いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

日本、海外派兵す~その1

2008年11月30日 21時19分30秒 | 俺のそれ
(あくまで架空の話です、実在の人物、団体等には一切関係がありません)

20XX年、日本は安保理常任理事国入りを目指し、国内法を改正。米英仏露は日本の常任理事国入りを支持する条件として、自衛隊の海外派遣を義務付けた。中国は最後まで難色を示したものの、他の安保理国の説得を受け、ドイツと日本の加入を認めた。

日本は、陸上自衛隊の海外展開用の部隊を新設することとした。
その名は――― 「特機」




特機の試験運用は既に始まっていた。
ただ不十分な評価を受けていた部分は、これまで同様だった。どうしても人的能力に依存する部分というのがあり、その壁が超えられないでいた。統幕はその改善を急ぐように命じた。常任理事国入りまでには、準備を間に合わせなければならなかった。
解決策を出すように命じられたのは、田中1佐(56)だった。陸自一筋の、自称「オタク」だった。


実は、田中1佐には腹案があった。
かつての記憶が、いや、昔とった杵柄がきっと役立つに違いないと確信していたのだった。

オペレーターの能力開発手法は、既に米軍の蓄積などがあったが、それを利用しても結果が出せないでいた。どのようなシミュレーションを行っても、負け判定だった。これでは到底、海外派兵などできない。

田中はこの解決方法を探る上で、昔あった「ゲーム」の操作に長けた者を探せばよいのではないかと考えていた。田中自身、若い頃にプレイしたのだが、さほどの腕前ではなかった。にも関わらず、自衛隊内にいる連中の誰もが、田中1佐よりもヘタだった。ああいうゲームが廃れて長い時間が経っているから、そういう能力がないというのも仕方のないことではあったのだが。これではオペレーターの能力としては不十分なのだ。そこで、旧式ゲームの使い手を捜すことにしたのだった。

既に、アーケードゲームというのはすっかり姿を消していたが、一部のマニアの間では「レトロゲーム」というようなジャンルがあって、現在もごく少数のプレイヤーたちがいるという噂だった。そこで田中は、ネット上のマニアの溜まり場から情報をもらい、西新宿界隈に存在するという所謂「ゲーマー」に憧れる若者の巣窟に向かった。

聞いていた場所は小さな雑居ビルの地下にあり、なつかしい音を響かせていた。
若者が約10名ほど、そして驚くことに田中より年上と思われる老人が数人いたのだった。田中はしばらく彼らの様子を観察することにした。どうやら、老人の一人が若者の誰かと「賭け」をやっているらしかった。若者たちの想像以上にその老人は強く、若者たちが負けて金を巻き上げられているらしかった。老人は、お前らごときには、まだまだ負けん、秀太を呼んで来い、カッカッカッと高笑いした。田中もつい釣られて、クスリと笑ってしまった。

その場にいる若者たちは、全滅だった。たった1人の老人にさえ勝てないのだった。
田中はゲームの台に近づき、ひとつお手合わせ願えますか、と老人に問いかけた。老人は黙ってニヤリと笑い、自信ありげにレバーをカタカタと揺らした。結果は―田中の楽負けだった。田中は老人に礼を言い、最近の若いもんの中には腕の立つヤツはいないもんなんですかね、と言った。すると老人は、この辺りで「使い手」と呼ばれるのは秀太だけだな、といった。田中は秀太をスカウトしよう、と決めた。




田中は秀太を含む若者たちを、超難関のゲームがあって、その大会があるから出てみないか、といって誘い出すことに成功したのだった。参加者は合計20名。自衛隊の外郭団体に会場を用意させ、特機の初期養成プログラムのシミュレーションをやらせることにしたのだった。彼らは、レトロゲームの中でも所謂シューティング・ゲームや格闘ゲームなどを得意とするゲーマーで、仲間内では「超絶技巧」の持ち主などと称賛されていたのだった。
参加している若者たちは、こうした腕に覚えのある者だけだったので、練習をさせてみると僅か数回で直ぐに上達した。過去の自衛隊内部の人間が出したどの成績よりも、格段に良かった。さすがはゲーマーだ。

このテストを終えてから、田中は個別に一人一人と話した。
自衛隊の特殊業務に従事してみる気はないか、と誘ったのだった。各人の素行調査は既にやっておいたので、当然ながら勧誘するのは背景に問題のない人間だけだ。彼らのゲーマーとしての能力を思う存分に発揮できる、重要な仕事だ、と説得した。ただのゲーマーとして、場末の賭けゲームでくすぶっているより、はるかにマシなのではないかと、若者たちは思った。




秀太、ユキヒロ、イチロー、イケダの4名は田中1佐に呼び出されていた。どうやら、新たな任務の指示らしかった。


田中の見込んだ通り、若者たちはいくつもの訓練を受け、その能力を存分に発揮した。
これまで連戦連敗だったシミュレーションでも、ようやく人工知能チームに勝利したのだった。防衛省幹部たちも喜んだし、特機計画を進める政府も、後はゴーサインだけだと語気を強めていた。

そして、いよいよ極秘裏に実戦投入することが決まった。システム運用が無難にこなせるか、それを実戦で見極める、というものだった。部隊は小規模なものとし、各運用部門の問題点を探る、というものだった。陸上自衛隊では初の、戦争参加だった。この計画は国会承認を得ないで行われるものだったので、絶対の極秘任務であった。4名のゲーマーたちにも、本物であるとは言わずに、最終テスト段階、とだけ伝えた。

この実戦テストは、過去15年間に渡り紛争が継続してきたZ国での「対ゲリラ作戦」が選ばれた。ゲリラと言っても、装備はロシア製の正規軍と全く同じもので、Z国政府軍よりもはるかに強力だった。ロシア製の武器は、中央アジアの某国向けに売却されたもので、この国は「不正な収益」を目的として第三国のX国犯罪組織に売却、ここを経由してZ国の武装ゲリラたちの手に渡っていたのだった。どこの国も金が欲しいのと、複雑な事情を抱えるZ国の勢力に支援したいという思惑が絡み合っていた。実際、反米色の強いY国が武装ゲリラの資金の出し手、つまり実質的パトロンだと噂されていた。一方、政府軍に肩入れしているのは、主に中国と仏であると言われていた。

このZ国の戦闘地域には、主力が中国軍で約2万人、仏軍が2500人、インド軍が2000人、トルコ軍を主力とするEU諸国で1000人、米軍は僅かに500人、英軍に至っては20人だけだった。これら多国籍軍が政府軍側と協力して、反政府武装勢力であるゲリラとの戦いを続けていた。この地域で、日本の陸自戦力がテストされるということだ。

米軍は経費削減の為に、かつての規模からは大幅に縮小されており、海外展開する数そのものをかなり削っていた。英軍も同様で、自分の利益が小さい戦争には、できるだけ出さないという方針であった。カナダ軍、オランダ軍、スペイン軍、イタリア軍などは、早々に「不参加」表明をしていた。今では、中国軍がどこにでも出かけていくことが多くなり、他のOECD諸国からは「また、お得意の人海戦術か」と陰口を叩かれることが多かった。が、戦闘継続の資金力や兵士数が最も多いのが中国であるというのが現実であり、他の国々の実力低下の裏返しとも言えた。

4名の若者は、陸自の未来を左右する作戦を託されたのだった。




陸自の会議室の一つで、政府要人及び防衛省幹部への作戦説明が行われていた。

「特機」のシステムとは、次のようなものからなる。
・日本が有する衛星網、一部は米軍からの供用も含まれる
・「バード」と呼ばれる無音飛行可能な小型偵察機
・「凧」と呼ばれる小型リモコン機
・「蛇」と呼ばれるスネーク型ロボット
・「ガンタンク」と呼ばれる機関銃搭載車
・「サンゼロ」と呼ばれる30mm機関砲搭載車
・「ジュウハク」と呼ばれる160mm迫撃砲搭載車
・運搬トレーラー車その他バックアップ車両(有人)

全て無人の遠隔操作型で、操作する人間は日本にいる。
各車両や機械類を運搬、整備する部隊は現地で活動する。
戦闘地域には、無人車両しか進入しない。
これら無人車両を警護する為の部隊はつく。

①バード:
翼面上部は全て太陽光発電パネルになっており、超小型モーターでプロペラを回し無音飛行できる。下面からみると、やや透けて見えるので視認で発見されるのをかなり防いでいる。全幅2m、全長は僅か85cm、本体には光学式高性能小型カメラと赤外線カメラを搭載、カメラは操作でき、主に広い範囲の偵察を行う(一番広い範囲を担当するのは衛星である)。飛行時間は電池切れとなるまで可能。プロペラを回さない滑空も可能である。

②凧:
バードより小型のカメラ搭載型飛行機。目標地点に到達すると、壁面や構造物等に取り付き、翼を切り離して固定式として設置する。全周囲の監視が可能な光学+赤外線カメラを搭載している。

③蛇:
全長2mの自走式多関節のスネーク型ロボット。先端部分にはやはり光学+赤外線カメラを持つ。軸方向には、モーターによる圧搾空気で発射できるニードル弾を20発装備している。簡単に言えば、吹き矢と同じようなもの。発射音が小さく、ニードルの薬物によって敵を殺すことが可能。射程が短く、約40m程度しかない。関節部で姿勢制御が行える為、コブラのごとく立ち上がることも、真っ直ぐ真横になることも可能。狭いゾーンや建物内の偵察もできる。

④ガンタンク:
敵との交戦では主力となる車両。5.56mm機関銃を装備した装軌車。姿勢制御や高さ調節が可能、機関銃は砲塔台についているので全周囲に攻撃可能。光学+赤外線カメラと、レーザー照射機を装備。全長1m、全幅70cm、高さは50cm~80cm。

⑤サンゼロ:
大型装軌車で、通常の装甲車両より若干小さい。防弾性能は平凡。砲塔式30mm機関砲を装備、ガンタンクの火力支援を行う。

⑥ジュウハク:
最も大型装軌車で、全自動迫撃砲を内部に搭載。発射時には完全停車し、上部のハッチを開けて射撃を行う。後方支援火力として用いる。有効射程は15km。迫撃砲弾は誘導式。


今回陸自が投入される地域は、○○谷と呼ばれ、非常に狭い峡谷状の地域である。
過去に、誘導ミサイルや攻撃ヘリなどが投入されたが、いずれも失敗している。地形的に航空戦力やミサイルでは攻撃が難しい為である。細長い峡谷内に侵入し、横穴式に作られている敵拠点を攻撃するのが困難で、過去の地上戦は全て敗退した。米軍のリーパーで攻撃を試みたことがあるが、いくつかはミサイル攻撃に成功したものの、さしたる戦果とはならなかった。また一部は撃墜された。敵の戦力は約300~500人程度と予想されているが、定かではない。




○○谷周辺の監視衛星による偵察が集中的に行われた。谷に向かう地域は敵戦力はなく、到達には問題がなかった。
陸自の現地部隊は、特機の現地スタッフ及び移動用大型車両群と警護部隊であり、警護には2個中隊が投入された。この他にトルコ軍の1個大隊が随伴して警護してくれることとなっていた。これは陸自幹部の1人が、陸自の警護役をトルコ軍に申し入れるべきだと強く主張したためらしい、と田中は聞かされた。その陸自幹部のオヤジさんが、かつてのイラン革命の際にトルコに大変お世話になったからだ、ということらしかった。オヤジさん曰く、トルコ人が助けてくれなければ、多くの日本人がイランからは脱出できなかったかもしれない、ということだそうな。その恩義を忘れてはいけない、というオヤジさんの口癖だったようだ。


陸自とトルコ軍部隊は、峡谷の入り口手前約10km地点でベースとなる陣を張った。ジュウハクはここに待機。
バードを3機射出して、偵察飛行を開始。
敵の目立った動きがないことを確認した後、凧を飛ばした。凧は峡谷の壁面や木々にくっつける為だ。まず多くの凧を、目標地域に多数配置しなければならないというのが基本なのだ。

敵部隊の距離が十分あることを確認し、ベースからガンタンクとサンゼロを搭載した車両、通信支援車両、特機指揮車、更には警護部隊の装甲車両が峡谷入り口手前約2km地点に進出した。ここでガンタンクとサンゼロを降ろし、戦闘地域に侵入させるのである。敵からは見えていないが、こちらからは見える、というのが、この地上戦の基本的戦術なのである。


カメラ類の操作と切り替えは重要な役割で、戦闘車両を担当する人間たちがいかに戦いやすくなるか、敵を効率的に発見し射撃できるか、ということが求められるのである。ユキヒロ班がこの担当なのだった。ユキヒロは1人でバードと複数の凧を操作できたし、多数のモニターを同時に見ながら、必要に応じて蛇の指示を出したりできる能力を持つのだった。ユキヒロのサポートにはカメラ操作や切り替えを行う女性スタッフが20人、スネーク操作係の隊員が5名、バード操作係の隊員が3名つけられていた。

イケダは「ジュウハク」担当で、車両操作と射撃の操作を行うことになっていた。誘導はサポートの女性スタッフが1人付いていた。イチローは「サンゼロ」の操作が担当で、モニターと射撃のサポートスタッフが3名。

秀太はガンタンクの担当で、一応5台の投入ということになっていた。1人で5つとも操作する、と言っていたが、それは無理だろうということで、車両サポートの隊員が5名、モニターサポートの女性が3名付けられた。


カメラに捉えられた画像は瞬時にコンピュータ処理され、敵の車両・人物識別が自動で行われる。敵がモニター上に捉えられると、自動的に敵発見の情報が上がってくるという仕組みになっていた。これはサーチアラームと呼ばれていた。また、敵を射撃するにはモニター上で識別された目標をボタンで指定すると、後は全自動照準で射撃可能だった。例えば置き去りにされた車や戦闘で破壊された戦車なども自動識別されてしまう為、これらを射撃しない時にはキャンセルすれば識別解除することもできた。

彼らの任務は、この特機システム全体の運用がうまくできるか、実戦で本当に役立つのか、そうした試験をすることだった。いよいよ、陸上自衛隊史上初の、海外戦闘がはじまるのだった。

(つづく)



トイレネタ

2008年11月30日 12時54分51秒 | 俺のそれ
世の中には、色々な運動とか団体があると思うが、中には運動することを自己目的化してしまうような人々がいるかもしれない。極端に言えば、対象は何だっていいのである。運動を行うことそのものが、存在を正当化し、存在意義を自らが見出しているようなものだ。そういう人々は、どこかに綻びがないか、不平等がないか、糾弾先はないか、常に渉猟しているのではないかと思う。団塊世代が繰り広げていたような学生運動だの、左派勢力の運動だの、そういう運動なんかも似ているような気がする。


前置きが長くなったが、トイレの話ね。

はてなブックマーク - ユニセックスのトイレで、どこがまずいのだろうか。 - minx macska dot org in exile

これも以前に出た話だな
参考記事1>ユニセックスのトイレ??


謎のマジャール人(笑)は批判されたとでも思ったのかもしれない。
書いた意見が気に食わない、ということかな、と。別にいいけど。

参考記事2>「正しい」の捉え方と経済学

この記事を書いた途端に、上のトイレネタを掘り出してきたように見えてしまう、と。はは~ん。
けれど、それは偶然に過ぎませんな(笑)。きっと「たまたま」なんでしょう。
こっちの書いた記事を知っているかどうかなんて、私には確かめられないから。それに、議論したいわけじゃないから、関係ないしね。

因みに、前回のトイレネタの記事の時にも、TBを送ったりはしなかったのに、何故か発見されてしまったな。ま、いいけど。


「ユニセックスのトイレ」の存在を否定しているわけじゃないけれども、これもある種の隠蔽みたいなものではないかな。「男女どっちでも使えるトイレ」を設置することを掲げているかのように思わせるが、根底にある意識というのは必ずしもそういうことではない。
参考記事1のリンク先で述べられていたことの発端というのは、アンケートの性別記入の問題だった。元々選択肢が「”男”、”女”しかない、それが問題だ」と(笑)。それはどちらも選べない・選びたくない人たちがいるかもしれないじゃないか、みたいなことだろう(興味もないので、正確には知らないけど)。「男、女、その他」の選択肢にしてみてはどうか、と発想する大学の法学教員たちがいるという話で、それはそれで問題だろう、と。選択を拒否できることも必要だ、とか、そういった話だな。

で、大学にはもっと優先するべきことがあって、それは「ユニセックストイレ」を作れ、と。これは何の為に必要なのかといえば、日本人の一般的に理解しているであろう、「ユーティリティ・トイレ」という意味合いということではない。元の主張というのは、アンケートに「男、女」の2択しかないと「選べない・選びたくない」ような人たちの為に、「ユニセックストイレ」を作れ、ということだな。


ご丁寧に、「ユニセックスとは…」という用語の説明をしてくれたわけだが、余程当方の頭がオカシイと思われたのであろう(笑)。確かに英語は苦手だし(というより言語、語学全般かな、これまでにも告白してきたけど)、英語の世紀とか何とか言われるご時世にあっても、「日本人は日本語を使えばいい」などという時代錯誤も甚だしいことを主張してきたので、小学生向けの解説を付けられるということになりがちなのかもしれませんがね。

ユニセックストイレ設置推進派というのは、例えば公共施設とかのトイレを全部そうすべし、ということを言ってるのかどうかが気になるわけだ。共同便所でいいなら、具体的に書けば「男子便所とほぼ同じ構造」ということになる。入り口は一つ、男子用便器と個別ブースに区分されたトイレがあればよい。これは男女兼用であるので、まさしく「ユニセックストイレ」だな。

学校、映画館、劇場、高速道路のPA、等々のトイレをこの構成にするべきだ、ということなら、そういう運動をやったらよい。他の多くの女性たちから賛同を得られるかどうかは疑問だと思うが。女性トイレの場合、御馴染みの行列があるが、あれも個室になっていて「一人当たりの利用時間」が長く、入れ替わり時間のロスもかなりある為に、男性トイレに比べて回転率が落ち行列を発生しやすいのである。大人数が利用しなければならない施設で、全部が家庭用トイレみたいな個々のブースになっているトイレがズラリと並んでいる場合、たとえ男女兼用にしたとしても行列はもっと酷くなる可能性がある。勿論行列には男女が交じり合って並ぶことになるだろう。「ユニセックストイレが”正しい”」派の人たちならば、「男性トイレと女性トイレを分ける」ことそのものに反対するであろうと思うので(聞いてないので判らないけど)、男女同時に利用する「入り口一つ、内部には家庭用トイレの如き個々のブースに仕切られたトイレ」の設置運動でもやるのであろう。

結局「ユニセックストイレ」推進運動みたいなものは、旧来からある男性トイレ、女性トイレの他に、「ユーティリティ・トイレ」を作る、ということとは全然別。「男性トイレも女性トイレも選びたくない・選べない人」向けに「別なトイレを設置せよ」というのを、巧妙に隠蔽するようなものだな。子連れ、妊婦や介護者付き障害者など、多様な人が利用できるトイレが求められる、ということを、「性に無関係なトイレ」と言い換えて、正当性・必要性を主張しているのと大差ない。

何故「ユニセックストイレ」と呼ぶ必然性があるのか?
女性トイレの行列が酷いので共同便所にしてくれ、という主張なら、ああそうなんだな、とは思う。男子便所の大便用が空いていることが多いから、勇気あるおばちゃんグループが「アラ、空いてるわね、こっち使わせてもらうわ」とか言って、ズカズカ男子便所に入ってきた場面に幾度か遭遇したが、これと原理的には同じだな。けれども、ジェンダー?が何たらかんたらとかいう運動の人たちの目的とか設置理由みたいなものが、全然違うわけなんですよ。私にはまるで理解できないけど(笑)。そういう運動をやりたいのはいいと思うけれども、「ユーティリティ・トイレ」が設置されることを「ユニセックストイレの普及」だの「~~運動の勝利」だのといったことに利用するのはやめてもらいたいとは思うね。

公衆浴場だの温泉だのプールだのジムの更衣室だの、そういうのもユニセックス用を作れ、ってな主張をするんですかね?
そういう運動をしている人たちの考えは知らないんですけどね。最近は、オカマだかオナベだかニューハーフだか知らないけど、そういう人たちが芸能関係でもてはやされているし、昔みたいに珍しくはなくなったので、社会全体の意見が変化しているかもしれませんが。


ま、日本でも頑張って運動したらいいんじゃないですか?

「共同便所にしましょう!」


ww


「正しい」の捉え方と経済学

2008年11月28日 19時50分16秒 | 経済関連
これは私自身も似たようなことを感じることがあったので、理解できないわけではない。が、恐らく主張点は経済学にはあまり関係がないかもしれないな、と思ったりもする。経済学との対話ということでいうと、言葉や考え方の整理が必要なのかもしれない。

はてなブックマーク - macska dot org Blog Archive 経済学S1/自由貿易--「現状をよりマシにすること」と「正しさ」の違い


簡単に言えば「経済学者たちは”正しい”と言っていながら、実はイデオロギーとか不正義とかを巧妙に隠蔽している」というようなことであろうか。
うん、そうなんだ。
現実にそういうスリカエっぽく言辞を振り回す人たちもいると感じてきた。
けれど、経済学の理屈というのは、悪意的利用を行う人間が登場してくることを想定してはいないだろう。どんなに経済学の理論が素晴らしくても、それを防ぐことはできない。経済学の知識はうまく利用する価値はあるけれども、都合よく利用されてしまうことだってある。


まず、根本的な問題として、「正しい」という場合に経済学者が用いるのは、多分一般的にいう「”経済学的に”正しい」という意図であろうと思う。それは倫理的にどうとか、人道的な立場ではどうとか、そういった判断はあまり示されないことが多いかもしれない。


《例文》
 しゃっくりを止めるには、眼球を圧迫するのが正しい

仮に、こういう主張があるものとします。
この文では「正しい」の意図は、当然のことながら「経済学的に」正しいかどうかは不明です。含意としては、通常「”生理学的に”正しい」ということだろうと思います。人道的かどうか、倫理的にどうか、といった判断は示せません。また、これが「ベストである」ということも示すわけではありません。
かといって、根拠のない主張かといえば、そんなことはなくて、副交感神経抑制なのだから眼球圧迫で迷走神経刺激となり、ひいてはしゃっくりを止める効果が期待できる、というような理屈はあるわけです。けれど、「眼球を圧迫するべきだ」とも教えてはくれないし、「眼球圧迫は正しい」ということの絶対的評価のようなものも存在していません。ただ「眼球を圧迫すると~~となるので、しゃっくりを止める効果が期待できる」ということは生理学上正しい議論だろうね、ということだけ(無根拠でない、ということ)。


手短に言う場合には、いちいち全ての語の定義をあげたり確認したりするといった作業は行われません。単に判りやすく「~は正しい」といった表現をとることはあるでしょう。正しさの意味合いとは、概ね「客観的評価に基づいている」ということがあり、その上で(ある特定の専門分野の)学問上ではどう考えられているか、ということがあるのかな、と思います。経済関連の言説のうち、こうした条件を満たしていることはあまり多くはないようにも思えますが、一応は「経済学者が言う」場合というのは、言ってる本人は極めて真面目に自分の説や主張というものが正しい議論なのである、と考えているでしょう。


元の話に戻って、自由貿易は正しい、という主張というのは、これまで考えられてきた経済学上においては「経済学的に正しい」ということを示せるだけであって、本当にその環境下の人々が幸福であるとか「自由貿易のお陰でよかったな」と分るor感じるというものではないでしょう。こうした理論には、基本的前提条件があるのであって、その条件下では正しい、という議論が成立するということを示すので、殊更倫理的評価だの人道上だのといった判断は「何も示しません」ということでしょう。中には、そういう壁を勝手に飛び越えて、社会の合意というものではないものについてまで「これが正しいんだ!」と独自理論をぶちまけている経済ナントカや学者モドキがいることは確かでしょうけれど。


騒ぐと殺すぞ、と脅された場合、被害者が強姦される方が「殺されるよりマシだ、だから両者には効用がある」というような理屈は、経済学の範疇ではないのではないでしょうか。理屈の上では想定して考えることができるかもしれませんが、あくまで想定実験のような試みであるので、実際の学問上の理屈としては「殺されるより強姦されると両者に効用がある、という意見は”正しい”」というふうに、言ったりはしないのでは。比較すること自体が、元々誤りなのでは。あくまで状態比較なので、学問として扱う分野ではない、ということかと。比較するべきは、「犯罪警備の対策コストをCだけ使ったとしても、殺人または強姦を防げる効用の方が大きい」とか、「対策コストCよりも、犯罪者防止教育プログラムのコストC´の方が、抑止効果が高い」とか、そういうことです。

経済学上では比べられないものとは、例えば「超高層ビルの火災です。脱出用パラシュートが一つしかない時、自分の親を助けるか、それとも恋人または配偶者を助けるか、どちらが正しいですか?」といった問いだ。これは経済学が答えを出してくれるものではない、ということかな。なので、極端な例を出して、「~の方がマシだ」という状態比較を行うのは、全ての場合に「経済学が答えを出せる」といった完璧性を求めているのと同じようなことになってしまうのでは。
使い道として、「経済学理論では答えられないでしょう?そんなに過信していてもいいんですか?」ということでなら意味はあると思うけれども、自由貿易の議論をすることはできても、理論を「強盗」なんかに置き換えるのはできないだろう。だって、ほぼ全ての場合に「殺されるより~した方がマシだ(効用が上がる)」理論は通用してしまうからだ(笑)。それは学問ではないような気がする。


自由貿易の理屈は、大抵の場合に正しいということが身近な部分から感じ取れるだろう。
狩りの上手な人と、皮なめしの上手な人が、分業した方がより効率的になるだろう、ということは容易に予想されるからだ。狩りの上手な人は獲物を出し、皮なめし専門の人は毛皮を出す。これを交換することで、それぞれが効用がアップする、ということだ。皮なめし技術の無い世界だと、狩りの上手な人がどんなに頑張って獲物を取ってきても、財の種類が増えないし獲物から得られる効用には限界が訪れる。物理的に「獲得できる獲物」には限界があるからだ。けれども、交換が成立する世界だと、それぞれの側の効用は高くなるし、財の種類が2つになっているし、狩りの上手な人が皮なめしをやるより、はるかに効率よく毛皮になるのだから。それがそれぞれ国であっても多分同じだろうな、と。

自由貿易の理屈は、奴隷制や植民地が正しいとかそれをすべきだ、ということを分るようにはしてくれないだろう。言えるのは、ただ単に「経済学的にはどうか」、ということだけ。

ある支配国の甲があるとする。甲は武力で征服した植民地の乙を有しており、乙の住民は無理矢理労働に狩り出されてしまう。
支配国の甲では「綿織物」を作り、乙の人間に供給。乙は甲の命令でゴム園の作業に従事させられる。乙から甲にゴムを供給するのだ。さて、植民地支配として考えると、甲の立場では「綿織物を多く買わせたい」ということと、「ゴム生産を安く大量にやって欲しい」ということがある。乙側としては、安い賃金で作業させられ、労働力を搾取されてしまう、と。それまで乙では好きな時に魚を獲ったり、木の実を採取したりして、のんびり暮らしていたのに、甲がやってきてからは労働を強制された。こんな生活は不幸せだ、と、乙の住人が感じたとしても不思議ではないだろう。

取引形態としては、甲からは綿織物、乙からはゴムが輸出される。で、この交換を通じて、乙では「それまでなかった綿織物」を着るとか生活全般に利用できるようになったよ、と。これを効用が上がった、というのであろう。で、貨幣経済が浸透していくことになり、安い労賃ではあるけれども、それを目的として労働する人々が乙の中から大量に出てくるようになる、と。乙の人々にとって、貨幣も綿織物も「幸せかどうか」と感じることとは違う。経済学的には「効用が上がった」という結論であるとしても、それが「みんなが望んでいる幸せな社会か」という結論とは違う、ということかな。経済学的に正しい、という意見は、多くの人々の幸せを意味するものでない。甲の住人にとっては「幸せだ」と多くが感じるのに、他の地域では「全然幸せとは感じない」ということは起こり得るであろう。なので、乙の住人たちが、「ゴム栽培ができてよかった、よかった、乙が豊かな国になれてよかった」と多くが感じるかどうかは分らない。

昔の乙の稼ぎだと、魚を獲るか木の実採取くらいなので、”労賃に換算”する(甲の基準の貨幣価値)とたったの「1」だったものが、ゴム栽培をするようになって飛躍的に”向上”し「10」になったじゃないか、それは裕福になったということなんだ、みたいな理屈を述べられる時に、嫌悪感を催すのだろうと思う。それは乙の人々が自由意志で選んでなったわけじゃない。選択余地なんかなかったのに、甲基準の”換算”を勝手に行われてしまい、挙句に「植民地のおかげで裕福になった」とかの評価を受けてしまうことが、あまりに疑問なのである。貨幣価値に置き換えて考える、というその思考方法そのもの、評価の仕方そのものが、あくまで「甲基準」なのである。ゴム園で労賃10もらうのと、過去のように魚を獲ったり木の実を食べて生活するのと、どっちが幸せなんだよ、という時、乙の人間が決めればいいことなのだから。甲の人間がやってきて、「乙はド田舎の不便な場所だな、よくこんなところに住めるな、なんて未発達なんだ」とか御託を並べて不満を述べてもらう必要性というのは、そもそもないのである。呼びもしないのに、勝手に「征服」にやってきて、挙句に甲の自分勝手な基準で全部を評価されてしまうのだから。もしも甲がやってこなかったら、稼ぎが1のままの乙は不幸であったか、というのは、本当のところは誰にも分らないのである。少なくとも、甲の人間が考えて分ることじゃない。


貨幣価値に換算するという思考法は、あくまで一つの評価方法ということでしかない。実験でいえば、測定手技の一つ、というだけだ。もっと優れた評価方法や測定手技が編み出されれば、全然違った結果になるかもしれない。甲と乙の関係は、まだいい方だろうと思う。乙の住人が貨幣で何か買える、ということがあるからだ。
アフリカの奴隷売買なんかだと、一方的にごそっと搾取されていった、というだけである。インカ帝国やマヤ文明のような金銀財宝もなければ、不毛な土地で採れる作物とて、これといってないわけだ。そうなると、搾取できるものと言えば、労働力そのものくらいしかないわけで、これは昔からの奴隷の慣習があったが故に、さしたる抵抗もなく社会に浸透していたのであろう。別に後ろ暗さとか、倫理的に良くないな、とか、そういう感覚は一切なかったであろうと思う。もしそんな罪悪感があるなら、早々に廃止されていたであろう。しかし、数百年に及ぶ制度であったので、西欧では当たり前の出来事であった、ということだろう。当時においては、「倫理的に間違ってない」ということさえあるかもしれない。道徳観念なんてものは、時代が変われば大きく違うし、社会の慣習とか歴史とかそういうものでいくらでも異なるということだと思う(「捕鯨」がいい例だろう)。

この奴隷搾取というのは、喩えて言うなら、隣の家のヤクザが時々我が家に乗り込んできては、我が子の誰かをさらって行くのである。抵抗する者には、ヤクザの暴力が待っているのだ。銃で撃たれるか、しこたま殴られるか、日本刀でバッサリ切りつけられるか、そういう目に遭うので、子どもたちがさらわれていくのが阻止できないのである。或いは、我が家の入っている家の大家が、隣のヤクザに「あの家にさらいに行ってもいいぜ」とか勝手に言い、するとヤクザが乗り込んできて子どもをさらっていく、ということになる。大家は勿論ヤクザからの礼をたっぷりもらっていたりするのである。こんなのは、そもそも貿易なんかではない。貿易でないものに、自由貿易の論理を適用しても、あんまり役立たないのではないかな、と思ったりする。


最後に、不正義という話について。
よくエセっぽい学者たちが、いかにもそれらしく「科学の装い」で人々を惑わせることはあると思う。不正義を隠蔽しつつ、理論的に正しいだの、論理的or科学的or経済学的思考をせよだの、説教を垂れていることが珍しくはないからだ。けれども、不正義を経済学の理論から明らかにしていくことは、かなり難しいのではないかと思える。経済学という道具立てでは、正義と不正義をより分ける機能はないのでは。「経済学は不正義を検出できる」みたいなことが、未だ明らかになっていないからではないかな、と。それは経済学のせいでも、経済学者のせいでもないように思える。


不正義を正当化する為の道具に使う、というのは、経済学という学問そのものには何の罪も責任もないであろう。それを用いる人間にこそ、不正義の芽が潜んでいるのであり、その萌芽を防げないのは経済学がまだ不完全で不十分な成果しか得られていないからであろう。正当化する為の道具にしている人間を「簡単に排除」できないのは、その証拠ということである(笑)。




職業別「IQレンジ」…最低はどんな仕事?

2008年11月27日 13時38分04秒 | 社会全般
via ボツネタ(残りあと僅かですね…)

Modern IQ ranges for various occupations

こんな調査があることがユニークだが、もしこれと同じ研究を日本でやったりしようものなら、「不当な差別だ!」みたいな論調が出されて、潰されるかもしれない(笑)。

で、一番低い職業は、「janitors & sextons」ということらしい。低い方になると楽々80を切っている水準なので、一昔前でいうと「うすのろ」とか「魯鈍」とか言われて、ちょっとイジメられたりからかわれたりしていたかもしれない。それはとりあえず脇へおいといて。

守衛、管理人、教会管理人、といった人たちということらしい。
よく物語とか映画なんかにも、薄気味悪い「墓守」みたいな男とか、酒ばかり飲んであまり役立たない「守衛」とか出てくるけど、イメージとしてはあんな感じかな。昔、日本にもいたであろうと思うけれども、「犬神家の一族」の猿蔵みたいな下男というか、寺男とsextonは近いかも。雇用先を見つけるのが大変なので、半分慈善みたいなものかな。


結果をよく見てみると、結構面白いよ(笑)。




持続的減税がベストの景気刺激策(追記あり)

2008年11月26日 12時14分34秒 | 経済関連
この前に触れた疑問に対する答えが、もう提示されていた。はや!
bolus doseでは改善しないぜ、ということだそうです(笑)。

(ところで、日本語だと「恒久減税」と言うことが多いと思いますが、タイトルでは意図的に「恒久」とはしていません。日本でそんな減税は多分ないのではないかな、とか思ってしまうので。)


テイラーさんに怒られちゃったよ。いや、怒ってはいなけど。でも、ダメ政策なんですと。

Why Permanent Tax Cuts Are the Best Stimulus - WSJ.com


中身は各自でご確認下さいませ(笑、わたくしには要約を提示するだけの能力がございません。「やま~がた」くんでも訳してくれりゃいいのにね。冗談だけど)。
副題にもある通りに、短期の財政政策は長期の経済成長のプロモートには「効かないぜ」ということだそうです。


極めて短い時間経過の中ではbolusで入れることはあるかもしれないが、それで病気が良くなるわけじゃない、ということかな。そう考えると、言ってることは判るかも。
示された図中では、小切手給付では消費拡大にならない、ということだそうです。確かにそう読み取れるわけですが、一つ思うことは「もし給付しなかったなら、図がどうなっていたか」ということがあるかな。給付しない場合だと、もっと消費が落ちて急激に折れてるグラフになっていなかったのだろうか、と。給付効果が過ぎた所あたりから消費が下降気味に見えるのですが、給付していない場合だとこれがもっと早くに落ちてきてたとか、落ち方がもっと激しかったとか、そういうことってないのだろうか?、と。

ベア・スターンズショックから、リーマン&AIGショックまでには約半年のラグがあったわけですが、もしも一時的にでも何か策を使っていなかったとすると、これらがもっと短い期間で連続的に破綻危機に見舞われてしまって(実際、春頃の時点でリーマンの危うさは取り沙汰されていた)、ダメージが深刻になっていた可能性もあったりするのではないだろうか、と。

このことは「消費拡大に効果がない」ということとはちょっと違うので、春頃の時点でもっと別な政策を選択しておけば良かった、ということにはなるかな。


で、効果がないということは、経済学者の中ではコンセンサスができているよ、ということらしいです。
ミルトン・フリードマンの恒常所得仮説とか、フランコ・モジリアーニのライフサイクル仮説とか、そういう理論上では一時的所得増加では明確な消費増加にはならない、ということが判っているのだよ、と。

なので、テンポラリーな小切手給付という政策は、「意味ないじゃん」と。
そういうことが判っていながら、やっちまったぜ、と(笑)。


テイラー先生は、財政政策決定の際によく出される、3T(テンポラリー、ターゲティング、タイムリー)という「お題目」は、間違ってるぜ、と仰っているわけです。今年春に出された「stimulus」パッケージは、ダメ政策ということですわな(笑)。

3Tじゃなくて、3Pだと。
permanent、pervasive、predictableの3つだそうです。

具体的には、
①税制のコミットメント
②オバマの賃金アップキャンペーン~1回こっきりの小切手じゃなく持続的に
③所謂「ビルトイン(automatic)スタビライザー」を再認識(GDP比2.5%程度)
④財政収支に配慮した長期的政府支出を再構築
を薦めている。

先の短いブッシュ政権が、「古びた静的ケインジアン理論」に基づいて財政支出による刺激策を出したことに批判的です。


なるほど。
しかしながら、市場は長期的財政政策の効果が発揮されるまで「待ってくれた」であろうか?
長期的な財政政策が正しいのだ、ということは、そうなのだろうと思えるのだが、かといって、マーケットが持ちこたえる為にはある程度の「迅速性」も必要となるので、多少の「鎮痛」は必要なのではないか、というのが私の考え方である。痛みが酷ければ、根本的な治療目的さえも達成が困難となるからだ。局面にもよると思うが、とりあえず今できる「酷い痛みをとる」ということをやらないと、痛みが病気の根本原因ではない、と言われても、それは正しいが市場は「痛み」には割と敏感に反応してしまうと思うので。
それに、今から「○○横断鉄道の測量にかかります、工事開始は来年の秋で、完成は3年後です」とか言われても、今夜のメシさえも食えないのに、「未来の鉄道工事の賃金」が今の空腹を満たしてくれるものとも思われないからである(笑)。


でも、基本的考え方は整理されていて、勉強になりました。



ちょっと追加です(16時過ぎころ)。

クルーグマンはやはり異を唱えていますね。

Conservative crisis desperation - Paul Krugman Blog - NYTimes.com


面白いのは、テイラーが「古びた静的ケインジアン理論」だの、複雑で動的グローバル経済を説明するには不十分な論理だのと書いていたことに対して次のように言っている。


『Taylor’s argument against the obvious answer — government spending as stimulus — is pure gobbledygook: 』

テイラーの明確な解答―刺激策としての政府支出―に反対する論説は、真の「お役所的言い回し」だ:

(中略、テイラーの論説が書かれている)


で、これを平たく言うと、

『Translation: la la la I can’t hear you.』

ラララ♪♪~聞えないぜ~


だそうです。

パンチ力がありますな(笑)。
「政府支出派の意見」を聞えないフリをしているようなものだ、と。

確かにリセッションに見舞われると、毎回毎回「恒久減税」を実施するんか、という問いには、うまく答えるのが難しいのでは。比較的短い、或いは軽症の景気後退の度に恒久減税を実施していては、いずれ減税できなくなる(笑)。これが日本でなら、永久に所得税なし、ということになっているな。何たって、失われた十数年ですので。


関係ないけど、クルーグマンは「伊藤のレンマ」の伊藤先生の死を取り上げていました。偉大な数学者だった、ということなんですね、やっぱり。



「弁護士サービスは大根、ニンジンと同じ」~by 福井秀夫GRIPS教授

2008年11月25日 12時11分40秒 | 社会全般
またですか。
この方も、拙ブログに幾度かご登場いただいたわけですが、どうも胡散臭い発言が多いように思われます。しかも、「法と経済学」とか言っていたかと思うのですけれども、法曹サイドへの非難が割りと多かったように思いますが如何でしょうか。


ボンクラでもいい、逞しく育って欲しい(笑)

勿論冗談です。
昔あった、ハムのコピーです。
「腕白でもいい、逞しく育って欲しい」だったと思います。
ああ、あの頃って、いい時代だったのだな、と、このCMコピーから感じ取れるでしょう(笑)。


本題に入りましょう。
終わりの近いボツネタさんのところで知りました。

イデア綜合法律事務所 週刊東洋経済~福井秀夫教授の発言 坂野弁護士ブログ

しかしまあ、強烈な発言内容ですな。
「ボンクラでも増やせばいい」
「大根、ニンジンと同じ」

いやはや、どこの世界にも「アレげ」なお方というのはおられるようで。
上限金利問題の時にも法学サイドに文句を言っていたのではなかったかな、と思いますけれども、その意趣返しということでもないんでしょうが、弁護士を酷評しておられるようですね。

参考記事:ヤミ金は何故ビジネスが成り立つのか


ただ増やせばいい、というのは、どう考えても賛同できないわけですが。これも既に書いたけど。

法学教育の将来がおもいやられる

ボンクラでもいいから増やせと安易に言うが、一般人がボンクラ弁護士を正しく見分けられなければならないのに、本当にそんなことが可能なのか?逆選択みたいになったりはしないか?



続・金融調節雑感

2008年11月24日 14時23分02秒 | 経済関連
世界に暗雲が立ち込めている経済状況であるが、今後どうなるかは予断を許さないだろう。
今、政策担当者たちの中にある共通の認識は、金融緩和、財政出動、景気刺激、というようなことであろうと思う。特に酷いショック状態に陥らない為の、積極的な政策が打ち出されている。既に多くの中銀が(たとえば英国の150bp、スイスの100bpといった)英断とも呼べる金利引下げ、流動性供給、更には金融システム安定化策(預金保護、政府保証の追加など)を矢継ぎ早に実施してきた。当然の対応とはいえ、やるべきことをやったと言えるだろう。
今後は、金融システム安定化が進むとともに、マイナス成長のダメージを軽減する策に焦点が移っていくだろう。サルコジではないが、「トラ、トラ、トラ」もとい、「stimuli、stimuli、そして stimuli だ!」というところか。


日本においてはどうなのかといえば、日銀が利下げは「しょうがない」ということで、渋々雀の涙ほどのたった20bpを引き下げただけであった。政府はといえば、枝葉末節の手続関係云々で足踏みし、経済対策の迅速な実行ということにはまるで結びついていない。殆ど機能していない有様である。これだから、海外メディアからも心配されてしまうのである。


中村俊輔が英国で多少活躍しようとも、日本サッカーがそのレベルの強さにあるとは言えない。個々のプレイヤーに優れた人が若干いても、全体のレベルが上がるというわけではないのだ。政策担当者のレベルというのも、これと同じなのだ。
かつて日本はサッカーが弱くて、海外指導者たちをトップに招き入れ、多くを学んできた。そのお陰でサッカー全体がレベルアップしたのだ。これと同じで、日銀というのが日本人トップの日本式でやってきてダメなのであれば、根底から変えるべきはないかとさえ思い始めた。そこまで日銀が変われないのであれば、総裁として外国人を招聘した方がよいのではないか?



これまでに同じようなことを言い続けてきたのだが、また書いてみる。

金融調節の雑感


自律性のある、何かの系に対して調節しようというのは、これは中々大変なことなのだと思います。人体では循環系ということになりますが、この調節にも様々な手法を用いているわけです。

例えば「血圧」という一つの指標・数字だけを見て、効果判定を考えるということは、まずないように思います。
「血圧が下がる効果の薬剤Aを投与したのに、同時に血圧が上がる効果のある薬剤Bを投与するのは、愚かだ」みたいに、一知半解の批判をするような人がいるわけですが、これは殆どの場合には正しいとは言えないと思われます。「血圧」という見かけ上の数値がどう変化するかを考えることができたとしても、十分とは言えない、ということです。

前の記事にも若干触れていますが、複数薬剤を組み合わせるというのはごく普通だ、ということです。
手術中に用いる循環作動薬を、例えば「血圧が上がる薬」と「血圧が下がる薬」を同時に投与してしまう、ということです。ド素人であれば、「何でそんな無駄なことすんだよ、意味ねーじゃん」とか言うかもしれませんが、物事はそうそう単純ではないということでしょうね。

あくまで例示ですけれども、術中に用いる薬剤には、カテコラミン類、ニトログリセリン(TNG)、プロスタグランディンE1(PGE1)、Ca拮抗薬、ATP、PDE-inhibitor、などといったものがあります。これらを1回投与または持続静注することによって、循環動態の安定を図るということですね。

カテコラミン類には、ドーパミン(DOA)、ドブタミン(DOB)、イソプロテレノール(ISP)、ノルエピネフリン(ノルアドレナリン)、エピネフリン(アドレナリン)などがあります。また、Ca拮抗薬は、ジルチアゼム(DTZ)やベラパミル(VPM)、二カルジピン(NCP)などがよく用いられます。数値として判定するなら、血圧に対しては、DOAは昇圧作用、PGE1は降圧作用、DTZは降圧作用、という風になりますが、これらは同時に用いらても不思議ではないのです。

どうしてそんな面倒なことをするのかといえば、それぞれに薬剤の特性、作用する部位の違いなど、どこにどういう効果が出やすくて、結果としてどんな効果が発揮される(期待される)かというのが異なっている為です。
血圧を上げる、という作用にしても、主に心臓に働くのか血管に働くのか、血管でも割と大きい血管に作用しやすいのかそれとも細い血管に作用しやすいのか、静脈系に作用しやすいか動脈系に作用しやすいか、臓器特異性があるのか、心臓血管に対してはどうか、心筋の酸素需要を増大させるか減少させるか、心拍には増大か減少か、そういったことが、ぞれぞれ異なっているのです。

なので、薬剤のプラス効果部分を発揮させつつ、あまり発現して欲しくない部分は他の薬剤で打ち消しつつ、というような調節が必要になってくる、ということです。血管拡張作用がある、といっても、これだって、容量血管に作用するか抵抗血管に作用するかといった違いがあったりします。冠血管に対する作用も異なるし、虚血の有無でスティール現象が惹起されるものもあります。心筋保護作用の有無などにも違いがあったりします。


要するに、そういったことを色々と考えて「組み合わせ」を行うのであり、単一の切り口(たとえば血圧という数値指標)だけから、効果を打ち消すのはバカだ、みたいに単純には考えたりはしない、ということです。

金融調節はこれに近い感じがあり、「ポリシーミックス」という点においても、複数併用というのはごく当たり前のように思えるのです。薬をどんなに入れても、血液量が半分以下しかなければ根本的な解決にはならないわけで、輸液なり輸血なりが必要でしょう。ボリュームが全然ないのに、薬だけでどうにかしようというのは難しいですよ。逆に、輸液だけやっていれば循環動態は安定するかといえば、全然そんなことはなくて、末梢や心臓の状態に大きく影響を受けてしまうのです。同じお金を使うとしても、中枢に近い銀行に入れるのと末梢である一般個人に入れるのでは、効果発現は異なるでしょう。そういうのと同じようなものです。

中には臓器特異的な反応というものもあるので、そういった特異性があるものかどうかは研究するなり知見から判断するよりないでしょう。DOAは腎に臓器特異性があるので、腎血流を増加させ尿量にはプラスに働きます。また、PDEインヒビターであると、臓器特異性がより明確になるかと思います。これまでにも幾度か取り上げたバイアグラ(シルデナフィル)がそうですが、PDE-Ⅴの特異的阻害作用を持つので、アレに効くということになります。PDE-Ⅲの特異的阻害薬であるミルリノンは、血管拡張作用とともに強心作用を持つものですので、別に術中に「アソコ」が元気になったりはしませんね(笑)。あまり心筋酸素消費量を増加させずに心筋収縮力増強作用が期待され、虚血や心不全状態でも強心作用が状態悪化を招くことがあまりなく、血管拡張作用すなわち末梢血管抵抗の軽減で心負荷軽減が期待されるでしょう。なので、心不全や心臓手術患者において、用いられることがあるのです。カテコラミンのように、レセプターの種類や分布の違いによってα作動・β作動が広範囲に及ぶ薬剤とは、やや異なるのです。


金融政策の上で、こうした作用部位の違いや特異性の度合いなどの違いというものが、一体どれほど考慮されているのでしょうか?
素人目には、そうした効果判定が行われているようには思われません。金利引下げというのは、広範囲に及ぶのでカテコラミンに近いもの(普遍的な作用があちこちに及ぶ)ではないかと感じますが、例えば「為替介入」ということになりますと、より「特異性が増す」というふうに感じるわけです。金融政策ばかりではなく、これに財政政策ということを考えますと、作用部位も変えられますし、好ましくない作用や現象というものも、おのずと異なってくるのではないかと思われます。

こうした循環動態の調節ということを考えますと(全くの適当です)、DOA+DOB+TNGなのか、DOA+PGE1+DTZやDOA+PDEⅢ阻害剤という組なのか、それとも、TNG単剤投与で十分なのか、持続投与ではなくbolus doseでいいのか、そういう視点が経済政策には欠けているようにしか思えないのですね。エフェドリンのbolus投与は無効だ、みたいな、簡単な意見を述べて批判した気になっている人々がいるのは、私には理解できないのですね。単回の減税とか定額給付金というのは、「一時的なもの」なのですから、この単回投与がどういった効果や意味を持つものか、というのを真剣に研究しなければ、良し悪しの判定などできないでしょう。

何故か、「ワンショットで一発入れれば状態は良くなる、でも良くならなかったのだから、一発入れても無効だ・役立たない」みたいに、割と簡単に言える人が大勢いるんですよね。本当に無効なんですかね、って話ですな。たとえ一時しのぎであろうと、必要があれば投与されるし、それで改善しなければ次の1手を打つに決まっているわけですから。エフェドリンをワンショットで入れてから、後でDOA持続に切り替えるくらいなら、「最初からDOA持続にしとけ、エフェドリンは無効だった、DOAじゃないと意味がない」なんて言う人は、かなり少ないのではないかと思えますが。


いずれにせよ、経済については知見が乏しくて、薬理作用や作用機序に該当するような部分については、多くが未知の世界か適当な解説がまかり通っている、ということではないでしょうか。せめて「○○を実施すると、~~が観察される」という事実だけでも、もっと正確に積み上げてもらえないものなんでしょうかね。
「○○を入れると、ネズミは心拍数が50%上昇したのだから、人間も50%上昇する」みたいに豪語する人がいるかもしれませんが、現実にはそういった現象が人間において観察されなければ、いくらネズミの実験例を持ち出しても「○○を入れると50%上昇する」が正しいことにはなりませんから(「ネズミも人間も哺乳類だ、じゃあ人間は哺乳類じゃないというのか!」みたいな反対意見は全く無効ですから。基本的システムが同一であるからといって、結果も同一とは言えませんよ。)。



石川遼くんは本当に立派だな

2008年11月23日 22時33分03秒 | いいことないかな
この前優勝して、随分と気持ちが楽になったのだろうと思うが、やっぱ本物だな。
並み居るプロを前にして優勝争いに絡んでくるのだから。まだ高校生とは思えない、期待以上の活躍と言っていいだろう。

遼クン、惜しい!1打差2位/男子ゴルフ(日刊スポーツ) - Yahooニュース


今年前半は、注目されているということもあったろうが、もっと彼を苦しめたのは待遇がとりわけ優遇されていたことだろう。彼だって、予選会から勝ち上がってくるプロが大勢いることは当然知っているだろうから。それが、ポッと出の苦労知らずみたいな若造なのに、苦労人たちを差し置いて招待選手として試合に出られるのだから、精神的に苦しまないはずがないだろう。「自分が背負っているもの」への責任感だって、かなり強く感じていたであろう。それ故に、「結果を出すしかない」という切羽詰ったような、強迫観念にも似たプレッシャーがあったのではないかな。野球で言えば、「自分がエースなんだから、自分がしっかりしなきゃ」みたいな。男子プロゴルフをたった一人で背負ってしまったのかもしれない。


こうしたメンタル面の不調を引きずっていたので、下部の大会に出て気分を変えたりもしていたようだが、それでも連続予選落ちの苦渋を味わうこととなった。きっと、あの時期が一番辛かったろう。人一倍練習もしてるし、自分の体調もそれなりに良いと思える時でさえ、どういうわけか結果が出ない。気負いが空回りする。大事に行かなきゃと思って、余計にミスる。ゴルフは(私は一度もやったことないけど)メンタルスポーツとか言うけれど、きっとその通りなんだろうと思う。


そんな泥沼から抜け出すキッカケになったのは、多分、あの青木さんとのラウンドの時だったのではないかな。
それまでは大会運営側の思惑なんかがあって、トッププロと組まされることが割りと多かったように思うが、あの時は誰が采配したのかは知らないが、「世界の青木」さんと組ませたのだな。丁度、「孫とおじいちゃん」という、ほのぼの組だったわけだ。これが、真にナイスなマッチアップだったんだろうと思うのですよ。

あの日を境にして、遼くんは蘇った。
あの大会以降、直ぐに結果を出した―勿論、優勝という最高の結果だ。
やはり、「世界の青木」、ただ者ではないな(笑)。
青木さんとのラウンド中に、青木さんがどんな語りをしたのかは知らない。例の、あの口調で喋りながら、多分「かわいい孫」に接するように目を細めて、一緒にプレーしてくれたんだろうと思う。いや、見たわけじゃないから、全然知らないんだけど。
でも青木さんのことだから、いっぱい褒めてくれたんだろう。何か「肩の荷」を降ろしてくれたんだろう。それまで苦しんでいたプレッシャーから、遼くんを解き放ってくれたんだろう。そんな気がするんだよね。

若いんだから、いくら失敗したっていいんだよ、とか、
十分うまいよ、才能あるよ、オレなんかよりも、とか、
まだまだ伸びるよ、今まで見た中で一番いいよ、とか、
遼くんが頑張れない時には○○とか△△が引っ張ればいいんだからさ、とか、

そんなことを言ったのかは判らない。
けど、ゴルフの楽しさを思い出させるような、それともプレーできる歓びを思い出させるような何かを、青木さんが取り戻してくれたのかもしれない。前向きになれるような、不思議な効果がきっとあったんじゃないかな、と思っている。


人間って、スランプになる時だってあるよ。何歳になってもそう。
遼くんは、プロだといっても、所詮は18歳の若者なんだから。多くのプロスポーツ選手は自らの力でスランプに挑み克服することが多いだろうが、中にはそれで挫折していく人たちもきっといるだろう。プロに成りたての、ひよっ子選手が苦しむのなんて当たり前だもんね。そういう時に、コーチとか周囲の人たちがうまくアシストしてくれると抜け出せることもあるかもしれないけれど、奏功するかどうかは判らないからね。けど、「何かにすがりたい、誰かに寄りかかりたい」みたいになっている時に、周囲の大人たちにはできないことだってあるかもしれないよね。でも、青木さんくらいに年が離れていると、そういう安らぎみたいなものか安心感みたいなものがあって、単なる競争相手というよりも(プロ同士だから一応は)、よき人生の先輩(それとも憧れの大先輩?)として、共にラウンドできたんだろうと思う。


こういう時、ああ、はやり爺の存在って、何か判らないけど意味があるんだなあ、みたいに感じるのですよ。聞いてくれるだけで楽になれることもあるし。ある特定の人間同士だけにしか通じない・理解しえないような、そういう悩みとか苦しさというものを、本当に理解してくれる先輩というのが、本物のじじいなんだろう(笑)。


遼くんには今後も頑張って欲しい。




続・大麻の解禁問題について

2008年11月23日 04時48分10秒 | 社会全般
昔の、音楽とドラッグとに憧れていたようなベトナム戦争世代だから、ということではないだろうと思うが、かなりしつこいのが気になるな。

はてなブックマーク - 大麻は合法化して規制すべきだ - 池田信夫 blog


禁酒法の失敗話ばかり取り上げるというのは、ただの「アネクトード好き」と何が違うというのだろうね。学習能力に欠けるようにも思えるが。
たった一つの実例だけ挙げると、或いは単一の原著論文を挙げることができさえすれば、「これが事実だ!これこそが真実なのだ!絶対に正しい」みたいに豪語するのかもしれんが、あくまで一つの論文、というだけですから。通常は1本の原著だけを「これが答えだ!」みたいに祭り上げるような人はおりませんぜ。特に、人間に関することは、そうなるのが普通。

価値が高いとか、より信頼性の高いペーパーというのはあるが、だからといってそれが決定版ということには必ずしもならないだろう。同様な研究とか、似たような研究範囲の多数の論文が多数の研究者たちによって積み重ねられ、そういう論文のサーベイなんかを行ってみると、「おおよその方向」が示されるだけに過ぎない。現段階での考え方としては、「こうなるかもね」ということが言えるだけ。例えば「地球温暖化」に関するペーパーのサーベイみたいなもんだな。単一論文の結果だけを殊更重視したりはしない。もっと多くの研究結果を基に、「多分こう考えるのが、現時点でのベスト(合理性があるだろう)」ということが複数科学者たちによって判定されるということだ。


因みに池田氏は、「地球温暖化」問題については、IPCCの考え方に反対していたようだったと思うが、「研究成果」の都合の良い使い分けという姿勢は、相変わらず、ということか(笑)。例の上限金利問題に関しては、早大消費者金融サービス研究所のペーパーなんかを「これが根拠だ」と挙げて豪語していたが、結局池田氏の説というものはどうなったんだろうか?彼の主張について、満足に説明できたものなど、未だに何一つなさそうだが?
学術的な成果を目指すというのは、時事問題に文句を並べるようなことではない。常に「答えを求め続け、探し続ける、考え続ける」ということでしかない。06~07年の国会を過ぎてしまえば、「もう考えない」というのは、学問でも何でもなくて、ただのコメンテーターみたいなものだな。科学的(学術的)結論には、そもそも関心がない、ということの裏返しでもある。はじめから学問なんて関係なかったのさ。単に、「みのもんた脳」を非難するとか、後藤田議員や宇都宮弁護士のような人たちや一般社会の人々を愚かと決め付けて、文句を言いたかったということだけなのでは(笑)。

「金利規制とはどういうことか?」「多重債務は何故起こるのか?」「金利と貸出や借入はどうなっているのか?」というようなことについて、学術的な成果を得たいとか答えを知りたいと考える人間ならば、トコトン答えを探し続けるのが普通。それが研究者ということ。しかし、そういう姿勢が”全く”皆無というのが、池田氏だ。


前置きが長くなったが、ロシアでの話を一つ。
マンキューのブログ記事のリンク先で見たような気がするが、ロシアのウォッカの話だ。
昔から、文学とか映画なんかでもよく登場するウォッカとロシア人のアル中問題だが、あまりにアル中が酷いので、実際に高い税金をかけてしまうということにしたらしい。禁止すると密売問題が出るからだな。で、禁止せずに税金だけ高くしてみたら、どうなったか?

「ウォッカじゃないウォッカ」が出回るようになってしまったんだと(笑)。
これまではある一定の品質が保たれた普通のウォッカだったが、これは税金が高いので手が出ない。すると、品質のよいウォッカに「混ぜ物」をするということにしたんだと。「ウォッカのアルコール割り」だな。工業用アルコールだの消毒用だの、ありとあらゆる「いい加減なアルコール」成分を混ぜるようになってしまったんだそうだよ。そういう密造酒が市場で蔓延るようになってしまい、健康被害が続出した、とのこと。かといって、目的であるアル中を減らせたかというと、多分全然ダメだったんでしょうね。

このニセウォッカというのは、ニセブランド品とも似ているかな。ああ、「ダンボールまんじゅう」に近いか(笑)。いや待て、これは「第三のビール」ならぬ「第三のウォッカ」かも(第二がないじゃないか、というのはおいといて)。逆選択となってしまうケースみたいなもんか。ウォッカ市場には高品質の高額ウォッカと低品質の格安ウォッカがあると、高品質ウォッカは駆逐されて、ニセウォッカばかりが蔓延るようになっていく、というヤツだな(笑)。
税金を高くすると「万事解決するよ」というのは、アルコール類やドラッグ類では必ずしもうまくいくとは限らない、ということがあるかもしれんね。日本なら、ウォッカと同じ味の、限りなくウォッカに近い「ウォッカじゃない酒」を開発しようとするかもしれんが(第二、第三のビールってのと同じかな)、ロシアでは手っ取り早く作れる「ウォッカのアルコール割り」カクテルが密造されてしまう…と。国民性の違いかもしれん。


意外と背景にある文化とか国民性みたいなものの違いというのはあって、どこかの国でうまくいったからといって、ヨソの国に同じ制度を移してもうまくいく、みたいな普遍性のあるものかどうかは、研究してみないと判らないのではないかな。人間というのは、そうそう簡単な生き物ではない、ということなのだよ。これは借金もそう。ペイデイローンが高金利で商売できてるからといって、「同じ金利水準」の正当性を言えるのか、という話だな。手形担保の割引貸しと意味合いとしてはほぼ似ていると思うが、手形割引業者ですら減少してきたのに、本当に需要があるのかということはあるだろうね。もっと言うと、そもそも金利が30日間無料という業者さえあるのに、わざわざ高い金利(手数料)を払うのはバカか「特殊な要因の人」だけだろうと思うけど(笑)。日賦業者だって存在していたけれども、違法業者の温床となってしまって消滅させられたしね。


大きく話が逸れたけれども、大麻の話だったな。

根本的なところで、大麻を解禁したからといって何かよいことでもあるの?
違法でいいじゃん。マリファナ自販機がカリフォルニアにあるからといって、日本でもそうすべきだ、みたいな話にはならんだろうね。いくら医療用といっても、向精神薬や鎮痛剤ですら「現在でも違法取引」が行われており、薬事法違反で摘発されてるんですから、合法化の意味合いが全く異なるね。
麻薬もそうだけど、医療用の承認を受けた薬剤については、現状でも使用することは可能ですから。どうしても大麻が必須なのだ、ということなら、新薬として申請すればいいだけ。認められるかどうかは知らんが。因みに、漢方薬には確か入っていなかったと思うので、中国4千年超の歴史(英知の結晶だな、経験則的ではあるけど)をもってしても「大麻は長期的に有用・必須」ということにはならなかった、ということだろうね(笑)。


また例で書いてみるよ。

○大麻

①違法行為が行われている
②厳罰にするほどの犯罪ではない
③(健康)被害は少ない
④常用者はいるが多くは依存症にはならない

大麻解禁を主張する側はこんな意見だろうと思うが、メリットというものが、イマイチ定かではない。社会の効用としては、「大麻でいい気持ち」というようなことか?禁止されている今でさえ、高校生あたりに大麻使用が広がっているのに、もっと拡散する可能性が高くなるだろうね。米国なみに使用経験を持たせたいのかもしれんが(笑)。

ヤクザの覚醒剤資金源を減らせる、というような意見もあるが、イギリスでマリファナを多く使えるようになったら他の違法麻薬が減ったかどうかは知らないな。大麻OKのロシアでも麻薬はマフィアの資金源になってるみたいですけど。

で、大麻を推奨するということが必要なんでしょうかね?
それとも、「アルコールを止めて大麻にするべきだ」とか、「タバコの代わりに大麻にすべし」みたいに、代替を基本として、「大麻にすべし」と推奨するのか?
そういうのを肯定するのであれば、例えば「大麻を自由化すると、タバコによる健康被害が減少する」とか、「アルコール中毒患者は減少する」といった根拠を明示するのが基本ではないかと思うが。


万引きを大麻と比較することが適切かどうかは問題があるかもしれないが、一応書いてみる。

万引きを合法化(不可罰化)せよ、という意見の人って、どれほどいますかね?
多くの場合には、起訴とかにはなってないと思いますけれども、一応は違法行為として罰を受けるということになっていますよね。でも、常習性があることも言われており、実際に幾度も捕まる常習犯もいるわけだ。万引き対策コストもばかにはならないかもしれない。

大麻も万引きも「取締コストがかかる」ということと、被害が軽微だ、という意見はあるかもしれない(万引き被害は軽微ではない、という意見もあると思うが、とりあえず)。それならいっそ不可罰として、取締コストが少ない方がいい、という意見になるだろうか?それとも、マルチ商法被害よりも万引き被害の方が小さい、故にマルチ商法は一部認められているのだから万引きも認めるべきだ、みたいな意見が出されるのでしょうかね。恐らく、そういう意見は滅多に出ないと思いますけど。

「○○するよりも、大麻の方がマシだ」とか「××するよりも、万引きの方がマシだ」というのって、別に社会のあり方として、それを奨励しているわけではないんですよね。「AはBよりも被害が小さい」みたいなことがたとえ言えたとしても、別に「Aをやるべきだ」という話にはならないわけで。AもBもあまり好ましくはない時、規制に違いがあるとしても、それは、「社会の考え方」ということでしかない。
死んだ金魚を「水洗トイレに流すと違法」という法律が作られたとしても(スイスだったか)、それが外国と同じである必然性というものはない(米国映画で幾度か目にした時、超ビックリしたのが、トイレに流すというシーンだった。庭なんかに埋めるとかなのかと思ったら、大人も子どももごく当たり前のように金魚をトイレにジャーッと流してしまっていた)。


結局のところ、大麻を解禁すると大きなメリットがあるということが、感じられないわけだ。社会がそれを望んでいるということもなさそうだけどな(笑)。



ジェットで救貧院を訪れるジェントルマン(笑)

2008年11月22日 12時51分29秒 | 経済関連
ビッグ3の救済に揺れる米国ですが、政治的には「荊の道」のようだ。とりあえず市場は「固唾を呑んで見守っている」というところではないかと思う。

それにしても、米国の政治家たちというのは、政府筋も含めて「骨がある」ということだと思う。
決して安易な妥協は許さない。根底部分では、やはり「ルールを重んじる」ということが滲み込んでいる。だから、どんなに経済界の大物連中に泣きつかれても、「はい、そうですか」ということで首を縦に振ったりはしない。これが雑多な国である米国を支えてきたフェアとかルール重視といった思想的文化なのかもしれない。

日本でいえば、トヨタ、日産、ホンダがいきなり窮地に陥り、潰れそうだから助けてくれ、と政府に言ってきたようなものだから。このインパクトの大きさを考えると、どうしたって「救済」ということに傾きがちだろう。けれども、そう簡単には「ルールを曲げない」というのが、米国政府や議会の基本姿勢ということなのであろう。その強さに、驚かされるのである。

日本の政治家は、諸外国の政治家の良い部分を見習うべきだろう。
日本であれば、政治家の裏手の方に色々と手を回して、遮二無二でも救済案が通されるのではないかなと思ったりする(笑)。日本の政治家には「あの手、この手」が割りと簡単に通用してしまうのさ。そういう部分を弱みとして「敵からもつかれる」ということになってしまっているんだろう、きっと。欧米の政治家の中にだって、そうした手が通用する部分というのがないわけではないと思うが、それでも日本の政治家よりは「強さがある」ということなんだろうと思う。


asahicom(朝日新聞社):専用ジェット機に批判集中 米ビッグ3救済めぐる公聴会 - ビジネス

(一部引用)

米議会は大手ゼネラル・モーターズ(GM)やフォード・モーター、クライスラーなどへの計250億ドル(約2兆4千億円)の救済融資を審議中。下院金融委員会で経営危機の解消策が必要と訴えた各社の最高経営責任者(CEO)に対し、議員からは「専用の高級ジェット機でワシントンに来て『経営合理化に努める』と説明するのは、山高帽とタキシード姿で貧者向けの給食施設を訪れるようなものだ」などと、リストラ努力の不足を批判する声が出た。

 各社のCEOは「劇的に経営効率を改善している」(GM)、「05年末以降、50億ドル(約4800億円)のコストを削った」(フォード)などと釈明したが、満足しない議員は「専用機を売って、帰りは一般の旅客便に乗り換えるという人は手を挙げて」と詰問。反応がないと、「議事録には『挙手なし』と記録」とたたみかける場面も。

=====

このやり取りが面白い。
「手を挙げて」と詰問したら、「シーン」と。
小学生が、「はい、手を挙げて」と教師に言われた時みたい。
で、議員さんには「こいつら、ふざけてる」と思われてしまい、「はい、誰一人反省の色なしね」という印象を与えてしまいましたとさ。「完璧ダメ認定」ということを言い換えると、「挙手なしと記録しておけ」と(笑)。追及の仕方というものにも、面白さを感じさせますね。

で、最高の出来栄えがこれだ。

 「山高帽とタキシード姿で貧者向けの給食施設を訪れるようなものだ」

超笑えるでしょ?
英米あたりでは、ミールクーポンみたいなものが一般的だし、昔からの救貧院みたいな施設とかホームレス支援の教会とか、そういうのがよく知られているでしょう。日本では、そうした光景はあんまり見られないから、ちょっと感覚的に理解し難いという面があるかもしれませんが。
で、そういう食事を無償で提供してくれるような施設に来て並んでいるのが、「山高帽とタキシード姿」の、気位だけは高いすまし顔の紳士気取り、ということなんですわ(こういうのも、『オリバー・ツイスト』なんかで勉強になったよ、やはりディケンズは偉大だ。笑)。税金で救ってもらうのに、まずは売れるものを売るとか、そういう努力をした上で「列に並べ」と(笑)。


日本の政治家には、こういうのを期待しても無理かもしれない。
米国や英国の政党は大変長い歴史を持つけれども、日本の場合だとよく途中で崩れたり消えたりなんかして、結局よく判らない勢力分布になってしまうだけなのだ。米国の場合だと、まるで運動会みたいだけど、長年の「赤vs青」という図式が変わらずに残っている、ということだな。そういう意味においても、何というか日本の政治には「厚みがない」のだよね。理知的競演みたいな部分とかが、日本だとまず観察されない。ちょっとしたやり取りや受け答えの中に、余裕みたいなものもない。気の利いたジョークも、ユニークな言葉も、あんまりない。ひょっとすると、昔はあったのかもしれないけど。寧ろ、変に言葉尻だけ捉えられてしまったり、揚げ足取りに使われたりするだけ。なんつーか、つまらんのだよ。欧米の政治を観察する方が断然面白い、というのは、きっとそうだろうと思う。


国民の気質の違いによるのかな?
端的に言えば、日本は政治というのが向かない国民性なのかもしれない(笑)。



こんなファンドは嫌だ

2008年11月21日 21時46分03秒 | 経済関連
えー、私は本気で死にました。史上最大の損害率です。過去のITバブル崩壊なんかの時や、日本経済の最低期間であった02~03年頃の損失よりも、はるかに甚大な被害を蒙りましたよ。

日本市場が彼奴等に乗っ取られてからというもの、荒らされ放題です。彼らの言い分だと、「これは単なる投資のテクニックに過ぎない」というでしょう。そんなのは、ウソに決まっているのにね。


また例で考えてみましょう。
船便のスパイス輸入でもいいし、株取引でもいいですが、そういう何かの投資プロジェクトを目的としていて、ファンドみたいなものだとします。何でもいいのですが、とりあえず債券の売買をするファンドとしますか。

とりあえず、一口1万円で出資を募ります。
マネージャーに自分のお金を預けて、その資金を元手に色々な債券を購入してもらい、その売買利益とか配当金収入などで、出資した1万円に対してリターンを得てもらう、というものです。必要経費はこの中から出してもらいます。

さて、この投資には多数の人々が参加し、100万口集まりました。
このファンドはどうなるのか、ということを考えるわけです。投資プロジェクトである「債券の売買、運用」が成功すると、一口当たりの金額は増加します。元は1万円だったものが、10500円とか11000円とかに増えていくわけです。時には分配金として、出資者に分けられたりもしますよね。逆に損失が出てしまうと一口当たりの金額は減少し、9000円とかになっていったり、分配金ももらえないということになりますね。出資した投資家としては、「損しちゃったな」と思うわけなんですよ。

こうしたファンドは現実に多数存在していて、投資信託などとして「日々基準価格が算出され、理論価格がたった一つ決まる」ということになっているのです。具体的には、このファンドが持つ資産から負債や手数料部分などを除外して、純粋に出資者の取り分としての「一口当たりの価格」が決まるわけなんですよ。実際に出資したお金を返してもらう時には、こうした基準価格を元に解約時の価格が決まっています。若干のペナルティとして、理論価格よりも割り引かれるということが多いかと思います。
(換金に伴うデメリットが他の出資者に影響する為、ということだろうと思われます。例えば債券を換金する時、額面100万円とかになっているので、一口分の返金だけをするのにまるごと売却し換金することになってしまう。まさか債券の端っこを千切って、これだけ換金して、とも言えないですからね。そうなると資金効率が落ちることが一般的に知られているので、その分は割り引かせてもらいまっせ、ということになっているのでしょう。)


何が言いたいかというと、こうしたファンドへの投資も、企業のプロジェクトへの投資も、ほぼ同じようなものでしょう、ということです。投資家の立場にしてみると、同じ1万円を投入するのであれば、こうしたファンドであろうと企業の配当であろうと、ほぼ同じ意味合いなのだ、ということです。大昔の「船便のスパイス運搬プロジェクト」であっても、何ら変わらないということですよ。船便の場合だと、ある種の一か八かみたいなことが多かったでしょうから(嵐に遭うとか、海賊に襲われるとか…、そういう色々)、無事に荷を積んで帰ってこれるかどうかが判らなかった。宝くじの一種に近いものかもしれない。
けど、小口の出資であっても、みんなのお金を集めると、船を調達することができ、乗組員を雇うことができ、スパイスの買付金を用意できれば、そのプロジェクトに賭けることができたわけなんですよね。そうすると、うまくスパイスを積んで帰って来れたら、儲けた分を出資者の方々には配当しましょうね、ということですからね。必要経費は勿論全部引かせてもらいまっせ、船長の成功報酬も頂きまっせ、ということだったんでしょう。ファンドのクローズ期間があるというのは、こうした船便の帰ってくるまでの時間と似たようなものかもしれません(笑)。これはまあいいけど。

企業というのは、こうした投資話と何ら変わりがないはずなのですよ。
経営陣は船長であったり従業員は乗組員であったりして、必要経費は営業経費ということで差し引かれ、残った資産の部分から出資者の取り分が算出され、配当されていくということになっているわけです。上の例に挙げたような、債券ファンドの換金とか分配金と、意味合いとしては何ら違いがない、ということなのですよ。

ですので、厳密に言えば、企業への投資(株式購入)であるとしても、理論的な「出資者一口当たりの価格」というものが決まるはずなのです。そしてそれは、通常「決算」という形で行われているのです。決算は、スパイス運搬の船便が帰ってきて、全部を清算し終わった後の状態と全く同じなのですよ。つまり、その時点での「出資者一口当たりの価格」及び分配額というのが、出資した人の取り分ということになっているはずなのです。株価というものの意味合いとは、そういうことでしょう。仮にこれを換金せねばならない、という場合には、若干のペナルティとして割り引かれることはあっても、大幅に「一口当たりの価格」を下回るということは、理屈の上ではオカシイわけです。それはまるで、「投資信託」の換金を申し出た投資家に、現在の総資産から算出される基準価格から大幅に下回る金額の金(例えば半分とか、だな)しか返金しないようなものです。


企業の決算を何故毎日行わないかというと、面倒だから、大変だから、困難だから、といった理由があるでしょう(笑)。今は4半期毎に公表されていますが、これを毎日行えばいいだけなのですよ。投資信託は「決まりきった数字」しか扱わないことが多いので(投資対象が限られているし、全て数値を計算することが割りと可能だから、と思います)、日々基準価格を算出できているわけですからね。ただ企業の場合には、支払期日の違いとかたまたま上手くいった時期とか天候とか、そういう不確実な要因によって持っている総資産の変動が少なくないので、ある期間を置いて(昔は本決算、その後中間期が入るようになり、今は四半期だ)計算結果を算出するということが行われているわけですから。そうすると、企業がファンドと何ら変わりない投資対象であるなら、日々計算結果である理論価格を「取引に用いる基準価格」として、ただ一つを定めることは合理的ではないですか。それを今まで行わなかったのは、毎日計算することが困難だから、というだけでしょう。

また、企業活動というのは、スパイス運搬船と同じようなものなので、沈没しちゃうかもしれないんですね。そうすると、港では船が帰ってくるまでの長い期間を、「うまくいくんだろうか、どうなんだろうな、嵐かな、海賊に襲われたかな」とか気を揉んで待っているわけだ。そういう人たちが、今日は嵐だな、どこそこの港に着いた船乗りは海賊船を見たぜと言っていた、だのという曖昧な情報に振り回されたり、悲観したり期待したりといったことをやっていたんだろうと思う。そういう人たち同士の中で、「船は戻ってこないと思う」という風に不安になったような人から、「いやいや、あの船長ならきっと大丈夫さ」みたいに思う人が買ったわけだ。出資者の権利(うまく行ったら配当を貰える)を売買することになったわけだから。弱気が大きくなれば、その権利を手放す時には安くなってしまう、ということでしょう。

このプロジェクトの場合に、船がどうなっているか「途中経過がわからない」からこそ、価格変動が起こるわけで、もし船にはレーダーやGPSが装備されており、港で待つ人たちがみんなでテレビモニターに航海中の船の衛生画像を見ているとしたら、「出資者の権利」の売買価格はどうなると思いますか?より確実性の高い金額でしか取引されないだろうと思いますよ。沈没する様子が見えているのに、誰も「よし、権利を買ってやるぜ」なんて言わないんですよ。要するに、途中経過がより正確に判ればわかるほど、理論価格がたった一つ(若しくは非常に狭いレンジの価格帯)しか出てこない、ということになりますでしょうね。


なのに、現実の株式市場というのは、全然違うわけです。ほぼメチャクチャなんですよ。
どうしてそんなことが通用してしまうのか?
理論価格が毎日算出されていないから、です。

企業活動の途中経過は、航海中の船の衛生監視画像みたいに正確には判らないから、完全な価格というのは算出できないけれども、理論的には先にも述べた通りに「出資者の一口当たり価格」が計算されうるものであるはずなのです。この予想がブレる為に、取引価格が変動してしまう、ということはあるでしょう。配当金の変動ということもあるかもしれません。しかし、理屈の上では投資する金額と、その金額がどれくらいの増加するのか、ということに集約されていくでしょう。具体的には一株当たりの株主純資産の増加とか、一株純利益、といったことでしょう。他に必要になるのは、「時間」の要素による割引率の違い、ということくらいでは。

時間の要因というのは、「今すぐに金にしなけりゃいけない」ということの割引という意味です。企業への投資の場合、会社に行って「株券を持ってきたから、換金してくれ」という申出をしても出来ませんよね?オレは今キャッシュが必要なので換金せよ、と言っても、企業の一部を売ってきたりはできません(投資信託ならできますけどね)。なので、便宜的に「いちばの方に行けば、まとめてやってくれますよ」ということになっており、船便を待つ人たちの「権利の売買」と同じで、買ってもいいぜ、という人たちがたむろしているわけなんですよ。株券というのは、債券なんかとほぼ同じ意味合いで、「将来時点で金を受取れる権利」を持つということですからね。企業の場合には、その将来時点というのがいつなのかが決まってはいない、というのが債券とは異なりますけれど。どっちにしろ、船が帰ってくる前に金を手にしたい、という時点で割り引かれることに違いはなく、これは手形割引業務なんかも同じ意味合いですよね。


現在の株式市場というのは、「船長が不細工男だから沈没するかも」、「メタボなハゲだからダメなんじゃないか」みたいないい加減な解説によって、「金を受取れる権利」の値段が乱高下させられているんですから。「たんまりスパイスを積んで帰ってくるらしいよ」とか、適当な風説を流布するのも、同じようなものだな。そうやって、人々を惑わせるわけだ(笑)。
もしも非上場会社の場合には、株価がどうやって算出されると思いますか?
「船長は海賊船の出身だからきっと成功するぜ」みたいな、単なる期待で価格を変動させられるんでしょうか?(笑)
仮に非上場会社の株を持つ役員とかで、退任するので会社の株を売って換金したい、ということであると、その価格はどうなるでしょう?税法上の決まりとかはよく知らないですけど、価格交渉ということや計算値から株価を便宜的に算出するといったことなのではありませんか?売買のテクニックとか、いい加減な解説とか、そういうのは一切通用しないわけなんですよ。


なので、企業価値は市場で決まる、というのは、部分的には正当性があるかもしれないが、それは「船が帰って来れると思うかどうか」みたいなものを、「価格として算出する」というような不確実性の大きい場合には意味があると思うよ。でも、ファンドの基準価格が「マネージャーが無能のバカっぽいから、安くなるに決まってるだろ」とか、「この前、売却損を出してたから安いに違いない」といった、非常に曖昧な理由で取引する価格を決められたらどうしますかね?(笑)通常、そんなことはありえんでしょうよ。
優秀なファンドマネージャーの「マイケルくん」です、だから、このファンドは出資金ははじめから高くて一口2万円が投資資金の1万円分です、なんて話がありますかね?そういう期待だの、見込み云々で基準価格が決まるという制度は、間違っていることが多くなるだけ。もし期待込みで価格は変動するもんだ、というのが正しいのであれば、全部のファンドだの投資信託だのをそういう制度にするべきだろうね。10期連続で年率10%成長を遂げたファンドの基準価格は、計算値よりも高い価格が設定されたり取引されたりしているのか?(爆)期待込み、で。そんなワケないだろ?ん?ウソをつくなよ。


つまり、これまで株式市場で横行していた売買ゲームの大半は、ニセの作られたものばかりだった、ということだな。
安全資産への投資との比較とか、株主純資産の増減とか、そういうことを考えるのは普通だろう。企業利益が少ないと、株主純資産の成長率が低下するから、投下資金のリターンの利回りが低下するということだ。赤字でもないのに、純資産の大幅減というのは普通ないと思うんだけど。利益が1000億円から100億円に大幅に減少したとしても、黒字である限りは一応プラス成長ですから。おバカさんたちには、そういう簡単なことが判っていないらしいけど。この投資機会と別な投資機会との比較で、もっと利回りの良い機会がある(例えばもっといい企業の株を買うとか、国債や社債を買う、とか)なら、そちらを選択する方が「賢いですね(合理的)」というだけであり、投資することによって「損失を生み出す」ということにはならない。頭の悪い連中というのは、「減益」や「下方修正」と聞くだけで、株価暴落は当たり前、みたいに思ってるだけで、実際には限度ってもんがあるんだよ。50万円投入して1万円しか成長しない投資と、同じ金額を投入して3万円のリターンのある投資なら、どっちを選びたいか、というだけの違いでしかない。元が500円投資して30円の会社予想だったのに、これが10円になりました、ということであれば、500円だった金額が期待する成長率近辺まで減少してしまうということが起こるだけ。だがそれは、通常一株当たり株主純資産以下の金額にはならない。企業の株で投資機会を得るよりも、会社を買収か売却した方が儲かるからだ。

けど、貯蓄しないで投資せよ、とかうまいことを言って、金を巻き上げようとする連中というのは、そういう思考法を持たない。
取引対象なんて、企業の株ではなくても、何だっていいのさ。漫画の本でも同じ。それが「毎日売買されるオークション会場」があって、売買の基本的ルールとシステムがあればそれでいいんだもの。だから、株でなくとも、商品相場でも、何だって同じなのさ。後は、情報操作とか、もっともらしい薀蓄語りの洗脳とか、ペテン師テクニックさえあれば、それでいいのだよ。あとは、価格を動かせるだけの資金力、かな。


あれだ、何となく来期以降にファンドの成績が「マイナスになりそうな予感」というような場合には、基準価格が半分とかになってしまうのは当たり前ということなんだね?(爆)




市場とは、「口はペテン師、心はハイエナ」

2008年11月20日 22時13分34秒 | 経済関連
大笑い。
これまでに「投資しろ、投資しろ」と、しつこく金を持ってこさせていた連中に聞かせてやりたいね(笑)。

あれだよ、証券業界なんてものは、他人を陥れるか「金をかっぱぐ」為にあるのであって、半ば詐欺師集団みたいなもんだ。口から出まかせとほぼ同様の、根拠なんてものよりも「出鱈目」が重宝がられる世界ではある。「投資判断はご自身で」なんてことを言いながら、嘘八百のレポートだの格付けだのを並べては、カモから巻き上げるシステムを構築しているのがこの世界だ。ま、火傷をすることもあるから、それこそが自己責任ということなわけだが。


緊急株式インタビュー:日経平均は6000円程度までの下落も=草野GF 草野氏 Reuters

この社長さんというのがどういった人なのか知らないし、初めて見る名前だから、有名な人かどうかも知らない。
が、草野氏の言う「足元のEPSをベースに考えれば、日経平均は6000円前後が下値のメドになる。」というのは、どういった根拠なのか知りたいものだ。

「しかし業績は悪化を続けており、4─9月期決算と同時に発表された2009年3月期見通しは事前に予想していた20%減益から結局は26%減益まで悪化した。今後も一段とEPSが落ちるようなら、下値のメドはさらに下がることになる」とも答えているので、減益幅が拡大したのだから株価下落は当然だ、という理屈なんでしょう。


多くのレポートの中には、どうみてもウソ臭いものがあるわけです。それは株に限らず、色々とあるんですよ。
で、下値が6000円割れとかいう、どこからか取ってきたような理屈を言ってるわけですが、その理由というのが「20%減益見通しだったのに、減益幅が6%も増えてしまい、今後もっと増えると6000円を下回る」ということらしいです。

超大笑い。
ホント、どうしようもないな。

まず、データを見る。便宜的に東証の統計から、東証一部の単純平均の数値で考えてみよう。
03年の安値の時、7600円くらいだったわけですが、当時のEPSはマイナスでした。つまり上場企業平均が赤字だった、ということですわな。04年4月以降のEPSにしても、後半から景気回復の恩恵効果が出て、10円程度でした。03年1月の一株当たりの単純株価平均は318.37円、EPSは-7.87円だった。

赤字なのだから、一株当たり純資産減少というのは有り得る話だし、株価が安いのはしょうがないわな。


で、その後に株価回復があり、05年1月には単純株価平均が429.93円、EPSは10.73円だった。06年3月には株価平均は551.95円、EPSは11.50円だった(因みにPBRは1.9倍)。

07年度の業績を織り込んでの期待も含まれていたとして、06年の株価はそれなりに上がっていたわけですよ。07年には大体12円台後半~13円後半程度のEPSで、単純株価平均は460円前後だった。

これと08年を比較するとどうなんだろうか?
EPSは08年途中までの14円台を割り込んで、下方修正が繰り返されたので12円台に落ちてしまったわけだ。今後、更に下方修正があるとなれば、ひょっとすると14円台→10円程度までの下落があるかもしれない。
そうだとして、単純株価平均が238円まで落ちなければならない理由とは、一体何であろうか?(爆)
草野氏ならば、きっと答えを知っているのでしょう。
少なくとも04年とか06年時のEPSの水準と大して違いがないのであれば、期待される単純株価平均もそれに近いのではないのか、ということですわな。

今後2年以内くらいにみんな赤字になってしまって、EPSがマイナスになるんだよ、ということなら、そうなのかなと思わないでもありませんが、東証1部上場企業全部がマイナスになるというのは、相当のダメージですから。あの当時と今とでは、かなり違うと思いますけど。

アレだ、この数年間に株を「買え、買え」言ってたペテン師たちは、草野氏の言う株価の理屈を知らなかったんでしょうな。目標株価とか「口から出まかせ数字」を散々挙げてきた証券会社のレーティングやリポートなんかも、殆どが「出鱈目のウソ八百」みたいなもんだ、と言いたいわけでしょう?(笑)
EPSで見たって、仮にここ数年の半分程度でしかないとしても(輸出企業はともかく、一部上場の全企業平均がそこまで落ちるという根拠を知りたいけどね)、7円くらいはあるわけで、純資産は増加することはあってもマイナスにはならないでしょうな。赤字ならば純資産は減るから、PBRが1倍割れであっても「止むを得ないだろうね」とは思うわけです。そんなのは03年時くらいなもので、それ以前の97年~99年という悲惨な時代でさえ、そこまで落ちてはいなかった。ダメダメ言われていた90年代でさえ、EPSが10円以上はあったわけで。損時の企業より、今の企業の方が本当にダメになっていますかね?それは甚だ疑問だな。


では、どうしてここまで株価が落ちてしまったのか?
それは過去に大量に資金投入をしていて、それを一気に引き上げていこうとした人たちが大勢出たことと、それに乗じて「売りまくり」で大儲けをしようと数々の悪辣手口を用いている連中がいたから、ということになりましょう。

自由化とは、危険性も多いんですよ。
みんな真面目な生徒さんたちばかりなら、校則は緩くてもいいし、私服でも大丈夫なんですよ。でも、中にはとんでもなく悪いヤツラがかなりいて、他の無害な普通の人たちがやらないようなことをやろうとするんですから。
取引する連中というのは、どの程度繋がっているのか、ということを知らないんですよ、誰も。相撲界の「星のやり取り」みたいなもんで、予め自分の取引手口を伝えておくだけで儲けられる仕組みになっているんですから。そういう手法で自分たちの成績を上げようとする連中がいないとも限らないわけでして。給料の成果主義というのは、欲に負けやすいのかもしれんがね。

どこぞのガ○○ンが売ってくるのは、基本的に「金がないから」ということか、「バカだから」という以外にはないでしょうよ。

今後の3年後くらいの業績を見通しているんだ、みたいに言うのかもしれませんが、そうなると、00年時点での株価はやはり「バカばっかり」か「ペテン師だらけ」ということが明らかになるだけだし、いや、来期くらいまでしか見てないよ、ということなら、来期に東証上場企業の平均EPSが赤字に転落すんのか、って話だわな。
そんなに海外輸出依存度が高いのか?日本は。
もしそうなら、そんな国の通貨が下がらないはずがなかろうて。もしも本当に日本経済が酷いことになるよ、ということなら、通貨は売られて大きく円安に傾くんだわ。それが経済の自動調節能になっているんですわ。
アイスランドを見てごらんよ。通貨安、国債金利上昇ということが起こっているではないですか。日本はどうですか?そんなに売られている気配はどこにもありませんけど。むしろ、日本経済の足腰の強さ、ファンダメンタルズの底堅さがあるから、円が買われて上げてきたんじゃないですか。


「足元のEPSで」って、どこを見て言ってるんですかね?
是非教えて欲しいもんです。足元ってやつを。
あと、日本経済って、デフレってきたので、今の1万円と10年前の1万円の価値は結構違うと思いますけど。それから、できればEPSはドルベースとかの基軸通貨で考えると「グローバル経済」にマッチした感じかもしれませんね。


まあいいや。
草野氏の論に従えば、投資の勧誘文句だの目標株価なんてものは、大体が適当なこじつけだっただけなんじゃないの?

そういうのをペテンというのだろ(笑)




日本経済は基礎的強さが残っている

2008年11月20日 16時12分09秒 | 経済関連
1)貿易赤字

NIKKEI NET(日経ネット):経済ニュース -10月の輸出額、01年12月以来の大幅減 貿易赤字639億円

(以下に引用)

財務省が20日発表した10月の貿易統計速報(通関ベース)によると、輸出総額は前年同月比7.7%減の6兆9261億円となった。世界的な金融危機と景気低迷の影響で、2001年12月以来、約7年ぶりの大幅な減少率を記録した。欧米向けに加え、アジア向けの輸出も6年8カ月ぶりの減少に転じた。貿易収支は639億円の赤字で、10月としては1980年以来、28年ぶりの赤字となった。

 日本の貿易収支は8月に3321億円の赤字となり、1月を除いて約26年ぶりの赤字を記録した。金融危機の打撃で世界経済が冷え込み、10月は2カ月ぶりの赤字となった。(11:02)

=====

書いてあることは事実ではありますが、もうちょっと掘り下げといいますか、「見方」についての工夫がある方がよいかもしれません。
8月に引き続き10月も赤字だ、ということで、何と言いますか、ショックを受けたかのように思っているかもしれませんが、現在はまだそんなに大袈裟に不安視するようなことではありません。今年はやや特殊な年なので、調整までに若干の時間がかかるかもしれませんが、悲観するには及びませんよ(笑)。

北米及び欧州の減速というのは確かですが、日本経済に与えるダメージを深刻に捉えるほどではありません。
特に米国向け輸出はここ数ヶ月間連続で下げてきていますので、その延長傾向というだけです。今に始まったことではありません。また、欧州のダウンというのは事実ですが、中身としては全然ダメージが小さいでしょう。
まず第一に、大きな要因としては、為替変動というものがあります。
対ドルでも、ユーロやポンドに対しても、大幅な増価となったことはご存知と思います。この影響を受けて、円ベースでの売上高では大幅に小さくなってしまうものと思います。しかし、現地通貨ベース(又はドルベース)で見た場合には、「減ってきている」という傾向が明確に出てきているとしても、円ベースで見た場合に比べると減少幅は小さくなるでありましょう。

第二に、北米及びEU圏の輸出ウェイトが以前に比べると格段に小さい。10月のデータでは欧米で約2.15兆円程度ですが、アジア向けは3.4兆円もあります。金融危機の本体は米国や英国をはじめある程度の先進国に集中しており、その消費が減速するというのは不可避でありましょう。けれども、そのウェイトはかつてほど大きくはない。01年は輸出が足を引っ張り(笑)、成長率にはマイナス寄与でしたが、当時の10月輸出額に比べると現在は約1.67倍に増加しています。この増加分の多くが「アジア圏」をはじめとする「非欧米向け」なのです。特に欧州の購入額は年ベースで見ても全然大したことがありません。ドイツを初めとする工業国がひしめいているので、日本製品を必ずしも買わずに済むから、ということかと思います(米国ではそうした製品の多くが輸入になっており、自国圏で調達できないから購入額は増加するだろうと思われます)。10兆円か10数兆円程度なのだから、ちょっと減少するとしても、数十兆円もの減少になるわけではない。少なくともいきなり半減したりはしないでしょう。

特に中国向け輸出はEUへの総額を軽く上回る1.16兆円となっており、若干の減少があったものの、為替要因を除くと元ベースでは恐らく増加しているのではないかと思われる。昨年10月水準に比べて、今年は円が約5.6%程度の増価となっているからである。今後の減速が不安視されると思うが、中国の成長率が突然マイナスになったりはしないだろうから、依然として需要はかなりあると見込まれる。EU全部のダメージよりも、中国の需要が半減するということの方が大きい、ということ。大袈裟に言う程、直ぐには沈んでいかないであろう。

そういうわけで、輸出額のドルベースで見て、日本からの輸出額が04年規模(約60兆円)くらいまで落ちたとしても、成長率寄与度では案外マイナス幅はたいしたことない。現実には、そこまでのマイナスが観察されてはいないわけだが。

財務省貿易統計 Trade Statistics of Japan


2)円高と交易条件

今年は輸入額の伸びが大きかったが、その理由とは原材料高であった。ありとあらゆる原材料が値上がりしていってしまったが、夏以降の価格下落は今後に効いてくるだろう。今はその過渡期と言ってもいいかもしれない。

特に問題となったのは、エネルギー価格上昇であった。これは01年以降の傾向であったのだが、顕著になり出したのは04年以降の時期であった。石油、石炭、天然ガスなどの価格上昇と円安効果などがあって、対GDP比で2.2%まで上昇し、輸入物価上昇も観察された(02、03年は輸入物価がマイナスだった)。
それでもかなり早いピッチの上昇であったが、今年に入って以降の原油バブルで全てが台無しになってしまったわけだ。恐らく08年度通期では、エネルギー輸入金額の対GDP比は4~4.5%程度になっているだろう。要するに、04年時の2倍、ということ。円ベースの輸入額の伸び率の大半は、これら要因によるものであろう。だが、現在の原油価格は50ドル台に落ち、円高の影響もあって、今後も輸入に占めるウェイトは下落していくだろう。即ち、輸入額の純減に繋がる可能性が高い、ということだ。

参考資料>http://www.group.dai-ichi-life.co.jp/dlri/rashinban/pdf/et08_061.pdf


また、資料中の図でも明らかなように、交易損失は03年以降拡大の一途であり、これが是正される過程に入っているのだから、約25兆円規模で損失があったものが、今後には大きく改善されていくであろう、ということが予想される。この規模の大きさは、輸出企業の減速全部よりも、かなり大きい額だろう。09年3月期にたとえ輸出が10兆円程度減少(欧州が半減、米国で25%減、くらいの減少規模だ、06年の75兆円とあんまり変わらない)したとしても、交易条件改善でGDPにはプラスの影響となる可能性が高い。

<因みに、06年の平均株価が今の倍くらいはあったのに、何故日本株がここまで売り込まれなければならないか、ということは、多分誰も疑問には思っていないのかもしれない。輸出が今後にちょっとマイナスになるよ、ということがあるとしても、05年時点では65兆円しか(20兆円も少ない!)なかったじゃないか(笑)。それから考えると、トヨタが苦しむと全部の経済活動がダメになる、みたいな短絡的理屈でしか考えていないのではないかとしか思えない。鉄鋼も石炭も値下がりするのだから、必ずしも悪いことばかりではない。輸入額減少は、日本の購買余力を生み出せるから、かなりのプラス効果があるはずだ。輸出企業の連中が大袈裟に騒ぎすぎなんだろ。>


※ちょっと追加ですが、一応、ここ最近の参考記事です。

円高で日本だけが助かる

現時点の為替介入は無駄

トヨタの過信

円高のダメージはさほど大きくはない、というのは、これらに書いてきた通りです。


3)新興国やアジア諸国の成長

先進国の資本が引き上げられると、アジア各国の成長が減速する、というのはそうなんだろうな、とは思う。また、欧米の消費に支えられてきたこれら国々の仕事が大きく減っていく、ということもあるかもしれない。しかし、そうであるとしても、欧米のゼロまたはマイナス成長に比べれば、成長余地は大きいと考えられる。

例えば携帯電話市場であるが、人口規模の小さい欧州の普及率と比べると、まだまだ低いからである。欧州の裕福な小国であると100%近いか100%超えのところもある。しかし、アジア圏ではまだまだ低い。中国でも約45%程度と言われており、今後60%程度まで普及するとなれば、2億台以上の需要が見込まれる。他のインド、パキスタン、その他中央アジアなど人口規模の大きい国々においては、普及需要がかなり大きい規模で期待できる。
どんなに所得の低い国々であったとしても、これまで電気やテレビなどの基礎的インフラ需要は着実に伸びてきたであろうと思うので、今後にも「携帯電話というインフラ」が確実に伸びるだろう。なんたって、テロの連中でさえ使っている時代ですので。

携帯電話普及率、2011年に全世界人口の70%へ - japaninternetcom 携帯・ワイヤレス

これと同様な傾向だと思うのが、インターネット普及だ。
近年、格安パソコンがかなり多く出てきたが、この低価格化したパソコンは全世界への普及を促進するようになるだろう。中国のネット普及率は約2割弱くらいと言われており、携帯電話普及と共にネット普及が進むだろう。これはインドでも同様。電気や上下水道などの整備と同じく、ネット環境というのが携帯電話と共に進んでいくだろう。

これら携帯電話需要やインターネット普及に伴う需要によって、電子部品や半導体需要というのは個数ベースで見ていけばやはり増加していくだろうと思われるが、製造コストは規模の経済が効くようになっていくので廉価化していくだろうと思う。だからと言って、無限にゼロには近づいていかない。それは「小麦の生産コスト」がゼロになったりはしてないのと同じだからだ。電力供給も効率化がかなり進んではいるが、ゼロにはできない。1W発電当たりのコストは、先進国になればなるほど低いだろうと予想しているが、それと同じようなものだろうと思う。かなり効率化を図ったとしても、次第に「限界点」に近づいていくのではないかな、と。そこから下を狙うのは、中々大変なのだ(笑)。


これと似たようなことが、新興国のインフラ需要全般に言えるので、成長力が残されるだろう。
昔は、裸足の生活だったものが靴を履けるようになり、裸だったのがTシャツを着るようになった、というようなことかな。製造コストが下がっていったこと、所得の低かった国の平均所得が増加してきたこと、それらが相まって靴を履きTシャツを着るようになる人々を生み出したのだ、ということかな。まだ裸足でTシャツを着ていない人がいる限り、需要は消えてなくならない。


4)日本の経済状況

欧米が大きなダメージを受けているとしても、日本までもが共に悲観し過ぎることはない。欧米の需要減が影響を与えるということは当然なのだが、その依存割合は日本の場合に致命的とも言えない。交易条件改善で生み出された数兆~数十兆円分は、必ずプラスに作用する。そのお金を日本国内に使うんだよ。

企業の株価が04年当初に戻ったとしても、当時の企業業績(+見通し)より今年や来年の方がいい、という企業は、たくさんある。当時に将来株価が上がると予想していたエコノミストだとか金融機関の分析屋たちは、殆どが「口から出まかせ」みたいな詐欺的文句を並べていたんだろうね、きっと。
「これだけの企業価値があるからそれよりも現在株価は安すぎる、従って将来株価は上がるはずだ」という意図であろうと思うが、もしそうであるなら、数年前の企業業績に戻るとしても「当時の企業価値」と同程度か、期待込みで「若干のマイナス」というのが織り込まれて少しくらい低いとしたって、今ほど安くなければならないという理由なんてない。
企業の将来収益をどの程度まで見込むのか、ということの違いがあるとしても、日本企業が02年当時と同じ水準で当然だ、とする理由など、見出せないんだけれどもね。なんと言いますか、いかに「株屋」の連中が嘘八百を述べていたか、ということがよく判りますな。株価の算出基準なんてものは、「ほぼ適当」とか単なるこじ付け的なものでしかない、ということでしょう。だから、一般投資家たちが逃げていってしまうのでしょうね。



とりあえず、日本の経済状況は輸出が減速したとしても、ダメージは欧米に比べると小さいはずだ、ということ。何と言っても、「売る物がある」ということが最大の強みであると思う。米国の株価が下がると、「日本の株価も下がってしまわなければならない」なんていう理由は、本来存在していないはずなのだ。だが、情報化した金融世界では、あまりに連環が進んでいるので、「他の投資主体」の期待や考え方までも「織り込もうとして」、取引しようとするからである。理論的に正しいことが取引に必要なのではなく、「他のプレイヤーならどうするか」という発想に基づくからこそ、誤った取引だろうが何だろうが通用してしまうのだ。まあ、しょうがないわな。



誤投与事故(追加です)

2008年11月19日 23時07分19秒 | 社会全般
ありがちといえばそうですが、何か具体的対策が必要ではないかと思われます。

筋弛緩剤誤投与で入院患者死亡 徳島の病院、70代男性 - 47NEWS(よんななニュース)


記事からだけでは、詳しい内容というものが判りませんが、例えば「サクシン」と「サクシゾン」というような、類似名称ということでしょうか?

こういう類似名称の薬剤の場合には、投与前か調剤前などに「必ず第三者にチェックすること」とか、「○○ではありませんか?」という注意書きを張っておくとか、何かの対策を講じるべきでは。特に、致死的となる薬剤(本件の筋弛緩剤のような)については、薬剤の保管場所か調剤する時に取り出す場所に「死亡する」ということを示すような「チョー危険マーク」みたいなものを貼っておくとか。

それにしても、何と何を取り違えたのか、それが一番知りたいのにね。
報道ではそれが全く不明。何でだろ?


※追加です:20日17時半頃

昨日のネット上の記事には、どこも薬剤名が出ていなかったんですが、今日になったら出ていました。

筋弛緩剤を誤投与で死亡…徳島の病院 ニュース 医療と介護 YOMIURI ONLINE(読売新聞)


薬剤は予想通り、でした。たまたま偶然ですが。
間違える名称って、筋弛緩薬だとサクシンが思い浮かぶのが普通でしょうからね。

この薬剤の名称間違いは、かねてより「指摘されていた」ことだったろうと思うのですよ。しかし、具体的な対策とか、過誤防止を向上するような施策とか、そういうのに繋がっていないですね。だから同じようなミスが繰り返されて起こってしまう。「一体、何の為にヒヤリ・ハットを集めているんですか」って話になってしまうわけだ。具体的に防止方法を広く公表し、注意喚起しておかないと効果がないのでは。

読売記事から引用してみる。

『病院や遺族によると、男性は今月17日夜に容体が急変し、体温が40度近くになった。当直の30歳代の女性医師は、抗炎症剤「サクシゾン」を出そうとしたが、データベースでヒットした筋弛緩剤「サクシン」をサクシゾンと思いこんだ。サクシンを受け取った看護師から「本当にサクシンでいいのですか?」との問い合わせがあったが、医師には「サクシゾン」と聞こえたため、「いいよ」と答えたという。』


(疑問に思った)看護師が聞き返したのに、「いいよ」と答えてしまって、確認した意味がなかったわけですよ。
これは、聞く側に「サクシンを使うと、どうなってしまうのか」という知識が不足していたが故に、「サクシンでいいのか」という聞き方になってしまったのだと思います。/kgでどの程度入ると呼吸停止するか、ということは知識があれば判りますから、1Aとか2A入れろ、という指示であるとしても「死ぬんじゃないか」と気付けるはずです。疑問に思う程度では、ダメなんだ、ということです。


呼称の間違いが多いものとか、間違えると重大という時には、確認の仕方を決めておかねばならないのでは。「サクシンでいいか」という問いは、互いに「思い込みがある」とか「意志の行き違いがある」という場合には、ほぼ無効ということでしょうな。
「○○ではありませんか、本当に××でよろしいですか」みたいに言わないとダメなんじゃないかな。「○○ではなく、」という複数の確認手段を質問文に入れておくべきではないか、ということ。


料理の指示で
「塩を入れておいて」
と言われたら、塩だろうなと思いますよね。これが思い込みの第一歩ですけど。料理に詳しければ「この料理に塩を入れるとどうなるか」ということが判りますので、間違いに気付けるかもしれません。でも、そこまで判らないということもあると。ならば、「塩を入れて」という指示を受けた場合には、必ず「シソではなく、本当に”しお”でよろしいですか?」みたいに、『間違えやすそうなもの』と並列で言わないと、確認の質問をされた方が「シソのことだ」と完全に思い込んでいる場合には、「塩でいいですか」と聞かれているのに「シソ」と聞き取って(本人にはそう聞えて)しまうことがよくある話だからだ。本当にそう聞えているんだと思いますよ、脳にとっては(ですよね?茂木先生?)。

それを回避できるような「質問文の形式」になっていなければならないだろう、ということ。なので、「塩でいいですか」という確認のやり方は、あんまり効果がないかな、と。「間違える可能性が高い」と心のどこかに注意が残っていれば、ピンとくることもあるし、確認のやり方も変えるんだと思う。そこまで看護師さんに要求するのは、かなり難しいんだろうけど。


今回のサクシンの一件では、やはりアンプルの保管している脇とかに、「サクシゾンではありませんか?本当にサクシンですか?」と確認事項をまるまま表記しておくとか、「挿管ですか?」みたいに基本的用途を併記しておくとか、「ドクロマーク」でも付けるか、そういう直前の警告みたいなものになっている方がいいのかな、と。

これはあくまで私の素人考えなので、ご専門の方々によく考えてもらえれば。