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ごく一部で有名な訴訟の話

2006年07月31日 16時23分52秒 | 法関係
これって、報道されてたのを全然知らなかったんですけれど、皆さんはどうでしょうか?
先月の松本早大教授問題の時に偶然発見したので、一応書いておこうかと。

なんと、損害賠償請求事件を被告自らが書いてたりなんかしてるのです。
原告は松井三郎京大教授、被告が中西準子先生。中西先生の紹介はWikiが詳しいので、見て下さい。

中西準子 - Wikipedia


まあ端的に言えば、環境ホルモン関連に関するコメントで、それが「名誉毀損だ」という話になっているのですと。研究者が他の研究者から批判されたので訴える、という極めて稀な訴訟のようです。
素人の感想で申し訳ないんですけれども、訴えるべきものなんでしょうかね?こんなので訴えてたら、それこそ研究上の批評には耐えられないんではないでしょうか?


J. Nakanisi Home Page

で、中西先生がお書きになっているのによれば、どうやら日垣隆氏の新刊本にもその記述があるらしい、ということで、今日本屋に行って探してみたのですが、本自体が置いてなかった。『どっからでもかかってこい!』って本。
そこでバイトの兄さんに「『どっからでも~』って本はもう置いてありますか?」と尋ねたら、「『どっからでもかかってこい』?ですか?」とタイトルを大きな声で言ってるのを聞いた近くの客が、ギクッとした感じでこちらを見てました。喧嘩でも始まるとでも思ったのでしょうか。尋ねて恥じ掻いた。ああ、関係ない話ですね。


で、その訴訟の発端となったシンポジウムには日垣氏も参加していたんだそうです。

シンポジウムでの松井三郎氏の発表


おやまあ、意外にもどこかで見たお名前もあったりするわけですが(笑)、山形氏の批評とかに比べれば、中西先生のコメントなんてかなり穏やかな感じなのではないでしょうか。だって、Wiki によれば、「東大都市工学科の良心」とか言われてたそうなんですよ、中西先生は。名誉毀損も何も、科学的討論というか批評ならば、ごく普通なのではないかと思えます。原告側代理人の弁護人というのは、偶然女性弁護士がズラッと並んでいるのですが、微妙な感想を持ってしまったりもするわけですね。「市民生活が危ない!!」「安全な~~が脅かされる!!」みたいな・・・・○○系運動とか関係してたりしたらヤダな、と。イカン、あんまり余計な憶測を書くと、私も訴えられかねないかも。


兎も角、たとえ冷遇されても、「科学者の良心」に従って「ダメなものはダメ」と言い、科学(研究から言えること)を曲げないということを実践してたんですから、大変立派な先生なんだな、と思いました。そのような人が、何の意味もなく他の研究者を誹謗したりはしないと思いますけどね。



マイレージは誰のものか?

2006年07月31日 15時24分39秒 | 行政制度
折角書いたのに、記事消滅。泣き。また書く気力なし。なので、手短に。


「マイル取得ダメッ」も…分かれる省庁の対応 ニュース ジョブサーチ YOMIURI ONLINE(読売新聞)


こんなのどっちでもいいんでないの?と思いました。瑣末な問題すぎ!
でも、自業自得の感もある。公金を裏金にしたり、無駄な予算貼り付けを続けたりして、天下っているからこういうことにもなるのかな、と。


はっきり言って、こんなセコセコしたマイレージポイントなんて、個人が貰おうが問題ないと思うけど。飛行機の墜落リスクに対しては、危険手当もきっとないんだろうし。前の、格安チケットとの差額云々とかも、全部戻せ、って指摘があったと思うが、そういうのを全て頑張っても、無駄な天下り組織に金を流し続ける限り、全てパーになってしまうよ。


下らない「~~機構」の海外旅行(調査とか研究名目だろうけど)とか止める方が節約になるって。いらぬ研究職ポストも切れば?公務員の一般水準よりもかなり高額だよ?

天下ってる公益法人とか独立行政法人のいくつかに予算を流し込むのを止める方が数倍効果があると思うね。


関係ないけど、読売の記事では「航空評論家」のコメントを取っているのですが、これって「会計」とか「法律」とかの専門家に聞くべき内容のような気もしますが、どうなんでしょうか?何か意味がないように思えるな、と。街の普通の人に聞いても、「税金でチケット買ってるんだし~個人にポイント付くのはズルイんじゃないですかあ?もっと節約努力をして欲しいですね~」と言うのと同じようなものなんではないかと。それをわざわざ航空評論家に聞いてるのですね。まあ、いいけどね。意味ない感じが・・・・



反日ふうな釣り?ブログでしょうか

2006年07月31日 15時10分45秒 | 経済関連
よりによって産経のイザにわざわざ「突入」していったところを見ると、ヤラセか釣りとしか思えません(笑)。

モラル無き日本!-エイッ? かんしゃく爆発イザ!


本当のところはどうなんでしょうか?


煽り続けるために次々と燃料投下のようですし、産経への挑戦なのか、はたまた「炎上観察」の釣りぼりなのか(笑)、話題作りなのか・・・よく判らんけれども、イザの中でランキング1位狙いなのかもしれないし。

韓国人女子大生、ってのも結構怪しい。写真もね。

まあ、色んなことがあるものですね。



続・大学教育の未来(追記後)

2006年07月30日 18時37分21秒 | 教育問題
もう少し大学教育について書いてみようと思う。ツマラナイという評価の方が多いのかもしれませんけれども、もう暫くお付き合い頂ければ。


大学の競争と淘汰のことですけれども、私自身としては、本来1人でも多くの人が大学教育を受けられた方がよいし、義務教育であったとしてもそれは全然構わないと思います。しかし、人それぞれに向き・不向きがあって、「苦痛だ」という人々もまた多数存在するであろうし、費用的にも賄うのが大変になってしまうかもしれませんよね。更に肝心なことは、そもそも大学教育に対して、学生・保護者側が「見返り」を求めてしまうこと自体が問題なのであって、それを捨て切れない限り、「ブランド信仰」「有名マンモス大学集中」みたいなことは防げないし、「いい大学、いい会社幻想」のようなことも永続されるのではなかろうかと思います。

もじれの日々


「頑張って受験勉強をやって、こんないい大学に入って、大学院にまで大金をかけて進んで、勉強一筋で頑張ってきたのに、その結果がこんな無様な評価で、いい会社にも入れなかった」というような、「逆恨み」があったりするのではないでしょうか。保護者にしても、子どもの為に、「無理な残業を強いられても、イヤな上司にいびられても、妻に小遣いを半分にされても」父ちゃんは頑張り、「女学校(いつの話?)だか有名女子大だかを出たというプライドも捨ててまで、安い時給のレジのパート」で母ちゃんが進学塾の費用や有名私立の学費を稼いだにもかかわらず、「大学にようやく入れたと思ったら、ロクでもない仕事にしか就職できないなんて!」一体全体どういうことよ?というような錯覚が多すぎなのではないでしょうか。


本来「大学で学ぶ」ということは、卒業後に明確な「見返り」を求めるべきものではないはずなのです。学問というのは、何かをよりよく考えたり、自分や自分以外の人間の思考をなぞるのに必要であったり、何かに気付いたりするキッカケの土台を作るものであったり、他人の言葉を理解するのに必要であったりと、そういう何かの能力を培う為にあるのであって、大企業に入るための「予備選考」でもなければ、将来獲得できる収入の大きさを約束するものでもないのです(例えば、医学部とかのような特別な資格という場合には、法律上必然ということもありますが、そちらの方が本来特殊な場合だろうと思います)。人生の中で、どのような場面でも、普段の生活の中でも活かすことができるはずなのです。


にも関わらず、大学卒業者や大学院卒業者の中には、「オレはこんなにやってるのに、なぜ高給取りの職業に就けないんだ??」というようなことは少なくないと思います。学問を純粋に捉えるのであれば、それは就職や将来収入に無関係に動機付けられるべきものでしょう。ヘーゲルをこよなく愛するゴミ回収業者になったっていいし、ケインズの理論にとても詳しい漁師であってもいいのではないでしょうか。


そうは言っても、現実には将来を考えて進路選択を行うので、その志向に応じて法学部、教育学部、工学部や医学部といった選択を大学進学時点で行わざるを得ないのですね。これは個人の選択ですので、将来その仕事に就けるかどうかは判りませんね。でも、多くは、極端に言えば、「法学部を出たら、官僚とか弁護士になれる」のような錯覚があるのではないでしょうか。たとえ教育学部を出ても、みんなが教員になれるわけではないのですね。そういう時に、「折角大学を出ても無駄だった」みたいな感じになってしまうのが、そもそもの間違いなのではなかろうか、と。教員になれなかったら、教育学部の「大学教育は無駄だった」のでしょうか?


こうした大学教育は、無意味だったのでしょうか?本当に役立たずなのでしょうか?
大学では、書物に出会い、友に出会い、先生に出会い、様々な体験に出会うではありませんか。自分では気付かないかもしれないけれども、人生に大きな影響を与える何かとの出会いがあり、ひょっとすると「新たな自分」とか「自分の中の価値(観)」に出会うかもしれないではありませんか。そのような時間や機会を持てることは一生の中で、そう滅多にある訳ではありません。でも、そういうことに価値を見出すのは難しく、自分で直ぐに評価できないから、「大学なんて意味ないじゃん」ってことになりがちなのかもしれません。


多くの場合、初めから「大学教育の成果」に対して、多大な期待とか幻想があるのではないでしょうか。最初の期待が大きすぎて、卒業時の評価との乖離が大きければ大きい程、落胆も大きい、ということになるかと思います。それは就職という出力結果(まるで、before-afterみたいなもの?)を得たら、そうなるでしょう。入る前から知っているのではなく、出るときになってようやく気付くこともあるのです。すると、「こんなはずではなかった」という期待ハズレというか、無念さが大きくなるのではないでしょうか。その落差が小さいのは、実学系統(主に医・歯・薬・看護系とかでしょうか)であり、初めから将来の見通しが立っていて(職業が限定的ですので)、紛れが少ないためではないかと思います。新卒を採用する側にも、大学教育に対する過大な期待というものが、いくらかはあるのかもしれないですね。ただ、その傾向は昔から見れば変わってきていると思いますけれども。学閥的な志向も弱まってきているのではないでしょうか。


そういうわけで、本来大学教育には、有形的な或いは金銭的な見返りを過大に期待するべきではないと思います。学問とはそういうものでしょう。私が感じる大きな意義は、「出会い」であり、「何に」出会うかは人それぞれで、決まっていない為に予測できないできないと思います。それは自分が感じ取るものであり、評価も自分なら行えるが、他人には正確に評価しにくいし、客観的な(特に金額的な)価値に置き換えることも難しいでしょう。自分自身が感じ取らない限り、その価値は永遠に見出されないかもしれません。


そうはいいながらも、大学教育自体が需要と供給のあるものなので、供給側はある程度ニーズに応えていくべきではあると思います。それは、「就職指導をして欲しい」とか、「就職、進学等の情報提供をして欲しい」とか、そういった部分では応えていく必要が出てくるでしょう。将来の為に、「どのような(心の)準備をしておくのが望ましいか」ということも、求められるかもしれません。それは教えてあげる方が親切ではあります。社会常識とか一般の礼儀作法を教えてくれとか、無理な要求に応える必要性はないと思いますけれども。


仕事の「コモディティー化」ですか・・・


内田先生の記事を上の記事でも取り上げましたが、その中では「『文学部』という名称を残すことのできた大学」が「大学らしい大学」なのであり、「大学らしくない大学」というのは「文学部がない大学」ということでもあります。実学系の大学とか単科大学というのは、大体がそうですね。これらは、大学としての最低限の条件を備えていないので、淘汰されても仕方がない、ということでしょう。多くは、歴史のない、老舗でもない、ブランドも確立していない、新規参入の新設校が多いでしょう。universityとcollegeの元々の語源は正確には知らないのですが、感覚的には「Philosophiae Doctor」を生み出せる―つまりはphilosophyを学べる(当然、philosophyのある)―大学こそがuniversity なのであり、それ以外の「大学らしくない大学」(=単なる「カレッジ」)こそが淘汰されるべきである、とも受け取れるのです。このことは、地方の多くの無名私立大学での現況を示しており、地方から大学が消えるのはこの意味でもやむを得ないのです。「philosophy」なき大学は、そもそも「大学らしくない大学」なのです。


それと、内田先生が重きを置いている、「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」という価値も、大都会の「有名私立」(勿論「マンモス校」も少なくない)がまさにそれにピッタリと当てはまっているのであり、それ故、特定の「有名ブランド私立」が寡占状況をつくり、地方の無名私立大学を駆逐していく原動力となっているのです。歴史ある伝統校で、ブランド力もあって、無名校を駆逐する立場(university)であるとすれば、「大学らしくない大学」が淘汰されるのを果たして拒んだりするでしょうか。老舗校が自らの定員を割いてまで、死に行く「大学らしくない大学」(主にブランド力のない新設校でしょうね)に定員を回し、助けたりするものなのでしょうか。

「老舗力」「ブランド力」「人的ネットワーク」の強さが、他の「大学らしくない大学」を確実に淘汰へと向かわせる、最大の暴力であるということは、ほぼ間違いないと思います。それを世間一般の人々が認めてるからこそ「ブランド校集中」が起こるのであり、それを欲しがるからこそ「学生の寡占」を生じるのです。


戻りましたので、追加です。


大学での学業成績を重視した採用を求めるのであれば、企業の採用試験には「超難問」とかを課すのがよい、ということにもなりかねず、それはまるで大学受験が再び行われるのと同じようなものであり、そこでの新たな受験競争のようなものが生み出されるだけなのではないかと思えます。勉強だけで評価したりすれば、「受験地獄」だの、「知識偏重」だの、批判が数多く出されてきたのではないでしょうか。それこそ、ペーパーテストだけはできるが、「缶詰も開けられない」とか、「足が4本のニワトリを書く」とか、「満足に挨拶もできない」とか、そういうのが過去に散々出尽くしてきたので、「学歴偏重は問題かもね」「出身校依存は止めましょう」みたいになってきて、そういう中で「コミュニケーション能力」というのが重視されてきたのであって、学業一筋で頑張ってやっていても自己努力でそういう「必要とされる能力」を身に付ければいいのです。別に、学業を放り出してまで、バイトに精を出せとか、部活に打ち込めなんて、誰も頼んでもいないのです。どんな方法であろうと、需要側の要求を満たせるような能力を培っておけばよいことです。それが備わっていないのであれば、採用から漏れても止むを得ないではありませんか。


「自分が努力してきた道」を評価して欲しい、ということは理解できるのですが、努力してきた過程と得られる結果とは必ずしも一致するとは限らないのではないでしょうか。例えば、オリンピック代表選手を決める時にも、努力をどれほど続けてもダメな場合も多くあると思います。殆どの人たちは、自分の努力を評価して欲しいと願いつつも、冷酷な結果が出てくると思います。自分がどれほど「頑張ったんだ、やれるだけやったんだ」と思っていても、時の運もあると思うし、無残な結果が待っていることも多いでしょう。他の誰かが獲得してしまえば、自分にはそのポジションは与えられることはないのです。それは、自分なりの評価とは全く別なものであると思います。仕方がないのですよ。大企業の新規採用枠にしても、数に限りがあるのですから、「努力した全員」には与えられるものではないのです。プロ野球の1軍選手になれない限り、一軍の試合には出られないのです。一軍の選手の数には限りがあり、努力したからといって全員が一軍選手になれるなんてことはないのです。


全て客観的な指標で採用を決めてくれ、ということも、どのような指標を用いようとも、不満が出るのではないかと思えます。それに、人物を正確に表わせる指標なんて、簡単に作れないのではないかと思えます。採用側の時間的な問題とか、労力とかコストの問題などもあって、完璧な人物評価なんて難しいと思います。自分が「大学の勉強は誰にも負けない、人の何倍もやったんだ」という強い自負があるのであれば、それを最大限アピールすればよいのです。「私はバイトに精を出しました」という人と、「私は○○学の勉強には自信があります」という人がいて、どのような人物を選ぶのかは採用側が決めることです。


結局のところ、自分がこういう勉強の仕方でこんなに頑張ったんだから、「努力の対価として、こうして欲しい」という、何らかの成果を暗に求めているのであり、「真理探究」には不似合いな話なのではないかと思えます。本当に真理探究を目指すのであれば、自分が他の仕事をしながらだろうが、何十年かかろうが、「何の対価も求めず」ただひたすら探求を続ける、ということだと思います。それが学問ではないかと思います。



大学教育の未来

2006年07月29日 18時16分41秒 | 教育問題
これについては色々な御意見があると思いますが、私の考え方を書いておこうと思います。

Sankei Web 社会 私大定員割れ40% 地域・規模、二極化進む0725 0828


まず、全国的な私立大学の定員割れですけれども、こんなことは既に20年以上前から判っていたことです。出生数の減少トレンドが続いて行けば、将来「学生の奪い合い」となるであろうことは明白です。このような事態はどうして起こってきたのかというと、恐らく次のようなことではないかと考えています。


団塊ジュニア世代は同年齢人口が多くなっていることは明白でした。それ以前の世代では同じ学年に150~160万人程度しかいなかったのに、これが190~200万人に増加するのですから、同じ進学率であっても実需は大幅に増加が見込めたのです。丁度今の30~35歳くらいの世代ですね(小学校・中学校・高校時代にも、教室が足りなくなったり、校舎を拡大したりして対応したと思います。今では半分くらいの出生数に落ち込んでいますから、校舎の統廃合が進むでしょう)。仮に40万人増加(160→200万人)で進学率をどちらも同じ40%としても、16万人の入学者増があったのです。実際には、給与体系の違い(高卒と大卒では明らかな違いがあった)もあって、進学率自体が増加したはずです。つまり、同年齢人口の増加+進学率増加で、実需は大幅に増加したのです。


このような環境でしたので、一種の公共事業的な新設校・学部新設が相次ぎました。「地方にも大学を」という陳情が多くなり、町おこし・村おこしみたいな感じで、文部省の認可を取り付けたがったはずです。そりゃそうですよね。学校が作られることで、潤う部門も当然あるのですから。用地取得、多額の建設費、新たな雇用人員、下宿や食堂などの需要・・・色々とあったはずですね。特に、事業規模が数十億円にもなる場合もあったかもしれませんよね。そうした事業は部分的には補助金なども投入されたりしたかもしれないですね。なので、地方にも私立大学というのは増えていったのではないかと思います。学校側は「入れ物」を用意してさえいれば、大した努力も苦労もせずとも、学生は集まってきたかもしれない、ということです。そういう時代だった。


ところが、こうした定員大幅増という恩恵も長くは続かず、次第に同年齢人口は減少していくので、いずれは経営的に苦しくなることは容易に予想されました。初めのうちは、進学率上昇ということで実人数(同年齢人口)減少分はある程度カバーできたでしょうが、それも限界がやってきますよね。


昔みたいに、「女の子は短大を出て、ちょっとOLで勤めた後、社内恋愛で相手を見つけて結婚」というような状況は、少なくなっていったでしょう。「女性も社会進出を」「男性と対等に仕事をしよう」という意気込みで、かつてのように「女子には高学歴・学問はいらない」というようなこともなくなっていったでしょう。そういう流れもあって、短期大学は4年制大学へと変更され、女子大は共学に変わり、単科大学は総合もしくは複数科へと変わっていった。これらは、全て「学生数が減少する」ということへの「対策」として行われた面が強かったのではないだろうか。団塊ジュニアのピークが過ぎた後には、生き残り競争がスタートしていたのだ。


一方、高卒で直ぐに働く人の割合が減少していき、世の中の風潮としては、大学に進学するか、目的があってもなくても専門学校に入ってとりあえず1~2年過してから就職する、というような感じが増えたのではないでしょうか。なので、学生数は減っていくが「専門学校」は新設が増えて、こう言っては失礼だと思うが、あまり役に立たない「実践的知識」を植えつけたり、就職できないけれど「職業的技能」を仕込んだり、ということが行われているのではないかと思いますね(案外と理解に苦しむような、意味不明な専門分野もあったりしますし)。まあ、専門学校を選択しているのは、学生さんの自由だと思うし、それが将来には無関係なことであっても、本人さえ望むならばそれでもいいとは思います。

参考記事:内田樹の研究室 「日本のへそ」で教育を論ず

それから、有名私立への集中ですけれども、これも就職難とかの影響もあるのかもしれませんが、「ブランド志向」というのは強まっていて、「皆が有名大学に殺到する、有名大企業の求人に殺到する」というようなことになっているのかもしれませんね。ここからこぼれた人たちは、負け組だか無業者だか(?、こういう区分には意味がないと思いますが、一般的にはそういうようなことが言われてたりするので)になったりして、格差とかの根本にある、というようなことなのでしょうか。無名の地方私立なんかを出ても、地元で仕事があればいいのですが、それも厳しかったりして、有名企業への就職なんかは「夢のまた夢」みたいになっちゃってるのかもしれません。大企業への就職自体が、たとえ有名私立大学を出てる人であっても、中々困難であったのかもしれませんよね。全国的には有名な日大とか東海大とか、そういうマンモス大学を出た人たちがどのような就職があったのか、とかは知りません。


このような推移の中で、全国的に私立大学の定員は増加し、同時に教官の需要もそれなりに増加したのではないかと思われる。即ち、大学そのもののある種の「粗製濫造」という側面と、そこでの「大学教員の質」がどうなったのか、という問題は起こってきたに違いない。仮に、全国に「大学教授」が300人しか存在しなかった時代と、3千人存在する時代では、その水準は大きく異なるであろうことは推測できる(今、何人位いるのかは知らないです)。人間の能力の分布が、20年程度の違いによって大きな変化があるとも思えないが、もしそうだとすれば、昔は極めて少ない、全人口の上位数%の研究者のみが教授であったのに、今ではその枠が下方に大きく広がって、なおかつ平均水準が低下している可能性はあると思う。これは他の大学教官も含めてそうなってしまってるかもしれない。就業する際のハードルが下がった、ということでもある。


このように振り返ってみれば、大学が増えたことで入学者も増加し、教官も増加したのだが、それは人口構成の上では範囲が広がったのであり、教育を受ける側の学生も、提供側の教官も、平均水準は低下してきた可能性が考えられる、ということである。今は、何とか学校法人の食い扶持をつなぐために、昔の「短大→4年制」としたのと同じく「大学院重点化」を行って、1人の学生の就学期間を出来る限り延長することで「1人単価」を上げてきたようなものである。それでも、今後の学生数減少は止まらないので、必ず淘汰される学校は出てくる。専門学校も同じだ。海外留学生を大量に入れる、とかならば、多少は補えるかもしれないが(確か事件になったと思うが、中国人が入国だけを目的として大量に大学入学を果たし、殆ど学生が通って来ないような大学もあった)。


で、大学が存続していれば、質の低下した大学教育提供側である教官も残っているのであり、そういう人々はかつての「団塊ジュニア」世代対応時期に大量に採用・供給され、学生数が減少した今でも残ったままなのだ。学生の人数が減ることで1人当たりの対応を充実させ、学生の能力向上に努めたりするならば、就職も割りと良くて、学生や企業の評判がいいかもしれない。だが、何も取柄の無い大学ならば、学生は減っていくに決まっている。そもそも、大学のブランドなんかを信頼するのがよくないのであれば、伝統校だろうが無名校だろうが関係なく、提供される教育の質で決められるべきであろう。内田先生が憂慮するような、大都会の学生を多く集めている大学は、それなりに歴史ある伝統校でメジャーなブランド校なのであり、地方の新規参入組の私立大学を死に追いやっている張本人とも言えるであろう。


三流学者風情が、ぬくぬくとぬるま湯に漬かり、見かけだけは教授だとか何とかのポストを与えられ、実際には何の論文も著作もなく、これといった研究もないという程度の教官はゴロゴロいるわけで、かといって「教育の質」がとりわけ他の人よりも高いのかと言えば全然そんなことはなくて、そういう大学や教官たちが淘汰を免れることにあまり意味はないと思う。大学教育を義務教育にでもするのであれば、人気低迷校さえも生き延びられるかもしれないが。



やっぱり書くか・・・総裁選

2006年07月28日 21時13分36秒 | 政治って?
これまで色々と書いてきたのですけれども、かなり以前からお読み頂いておられる方々は、よく御存知かと思います。えーと、私は安倍ちゃんは次の総裁にはならない方が望ましい、ということを申し上げてきました。次の参院選挙の結果次第で退陣する可能性があるからです。それに、年齢的にはまだ余裕がありますからね。あと、閣僚経験が少なすぎるのも、ちょっと不安ではあります。


となれば、麻生&谷垣のどちらかを推すということになりますが、どっちもどっちでありまして、まあガンバレとしか言いようがありませんね。後は好みの問題なのではないかと思えます。


麻生親分は、親分肌なので(笑)なかなか話の判る、いかにも政治家、って感じですね。外務大臣ではそれなりに成果を挙げ、頑張ってると思います。でも見た目がちょっとコワイので(笑)、女性票が取りにくい、ということはあるかと思います。「のだめ」が好きらしい、ということを知り(田中先生が書いてました)、我が家でも大人気(今のところ一番人気)の作品なので、またしても親近感が湧いてきました(笑)。


谷垣くんについては、かなり以前からコソーリ応援してあげていましたが、政策的には「財政一派」なのでちょっと困っています。しかし、人間的には好感が持てるし、堅実路線には合っていそうな感じですね。なので、公明党や財界からも支持を得やすい、とは思います。が、やや力強さに欠け、一般大衆の人気が薄い(笑)ので、厳しいカモネン。モロに「官僚っぽい」ですね(ホントは弁護士だったのに)。その為?なのか、霞ヶ関では一番人気、ということらしい(笑)。


最後に、安倍ちゃんですが、何だかんだ言って、やっぱり「人気」はあるし、それに便乗したい人たちもたくさんいると思うね。かなり資金力もあるようですけれど、落とし穴が待っていそうで心配ではあります。気をつけてね。これまでにも週刊誌などから、かなりターゲットにされてきたようで、可哀想な面もある。反安倍勢力の「暗闘」というか、ブラックゾーンが有り得そうで、ちょっと不気味ではある。
責任取って、幹事長を辞任したのはこの前の参院選だったことを思い出すべきではないかと。「相性」って、きっとあるからね。どういう訳だか、特定の勝てない戦い、というのがあったりするものですよ(株も同じかも。相性悪いと、必ず損する銘柄ってあるように思う。なんでか判らんけど)。来年7月頃の景気動向も影響が大きいと思う。そんなに長く好景気が続く?後退局面だったら、与党側は勝利が難しいと思うよ。むしろ「待望論」の中で登場する方が、有利ではあると思えるが。


どうなるんでしょうか。



信頼される組織・制度は

2006年07月28日 17時25分12秒 | 社会全般
sociologicさん経由で知りました。日本で最も信頼される組織は、新聞・雑誌だそうで、良かったですね>新聞業界の方々。となれば、是非とも頑張ってもらわにゃ(笑)。

図録▽世界各国における組織・制度への信頼度


「行政」の29.4は、ロシア以下。何と言うか、悲しいわな。イメージ的には胡散臭い、ワイロ横行みたいな理不尽な感じがするロシアですけれども(かなりの先入観というか、個人的バイアスと思って下さい)、それ以下の信頼って、なんか厳しすぎな気もしますが、仕方ないのですかね。笑えるのは、「国会」が下から2番目の19.7。これは辛うじてロシアよりも上だが、韓国、ロシアに続いて3番目。韓国の最低もダントツに酷いけどね(でも韓国の行政は63.8と高い水準だ。何故なんだろう?)。


とりあえず、日本の国会議員の先生方は、30以上を目指しましょう。余りに悪すぎだよね。約束をきちんと守ろうよ。
それから、行政ですけれども、ワースト5くらいからは抜け出せるように頑張ろう。できれば50くらいまで行けるといいよね(笑)。


どうして、国会や行政への信頼度が低いかと言えば、常に裏切られてきたからだろうね、と思う。条件反射みたいなもんかな、と。それか、新聞・雑誌の陰謀?(笑)誤ったイメージ形成に成功しちゃった、とか?もしもそうであるなら、メディア恐るべし、だろうけどね。厳しく追及する新聞=善、いつも腐敗や失態を追及される議員や行政=悪、の固定化された印象があるのかも。これって、もしかして、所謂ひとつの「impression management」戦略の一部?なのかも。比較的長い期間に渡って、繰り返された結果かもしれません。汚職とかの秘密などを暴いてきたのは、やっぱりメディアだった、という評価をしている人たちが割りと多い、ということかな。


それと、日本だけ特徴的なことは、宗教団体が非常に低く、逆に「カルト」とか怪しげな「新興宗教」の蔓延る余地が多くて、これがマイナスのフィードバックとして作用し、諸外国に比べると、このように「図抜けて」(笑)低い結果になっているかもしれませんね。これも戦後トラウマの一種の結果なのでしょうか?ちょっとよく判りませんけれど。社会学的な解釈としてはどうなんでしょうか。



消費税議論の欺瞞

2006年07月28日 12時48分52秒 | 社会保障問題
以前から注目していた谷垣くんが総裁選出馬を表明したんですけれども、今回は男らしさ(笑)を出していますね。それは康夫さんが消えた今、「反靖国」「柔軟外交」路線を引き継げる者が、谷垣くんしか残されていないからですね。安倍ちゃんや麻生親分だと、どうしても強硬路線を心配する人々が出てくるわけです。これはやむを得ない面はありますが。

なので、昨日・今日の谷垣くん出演番組では、特に「報ステ」「朝ズバ」なんかだと、「谷垣待望論」的な好意的評価が多かったように思う。これはこれで、ある意味成功のカギかもしれんね。対立軸を「外交」に置いて、国内の改革路線は小泉改革を踏襲しつつも、「財政再建」「地方再建」を掲げるということで色を出すということができる、ということですね。毎日・朝日系は概ね「財政再建」に強い関心があるためなのか、「消費税を10%」に拒絶反応どころか、むしろ「歓迎ムード」を醸し出していて、ちょっと気味が悪かった。少し前ならば、「庶民の生活を苦しめる消費税アップは絶対に阻止せよ」みたいな感じになるとことではないかと思ったわけですが。


スタートでは、谷垣くんは無難にいったと思いますね。総合評価としては、悪くはなかった。外交の「融和路線」+「財政再建」派をまとめられれば、これはこれで一つの軸にはなると思った。特に消費税に関しては「先に言った」ことで評価されたということにはなるが、実際にどうなるかは判らないね。康夫さんが消えて、「乗る馬」を失った人々は、公明も含めて「谷垣くん」に外馬ということはあるかもね、と。私の個人的評価としては、元々高かったのですけれども、いかんせん世間の人気がないので、どうでしょうか。


話は変わりますが、「基礎年金の国庫負担2分の1引き上げ」ですけれども、これも今までにも何度も書いてきましたが、「増税」で財源を確保するのは絶対に許さんからね。与党は何をやったか、よく思い出してみるんだな。公明党の腐れ改革案に強引に引っ張られて、強硬採決したんだからな。「百年安心年金」なのだから、公約通り、それを実践せよ。できもしないくせに、法案を強引に通したのかね?そんなこと、絶対に許さないからね。

参考記事:赤字は続くよ、どこまでも~


04年参院選挙の最大の争点であった「年金改革」では、国庫負担引き上げ財源は「国民的議論」とか、ふざけたことを言っていたのではないですか!!選挙前には民主党が「消費税を充てる」と主張した時、自民党は「それは安易な増税だ」みたいに言ってたでしょ。民主党が「じゃあ、自民党は財源どうする気なんだ?」とツッコンだら、「消費税を上げるとは言ってない」とか主張したんでしょ。それを受けて年金改革関連法案を無理矢理通したんだから、責任取れよ。国民は参院選挙の時に、与党の年金改革案ではダメです、という意思表示をして、その結果民主党が勝ったんでしょ。国民の多数派の意志表示を無視した挙句、これで「年金は改革したんだ」というポーズというか、やったフリをしてるだけでしょ。ふざけるな、と言いたいね。与党は嘘つきだよ。都合のいいことしか言ってないでしょ。メディアも物忘れが激しいのか、何でそういうことを言わないワケ?これこそツッコミどころでしょ?


今更になって、「基礎年金の国庫負担引き上げの財源は消費税を充てる」なんてことは許せるワケないでしょ。政権交代でもして、前は自民党じゃなかったのならば仕方ないよ。でもね、政権執ってたのは同じ与党なんですから、約束を守れよ。


特に、公明党、腐れ改革案を通した責任を取れよ。
基礎年金の国庫負担引き上げ財源には「消費税アップを絶対に使わない」と豪語したのは、公明党じゃなかったのか?死んでも、その約束を守れよ。それを信じた国民が投票したのは、僅か2年前だ。もう忘れたのか?財源には、「定率減税の縮減・廃止、年金課税の見直し等」で引き上げ財源とする、ということにしてたんではなかったか?国民を騙したんでしょ。与党は、こうやって国民を欺き、その時々で勝手な都合のいいことを言い、忘れた頃を見計らっていい加減な適当な理由で増税や保険料アップや負担増を強いるのでしょ。「定率減税」は既に縮減されてるし、廃止も決まってるのだから、これ以上「国庫負担引き上げ財源」としての”増税はない”はずだ。あるとしても、福井総裁みたいな高額年金受給者の「課税強化」くらいですか?(笑)


調子よすぎ。後から、「実は財源はないので増税します」じゃ、バカでも考え付くことでしょ。政策だけ先に決める、予算が足りなくなる、なので後から「金出せ」って、こんなやり方がありますか?

例えば、カラスが回収前のゴミを散らかすので、地域住民で「カラス除けゴミ収集箱」を設置しよう、ということにして、費用は住民の会費から捻出することにしましょう、って決まったとする。この案に反対していた人たちは、「後から会費が上がるのは困るので」と主張していて、これを説得する際に「新たに会費は上げなくても捻出できますから」って言っておきながら、実施した後になって「やっぱり費用がかかるので会費を値上げしますから」って言ったら、これは詐欺みないなもんではないですか?誰でも言えるよ、こんなの。アホか。


というわけで、国庫負担引き上げ財源として「消費税増税」は許さない、絶対に。約束を守れ。


三党合意があるのだから、社会保障の一体改革(年金一元化は当然含まれる)、それに伴う税制・保険料等の一体的見直し、これをやらない段階で、消費税増税なんて許されない。国民を欺くのはいい加減にして欲しい。



出生時の過誤と裁判

2006年07月27日 21時33分41秒 | 法と医療
ここ最近、産科関連の話題を書いてしまっていますが、また、今日も取り上げることになってしまいました。


まずは、読売新聞の記事から。

医療事故…訴訟経ず補償 「過失立証」負担なくす ニュース 医療と介護 YOMIURI ONLINE(読売新聞)


ここで問題として提示されているのが、「脳性マヒ」です。裁判では決着が難しい面があり、ADRによる解決を考えた方がいい、という意見もある、と。

例えば、不可避であったかもしれない障害であっても、当事者(親や産まれた子)にとってみれば、一生残されるものなので、悲しみや傷が深いというのはそうなんだろうな、とは思う。しかし、極端に言うと、助かってしまうことが、こうした悲劇を生む可能性もあり、難しい問題ではある。本当の過誤である場合もあるし、立証というのは難しいことではある。でも、ADRが存在することで、ミスがある時であっても、何が問題であったのか明らかにされなければ、同じようなミスが起こってしまうかもしれないし。


「裁判所判例Watch」でも、新生児の医療過誤訴訟が出てた。

平成15年(ワ)11466号


因果関係は別としても、疑わしき場合にはやはり訴えられる可能性はあり、判断が難しい場合も結構あると思う。しかし、その責任を負うのは医療側の責任であるから、仕方がない部分でもある。この訴訟のように、「助産師」がいて、産科経験20年以上のベテラン准看護師(過失を問われた)もいて、それでも、問題が発生する時は発生するのだ・・・・。


母親というのは、だから偉大なんですよね。
こういうのを乗り越えて(あくまで発生リスクなんですけど)、子どもを産むから、そりゃ「母は強し」にもなるわね、と思ったりする。

男には到底無理っぽいね。私なら「気絶」しちゃうかもしれんね。



ゼロ金利解除に関する見解をいくつか

2006年07月27日 20時33分24秒 | 経済関連
まず初めは、コレ。

ゼロ金利解除、NBonline読者はこう見る NBニュース:NBonline日経ビジネス オンライン


NBonline読者層からの回答。この回答者たちの半分以上が「解除反対」ということのようだ。恐らく、大半は素人なのではないかと思うが、中には金融エコノミスト、経済学者や金融トレーダーといった専門性の高い人も混ざっているかもしれない。まあ、殆どいないと思うけど。


続いて、前に取り上げた「早稲田大学商学学術院」ですけれども、前の時には「貸金業の上限金利問題」でしたね。坂野教授に反論してみたんです。甚だいい加減な記憶ではありますが、アコムの社長あたりも、この坂野論説をベースにして、「1千万人以上借入できなくなる説」を唱えていた(笑)ような気がしますが、その後この論説支持者たちはどうしたのか気になるところではあります。まあ、アドバイスとして非常に明確であった経済学院生さんの「教科書嫁」同様、「経済学の勝利」宣言だけは誰でも出せるわけですが。


横道に逸れましたが、今回は谷内満教授の「ゼロ金利解除は長期好況への第1歩」と題する論説がありました。

広告特集:早稲田大学


両者の結果を考えれば、方や「早稲田大学商学院教授」の肩書き、方や「ネット上の一般読者層(の統計調査)」ということで、意見の信頼性というのが判断されがちなのではないか、と思えますね。後者のように、「大衆」がいくら考えても無意味だ、どうせ正しく考えられるはずがない、という主張の方々は、必ず「ゼロ金利解除」を支持するでしょう。何てたって(ア~イド~~ル)、経歴も申し分のない、経済学の「教授さま」が言うわけですから。所詮、衆愚には衆愚の、誤った愚かな考えしか浮かばんのですから、時間の無駄ですね。早稲田教授も、日銀総裁も副総裁も審議委員も、その他多数のエコノミストも、みんなが「ゼロ金利解除は正しい」と言っているのに、一般人が「解除反対」という方が「どうみても間違ってる」のではないですか?(爆)これも同じく、「教科書嫁」でしょ?


ところで、どういう訳だか、表示が変になってしまっています。asahi.com の広告特集だったのですが、以前のように表示されないんですよね。画面上の表示が変になっているのは、ひょっとして私だけでしょうか?理由がわからんのですね。メインテナンスとかの影響・・・?



総裁選候補の取り沙汰にあきれる

2006年07月26日 23時54分15秒 | 政治って?
先日の福田氏不出馬表明で、何とかネタを作りたい動きが出てきているのか、色々な名前が新たに出てきているようです。この話題については意図的に避けてきましたが、一応ちょっと触れておこうかな、と思います。


まず、爆笑なのが、ヤマタクさんの意欲です。前にも書きましたが、もしも自分が立つべきだと本気で思っているならば、相当「感性」がズレていると思いますね。仮に、ご自身が総裁になった場合に、選挙をどうするのでしょう?自民党を潰すおつもりでしょうか?(笑)
女性票は全く来ないと考えた方が宜しいかと。懐かしの「YKK」の加藤さんも当面表に出ないようにしていた方がよろしいでしょう。


あと、最近額賀さんのどうのこうのが出てますが、パフォーマンス狙いだけならば、止めた方がいいと思いますね。総裁も、幹事長の目もないと思いますけどね。防衛庁長官としてそれなりに力を発揮しているのかもしれませんが、派閥の一致結束を賭けられるほどではないということだと思います。久間さんの「オリンピックじゃないんだから」というのは、面白い。「たまったもんじゃない」というのは率直なホンネだろう。

asahicom:久間氏、額賀氏擁立に消極論 自民総裁選-政治

(記事より一部抜粋)

『自民党の久間章生総務会長は26日、福岡市で講演し、9月の党総裁選について「総理にノミネートするだけでもいいと言う人もいるが、応援する方はたまったものではない。オリンピックと違って、出りゃあいいというものではない。勝たなければならない」と述べた。名前こそ挙げなかったものの、所属する津島派内で浮上している額賀防衛庁長官の擁立論に消極的な姿勢を示したものだ。』


鳩山邦夫さんの話もチラッと出てるようだが、話題作りでしょ。こういうのって、ひょっとしてメディアの注目を繋ぎとめる為のメディア戦略の一種なのかも?とか思ったりしますね。多分そういう陰謀説は違うのだろうと思いますけど。でも、そうとでも思わないと、有り得ないような話ではないですか?


で、結局誰が残ってるか、と言えば、安倍ちゃんは当然として、麻生親分と谷垣くんでしょ。他の候補者は出ても、泡沫の一人で終わるでしょう。


靖国問題は争点に成りえないと思いますが、一部ではそう考えていないのかもしれません。その為に、最近のスクープ情報が出てきてるような気配もあります。何か政治的な意図を感じてしまいますね。

日本人がよく考え、議論することは意味があると思いますが、海外に―特に中韓に―あれこれ配慮が云々とか言うのは、ちょっと変だなとは思います。私達日本人がそれほど真剣に考えたり、情報を正しく知っているとも思えないですね。


靖国問題は別としても、日本人が本当に先の大戦で中国大陸でどういうことをしてきたか、ということは考えておく必要はあると思います。ごく一部には、犯罪行為はあったかもしれませんが、多くの日本人はそうではなかったのではないかと思っています。戦後に満州から復員してきたり、日本に戻ってきた人々が非常に多かったこと、中国残留孤児が非常に多かったこと、それを考えれば、開拓とか事業で満州に行っていた人々の多くは、中国大陸に多くの利益をもたらしていた面が多かったのではないかと思えます。

普通、鬼のような所業を重ねる「悪い日本人」ばかりであったなら、終戦後に日本人が生き延びられることは絶望的だったろうと思いますね。それこそ恨みを晴らす為に、「袋叩き」「リンチ」に遭ったはずでしょう。一般の中国人は日本人を保護する理由も義務も大してなかったはずですから。ましてや、「日本人の子」を自分の子として育ててくれたりすることなんて有り得ないはずではないでしょうか。

逆に、多くの日本人は、中国人たちと伴に困難な開拓事業とか農作業とかをやっていったりして、苦楽を伴に過ごしたりしたことが多かったのではないかと思えます。日本人に感謝していた中国人は少なくなかったのだろうな、と。それ故、子どもを置いて行かねばならないような状況に陥った時に、中国人が助けてくれたり預かって育ててくれたりしたのかもしれないですよね。日本人を心の底から憎んでいたら、必ず殺すと思うけどね。当時のことを知る訳ではないですが、人間の行動や考えというのは、そういうものではないかと思えます。




続・一酸化炭素中毒死を考える

2006年07月25日 22時18分01秒 | 社会全般
うーむむむ、先日ブログに書いたことにちょっと関連する記事を見つけたので、取り上げることとしたい。

参考記事:一酸化炭素中毒死を考える


Yahooニュース - 毎日新聞 - CO中毒 相次ぐ事故 夏場も要注意

中身としては、一酸化炭素中毒の注意喚起ということで良いと思うのですが、一方でちょっと疑問というか、??よく判らない部分があったので、一応書いておきます。


毎日の記事から一部抜粋しますと、次の部分ですね。

『専門家によると、体内では血液中のヘモグロビンが酸素と結びつき、体内に酸素を運ぶ役目をしている。COはこの役目を阻害する。ヘモグロビンとの結合しやすさは酸素の10分の1だが、一度結合すると酸素の2500倍離れにくくなるためだ。つまり、一度体内でCOが増えると酸素不足になり中毒症状を来す。』


このように説明されているわけですが、ヘモグロビン(Hb)が酸素との結合しやすさと比べると、一酸化炭素(CO)は十分の一しか結合できない、ということなんですよね?本当なのかな、と思ったのです。


一酸化炭素 - Wikipedia

こちらでは、『一酸化炭素が酸素よりも約250倍も赤血球中のヘモグロビンと結合しやすい上、4つある結合サイトのうち1つが一酸化炭素と結合したヘモグロビン(カルボキシヘモグロビン)は、他のサイトに結合した酸素を放出しにくいためである。』という説明がなされています。

酸素よりも「250倍結合しやすい」というのと、「十分の一だが、くっついたら2500倍離れない」のと、どちらが正しいんでしょう?トータルでは250倍になっているんですけどね。


大体、他の多くの説明では酸素の200~250倍の親和性がある、というようなことのようです。


素人考えで申し訳ないんですけど、もしもCOが酸素の10分の1しか「結合しやすさ」(親和力)がないのなら、単純に同じ数だけくっつくには10倍の濃度が必要になると思うんですけどね。

例で考えてみます。
今、ビンの中に、Hbが10個あるとします。このビンの中に密閉されてる気体が、酸素とCOであるとすれば、同じ分子数が入っていると、酸素が9個くっつき、COは1個しかくっつきませんよね?つまり、普通の状態であれば、吸入する空気の中に含まれる酸素の濃度とCOの濃度が同じになって初めて、COはHbの1割を占拠できることになると思います。でも、これって、かなり無理なんでは?

吸入するCO濃度が酸素と同じ約20%もの濃度に達するわけがないですもん。大体、致死濃度が1000~1500ppmとかの非常に低濃度であるのに、何で1%とか10%とかまで生きて呼吸ができるのかな、と。おかしいと思うけどね。


もしも「200倍の親和力」ならば、空気中の酸素濃度20%に対して、COが0.1%あればいいので、こちらの方が妥当だと思えます。COがHbと解離しにくい、というのは当然で、親和力が強ければ解離も当然し難いわけですから。

血液中の溶解度が酸素よりもCOの方が10倍くらい多い、というのなら意味として判りますが、それでも血中に溶解するのとHbとの結合するのでは、Hbと結合している方が多いのではないかと思いますけど。


因みに、Hbには酸素分子が0~4個結合でき、この一箇所でもCOが結合してしまうと、残りの結合部位の酸素が解離しにくくなる為に、組織の低酸素が進む、ということだそうです。このCOをHbと離れさせる(追い出す)には、酸素濃度がCO濃度よりも200倍とか250倍必要、っていうことなら、整合性がとれてると思うな。

肌の色が「紅鮮色」になる、って前に書きましたが、これはCOがHbにくっつくとそういう色になるんだそうですよ。中々勉強になりました。



この毎日の記事の誤り(?)の原因は、専門家が間違えて説明したか、記者さんが説明を正しく理解せずに記事に書いたか、どちらかではないかと思いますが、どうでしょうか。でも、専門家が間違って説明をしたりするでしょうか?どうなんでしょう・・・・

「理系白書」が泣くような気がしますが・・・記者さんも少し勉強をしてみては?それか、記事に出す前に、「科学リテラシー担当デスク」とかにチェックしてもらうとか(笑)。


ほらね、ミスというのは、大体同じように起こってくるでしょ?色んなメーカーとかにメディアが「ツッコミ」するのと同じく、「第三者によるチェック体制をとっておらず、杜撰な管理体制だった」とかと同じではないですか?そっか、まだミスとは決まってなかったね。ごめんなさい。



ヘパリン過量投与で脊髄損傷??

2006年07月25日 13時47分37秒 | 社会全般
よく判らんが、この説明って当然なんだろうか?専門家はどうなんでしょ。

Yahooニュース - 毎日新聞 - <生体肝移植>女性に薬剤過量投与で重い後遺症 群馬大病院

(記事より一部抜粋)

群馬大学医学部付属病院は24日、生体肝移植ドナーの患者に薬剤の過量投与から両下肢まひの重い後遺症が残ったと発表した。森下靖雄院長は医療ミスと認め、「患者と家族に深くおわびする」と陳謝した。日本肝移植研究会(会長、門田守人大阪大教授)によると、生体肝移植でドナーに重い後遺症が残るのは初めて。

同病院によると、患者は群馬県内に住む50代の女性で、昨年11月に生体部分肝移植ドナーの手術を受けた。術後2日目に麻酔剤を流すための硬膜外カテーテルを差し込んだ脊髄付近から多量の出血があり、両下肢の完全まひが確認された。調査の結果、肺血栓などの合併症予防のための血液凝固阻止剤「ヘパリン」を通常の2~5倍投与したことにより、副作用の出血が増え、脊髄損傷を引き起こしたという。




この説明から推測すると、

)硬膜外カテーテルで術後鎮痛
)出血で硬膜外血腫が形成
)血腫による脊髄圧迫で両下肢麻痺

という風に解釈されます。

出血原因はヘパリンの過量投与によるもので、この為に硬膜外腔に多量に出血し血腫となったのと、カテーテル挿入部位辺りからの出血が確認された、ということだろうと思います(記事だけ見ると、まるでヘパリンが多く投与されると脊髄損傷が起こるかのように書かれていますが、薬剤の性質上そういうことはありませんよね?)。私には、この説明のどこが間違ってるとか正しいとか、判る訳ではありませんので、あくまで勝手な疑問を書いてみたいと思います。

・脊髄の硬膜外血腫は外傷性でも非外傷性でも起こり得るようですが、血腫の存在があったとしても直ぐに手術で減圧したり除去したりするとも限らない、ということです。自然に症状が軽減したりする場合もあり、血腫があっても必ずしも完全神経麻痺が残るとも言えないのでは?

・血腫が形成されてくると、圧迫が段々と強くなる為に運動麻痺が起こってくるが、それ以前は運動機能障害は存在していなかったはずで、患者自身が両足を動かせなくなることに気付く時点があっても不思議ではないのでは?術後2日目に出血に気付いているので、概ね術後24時間以内に起こったと思われますが、翌日時点では完全に麻痺してますから、血腫は早い段階で形成され、かなり圧迫が強くなっていないと完全麻痺にまでは至らないのでは?

<ちょっと寄り道:似たようなケースは日常でも感じることができます。それは正座を続けると、足の神経が圧迫されて、ジンジンしますよね。あれです。他にも、Saturday night palsy と呼ばれる現象があります。これは恋人に腕枕をしたまま寝てしまうと、翌朝その腕が麻痺してダラーンとなってしまう現象をいいます(笑)。昔に土曜日の夜に起こりがちであったため、このような呼び名が付けられたようです。これも腕の神経が長時間圧迫されることによって起こりますが、自然に回復します。>

・硬膜外カテーテルで鎮痛剤が持続注入されていたので、血腫が形成された後の痛みを感じることができなかった(脊髄が圧迫されると大抵は痛くなる)としても、痛覚のみのブロックが多いのでは?運動機能は残存していたのでは?(=術後、両足が一切動かなくなったら、普通は自覚できそうだけど・・・)

・ヘパリンの過量投与でカテーテル挿入部分から出血したのだが、術創からの出血は無かったのかな?普通は開腹手術だと思うので、切った腹の方が傷も大きいし、深いようにも思えるが?

・硬膜外カテーテルを挿入する時に起こりえる合併症には脊髄損傷があるが、機械的損傷を与えたという可能性はなかったのかな?

・術後へパリンを投与した理由に「肺血栓予防」と記事に出てるが、肺梗塞のような重篤な合併症は下肢手術などに比べれば、かなり少ないのでは?それに術後の肺塞栓は、長期(3、4日くらい)臥床のような場合に起こりやすいのであって、術後2日目でヘパリンがそんなに大量に必要?全身麻酔後の肺塞栓は1万件に4~5件程度の発生頻度なのに?

・ドナーはレシピエントに比べて早期離床が可能であるし、血管吻合もないので抗凝固剤管理は術後必須ではないと思うが?

・ヘパリンは、単に術後のラインを残す為に持続で流れてだけなんでは?

・ドナーの術中にヘパリンを入れてるなら、閉じる前にACTとか測ってプロタミンで拮抗してるのではないかと思ったりしますけど、にも関わらず、オペ室出て直ぐにヘパリンを大量に入れますか?


参考:
血栓 塞栓症についてTITLE



印象操作とは

2006年07月24日 21時07分22秒 | 俺のそれ
今まで時々ネット上で目にしていた表現、「印象操作」でしたが、素朴な疑問、「印象操作って何?」に衝撃を受けた。ガーン・・・・考えたことなかった・・・。自分の受けた印象では(笑)、「印象の誘導」とか、その言葉の通り「印象」を有利に操作することかと思ってた。何となくで使ってみたが、つい先日記事(格差拡大を海外からも心配される日本)に書いてしまったよ。


でも、finalventさんの疑問(finalventの日記 - 「印象操作」って何?)を見て、初めて気付いた。そうか、「印象操作」の意味なんて考えてなかったんだな、と。


調べてみました。すると、出てきましたよ。割と昔の用語のようだ。

Goffman.Eとその理論


社会心理学系統の用語らしい。自己呈示と印象操作ということで、1959年に登場してきた用語なんですって。日本ではもうちょっと後になってから、出てきた。「自己呈示」の戦術というか戦略の一種なんですってよ。


簡単に言うと、他人から見られた自分というのが、できるだけ有利な評価となるように自分を見せることです。そうなるような演技っぽいこととか、主張とか表現とか色々な行為を言うようです。


ちょっと勉強になりました。
私の書いたような用い方は明らかな誤用でした。すみませんです。


でも、TBできないよ~
気付いてくれることを期待します。無理っぽいか

「はてなID」持ってないからコメントも書けないし。



「子殺し」と「イジメ」の深層を考えてみる

2006年07月23日 18時18分27秒 | 社会全般
今回書く内容には、非常に問題のある部分が多く含まれると思います。ですので、読むのが躊躇われる場合には、読まない方がいいと思います。また、あくまで個人的妄想に過ぎませんので。


いまだに週刊誌、テレビ等のメディアを賑わせている秋田の事件ですけれども、こうした「子殺し」について少し考えてみることにしたい。昨日、新生児の死亡や嬰児殺しのことを記事に書いていて、ぼやっと頭に浮かんでいたので。イジメにも通じるものがあるような気がした、ということもあります。


迷信とか、古い「言伝え」みたいなのが昔はあったと思うが、これとイジメの関係について。


いきなりで申し訳ないですが、祟りだとか何とかで、昔は子どもを殺していたはずだ。それに、村八分のような絶縁状態というのは、必ずあったのではないかと思う。このような状態は何故起こるのか、ということについて書いてみる。


例えば、とある夫婦に子どもが生まれたとしよう。その子を取り上げた産婆が、子どもの容姿の異常さに気付いたとしたらどうだろう?その子は、何かの先天的疾患を有していたとか、奇形を有していたりしたとか、そういうことも多々あったのではなかろうか。多くの人は見たこともないような、異様な奇形というのは存在しただろう。そうなると、その噂は広まって、「あそこの家は祟られている」とか「因縁なんだ」とか、何かの理由を付けられて、イジメや差別に遭うことになってしまうだろう。しかし、これは人類の歴史の中での必然だったのではないか、と感じるのである。差別したり、村八分にしたりすることを肯定しているわけではない。でも、自然の中では、「強い遺伝子」を残していくことが必然なのであり、先天疾患や奇形を持つ個体が多く生き延びることは、後世にその遺伝子が残されてしまう可能性があって、それをできるだけ排除しようとすることは有り得るのではないかと思う。先天異常や奇形のある子は、すぐ殺されたのではないだろうか(たとえ殺されなくても、長生きは難しかったかもしれないが)。

他にも、村八分によって、伝染病の感染などが防がれていた可能性もあるのでは、と思う。どうして、できるだけ関わらないのか、日常の接触を避けるのか、ということを考えると、原因不明の伝染病であったりすれば、「祟りだ」という風にすれば、感染の広がりは免れるのではないかと。集団を守る為には、隔離しておくことが有利な状況というのが必ずあって、その結果が村八分とかイジメのような形態として残ったのかもしれない、と思う。


人間もそうだが、社会性を持ち集団で生活するような、例えばサルのような動物は、群れの掟を破るような個体はきっと排除されてきたに違いないと思う。そうでなければ、集団が維持できないし、逆に危険に晒されたり、生き延びることが難しくなるからなんだろう、と思う。なので、集団に背いたり、特に異質なものは、排除されると思う。そして、迷信や祟りだとか言伝えとして残されてきた慣習というのは、「特定の遺伝子を持つ個体を残さない」という掟の一部なのではないかと思うのだ。集団から半ば隔離された状態となって、その家に嫁にやる人も現れなければ、婿に迎えてくれる家もなくなるはずだ。すると、その家はいずれ断絶する。子孫を残せなくなるだろう。そうやって、遺伝子は淘汰されてしまう、ということになるのではないか。集団内での「異質性」が極めて高いことが、何かの「遺伝的問題」を反映している、と本能的にわかっているならば、そういうことも起こりえるのではないかと思える。それは、「イジメ」をする側には無意識に働く作用なのかもしれない、とも思う。勿論イジメられる側にも、特別な原因は思い当たらないのに、何故かイジメられてしまう、ということは起こりえるのではないか。


次に「子殺し」であるが、人間ばかりではなく動物にだってあるようです。サルも、ライオンも、ネズミも、親が「子を殺す」のですよ。ある種類のサルでは、ボスザルが複数のメスたちを支配していますが、別なオスザルがボスの座を賭けて挑んでくることがあります。その争いの結果、ボスが交代することになると、前のボスザルの子である子ザルたちをみんな殺すのだそうです。ライオンも同じ感じ。オスライオンは、数頭のメスと暮らしていますが、別なオスが戦いを挑んで勝つことになれば、前のオスの子は殺されることになるのだそうです。これらは、「強い遺伝子」を残すための選択システムの一種だろう。激しい闘争の結果「勝つ」ということが、「強いオス」の証なのであり、その遺伝子を残すことは「前のオスの子=ダメな弱い遺伝子」よりも優先されてしまう、ということだろう。弱い遺伝子は抹殺されろ、ということだ。それ故、子を殺すのだ。


ネズミの場合には一対のツガイになっているようだが、短命の為なのか、交尾すると必ず妊娠するらしい。で、動物学者が色々な実験を考えてやってみたんだそうだ。

いま、オスAとメスaが同じケージにいて、交尾したとする。普通はメスaが必ず妊娠することになる。ところが、交尾直後にオスAを取り除き、オスBにチェンジしたとすると、メスaは出産しないのだそうだ。オスAの子は産まず、何と自分で堕ろす(!)んだそうです(解剖して調べたんだと・・・うううっっ)。オスBはメスaがオスAと交尾してたことを知らないのに、何故かメスaはオスAの子を産まず、新たにオスBと交尾したらBの子を産むんだそうだ。不思議。

別な実験で、ツガイのオスCとメスcがいて、子どもを産ませたとする。そこで、メスcだけを取り除き、メスDを入れると、オスは自分の子どもを殺すのだ。本来自分の子であるのに、メスが変わると、間違えて「他のオスの子」と思い込んでしまい殺す。オスは基本的に、他のオスの子は殺すことになっているのだそうだ。今度は、オスEとメスeのツガイがいて、子どもを産ませたしばらく後で、子どもだけ他のオスの子に入れ替えると、子どもを殺さないんだと。メスeがそのままであれば、子どもが入れ替わっても判らんのだそうだ。


ウサギやイヌなどでも、母親が生まれて間もない子をかみ殺すことがあるようだ。他のメスの産んだ卵を破壊したり、子どもを殺そうとしたりすることもあるだろう。人間以外の生物においても、「子殺し」は普通に起こってしまう。それは過酷で、残忍な自然の選択システムに過ぎないのでしょうけど。人間だけがそうした本能を消し去れるかどうかは判らない。そのような激しい本能が、理性を上回ってしまうことを、どうやって完全に防げるか、というのは判らない。


ただ、人類が他の比較的大型の哺乳類に比べてこれほど繁殖してきたのは、宗教性とか哲学的な何かを獲得したからで、本能を克服するか乗り越える方法を身につけたからなのではないか、と感じるのである。それは、はるか昔、数千年前から始まった、「人殺し」の道徳的抑制ではないだろうか。それは次第に「子殺し」も減じていく結果となり、今のように個体数が膨大に増えることとなったのではないかと思う。強い遺伝子を残す為の冷徹なシステムよりも、はるかに多くの遺伝子を残すことに成功した、とも言えるであろう。例えば、釈迦が「殺すべからず」ということを、野蛮で無知な人々に教えてあげたり、十戒で示されたように殺生を禁じたりすることで、人間の作り上げた全く新たな人工的システム(=今の社会、世の中全般かな)が自然の厳しい選択システムを上回った、ということなのかもしれない。


これも一つの進化の過程なのかもしれないが、逆に繁栄を謳歌した恐竜の如く破滅に向かって進んでいるのかもしれない。それはもっと長い時間が経過しなければ、判らないことなのであるが。