いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「勘違いオヤジ」批判で悦に入る人々

2013年05月31日 17時30分53秒 | 俺のそれ
拙ブログでは珍しくコメントがいくつか付いていたので、少し返答を兼ねて書いておきたい。

>http://d.hatena.ne.jp/trapds/20130521/1369135374



まあ、色々と言いたくなる心情は理解しないではないが、愚痴とか不満を並べているようなだけであり、問題点の切り出しが出来ているわけでもなければ、解決策への糸口が見いだせるというものでもないように思えたわけである。


拙ブログでの見解というか、意見というのは、ずっと以前から書いてきたものであるので、今でもそう変わってない。


05年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/baae07ed57db4511c32df8608603fd26

05年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/28f4b449e685195bcf5d08df978095d1

07年1月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b058b803fc7e66e372bd2f29faaf651c

07年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d71241ca9dd677acd945bfc95554dc88



で、今更「若者には金がない」論を聞かされて、しかもその中心部分にあるのが「勘違いオヤジ層批判」なんかだと、一体いつまで「誰かを呪っているの」とは思うわな。

>http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20130519/1368967495



若年者の金がない、という意見があるとして、それをどう解決方法を見い出すか、という視点が欠けているように思うわけですな。


雇用環境を「広く改善」するには、最も重要と思われるのが「マクロ経済政策」ということであり、当方のような「昭和オヤジ」に批判の矛先をいくら向けても意味はない。ああ、昭和生まれ政治家のオヤジ連中を批判したい、ということかな?


若年層の収入が少ない、教育投資に多額の費用がかかる、といった点についても、かつてのように「早期就業」を社会全体で目指せば、それでもいいはすでは。或いは、元記事にも書いたような、教育費負担を社会全体で行う、という方向にすればよい、という考え方も出てこよう。奨学金拡充とか公的教育費拡大(授業料免除等)といったことが一つの方法として検討課題になるかもしれない。


そうした具体性のある考え方というのが、ほぼ窺われないという点で、件の記事の「恨み節」だけが印象に残るわけである。じゃあ、昭和オヤジの何をどう変えるようにすれば、問題は解決に向かうのだろうか?
それを実現できれば、女性たちは自由に生きて仕事や結婚についての不満などが出てこなくなるのだろうか?


当方には、そうは思えないわけだが。
旧態依然のオヤジを改造できたとして、女性たちが結婚できるようになったり、出産が増えたり、若年層の給料が上がるようになるものなのだろうか?

少なくとも、社会の中枢から昭和オヤジが退出するのは、そう遠くない将来時点では確実だから、その時にはきっと社会の問題の大半が解決していることだろう(笑)。



女性も平等にしろ、という要求は、必ずしもダメではないと思うが、全部を一緒にするのは、根本的に無理があるとしか思えないわけだ。だって、男は出産ができないから。生物として、体の構造が異なっているから。なので、同一にせよ、というのは土台無理な話なのだ。


女性をいたわれ、というのは、賛成である。だって、一般的に女性の方が男性より弱いから、だ。いや、当然ながら、当方のような「ヒヨワな男」よりもはるかに屈強な女性が存在していることは、認めるよ。だけど、総体的に見れば、男性は筋力なんかが強くて、女性よりも身体的有利さがあるわけだ。

スポーツなんかで、男女別の競技になっているのが「差別だ」というなら、同一条件で全部やったらいいよ。その意味があるとは思わないけど、そうしたいというのが女性の願いなら、男女平等でやったらいい。それで負けても文句を言わなければいいだけ。

将棋や囲碁の女流棋士は存在しており、一部は男性棋戦に平等に参加している人もいる。そこでは、勝負だから平等だし、賞金なんかの取り分も男性との競争だ。それに似た体制を社会全体で行いたい、ということであれば、それを実現するべく方法を考えて提案すればよいだけである。それが実現できれば、女性は結婚も仕事も自由になって、失業率も減るし給料も上がるし未婚率(ないし出生率)も減るし、女性はみんな幸せになれる、ということなら、その手段をきちんと考え出せばいいのだ。


そして、社会の多くの人々を説得できるだけの根拠や提示を行えばいいだけなんじゃないのかな。けど、女性の立場が云々、と言っている女性の多くは、そうした説得しようという意思も感じられなければ、正確な論理的根拠なり議論というものを示そうという姿勢もないように見受けられるわけだ。あるのは、ただひたすら「オヤジが悪い」みたいな恨み節だけだ、と言っているのだよ。それじゃあ、誰も説得などできないんじゃないか、って話だな。



当方からすると、まず議論の前提として、「男性と女性は違う」「違って当然」というのが出発点ではないかと思うわけだ。だが平等主義者?の女性たちにとっては、それが認め難い、ということなのかもしれない。だったら、女性特有の理由で立場を保護してもらうような制度を全廃すべし、と言うべきではないのかな、と。


女性は男性に比べて「弱い」という立場であるからこそ、守るべし、なんじゃないのか、という話である。救命ボートに乗る順序を、子供、女性を優先、なんてのはやめるべき、ということだな。子供の次は、男女平等にクジを引け、だな。
狩猟の役割も、男女平等で、みたいなもんだ。男が狩猟に出かけて、女が集落で子育てや家事を行う、というのが気に食わないらしいので、男女平等に戦ってこい、というようなことだろうね。まあ、女性みんながそうしたい、というなら、やってみればいいと思うけど、本当にそんなことを望んでいる女性が多数派なんだろうか?

世の大多数の女性が、「男に行かせるより、自分がハンティングに行く方がいいわ」と考えているのか、ということだ。それは他のどんな仕事でもいいわけだが。女性が自立せよ、みたいな話にしたって、昔は女性は高卒だろうと働いていたわけで、自分で稼いで親元から離れて生活していたのは珍しくなかったろうから、今よりも「金銭的自立」度は高かった可能性だってある。



疲れてきたから、もうやめる。
自分でも書いてることが支離滅裂と思うが(笑)、要するに、文句ばかり言って他人のせいにしたり、何かのせいにして、「オヤジが悪い」みたいな話に逃げ込んだりするだけなら、そういう言説を他人に押し付ける(或いは広める)ことは、やめてほしいものだ、ということだな。


もっと具体性のある、解決策を見据えた話を出すべき。



変わらぬ検察、そしてNHK上層部

2013年05月30日 14時18分28秒 | 社会全般
やっぱり、微塵も反省などしていないのだね。
検察の、昔から「叩き込まれた体質」というのは、そんなに急に変われるものではないのであろう。

それに加担する、取り巻き連中という構図もまるで変わってないのだな。権力に靡くだけのマスコミなんて、一体何の意味があると言うのか。NHK大阪の放送人は見なおしたわ。だが、これを潰そうとする権力の犬と化したNHK上層部の、その醜さといったらないな。


>http://news.infoseek.co.jp/article/postseven_190528?p=1



で、今度は見せしめの為に、弁護士の懲戒請求に踏み切った、ということだな。性根の腐った、ロクでもない連中の考えそうなことだ。
捏造検察、ここにあり!、と。存在感を存分に見せております、と。



>http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG3001O_Q3A530C1CC0000/


取り調べ映像NHKに提供、弁護士を懲戒請求 大阪地検
2013/5/30 13:17

大阪弁護士会所属の男性弁護士が、裁判員裁判で証拠提出された取り調べの録画映像をNHKの番組に提供したのは、刑事訴訟法が禁じる証拠の目的外使用に当たるとして大阪地検が同弁護士会に懲戒請求したことが30日、関係者への取材で分かった。請求は23日付。

 関係者によると、取り調べの録画映像は、傷害致死罪で起訴された男性の公判で、検察側が大阪地裁に証拠提出したDVDの内容の一部。NHK大阪放送局は4月、関西で放送された報道番組「かんさい熱視線」で、捜査機関の取り調べをテーマにした際に放映した。

 刑事訴訟法は、検察官が開示した証拠を、裁判やその準備の目的以外で他人に見せたり、渡したりすることを禁じている。NHKにDVDを提供した弁護士は「取り調べの全面可視化に協力したいと思い映像を提供した。男性のプライバシーを守ったうえで法廷で使用されたもので、違法には当たらない」と話した。

 NHK大阪放送局は「関係者の了解を得たうえでプライバシーに配慮して使用しており、懲戒請求は遺憾」としている。

 公判では、録画内容をもとに、供述調書の信用性が否定され、男性は2011年7月に無罪判決を受け、確定した。


========


こうした権力暴走を止めない限り、検察は反省などしないであろう。彼らには、以前の同じ権限がそのまんま与えられているからだ。福島原発なんかと同じで、ほとぼりが醒めれば「またやってくる」という類のものだろう。


反省がない、というのも、まるで同じだろう?(笑)
進歩なんか必要ないのだよ、彼らにとっては。大事なのは、いかに「自分の地位、立場、権限を守るか」ということだけ。他の人たちがどうなろうと、知ったこっちゃない、という生き物なんだわ。

ゲス野郎どもの集まり、ということさ。




農水省情報漏洩と中国人スパイ事件

2013年05月25日 15時51分15秒 | 社会全般
例の農水省がサイバー攻撃を受けた、とかいう事件のその後、という話らしい。



>http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130525-00000013-asahi-soci


【貞国聖子】農林水産省の公用パソコンがサイバー攻撃を受けた問題で、有識者による調査委員会(委員長=稲津久・農林水産政務官)は24日、内部文書124点が流出した可能性があるとの調査結果を発表した。流出の疑いを指摘された後の省内の対応も、情報共有ができておらず不適切だったとしており、その結果、流出の把握が遅れた。

 調査委によると、内部文書は昨年1月から4月にかけてパソコン5台から流出した疑いがある。同省の規定で機密レベルは3段階あり、流出した可能性があるのは、レベルが2番目に高い文書85点と最も低い文書39点だった。環太平洋経済連携協定(TPP)に関する文書が含まれていたとみられているが、調査委は「情報セキュリティーの観点から答えられない」として文書の内容を明らかにしなかった。

 調査委によると、昨年1月下旬と2月上旬、内閣官房情報セキュリティセンター(NISC)から同省に「ウイルス潜伏の可能性がある」と連絡があった。情報セキュリティー対策担当の同省評価改善課が民間の専門業者に調査を頼んだところ、3月下旬と5月の2回、「情報流出の可能性があり、通信記録の分析が必要」と指摘された。


(朝日新聞デジタル 5月25日(土)8時42分配信)

========


情報が漏れたのは、ウイルス攻撃だ、ということなのでしょうか?
あくまで可能性、ということなので、漏れたかどうかは不明のようですが。


当初、情報漏洩だ、と大騒ぎしていたのは、「中国人スパイ」だったはずじゃありませんでしたか?(笑)


>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/02e939cdb5134570fc69b8130f6a5635


讀賣あたりは、「スパイだ、スパイだ」と大騒ぎして、農水大臣と副大臣が捜査されるべし、みたいに大盛り上がりだったはずでは?

で、スパイはどうなったの?
存外大した話でもなかった、ということかな?


副大臣との繋がりを殊更強調されたりしていたが、逮捕されたんですかね?


デマ同然のネタだったのですか?



まあいい。

当時、農水省が何故情報漏洩の虞を指摘されたのだろうか?


それは、TPP交渉に関して、本来「テキストを見てないはずの日本人ども」が何故か情報の一部を知っている風だったから、ではないですかな?


で、そのことは、”アメリカさま”から厳しいお叱りでも受けたんじゃないですかね?
「日本の政府か霞が関あたりで漏らしている人間がいる、情報管理はどうなっているんだ!」
とかね。


或いは、グリード企業連合のロビー軍団に関与する人脈あたりから文句でも出て、交渉の具合が漏れている虞を、やはり指摘されたもんだから、当然その筋と繋がりのある讀賣新聞なんかが大騒ぎをしたりして、農水省が漏らしてるという嫌疑をかけたりしたんじゃありませんか?


そういうことがあったりしたもんだから、グリード企業連合のみなさんたちは激怒して「交渉内容は発効後4年間は秘匿な」という、厳しいルールを課したりしたんじゃないでしょうかね。


当方の推測はこんなところですね。



以前にも、これと似たことがあったことを御存じで?
アメリカさまが「情報が漏れている!」と文句を言ってきたぞ、というのが判明する状況って、従米派どもがアメリカさまからケツを蹴り上げられたような時、と相場は決まっているわけで(笑)。


具体例>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/690f1a30e8e3a969a1338bc6960aff7b


漏洩だ、漏洩だ、と騒ぎたてる姿、これが同じなんですな。





株式市場の暴落?とか…

2013年05月23日 20時39分03秒 | 経済関連
なんか、よく判りませんな。

あるポイントに到達した途端に、真っ逆さまに落ちていった、というような感じ。


最近の高速取引とかも影響したんだろうか。
ある設定条件になってしまうと、ポジション解消売りとか、何かそういうプログラム売買なんかが発動してしまって、更なる売りを加速するというようなことでしょうか。


これまで、上げがかなり一本調子で来ていたのもあるのかな。
上げのスピードが速かった分、ここで一気に調整局面となってしまったのかも?


ただ、昨日の今日の世界経済の状況や評価という点において、そんなにべら棒に何かが突然変わったわけではないだろうと思うので、株価急落の意味を探そうと思っても、特に見つかるものではないんじゃないかな、と。

株価変動というのは時には間違いのようなものとか勢いで起こってしまう、ということが実感できたのでは。


あまり過熱感があり過ぎるのも、要注意、ということでしょうかね。




吉川洋東大教授の『デフレーション』について~まとめ

2013年05月22日 10時32分15秒 | 経済関連
少し間が空いてしまいましたが、まとめを兼ねて書いておきたい。
丁度、月曜の讀賣朝刊に吉川洋先生の論説が載っていて、どうも財政再建を強調するきらいがあるものだった。


件の吉川本は一応全部読んでみました。
一番言いたいこと、政策提言といったことについては、必ずしも吉川の意見と一致するものではないが、山形浩生が「トンデモ本」と全否定するほどのダメ本だとは思わなかった。意見の近い部分がそれなりにあったから、だろう。


これまでの記事:

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/95a768efa153ef4e66e04cb3eb323e45
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f29f95d2e29a5efefa5de93a65b88ae3
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b485761e87c5f5c9ff2341021ada6057
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f435ba9d20aa15402941121dec1128ec
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/bbe7dce3e7423f89eea7c2966330ac53
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/09923abd9aa96ec7f2bceaf222260de9
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/48f81f23d8482f38d8316774737a6d82



山形浩生からのコメント:

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/dca1c41877ee493600a1ccb477e15206



山形としては、どうもクルーグマン論説の批判が許せないというスタンスなのではないかと思うが、吉川の批判はそう見当外れとは思わなかった。
焦点の貨幣数量説にしても、貨幣数量説からは「日本のデフレ」現象をうまく説明することができない、ということは、ほぼ確定的であろう。そんなに単純な理屈で説明可能ということならば、対応策も単純で効果が確認し易いはずだろう。


クルーグマンのモデルにしても、論文から言えることは「かなり限られている」「判ることは極めて少ない」ということだ。それは、日本の現実の経済状態(状況)にうまく適合しており、問題解決の方法がきっちりはじき出せる、というほどの「説明力」のあるものではなく、決定版でもない、ということ。
吉川の批判は、そこを衝いているだけであり、山形はそれを「批判の仕方としておかしい」というようなことを言っているように見える。当方からすると、吉川の批判は別に「トンデモだ」とは思わない。
実際に、クルーグマン論文が出されて以降も、「現実の解法」について具体的に示した人間は、経済学者かエコノミスト等実務関係者も含めて、一体誰がいたであろうか?


判ることは、「インフレ・ターゲットをやれ」と「カネを刷れ」くらいだったのでは?
しかも、どうしてそれで物価が上がるんだ、と何度も何度もツッコまれてきたのに、リフレ派経済学者の誰もそのことを学術的に立証なり学術論文で説明してきた人間など、誰一人として存在してこなかったのではないか?


要するに、リフレ派側の人間の言い分としては、その程度のものでしかなかった、ということであり、経済学の理屈からは未だ「誰にもうまく説明できていない」というだけに過ぎないとしか、当方には思われないわけだ。
そういう点で言えば、リフレ派もリフレ批判派も同レベルでの争いでしかないのかもしれない。


だからこそ、当方が言ってきた方法については、「実験だ」というわけである。
そして、貨幣数量説をいくら知っていても、それで何かが正確に判るようになるわけではない、ということ。


比喩は良くない、と散々言われてきたが、改めて喩えで説明したい。

過去記事中で何度も用いてきた通り、お金の流れというのは人体の循環系と似ているイメージなのである。で、量的緩和策なんかは、「輸液」に近いものだ、ということも説明してきたわけだ。

輸液というのは、ヴォリュームを増やす・維持するのには役立つけれども、それで心臓の病気が治せるとかそういうものではない。しかも、今、200ml輸液したら、10分後には血圧がいくら上がりますor何%上昇します、みたいに、正確に何かが判るわけではない、ということだ。

循環血液量が減少すると血圧は低下する、ということが生理学的知識として、判っているというだけである。だから、輸液をせずにいたら血液量が減少してしまって、血圧が下がる、という現象が実際に起こるかもしれない、ということが考え方として判るということだ。
輸液しないより、した方がよい、ということは、そうしたいくつかの理由が存在するので、現実に「やるべき」という判断に繋がるわけである。


それは貨幣数量説のような「正確性」が必ずしも反映されるものではなく、インフレになるには「貨幣量を増やした方がよい」という考え方につながる、というだけである。
輸液量は目安とかある実施基準のようなものは存在するけれども、数式計算からある瞬間の血圧とか血液量が正確に判るようになるものでもなければ、数分後の血圧が数値として判るようになるものでもない、というのと似ているということ。



貨幣数量説は、過去の経験則にほぼ合致しやすい、ということはあるけれども、あの式から正確に何かが言えるというほどのシロモノではないだろう。いや、正しいんだ、正確なんだ、ということを主張するなら、学術的に論文で証明すればいいのである。それは、当方の仕事ではない。経済学者の仕事だ。



追加です(19時頃):

吉川先生の言い分にも疑問点はないわけではない。
読売記事でもそうだったが、財政再建を求め過ぎかと思う。また、イノベーションを強調するわけだが、これも山形が指摘するように「何があるの?」というところに行く着くわけである。最近の話題の「クールジャパン」とかみたいな、霞ヶ関商法というべき産業政策になったりするわけだ。確かに期待薄かもしれない。吉川先生の場合、昔から供給サイドの政策を重視する嫌いがあったわけである。その傾向は今でも続いている、ということなのかもしれない。


吉川先生にしてみれば、幕末あたりの藩札を乱発して、高インフレを招いたような「ダメダメ統治」が許せないというか、認められない、ということなのかもしれない。
政策のセンス悪いし、財政規律もユルユルの、イノベーションのかけらすら見られないような政治体がインフレを実現してしまうことを認めてしまうと、「これまでのオレの研究や主張は何だったのか」と自分を否定することにつながりかねないので、それを許すことができないのかもしれない(笑)。


イノベーションという点で言えば、日本のこの15年はまさしく「イノベーションの賜物」ということだったのではないか、と。

日本が陥ったデフレというのは、引き起こされた「ショック療法」でおかしくなった体を、何とか持たせようとして全国民が必死で頑張った結果、ということ。普通の外国であると、「そんなことできねーよ」で終わりなようなことが、日本人の真面目気質で死に物狂いで取り組んだ結果だ、ということ。


何処かにムダはないか、削れる経費はないか、ということで、総力を挙げて取り組んできた結果なのだ。民主党で有名になった「事業仕分け」みたいなのを、全企業活動レベルでやったのだ、ということ。その結果として、労働者の賃金は下がったわけだが、各家庭レベルでも同じく「仕分け」が行われた、ということだ。


また喩えで申し訳ないが、昔の宮廷の仕事みたいなものかも。
服を着せる係、脱がせる係、顔を洗う係、髪を整える係、…何があるか判らないが、そういうモロモロの係が存在してきたものを、「いらないんじゃね?」とハタと気づいて、係を大幅削減してしまうと、ムダが削れる、ということになるわけである。


過去の経緯というか、歴史的に何らかの理由があって存続してきたものであっても、ムダだから手っ取り早くなくせばいいんじゃないかな、ということで、改革を断行した結果、ムダが大幅に取り除かれてきた、というわけである。これに類することを、ありとあらゆる部門、分野で行ってきた結果、「乾いた雑巾」と呼ばれるまでの状態を達成できた、ということだ。



これは、ある意味において、日本国民の総力を挙げた「イノベーション」=技術革新、ということだ。3人でやってた仕事も、「2人でできますね」、いやいやもっと見直せば「1人でもできます!」ということで、マジ「凄い仕事術」を達成してきた、というわけですわ。お中元、お歳暮、みたいなものが、あっさりと廃止された、というようなことが、よい例では。結果としてデパート売上が落ち込む、みたいなことが連鎖的に起こり、それでデフレの歯車を回す、みたいなことだ。それは世の中を回りまわって、自分の給料にも跳ね返ってきた、と。


多分、他の国とかだったら、ここまでは達成できないんじゃないかと思うし、耐えられないだろうと思う。そんなことに、真面目に国民を挙げて取り組むというのが、多分起こらないだろうと思うから。バカバカしくてやってらない、ということで、普通はあっさりとギブアップするはずですもん。日本の達成してきた「デフレ」というのは、そういう点において誇るべき「イノベーション」の結果である、ということかもしれません。


日本が取り戻すべきは、プライドと権威のようなものなのかもしれません。

それは、例えば「掃除係がムダなので、社長が便所掃除をします」、じゃなくて、どんなに「自分がやった方が綺麗で早く上手にできる」と分かっているとしても、「掃除係にやってもらう」ということを「我慢して受け入れる」ということ。どんなに才能や能力があっても、監督とコーチと選手をたった1人で兼任したりすると、その人の負担が猛烈重くなる上に、雇用が減るわけである。そんなことをするくらいなら、選手にはプレーに専念してもらって、勝つことに集中してもらった方が結果的には良いのではないか、ということだ。



日本に最も必要なことは、「勝つ為に戦う人」がそのことに専念できる状況にすること、その他の雑務とかマネジメントとかモロモロのことは、サポート部隊を貼り付けてやってもらった方がよい、ということである。


参考記事>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/869d46495802d5c3b8e25cfb790a02f6



女性の仕事と子育て問題にしても、ほぼ同じ。
仕事もやって、子育てもやって、という、一人何役も、求め過ぎなのではないか。

スーパーウーマンじゃないんだから、妻も母も企業戦士も、なんて、難しいんだよ。
どれか一つに特化して、やることがそんなに悪いことなのか?


話が逸れたが、吉川教授の出した増税とイノベーションという解法が「望ましい、大賛成」とはならない、ということだ。




「女性の社会進出」という名の不幸?

2013年05月21日 20時19分45秒 | 社会全般
女性手帳の一件から始まって、女性陣からの不満の声が結構聞こえてくるようだ。

こんな注目記事もあったみたいだし。
>http://d.hatena.ne.jp/yuhka-uno/20130519/1368967495


当方はまさしく昭和の「オヤジ層」でして。なんか目の敵にされてるような気がする。オヤジというだけで(笑)。


当方は女性ではないので、何とも言いようがないわけですが、結局は女性たちはどうしたいのでしょうか?
好きにすればいいんじゃないかと思うけど。
働きたい人は、働いて実力を発揮してくれればそれでいいし、結婚したくない人とか出産したくない人とかは、別に自由にしてもらえばそれでいい。


けど、出産した人とか専業主婦とか、そういう「区分」を行って、いちいち文句をぶつけてきたり、こうなったのは社会の誰の責任でオヤジが悪いとか、自分と違う階層や境遇の人々を矢鱈と責めるのはよしてもらいたいとは思う。


専業主婦が奴隷とか、意味が判らない。会社で経理をやったり営業をしたりコードを書いたりするよりも、料理したり裁縫したり育児をしたり親兄弟の面倒をみたりする方が得意な人たちがいても当然だし、そういう自分の得意分野をやってくれればそれでいいんじゃないかと思うけど。好きな人、やりたい人が、やっているならそれで別にいいと思う。



昔は、女性は「子供」を産んだら、圧倒的勝者というような評価だったわけです。お世継ぎの男児を産むことが、女性の評価を高めた、ということです。そういうのがけしからん、というようなことを女性側が言うようになって、子供を産んだ女性の評価は大幅に減価されたようなものだ、ということです。


頭がいいとか学があるとか、イノベーションだか創造的能力(笑)だか、英語力があるとか、そういうのは女性の評価としてはあまり重要ではなかった、ということです。気立てが良くて子をたくさんもうけられる女性というのは、それだけで良かった、ということです。特殊な能力なんか必要とされていなかった。


だけど、そういう「女性は子を産む機械」なんかじゃないんだ!、というような意見を言い出したのは、主に女性側だったんじゃないでしょうか。子を産まない女性には「プレッシャーがかかるからやめろ」、「姑や舅から後継ぎを求められる立場になってみろ」、等々、子を産む女性への無条件の称賛は、女性側から「ダメだ」というようなことを言うようになったんじゃないのかな、と。多くの女性がそう思っていたかどうかは別として、世間に目立つ立場の女性の言説というのは、そういう感じだった。


見合い結婚というのも、一度も会ったこともないような男性と結婚させられるのは不幸だ、迷惑だ、女の好きにさせろ、というようなことで、確かにそうだろうけど、自由にしてもらって、その結果として結婚できない女性が増えてしまったように思う。


結婚が成功じゃない、結婚が人生じゃない、等々、これも色々と言われてきたわけだけど、じゃあ自由にして勝手にしてもらえばいいですよ、ということで、結婚できない女性が多くなったわけで。


結婚したい、子を産みたい、という願望を持ちつつも、それができてない女性は結構いる、ということですわ。


要するに、女性の側が、あれこれと小難しい理屈をつけて、あれも嫌だ、これも嫌だ、ということで拒否することが多くなって、男側の問題が多すぎるからだの子を産む女性を賛美するなだのと、女性側の主張を取り入れてきた結果が、今の「結婚できない社会」なんだわ。


大体、結婚や出産なんて、お局みたいな適齢期(このような言い回しも差別的と?)を逃した女性たちが、難しい理屈をこねくり回すようなものではなくて、もっとより本能的なものというか直感的・感情的なものなんじゃないのかな、と思うわけですわ。


子を産んでない女性の「肩身の狭い思い」みたいなのが過度に重視されて、過去にあったかもしれない「特別な才能も取り柄もないけど、子だくさん」という女性への敬意や高評価が失われてしまって、少子化を加速させてしまったようにも思えるわけです。

昔は、保育園なんかなかったけど、子供は多く産まれたわけだ。
いや、別に現代の子育てを否定しているわけじゃないよ。だけど、女性側の注文が多くて、どの層に照準を合わせても、必ず文句が出るわけ。教育費にお金がかかるから、沢山育てられない、という事情だってあるかもしれない。確かにそうだ。だったら、社会が「子供を産んでくれてありがとう」ということで、多く産んだ女性を評価するし社会全体で教育を引き受けるということがあってもいいんじゃないですかね。


結婚が全てじゃない、出産が人生の目的じゃない、というような話は、間違いじゃないけど、その価値観みたいなものを世間に広めて、他の女性とかに押し付けないでほしいとは思う。言い方が悪いけれど、少々勉強ができなくたって、健康で子を産んだ女性は、それだけで無条件に「偉い」んだ、ということを肯定するのを許容してくれればいいのです。これを「ダメだ」とか言われるから、困るわけで。


昔は、早くから働いて、結婚し出産した。今は、遅くから働いて、適齢期になっても時期を過ぎても働いて、高齢では辞めてるわけだ。
だから、1960年の女性の就業率は今よりも高く、50.9%だった。これは1970年でも同じ、50.9%。高齢層の人数が今より相対的に少ないので、女性全体で見れば働いている割合が、昔の方が高かった、ということ。しかも、中卒や高卒で働いていたわけで、24歳以下の就業率が圧倒的に高かった。女性の社会進出ができてなかった、なんてのは、実は幻想だったのでは。

昔は、今より5~10年早くから社会に進出して働いて稼ぎ、その分早くから仕事を止めて結婚や子育てに移行していたわけだ。25~34歳の女性の就業率は、昔が概ね半分くらいだったのが、2010年だと3分の2かそれ以上が働いている。

しかも、昔の女性の場合だと、農業とか商店といった職場と家が同じという人は結構いたはずで、そうすると子育てしつつ仕事もする、という状態が発生するわけである。だから、60年代とか70年代でも女性の就業率は、そこそこ高かったわけ。昔は、専業主婦でみんな仕事をしてない、なんてことは多数派というわけでもなかった、ということ。1970年の就業率が50%を割り込んでいるのは、15~19歳、25~29歳、30~34歳、60歳以上の層、だけである。それ以外は、半数以上が働いていた、ということ。
90年でも、15~19歳、60歳以上で、同じ傾向だった。中間層は半数以上が就業していた、ということだ。


要するに、ごく少数派でしかない「男と同じように競争しなければならない、男と同じ扱いで仕事も同じで」といったような女性の意見が、主流派みたいに扱われてしまったのでは。女性は、生理的条件が男性とは異なるのだから、仕事と子育てとかをそこそこに、ということにするか、どちらかに専念するか、という選択になっても不思議ではないわけで。


あれこれと書いたけれど、女性の大半に通じるというような理屈は、あまりよく分からない。ヘタに学をつけたというか、それなら早くに社会に出て働いて収入を得た方がマシなのでは。
そして、小難しい理屈を言う女性たちが、あれこれとひっかきまわした結果なのではないか、と。もっと本能的なものなんじゃないのかな、と。本当に彼女たちの意見が正しかったのなら、幸せだという女性たちがもっと街にあふれていなければならないはずだから。



日本郵政人事に見る出鱈目言説

2013年05月19日 11時16分29秒 | 政治って?
つい先日、坂社長の更迭が伝えられたわけであるが、どういうわけだか今回に限っては、誰も大騒ぎをしなかった。竹中平蔵は、死んだのか?(笑)

>http://biz-journal.jp/2013/05/post_2093.html
>http://www.asahi.com/business/update/0518/TKY201305180054.html


さて、09年の西川社長を巡る人事では、政治的な混乱を呈し、結局は鳩山総務大臣の更迭と西川続投で決着したわけである。小泉チルドレンの残滓は、西川社長支援に回る人間が多かった。菅義偉現官房長官も竹中や中川秀直議員らと共に、西川続投を叫んでいたはずだ。

09年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/849eff96f17ad28f7d5f941656eb747a


当時、西川社長の更迭に関し、「政治が介入するのはおかしい、指名委員会と取締役会決定を無視する気か」「西川社長続投案を否定するなら、大臣を辞めろ」などといった、出鱈目を散々言っていた連中が大勢いたわけである。

どこに、株主総会を無視して取締役人事を決めていい、なんていう会社があるというのか。
09年の記事に書いたことをよく読んでみてほしい。



当の菅官房長官は、以下のように言っていたわけだよ。竹中平蔵とツーツーだった菅は、元総務大臣として反対したのだ。


>http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/1099400/

(以下、郵政部分の引用)


内閣支持率も一時10%切ったけれども、30%に回復してきた。そしたら今度の郵政問題で一挙にまた下がり始めました。私はこのことだけは是非、みなさんにご理解いただきたいと思います。総理の判断は正しかったと思います。


私たち、4年前に郵政事業民営化するかどうかということを国民のみなさんに問いました。みなさんは民営化しろということで私たちに300を超える議席を与えてくれたんです。ですから私たちは民営化を進めています。民営化になってから、まだ1年半ですけれども、たとえば郵政公社の時代は国庫納付は2400億円でした。しかし西川さんが社長になって4000億円納付していますよ。この厳しい時ですよ。銀行は極めて決算が悪い。そんなときにもかかわらず4000億円納付している。これは、私は客観的な実績として評価するべきだと思います。そうしたことの中で、指名委員会、社外取締役の人たちが西川さんを社長に指名したんです。そして取締役会でもそのことを承認したんです。そうしたことに対して私は政治は口出しをすべきではないと思います。


JRだってそうじゃないですか。政治が口を出したから、JR、国鉄はおかしくなった。そして民間にして、今生まれ変わったじゃないですか。NTTだってそうじゃないですか。これだっていちいち反対したら民間人はやる気なくなってしまいます。今度の鳩山前大臣の問題は、2400億円のかんぽの宿を71カ所、109億でオリックスに売るのがおかしい、そこにいろんな疑惑があるということでした。確かに1個ずつ見れば不動産の価値としてはあるかもしれない。しかし、全体で1つですから。71カ所、赤字部門はたくさんあります。毎年50億円ずつ赤字を垂れ流しているんです。不動産の売買というよりは事業の売買です。


経営者のみなさんには分かっていただけると思いますけれども、なかなか説明をすることが難しい話ですけれども、しかし、2400億円のものを109億円でおかしいと。そうしたものをいい加減とは言いませんけれども、そうした基準で作って毎年50億円の赤字を流す方がおかしいんじゃないでしょうか。ですから民営化をしたわけです。そして5年以内にそうしたものを売却することも法律で決まっているんです。そして第三者の委員会で弁護士も、公認会計士も、不動産鑑定士もみんな入れて、不正はなかったという報告も出ているんです。


総務大臣というのは郵政の社長人事だけじゃないですよ。だって、地方自治体のことも総務省です。情報通信も総務省です。先ほど申しあげましたけれども、年金も今、総務省でやっているんです。まさにそうした幅広い中で毎日、毎日、正義が通る、通らないとか言っている。私は何か違った意図があってマスコミの前に向かって言っているんじゃないかなというふうに思っていました。環境新党を作るとか、もう言っていたようですね。きょうもまた、発言しています。そんなことをやればやるほど、私たちの支持は下がってくるんです。しかし、私たちが後退してならないことは、いったん決めたことはしっかりやっていくことが政治ではないでしょうか。


ですから、西川さんをとるとか、鳩山さんをとるとかということではなくて、総理は民営化は推進するという方向をとったわけですから、私はこのことはまったくおかしくないことだと思います。しかし、そうしたことがなかなか国民にうまく伝わっていない。それが今の現実ではないかと思います。

=======



郵政民営化に乗じた、権益とタカリだったのではなかったか。
紛糾した「かんぽの宿」問題は、未だに解決などしていないぞ。橘玲も、黙ってないで、日本郵政の社長人事に政治が介入するのはおかしい、とか言ってやれよ(笑)。


当時、理由にならないような理由を挙げて西川社長を擁護していた人たちは、何故今回の更迭人事については一切何も言わないんだね?
西川体制下での黒字額がどうのと言っていたのに、今回の日本郵政の決算では大幅黒字なのではないのか?それで何故「役員交替」に繋がるんだね?


菅官房長官の言い分もおかしい。

『指名委員会、社外取締役の人たちが西川さんを社長に指名したんです。そして取締役会でもそのことを承認したんです。そうしたことに対して私は政治は口出しをすべきではないと思います。』

と言っていながら、坂社長の更迭は「官邸主導で」政治的にやった、ということではないのか。


しかも、菅官房長官曰く、就任時会見で『政治家は自分の発言に責任を持つべきだ』論をぶち上げておきながら、責任なんて持ってないだろうに。西川社長続投時には「政治介入を批判」したのに、今回は安倍-菅の官邸ラインで日本郵政人事に介入、という180度態度を変えたんじゃないのか。
こういうのを、無責任、発言は出鱈目、都合によりいくらでも前言撤回、ご都合主義、とか言うんじゃないのか?(笑)


要するに、原理原則というようなものは、自民党政治には存在しない。
ペテンである。
その場しのぎの、騙しの連続に過ぎないのである。


これを支援するのも、識者ぶった連中なのである。


橘玲よ、以前から「でっち上げ」批判をしていたのに、何故今回は黙っているのだ?

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/9268aa36d7154cc485d5790d1072548b


自分の言葉に責任を持たないという点で、菅も竹中も橘も同じ人種だから、か?(笑)



医薬品のネット販売に関する最高裁判決~小括

2013年05月18日 12時33分58秒 | 法関係
前の記事にコメントを頂いたので、お答えをかねて、まとめておきたいと思います。


(再掲)

司法に政治的な判断を期待するのが間違いなのでは?
規則は法律に委ねた範囲でないしか規制をすることができないのは民主政のもとでは自明のことで、あの最高裁判決は法律に通信販売を規制する趣旨が見受けられないとしたものなのですから。
対面販売を原則とするという政策が妥当だというのなら、そういう法律にしなかった立法機関である法律を批判し、そういう法律を今からでも作るべきだというべきだと思います。
当然のことながら、法律に対面販売を規制する趣旨がみられる場合は今回の最高裁判例の射程は及びません。
いずれにせよ、最高裁を批判するのは筋違いというべきでしょう。もし批判したいのなら薬事法から通信販売を規制するという趣旨が見受けられるという議論をすべきです。


=======



以下に、少しお答えを。

まず、当方の主張としては、最高裁に政治的判断を求めているものではありません。あくまで法解釈なり法理論上で、最高裁は「違法立法である」ことの立論を求めているものです。

具体的には、薬事法37条の「店舗による販売」がネット販売を規制するものかどうか、ということの法学的な理屈です。或いは、薬事法29条の二における「遵守事項」制定権限が、ネット販売を規制できるかどうか、といった点です。

当方の考え方については、以下に書いてきました。


医薬品のネット販売に関する最高裁判決

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~各論編

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~各論編2

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~最高裁判決文に見る劣化

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~番外編



で、今回のシリーズがこれら。

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史2

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史3

医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史4





薬事法37条や29条の二というのは、あくまで法理論の話であって、政治的な判断を含むものではありません。その立論をすべき最高裁が出した判決は、それらが全くできていない、というのが批判の出発点であります。

唯一の主張として判らないではない、という部分は、「薬事法の委任限度を超えている」という判断で省令制定権限が逸脱している、と考えるのが合理的である、ということだけです。


このことは、根拠法として「法文上で販売規制を行えば、ネット販売という販売方法の規制を実現可能」という余地は残されるはずですが、最高裁判決文ではあれこれと余計な文言が並んでおり、実際ネット販売業者等(規制改革会議等の委員含む)からは「ネット販売を規制すれば違憲立法である」旨の主張が審議会レベルで行われる始末です。


例えば立法作業の「技術論」として、「本法の条文からすると、省令の条文は行き過ぎである(制定権限・委任限度を超えている)」ということの立論がきちんと行われておれば、ネット販売を規制すべきか否かというのは、あくまで立法府の問題、すなわち政治的解決ということを考えればよい、ということに収束するはずですが、最高裁判決文では「ネット販売」そのものを規制すること自体が問題であるかのような書きぶりになっています。


そのことがそもそも問題だ、ということです。

その上、立法府の「制定意志」を推認してみたりする必要性などないし、国会議員の理解水準を推定してみたりする必要性も全くないはずです。需要の有無なんて、立論の補強材料にはなっていません。


最高裁判決は、後のシリーズで書いてきたような過去の裁判所の出してきた判決で示された、「過剰とも言うべき義務」の数々を、一言で言うなら(説明義務や検査義務や診断義務や救急対応義務や研鑽義務等々を)一切「なくてもいいです」、ということに大転換したに等しい、ということです。そのような大きな方針転換を行うならば、大法廷でもやってもらうか、司法界全体に対してそのような方向で今後考えるように、ということを明確に示せばよいのです。


だったら、今後の医療においても、医学書の教科書みたいな説明文書を「全部読めば書いてあります」ということにして、過剰な義務から解放することにしたらよいでしょう。


まあ、最高裁としては「禁止事項を明示的に書け」ということにしたようなので、今後の裁判においても書かれていない行為を違法認定することは、一切止めたらよいでしょう。



ご機嫌ナナメの外務省?~米国から拒否される安倍政権

2013年05月17日 19時53分35秒 | 外交問題
飯島内閣参与の訪朝は、報道からすると米韓にとって予想外と受け止められていたようだ。米国の顔色を窺うしかない日本の外務省としては、意外な行動であったかもしれない。


飯島内閣参与が全くの個人の独断で、北朝鮮を訪問するということは到底考え難く、外務省がアシストしていることは間違いないであろう。飯島参与がお忍びで訪朝してなかった、という点においても、予定通りのお膳立てであったはずだ。

こうした日本の行動は、米韓からすると「日本が抜け駆けしては、日米韓の足並みが揃わなくなる」という文句も出ようというものだろう。外務省はこのことを事前に織り込み済みであったはずだろう。日本の外務省が何かを決めたり行動したりする時の第一声というのは、過去数十年に渡り決まってきたからだ。それは「アメリカが怒らないか?不興を買うのではないか?」という、お決まりのパターンだ。


そうした習性を持つ外務省が、わざわざ米国に何の断りもなく北朝鮮の要人に内閣参与を面会させたとなれば、それは意図したものと見るべきである。つまるところ、日本の外務省は「こっちはちょっと怒っているんだからね!そっちが蔑ろにするなら、こっちにも考えがあるんだからね!」というメッセージを、オバマ政権に発したものと思われる。



これには、それ相応の伏線があったわけである。
それは、安倍総理の「訪米」でこじれた、ということが元々の原因だったろう。アメリカ側としては、安倍政権の「正統性」に疑義あり(選挙に問題アリ、それは違憲と不正疑惑という問題)、ということがあったので、安倍総理を諸手を挙げての大歓迎ということにはできなかったはずであろう。


それが、安倍訪米時の、出迎え歓迎セレモニーなし、共同会見なし、晩餐会もなし、ということに繋がっていたわけである。外務省は訪米を早期に実現したいと思っていたのに、そうした外務省の意向は全く聞き入れてもらえなかったのが不満だった。


先日訪米した、なり立てに過ぎない韓国の朴大統領がオバマ大統領との共同会見が開かれていたことを見ても、安倍総理へのぞんざいな扱いは一目瞭然であったのだ。このことは、外務省官僚にとっては「大いなる敗戦」と呼ぶに等しい、屈辱であったろう。


TPP参加交渉についても、日本側の要望は殆ど耳を貸してもらえず、参加表明をしたにも関わらず「大した相手にもされない」という状況を目の当たりにした外務省は、本気で焦ったことだろう。愚かな外務省は、いくら日本側がアメリカさまの腰ぎんちゃくになって尽くしても「振り向いてもらえない」ということに気付いてこなかったのだ。


だが、アメリカ側が外務省に対して情報を与えないし、日本に少しは協力的になってくれてもいいのに、と思うようなことでも、全く聞き入れてもらえず、当初からの「安倍政権への拒否反応」が続くとあっては、いよいよ日本が「こっちも好きにさせてもらうよ」という方向に踏み出す、という方針転換が図られたということであろう。


橋下の暴走発言は、見世物的な「日米プロレス」の役割を担うことになっているのである。ニュースに登場し続けねばならない橋下市長の、計算だということ。安倍総理も、少々図に乗った時があったわけだが(所謂歴史認識問題に関連する発言などを見れば判るだろう)、米国サイドからの「釘刺し」があった為に撤回して大人しくしていよう、ということになったのだろう。


判ることは、未だに安倍政権に疑問符ということになっているのは明白であり、それを解消する唯一の方法は「合法」な選挙での結果を必要としている、ということである。今の安倍政権というのは、暫定政権みたいなものを同じである、ということ。だからこそ、国賓級の扱いなんかになるわけがないのだ。


安倍総理が衆参同時選挙はない、ということを言っていたらしいが、恐らく政権中枢に近い人間たちは、このことに気付いているはずだろう。だから、他の野党が準備も整っていない体制下で、いきなり「やっぱ衆院選やるわ」と言い出すタイミングを待っている可能性だってある。敵の油断を衝く、というのは常道だから。


多分、都議選の後の結果を見て、やるかどうか、を判断するつもりなのだろう。夏まで政権支持率が維持できれば、やる気だ、ということ。それまで何としても経済状況好転の「今の勢い」を継続しておきたい、ということだから、財政出動も躊躇なくやってくるはずだろう。


残る最大の懸念は、TPPの行方だ。



医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史4

2013年05月16日 17時03分09秒 | 法関係
記事が昨日はとんでしまいましたが、続きです。



6)福岡地裁(H6.12.26)


・概要:

喘息既往を有する患者に対しロキソニンを投与したところ、アスピリン喘息発作を誘発し死亡。投与した歯科医師に過失認定。


・判示:

『なるほど、上記医師に課せられる義務のうち、研鑽義務については、医療の高度化に伴って医師が極度に専門化しているがために、薬剤の知識について医学の全専門分野でその最先端の知識を修得することが容易なことではなくなっていることは想像に難くないが、いやしくも人の生命および健康を管理するという医師の業務の特殊性と薬剤が人体に与える副作用等の危険性に鑑みれば、上記のような医師の専門化を理由として前記のような研鑽義務が軽減されることはないというべきである』


・ポイント:

喘息発作を誘発する可能性があることは当然に投与する側が把握しておくべきであり、研鑽義務が軽減されることもない。妥当な判決と言えるだろう。
添付文書の内容などは薬物投与側が当然に知っておくべきであり、これはネット販売などにおいても同様。安易な薬物使用や投与は、発生頻度が一定であれば、使用者数の母数が増大すれば被害の発生も増大する、ということになる。

レモン市場と同様に、薬物においても情報の非対称性が問題となりうる。ニセ薬の横行はその実例と言えるだろう。また、情報(医療)を熟知していない人の自己判断・自己責任による薬物選択や使用は、病状悪化を招いて健康被害や医療費増大を助長しかねない。




7)横浜地裁(H15.6.20)

・概要:
正露丸アレルギーの存在が疑われた患者に、検査目的でICG投与したところ、アナフィラキシー反応を来たし死亡。長期に渡り鼻炎もあり、ヨードによるアナフィラキシーショックが発生しないかどうか、投与前に確認しておくべきであったとして、問診に過失認定。


・ポイント:

裁判所としては、アレルギー体質が疑われた患者であったので、当然にヨード剤のアレルギーを予見してしかるべき、という判断であったものと思われる。ヨード系はアレルギーが比較的よく見られるものであるから、注意が必要であるというのはよく知られた事実であるが、鼻炎の存在で「アナフィラキシーを予見できた」といったような要求は、無謀に過ぎるとしか思えない。

正露丸アレルギーという点でも、これが本当に「アレルギーであったか」というと疑わしいかもしれない。患者が何かを内服した時、たまたま「背中が痒かった」「手が赤くなった」「顔の発疹のようなものが出た」ということがあって、それが本当に薬物起因のアレルギー反応であったかどうかは判らない。単なる偶然のことは少なくない。


実際にアレルギー反応の疑われた薬物について、チャレンジテストなどを実施すると陰性として問題ないという結果が得られることは珍しくもない、ということである。患者の申告する症状というのは、「何かと関連している」という前提(思い込み)などからアレルギーだとか薬疹だといった誤った認識をもたらしている場合がある、ということだ。


ヨード系のアレルギーがあるとして、食品とかうがい薬なんかはこれまでどうだったのか、というと、恐らく問題とはなってこなかったのであろう。
裁判所が要求する水準でいけば、鼻炎の存在で「アレルギー体質ではないか」→「ヨード系のアレルギー反応を予見し防げる」、といった論法となり得るわけで、ネット販売でヨード系うがい薬のような外用薬を販売する場合でも、アレルギー体質を確定してから投与せよ、さもなくば過失認定ということになるだろう。



8)福岡高裁(H17.12.15)

・概要:

内視鏡検査前に局麻薬としてリドカイン投与、その直後より容体急変し、患者死亡。担当医は脳幹部梗塞が死因と主張するも、アナフィラキシーショックによる死亡と判断し医師の過失認定。


・ポイント:


腹部エコー検査後、内視鏡検査目的で准看護師がキシロカイン投与したようである。恐らくは咽頭部の嘔吐反射抑制の為、キシロカインのスプレーかゼリーを使用したのではないか。

内視鏡検査にあたり救命カートなどの常備が検査室内になく、緊急薬品や救命器具の不備が指摘された。また心電図モニターの記録も全くなく、その他客観的な証拠となりえる記録類も一切なかったことで、医師の信頼性が疑われたことも判決に影響した可能性があろう。内視鏡検査開始前後での、血圧等のチェックもなかったようだ。

1審は患者側敗訴(認容額ゼロ)だったが、控訴審で逆転判決となった。



実際のところ、キシロカインによるアナフィラキシーショックだったかどうかは疑問の余地はある(ひょっとするとリドカイン中毒の可能性?医師側が脳幹部梗塞と主張していた理由として容体変化初期の意識障害や振戦が観察されていた為?)。

ただ、医療体制としては、内視鏡検査時のモニタリングや救急セットの不備などが指弾されてもやむなしと思われる。救命可能性は何とも言えないが、4)の最高裁判決の如く、当時の標準的医療水準が達成されていれば生存可能性があったかもしれないとすれば(死因が正確には判らないので判断は難しいかもしれないが)、賠償を負うのもやむを得ないという気はする。



薬物を投与する以上、相応の責任を負うことは当然ということだが、ネット販売解禁を最高裁判事が支持するのであるとすれば、投与する側の責任はできるだけ小さくしておき、事故や問題が起こったならば「事後的救済」ということにせよ、ということを推進してゆくつもりなのかもしれない。



C型肝炎で製薬会社に一律救済せよと大騒ぎしていたのが、本当に不思議でたまらんわ。「厚労省攻撃の為」に用いられたネタであったわけで、PMDA増強せよ、というのは、その一部だ。
本当の狙いは、厚労省から知財関連分野を分離して、医師や薬剤師等の関与を弱め、かつて行われた「医薬分業」という美名の下に薬価決定過程に「欧米系製薬会社」の意向を反映しやすくする、というものだった。


医者が関わってくると「医師会という既得権益集団」が外資系グリードたちの邪魔をしてくるから、それを少しでも排除していこう、ということだったろう。



日本の医療を良心的な医師たちの関与下から奪い取り、保険会社や製薬会社がガッポリ儲けられる仕組みに作り変えたい、そういう勢力は常に色んな手を使ってくる、ということだ。




国債金利の反転上昇は予想通り

2013年05月15日 09時07分44秒 | 経済関連
年初の金利水準を忘れてしまっている人たちが多いのではないかと思える。10年債指標金利が0.4%台となったことで下限をつけたと見れば、金利上昇が起こってくることはほぼ事前の想定通りであった、ということである。


参考:

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e2ecc6dc5c0c8ad66b3adb532341ee93

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a4d28c16b8213b7eb0fb57fb0d2536f5

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7d7391aafc149d92b142c6c0b5de90e2



4月5日の記事から、以下に再掲しておこう。


(再掲)

今後は、国債価格が反転して、金利上昇局面となってゆくことが起こらなければならないわけで、それは「銀行から国債を引き剥がす」ということでもあるわけだ。
日銀が競合して国債を買うことで、銀行は別な資金の振り向け先を探さざるを得なくなる、ということだ。当預残高の上乗せというのは、ある種の「飽和攻撃大作戦」のようなものであり、金融機関と国債の結合度を低下させ、国債買いに銀行資金が向かうのを阻害する、という機能が期待されるだろう。
だから、国債買いに資金が集まらなくなっていかないと、マネーストックの増加率があまり伸びないということになる。現実の結果として、量的質的緩和策が効果を発揮したかどうかは、待つより他ないのである。


========


日銀が買うのではないか、という思惑から、1月以降国債金利は低下を続けてきたわけである。
で、実際に日銀の国債買い入れ水準が発表になって、若干の下げなんかは見られたわけであるが、次第に上昇局面へと移ってきている。


これは、ゼロ金利脱出の為には必然的過程としか思われず、そもそも0.5~0.6%という10年債の上昇余地なんて、上のレンジが極めて限定的なのは当たり前。ゼロかマイナス金利にでもならない限り、幅は僅かしかない。

となれば、国債需要者たちからすると、「売って、海外の国債を買おう」とか「株式購入に充てよう」といった資金の流れの変化が出てくることが当然ということになる。


そして、ある程度「国債離れ」が発生して金利が上昇しても、日銀の買入が断続的に実施されるので、どこかの水準では上昇の抑制がかかることになる。それに、売玉が減ってゆくので、売り手側の持ち高減少が金利上昇抑制ということになってゆくはずだ。


なので、今後の金利上昇局面というのは、長い目で見れば「正常化路線」への回復過程ということもできるだろう。そうじゃなければ、ゼロ金利―流動性の罠の泥沼からは抜けられない、ということである。


物価上昇は価格改定の頻度と即時性という点において、国債金利市場の変動より遅いと考えられるわけで、将来見通しの変化(=期待)がまず国債市場で発現し、その後からCPI上昇が実態経済面の変化を伴って発現してくるであろう、ということだ。



医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史3

2013年05月14日 13時00分33秒 | 法関係
前の続きです。
今回は、最高裁判決にほぼ同意できる判決例を挙げています。



4)最高裁二小(H12.9.22)


・概要:

背部痛主訴の急患来院したが鎮痛剤点滴を行ったものの、急性心筋梗塞から心不全に陥り心停止して死亡。モニター装着など行わず、狭心症~急性心筋梗塞の徴候を見逃したことにより不法行為責任を負うものとされた。


・判示:

『疾病のため死亡した患者の診療に当たった医師の医療行為が、その過失により、当時の医療水準にかなったものでなかった場合において、右医療行為と患者の死亡との間の因果関係の存在は証明されないけれども、医療水準にかなった医療が行われていたならば患者がその死亡の時点においてなお生存していた相当程度の可能性の存在が証明されるときは、医師は、患者に対し、不法行為による損害を賠償する責任を負うものと解するのが相当である。けだし、生命を維持することは人にとって最も基本的な利益であって、右の可能性は法によって保護されるべき利益であり、医師が過失により医療水準にかなった医療を行わないことによって患者の法益が侵害されたものということができるからである』


・ポイント:

本件最高裁判決はほぼ妥当なものと考えられる。救命可能性について、高度の蓋然性があるとまでは言えない場合であっても、当時の医療水準から逸脱している場合には賠償義務を負う、ということである。

(そもそも背部痛や肩痛などの主訴がある場合、最も疑うべき最初の疾患としては、狭心症ないし心筋梗塞であることはほぼ常識的であり、モニターなどの装着をしてさえいれば容易に判明し、最高裁が指摘したようなニトロ舌下投与などの初期治療を実施していれば、救命可能性はあったはずである)

この最高裁判例は、医師の行う医療行為に限定されるものと考えるのは妥当性を欠くものと思われる。すなわち、薬剤師の医薬品販売・投与行為が当時の医療水準に適った投与が行われていれば、重大な結果を回避できていたという相当程度の可能性が証明されるなら賠償義務を負うべき、ということである。医薬品販売・投与について「通常の医療」と同等程度の水準が維持されていれば回避できていたであろう、重篤な結果については投与した側に責任があるものと考える。

買いたいという希望者に対して、安易にいくらでも自由に薬物を販売授与できるというネット販売制度が仮に存在しているとして、その結果副作用等で問題が発生するなら、その責任は販売授与した側が負うべきである。到底妥当な水準にはない投与であることが証明されれば、直接の因果関係が証明されずとも副作用に伴う治療費も当然負担すべきということも考えられよう。




5)最高裁二小(H14.11.8)


・概要:

18歳男性陸自隊員が「もうろう状態、病的心因反応」の診断にて、ジアゼパム、ニトラゼパム、トリアゾラム、フェノバールを外来通院で投与され、6日後より入院加療となった。入院後にテグレトールも追加となっていたが、約1カ月後くらいから発疹等見られテグレトール起因の薬疹疑いにて同剤中止するも他薬剤は使用継続(ハロペリドールなども使用)。皮膚症状は続き転院、眼症状出現となりほぼ失明状態となった。薬剤(フェノバール原因と推定)によるスティーブンス・ジョンソン症候群(SJS)にて、薬剤を中止しなかった過失があるものと認定された。


・判示:

①『本件添付文書に記載の(1)の症状は,「過敏症状」として「ときに猩紅熱様・麻疹様・中毒疹様発疹などの過敏症状があらわれることがある」とするが,文意に照らせば,「猩紅熱様・麻疹様・中毒疹様発疹」などは直ちに投薬を中止すべき症状の例示にすぎず,副作用としての過敏症がそこに掲げられたものに限定される趣旨とは解されない』


②『本件においては,3月20日に薬剤の副作用と疑われる発しん等の過敏症状が生じていることを認めたのであるから,テグレトールによる薬しんのみならず本件薬剤による副作用も疑い,その投薬の中止を検討すべき義務があった。すなわち,過敏症状の発生から直ちに本件症候群の発症や失明の結果まで予見することが可能であったということはできないとしても,当時の医学的知見において,過敏症状が本件添付文書の(2)に記載された本件症候群へ移行することが予想し得たものとすれば,本件医師らは,過敏症状の発生を認めたのであるから,十分な経過観察を行い,過敏症状又は皮膚症状の軽快が認められないときは,本件薬剤の投与を中止して経過を観察するなど,本件症候群の発生を予見,回避すべき義務を負っていたものといわなければならない』


・ポイント:

事例2)のTENとも共通するが、重篤な副作用としてアナフィラキシーや本件SJSがあるので、それが疑われる病状があった場合には投与中止などの判断を適切に行うべき義務が存するものと考えられる。
添付文書中の文言は厳密性を問題とはされず、文意から判断すべしということである(①)。初期の皮膚症状などからSJSを想定することがそれほど困難であったとは思われず、過失否認の高裁判決に対して破棄差し戻しとした最高裁判決の方が望ましいものであったものと考える。


18歳男性の「もうろう状態」に対して、外来通院でこれほどのベンゾジアゼピン系薬剤投与が必要であった、ということの医学的妥当性そのものに疑問を感じざるを得ない(が、診療担当医師の判断であったので当方があれこれ言えるものではないことは承知している)。しかも皮膚症状発現後においても、テグレトールを中止してはいるものの他薬剤は使用を継続しており、中止のデメリットと継続のメリットの比較考量という点でも、必要性がよく理解できない。



かなり広範な薬物において、これらSJSやTENといった副作用が生じるわけであり、「被害が存在してない」などといった暴論で、安易な使用を自己責任において行わせるというネット販売の全面解禁論は、同意することが極めて困難である。


一般用医薬品の副作用について、正確な追跡調査が行われたかどうかも疑わしく、報告の存在が明らかではないことをもって「安全」であるかのような認識としていることも、先のネット販売を認めた最高裁判決の大きな問題点である。



医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史2

2013年05月13日 18時34分35秒 | 法関係
前の続きです。



2)高松高裁(H8.2.27)

・概要:
20年以上前の手術時に薬疹と思われる皮疹(原因物質不明)があった患者が、脳外手術後の退院時アレビアチン及びフェノバールの処方を受けた。内服後症状出現し、約1カ月後に薬剤アレルギーの疑いで治療開始されるも、中毒性表皮融解壊死症(TEN)の診断にて病状悪化により死亡。副作用の情報提供に義務違反があったとして医師の過失認定。


・判示:

①『医師には投薬に際して、その目的と効果及び副作用のもたらす危険性について説明をすべき義務があるというべきところ、患者の退院に際しては、医師の観察が及ばないところで服薬することになるのであるから、その副作用の結果が重大であれば、発症の可能性が極めて少ない場合であっても、もし副作用が生じたときには早期に治療することによって重大な結果を未然に防ぐことができるように、服薬上の留意点を具体的に指導すべき義務があるといわなくてはならない。即ち、投薬による副作用の重大な結果を回避するために、服薬中どのような場合に医師の診断を受けるべきか患者自身で判断できるように、具体的に情報を提供し、説明指導すべきである』

②『単に「何かあればいらっしゃい」という一般的注意だけでなく、「痙攣発作を抑える薬を出しているが、ごくまれには副作用による皮膚の病気が起こることもあるので、かゆみや発疹があったときにはすぐに連絡するように。」という程度の具体的な注意を与えて、服薬の終わる二週間後の診察の以前であっても、何らかの症状が現れたときには医師の診察を受けて、早期に異常を発見し、投薬を中止することができるよう指導する義務があったというべきである』



・ポイント:

①をまとめると、

  ・医師の「観察外で服薬」する(のだからそれ相応に)
  ・結果が重大なら可能性が極めて少ない場合でも未然に防ぐ義務
  ・重大な結果を回避する為の具体的説明、指導が必要
   (患者自身で判断できる程度の具体性が必要)

ということである。


②でも、「何か異常があれば受診せよ」程度の抽象的な注意では足りず、副作用として「皮膚の病気」「かゆみや発疹」といった具体的指示内容をもって指導すべき義務があった、としている。



旧薬事法上において「一般用医薬品」(医療用の医薬品とは区別される)であっても、TEN(中毒性表皮融解症)の発生例が報告されていたことは既知であるから、ネット販売においてもそれが「起こらない」と言うことはできないだろう。


すなわち、TEN発生可能性のある薬物である場合には、患者自身でも受診必要性について判断できる程度には具体的説明指導の義務がある、と裁判所が求めているのであるから、ネット販売で「同意」ボタンクリックくらいでその義務が果たされているかどうか、ということが問題となろう。

因みに、最高裁判事はケンコーコムなんかのネット販売業者のシステムがこれら義務の要件を十分に満たしている、と判断していることだろう。




3)大阪高裁(H11.6.10)


・概要:

喉頭炎にてステロイド剤点滴(7日間)及びボルタレン内服7日分投与の患者が、出血性胃潰瘍に起因する出血性ショックとDICなどにより胃全摘等受けるも約1カ月後に死亡。患者は約20年前に胃潰瘍の薬物治療歴があったものの既往歴で医師には申告せず。未申告の患者過失割合は2割相当として相殺されたが、医師には検査義務があったのに行わなかったことにより過失認定。


・判示:

『一般に、患者に対して消化性潰瘍等の重篤な副作用が発現するおそれのある薬剤を継続的に投与する場合には、原則的に許容されている投与期間を超えて投与するとか、副作用の発生の兆候がみられるような場合、副作用が発生したか否かについての十分かつ適切な検査をする義務があると解するのが相当である』


・ポイント:

判示では原則5日間のボルタレン投与期間を超過して投与していたことが問題とされ、なおかつステロイド点滴治療との併用も問題視された。患者の訴えとして、5日目頃に膨満感があったのに内視鏡検査等の実施をしなかったことが過失とされた。薬物の副作用として平易に考えられ得る症状が現実に発生した場合には、たとえ患者側が申告していなくとも薬物投与側が適切に判断しなければならず、その責任を負わされるということである。



風邪薬や鎮痛剤等で、投与期間の原則はどの程度守られていると考えられるだろうか?別の店で購入したりしていても、購入者以外には判らないのではないか?
ネット販売業者が投与期間によって購入制限を設けていたりするものなのか?多剤併用になっている一般購入者は、珍しくないのではないか?
患者が「~の既往はあるか?」の問いにNOと答え未申告であろうとも、その過失割合は2割に過ぎないか、事例1)の如く聴取できないとしても投与側に責任が存すると決めつけられてしまうのである。



医療者には過度に厳しい基準で過失認定、達成が困難な程度に高度な義務を課すくせに、何故か同じく薬物投与する立場の一般販売業者や薬局などには安易に投与することを推奨しているのが、最高裁判事なのである。




医薬品のネット販売に関する最高裁判決~場当たり司法の歴史

2013年05月13日 13時07分08秒 | 法関係
以前から司法の医療界に対する判決がオカシイということについては、それなりに知られていたことではある。薬物についての判決については具体的に書いてみたことがなかったので、今回少しまとめておきたい。



まず、総論として言えば、過去の判決例では裁判官がその場その場で、まるで「思いつき」の如き判決を積み重ねてきた、というのが個人的感想である。そして、そのことを医療サイドからは「トンデモ判決」ということで非難されてもきたわけだ(ところで、医療過誤問題の検証機関を設けよう、みたいな話は立ち消えとなったのかもしれないが、あれも医療サイドへの「政治・行政からの攻撃」とこれを支援した司法界、と見るべきであると感じている。理由なき医療バッシングではないということ)。




その司法界の頂点であるところの最高裁が、どういうわけだか医薬品のネット販売全面解禁には非常に熱心に取り組んでいるんだそうで。つまり、三木谷のような連中をバックアップするべく、司法の力を遺憾なく発揮しております、ということ。これはTPPの推進と同一線上にあるものだ、と言っているのだよ。

三木谷の背後にあるものとは何か?
従米派、グロバーリスト、グリード企業群、そういうヤツらである。



日本の最高裁長官が砂川事件で何をやったかを見れば、司法界の清廉潔白がどういうものであるか、ということがよく理解できるだろう。

まあいい。


以下に、過去の判決例を挙げ、若干の検討をしてみたい。




1)広島高裁(H4.3.26)

・概要:
喘息既往患者の鼻茸術後にボルタレン2錠投与にて、アナフィラキシー様発作で死亡。2度の問診・診察でもアスピリン喘息の疑いが完全に払拭できていなかったのに、ボルタレンを投与したことに過失がある。


・判示:

①『たとい医師の再度の問診の結果患者がボルタレンなどの鎮痛解熱剤によって喘息の発作ないしはアナフィラキシー様ショックを引き起こした事実を聞き出せなかったとしても、それだけで患者はアスピリン喘息ではないと確定診断を下すことはできず、負荷試験を実施しない限り、患者がアスピリン喘息であるとの疑いはそのまま残っているものと言わざるを得ない』

②『鼻茸の手術を終えた患者が鼻部疼痛を訴えるので、同女に鎮痛剤を与えるべく、医師が記載したカルテ等によって禁忌の薬剤をチェックしたところ、カルテには「ピリン禁」とは記載してあったが、薬による喘息発作の既往歴なしとの記載があったところから、当番医師は医師による問診の結果患者のアスピリン喘息の疑いは払拭され、したがってボルタレンを含む酸性解熱鎮痛剤に対し禁忌ではないものと即断して、患者にボルタレン2錠の経口投与を指示した』

③『前示のとおりアスピリン喘息の患者にはボルタレンを使用してはならないとされているのに、当番医師は、アスピリン喘息とは断定はできないもののその疑いが残っていた患者に対し、同女はアスピリン喘息患者ではないとの誤った判断を下して、ボルタレン2錠をいきなり使用した過失があるといわなければならない』



・ポイント:

①より、医師は念の為二度の問診を実施していたが、患者から「薬物による喘息発作の既往なし」との聴取しか得られていなかった。それでも、負荷試験を行って確定診断を得ていない限り「アスピリン喘息の疑いは払拭されない」。にも関わらず、②の通りカルテに「アスピリン喘息発作の既往歴なし」との記載により、これを禁忌なしと即断したことは過失がある、という認定(③)である。

裁判所としてはアスピリン喘息或いは薬物アナフィラキシー(アレルギー、判決文中のママ)の疑いの残る患者に対して、負荷試験等で確定診断を得るべし、ということであり、これがない限りは投与することが過失となる。



すなわち、患者に喘息がある、或いは鼻茸がある、といった場合には、患者自身が「薬物でアレルギー発作等の症状が出たことはない」と申告したとしても、投与側の義務が果たされたことにはなり得ず、負荷試験等で確定診断を得るべきである。これがなければ薬物アレルギーの可能性は払拭されず、投与した側に過失認定される、ということである。



さて、これがロキソニンだった場合、どうだろうか?
最高裁判事たちは、第1類のロキソニンSを投与(販売)する人間が、喘息か鼻茸の有無について全例確認し、その上で負荷試験を要求しているとでも言うつもりなのか?

もしも負荷試験を実施していないのに販売しており、その結果として発作を起こせば過失認定、ということだ。
ネット販売業者からは「被害は1例もない」みたいに豪語していたようであるが、それは本当なのだろうか?
患者本人の申告だけでは過失回避はできないのであるから、既往ナシと申告した患者に発作が発生した場合であっても投与した側が賠償義務を負うので、販売業者は被害を賠償すべきである。