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一年の終わりに

2005年12月31日 13時59分58秒 | 俺のそれ
今年最後の日となりました。自分の実感は、凄くいい年でした。とても自分が幸せに過ごせているんだな、と心から思います。世の中では色んなことがあったのですが、思いもかけない出来事が沢山ありました。事故や災害も多かったです。聞くに堪えない酷い事件もありました。被害に遭われた方々、ご家族や関係者の皆様には、心からお見舞い申し上げます。


このような事故や災難に遭遇しなかったということも、特別な病気などもなく健康で過ごせることだけでも、有難いと思い感謝しております。幸せとは、そうした身近にあるものだと感じています。昔の「無病息災」ということには、それなりの意味が込められているんだな、と思います。


私個人的には、やはり総選挙と政治的変革が大きなものでした。自分がはるばる東京まで行って、国会議事堂や自民党本部を見たり出来たことも、貴重な体験でした。公募候補の面接を受けたから言う訳ではありませんが(笑)、選挙があったことが結果的には良かったと思っています。特別会計や昔で言うところの特殊法人などにもメスが入れられることとなり、役人達が作り上げてきた「錬金術システム」の取り壊し作業が多少なりとも進められていけそうです。もしも、今までの仕組みを霞ヶ関が本当に「ベストな選択」ということで作ったのだとしたら、余程愚かな選択をしたのだろうと思います。国民には選択をする為の正しい情報が与えられていなかったとしか思えないですね。


近年は情報公開が進められており、そのことが国民の政治的成熟に繋がる可能性はあると思います。少なくとも関心を持つことが、情報に接する機会は増加すると思います。ブログを書いていて思ったのですが、今年ほど行政の出している各種の情報に多くアクセスした経験はありませんでした。いつも調べて書いたりしてなかったのですけれども、何とか情報にアクセス出来れば、そこから色んなことが判ることもある、ということだと思います。そして、国民に広く知らせることが出来るように、誰かが何かの作業をしなければなりません。それは専門家の方々やマスメディアの方々や、或いは一般個人などでも多少は可能であると思います。


それと色々な人達が、リンク先にそうした行政側が公開している情報が選んだりすることも多い。多分、ネット上での情報公開が進められる以前であれば、そこまで容易に国民が元々の情報に接することも出来なかったであろうと思う。このことが政治や政策決定について何らかの影響を持つようになってきているかもしれない。例えば何かの審議会委員に選ばれていない学者達が会議には実際に参加できなくても、意見表明をネット上で行うことで、「公開された討議の場」という効果をもたらしている可能性もある。経済財政諮問会議の議事録にもそのような効果があると思う。国民がオブザーバーの1人となって会議に参加していることと同じような意味を持つと思います。耐震偽装事件でも示された「情報の非対称性」は、国民と政府や行政機関の間に大きな溝を生んできましたが、それは改善されつつあると思っています。


今後の試練は、とりあえず来年の総裁選にまつわるものであろうと思います。次の政治リーダーを選択する時に、「どのような将来像」を国民が期待しているのか、ということにも関係するでしょう。政治的な成熟過程の一つと思えば、国民にとっても重要な経験となるでしょう。


それから、観念的なことや道徳的なことでは物事が解決出来ない、ということもよく出てきます。精神論ではダメなんだ、ということは、そうだろうな、と思いますが、精神を伴わないことなんて現実にそんなにあるのだろうか、とも思ったりするのです。論理性とか合理性とか、そういう難しい考え方は必要でしょうけれども、私には理屈がどうこうとかより”根本的”に「善き人々」に期待したいという思いがあります。「善き人間」が多くなることを目指すことで、色々な問題が解決に向かうとするならば、やはりそちらを支持したいと思うのです。「犯罪は防げない」「偽造も防ぐのが難しい」「談合も防げない」・・・確かにそうなんですけれども、根本は人間教育に関わっているのではないのかな、と。犯罪を減らす為に、刑罰を重くしていくことで防ぐことよりも、本当は犯罪者とならないような倫理観醸成や教育によって発生率が減る方がいいと思っているのです。「奇麗事に過ぎない」という批判も判ります。傍から見ればバカかもしれないけれども、そういうことを信じて生きていきたいと願っているのです。


何だか変な方向に逸れてしまいましたが、今年一年有難うございました。
来年が皆様にとって良い年でありますように、祈念申し上げております。
夜更かしで体調を崩されたりせぬように、ご注意下さいませ。
私も御とそを飲みすぎないように(笑)、自重したいと思います。
でも、飲んじゃうと思いますけれども。ビールもね。

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少子化と労働問題9

2005年12月30日 02時44分19秒 | 社会全般
前の続きです。子供の出産についての経済学理論背景については、92年にノーベル経済学賞を受賞したベッカー博士の研究によるベッカー理論というのがあるそうです。経済学の専門書などを見て下さればよいと思いますが、素人なりの理解として簡単に書いてみたいと思います。


出生に関する要因としては、次の4つであるとされている。

①予算制約(=家族とか世帯収入)
②子供にかかるコスト
③出産・育児の機会コスト
④子供から受ける効用

判りやすいところから行きましょう。①の収入ですが、これはそのまんまです(笑)。一家に入ってくるお金が少なすぎると、出産しようということは経済学的に「無理」かもね、ってことですね。④の「受ける効用って何よ?」という意見もあるかもしれませんが、簡単に言えば「喜び」でしょうか(笑)。子育てに伴って、それなりに楽しみもあり、嬉しいとか喜ぶこともあるな、と。経済学的に言うと、「効用」ってことですが、子供の数と子供の「質」に比例した単調増加関数として捉えられています。子供の数が、1人よりも2人、それより多くなれば「喜び」も増えることが多くなる、ということですね(こうした経済学での評価が現実的感覚と合ってるかどうかは別として、一般に子供が増えれば、運動会に行ったりする回数が増えて喜びも増えたりするようなものと思って頂ければいいのではないでしょうか。私はそのように理解しました)。「子供の質」って何だか変じゃないか?というご意見もあると思いますが、これは後述致します。

③の機会コストですが、これは出産や子育てをした時に失われる収入や時間があって(こうした「失う」という感覚に反論もあるとは思いますが、あくまで経済学的な評価ですのでとりあえずおいておきます。行動や意思決定に際しては、経済学的合理性と生物学的本能の優位性というか、行動決定に及ぼす影響の大きさは評価の対象とはしないものと考えて下さい)、これを出産や育児などに振り向けず、他のこと(一般には仕事をしたり余暇を楽しんだりとか)に使った時に得られたであろう、期待収入の大きさです。現状の雇用環境のような、出産や子育て後にキャリアの途切れた女性がパートなどの非正規雇用になって収入が失われた場合に、(結婚や出産をせずに仕事を継続した)正規雇用者と比して収入格差が1億円とか2億円などと言われるレベルで存在すると、機会コストもかなりの高額となることが予想されますね。夫が死亡したりして年金暮らしとなった後でも年金収入に格差は残りますから、一生涯続く格差であると考えた方がよろしいかと思います。

最後の②ですが、これはちょっと判りにくい部分があります。子供にかかるコストは、基本的に人数に比例しています。人数が多ければ費用もそれに比例して増える。これは感覚的にも理解が出来ると思いますね。で、費用構造がどうなってるかと言うと、「単位当たりのコスト」×人数×「子供の質」という関数となります。「子供の質」ですが、こりゃ何だろうな、と普通不思議に思うのではないでしょうか。私なりの理解を例示しますと、次のようなことです。
「子供の質」を高める為には、習い事をさせたり、塾に通わせたり、いい私立学校(これも何がいいのか不明ですが、一般に信じられてる「いい学校」です)に通わせるとか、中卒で教育を終わりにせずに大学に行かせるとか、そういったコストを支払うことによって「子供の質」が高くなります。これは特別「いい子」とか「才能溢れる子」とかそういった評価ではなく、単純に「子供にかけるコストの大きさ」によります。「質が高い」というのは「子供に多くの投資をしておく」ということに他なりません(そう理解しました)。「単位当たりコスト」というのは、1人の子供にかかる「質」一単位当たりのコストで、初等・中等教育とかにいくらかかるのか、ということが基本です。「質」を正確に評価するのが難しいのですが、仮に公立での義務教育終了までに要する「質」を1単位とすると、更に大学卒業までは10単位ということであれば、1単位に300万円かかるなら大卒1人を誕生させるには11単位かかるので3300万円ということになりますね。この「質1単位当たりのコスト」という評価はちょっと難しい面もありますね。だって、小学生に塾に行かせたり、水泳や英会話を習わせたりするとコストは高くなりますが、皆がそうやってる訳でもないですし。公教育を基本として考えてもいいと思いますが、「質が高い子供」というのは、こうした投下資金が多いということです。「質の高い子供」からは受ける効用も多くなりますので、たとえば習い事をしていれば発表会があったり競技大会があったりして、親もそれなりに「喜ぶ」ということなんだろうと思います(喜々としてビデオ撮影したりとか、ヨソの子よりも素晴らしかったとか・・・そういう「親バカ」状態かな?)。


ベッカー理論の特徴としては、「①の収入が増えると、子供の数が抑制的となることもある」ということです。これは仮説の前提が問題となると思いますが、収入が増加することは結婚にも有利に作用し、一人目の出産にも正の相関を示します。ところが、収入の多い世帯というのは、続いて「質」を高める努力をしてしまう、ということになります。例を挙げると、収入が少ないと高校までの教育しか子供にコストをかけられないから、大卒は無理だったが、収入の多い世帯になると大卒までは可能となる、つまり「質の充実」を目指すようになる、ということです。特に(出産数が)3人目以降にかんしては、世帯収入が負の相関関係を持つようになり、質を充実させることが優先されるのです。収入が増えると、複数の子供を出産するのを抑制してしまう、ということですね。実証研究的には、経験的にこれが成り立つと考えられているようです(Seiver)。

(ちょっと追加:日本でも昔から「貧乏の子沢山」という言葉があって、収入の少ない家庭に多くの子供が生まれている、ということが経験則として存在したかもしれないですね。元々の出典が何なのかは知りません。農村などの「労働力要因」とか家父長制的な「元気な男子を多く産め」的なことなのか、はたまた「避妊がなかった」だけ(笑)なのか、理由は不明です。途上国で出生数が多いということも、似ている気もします。)


日本でベッカー理論の研究者として有名なのが、八代日本経済研究センター理事長だそうで、『結婚の経済学』という著書も書いているそうです。八代氏は以前記事に少し触れました(経済学は難しい10)。八代氏は年金問題や雇用問題などでも幾つかの提言(八代参考人提出資料識者に聞く(下) 八代 尚宏・日本経済研究センター理事長 : 年金改革 : 特集 : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞))を行っているようです。頑張って欲しいものだと思っております。



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少子化と労働問題8

2005年12月29日 18時53分36秒 | 社会全般
昨日のボーリングのせいで体が痛かったりしますが、成績についてはご勘弁を。48ゲーム投げて逮捕された男性よりもはるかに低いアベレージであったことはお伝えしておきます(笑)。これはどうでもいいですが、R30さんが少子化問題に触れてるので([R30]: なんで年末になると少子化対策の話になるんだろう)、私も参入しようかな。今までの記事の延長でもありますしね。


少子化を改善させるには、基本的に「女性に1人でも多く産んでもらう」というですね。で、単純に言うと、
①既婚者には1人でも多く産んでもらう
②未婚者には出来るだけ結婚してもらう

という大まかな戦略しかありません。①は当然判りやすいですけれども、②は何故なのか?この意味とは、結婚が出産と関連性があるのかどうか、ということですね。日本においては、未婚女性の出産というのは、極めて少ないのが現状です。正確な数字は忘れましたが、恐らく5%もいないと思います。つまり毎年生まれてくる赤ちゃんが100万人であれば、未婚女性の出産が5万人以下しか存在しない、ということです(実際はもっと少ないと思いました。1~2%くらいだったかも)。このことは社会環境・倫理観・宗教的背景などの複雑な要因があるでしょうから、よくわかりませんけれども、出産を増やそうと思ったら、まず「結婚してもらう数」を増やすことが必要、ということですね。


①に戻りますが、既婚女性達の意識としては、「産みたい子供の数」と「実際に産んだ数」ということに乖離が見られます。「1人も出産したくない」と考える既婚女性の殆どがそれを達成しているのに対して、「2人は欲しい」と思っている既婚女性のうち3人に1人くらいは「1人しか産んでいない」ということが見られます。同様に「3人欲しい」と考えている女性も、現実には1人又は2人しか出産しておらず、この「希望する子供の数」を実現させてあげられるような環境を整えることが必要ということになります。そういう社会全体の認識というものが伝播されることも、出生行動に影響すると考えられています。しかし、この「希望する子供の数」を希望している人達全員に叶えてあげたとしても、出生率は1.5程度にしか戻らないと言われています。つまり、既婚女性の自由意志決定(夫婦間の決定でもあるが)を尊重して、希望を達成させたとしても、かつての「1.57ショック」時代(90年頃)程度にしか戻らない、ということですね。このくらいであっても、戻らないよりはいいと思いますが。

ですので、やはり両面作戦(①も②も増やす)を実施するというのが望ましい、と考えられるのです。


内閣府の統計分析がマヌケだなと思うところは、「男性の数が減少に転じたので、将来不安だ」そうです(非常に大雑把に言えば、ですよ)。でも、本当はそんなこと全然重要ではないんですよ。女性の方が平均寿命がかなり長いから、男が先に「逝って」しまい(笑)、おばーさんが沢山残るに決まっているんですよ。ちょっと頭悪いね、内閣府も。そんなことは全然大したことじゃない。でもね、前にも書いたけど(右翼化する時代)、各年代で生まれてくる赤ちゃんの男女比が、毎年毎年男の数が多い、ってことは問題なのですよ。つまり人数割合から言って、「男が余る」ってことですって。これは機械的に夫婦のようなカップルを作っていったとしても、男が確実に余る、ってことなんですよ。夫に先立たれた女性に余った男を割り当てても、妊娠させられる訳でもないですし(笑)。


面倒ですが、具体的に書いてみますね(総務省統計局の「日本の統計」参照)。
まず団塊世代から。順に、生まれ年(1947~50)、生まれた数(男女合計、単位万人)、女性の上回った数(万人)です。

47  220  1.5
48  231  1.6
49  232  1.4
50  212  1.0

つまり、団塊世代では女性が毎年多く生まれており、その割合は大体0.5~0.7%と、男女の開きは少ない。ところが、不思議なことに、これを境にして、毎年男性の方が多く生まれるようになった。この理由は全くの不明です。50年代頃に男女の産み分けがあったとも思えないですし。理由は謎ですが、毎年男性が多く生まれるようになって、その傾向が50年以上続いている、ということです。普通は全くの自然なバラツキがあれば、確率論的には2分の1ですので、男性が多い年もあれば、逆に女性が多い年もあってもいいはずなのですが、どうしたことか、それが全くない、ということですね。男性が生物学的に「欠陥」が多く(遺伝子的には、女性よりも弱い?)、その「先に死亡する確率」を自然に補正しているとでも?民間療法的な、「こうすれば男子が生まれやすくなる」とかっていう方法を実践した人達が増えて、その通りになったとか?(笑)そんなことはないと思いますが、不思議ですね。

同じように、若い世代を並べてみましょう。今度は最後の数字が男性の上回ってる数です。

71  194  1.8
72  199  2.2
73  203  1.9
74  199  2.7
75  189  2.6
76  181  2.9
77  173  3.3
78  170  3.8
79  165  4.1
80  162  4.4

このようになっています。71年生まれの人が34歳ですね。71~75年位は団塊ジュニア世代ですので、人数が多くなっています。51~70年までの間でも、男性が少なかった年は一度もありません。環境ホルモンの影響?でもないでしょうが、これは重要な問題かもしれませんね。で、この僅か10年間だけでも男性が29.7万人、つまり約30万人くらい男が多いのですよ。この前の20年間でも毎年男が余っていて、大体0.5%前後多かったのに、更に輪をかけて「男余り現象」が悪化している、ということです。71年では約1%程度の余り人数だったのが、80年では約2.7%と余り具合が悪化しているんですね。この傾向は今でも続いています。参考までに、もっと若い世代を書いてみますと、次の通り。

85  144  3.6
90  124  2.9
95  121  2.8
00  117  3.0
03  113  3.1

このように、男性が余る数は約2.3~2.7%ということになっていて、書いてない年でも大きな違いはなくて、毎年2.5%前後男が多い現象は続いています。このままいくと16~34歳の中では、ざっと60万人は男余りとなってしまうということです。女性の生まれてくる数が減る中で、実数でこれほど余ってしまうとなると、結構厳しいかも。内閣府の分析で「男が少なくなって、どうしよう」ってのは、全くのいい加減な記述なのですよ。そういう問題ではないの。こういう要因も、男にとっては不利な要因として働くかもしれませんね。


すみません、途中ですが席を離れます。

後で出生に関する経済学的背景を書いてみたいと思います。


追記:1月7日0時頃
PPさんから頂いたコメントのリンク先が正しい資料でした。毎年、男性が多くで段階世代であっても、女性が多いということはありませんでした。お詫び致します。上の記事は間違いがありますが、このままとしておきます。

あと、山田昌弘教授の『結婚の社会学』という著書の中では、「男余り説はガセ」という説明らしいのですが、読んでいないので判りません。男の方が数は多いが余らない、というのも今ひとつ・・・?


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ボーリングにいく予定(他、雑談追加)

2005年12月28日 15時46分26秒 | 経済関連
去年もありましたが(ボーリングの結果は?)、またボーリングです。苦手なのに(笑)
落合先生が、48ゲームを投げた男が料金を払わなくて捕まった記事をピックアップしてました。はっきり言うと、その男は「凄い」と別な意味で感心しますね。


私は筋肉痛になってしまいます。下手だし。
3ゲームが限界。握力が弱くなるし。
ボールが曲がる。手首が弱いからだと言われます。
リストが安定してないんだ、と。
でも、良くならない。気をつけていても。


飲みすぎにも注意したいと思います。


ああ、切込隊長が散々書きまくってた「誹謗中傷軍団」のうち、悪質業者じゃなくて悪質な書き込みを行った人達を「告訴」するかもしれんとか書いてた。

でも、告訴の間に合う期間は6ヶ月ではなかったですか?違ったかな?


来年になってしまったら、もう告訴期間を経過してしまってるんではなかろうか?

追記:
よく見たら、8月以降に書いてた人達に告訴警告みたい。半年以内で勘弁してやった、ということのようです。つまりは、最初の頃の嵐に参加した人々は「免除」、しかし、それ以後にもしつこく書いてたのは「許さん」と。ナルホド、一部「自由な言論」を許容しつつ、限度を超えたやつに関しては、本気ですよ、と。

選挙の後で、郵政法案の「反対」組と、「欠席・棄権」組で処分を分けたようなものですかね。



かなり前の出来事だったから、もう忘れましたね。

振り返ると、このような記事を書いてたんだ、私。

ネット言論の試練1

これって、GW前にあったことですから、もう6ヶ月以上過ぎてしまってるんでは?この後にもしつこく、「匿名の陰に隠れて、卑怯な誹謗中傷を投げつける輩」(某IT弁護士風)達が活動を続けていたんでしょうか。だとすると、かなり粘り強いというかしつこい感じの方々がいたのでしょうかね。

最近、燃やすとか爆破するなどといった、不穏な書き込みをしていた若者達が、続々と官憲に「挙げられて」いますからね。被疑者特定、刑事罰アーンド損害賠償請求、ということになり、刑事罰は罰金刑?とかだろうと思うが、損害賠償請求は手痛いかもしれないですね。「お灸」によって、べら棒に高い「悪口料」となってしまうかもしれません。「一文字いくら」って(笑)。


因みに、私にもちょっぴりくらい「御礼」してくれればいいのに。
百億も持ってんだったら、「詰め合わせ」の一つや二つくらいくれてもバチは当たらんだろう(笑)。誹謗中傷工作員部隊の影に怯えながらも、擁護派に回って記事を書いた勇気を評価しておくれよ。


こりゃ、ま、冗談ですけど。
今後も面白い記事を書いてくれるといいが、最近原稿料の発生するものだけに精力を注いでる感があって、やや「卑怯」な気もする(笑)。タダでも、面白い記事を書いてくれたらいいのに。また、本でも出して、「金払った奴だけ、読んでよし」って目論見なんでは?普通の庶民達から、「細かく印税ゲット」というのも、腑に落ちないが(笑)、これも仕方ないか。世の常ですから。

金持ってる奴の所に、金が集まるように出来ているのです。ひょっとして、金の「磁石効果」理論とか?そんなのあるわきゃないけどね(爆)。


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続・思考の自由と脳

2005年12月27日 20時41分02秒 | 俺のそれ
前置きが長くなってしまいましたが、人間の意志はどうなのか?思考というものが、「全ての原子や分子」の物理化学的法則によって運命付けられているのか、予期は可能なのか、ということも気になります。これには、私独自の考えがあります。特別な科学的知識もないので、「大ウソ」と思ってお読み頂いた方がよろしいかと思います(ちょっと部分的に加筆、修正してます。21時半頃)。


まず、脳の基本的仕組みはニューロンの電気的信号によって、信号が送られ、出力も電気信号に過ぎません。簡単なたとえとしては、スイッチのON-OFFと同じようなものです。電気信号自体は、NaイオンとKイオンの入れ替わりによる膜電位の変化でしかありません。これは浸透圧といった性質によるので、特別な「意志」がそこに存在しているようには見えません。単に、信号が「ある」か「ない」かのどちらか、ということになると思います。それなのに、人間の脳が何故複雑な思考とか、人それぞれの異なった反応や行動を見せるのか、タダの原子や分子にその判定能力とか特別な思考が備わっているとは思われません。なのに、何故こうもバラバラなのか?変化に富んでいるのか?これに対する個人的な考えを持っていますので、ちょっと書いてみます。


また変なたとえなので、お許しを。今、ある男の目の前に女性がいるとします。この女性が好みの人もいれば、「いや、そうでもない」「タイプじゃない」と思う人も出てきますね。このような「嗜好」をあらゆる原子・分子が判断しているとは思えないのに、どうしてこのような違いを生ずるか?それはネットワークの面白いところだと思います。きっと、「過去の記憶」ということが大きな意味を持っているだろうと考えます。


次のような質問事項を考えてみましょう。
「眼前の女性のどこが好みなのか」

①長い髪
②細い足
③ボイン
・・・

このように幾つかの入力情報を区分するとします。それぞれに、スイッチ①~③があるとしましょう。スイッチがON状態をニューロンの「興奮」、スイッチOFF状態を「抑制」としましょう。興奮すると電気信号が発生して、他のニューロンへと伝えるものとします。すると、上の3つの条件であっても、それぞれに「興奮」と「抑制」状態があります。①と②だけの組み合わせであると、ON-ON、ON-OFF、OFF-ON、OFF-OFFの4通りですが、①~③だと2の3乗で8通りとなります。ある意味、コンピュータの2進法的な世界ですけれども(ON、OFFがそれぞれ1、0に対応)、こうした入力情報の色々なパターンがあると思われます。どの情報が常に興奮なのかは、これまた条件によって異なるかもしれません。例えば上の情報で言えば、③がONの時には、①がONでもOFFでも、出力が「興奮」(ON)で出てくる、とかですね。最終出力が「興奮」で出てくると「好み」という判断となり、それに応じた行動が決定されていく、ということです。


情報の処理経路(信号が通過するニューロン)、興奮順序、などという違いによって、色々な情報が組み合わさるのではないかと思います。容姿に限らず、匂いや髪の毛の手触りとか別なものもあるかもしれません。要するに、こうしたON-OFFの組み合わせだけでも、膨大な数になります。情報が仮に100あるとしたら、その数は2の100乗となって、想像出来ない程の膨大な数です。新聞紙を42回折ったら、月まで届く厚さとなるのは有名な話ですね(41回だったか?正確ではないですが、大体そういう凄い数です)。それよりも50乗以上多いのですから、新聞紙を100回折りたたんだら何処まで到達するか見当も付きませんね(判る方がおられましたら、どうぞ教えて頂けると幸いです。数字的には約1.27×10の30乗のようです。10の30乗は100兆円入りのバッグが100兆個あるという状態?です。余計に判らんな)。数学の経路問題のような、膨大な数の組み合わせの中から人それぞれに独自のON-OFFネットワークを構築するので、そのバリエーションの多様性から「自由意志」というようなものが感じられるのだと思うのです。


人間が処理する情報の数は凄く多いので、どの経路でどの神経細胞が興奮したか、というのが、きっと重要なのだろうと思います。そしてその経路は大抵強化される。簡単な例では、将棋とかゲームの強い人が瞬時に判断できる、というようなこととか、スポーツ選手の鍛錬などによってもある特定の領域のネットワークが強化される(情報処理速度が強化される)というようなことだろうな、と。過去にどれ位興奮したか、ということが意味がある、ということです。


ある人の傾向とか、性格・人格とか特徴というようなもので言えば、こうした質問事項に対して、多くの場合どのような処理をしているか、という傾向があって、それを他の人達から見た時に何となく判る、ということだろうと思います。また例を考えましょう。


次のものと出会った時に、脳からの出力命令としての行動が「闘う」か「逃げる」かを選択するとします。

①犬
②猫
③牛
④やくざ
⑤女房
⑥おばけ
⑦ライオン
・・・


このようにバリエーションがあって、全部「逃げる」を選択するような人は、例えば「臆病」や「弱虫」というような傾向を示し、周囲からの評価もそのようなものとなる、ということですね。このどれに「闘う」を選択し、どれに「逃げる」を選択するかは、これも組み合わせ数が増えます(①~⑦だけでも128通りかな?)。これらは組み合わせがそれぞれ異なるために「個性」として認識されるのだろう、と思います。⑥のおばけですけれども、これは出会ったことが無いじゃないか、ということがありますね。その通りです。こういう頭の中にしか存在しないようなもの(実在するのかもしれないですが、私は見たことがないです)に対しても、「判断出来る」=「脳の出力結果が出せる」というのが、人間の大きな特徴だろうと思います。それは「架空の情報」に対しても、処理する経路を作っている、ということです。「ライオン」にも、実際に出会ったことがない人達は沢山いると思います。しかし、ライオンを目の前に見なくとも脳の命令を出力できる、ということは、「ライオン」という「言葉」によって他からの情報(他人との共有情報)を自分の中に取り込むことが出来る、という性質によると思っています(人間の社会性と言葉)。なので、架空のお化けに対しても、反応を決定することが出来てしまうのではないのかな?


別な面から考えましょう。次の質問があるとします。

「もしも、次の人に助けを求められたら、おんぶして助けることが出来る」
YesかNoで答える。

①腹がすいた子供
②弱ってる美女
③足を怪我した老婆
④強烈にくさい浮浪者
⑤自分の2倍以上重い肥満者
・・・

このようにあるとしたら、今までの人生経験の中で、あらゆる情報処理やその場面に応じた脳の出力命令があったでしょうから、そういうことに照らし合わせるということになると思います。これは持っている情報や処理した経験などが総合的に組み合わされると思います。で、例えば、①~③はYesで他はNoとします。これはこれでいいのですが、各質問に対して、Yes-Noの組み合わせを見ていくと、人それぞれで多少答えが違っていたりする。これは個性ですが、「常識的」「平均的」というのは、最も多かった答えだろうと思います。つまり、①~③はYesがそれぞれ95%、70%、90%で、④と⑤がNoというのがそれぞれ60%、75%であったとしましょう。このYes-Noの多数派が大体平均的と考えられており、例えば①~③の全てをNoを選択した人は確率的には0.05×0.3×0.1=0.0015となりますから、1万人中わずか15人しか存在しない、ということになります。つまり「変わり者」というか「滅多に出会わない人」というような感じでしょうね。しかし、ここで落とし穴があって、実は全部を常識的と考えて答える人がいたとしても、それはまた少数派であることも多いのです。この例で言うと、全部を多数派で回答した人(Yes-Yes-Yes-No-Noの組み合わせ)がいたとすると、その人達は全体の約6%程度に過ぎません。つまり、Yes-Noの組み合わせでは、「望ましい」というか「平均的」と思う方を全部に選択したとしても、それもまた「割と少ない人」ということになりかねない、ということです(笑)。正答率が50%の問題を100問やったら、全問不正解の人と全問正解の人とは同じ分布です。つまりどちらも「変わり者」ということになります(多数派ではない、という意味ですけど)。要するに、ちょこっと間違えたり、反対の答えを選ぶのもまた個性であり、そういうバラツキがあることの方がより「普通」だということですね。


こうしてみると、脳の出力結果は、仮に物理化学的信号にのみ依存していたとしても、多様な反応を形成できそうではないかな、と思っています。脳のネットワークでの情報処理は、過去の記憶情報とか興奮歴を「参照」して決定されると思います。

好きな食べ物があるとして、好物がラーメンであるとしましょうか。でも、この人が「これから何を食べようかな?」と考える時には、色々な情報の組み合わせになると思います。
(興奮=ニューロンが興奮ということで、肯定的ということです。抑制は逆です)

・ラーメン:興奮
何度も食べて快感を得ている、ネットワークは強化されている=一番好きな食べ物
「でも昼も食べたので、今は食べたくない→条件付加で抑制に変更」
・カレーライス:抑制
子供の時好きだったが、フラレた彼女の手作りカレーが不味くて、以後嫌い
「やっぱり嫌いだな」
・肉じゃが:興奮
お袋の味を思い出す
「でも、今ここにはお袋がいない→条件付加で抑制」
・牡蠣フライ:抑制
中毒気味になったことがある、以後拒否反応で食べられない
・パスタ:興奮
彼女と一緒に食べることが多くなり、好きになってきた
「今度どんな種類が美味しいか彼女に教えてあげよう」

・・・・・・・

このようなことを大体瞬時に判断するようなものですね。よく使うネットワーク回路は、有効なものをすばやくピックアップして、将棋棋士とかと同じでダメな選択肢は最初から捨てていくことになります(上の例では牡蠣フライですね)。ラーメン回路は強力でしたが、特定条件がある時には、抑制的になってしまう、ということもあるだろうな、と。そういう条件付けについても、やはり過去の学習・体験などに基づいて決められるのだろうと思います(しかし、時には普段は有りえない選択肢を選ぶこともある、失恋した時とか、笑)。こうした条件付けの組み合わせも、無限にあるので、みんな別々なネットワークと興奮経路と参照情報を持つ、ということになるのではないかな、と。言葉の多さ(語彙の多さ)や知識の豊富さなども重要な参照情報ですね(体験に基づかない仮想情報)。でもこれも行き過ぎると、やはり良くないのではないかな、とは思いますが。


(因みに、例に挙げたものは全て空想ですからね(笑)。自分の経験に合致するものは一つもありません。肉じゃがは大して好きじゃないし、牡蠣は当たったことはないですし。他も空想ですからね。本当です!)


結局、自分の意思決定と思えることというのは、個人のそれまでの人生全てが詰まっていて、たとえ0、1の電気信号の世界でしかなくとも、そのバリエーションは無限にある、ということです。瞬間瞬間に、そうした情報処理が絶え間なく行われてきているから、どのようなネットワークとか条件付けとか参照情報を獲得したか、というようなことが、一人ひとり全員違うものとなっている、ということです。未来を予測することは難しいのですが、ある特定の行動決定を推測することは可能ではないでしょうか。例えば、「火事になっている家からは逃げる」とか「ライオンに追いかけられたら、走る」とか。経済的な行動決定もこれに似ていて、「株が暴騰すると、株を買いたくなる」とかも。これもどの程度Yes(or No)と答えるか、という確率を予測する、ということになるかと思いますね。個々の人々のことを予測は出来ないが、確率分布でならば推測可能、ということになるのかな?

「郵政民営化に賛成」「靖国参拝に賛成」「憲法改正に賛成」「中国と貿易拡大に賛成」「北朝鮮に経済援助に賛成」・・・とか沢山の質問事項があれば、その答えの組み合わせの分布はかなりバラけるだろうな、と。こういう政治思想的なことも、選択結果に過ぎないのでしょう。

でも、運命論的には決まっていないのではないかと思います。


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思考の自由と脳

2005年12月27日 20時36分17秒 | 俺のそれ
今までにかなりいい加減なことを書いてきたのだが、今回も無謀な考えを書いてみたい。これはあくまで個人的感想に過ぎないので、本当の所はきちんとした脳科学に関する研究などを参照して下さいね。

先日finalventさんが極東ブログ(人生ゲームから自由意志について偽科学哲学的に考える)でサイコロ問題とかに触れていた。人間の自由意志も。これはとても哲学的なお話なので、難しいなと思った。でも、非常に大きな影響を受けたので、自分なりの考えを書いてみようと思う。全然間違っているだろうから、もし正しい答えを知っている方は、優しく教えて下さいね。


まず、サイコロ問題から考えてみたいと思います。普通は、「サイコロの目」が事前には予測できず、1~6のどれかは誰も事前に判らないが、科学的に結果を知る事が出来るか、ということを考えてみたいと思います。

これには、架空の物体を想定してみます。ある「完全立方体」というものを作ってみましょう。「完全立方体」は寸分の狂いなくできており、「カド」とか「頂点」は無限に小さく出来るとします。また、この物体は完全に均一に出来ていて、構成するのは分子や原子などではなく、架空の単一の物体で一定の質量を持つとします。


普通は、「やじろべー」のような物体だと倒れずに、あるバランスを保つことが出来ますね。でも、タダの普通の立方体が、例えば1辺を中心にしてバランスを保ったまま立ってるのを見たことがある人はまずいないのではないでしょうか?或いはもっと難しく、たった1つの頂点を中心にして、倒れずに静止している姿も見たことがないのではないかと思います。私も見たことはありません。しかし、この「完全立方体」は、架空の空間内では、きっと立ったまま静止していることができると思います。この空間に働くのが均一な重力だけであれば、きっと「やじろべー」の如く、立ったまま静止可能だろうと思います。

サイコロは「倒れて、いずれかの面が上に向く」という実際に目にする現象だけを考えると、これは正しいのですが、純粋な物理法則だけの世界であれば、きっと「立つサイコロ」を想定することが可能なのではないか、と思われます。これを見ることが出来ないから、本当なのかは不明ですけれども。でも、数学的には、重心があっていれば、倒れないはずではないかな。


次に、この「完全立方体」が完全弾性衝突のように働くものと考えるとします。落下して台に衝突したり、転がったりする時に、熱エネルギーなどには変換されたりせずに、運動エネルギーが全て別な運動エネルギーに変換される、ということにします。でも、これだと落下させると永遠に動き続けてしまうので、台との衝突によって失われるエネルギーが一部あると仮定して、一定の、ある「エネルギー損失係数」を与えるとします。例えば、衝突時の運動エネルギーが100で損失係数が0.5だとすると、完全立方体に残された運動エネルギーは50に減る、ということになります。この反発力を台から受けて、再び弾んだり転がったりするかもしれませんが、次の衝突時のエネルギーは50であり、受けるエネルギーは25に減る、ということになっていく、ということです。完全立方体は何らかの質量があるので、いずれこの物体を動かせる力がなくなりますから、いつかは静止することになると思います。この時に、出てる目を計算で予測きるか、ということだろうと思います。


あくまで仮想ですが、きっと全て計算できると思います。投射する角度や与える運動エネルギーの大きさ、どの面が上を向いているか、などの初期条件が全て決まれば、最後に上に向いている面を計算によって特定出来ると思います。数学の問題となってしまう、ということです。ではないかな?


最も極端な例を考えてみます。先ほど記したように、この完全立方体は1つの頂点を中心にして立たせることが可能です。この位置を保ったまま真っ直ぐ上に、ある高さまで持ち上げて、落下させたとします。するとこの立方体はどうなるでしょうか?多分、衝突時には頂点(面積はゼロです)のみでぶつかり、再び真上に弾むでしょう。元の高さよりも低い高さまでしか上がりませんね。エネルギー損失係数によって規定される高さまでしか上がれません。この後、何度か判りませんが、ボールが弾むように上下し、いずれは物体を持ち上げられるほどの運動エネルギーが残されなくなったら、静止するでしょう。この時、完全立方体は1つの頂点を真下にして、最初の持ち上げる前の状態と同じく、立っているのではないでしょうか。つまり、どの目も出ていない状態ということになります。
こんな運動をさせられないから、再現は不可能ですけど。頂点の面積がゼロなのに、弾まなくちゃいけないし。


でも、仮想の空間や物体を用いれば、サイコロの目を完全に計算することが可能だと思います。現実には、このような完全立方体を作れず、衝突によって運動エネルギー以外の熱エネルギーなどに変換されたりするので、計算に誤差を及ぼす要因が沢山あるために「予測」を正確に行うことは難しくなると思います。でも、実験的な装置で、かなり厳密に作ったサイコロと、正確に投射できるロボットアームを使ったりして出目を予想することは可能だろうと思います。サイコロのセットする位置(面の向き)とか初期条件を正確に設定し、実験的に出目を測定して誤差修正などをしておけば、かなり高い精度で一定の目を出すことも可能だろうと思います。

普通は、そうした初期条件がランダムに設定されている時、サイコロの目が予測できないだけなのではないのかな、と。このような装置の場合には、最初にどの面をどの向きにセットするか(例えば上に出てる目を何に選ぶか)ということに依存することになり、その選び方の確率は6分の1だろうな、と思います。恣意的にサイコロをセットすれば同じ目の出る確率が、例えば0.95とかになる、ということですね。



アーチェリー、弓矢とかダーツのようなものは、当たりはずれがありますね。中心の高得点の所が難しいのは当然ですが、簡単に考えるために、的に「当たるか」「外れるか」だけを考えてみることにします。とりあえず弓矢としましょう。的に当たる確率が、競技者Aさんはいつも50%でBさんは20%とします。弓矢を放った瞬間には、的に当たるか外れるか大体決まります(突風が吹くとか鳥が飛んできて当たるとかの突発的なことがなければ)。的に「当てる」為の色々な初期条件を一定に保つ為の訓練が、普段の練習とも言えますね。しかし、条件は日々、あるいは毎回、微妙に違うかもしれないですね。


Aさんの放った矢は半分は当たる。矢の運命を考えると、放たれる前の状態では「当たる」か「外れる」の2択で、どちらの運命かは不明ですが、矢が弦を離れた瞬間では初期条件が決まった状態ですので、そこから先の状態は計算によって本来求められるはずではないのかな、と(誤差は勿論あります)。つまり矢の運命が、的に到達する前に予め決まる、ということです。BさんはAさんに比べて、初期条件のバラツキが大きい為に、中々的に当たらないのだろうと思います。サイコロも条件を一定に保つ装置で厳密に修正すれば、出目を決めることが出来るのと同じような気がします。


とりあえず。続きは後で。

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来年の大胆予測

2005年12月26日 21時30分36秒 | 社会全般
うーん、全く何の根拠もないんですけど。一応、素人の「スーパー山勘」ということでよろしく。


まず、為替ですけれども、先頃120円近辺まで行きましたが、今は一気に反転して116円台まで戻してしまいましたね。ミスター円はさぞかし喜んでいることだろう。

小泉さんの発言が材料で円安が進んだ(高々1円弱ですけど)時に、「ポーンとね、円安になっちゃって」とか言ってたから、今みたいな時こそ「1円以上、ドーンと急に円高になっちゃって」とか解説したらいいんだよ(笑)。誰のせいで円高になったとか、1円以上の円高で「誰がどれ位損したか」「原油輸入価格の値下がり分がどれ位得になるか」解説したら?

先日WBSに出演していた時に、猪口大臣がゲストだったのに、大臣にしゃべらせず、話の途中を遮ってまで自分ばっかりデカイ声で話していた(小谷さんもちょっと困ってた)。このお方は基本的な議論の仕方も知らないのかな。大臣が発言中は、まず聞くべき(そんなの常識でしょ?それとも新任大臣だからナメてた?基本的に失礼ですよ)。たとえレディ・ファーストを拒否する主義だとしても、一通り聞いてから自分の意見を言えばいいじゃないか。
「ぐげー、ゲッゲッゲッゲッ」って笑ってる場合じゃないんですよ。榊原氏は「先進国は女性の就業が増えて少子化になったんだ」論を盛んに展開し、強弁していた。こういういい加減な俄かコメンテーターがいると、多くの誤った認識を視聴者に与えるんですよ。



いかん。また変な方向へと逸れたけれども、ゴメンね。為替でしたね。

きっと120円が天井と見ました。ここ暫くで見ると、ドルが高かったのは、98年7月頃と02年1月頃でした。この間は約43ヶ月程度です。そして、(02年高値から)05年12月まででは約47ヶ月くらいです。なので、ドル円は「概ね周期的なボックス相場」という印象なので、波動的には高値をつけてしまってもいいように思います。なので、来年はドル安基調だろう、と予想します。円の高値(ドル安値)で見ても、102~103円程度の高値は01年1月頃と05年1月頃ですので、やはり約48ヶ月くらいの間隔です。そういう訳で、そろそろ「いい頃合」なんでないの?ってことで(笑)、07年途中(終わり頃か08年1月くらい?)までは円高ドル安基調がトレンドかもなー、と。


他の要因としては、米国の住宅投資は冷え込みが厳しくなる、というのがもっぱらでしょう。米国金利上昇は打ち止めとなり、今後は下げてくる展開となるのだろうな、と。景気は減速となり、ダウは10000ドル割れもあるかも。しかし、次の上昇の時には多分11000ドルを抜けるでしょう。04年以降では、景気動向が良かった時期にも概ね10000ドル~11000ドルの間の比較的狭いレンジに落ち着いていた。株価上昇速度はITバブル期とは大きく異なり、上昇が弱かった。バブル調整期間が概ね10年程度とすると、次のチャンスは来年以降の景気後退局面を抜けて(2年弱くらい?)、07年終わり~08年前半あたりから米国経済は反転して好況が期待されるかな?(08年の大統領選挙も関係ある?)。となれば、そこから上昇相場が来るとしたら、09~10年頃がダウの高値圏にくるのではなかろうか・・・?というような感じですかね。で、とりあえず06~07年後半あたりまでは、後退局面がやってきそうかな?と。


日本株はどうなるか、考えてみますね。為替が円高方向と、日本の金利上昇予測が強いと思うのと、米国金利は徐々に低下していくだろうと思う。外国人投資家の動向としては、円資産保有比率を保つ為に「日本株売り」ということもあるかな?中国元もちょっと要注意かも。米国景気後退によって中国元への元高圧力が強まるだろうな、と。一応バスケットなので、元高につられて円高要因?かな。日米金利差縮小、元高要因とドル安円高の流れがあるし、これに+米国景気後退で日本株売り、の連想ですね。日本企業の業績は07年度の後退予測が出てくると、06年夏頃に景気減速の兆し?となるかも。外国人がいつから売りに転じてくるか、というのが不明です。3月危機説は昔からありますが、06年3月に波乱があるかは分りません。多分、最大でも5月までが上昇限界ではないかな、と。それでも、かなり長い期間の上昇相場ということになると思います。TOPIXでは約1800近辺まで上げる可能性があると思います。日経平均も17000円台での攻防となるかな?高値は17500円前後ではないかな、と予想。


結局株安要因としては、米国経済の後退、日本の金利上昇、円高、外国人売り動向、ということだと思います。最高値までは、まだ開きがあります。日経平均で約1500円、TOPIXでも100ポイント以上の上値余地があるのではなかろうか、という予測ですね(ホントかよ?)。


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サンタが来なくなった日

2005年12月26日 17時57分58秒 | 俺のそれ
例年通り、子供へのプレゼントは・・・と思案をしたりして、幾つかを買った。本とステーショナリーと植木鉢だ。植木鉢は『千と千尋の神隠し』に登場した「顔なし」の付いた、中々凝った作りのものだ。これは非常に評判が良かった。とても喜んでくれた。


それと、「サンタクロース」は遂に正体が判明してしまったようです(笑)。昨年にも危惧を書いたのだが(今日の妻5)、やっぱりバレてた。当たり前と言えば、当たり前なんですが。少し寂しいけど。まあ13歳にもなって信じている方が、不思議なのではあるが・・・。よく聞くと、実は2年くらい前から、ひょっとしたら「親が買ってるんじゃないか?」という疑念を生じたらしく、以後、バレていたらしい。それでも、他愛の無い「父親」に話を合わせ「サンタからのプレゼント」として受け入れるという気遣いをしていた、ということだ。


恥ずかしさと共に、子供の優しさに「ジーン」とくる。親バカだね(笑)。
今年は「サンタから」という言葉を必要としなくなった。いずれはサンタを卒業、とは思っていたが。
そうやって子供は大きくなっていくんだな~。


妻へのプレゼントは余りに不評の為、追加購入となってしまいました。一応、滅多に買ったことのない「陶器」を選んだのですが、散々な評価でした。
なので、翌日別なものを買った。結構難しいよね、プレゼントを選ぶのって。


向こうは、「ろくでもない、へんなモノ」を平気でくれるくせに、もらうものには、文句を言う(笑)。受け取る時には、「ありがとー、何だろー?」とか言ってるが、開けてビックリ玉手箱だ。
「えーっ??こ、これー?何でかなー、まあいいけど」
暫くしてからも、「こんなプレゼントって、何かねえ・・・」とか「別にいいんだけど・・・でも、ちょっとねえ・・・あんまり嬉しいとも言えないよねー」とか、言うんだもの。

結婚して10年以上経つとこういう風になってしまうものなんですよ、皆さん(笑)。


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少子化と労働問題7

2005年12月25日 15時13分22秒 | 社会全般
ごめんね、内閣府。十分色んな資料集めも分析も、「これでもか」ってくらいやっておられたんですね。そりゃ、そうですわな。私ごときがちまちまと資料を集めるのよりも、きちんとした資料が揃ってきてますもんね。ゴメンナサイ、読んでなくて。とは言うものの、行政の出してる「白書」ものだけでそれこそ死ぬほどあるので、読むのが大変なんです(笑)。内閣府も、協力した学者さん達も、きっと沢山頑張ったことでしょう。暇な人達や「読むのも仕事のうち」と思っている職業の方々も、まず行政文書とか白書を「総ナメ」にしてから本を執筆しましょう(笑)。報道関係者達も、担当の人達は勉強の為に全部読みましょう(それをやるだけでも、大臣質問の内容がガラッと変わると思いますよ)。シリーズで記事を書くとしたら、「一般国民向け」に簡単に論旨を要約して、読みやすい平易なものとするだけで、かなりの連載回数が稼げると思うな(笑)。きっと「要約」というような作業は、記者氏は得意だと思いますし。

少子・高齢化対策ホームページ

ちゃんと、『少子化社会白書』もあるし。こういうので、まず「お勉強」しなくちゃダメですよね。申し訳なし。


Wikiも割とまとまってた。どこのどなたが書いたかは知らないけれど、判りやすくて良いです。

少子化 - Wikipedia

少し前にあった(1.57ショック後の)「少子化論争」も今回はじめて知りました。近年では、赤川学先生の著書の『子どもが減って何が悪いか!』論争というのがあったということも知りました。統計法に関しては、山口一男シカゴ大教授が論文中で、OECD統計については(選ばれた18カ国が)恣意的選択とは言えないこと、先生自身の統計分析でも妥当性が高いものであると結論付けられております。「少子化問題」は専門家の中でも意見が分かれるのであり、ここでも「何が客観的事実なのか」ということが非常に問題となるようです。時に、女性の社会的責任論争とすり替えられてしまって、「就業しないで専業主婦で出産して家庭を守れ」「女性は子を産む為の道具じゃない」等々、色々と複雑化しやすいのかもしれないですね。


山田昌弘先生の強烈コメントがよい、次の記事も面白いです。

自閉する若者…『下流社会』の行方は  向上心なき『自分らしさ』

「本当の下流の人は新書など読まないでしょう」というのは、まだ『下流社会』を読んでいない私もずばり当てはまりますね。

それと、Dr.香山のいつもどおり「適当なコメント」もある意味素晴らしい。
それは次の言葉に集約される。

「憲法が変わって徴兵されるとか、石原都知事から『お前たちのような人間は東京を出て行け』と言われるとか、かなり危機的な状況がないとできないかもしれない」


皆さんの御意見はどうなんでしょうか?

(全然関係ないけど、石原都知事の書いた最近の本、タイトル忘れたけど、表紙の写真が「死にそうな病人」みたいな感じで、まさに「逝く寸前」のような感じに見えました。書店で遠目に見た時に、石原さんも遂に・・・と思ったら全然違ってた。病床記録のようなものかと思いましたが、大きな勘違いでした、ゴメンね)


今回若年者達の問題を少し調べてみて、何だか不可解な部分が多くなったような気がする。自分が小学生くらいの頃、どうしてああいう環境だったのかも判らない。日本人の何が変化してきたんだろうか?そういう「謎」がますます解けなくなったように思う。きっと昔は、全般的に「いいかげん」というか寛容な部分が多かったのかもしれない。しかし、「絶対にこれだけは曲げられない」というような、職人気質もあって、そういうのが混在していたんだろうか?それは生活の中に不便なことが多かったからなんだろうか?隣の主婦が「お醤油貸して下さーい」なんて光景も、今は見ないだろう。当時はどうしてそういうことが出来たんだろうか?近所のガキどもが勝手に集合して、何故遊ぶことが出来たんだろう?実は単純に、「放置されていた」から?でも今は放置しとくと、孤独になっちゃったりするかもしれないし。


例えば、学校の先生は「げんこつ」に「ハアー」って息を吹きかけて、普通に子供の頭にげんこつを落としていた。勿論、私も例に漏れず何度も「げんこつ」をもらったものだ。でも、今は「体罰だ」ということで問題になってしまうかと思えば、教師が殴って鼓膜破くとかっていう報道もあったりする。何がどうなっているのか、判らない。何かの寛容さが消えたかのようである。保護者達は不必要なまでに「学校」に文句を言ったり抗議したりする。「平等だ」「不公平を無くせ」とか言う。運動会で順位をつけることも、学芸会で「主役」を演じることも、差別だ、贔屓だ、となったりする。そんなの別にいいじゃないか、と思うけど。学校側もそういう問題やクレームが出ることを恐れて、元に戻そうとはしないだろうし。

その一方で、子供の家庭教育に関しては「自由と自主性」を尊重して寛容に見えるが、中には自由とやりたい放題、勝手気ままとを混同させたままのこともある。その責任は「学校」にあると言う。塾でちゃんと教えてくれなかったから、学校の授業が悪かったから、・・・批判は永遠に続く。子供は子供で、大人たちが悪い、社会が悪い、制度が悪い、どうして努力しなけりゃいけないの、どうして覚える必要があるの、何の役に立つの、・・・これも似てるな、大人と。テレビドラマ「女王の教室」のアクツマヤ先生が言っていた台詞と、全く同じだね。


なんで、こんな風になってしまったんだろう。大人達があれもだめ、これもだめ、という規制を強化したんだろうか?危ないから、汚いから、~を止めなさい、というのは、それはそうなんだけど、でも何処かにそれを代替するようなものが必要なんじゃないのかな?あまりに「体で覚える」ということが少なすぎるのかもしれない。実際の体験に基づく、身体的な記憶というものが少ないのかな?「必ず守らなければいけないこと」と「多少は許す」ということとが、まるでバラバラになってしまったかのようだし。色々な機械類では、「アソビ」の部分が存在することによってうまく機能するものは多いと思う。そういう「アソビ」というか「余裕」のようなものが、社会全体に少なくなってしまったのかな?どうなんでしょうか?私の経験だけでは、よく判りません。


仮に「定職に就けなくてもいい」「自由に生きさせろよ」「オレは何にもしたくない」というような人々を、完全に放置した場合、どうなってしまうでしょうか?どんなに「貧乏」であっても、一切何の支援もしないとしたら、どうなってしまいますか?非常に嫌な想像になってしまいますが。あれこれと対策だ、支援だ、社会・経済の為に、云々ということで、手間暇をかければかけるほど過保護状態に近づいていくような気もします。一生懸命やっている人達から見れば、「甘ったれんな!」ということも出てきます。どういうバランスがいいのか、それもよく判りません。「何で勝手に仕事もしないでいる奴らに何十億円も遣って、真面目に働いてる人間には遣わないのか」と言われたら、どう答えるべきでしょうか?「オレ様には、生きる権利がある。おまいら面倒みてくれよ」と言われたら、どうするべきなのでしょうか?


不思議な世の中になってしまったのですね。そういう時代と言うべきか。


追記:

この前から、どこぞの知れない「外人部隊」からのコメント書き込み攻撃(笑)を受けていまして(実際には特に攻められている訳ではないですが)、消しても消しても、別人が書き込んできます。ULCかCPIのどちらかが、彼らにとっては重要な言葉なのかもしれませんが、何が彼らの「ツボにはまった」のかは全くの不明です。

こういのは、どうにかならないでしょうか?


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クリスマスと結婚

2005年12月24日 13時38分38秒 | 社会全般
今日はクリスマス・イヴですが、日本中で多くのカップルが何らかの消費や生殖活動に貢献することだろうと思います(笑)。昨日妻が買い物に出たら、多くの彼氏・彼女のカップルがワンサカ(死語?)来てたということを言っておりました。


意外な光景として話していたのは、デパートの化粧品の対面販売で女性がお化粧をしてもらっている間、彼氏がその傍でずーっと立って待っているんだそうです。ジッと彼女の化粧されているのを眺めているんだそうです。忍耐強いのか、はたまた変身していく彼女を見るのが楽しいのか(笑)、理由はよく分りませんが、親切というのか優しい男性が増えているのでしょうか?でも、化けてみたところで、中身が化粧前と化粧後で変わる訳でもないんですけど(笑)。こういうのは、「さなぎから蝶へ変身」とは言わない。ただ単に、カレンダーの絵に自分で別な塗り絵をしたようなものではないかと。元々の「カレンダー」は一緒ですね。


因みに我が家では、「絶対に有り得ないよね」と我が妻の弁。そうです、有り得ません。私の場合、人混みが苦手なのでそのような環境にいると徐々に弱っていく為、長時間の買い物などは高ストレス状態となり、「ちょっと、コーヒーショップで休んで待ってるから」という結末になりがちです(笑)。せいぜい2~3時間が限界時間でしょう。しかも同じ場所に、小一時間も留まるなどということは全く有り得ません。なので、化粧品売り場には一度も一緒に行ったことはないです。そういう場所が、何となく恥ずかしいし(笑)。


つい数日前に、とあるコーヒーショップで耳にした話。若い女性の2人組が私の隣におりまして、何となく話が聞えてきた。聞く気などないし、別段耳をそばだてていた訳でもない(笑)のですが、面白い話をしていた。

「ねえ、昔の彼氏から貰ったものはどうしてるのお?」
「私はね、全部捨ててる。あ、でもね写真はとっておく」
「ふーん、そうなんだあ、私はね、指輪だけ残す」
「えー、私は捨ててるけど」
「今さあ、昔もらった指輪が3つあるんだけど、全部真っ黒なんだよね」
「へー?」
「ほらあ、銀の指輪って、普段してないと黒くなるじゃん」
「あー、そうだよね」
・・・・・・

耳に入ってきた話題としては、興味深かい部分があって、是非その場で感想を言ってあげたかった。でも、変態オヤジと思われるのも困るから、勿論そんなことはしませんでしたけど。

「昔もらった指輪が3つ」というのは、女友達に対する自慢心理?なのかどうかは知りませんけれども、その3つが3つとも「真っ黒」というのは、笑えました。そりゃ、騙されてるようなもんじゃないかな?、と。確かに純銀製の食器は使っていないと酸化膜がついてしまい、黒くなると思うけど(毎日ピカピカに磨き上げていればいいのですけど、そんなの面倒に決まってますね)、通常の指輪が黒くなるというのは、「安物」である可能性が高いでしょうね。純銀製だと強度はやや不足しがちであり(変形しやすい)、強度を増す為に銅や亜鉛など別な金属を混ぜる、所謂「銀合金」のものが多いのではないかと思います。仮に純銀製であったとしても値段的にはたかが知れており(商品相場で銀と金の値段はべら棒に違います。金は1グラム1800円超、プラチナは3500円超くらいですが、銀は100グラムでも3500~4000円くらい。単価では金と50倍、プラチナとは100倍くらい違います)、プラチナ製のような金属であれば黒くなったりはしませんね。「お嬢さん、安物をつかまされた(釣られた?)んですよ」と教えてあげたかった(笑)。プラチナ製と銀製の見分けは普通つかないと思うし。金は色が違うから分かり易いと思うけど。


このエピソードから感じたのは、3つとも銀製であるということは、プレゼントする側の彼氏の「財力」というか懐具合がかなり深刻な「不況」であることを物語っているように思います。このお嬢さんがとりわけ「金のない貧乏人」が好きで、そういう彼氏ばかりと付き合っていたのなら別だろうけど、特にこの女性が「貧乏男」を選好していたとは考えられないのです(通常、そのメリットは殆どないと思います、笑)。従って、昔みたいな「3高」というのは(高学歴、高収入、高身長)、「古きよき時代の幻想」となってしまったのかもしれませんね。若者達のカップルにも、経済基盤の脆弱性がプレゼント価格の「低価格方向へのシフト」もしくは「2極化」(高いブランド品をもらえる女性と安物を掴まされる女性)をもたらした可能性があるな、ということです。彼氏のプレゼントは「値段じゃなく気持ちが一番大事」ということもあると思いますので、どのようなものであっても当人たちが嬉しいのなら、それはそれで幸せだろうと思いますけれど。


全くの印象なのですが、近年の男性の何かの「優位性」というのは、消滅しつつあるのかもしれません。多くの女性の方々から非難を受けるやもしれませんが、昔とは違った感じがします。大学進学率も、女性は年々高くなり、高学歴の女性が増えていますが、男性の方が低下しつつあるのではないかと思います。学歴でも全く遜色ない女性たちが増え、職業や給与といった社会的な評価も男性を上回る女性達が増えたことは、結果的に「結婚相手」の対象範囲を狭めたことになっているのかもしれません。考えている結婚相手としては、女性は割りと現実的に「自分よりも給与の高い男性」とか「現在の収入が何百万円以上の男性」とか「預貯金がいくら以上」とか、そういう条件を付加しているのではないかと思うのです。だが、そういう男性に出会うことが少なくなってきているんじゃないか・・・そんな気がします。


男性達がもっと頑張ればいいのだろうと思いますが、ひょっとすると「俺にまかせろ」というような部分が弱くなってきているのかもしれません。何かの番組で紹介されていたのですが、ある若いカップルがいて、彼女が「これから、何処かに行こうか」と彼氏に聞くと、「場面で良くねえ?」と言ったりするんだそうです。因みに、私には全く理解出来ませんでした。これはどういう意味か分り難いのですが、要するに「適当に、その場のノリというか雰囲気で決めよう」というようなことだそうです。これは「いつ、何処に行くか」という問いに対しては、何ら答えになっていないのです(笑)。そういうわけで、予定を決める事が出来ないんだそうです。「何処で食べようか」と聞くと、「オマエの好きな所でいいよ」とか言うならばまだ分りますけれども、「場面」で何をどう決められるのか謎なのです。これは特殊な事例なのかもしれませんが、男性達に「何かを自分が責任を持って決めよう」とか「計画的に何かをしよう」とか、そういう面が弱くなってきているのかも?と思ったりします。そういう男性達を見て、女性達が将来不安に思うことが多くなっているのだとしたら、これも困った問題ではないかな、と思います。この遠因となっているのが、ひょっとしたら家庭内での父親の弱体化ということ?なのかな、と思ったり。


「一家の大黒柱」とかそういう古い価値観は女性たちに非難されたりすると思います。しかし、実際に結婚しようと思っている女性達に、「男性がしっかりしてくれないと」と考えている部分が多いのであれば、男性が主導していくような感じにならないと、中々結婚しようということにはならないのではないかな。女性達に「自分が家計を支える」という考えが浸透して、主夫ということも抵抗なく受け入れるのであれば、それはそれでいいと思う。ライオンだって、狩はもっぱらメスが行い、オスライオンは狩なぞしないし。一生家族を養っていくぞ、っていうほど決意が強くある訳でもないが、「仕事はしたい」とか「キャリアを大切にしたい」とかの気持ちはあり、男性には「それなりの生活基盤を支える収入」を期待していたりする女性は少なくないと思う。もしも、男性側にも「自分が責任を持つ」という部分が欠けていて、女性側にも「男性がちゃんと養って」と考える部分が多ければ、結婚することが益々困難になるかもなー、と思ったりします。


「男の弱体化」「父権の失墜」「父性の脆弱化」というか(正確にはどのような表現なのか判らないのですが)、何らかの男性優位部分の消失は、女性の男性に対する信頼を失いつつあるのかもしれない。彼氏が「当てにならない、頼りにならない」と感じることが多ければ、結婚してリスクを背負ったりするのを避ける女性が増えても仕方がないような気がするのです。「玉の輿」に代表されるように、大抵の女性は結婚によって何らかの社会的評価が「アップ」することを望んでおり、敢えて貧乏男と結婚して、その夫を自分が養ってあげよう(笑)などという奇特な女性は少ないのです。仕事や社会進出は「男女平等で」などと言いつつも、現実面では結婚によって「男に何とかしてもらいたい」と願っている女性がまだ多数派であろうと推測しています。学歴、収入等のいずれにおいても、女性が上回ってしまっているならば、結婚したいと思わない女性が増えてしまうのかもしれないのかな、と。


あー、それから、昔は「そろそろお見合いでもしなさい」とか世話を焼くおばさんとか、「社内結婚」とかの微妙な「マッチングシステム」が社会的に機能していたんだろうと思う。「そろそろ結婚したらどうだろうか」などと上司がOLに声を掛けたりして、部下と見合いをさせるということもあったのかもしれない。だが、今そんなことを言ったりしたら、「セクハラだ!」とかって大問題になっちゃったりしてしまう(笑)かもしれないしね。下手に声も掛けられない。「結婚」の二文字はある意味社内で「禁句」でさえあるかもしれない(私は大企業の実態は知りませんから、全くの妄想ですからね)。出会わない、出会えない、まさに結婚漂流難民状態の人達もいるかもしれませんね。昔のドラマとかでは、「今度ね、見合いすることになったの。いい年なんだから、そろそろ結婚しろ、って。田舎に帰るわ」とかの台詞があったりした。これは多分、いつまでも「独身でいる」ならば(とは言うものの、高々25歳前後であった)、田舎の親や親類や御近所の世話好きおばさん達が「結婚しろ、結婚しろ」などとウルサク言い、相手を独自のネットワークの中から必ず探し出してきて、くっつけられたものなのだ。女性にとっては「恋物語」のようなドラマチックなものなどではなく、「まあ、ある程度仕方がないか」というような半分諦め的な妥協策がそこにはあったのだと思う。現代では、「本人の自由、意思」の尊重が大きなものとなった為に、そういうおせっかいが「ウザイ」ということになってしまう。そういうところにも、孤独の罠があるのかもしれない。「放っといてよ!私の好きにさせてよ」と娘が言ったりして、その通りにしておくと、本当に「放られっぱなし」となってしまった女性達もいたかもしれない。結婚確率は年齢依存的に、高齢化していけば低下する一方である。30歳時点で独身の女性の約半数は、その後も未婚女性のままなのである。

「田舎で、見合いしろってうるさくって。それで仕方なく見合いしただけだよ。本当だ、君を愛しているんだ」
うっかり封筒から見合い写真が落ちて、彼女にバレる、とかっていう筋書きが消えたのはいつ頃なんだろう(笑)。
こういうのが、良かったのか悪かったのかは判らないが、一部の結婚難民を救済していたことは間違いないと思う。全員が自分でそういう「手当て」が出来たはずがないのだから。小説みたいな恋愛もあったかもしれないが、大半がそういう思いを「憧れ」の中にしまって、現実的な結婚を選択していたのは何故なんだろう。「周りの皆が結婚するから」なのかな?今は、何が違うのか、やっぱりよく判らないですね。

結婚も現代では「困難なイベント」の一つということになってしまった、ということなのかもしれませんね。


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金融政策とtarget

2005年12月23日 19時32分39秒 | 経済関連
昔は御殿医がお殿様の病気を治すために漢方薬を調合して、処方しておりましたね。この御殿医というのも千差万別で、代々お抱えであことをいいことに、時には「バカ息子」のようなヤブも登場したかもしれませんね(笑)。名医と評判の高かった御殿医の多くは、所謂「さじ加減」が非常にうまくて、まことに塩梅が良かったのです。これは、名医自身の資質に依存しており、そういう優秀な御殿医ばかりが代々続くとは限らなかったのです。代々の「秘伝の調合書」などもあったかもしれませんが、診立ての悪いのになると、薬を多く使い過ぎてしまったりもするのです。その為に副作用が強くなってしまったりするんですね。病気を治すどころか、新たな病気というか症状を増やしたりする訳です。要するに勘が悪いというか、能力が低いというのか・・・先祖からの「秘伝」があっても、「さじ加減」までは中々伝承出来ないことが多かったのです。


とある架空のお話をしてみましょう。
昔、あるお城に殿様と家来達がおりました。家老には「梅政」という男、御殿医には「松銀」という男がおりました。ある時、殿様は重い病に罹り、床に伏せっておりました。

松銀「中々よくなりませぬな」
梅政「そちの薬が悪いのではないか?」
松銀「筆頭御殿医に向かって何を申す。素人のそちに何が分ると申すか」
梅政「いや、かえって薬を飲んでから悪くなっているような・・・以前にはこんなに吐き気もなかったしのう」
松銀「これは病の毒気によるものじゃ。今は薬を飲んでいなければならない」
梅政「早く良くなられるとよいが・・・」

-後日、殿様の具合が少し快方に向かってきていた。

松銀「そろそろ次の煎薬を増やしましょう」
梅政「次の薬と?今はこのまま様子を見た方が良いのではないか?」
松銀「またも無用な口出しをされるのか。任せてもらえぬと申すか」
梅政「蘭学医に聞くところによれば、熱を下げぬ方が良いと・・・」
松銀「何を申される。蘭学医は邪道じゃ。よからぬ知恵を吹き込まれたのじゃ」
梅政「それに、毒気は薬を飲まずとも抜けると聞いたぞよ」
松銀「(おのれ蘭学かぶれめ)分らぬ者が詮索しても始まらぬ」
梅政「(この御殿医は本当にヤブではないのか?)困ったものよのう・・・」
・・・・・・

このように、昔は適当なヤブ医者もいたかもしれません。勿論名医も存在したかもしれませんが。傍から見ていても、「よくわからない」というのが一般的であったろうと思います。現在では、「名医のさじ加減」というのが、客観的な情報として解ってきた部分もあります。それは、経験的に培われてきた勘のような部分が、客観的に判断出来るようになってきたということと、名医ではなく普通の医者であってもその「さじ加減」を再現可能になる、ということです。


専門的な説明は専門書などに譲りますが、非常に大雑把に書いてみますね。
数ヶ月前に外国人女性が薬物を使用して死亡した事件が報道されていました。その薬物とは「ケタミン」という薬で、かなり古くからある鎮静・麻酔薬です。昔から「悪夢」「幻覚」などの副作用があるということが知られてきましたが、死亡した女性はその薬物を多く使用し過ぎた為に絶命してしまったのです。また、先頃女性医師が麻酔薬の自己使用によって死亡した事件も報道されていました。この時に使用されたのは「プロポフォール」という麻酔薬でした(この薬は以前から医師が自分で使用している例があって、逮捕者なども出ていました)。プロポフォールは麻薬ではありませんから、麻薬中毒や多幸感とか幻覚という作用はありませんが、患者が覚醒時に「良い夢」をみたり、「心地よい」というような傾向があるとも言われています(文献的にはどうなのか判りません)。多分、自己使用した医師達は、直ぐに眠れるとか、軽い鎮静作用を得る為に使用したものと思います。

これらの薬物を使用することで薬理効果が得られるのですが、当然危険性も伴いますね。主に呼吸抑制(自分で息をしなくなる)であろうと思います。安全域が狭い薬物については、使用量がかなり厳密にコントロールされる必要がある、ということです。一般に飲み薬などは、安全域が広いものが多いですが、薬物の反応というのは「かなりの個体差」があると考えられています。つまり、同じ錠剤を一つ服用しても、ある人は副作用も何も出ないのに、ある人には「中毒症状」が出てしまう、ということも有りえる、ということです。通常の薬はそうした危険性を減らす為の工夫がなされていますが、実際に使用してみないと反応は判らないことも多いのです。昔の御殿医の「さじ加減」が中々難しいということも同じなのです。

上記事件で死亡した例は、恐らくそうした薬物使用量と期待していた反応とが異なってしまった為に死に至ったものと思われます。同じ量を使用した友人が死ななくても、自分が同じ量を使えば死亡することもあるのです。特に死亡した女性医師は少なくとも「医師」であり、その薬物に関する知識も豊富にあったであろうことは推測できますが、間違えてしまったのですね。

薬物動態学の発達などによって、薬物の効果と治療域を判定するための目安が段々判ってきました。プロポフォールでは、「target controlled infusion」という血中濃度を指標とする使用方法がとられたりしています。他にも、昔からある「ジギタリス製剤」や「抗てんかん薬」などの投与についても、血中濃度を指標として一定の治療域にコントロールされるようになってきています。中毒域と治療域の差が小さな薬(例えばジギタリスは、アガサ・クリスティーの小説にもよく登場する、殺害に用いられる古典的な薬物ですね)は、過量投与による副作用や事故がありますので、それこそ「さじ加減」が難しいものであったのですが、こうした手法によって医師の違いによるバラツキや、個体差による違いも縮小させることが出来るようになってきました。このような方法はTDM(Therapeutic drug monitoring)と呼ばれています。


このような「血中濃度」という客観性の高い指標を用いる事によって、上述した「松銀」と「梅政」の論争のようなことは少なくなります。他の人が見て評価することが可能であるからです。少なくとも薬物の投与量ということに関しては、以前よりも精度が向上し、個体差・医師の力量差に大きな影響を受けなくなるメリットがあります。ただ、「血中濃度」という指標はあくまで指標の一つであり、総合的な判断はもっといくつもの情報を加味して行われるものです。要するに決して「絶対基準」ではない、あくまで目安の一つである、ということです。いかに血中濃度を一定範囲に維持したとしても、それが生体の反応の全てを規定する訳ではないのです。例えば、患者の自覚症状とか(頭痛がひどい、吐き気がする、お腹が痛い・・・その他モロモロ)、各種検査などの他覚的所見とか、そういった複数情報の組み合わせで評価する、ということです。必ずしも最終的な評価ではないが、客観性に優れた「血中濃度」という数値データは、対象や医者が変わったとしても、おおよそ統一的な評価が可能になる、という利点があります。


「松銀」と「梅政」をそれぞれ別なものに置き換えるとどうでしょうか?そうです、多くの方々がお気づきの通り、「日銀」と「政府」ですね。名医の御殿医ばかりが登場するとも限らず、いってみれば「グリーンスパン」が代々続くことの方が困難なのであり、御殿医の力量における個人差を減らすことを考えるならば、一定の客観性のある指標による政策決定は「透明性」とか「客観的評価」に優れるものなのです。御殿医の「さじ加減」の比重を大きくして、それに依存する金融政策というものが、安定性とか信頼性において優位であるとは言い切れないのではないでしょうか。「インフレーション・ターゲッティング政策」は、TDMの「血中濃度による治療域の指標」ということと同じ意味合いを持ちます。それは客観的な数値データなのであり、総裁が誰になろうとも同じなのであり(酷い例えを言えば私であったとしてもレンジは同じです、爆)、力量の差が縮小されうる方法なのです。


プロポフォールを自己投与して死亡した医師は、人間ゆえの「判断の誤り」を生じたものではないか、と思います。そこには、「さじ加減」を誤ってしまったということが潜んでいるのではないか、とも思います。事故状況は全く知りませんけれども、恐らくTCI での投与(予測血中濃度の数値を指定した投与)ではなく、大体良さそうな投与量をbolus投与したのではないか、と思います。それが結果的には過量投与であったのだろうと思います。そういう個人の判断に依存する過誤のリスクを軽減する意味でも、一定の客観的指標を用いたコントロールは有効なのではないか、と思うのです。


最終的に「どのような指標が望ましいか」とか「有効レンジはどういう範囲とするか」などという部分については、色々と議論があると思いますが、インフレ・ターゲットを拒否する理由というのが実際にはよく判りません。自分達の中にある経験的な「さじ加減」を可視化することへの拒否(=先祖伝来の調合秘伝をバラす訳にはいかない、笑)ということなのか、今まで「この薬は3錠服用すれば効く」と謳ってきたのに、実は「2錠で十分だった」ということが発覚することがクヤシイということなのか、何だかよく判らないのですね(笑)。


基本的には研究などで、どの指標が最も有効と考えられるか、複数所見の組み合わせの場合に重視する所見はどれで、どの所見に比重を置くか、等々の基礎的議論を積み上げて行けばよいのではないでしょうか。薬物の血中濃度にしたって、脳に作用する薬物の場合には、例えばbrain blood barrierの影響はどうなってるか、などという議論があるので、万能ではないことは確かなのです。それでも「指標」として有効と考えられているのですから、導入する意味は大きいと思いますね。いかに自分だけが(まるで御殿医「松銀」のように)「この投与量で間違ってない」「これで効果が十分得られる」「副作用は出ないはずだ」ということを主張しても、そのことが誰にも判らないのですから。


普通に考えて、指標を採用するというのは、今まで「これで塩梅が良さそうだ」「この判断でいいはずだ」「投与量が少なすぎるかもしれない」・・・などと自分の頭の中で考えてきた(判断した)プロセスを、自分の思考が見えない周りの人達にも「見える」ようにする、ということを行う作業であると思うけどね。なぜ「この御婦人には、投与量を1錠で良いと判断したか」ということは、いくつもの理由があって、判断材料となる所見もある訳です。そういうものを詳らかにしていく、ということに他ならないのです。血中濃度測定では、自分の判断が裏付けられる・確かめられる、ということなのです。これまでは、自分の「経験と勘」ということが重視されてきて、その判断の根拠は他人には見えなかっただけなのです。そういう意味合いのものが、数値データで示される「指標」であろうと思いますね。


料理人は自分の舌を根拠として判断しますが、これは結構難しいかったりします。料理の中に含まれる、ある指標だけ(例えば塩=塩化ナトリウムとかですね)をピックアップして濃度測定を行ったとしても、必ずしも「美味しい」という評価にならない場合も有りえます。それは一つの数値だけに囚われることが、かえって全体を損なってしまうことも起こりえるからです。人間の味の感じ方(敢えて味覚ではなく「感じ方」とします)は、体調とか環境などにも左右されたりするかもしれず、熟練度の高い料理人の「経験」というものが案外と数値では測れなかったりすることがあるからですね。そういう「職人技」というのはどの分野にも残っていると思うし、金融政策における判断にしても「職人技」がきっとあるでしょう(ですよね?)。そういう部分は弾力的な面があってもよろしいかと思いますし、絶対に数値を外れちゃならねえ、ということではないと思います。


余談になりますが、数値を過信しない、機械的判定を過信しない、というのは、事故やミスを防ぐ大きな要因だと思っています。機械類の数値が絶対に正しい、ということはない、と心の何処かに常に思っていることが重大な失敗を防いでくれる、と私個人は考えています。それは経験的な勘というか、それ以外のいくつかの情報から異常を(感覚的に)感知出来るか、ということなんですけれども。「何となくオカシイ」と感じることが出来るように、数字ばかり、器械ばかりを信じない、ということを経験的に知っておくということだと思います。変な例で言うと、ケーキを自分で作るとして(私自身は全く作れませんけれども、笑)、決まったレシピに基づいて何度か作っていたとしましょう。自宅の台秤が壊れていて、本当は150グラムなのに100グラムと表示されるようになってしまったとします。その故障には通常中々気付かないので、いつも砂糖の量を200グラム測って入れたら丁度良かったのに、壊れたままであれば200グラムと表示されていても、実際には300グラムとなってしまうのです。これでケーキを作ってしまったら、もの凄く「甘ーーい!」(お笑い芸人のネタじゃなくて)ケーキになってしまう、ということです。でも、経験的に「いつもの200グラムの砂糖」という感覚(主に視覚情報ですよね)があれば、「あれ、秤がオカシイんじゃないかな?」と疑う、ということになるのです。そういう感覚は経験によらなければ培われない部分があると思っています。これと似たような状況で、「機械が正しい数値を表示してたから」では済まない、もっと重大なミスとか事故ということになれば大変困る訳です。なので、こうした「ひょっとして、何かオカシイかもしれない」という雰囲気というか感覚というか、そういうものは、経験によって身につくことなのだろうと思います。そういう訳で、数値データを過信しない、ということは理解出来るのです。


脱線しましたが、政府と日銀の綱引きも色々ですけれども、まずは「判断プロセスの可視化」とか「金融政策判断の裏付け」とか、肯定的な捉え方をしてもらえればよいのではないでしょうか。どんなに名医の御殿医さまの「さじ加減」を信じろ、と言われても、これはかなり困難であると言わねばならないでしょう。それとも「不埒な蘭学かぶれめ!」と本気で思ったりしているのでしょうか?(笑)


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少子化と労働問題6

2005年12月22日 22時43分39秒 | 社会全般
今までに幾つかの統計資料などを見てきましたが、一度大まかにまとめてみたいと思います。不適切な部分もあるかもしれませんが、素人らしく考えてみたいと思います(笑)。

1)現在の若年者の労働状況

a 高い失業率

・景気要因よりもミスマッチ要因優位?
・産業構造変化?(自営業127万人の大幅減)
・中高卒者への求人が大幅減少


b 若年労働力人口の割合が増加

・つまり、かつてより就業しようとする人の割合は多い
 (=昔より「働く気がない」などということはない)
・34歳以下の非労働力人口の減少傾向(約8ポイント)
・晩婚化や未婚率変化とも関連している可能性?
 (=専業主婦減少傾向?)
・25~34歳女性の労働力化率が過去30年くらい増加傾向
・ここ5年以内では、24歳以下の男女とも労働力化率が減少
 (=24歳以下の非労働力人口が増加傾向)
・05年には非労働力人口からの労働市場流入も観察される
 (=自発的に働く意思は多くの若年層が持っている)


c 学卒者の変化

・大卒者の純増(90年より10万人以上増、進学率も上昇)
・中高卒者の就職率が半減(求人減少の影響?)
・短大や大卒者でも就職率は低下
 (大学院重点化や海外留学なども影響?)
・就学期間が昔よりも相対的に長い?
・大卒者の正規雇用の絶対数は概ね30万人以上確保されてきた
・就職内定率は低下が見られたが、景気回復と共に改善傾向


d 若年非正規労働者の増加

・企業側の正規雇用抑制策拡大
 (主に社会保障費等人件費の抑制策だろう)
・派遣・契約社員等の非正規労働市場拡大
・90年より300万人以上の増加
・労働市場の流動性の影響?
 (離職率は上昇傾向と推測、「辞め易い」?)
・ミスマッチの影響?
 (自分に合った仕事に出会わない・・・etc)


2)非正規若年労働者の問題点(派遣等を除く)

a 収入が少ない

・生活が自立できない(例:パラサイト・シングル)
・結婚にも影響する(少子化要因)
・社会保険料負担が過重(例:国民年金未納)


b 労働者の権利と保護

・雇用契約では一方的に不利(正規のように保護されない)
・雇用保険未加入の為、失業時の保障が全く得られない
・職業の能力向上が望みにくくなる
 (常にフリーターとして、転々と・・・)
・採用側にも拒否の姿勢が見られる
 (フリーターやニート歴をマイナスに評価する可能性)
・自己のキャリア形成には役立たない事が多い


c 高齢化

・フリーターの5年後滞留率が約6割
・フリーターから正規雇用への転換は少ない
 (正規からフリーターはそれよりも多い)
・年齢増加依存的に、正規への転換は困難となる
・ある程度の年齢に達すると非正規に固定化されうる


d 若年無業者

・実数は若年失業者よりも少ない
・非希望型は増加していない
・非求職型(非労働力人口)の一部が労働市場に流入か
・中卒、高校中退者達のフォローは?
・就業や求職未経験者が存在する


3)対策の一助として

・若年労働力人口は実質的に増加したが、雇用創出の問題があったのではないか?
・特に10万人以上増加した大卒者に対する雇用供給が追いつかなかった可能性があるのでは?
・自営業の大幅減少は、組織従属型の就業志向が優位であったのではないか?(安定志向?)
・自営業減少は起業とか新たな組織や雇用創出にもマイナスに作用したのではないか?
・25~34歳女性の就業割合の増加は、晩婚化や結婚減少と関連しているのではないか?
・職業や社会生活に関する情報提供に問題があったのではないか?(学校、家庭、地域、行政)
・employabilityの問題(教育制度上での)?
・即戦力を求める企業側と生徒を送り出す学校側とのギャップがあった?
・特に進路・就職相談など、学校での情報提供不足?
・求人側の「高卒・大卒」等の条件が時代に合わなくなってきているのでは?
・高卒の就職率が低下する中で、旧来の「高卒がする仕事」というような認識が間違いなのでは?
・キャリア形成に役立つ教育・研修システムが必要なのでは?(学校で?社会で?)
・就学期間が延長したが為に(=周囲の同級生や友人達が働いていない)、準備期間も延長してしまった?
・「フリーター」「非正規」などの呼称を改めるべき?
・失業補償はどう考えるか?
・厚生年金等の社会保障負担をどのように考えるか?


長々と羅列してしまいましたが、色々と思ったことを挙げました。幾つか対策が思い浮かぶ方々もおられるだろうと思います(或いは既に講じられているかもしれませんが)。論点整理を行って頂いて、どんどん若年者の雇用改善を図って欲しいと願っております。それが若者達の未来に繋がるし、少子化ということへの大きな対策になりうるだろうと思います。


ところで呼称問題ですけれども、例えば非正規→「契約労働者」とし、その中を細分化して「派遣・契約・嘱託労働者・・・」とし、「フリーター」や「パートタイマー」は「時間契約労働者」(「非常勤労働者」とかでもいいですし)のような呼称としてはどうでしょうか?何度も提案しておりますが、企業に社会保障負担をきちんとさせることが必要だろうと思います。雇用側は正規と非正規という区分を利用して人件費抑制策を講じてきています。それを無くす為には、労働者の区分自体を無くすことが一番ではないか、と思ったりします。正規雇用は単に「正社員」とか「常勤社員」とすればいいのではないでしょうか。

企業側が正規の社員に他企業との優遇の違いを是非とも出したい、ということであるならば(ヘッドハンティングとか、人材流出を防ぐという意味もあるかも)、福利厚生面での違いを設けておけばよいのではないのかな。例えば保育・学童補助、ストックオプションの権利や従来の「401k」的な独自の上乗せ企業年金とか、そういう別な部分での差別化は図れると思います。それらの権利を有する人達が今までの正社員であり、他の派遣社員や時間契約社員にはその権利はない、ということでよろしいのではないでしょうか。その代わり、正社員ですから会議とか社内行事とかモロモロに拘束されるけれど、他の契約労働者にはそうした拘束は発生しない、というような区分も出来てくるかもしれませんし。


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少子化と労働問題5(追記あり)

2005年12月21日 18時23分44秒 | 社会全般
前の記事の続きです。厚生労働省の「労働経済白書」では、無業者に「学校生活を通じて教えてもらいたかったこと」(複数回答)という質問をしていますが、順に書いていきますと、次の通りです(カッコ内は%)。

職業に必要な専門的知識・技能、資格、免許(58.8)
社会人としてのマナー(43.5)
職業の選び方(33.6)
各職業の内容(29.9)
労働者の権利、雇用保険等職業に必要な基礎的情報(27.5)
就職活動のノウハウ(26.4)
ハローワークの利用法(20.4)
各職業の賃金・労働時間等の勤務条件(17.3)
フリーターや無業者のリスク(16.7)
学校で教えてもらいたいことは特にない(14.9)
読み書きや算数・数学などの基礎学力(11.0)
先輩の就職先(6.6)
その他(3.8)

非常に見づらいですが、お許し下さい。このような感じになっています。設問に問題がある、ということも有り得るかもしれませんが、このような質問事項になっていますので。

で、6割くらいは職業的な技能等に関する教育を望んでおり、これも「高専」の就業(高い就職率・内定率)とも関連するかもしれません。職業教育は必要であると考える学生・生徒達が結構多い、ということです。後は社会生活に関する心構え的な、「社会人」教育もして欲しい、ということです。これはちょっと意外ですが、案外そういうことを知りたいと考えている若年無業者がいる、ということですね。他は労働に関する基本的な情報とか、仕事選び・探し方等の相談的なものが結構あります。また、情報格差というのか、「何を、どう調べて、どのように考えていったらよいか」というようなことが相談したりできずに、何となく過ぎてしまったりしているのかもしれませんね。


NPOで無業者への支援を行っている、「ニュースタート」代表の二上氏は、ニートを情報力必要型、社会力必要型、人間力必要型の三つに分類しています。情報力必要型は、まさに就業の情報とか相談を充実させることで解消されるものです。社会力必要型は主に人間関係などの不安とか所謂コミュニケーション能力とかの「社会性」の不安解消が必要ということのようです。一度就職しても、その後に人間関係等でつまずいてしまうと不安が大きくなったりして、就業を躊躇うタイプの人達がおりますので、こうした人達が概ね該当するかもしれません。最後の人間力必要型(笑)ですけれども、これが所謂「引き篭もり」と呼ばれる人達に近いかもしれません。自分への自信とか、「生きる・仕事をする」などへの肯定的な考えが、生まれてこないとか受け入れられないとかなのかもしれません。まずは、自己肯定ができにくいことが問題かもしれないですね。このタイプはどれくらい存在するのかは不明ですが、上の質問事項への回答を見ても、あまり多くはないと思います。就業に関する要望が多い中で、否定的な回答(例えば、「学校で教えて欲しいことは特にない」というような回答)が少ないからです。


このような調査を見ると、働きたいとは考えているが、うまく行動に移せなかったり、相談できる人が周囲にいなかったり、的確な情報を提供できる人がいなかったり、というような環境要因に左右されていることが多いと思われます。ただ情報提供とか就業支援がなされても、従来非労働力人口に算入されていた無業者達がうまく正規雇用の仕事に就けるかどうかは不明です。


企業側の姿勢としては、非正規雇用を維持(又は増加)していく傾向は今後も続くものと思われます。何故なら、人件費を抑制することが経営にとっては重要であるからです。増大していく一方の社会保障費負担が、企業にとっては大きなリスクとなっていると考えられます。今後も毎年続く厚生年金料率アップなどがその典型と思います。企業がこうした社会保障負担を回避する方法を選好することによって、正規雇用を抑制し続ける可能性は有り得ます。


再び厚生労働省の「労働経済白書」からですけれども、非正規雇用の割合が増加しているという結果が窺われます。年齢階級別に見ると次の通りです。「雇用者に占める非正規雇用者の割合」(非農林水産業、在学者・役員を除く)

        94   04
15~24   10.6  33.3
25~34   11.8  23.4
35~44   19.8  26.3
45~54   20.6  28.9
55~64   26.9  39.6
65~     52.0  66.0

このように94年と比べると、非正規雇用の割合が増加していることが分かります。特に若年層では2倍以上の「非正規雇用者」の増加が見て取れます。就業形態別(03年)では、非正規雇用のうち派遣・契約・嘱託の合計は約5.7%に過ぎず、パートタイム(所謂フリーターも含まれる)は23%も存在します(正規雇用は約65%)。派遣や契約社員はまだ条件がいい方ということかもしれません。


若年雇用の実数はどうなのかというと、国民生活白書では大体次のようになっています(90年と04年の比較)。
若年人口は3453万人から3305万人と148万人減少(少子化の影響ですね)してますが、非労働人口も1477万人から1152万人と325万人の大幅減少となっています。これは結婚して主婦となったりして非労働力人口に算入される人が相当減ったからではないか、と思います。若年者全体数は減って、仕事をしよう、という若者の割合が多くなってる(非労働力人口比率は42.8%→34.9%に減少)のに、仕事に就けないか、非正規雇用となっている、ということです。労働力人口が多いのは、晩婚化や結婚する組数減少なども影響しているかもしれません。で、続きですけれども、失業者は68万人から148万人と80万人も増加しています。正規雇用は1412万人から1325万人と87万人減少する一方で、非正規雇用は261万人から563万人と302万人の大幅増となっています。年々新卒者の非正規雇用の割合が高くなっていけば、若年層全体の非正規雇用者の増加ということになり、高卒者への求人の大幅減少もこれと関係しているかもしれません。それと、自営業者ですが、213万人から86万人と127万人も減少しています。家業を継ぐ人達の割合がかなり減少して、会社勤めを選好するようになっている、ということかもしれません。

大学とか専門学校とかの教育を受けた後に「安定的な会社に就職しよう」という目論みで、小・中・高とかずーっと過ごしてきたのに、最後の数年間でその計画が大幅に狂ったということなのでしょうか?世の中の多くの人達が(特に親世代かな?)「いい学校、いい大学、いい会社」というような幻想を抱いてきたことが、最後の最後で過当競争となってしまったのかもしれません。


このような若年者の就業傾向を見ると、「仕事をしよう」という意欲のある人達の割合はそれ程減ってないが、不本意ながら非正規雇用となっている人達がかなりいる、ということです。そういう周囲環境を見ると、幻滅したり希望を失ったりしてしまい、自分で何かのアクションを起こせない人達やうまく仕事に就けない人達がいる、ということになります。自営のような起業家的な、あるいは家業を継ぐといった、昔ながらの受け皿も大幅に減少してしまってることも何らかの影響があるかもしれません。自営の減少分(127万人)は、若年層の失業者148万人のかなりを補える数です。ただ、平均寿命が延長して、親世代が高齢でも「現役」で頑張っているとなれば、息子が継ごうにも難しい場合もあるかもしれませんね。2世帯(親世代と息子世代)分の収入を稼げるほどにはならない、ということも考えられるからです。そういう社会構造というか、産業構造の変化も、若年層の就業状況に影響しているかもしれません。


一度載せます。


続きです。

最近の雇用状況の変化は内閣府から報告されています。若年者の非労働力人口が労働市場に流れ込んできたのではないか、ということのようです。これによれば、非労働力人口に分類されていた若年者が労働市場に流入してきている、ということが窺えるのではないか、ということです。

非労働力人口の労働市場への流入要因


これで見れば、34歳以下の層が約10万人くらい流入したのではないか、ということですね。ただ、労働力人口に分類されていた失業者が多く就業できたということではないようですので、必ずしも喜べる内容ということにはならないでしょう。従来「仕事が出来るチャンスがあれば・・・」と考えていた人々(非労働力に算入されていた人々)が、パートなどに出だしているだけなのかもしれず、若年層の失業率が大幅に改善してきたということは言えないかもしれません。まあ、改善しないよりもましですが。


厚生労働省の諮問機関からの答申では、企業側の人材育成システムを提言したようで、言ってみれば「企業版レジデント」というような感じでしょうか。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <若年者就労対策>実践型人材養成システムの創設盛る

「resident」はアメリカの医療機関に勤務する若手医師の身分制度というか就業形態から出たものだろうと思います。正規のスタッフと異なり研修主体ですが、実力が認められれば正式なスタッフになれるかもしれない、というものです。実力が及ばなかったり、自分の思っていた仕事・業務とかでないと、別な病院へと移っていったりすると思います。それに近い意味合いがあるかと思います。ただ、一般企業でこうした人材育成システムがうまく機能するかどうかは不明です。政策的に考えたことは、案外と脆かったり、きちんと機能しなかったりすることも多いからですね(笑)。


昔みたいに、大工の棟梁に「バカヤロウ」などとどやされたりしながらも、「カンナはなあ、大工の命なんでい」とか「なんでい、サシガネ忘れてきたのけい」とか「墨つぼ使えねえで、仕事になるかい!」とか「オイ、ウチでメシ食ってくか?」とか、そういうごく平凡な人間関係が良かったのかもしれないですね。かつては中卒で「棟梁に弟子入り」して、大工見習いが現場に出て仕事を教えてもらう、というようなことがあった。まさにレジデント的なシステムが働いていた。ところが今は違う。まずは学校を出て理屈を学んでこないといけないし、現場の場数とか腕で勝負でもなくて、システム的に決まった工法を実行できる人達がいればいい、というようなことになった。そうして大工は減少し、腕で仕事をする人達はかなり少なくなってしまい、組立屋的な人材が増えることとなった。そういうのもちょっと悲しい面があるかもしれないですね。


企業がそういう人材育成システムを実行できるのか、やや懐疑的ではあります。今から出来るのであれば、もっと早くからやっていても良さそうだからです。昔の人達の偉かったことは、何の現場であっても、若者に仕事をさせ、それなりに責任も持たせたり(上司はきっと責任を取ることを仕事としていたことだろう)、教育をしていったことだ。そうやって、技術の伝承とかコツの伝授とか、そういうことを続けてきたことだ。伝統技術は、ほとんどがそうだろうと思う。昔は普通に行われていたことが、今は「制度」としてそういうことをやっていかないと出来ない、ということなんだろうと思います。何となくそういうのも「寂しいな」と感じますね。私が古いタイプの人間だからなのかもしれないですけれども。


若年層の雇用や就業改善というのは、これから暫くは大きな問題となるでしょう。じゃあ、どうすりゃいいの、という答えは中々見つけられないことなのかもしれませんね。


更に追加です。自衛隊のお話を少し。そんなに詳しく判るわけでもないのですけど、ちょっと書いておきます。

結構昔のことかもしれませんが、中卒でも入れるので自衛隊はある意味重宝されていたと思います。実際に戦闘ということを想定することもなかったですし(海外に出て行くなどということは有り得なかったですよね?)。中卒で入ったとしても、内部での教育を受けられたし、高卒と同じ資格を得ることも可能だったと思います。他にも、自動車の運転免許だけではなく、大型特殊とかの免許や、電気関係、無線関係、危険物取扱者関係の免許なども取得可能であったと思います。内部での教育制度があって、本人の意欲や努力があれば各種免許が取得できた。

特に陸上自衛隊は「精強な男子」が必要だったから、若者を沢山入れたがった。言ってみれば契約社員みたいなもので、数年間自衛隊で過ごせば良かった。その間は衣食住は基地内に住めば金がかからないし、衣食住は最低まかなうことができた。契約延長で長く残れる人達もいたし、正規の隊員となれる(正規の特別職国家公務員ですね)人達もいた。たとえ自衛隊に残れなくとも、就職に役立つ各種免許・資格などの取得もあったし、就職斡旋も自衛隊が面倒をみてくれた。ある意味訓練校的な役割を果たしていたと思う。だから田舎では、中卒で行くところが決まってない人達は、結構自衛隊に入隊したりして、地方に残ることが可能だった。除隊しても、予備役というような(予備自衛官?かな、正確には判りません)システムもあるし。


多分、高校進学率が非常に高くなってからは、そういう訓練校的な意味合いは薄れていき、高度成長期などでは民間の給与の方が良くて、自衛隊なんぞはバカらしくて入隊する人達は減少したんだろうと思う(あくまで推測ですが)。特にバブル期などでは、自衛隊員の募集が大変だったと思う(曖昧な記憶です)。人気があったのは、防衛医大のパーティくらいだったろう(笑)。

自衛隊というのは、色んな意味で(特に地方においては)若年者の受け皿として存在していたと思うが、現状はどうなのかは知らない。中卒でも入隊して、勉強を教えてくれたりするのかどうかも分からない。ニートの教育に役立つとかそういうのは分からないが(もしもニートを集めて部隊を作ったら、凄く弱いイメージがありそうです。ゴメンナサイ、差別とかではなく)、若年者雇用の「駆け込み寺」的な存在であったのかもしれない、ということです。

トータルな効果を考えると、若年者を支援する効率的なシステムであると思う。それがニート対策でいいかどうかは別な問題だと思いますけれども。あながち否定出来ない仕組みだった、ということです。現代でもそれが当てはまるかどうか、ということが重要なことだろうとは思いますが。



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少子化と労働問題4

2005年12月20日 20時56分22秒 | 社会全般
内閣府の中間報告にあった無業者の定義自体は、それなりに意味があって、求職・非求職・非希望型というのは、労働統計には概ね合致していると思う。総務省の「労働力調査」では、15~24歳と25~34歳の群で非求職(就業希望はあるが求職活動をしてない)と非希望群に分類されていて、非労働力人口(在学を除く)は24歳以下が61万人、34歳以下が327万人おり、それぞれ希望型は23万人、112万人となっている。また非希望型は36万人と205万人である。これらの中には、結婚してしまって家事や育児を行っている人達も含まれている(特に女性の数が圧倒的に多いのはその為であろうと推測される)から、それらを除いた群を求めたのだろうと思います。それで、内閣府の定義では「配偶者有り」を除いたのだろう。


新卒者達の就業状況などを調べてきましたが、他の統計数値も見てみることにします。文部科学省の「就職状況調査」というのがありますが、これは毎年内定率がどれ位か速報が出てますね。これを見ると、報道などで出る秋頃(10月)とか2月時点での就職内定率は低く、最終的には4月1日時点での結果が最も重要になってきます。ギリギリまで決まらなかった人達も、それなりにどこかの働き口が見つかって、その後に働いているだろう、ということになります。これで見ると、17年4月時点では、大卒がここ3年位は安定して93%前後となっており、就職を希望していた人達はその殆どが働く、ということになると思います。「学校基本調査」と随分印象が違いますね。大卒の就職内定率はかなり悪くなってると思っていたのですが、最後の時点(4月1日)では殆どが就職しているということになります。同じく短大、専修学校、高専の内定率を見ると、89%・92%・98%くらいですからそんなに悪くは無いですね。


この調査は、全数調査ではなくサンプル校のみということと、内定の全てが正規雇用なのかは分りません。それと、最後まで就職活動をしていた人達がどれ位就職内定があったか、ということを調べていて、途中で就職活動を止めたりすると就職希望者の母数から除かれたりするんだろうか?仮に卒業予定者1000人、就職希望者900人(100人は留学や大学院進学など)の学校があるとします。10月時点では6割決まっていれば(540人)、内定率は60%となりますが、これ以外にまだ未定の360人がいることになります。この360人のうち、2月時点までに100人諦めてしまい就職を希望しないということになれば、残り260人が就職活動をして、この9割が就職出来たとしましょう。すると、就職したのは900人中、540+234=774人となり、途中で諦めた100人を除けば就職希望者は800人となりますから774/800×100=96.75%となります。こうなれば高い就職率ということも頷けるのですが、こんな仕組みなんでしょうか?本当は仕事に就けなかった人達が126人(就職希望者の14%)もいるのですけれども。でも実際に9割以上の就職内定率が数年来続いているとなれば、殆どが就職出来ているということになります。本当にそんなに就職出来ていたのでしょうか?大卒の2割くらいが「進学も就職もしない者」となっているのですけれども。


他の特徴としては、高専の高い就職内定率が挙げられます。これは以前から言われてきましたが、高専の専門性が高く評価されている、ということだと思います。また、高卒に比べても、就職率が高くなっています。学校基本調査によれば、卒業者総数約1万人のうち就職するのが約5400人、無業者と分類されているのは337人となっています。高専卒者は大卒・高卒者と比べて、①就職率が高い、②就職内定率も高い、③無業者の割合が少ない、ということが言えるかと思います。恐らく、高校時代(15~18歳頃)での教育制度として就業に備えた専門教育の必要性を説く方々は、こうした高専の特徴を反映した提案をしているのだろうと思います。


新卒という部分から見ると分ることもありますが、現実には内閣府報告にもあったように、中卒者や高校中退者達の就業状況の実態はよく分りません。無業者と分類されている層について、「中・高卒が多い」という傾向があるならば、学校基本調査などには載ってこない人々が無業となっている可能性もあります。高校中退者ばかりではなく、高卒後に大学進学を希望したものの浪人生となったりしていると、予備校を辞めた後が統計には載ってこない層になってしまったりしてるかもしれません。高卒時には「学校進学」と同じ(大学進学・専修学校通学等)であるけれども、その後に予備校で統計を取ったりはしないと思うので、断念した人達がどのような進路をとることになったかは調査されていないだろうと思います。


厚生労働省の労働経済白書では無業者に関する調査があります。この中では、求職活動をしているのが約4割ですが、一度も求職活動をしたことが無い人は約2割存在します。その理由(複数回答)は、「ひとづきあいなど会社生活をうまくやっていく自信がない」が約33.6%と3人に1人です。これが多いと見るか少ないと見るかは別として、最も多い理由はこれだ、ということです。後は順に、健康上の理由(29.3)、他にやりたいことがある(28.3)、能力・適性にあった仕事が分らない(25.4)、自分の能力・適性が分らない(22.6)、希望の就職先が見つかりそうにない(17.0)、求職活動の仕方が分らない(15.5)、なんとなく(10.6)、仕事に就く必要がない(7.8)、家事・育児・介護で忙しい(6.7)、家の仕事を継ぐ(1.1)、となっています。


これらの結果を見ると、健康上の理由というのが大きいとは思いますが(現実にはどういう病的状況なのかは、定かではありません。主にうつ病などの精神疾患である可能性も有り得ます)、家事等で求職出来ない人達はそんなに多くはない。また、家業を継ぐ人が非常に少ない、ということですね。自営業者が減少している、ということなのでしょうか?この変は別な資料を探さないと分りません(恐らく減少してきていると思いますが)。その他の理由では、自信がない、能力・適性などが分らない、求職のやり方が分らない、なんとなく、などという理由があるので、これらに対して、厚生労働省がいくつか対策を出してきたんだろうと思います。


本当に「仕事が出来ない状態」の無業者という人達が若年無業者全体に占める割合というのは、多分半分もいないだろう。内閣府の調査では、非求職型のうち病気、家事・育児、介護等である人達は43万人中13万人程度で、残りの30万人は別な理由である。非希望型が何故就業を希望しないのか、というのは正確には分らない。



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一休み

2005年12月20日 00時01分10秒 | 俺のそれ
最近停滞気味かもしれないな。自分が「何でこんなことやってるんだろ」とか思ってしまう。年末特有のバタバタ感があって、気分も冴えない。ブログを書いていても、「何の為に書いているのかな」とか「無駄なことを積み重ねて、一体何の役に立つのか」とか、そんなことを考える。自分の中にあった、情動というか、強い思いが衰微の危機にあるのかもしれない(笑)。何となく虚脱感が覆っているような気がする。


今年もあと少しで終わってしまう。早いものだ。
来年の予想はどうなんだろうか。株価の上昇は続くかな?(笑)


来年度の予算案も固まって、国の予算も「デフレ傾向」なのかな?(笑)80兆円割れということだそうです。国債発行額も30兆円以下にまとめることができたんですから、大きな前進ですよね。今まで私が散々言ってきた「無駄遣いすんな!」ということを多少なりとも達成してくれたのだから、もっと喜ぶべきなんだろうと思うけど、これも今ひとつ盛り上がらない気分です。何でだろう?


昔のアニメ「一休さん」じゃないけど、「一休み、一休み」ということで、腑抜け状態。また労働問題の続きを書いていく積もりですので、ヨロピコ。


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