現れると、軍曹の報酬はみるみる下がっていき、伍長とか1等兵レベルの報酬でも引き受けざるを得なくなってしまうのです。派遣される労働者がバラバラではなく、一個の意思決定しか持たないとすれば「軍曹として引き受けられる水準の報酬」ということがたった一つだけ決まります。本来的にはそれが「妥当な水準の報酬」ということのはずなのですね。そこからの若干の上下はあるにせよ、大きく下がるということにはならないはずなのです。株価の変動みたいなものかもしれません。「安く売ってしまって損した」と思う人もあれば、「安く買えて得した」と思う人もある、ということです。株価ならば、「同一の市場」で他の価格交渉の様子が概ね判る、ということになっていますが、労働者と企業の交渉は外部の人たちからは判りません。そこに問題があるのですね。「軍曹の現在の相場」というのが、労働者側にもはっきりとは判らない、ということです。

もしも不当な条件しか出さない企業があるとして、そこに誰も戦力が手当てされないとなれば、困るのは最前線で戦っている人々であり、防衛作戦は失敗して敵に突破されてしまうでしょう。レジの例で言えば、慢性的に列になってしまい、客の不満度が大幅に上昇して客が次第に離れていくということです。不当な条件しか提示しない企業であれば、戦線を維持できなくなって退却を余儀なくされる、という「しっぺ返し」を食らうことが望ましいのですが、競争の激化した紹介屋たちの中からは「目先の仲介手数料」に目が眩んだ業者が現れるので、どうにかして戦力が調達されてしまう、ということなのですね。これが良くないのです。

結局、交渉力の差を見れば、「企業」>「派遣会社」>「労働者」、という順になっていて、それぞれの交渉条件の情報が不透明になっていることが問題だろうと思います。株式市場のように、価格の状況が双方ともに正確に把握できるとか、オークション方式みたいになっているとか、労働者の能力について正確に分析し序列化できるとか、そういったことでも達成できない限り、交渉力の差がモロに出てしまっているということかと思います。


あとは、5)でも述べたように、企業は大きな勘違いをしているのではないかと思います。「正規雇用よりも、派遣社員は安く済む」ということを、トータルの費用ではなく「月給」という目の前の賃金が下がるものだ、と思い込んでいる、ということですね。
例に書いたコンビニの「店長」、「パートさん」、「バイト君」という労働者がいる時、「店長」が正規職員で他の非正規の人よりも賃金が高く、店長にしかできない業務があるというなら、「パートさん」や「バイト君」からは「まあそうだろうな」とか「仕方がないかな」と考えるかもしれません。ところが、「バイト君」が新卒で正規雇用、「パートさん」がもっとベテランの非正規雇用、ということで、業務内容も実力も大差ないとなればどうでしょうか。いかに「バイト君」の将来性に先行投資をするといっても、「バイト君」と「パートさん」の業務にも働き方にも何ら違いがないとすれば、「パートさん」から不満が出てくることは容易に想像できますね。今の企業の多くがやっているということは、まさしくこのような格差を意図的に与えている、ということなのです。

長期的にこうした雇用慣行が継続されていけば、いずれ派遣される側からの不満が募っていき、派遣市場そのものが壊れる可能性がありますね。労働者が疑心暗鬼にかられてしまい、信用しなくなるからです。増援部隊の士気は落ちていき、戦果は格段に悪くなっていくでしょう。そうなればよい人材は来なくなり、「下士官クラスを」とか「将校クラスを」と頼んでも、新兵レベルの完成度しか持たない人しか来なくなるでしょう。企業側も、頼んでも仕方がないな、となれば、誰も頼まなくなり派遣会社は潰れるだろう。

別な書き方をしてみます。
企業は増援部隊を頼まなければ戦線が維持できないということを最初から知っていながら、敢えて正規軍の配備を減らして「増援を頼む」ということを求めているのです。家庭の夕食を作る時、本当ならば4人分作らねばならないのに、初めから判っていながら3人分しか作らずに、残った1人分の夕食を「出来合いの弁当を、今作った料理よりもちょっと安い値段で買わせろ」と求めているということです。4人分を自力で作れば400円かかる夕食を、3人分の300円にしておいて、残り100円分で「80円の弁当を買わせろ」と言っている、ということなんですよ。20円浮かせられる、って自慢しているんですよ。これは違うでしょ?おかしいでしょ?こんな話がありますか?出来合いの弁当を頼む時点で、高いコストを覚悟するのは当たり前、ってこと。いつも4人分は自前で作っていて、急に来客があって一人分足りない、ってなった時には、「しょうがないから、出来合いの弁当を一つ頼む」というのなら判りますね、ということなんですよ。その弁当は、自前で全部作った場合よりちょっと割高になってしまったとしても止むを得ませんね、ということなんですね。自前で作れば100円なのに、150円とか200円とかになってしまうかもしれない。でも出費になるのは今だけで、明日からも毎日5人分(500円分だね)をずーっと作るよりは「安く済みますよね」ってことなんですよ。派遣を利用している企業は何を吐き違えているのか、正規軍には高給を払い、非正規の増援部隊には「正規軍よりもずっと安い給料だけしか払わない」ということを、仲介者(=派遣業者)にも増援部隊の兵士たち(=労働者)にも強いている、ということです。


こうして派遣社員たちは、苦しい状況に陥ってしまったのではないかな、と思います。それは景気動向が悪かったから、ということも大きく影響しているでしょう。発注者である企業側に交渉の優位性が強まったのです。労働力は過剰感が蔓延し、苦しい立場に追い込まれた兵士たちは「どこでもいいからとりあえず食い扶持にありつければいい」ということで、不利な条件を次々に受け入れてしまったでしょう。そうせざるを得なかったからです。そうした派遣される側の心理につけこんで、派遣会社も企業も搾取したのです。派遣会社がなければ、確かにもっと困っていた労働者たちはいたかもしれない。企業が自力で探すにはタイムラグがある。互いに最適な相手を特定でき難いからです。そうではあるけれども、搾取した側に責任はあるでしょう。雇用契約も金銭貸借契約もちょっと似ていて、弱い立場というものがあるのであって、そうした部分にはそれを是正させる「ルール」の導入・制定が必要になるでしょう。借り手は貸し手と対等な立場である、などという寝言を言っているのは、世間知らずのお坊ちゃんか、人に頭を下げたことのないような偉い学者大先生さま(笑)くらいではないでしょうか。それと同じようなものだ、ということですね。



派遣は悪か?

2007年08月25日 17時59分10秒 | 社会全般
最近注目を集めているようなので、考えてみました。

参考までに、私自身のバイト経験というのは、全て学生の時しかありません(これまでの記事にもちょっと書いています)。在学中ということで、フリーターとか契約とか派遣といった境遇になった経験はありません。コンビニでのバイト経験はなく、スーパーは結構ありました。日雇い派遣みたいなのは、当然ありました(笑)。ある会社に8時まで集合し、そこで作業服(タダで貸してくれる)に着替え、支配人みたいな割り振り係のオジサンに名前を呼ばれて、”出動”ということになります。派遣場所は、引越し屋、ピアノ運搬、古紙業者、コンクリート工場、倉庫などで、毎回バラバラでした。滅多にこない学生さんとかが名前を呼ばれずに終わってしまい、人が余ってしまうこともあり、その場合には、適当な作業をさせられて、半日程度働いて半分の給料(2000円)を貰って帰っていたようです。他には、大学生協みたいなところに出る単発のバイトで(確かくじ引きだった)、ホテルなどの展示会や販売会みたいなイベントの設営とか。深夜帯に作業なので時間の割りに賃金が高く、おいしいバイトでした。


1)労働力の調節ということ

とりあえず、あるコンビニがあって、そこで働く場合を考えてみよう(正確には色々なシフトとかあるのでしょうけど、大雑把にということで)。メンバーは店長とバイト君とパートさんとします。レジは2台で、この3人が同時に勤務しているものとします。
店の状況というのは色々な場面があると思いますけれども、もしも、3人が職種によって業務を固定化していると、どうなるか考えてみます。これはどういうことかというと、店長は店長だけの業務を行い、他の業務を行わないということです。同じく、バイト君はバイトの仕事だけ、パートさんはパートの仕事だけ行う、ということです。すると、例えば、レジは店長のみが行う、という決まりになっているとしますと、客が混んできて、レジに6人くらい並んでいても他の人は手を出すことはなく、パートさんは商品陳列だけに専念し、バイト君は床磨きを黙々とやっている、みたいな感じです。

このように業務が固定化されていると、効率は悪くなりがちでしょう。決まった仕事にはすぐ慣れるかもしれませんが、先の「レジに行列」に限らず、商品が大量に搬送されてきた時などには、パートさんが死に物狂いで商品を出しても中々進まない、ということになってしまいます。他にも、バイト君が不慣れの為に宅配便の手続に時間が掛かってしまうような時、手馴れた店長とかパートさんが代わりにやって、バイト君は後ろの並んでいた客を隣のレジでサクサク会計する方が早いということもあるかもしれません。宅急便の作業なんかは、誰もいない空いている時間に改めて教え込んでおけばいいのです。このように、レジが混んできたなという時には、もう1台のレジで直ぐに捌いてしまった方が時間が短縮でき、客のイライラ度も軽減できますね。商品の伝票チェックとか陳列も、空いている時間などを利用して、みんなでやった方が直ぐに終わりますよね。結局のところ、メンバーが無駄に待機している時間を少なくして、レジに集中投入するべき時にはレジに多く割り当て、客が来てない時には商品陳列や清掃に時間を当てるといった柔軟性がある方がよいということです。メンバーの仕事は固定化されていない方が、場面に応じて弾力的に対応できることになります。

戦闘とも似ていて、敵が大群で押し寄せてきていて不利な状況となっている時、これを押し返すとか防衛するということを考えるのであれば、手薄な部分に戦力を臨機応変に回すことが必要なのです。厳密に固定化されているよりも、局面に応じて弾力性のある運用が必要、ということです。仕事の量に波があって、戦力を多く投入せねばならない局面で人員を増強し、量が減少する時には、「他に回す」というのが効率的でしょう。派遣の意味というのもこれとほぼ同じで、社内の部署に固定化した人員を配置しておくよりも、大量投入が必要な場面で増強するべき「戦力」として活用するものである、と思います。

上の例でいうと、コンビニの「店長」が正社員、「パートさん」や「バイト君」は派遣の人、ある会社が「レジ」、別な会社に「陳列」「伝票整理・チェック」「床掃除」という具合になっている、というようなことでしょうか。「コンビニ業務」というスキルを持つ労働力が適宜移動するという弾力性を持つということが、派遣という意味合いなのだろうと思います。


2)企業間の労働力移動は難しい

コンビニの例であれば、同じ店舗内なので店長ばかりではなく、パートさんもバイト君も今どこが混んでいるか、ということが見分けられます。どの仕事を優先的にやればよいか店長さんが指示してもいいし、自ら考えてやることも可能です。それは労働者自身が、仕事の量とか手薄な部門とかを認識でき、判断できうるからです。

しかし、企業間の移動であると、労働者には外見上から中々知ることができないのです。あちこちの企業に「今、大混雑中です、事務員緊急大募集中です」みたいな旗が立っているわけではありません。混んでいるのが「レジ」なのか、「陳列」なのか、みたいなことが判断できない、ということです。となれば、誰かが「レジに行って下さい」みたいな指示を出さねばならないのですね。その役割を担っているのが派遣会社ということになるでしょうか。労働者と企業だけしか存在しない場合に比べると、多分労働力の移動速度とか正確性がアップするでしょう。両者の仕事の状況という情報を知っており、手が空いている状態の人と混雑している部署との両方が同時に判らないと戦力を的確に移動させられないのです。労働者も企業も、自分の側の状況だけを知っていますが、相手方のことはよく判りませんからね。なので、仲介役がいることで、スムーズになるということになるでしょう。

旧来の方法であると、企業が求人を出してこれに誰かが気付いてくれて、労働者が応じてもよいという場合のみでしたので、時間のロスとかが多く、労働者にしても短期の仕事しか就けないことのリスクを負わねばならなかったのです。派遣会社があると、これよりは時間的なロスを縮小でき、労働者側も失業のリスクを軽減できる、というメリットはあるはずでした。現実には、こうしたメリットよりも非難の方が大きくなりつつあるのかもしれませんが。


3)派遣の特性を考えてみると

コンビニの例で見れば判るように、本来「部署間を移動しても賃金が同じ」ということが必要なのです。レジから商品陳列に移動した途端に給料が下がってしまうとか、伝票チェックから床掃除に移動したら時給が安くなるとか、そういうことはないわけです。ですので、ある労働者のスキル区分が「○○オペレータ」ということなら、その職種に対して賃金が一定水準以上になっていることが必要なのです。決して「正社員よりも賃金が安いのが派遣」ということではないのです。あくまで、労働力と仕事の量の不均衡を減らし、手薄な部分に効率よく戦力を配分する為のシステムであるはずです。労働者側としては、短期需要であるとしても、仕事がなくなるという非効率を回避でき、頻繁に行き先が変わるという環境変化の大きな不利益を受けるとしても、仕事があるということの方を選択するのです。

先のコンビニの例で考えれば、レジが列になってしまって手薄である時に、床掃除という部門から応援の戦力が突如現れるようなものです。レジも陳列も床掃除も足りている時には、普通のコンビニであれば「どこかに消えていてくれ」ということはできませんよね。「次のレジが混雑する時まで、どこか消えていてくれ」という風にはできないわけです。でも人材派遣というのはそれが可能になる、ということなのです。「レジ」(ある企業A)も「床掃除」(ある企業B)も足りている時には、みんなは知らないけれど「見えないどこか」(ある企業C)で働くことができるのです。でも、大変混雑して「レジ」(ある企業A)の人手が足りない、という時には、派遣してもらえるということなのですね。通常のコンビニであれば、レジと床掃除などの間で非常に短い時間の中で頻繁に移動が行われますが、一般の企業間ではそこまで短期間で移動させられませんね。なので、数ヶ月単位とかで移動ということになるのでありましょう。

4)企業側のメリットとは

派遣の有利な点は労働力が固定的ではないことで、例で何度も書いている通り、手薄な部分に即座に戦力を補強できる、ということなのです。補強までの時間的ロスを小さくし、必要な時に必要な分だけ手当て可能だ、ということです。もう一つは、一から教育していく手間が省ける、ということです。新兵で取って自力で育てていく必要がなく、「おーい」と呼ぶと戦力が増強される、ということなのです。これもタイムラグを少なくすると伴に、戦力がさほど必要でなくなった時には、敢えてそこに戦力を貼り付けておかなくても済む、ということなのです。

コンビニの例で考えると、これまではレジが混雑して並び始めたらそこで「誰か」をレジ専属で採用して、レジのやり方をいちいち教え込んでいたわけです。客が並んでいる前で、新兵に教えながら尚且つ会計業務もやって、ということだったのですね。でも、「おーい」と呼ぶとどこからか「レジのできる人」という増援が現れて、レジをやってくれると大変有難いよね、ということなのです。しかも細々と教えなくてもやってくれるわけですからね。で、レジが混雑しなくなったら、「もういいよ」と言ってあげると、どこかへ行ってくれます。旧来であれば、レジの混雑が終わった後にも一生雇ってレジに配置しておかねばならなかったのですから。

企業はこういうメリットを享受するわけですから、そのコストを払うのが当然なのですね。


5)派遣の賃金と企業負担はどうなるか

労働者の賃金というのは、その労働者本人が持っているスキルに応じて決められるのが普通でしょう。代替の利きにくい技能を有していて、他に頼むのが難しいという人ならば当然高くなりますし、需要が多いならばやはり高くなるでありましょう。

変な例で申し訳ないですが、兵隊さんだと言いやすいのでご容赦を。

企業が「伍長クラスの砲兵を」と頼めば、そのクラスの兵隊を派遣する、ということです。砲兵の需要が高ければ、この伍長の取り分は多くなります。伍長クラスよりももっと上のクラスを頼みたければ、例えば「少尉クラスを」ということになりますが、希少価値が高くなるし能力が高いので賃金は当然高くなります。「一般の2等兵でいいです」とかならずっと低い賃金であろうし、「軍曹とか曹長レベルの狙撃手」ならそれなりに高い、という具合に本来的には職種やクラスで違いがあるでしょう。これらは、派遣要請側にとっては、「今、目の前にいない戦力」を頼むわけで、自前でこれから「一般の2等兵」や「軍曹レベルの狙撃手」を育てていく手間と時間を買うわけですから、「高い費用を払うのは当然」ということになります。つまり、自前で育てた兵士よりも、即席で雇い入れる兵隊の方が「賃金は安く済む」というのは、本来的に大きな誤りであるはずなのです。安いのであれば、「クラスが下の兵隊」しか雇い入れられないはずです。「本当は曹長レベルがいいんだけど伍長で我慢しよう」ということなんですよ。

トータルで考えれば、正社員として雇うよりも企業の払う費用は小さくなります。
戦力を一時的に増強したとしても、防衛作戦が一段落して必要なくなれば、「どこかに行っていいよ」ということにできるからですよね。軍曹に応援に来てもらって、敵が引いたなら、「もう軍曹はいらない」ということで、それ以前の戦力で間に合うということなのです。レジが混んで一時的に2人体制にしても、客がいなくなればレジではなく陳列や床掃除に回ってもらった方がいいわけですから、それと同じなんですね。正規雇用だともっと長期間会社に置かねばならないので、軍曹としてずーっと雇っておくとなれば、費用がかさむということになるのです。軍曹が必要な時に必要な分だけ、ということなので、軍曹がずーっと存在している時よりも、「いなくなる時の分」だけ得ですよね、ということです。

ところが、現実には「正規で雇うよりも賃金は少なく済む」ということが、「賃金は低く済む」ということにすり替えられてしまっているのだと思います。軍曹の賃金は軍曹の賃金のままに決まっているはずなのに、です。軍曹を頼んでおいて、「1等兵の給料しか払わないよ」と企業側が主張し、そういう慣行ということにされてしまっているのです。ここが大きな間違いだろうと思います。

そもそも、戦力を頼む側(企業)は増援を頼むという時点で、自前で育てた「軍曹の給料」と「派遣されてきた軍曹の給料」では、最低限で同等かむしろ高くても当然であるはずなのです。それは短期的に戦果を挙げろ、と求められるのだし、周囲には自分の使い慣れた兵卒がゴロゴロいるわけじゃないのに部隊を動かさなければならないのですからね。
(時には扱う機械の方式とかメーカーが違う、ということで部分的に教えてもらわねばならないこともあるかもしれませんが、基本的には派遣される労働者は完成品として送り込まれているのだろうと思います。兵隊でいえば、正式装備の銃が軍隊ごとに違いがある、みたいなものかと。A軍では○○製、B軍では△△製、みたいな。それに合わせた多少の慣れが必要かもね、と。)
その他に、手配料とか紹介料とかの上乗せ分を払うことになるはずです(これは派遣会社の取り分ということになるでしょう)。なので、自前の兵隊よりも多くコストがかかる、というのが本来の仕組みなのです。企業側は一時的に多く払ったとしても、長期で雇い入れておくよりも、福利厚生費とか社会保障費とか企業年金分とか、そういった部分で大幅に得するのと、何度も言いますけれども、戦闘が安定して増援部隊は(傭兵さんみたいなものか?)は必要ないとなれば外に出せる、という大きなメリットがあるのですからね。

ですので、しつこいようですが、企業が派遣で雇い入れた労働者に対して支払うべき費用というのは、「正規雇用の人よりも多い」というのは当たり前、ということです。それでもトータルで見れば、企業は大幅に得している、ということです。
タイムラグを生じる分の時間、育成関係の手間暇、中途退職リスク分などと同等の価値を買うわけで、そのコスト分だけ増加しなければならないということです。更に、仲介マージンを紹介屋に取られてしまう、というのもやむを得ないのです。


6)何が間違っているのか


ちょっと途中ですが、退席するので。後で追加します。




第二次安倍内閣はこうなる?

2007年08月24日 19時26分14秒 | 政治って?
大袈裟な見出しですけれども、人事については全く判りません。誰が登用されるか、所謂「サプライズ人事」はあるか、というのはよくわからないですね。これだけは、というのを言うならば、小池大臣は留任は避けた方が宜しいのではないかと思えます。今後何か問題が持ち上がる度に紛糾の火種を残すことになるのではなかろうかと。どうしても入閣させたいのであれば(特別入閣させる意味を私には感じられないけど)、元鞘で環境省あたりが無難では。スタッフ酷使が好きそうなので、守備範囲が手広い内閣府(沖縄も含まれますし)とかにした方が宜しいんじゃないでしょうか。

あと、秀さんの処遇ですけれども、「支えなければいけない」と言ってくれる人物は残すべきではなかろうかと思います。当初の構想では幹事長ポストではなく経済財政担当大臣に、ということもあったらしいので、”その線”(つまりは「ライジング」だな、笑)で行くのも一つの手ではないかと思います。かつて安倍ちゃんが幹事長から滑り落ちた時、代理のポストに就けてもらったはずですから、どこかに残すというのはできないわけではないと思いますね。

それから、補佐官ポストですけれども、数人は民間人を置くべきかと思います。特に、小池さんの後に空席となった安全保障担当は、本格派の専門家を登用するべきではないでしょうか。適任者とか全く知りませんけれども、安全保障分野のエキスパート的な人で、国際舞台での経験(できれば諸外国との交渉経験とか人脈が豊富な人が望ましい)の多い人がいいように思います。根本さんは出足好調そうだったけれど、何か成果を残せたのかな。大したことないのなら、チェンジでお願いします、ってことになるかね、やっぱり。それとか、閣内にも一人くらい民間人を入れる、というのは一つの手ではあります。ここはひとつ思い切って、虎さんを呼び戻す、というのも思いっきり驚くとは思うけどね(笑、ないなこれは)。

留任させてもいいのは、菅総務大臣くらいしか思い浮かばないな。割とよくやっていたと思うけど、どうなんでしょうか。麻生親分はそれなりの処遇になると思うので・・・特に心配はいらないでしょう(笑)。舛添さんは決して入れてはいけない。100万票以上を失ったような人には、もう用はないので。イメージも合わないし。

そうだな、「刷新」された新内閣のイメージは、「清新」「前進」「至信」でどうでしょう。
でも野党とかマスメディアあたりだと、これが「腐敗」「後退」「不信」なんじゃないのか、みたいにツッコまれてしまうかもしれない(笑)。


いずれにしても、かなり落ちる所まで落ちたのですから、あとは前を向いて行くしかないでしょう。自信を持って、でもあんまり気負わずに頑張るしかないでしょうね。自ら選んだ道なのですから。それでダメだったら、しょうがないということです。時の運がなかった、と思うよりないでしょう。




出生数減少と景気動向

2007年08月23日 22時17分21秒 | 社会全般
ちょっと残念なお知らせです。

出生数再び減少傾向、厚労省「要因はわからない」 政治 YOMIURI ONLINE(読売新聞)

記事によれば、
『06年上半期は前年同期比で6年ぶりに増加したが、再び減少に転じた。
出生数は2月から5か月間連続で前年同月を下回っている。厚労省は「景気回復による雇用情勢の改善は進んでおり、減少の要因はわからない」としている。婚姻件数は35万9925組で、06年上半期から8040組の減少となった。』
となっており、要因は不明と答えたらしい。

増加に転じた時、「景気回復のお陰じゃないか」みたいな説明を付けていたように記憶しているが、どうでしたでしょうか。

だったら、減少に転じたのは「景気後退という影響かもしれません」くらいは言ってみたら良かったのではないでしょうか?ほら、世界同時株安とか、円高とかあったじゃないですか。えっ?違う?
ああ、そうか、生まれた後に起こった出来事だから無関係か。失礼(笑)。
でも、景気が良くなれば少子化は改善される、みたいな主張はあったと思いますので、そういう説を支持する人々にとっては、第一の要因は「景気後退」なんじゃないでしょうか。

参考記事:何が少子化対策に有効なのか


今月の利上げはどうにか回避されました(笑)が、景気動向としては、今年に入ってからは雲行きが怪しい、ということなのかもしれませんね。


ところで、日銀もここぞというところでは、本当に勇気がないね。
今回利上げしたくらいでは、誰も日銀の評価は変えなかったのではないかと思えるけど。「あー、やっぱりな。○○がやっちまった」くらいでは(笑)。日銀という組織の決定機構は、一体どうなっているんでしょうね。
為替でしこたま儲けているヤツラがいるからお灸を据えてやれとか、株バブルで踊ってるヤツラがいそうだからどん底に落としてやれとか、そういうことで決まるんですか?2月の利上げ前に、円キャリーで云々とか散々抜かしていたのは、ありゃなんですか?今回はガッポリ損失を蒙って頂いたので、とりあえず見送りってことですかい?

以前から福井総裁はGDP統計なんか関係ない、やると言ったらやる、ってなことを言っていた。減速の兆しがあろうとなかろうと、(オレが決めたんだから)「できる」と豪語していたわけだが、あれは何処に飛んでいったんですかね。潜在成長率を下回るペースになってるにも関わらず、利上げに踏み切ってきたくせに、ほんのちょっぴり短期的に株価が下がるとか、数円為替が動いたくらいで、何で利上げができなくなったのか理由を説明してみて欲しいですね。日銀は投機筋と連動して政策決定を行っているとでも?笑うね。国民は決して救済しないが、ヘッジファンドは救うに値するってか?

それとも、日銀応援団とかの業界筋からも止めてくれ、という嘆願でもあったのでしょうか?(笑)

もう滅茶苦茶。何も一貫性がない。
適当なんだ、って言った通りでしょ?
言ってることも、やってることも、ほとんど適当。
決定は場当たり的。
捻じ曲がったヘンな主義には憑つかれているが、納得させられるような説明を一切用意できず。しょっちゅうコロコロと変わる。客観的に見て、決定過程を辿ることができんのよ。決してなぞることのできないような結果が出されているってこと。
何かの論理とか、一定の判断基準とか、そういう基盤があれば、そこを辿ればおおよその筋道が周囲の人間にも判るの。でも、そういうのが全くない。利上げするかしないかは、2択なのだから、可能性だけ考えれば常にどちらか一方だ。その答えは事前にはわかりっこないよ、そりゃ。でもね、みんなに共通する一定の判断基準があれば、当たる確率は上がるだろうよ。

「トランプ52枚のうち、赤札を?枚捨てました。残りから1枚選ぶ時、黒札ならば1ポイント獲得です。さて、ポイントを獲得できる確率はどれくらいでしょうか?」

こういうようなものと変わらんでしょう。
政策決定はトランプじゃないですけど、共通の理解というものが必要だ、と言ってるんですよ。
「トランプの札は52枚」
「赤札と黒札は同じ枚数で半々」
こういう判断のベースは共通でなければならない、って言ってるの。市場との対話というのは、「何の札を何枚捨てるのか」という考え方の問題でしょうよ。何かのリスクが大きいと日銀が考えるのであれば、「黒札を20枚くらいは捨てるかも」みたいな判断材料が提示されるということでしょう。周囲のアナリストたちからすると、「黒札15枚くらい捨てればいいんじゃね?」とか「いやいや、5枚くらいでも十分でしょ」とか、そういう違いを生むことはあっても、ルール全体が変わるわけではないんですよ。みんなが見るべき部分は「何を何枚捨てたか」「手元には何枚残っているか」というようなことであって、トランプ全体の枚数が一体全体何枚なのか不明だとか、赤札を捨てねばならない場面なのに黒札を捨てるというのは何故なんだとか、そういうことが普通は起こらないんですよ。でも日銀は違う。ルールを隠しているし、札の選択を間違っていることの説明もできないので、大きな混乱を招いているのですよ。周囲の人たちから見て、正確に何枚捨てるか不明であるとしても、「多分赤札を捨てるだろう」「多分5~10枚くらい捨てるだろう」とかの予測があるわけですからね。



「ほとんど信頼できない」~トップは官僚(笑)

2007年08月22日 17時04分24秒 | 社会全般
ボツネタさん経由。
時事のニュースの元ネタを探したら、発見した。

中央調査社 調査結果概要


これで見ると、「評価1(=ほとんど信頼できない)」を付けた割合が一番多かったのは「官僚」の38%、次いで「国会議員」の34%だった。両者の1と2の合計割合の比較でも、官僚68%に対して国会議員62%と、官僚に対する評価は厳しいものであることが判る。

マスメディアの陰謀のせいなのか、陰謀組織のプロパガンダとか情報操作のせいなのか(笑)、私には判りませんけれども、どうやら最悪の信頼性であると大衆が考えているということなのでしょう。ま、これも愚かな大衆が情報操作にまんまと引っ掛かってしまった結果である、ということなのかもしれませんが。

今に始まったことでもないでしょうし、別に信頼なんてされなくとも仕事はできるし、国民なんていないのと同じだし、変える必要性を感じてこなかったのであれば現状のままでも困ることもないでしょう。もし困ることがあるなら、もっと以前から業務に差し支えることがあるかもしれず、そうであれば何か改善しようということになるでしょうからね。

社保庁問題の影響もあってか、役所とか役人とかは「信じられない」ということに繋がり易かったかもしれないけど、貪り組織を大量に生み出してきたり、ウマミにありついてきた連中がいたのだから、仕方がないわな。

信頼を回復する努力をするのも、イメージ悪化で叩かれやすくなるのを放置するのも、「自由だ~~」。




野口英世は偉かった…と思うけど

2007年08月22日 14時34分56秒 | 俺のそれ
私は野口英世の応援団長ではないのですが、これまで若干書いてきたので、「一言いっておくか」(笑)。

過去の記事はこんなのがあったよ>検索結果


この前読んだ『生物と無生物とのあいだ』とも関連しているので、タイムリーな話題でもある。他にも、ワトソン君の話も書いたしね。まあ、この辺は大した話でもないので、別にいいか。


今日取り上げるのは、こちらの記事。

野口英世は偉人か虚像か - OhmyNewsオーマイニュース “市民みんなが記者だ”

うーん、野口英世は「本当はお札にするような人物なんかじゃないんだ」ということかな?
一体、どうしたいのでしょう。野口英世を選んだ財務省の官僚たちをとっちめたい、ということかもしれませんね(笑)。世の中の人々に「野口英世を偉いと思っているのは、迷信なんだよ。オマエら、目を覚ませ」ということを知らしめたいということなのかもしれない。それはそれでいいと思いますけど。で、どう捉えるかは自由でいいと思えますね。随分昔の『遠き落日』とか、ここ数年間でもテレビで何度か取り上げられていたから、世の中の結構な数の人々は「こんな人生だったのか」みたいなことを知っているのではないかと思えます。

それでも、野口英世は偉かった、と思えますね。今の日本人であっても、野口と同じように世界に飛び出して挑戦するというのは、中々大変だろうと思うのですよ。いつの時代であっても、チャレンジした人間を評価しない、という人はいるからね(笑)。大した成果を残したわけじゃない、ということであるとしても、見習うべき部分は少なくないと思えるのですね。同時代人たちから一目置かれるという人物になるだけでも、それは凄いことであると思います。それすらできない人の方が圧倒的に多いのですから(笑)。あの時代においては、人類に貢献できていたと思います。ド田舎の貧乏人の小倅が勉学を足がかりにして階段を上がっていく、世界へと羽ばたいて行くというストーリーは、ドラマティックであり、私の中では十分ヒーロー足りえますね。単なる聖人君子ではないことも当然で、人間臭さがあっていいんじゃないでしょうか。


野口英世ばかりではなく、たとえノーベル賞受賞者であっても、後世で評価が大きく変わることだってあるのですから。

ノーベル賞 - Wikipedia

この中での批判の項目には、色々な例が出されています。フランクリンの例ばかりではなく、受賞者が必ずしも一番いい仕事をしたかというと、そうでもないこともあるのです。もっと悪い例だと、昔『カッコーの巣の上で』で知った「ロボトミー」手術なんかもノーベル賞だったそうですし。時代によって、評価は変わってしまうということは普通に有り得る話なのではないのかな、と。

こんなのもある。

ダニエル・カールトン・ガジュセック - Wikipedia

狂牛病で有名になったヤコブ病とかプリオンとかの関連ですけれども、クールー病の研究でノーベル賞受賞となったのですね。でも、その仕事の評価とか人物評価がどうなのか、というと必ずしも良好というわけではない。「彼のお札はないじゃないか」とか言われるかもしれませんけど。


野口はお札にするほど本当に偉大な人間だったのか、と聞かれたら、万人に共通する答えというものは出ないかもしれないけれど、多くの人が「野口英世を引き摺り下ろしたい、お札の顔を塗りつぶしてやりたい」みたいに考えるのであれば、「別なお札を出せ」運動でもやってみたらいいのではないでしょうか。それとも、「福沢諭吉も本当は偉くなんかなかった、慶応贔屓だ、大隈重信にしてくれ」とか、反対意見が出されてくるのかもしれませんね(笑)。



信用のこと~何故途上国では貸出金利が高いのか

2007年08月21日 12時56分24秒 | 経済関連
昨日の記事に関連したことで、少し考えたので。

途上国などに見られるグラミン銀行のような『高利貸』っぽい融資制度の金利は、日本に比べると高い(でも、グラミン銀行の場合は25%くらいだったか。29.2%よりは低いな)。無担保融資だから、ということはあるかもしれないが、連帯保証という人的担保はある。それでも数字だけ見れば、かなり高いと言わざるを得ないだろう。中には、こうした途上国のマイクロファイナンスの金利が高いということをもって、「日本の上限金利は低すぎる」というような意見というのも出されるかもしれない。途上国の金利水準を日本に持ってきて同じように当てはめようというのは、あまりに違いが大きすぎますね、とは思う。

以前にもちょっと触れたと思うが、一応書いておく。
人間もマウスも「同じ哺乳類」だし、動物実験などでもマウスで試して人間にも同じ薬なんかを使っているじゃないか、遺伝子研究でもマウスと人間を同じように見て調べているじゃないか、といったご意見があるとしても、まあそうだな、とは思う。でも、基本的(生理学的)にほぼ同じような循環系システムを持っていたとしても、心拍数とか血圧が人間と同じ水準なのかと言えば、これは全然違うのだ。なので、経済規模が小さいということがどういうことか、まずよく研究してみた方がいいのではないかと思う。そういった違いを超えて、何かの指標の「数字」を比較する意味があるものかどうかということだ。「マウスの心拍数の正常範囲が500~600程度だから、人間の心拍数が120とか150であっても薬物治療によって100以下に落とす必要なんかない」、みたいなことがあるとしたら、頻脈の治療はそもそも存在しないですね、とは思う。治療が必要かどうかは、運動した時なんかの「病的でない」状態かどうかが問われるのであって、マウスの数字と人間の数字を比べることの意味というのは殆どないのだ。「病的かどうか」の判定に意味があるのだ。


話を元に戻そう。途上国のマイクロファイナンスの金利がどうして高いのか、ということの疑問があるのだが、インフレ率が高いということもあるかもしれないけれど、どうもそれだけとも思えないのだ。それを考慮したとしても、もっと金利水準が高いのですから。実質金利を比較するとしても、結構高い数字となっているであろう、多分。

で、何となくチラっと思いついたので、書いておこうかなと思う。

途上国がどうして途上国なのかといえば、金がない貧乏な国だからだ。
(唐突ですが、「ビンゴゲーム」のことを「貧乏ゲーム」と呼んだ人が私の親族にいた。いくら年寄りだから、とはいっても…酷い間違いだなと思った。ただ、ツキに見放された人にとっては、本当にとことん「貧乏ゲーム」だと思う。)
なので、「資本」自体のコストがとても高いのだろうと思う。資本という言葉は経済学的に決まっているが、とりあえず資金のことだけ指すものと思って頂ければ。本来的にはお金だけじゃなく、労働力とか土地とか他のものも含まれると思いますけれども、複雑になるので。途上国のような「金不足」の国だと、お金そのもののコストが相対的に高いのだろうな、と。人員(=労働力)とか土地とかは結構たくさんあるのだけれども、資金がないので事業とか開発なんかができない。やるとしても百万年かかってしまう。そういう環境なので、資本を導入するコストが先進国などに比べるとはるかに高いのであろうと思う。先進国であると、金融とか制度の発達によって資本提供コストがあまり多額にはかからない、ということなんだろうと思う。そういう大きな違いがあるのではないかな、と。


貧乏国の家計を思い浮かべてみると、次のような感じになっているのではないだろうか。

稼ぎ 10 = 生活費 10
採取 20   自家消費 20

当たり前の書き方で申し訳ないが、収入というのが左側、使ってしまうのが右側ということで、稼いだ分は全額生きる為に使わねばならない、ということかなと。実際には不足分というのがあって、それは自力で農産物とか果物とか魚などの食べ物を採取したりするくらいしかないのかもしれない。この部分はほぼ換金できないので、お金として収入計上されないが、家計の一部の担っているのではないかと思う。で、問題となるのは、お金としての「余剰分」というのが残らない、ということだろう。お金となる部分は、例えば鉄くずを拾ってくるとか、僅かな生産物(農産物とか織物?みたいなものとか)を激安で売って得た金とか、そういうものだ。他の仕事らしい仕事もないし、稼げる方法がない、と。で、お金で買うのは必要最低限のもので、それ以外は自力調達しかないのであろう。

楽園の島みたいに、人口に比して食糧の方が潤沢に存在しているならば、適当に生えている植物とか果実を採取するとか、魚を採ってくるとかできて、それだけで一生食べていけるので、仕事があってもなくても生存にはあまり深刻な影響を与えないし、お金としての稼ぎがなくても生きていけるだろう。

稼ぎ 1 = 生活費 1
採取 39  自家消費 39

こんな感じになる、ということかな。自家消費だけで十分生活できるのであれば、大した現金収入がなくても大丈夫なのだ。

しかし、生存ギリギリの水準が稼ぎの全てを投入せざるを得ないとなれば、生産による余剰が生まれない。なので、銀行預金とかが発生しない。銀行などの金融システムというものは、大金持ち相手だけでしか成立しない。すると、資本というものがあまり生み出されない、ということになってしまうだろう。


マイクロファイナンスの効果というのは、稼ぎの余剰というものを生み出すということなのではないかと思う。例えばお金さえあればトラクターが購入でき、農産物の生産力が10倍にアップして、生産の余剰をもたらすということになるなら、そこに資金投入できれば貧乏を抜け出せる。しかし、稼ぎの全部を投入しないと生き延びてこられなかったのだから、ヘソクリすることもできず、自力では永遠に「トラクター購入資金」というものを生み出せない。そこで、「借金」という資本投入が必要になるのだ。資本は何も無い所からは生まれてこない。銀行のような「金を持っている誰か」が貸してくれないと、どこからも調達できない。しかし、これまで稼ぎの全部を投入してきたカツカツのどん底貧乏人に、金を貸してあげようなどという奇特な人はいないということだ。それを改善したのが、グラミン銀行のようなマイクロファイナンス組織だったろう。

「信用」を創造する為に、5人組の連帯保証人制度としたのであろう。この資本投入の為のコストは、日本人が銀行やクレジットカード等で金を借りるよりも、相対的に大きいだろう。これは携帯電話の普及が1万台未満だった頃には料金が高かったが、現在のように普及台数が増加して低料金となるのと似たようなものである。誰も携帯電話を持っていない途上国でそれを持とうと思えば、導入コストは相対的に大きい(例えば携帯電話購入費用/平均年収とか利用料金/平均年収の比較)ということだ。信用創造によって資本投下されると、稼ぎの水準が劇的に改善しうる、ということだろう。

         生活費 30
稼ぎ 100 =   返済 50
           余剰 20


実際の収入改善水準がどうなのか不明であるが、イメージではこんな感じだろうと思う。資本投下前には「稼ぎ10+採取20」の合計30だったものが、借金で資本を投下すれば100の稼ぎに増加した、と。
結局、お金の形で余剰を生じないとダメなのだ。たとえ運良く魚とかヤシとかで大きな余剰を生じたとしても、換金できない限り他のものを購入できない。おそらく貧乏な国ではそういうことが多いのではないかと思うのだ。借金によって生産力の向上が著しいのであれば、お金の形で収入が入ってくるようになる。決して安くない金利で借りているから返済額が日本などに比べて多いとしても、お金の形の余剰を生み出せる可能性が高まるのだろうと思う。これが貧困脱出のカギなのではないかな。社会全体として余剰が生まれないと、発電所を作るとか、水道を引くといった基本的なインフラ整備さえも困難となろう。そこに資金を回す前に、食べてしまったりせねばならないからだ。食べることに使ってしまえば、いつまで経っても誰にも電力供給を整備する資金が生まれないということになってしまうのだ。ほんのごく一部に裕福な人がいても、所詮限りがあるということだろう。


一世を風靡したアニータさんだったか、公社職員が横領した数億円を貢がせたのだけれども、チリに資本投下して一大事業家に成り上がったはずだ。貨幣価値の違いということもあるかもしれないが、根本的に「資金の出し手」が不足しているのだろうと思う。つまりは資本が不足気味、ということで、お金を投入すればまだまだ成長余地があるのだろうと思う。今話題となっている朝青龍も、モンゴルで資本を投下して事業家となっているらしいからね(笑)。こうした資本不足は、お金という形での余剰の生まれる余地が極めて少ないと起こってしまうのではないかな、と。


まとめると、途上国でのマイクロファイナンスの金利が高い理由の一部として、
・資本導入の為のコストが高い(かなり希少)
・生産による(資金)余剰が殆ど生まれてこなかった
・資本投下で生産力の改善が期待できる
・返済してもなお(資金の)余剰を生み出せる可能性が高い
といったことがあるのではなかろうか。


ただし、この利点が常に活かされるかというと、そうではない場合もあるだろう。サブプライムローンのように、貸し手側の過度な競争が生じてしまうと不適切な貸出が相対的に増加し、貸倒率が上昇することになるだろう。資本の不足しているところに資金の出し手(貸し手)が現れることは望ましいのであるが、貸し手側競争が激しくなってくるとマイナス面の方が強くなってくるということであろうか。失敗例(先進国でも途上国でも)の多くは、貸出競争の結果、銀行やノンバンク等(貸し手側)の貸出規律が甘くなっていくということが観察されるだろう。リスクの高い借り手は破綻し、貸倒が増加するので貸し手にもダメージということになる。金の貸出というのは、同じような誤りが起きやすいのかもしれないが、それが何故なのかは判らない。金、借り手、貸し手、決定様式(機構?)、それらが揃うと何らかの「間違いやすい要因」みたいなものがあるのかもしれない。心理学的とか行動学的なものであるなら、理屈だけでは回避し難いかもしれない。