日本には多くの「マッド経済学者(モドキ?)」とか、「マッド経済評論家」みたいな連中がいる。彼らはこれまで何をしてきたかと言えば、ニセの論理を振りかざすか、出鱈目の理屈を並べて、大衆を欺くことだった。それがたとえ有名人であろうと、政府や中央銀行の役人たちであろうと関係なく、いい加減な主張がまかり通るのである。世界七不思議に匹敵するような、経済学の謎の部分なのである。
彼らに共通するのは、「我こそは、経済や経済学の専門家である、正しい答えを知っている」というような、自信に満ち溢れていることである。そういう連中に限って、実はウソをついていることが多いのだが(笑)。けれども、一般人からすると「輝かしい肩書き」のようなものを有しており、多くの場合にそうした「権威」に引っ掛かってしまうのである。日本の企業経営者たちがあまりに間抜けであった為に、良からぬ浅知恵を吹き込まれ、それをまんまと真に受けて騙されたのと同じようなものだ。何故そうなってしまうのかといえば、知識も考え方も全てが「自分で考えた」のではなく、誰かからの受け売りでしかないからである。先人の知恵を利用することは、どのような分野でも行われている。誰かの知恵を借りることが悪いことではない。そうではなくて、既にある知識や理論を用いて考えることよりも、「ある目的を達成する為に」、理屈や学問を利用しようとしていることが、マッドな連中が跋扈する要因となってしまっているのである。
現在大きな問題となっているが、雇用情勢が急速に悪化している。派遣や契約社員の打ち切り、新卒採用取りやめ、正社員もリストラが始まりつつある。今の日本で本当に失業対策がそこそこ機能しているかというと、疑問が多い。雇用保険から漏れている人々は、収入の道が途絶えてしまう。だからこそ不安が増大しているのである。
かつての日本の労働市場というのは、ある部分は参入障壁が高かった。それは、女性の労働力への障壁が高かったからだろう。労働市場へ参入してくるのは女性はあまり多くはなく、ある程度長く勤める正社員には男性ばかりだった、ということだ。教師や公務員などでは女性の数がそこそこ増えていったし、保育園や幼稚園の先生、看護婦など女性が圧倒的に有利といえる職場もあったが、社会全体としては職業婦人はあまり多くはなかった。サザエさんみたいに、専業主婦で過していることが多かった。
なので、労働市場においては、男性の行き先だけ心配すれば良かったという面が強く、労働人口(就業希望者)が今よりも少なかっただろう。今は、男女が対等に競争して稼がねばならないので、労働市場参入者は多くなっているはずだ。
「パート主婦」というような表現に表されていたように、かつては主婦が短時間不定期のパートとして働いたり、学生がアルバイトとして働くというのが非正規雇用の主な部分であったかもしれないが、今は正規労働市場から漏れた人々がみんなそこに集まってしまったようなものだ。期間工や日雇い労働者たちは、今で言うデジタル派遣みたいな人たちもいたかもしれないが、それが主力とも思えず、農村地域などからの出稼ぎ者たちが割といたであろう。
これら非正規労働の多くは、元々「他に別な役割・立場」のようなものを持つ人たちが大半を占めていたのでは。学生さんがバイトを首になったとしても、収入の一部は確かに減るが完全な失業者のような立場に置かれるわけではない。学業という「本分」があるからだ。主婦にしても、パートを切られたからといって家計収入全体が失われたりはしなかった。家庭に戻ることができた。出稼ぎ労働者にしても、農繁期には実家に戻って働く場所が確保されていたわけだ。冬期間の収入が減るのは痛かったには違いないであろうが、本分としての「農家」という立場を持っていたので、合理化の憂き目に遭っても自己の尊厳を完全に失わせることにはなっていなかったのではないか。
現代における非正規雇用というのは、こうした過去の働き方と質的に異なっているのである。多くが「戻るべき場所」など、持っていないのだ。本分である学業とか、家庭とか、農村とか、それらが何もない人たちが、日々不安定な雇用の中に置かれているのだ。そうした流動性を高める方向に社会を導くなら、失業に対するバッファーとなるべき部分を社会的に手当てしない限り、社会全体のシステム維持は困難になるだろう。社会全体の摩擦が増大してしまう、ということだ。先日のギリシャとか、数年前のフランスとか、一頃のドイツみたいに、若年層の怒りが爆発してしまったりすることになるのではないか。
経営側にとっては、労働者というのは単なる数字でしかない。一部の経済学者にとっても、それは同じだろう。
経費のうち、労働者の賃金に100、原材料費に100である時、経費節減と称して、賃金を100から80にカットすることは、経営者にとっては容易なのである。労働者たちは、「賃金100」という数字に置き換わっているだけであり、それは「原材料費100」と何ら変わりないか、それ以下のものなのだ。
原油高の期間には、原油を用いる産業であるとそのコストを削減することはしなかったわけだ。しかし、人件費は削った。それはどうしてなのかといえば、労働者たちは原油以下の存在でしかなかったからだ。交渉力も原油より下位に位置していたからだ。
ある製品を製造するのに、原油代金を100払うとする。人件費も100だ。ここで、原油代金が大幅に値上がりした為、100だったコストは150になったとしよう。そうすると、これまで会社はどうしてきたかというと、値上がりした50のうち人件費を削って40捻出、他のコストを10削って原油代金分を吸収しようとしたわけだ。人件費を削れる理由というのは、原油代金は削れないから、ということに他ならない。労働者の交渉力が原油と同じである時、原油代金が削れないなら「賃金も削ることができない」のである。なのに、日本では原油代金を削れない代わりに、人件費を削ろうとするのだ。つまりは、労働者というのは、原材料以下ということでしかないのである。こうした考え方に支配されているのは何故かというと、俄「経済かぶれ」のマッドな連中が知った風な口を叩き、効率化だの生産性だのと言いながら、人々の金を収奪する為にエンドトキシンのような、或いはクラスター爆弾の子爆弾のような、出鱈目言説をばら撒いたせいだろう。それがもたらす結果とは、経済停滞だというのに、自らの愚かさに気づけないままでいるのだ。
もう少し書いてみる。
生産力が100の労働者が、100人いるとしよう。全部で10000の生産をしている。さて、この労働者が能力を毎年向上させるので、生産力が2%だけ上昇する。となると、これまで100だった生産力は次の期には102となるわけだ。これを10期続けると、生産力はかつての10000から約12190になる。もし、定常的な生産力だけが必要なのであれば、100人もいらないということになる。大体、83人もいれば10000以上生産できてしまう。つまり、生産能力向上と効率化によって、少なくとも17人の仕事を失わせることが可能となる。これが資本主義経済の「成長」としてカウントされるという基本原則なのだ。だから資本主義経済の成長というのは、誰かを必ず失業に追い込む力として作用してしまうのである。個々の労働者が能力を高めるというのは、そういうことなのだ。
で、日本の異常なところは、たとえ生産能力が102に向上したからといって、賃金が上昇することは約束されない、というところなのである。社会全体でみれば、むしろかつての賃金を100とすれば、生産能力が向上しているにも関わらず毎年マイナスにされた上、10期後には大体93~94程度になってしまった、ということだ。それが経営サイドの評価ということなのである。
経済学の教科書の中には、自分の取り分である給与を削ってまで供給する、なんていう理論なんかない。労働者単体で見れば、この人の能力以下の賃金なのに労働力を提供するというのは、まさに「利潤が負なのに供給者が必ず現れる」というのと同じだ。非負制約なんて働いていないのである。どうしてそんなことが起こるかというと、過度な競争とか恐怖心を与えることによって可能になるのだ。それは「そんなこと言うなら、おまえの仕事を取り上げたっていいんだぜ」ということだ。経済学理論の中の労働力は死なない。飢えないし。だから交渉力の差なんてものは、基本的には考慮されていない。
けれど、現実は違う。多くの労働者たちは非負制約を破ってまで、労働力の提供を行ってしまっているのである。原材料費や為替要因などでコストが増加すると賃金を削るという現象が起こるのなら、その前の期の賃金が合理的であるのに、次の期に賃金を減らされるのは能力に見合わない負の値をとっているということでしかない。
もし10000も売れないので生産が不要になり、8000でいい、ということなら、その分の人数は減らされる可能性がある。が、個別に見れば、会社に残った労働者個人の賃金は上がっていて、なおかつ「全体の人数は減る」ということになっているべきだろう。しかし、実際にそんなことになっているのだろうか?人数も減らし、賃金も減らすのであれば、一体何をやっているのかが判らないな。そんな部分だけは、日本型を残しているとでも言うのか?
失業への対処は、政府レベル、企業レベル、個人レベル、ということで色々あるだろう。
政府レベルとは、基本的には失業保険ということで、仕事がない期間も現金給付を行って、失業期間中の苦痛を減らす、ということになる。デンマークっぽい政策だ。企業レベルというのは、昔の日本型企業だろうか。仕事が減って苦しい期間であっても首切りを避け、無理矢理にでも新たな仕事を作り出し、そちらに人材を振り向けた。昔の経営者の方が格段に偉かった、ということだろう。そのお陰で失業率は割りと低いままだったので、失業保険の社会的コスト負担は減らすことができたわけだ。会社が肩代わりしていた部分が割りとあった、ということだろうと思う。個人レベルということで見れば、自分で貯蓄するなり何なりをやって、会社にも国にも頼らない、ということだな。失業は自己責任、と。もしこれを正当化するのであれば、中途半端に正社員だけ雇用保険がある、というのは、不公平感がある。正規も非正規も関係なく、雇用規制も失業保険もなくせばいい。でも、そんな意見は主流とは思われないので、日本では企業ができない、という方向になっているのだから、政府レベルで失業給付を拡充する、ということにしかならないだろう。流動性を高めろ、という企業側要請が大きいなら、それに見合う「コストを負担してくださいね」ということになるだろう。人材移動の大きい企業ほど失業給付を多く使わせるので、雇用保険料を多く払うべきだ。
派遣会社にしても、元々は仕事が打ち切られたら次の場所を効率的に見つけることで「仕事のない期間を最短にする」という目的で存在しているのだから、現在の企業で派遣が打ち切られたら次を素早く用意する義務があるだろう。それができないのに、派遣会社をやる意味なんて全くない。「派遣先を用意できない派遣会社」ほど、役立たずの仕組みはないだろうに(笑)。移動を容易にしたいだけなら、米国みたいに給料を週払いにして、いつでも参加でき退出も自由でいいよ、という風にしておくべきだな。そのシステムを採用する企業は全部の労働者についてそうするべき。
小売の卸業者や仲買というような複雑な流通をやめて、直販やネット取引にすると双方にメリットがあるのと同じなので、派遣業界は全部潰してもいいんじゃないか。労働者が探す代わりに「仕事を見つけてきて用意する」のが仕事なのに、できないなら仕事してないのと同じだ(笑)。
因みに、派遣会社は仕事を生み出せないことには変わりないので、手配師みたいに「こすい」だけなんじゃないの?
人の上前をはねる商売って、例えば高級クラブホステスの引き抜きとか風俗店従業員のかき集めとかをやっていた○○○の仕事と、基本的仕組みは同じように思えるけど、まあ具体的に何が違うのか考えてみればいいと思う。
言ってみれば、労働者の金をピンハネしている非効率な中間体というだけだな。あれだ、昔、人を集めた人足頭みたいなもんだ。それとも、傭兵集めかな。
彼らに共通するのは、「我こそは、経済や経済学の専門家である、正しい答えを知っている」というような、自信に満ち溢れていることである。そういう連中に限って、実はウソをついていることが多いのだが(笑)。けれども、一般人からすると「輝かしい肩書き」のようなものを有しており、多くの場合にそうした「権威」に引っ掛かってしまうのである。日本の企業経営者たちがあまりに間抜けであった為に、良からぬ浅知恵を吹き込まれ、それをまんまと真に受けて騙されたのと同じようなものだ。何故そうなってしまうのかといえば、知識も考え方も全てが「自分で考えた」のではなく、誰かからの受け売りでしかないからである。先人の知恵を利用することは、どのような分野でも行われている。誰かの知恵を借りることが悪いことではない。そうではなくて、既にある知識や理論を用いて考えることよりも、「ある目的を達成する為に」、理屈や学問を利用しようとしていることが、マッドな連中が跋扈する要因となってしまっているのである。
現在大きな問題となっているが、雇用情勢が急速に悪化している。派遣や契約社員の打ち切り、新卒採用取りやめ、正社員もリストラが始まりつつある。今の日本で本当に失業対策がそこそこ機能しているかというと、疑問が多い。雇用保険から漏れている人々は、収入の道が途絶えてしまう。だからこそ不安が増大しているのである。
かつての日本の労働市場というのは、ある部分は参入障壁が高かった。それは、女性の労働力への障壁が高かったからだろう。労働市場へ参入してくるのは女性はあまり多くはなく、ある程度長く勤める正社員には男性ばかりだった、ということだ。教師や公務員などでは女性の数がそこそこ増えていったし、保育園や幼稚園の先生、看護婦など女性が圧倒的に有利といえる職場もあったが、社会全体としては職業婦人はあまり多くはなかった。サザエさんみたいに、専業主婦で過していることが多かった。
なので、労働市場においては、男性の行き先だけ心配すれば良かったという面が強く、労働人口(就業希望者)が今よりも少なかっただろう。今は、男女が対等に競争して稼がねばならないので、労働市場参入者は多くなっているはずだ。
「パート主婦」というような表現に表されていたように、かつては主婦が短時間不定期のパートとして働いたり、学生がアルバイトとして働くというのが非正規雇用の主な部分であったかもしれないが、今は正規労働市場から漏れた人々がみんなそこに集まってしまったようなものだ。期間工や日雇い労働者たちは、今で言うデジタル派遣みたいな人たちもいたかもしれないが、それが主力とも思えず、農村地域などからの出稼ぎ者たちが割といたであろう。
これら非正規労働の多くは、元々「他に別な役割・立場」のようなものを持つ人たちが大半を占めていたのでは。学生さんがバイトを首になったとしても、収入の一部は確かに減るが完全な失業者のような立場に置かれるわけではない。学業という「本分」があるからだ。主婦にしても、パートを切られたからといって家計収入全体が失われたりはしなかった。家庭に戻ることができた。出稼ぎ労働者にしても、農繁期には実家に戻って働く場所が確保されていたわけだ。冬期間の収入が減るのは痛かったには違いないであろうが、本分としての「農家」という立場を持っていたので、合理化の憂き目に遭っても自己の尊厳を完全に失わせることにはなっていなかったのではないか。
現代における非正規雇用というのは、こうした過去の働き方と質的に異なっているのである。多くが「戻るべき場所」など、持っていないのだ。本分である学業とか、家庭とか、農村とか、それらが何もない人たちが、日々不安定な雇用の中に置かれているのだ。そうした流動性を高める方向に社会を導くなら、失業に対するバッファーとなるべき部分を社会的に手当てしない限り、社会全体のシステム維持は困難になるだろう。社会全体の摩擦が増大してしまう、ということだ。先日のギリシャとか、数年前のフランスとか、一頃のドイツみたいに、若年層の怒りが爆発してしまったりすることになるのではないか。
経営側にとっては、労働者というのは単なる数字でしかない。一部の経済学者にとっても、それは同じだろう。
経費のうち、労働者の賃金に100、原材料費に100である時、経費節減と称して、賃金を100から80にカットすることは、経営者にとっては容易なのである。労働者たちは、「賃金100」という数字に置き換わっているだけであり、それは「原材料費100」と何ら変わりないか、それ以下のものなのだ。
原油高の期間には、原油を用いる産業であるとそのコストを削減することはしなかったわけだ。しかし、人件費は削った。それはどうしてなのかといえば、労働者たちは原油以下の存在でしかなかったからだ。交渉力も原油より下位に位置していたからだ。
ある製品を製造するのに、原油代金を100払うとする。人件費も100だ。ここで、原油代金が大幅に値上がりした為、100だったコストは150になったとしよう。そうすると、これまで会社はどうしてきたかというと、値上がりした50のうち人件費を削って40捻出、他のコストを10削って原油代金分を吸収しようとしたわけだ。人件費を削れる理由というのは、原油代金は削れないから、ということに他ならない。労働者の交渉力が原油と同じである時、原油代金が削れないなら「賃金も削ることができない」のである。なのに、日本では原油代金を削れない代わりに、人件費を削ろうとするのだ。つまりは、労働者というのは、原材料以下ということでしかないのである。こうした考え方に支配されているのは何故かというと、俄「経済かぶれ」のマッドな連中が知った風な口を叩き、効率化だの生産性だのと言いながら、人々の金を収奪する為にエンドトキシンのような、或いはクラスター爆弾の子爆弾のような、出鱈目言説をばら撒いたせいだろう。それがもたらす結果とは、経済停滞だというのに、自らの愚かさに気づけないままでいるのだ。
もう少し書いてみる。
生産力が100の労働者が、100人いるとしよう。全部で10000の生産をしている。さて、この労働者が能力を毎年向上させるので、生産力が2%だけ上昇する。となると、これまで100だった生産力は次の期には102となるわけだ。これを10期続けると、生産力はかつての10000から約12190になる。もし、定常的な生産力だけが必要なのであれば、100人もいらないということになる。大体、83人もいれば10000以上生産できてしまう。つまり、生産能力向上と効率化によって、少なくとも17人の仕事を失わせることが可能となる。これが資本主義経済の「成長」としてカウントされるという基本原則なのだ。だから資本主義経済の成長というのは、誰かを必ず失業に追い込む力として作用してしまうのである。個々の労働者が能力を高めるというのは、そういうことなのだ。
で、日本の異常なところは、たとえ生産能力が102に向上したからといって、賃金が上昇することは約束されない、というところなのである。社会全体でみれば、むしろかつての賃金を100とすれば、生産能力が向上しているにも関わらず毎年マイナスにされた上、10期後には大体93~94程度になってしまった、ということだ。それが経営サイドの評価ということなのである。
経済学の教科書の中には、自分の取り分である給与を削ってまで供給する、なんていう理論なんかない。労働者単体で見れば、この人の能力以下の賃金なのに労働力を提供するというのは、まさに「利潤が負なのに供給者が必ず現れる」というのと同じだ。非負制約なんて働いていないのである。どうしてそんなことが起こるかというと、過度な競争とか恐怖心を与えることによって可能になるのだ。それは「そんなこと言うなら、おまえの仕事を取り上げたっていいんだぜ」ということだ。経済学理論の中の労働力は死なない。飢えないし。だから交渉力の差なんてものは、基本的には考慮されていない。
けれど、現実は違う。多くの労働者たちは非負制約を破ってまで、労働力の提供を行ってしまっているのである。原材料費や為替要因などでコストが増加すると賃金を削るという現象が起こるのなら、その前の期の賃金が合理的であるのに、次の期に賃金を減らされるのは能力に見合わない負の値をとっているということでしかない。
もし10000も売れないので生産が不要になり、8000でいい、ということなら、その分の人数は減らされる可能性がある。が、個別に見れば、会社に残った労働者個人の賃金は上がっていて、なおかつ「全体の人数は減る」ということになっているべきだろう。しかし、実際にそんなことになっているのだろうか?人数も減らし、賃金も減らすのであれば、一体何をやっているのかが判らないな。そんな部分だけは、日本型を残しているとでも言うのか?
失業への対処は、政府レベル、企業レベル、個人レベル、ということで色々あるだろう。
政府レベルとは、基本的には失業保険ということで、仕事がない期間も現金給付を行って、失業期間中の苦痛を減らす、ということになる。デンマークっぽい政策だ。企業レベルというのは、昔の日本型企業だろうか。仕事が減って苦しい期間であっても首切りを避け、無理矢理にでも新たな仕事を作り出し、そちらに人材を振り向けた。昔の経営者の方が格段に偉かった、ということだろう。そのお陰で失業率は割りと低いままだったので、失業保険の社会的コスト負担は減らすことができたわけだ。会社が肩代わりしていた部分が割りとあった、ということだろうと思う。個人レベルということで見れば、自分で貯蓄するなり何なりをやって、会社にも国にも頼らない、ということだな。失業は自己責任、と。もしこれを正当化するのであれば、中途半端に正社員だけ雇用保険がある、というのは、不公平感がある。正規も非正規も関係なく、雇用規制も失業保険もなくせばいい。でも、そんな意見は主流とは思われないので、日本では企業ができない、という方向になっているのだから、政府レベルで失業給付を拡充する、ということにしかならないだろう。流動性を高めろ、という企業側要請が大きいなら、それに見合う「コストを負担してくださいね」ということになるだろう。人材移動の大きい企業ほど失業給付を多く使わせるので、雇用保険料を多く払うべきだ。
派遣会社にしても、元々は仕事が打ち切られたら次の場所を効率的に見つけることで「仕事のない期間を最短にする」という目的で存在しているのだから、現在の企業で派遣が打ち切られたら次を素早く用意する義務があるだろう。それができないのに、派遣会社をやる意味なんて全くない。「派遣先を用意できない派遣会社」ほど、役立たずの仕組みはないだろうに(笑)。移動を容易にしたいだけなら、米国みたいに給料を週払いにして、いつでも参加でき退出も自由でいいよ、という風にしておくべきだな。そのシステムを採用する企業は全部の労働者についてそうするべき。
小売の卸業者や仲買というような複雑な流通をやめて、直販やネット取引にすると双方にメリットがあるのと同じなので、派遣業界は全部潰してもいいんじゃないか。労働者が探す代わりに「仕事を見つけてきて用意する」のが仕事なのに、できないなら仕事してないのと同じだ(笑)。
因みに、派遣会社は仕事を生み出せないことには変わりないので、手配師みたいに「こすい」だけなんじゃないの?
人の上前をはねる商売って、例えば高級クラブホステスの引き抜きとか風俗店従業員のかき集めとかをやっていた○○○の仕事と、基本的仕組みは同じように思えるけど、まあ具体的に何が違うのか考えてみればいいと思う。
言ってみれば、労働者の金をピンハネしている非効率な中間体というだけだな。あれだ、昔、人を集めた人足頭みたいなもんだ。それとも、傭兵集めかな。