いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

静岡知事選から見える与党大敗の予感

2009年07月06日 15時14分46秒 | 政治って?
自公系候補の惜敗が伝えられているが、この結果について、もう少し考えてみたい。

報道では、得票は次のようになっていた。

自公系候補: 713654票(38.8%)
川勝候補:   728206票(39.6%)
民主系候補: 332952票(18.1%)
共産系候補:  65669票(3.6%)

自公系候補と民主系の2候補が獲得した票数は、713654票 対 1061158票となり、自公系候補は67%と約3分の2に留まっていた。多くの小選挙区で似たような展開となれば、自公系候補の苦戦が続くであろう、ということは判る。静岡知事選では全体得票の約57.7%が民主に流れたことになり、同じ水準の得票率になれば衆院選では「圧勝」を超えて民主単独政権が誕生するかもしれない。

参考:

どん底くらべ~08年衆院選を占う


昨年秋くらいには麻生さんが総選挙を早期にやるだろうと思っていたので、このような予想を書いたのだった。
民主が58%水準での得票になれば、参考記事で書いた①のケースに該当し、静岡知事選や参院選レベルの得票率ということである。これは民主爆勝を通り超えて、単独政権レベルですよ、というのがポイントである。静岡知事選での得票は、それくらい大差であったということだ。

東国原知事が誕生した時には、保守系候補の分裂選挙となって共倒れとなり、まさかの東国原候補に勝利が転がり込んだのだった。漁夫の利を得た形だった。今回の静岡知事選で、自公はそれと同じ事を期待していたにも関わらず、敗北を喫した。それほど自公は基盤が脆弱になっている、ということだ。
自公系候補は善戦した。地元組織なんかも頑張った方だろう。投票率が45%くらいで総投票数が135万票くらいであったなら、今回の71万票ちょっとでも過半数を獲れていたのだから。組織力が生きて、勝利できていたかもしれない。

だが、代理戦争の如き選挙戦となって、民主系の分裂選挙であったにも関わらず、それでもなお自公は敗退したのだ。


これは本格的に重症かもしれんね(笑)。




ドラマ『官僚たちの夏』はサイコー!

2009年07月06日 10時56分42秒 | 俺のそれ
私好みのドラマを作っていただき、誠にありがとうございます、って感じ。

個人的傾向を言っておくと、
・『プロジェクトX』が好き派
・『三丁目の夕日』的昭和の光景を支持するぞ派
ですから(笑)。

原作は読んだことがありませんが、ドラマには期待できそうです。
官僚(佐藤)の語ったセリフに、思わず涙してしまいました…(笑)


昔から、友人や家族などからも「理屈っぽい」などと揶揄されることが多かった私ではありますが、あえて一言申し上げたい。

 「理屈はいらない」

ただひたすら、がむしゃらにやってみろ、と。
泥のようでも何でもいいので、苦しんで苦しんで兎に角やってみろ、と。

今の世の中には、理屈や説明や合理性や、そういうのを求めるのがあまりに多すぎるんです。


納得しないと仕事ができないのか、と思ったりすることとかあるかも。
そりゃ全部完璧に説明ができればいいんだろうけど、できない部分もあるんですよ、多分。これは「どうして数学を勉強しなきゃいけないんですか」みたいな質問攻撃と似ているかもしれない。いちいち答えるのが面倒というか、難しいというか、相手をうまく納得できるような説明をつけてあげることが難しいことだってあるわけなんです。

でも、仕事がこれっぽっちもできないくせに、「納得できないので、やりたくありません」とか「納得した上で仕事をしたい」とか前口上ばかりはご立派な連中がいるんです。お前の納得なんていらない、そんなもんはどうでもいいから、さっさと仕事を終わらせてくれりゃいいんだよ、仕事を仕上げた後からそういう理屈をこねることをじっくりやってくれ、みたいなもんです。


ドラマを観て思ったのは、昔はひたすら信じて、「できない」と言われていたことを実現した、ということです。そういう強い意志が日本人の中にみなぎっていた。まさに「モーレツ社員」とか、そういうがむしゃらさがあった。人々はみんな、何かに熱かった。
今の社会では、スマートさは増しているけれども、そういうひたむきな、頑固とか、信念とか、日々生きている中で「意志」というものを感じる機会がもの凄く減ったような気がするのです。


言葉は下品かもしれませんが、「なにくそ」というのが少ないように思えます。
「お前は成績が悪い、こんなんじゃダメだ」と言われりゃ、絶対に見返してやるぜと思って、なにくそ魂で頑張るとか、そういう気概が足りないのではないかな、と。

厳しい競争環境では互いに実力が拮抗していたりして、勝敗を分けるのは紙一重であったりするのではないかと思えます。最後の最後というギリギリ状況では、理屈や理論なんかに頼っても仕方ないんです。強く信じる気持ちとか、決意や意志の強さが必要になってくると思うんですよ。無闇やたらに、ただ精神論を振りかざせというのではありません。正しい考え方や理論に基づく正しい準備を行った上で、後は実現できるかどいうか、実行できるかどうかというのは、各個人や個人の集合体である組織がどういう意志で臨むかというところにかかってくるんじゃないのかな、ということです。

勿論失敗はあるでしょう。敗北が積み上げられてゆくでしょう。
けれども、それは次につながる敗戦だってあるのではありませんか?



今の時代では、屁理屈や御託ばかり言って、何一つ達成できないことが多いんですね。しかも、論理的だの、ナントカ理論だの、屁理屈をこね回す連中の多くは、間違っていることしか言わないか、自分自身がまるで何も判っていないか、批判する口だけは一丁前という輩が多すぎるんです。


そういうのには、飽き飽きしました。

もっと熱い時代を、取り戻したいのです。