いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

平成18年の終わりに

2006年12月31日 16時01分52秒 | 俺のそれ
今年もあっという間に過ぎた1年だった。個人的な面では、悪い事もなく、大きな心配事もなく、安穏に過すことができたので、良い1年であったと思う。あっ、腰痛になった。40過ぎだと、肉体的な変調が訪れるのかな、やっぱり。数日前に行ったボーリングの後の、筋肉痛(弱すぎですか?そーですか、恥)がまだ続いているし。スコアも散々だったのだけれど。


ところで、今年変わったことは、ハイブリッド車を購入したことがあった。冬の燃費はこれまでに比べても、格段に向上するだろう、とか予想していたのに、全くの逆であった。これは予想ガイだった。理由としては、寒い為に暖房が必須であるため(ガラスが凍ってしまうため、視界が確保されるまでアイドリングが必要になってしまうのだ・・・!)その分エンジンの駆動時間が長くなるのと、ブレーキングでのロスが大きいのだろうと思う(回生システムが効きにくい)。凍結路面では摩擦係数がかなり低い為に、ブレーキによってタイヤの回転が止まりやすいはずで(ロックしやすい傾向ということ、実際はABSがある為ロックはしないけれども)、タイヤと路面での熱エネルギーとしてロスが大きくなるのではないかな。タイヤの回転力からエネルギーを回収する回生システムのメリットが減殺されてしまうだろう。なので、夏場だと12~13km/L程度だった燃費は、今のところ10km/L程度に落ちている。気温が低ければ低いほど落ちている。これからの数ヶ月間は、結構損した気分ではあるものの、以前の5.5km/Lくらいであったことを思えば、格段に向上したことは確かなんですけれどね。SUVの選択についてだが、多分車がスタックして動けなくなることがあると考えられないような乏しい想像力の人もいると思うが、そういう人は「何故ハリアーを選択したか」ということが直感的には理解できないかもしれない。普通の車なんかだと、自分1人で脱出するのが難しい場面というのがあるものなのですよ、本当に。そういう感覚は自分の生活環境によるのだろう。大抵は、かなり実用的な面での選択意図があるものなのです。


あと、今年のブログのことを一応振り返っておこう。

まず思うことは、やっぱり頭のいい人たちはたくさんいるのだな、ということかな。当たり前なんだけど。仮に18歳時点での成績上位側から3万人程度(恐らく有名国公立や私立大学の入学者を合わせると2~3万人くらいではないかな?)だけ考えても、過去30年(つまり48歳まで)分で90万人も存在することになる。その全員がブログをやっているわけではないだろうが、10%が書いているとしても9万人!もいることになる。ブログ数で9万となれば、それだけで自分1人では読めない程の数だ。つまり、そういう頭の良い人たちが書いているであろうブログは、かなりたくさんあっても不思議ではないのである。で、自分が目にするのは、そのまた数百分の一とか数千分の一程度なんだろうと思う。まだ見ぬ凄いブログは、まだまだあるんじゃないかと思う。


みんなが好きな内容とか、注目する中身とか、そういうのは棲み分けられてきているかもしれない。大衆に届くことが最も必要で、それが現実世界での出来事にも繋がっていくだろう。ブログの女王だか、新女王だか言われたりするが、そういうのを読みたい人たちが多いのだから、ブログというのはそういうものなんだろうと思う。ただ、自分が書く時には、そういうことよりも、自分で考え直す時の確認や整理とか、意外なことを知ったとか、下らない世間話とか、頭の中から零れ落ちてくる「何か」を書いておくことが多いように思う。なので、大衆への影響力は無いね。


大衆への影響力ということで言えば、マスメディアについて感じることがあった。いい面も、悪い面も、だね。
不確実なことを断定的に書くとか、記者の感情を織り込みすぎとか、煽り過ぎとか、そういった批判をしてきた。テレビに対しても、色々と批判したけれど、やっぱり大衆への影響力があるのは、こうしたテレビ、新聞や雑誌なので、できるだけ質を高めてもらえれば、と思う。


特に感じたことを挙げると、第一には、やっぱり読売新聞の頑張りだったんじゃないだろうか。私自身が取っているからとか、何かの利害関係者であるとか、そういうことでは全くないですが、それなりに評価できる部分はあったと思う。最も良かったのが「戦争責任検証シリーズ」だった。政治の舞台裏を丹念に取材し、人間中心で描き出していたシリーズなんかも良かった(判断や決定に至る過程で違った視点が窺えると思う)。ナベツネの他紙登場というのも、象徴的な出来事だったのではないか。他社系の論壇誌や一般紙といった枠組みを超えて行くことは、言論世界では重要ではないかな、やっぱり。組織としての利害関係に言論が封殺されるようなことがあってはダメだろうと思う。テレビ業界なんかだと、未だに古い慣行とかあるのかもしれないが、新聞や雑誌なんかは危機感が結構あるせいなのかもしれない。今後存在意義を問われる場面はやってくるだろうと思うので、生き残れる為には質を高めることが重要だろうと思う。


自分たちの先祖が過去にどのようなことをしたり考えたりしてきたのか、過ちはどうして起こったのか、そういうことをようやく冷静に考えてみることが可能な時期に来たのだ、ということだと思う。過失責任はあった。過ちへと先導した人々も、それにつき従っていった人々も、それを止めることが出来なかった人々も、時代を突き進んでいった。そういう過去を今の国民も「ともに背負う」ことが、犠牲になられた尊い命に対する弔いであろう。だからこそ、戦争は絶対に回避せねばならないし、最大限の努力で危機に対処せねばならないのである。そういう手段や方法を常に考えることが、過去の失敗を繰り返さない為に必要なのである。


行政の無駄遣いにしても、読売新聞はよく探し出して記事に書いてくれた。オンブズマンのような団体の人々も、地方議員なんかの不正を地道に調べ、証拠固めを行っていたと思う。こうした労力は大変なものなのだが、ある意味無駄な労力ではある。そもそもそういうことをやってなければ、調べる必要性などないのだから。知事をはじめとする地方自治体や地方議会の不正、佐田議員の政治団体の問題などで感じることは、省庁のように決算資料をネット上で公表するようにした方がいい、ということだ。国に比べて情報公開が遅れている部分が相当あるし、調べる側にとっては情報公開請求なんかでしか資料を手に入れられず、効率が悪いと思う。もっと政治から「金・利権」を遠ざけられるようにするべきだし、そういう流れで政党助成金だの公設秘書だの、税金を投入しましょう、となっているのでしょ?いつまでも「政治ゲーム」と「権力構造末席への参列」みたいなことをやっている連中が政策を真剣に考えたりできるものなのだろうか。そういう「政治ゲーム」は止めにして欲しい。


それから、貸金業法改正関連では、広告費関係なんかもあって、モロに利害関係にあったメディアであったが、その壁をよく乗り越えてくれたな、と思っている。勇気のいることだったろうが、言論を掲げるならば、やはり言及するべきであろう。報じ方には批判もあったし、扇情的な面がなかったとは言えないが、それでも私は評価している。特に毎日新聞のシリーズは勉強になったし、本当のところ実態をよく知らなかった私の貴重な情報源となった。モリタク先生や、NIKKEI NET「プロの視点」シリーズの太田康夫編集委員が書いた論説も、大変有り難かった。大竹先生の論説については、基本的な経済学での考え方が示されていた。こういう言説を広く示すことがメディアの役割であると思う。


ライブドアの一件や、新聞の特殊指定問題なんかもあったので、メディア自身も試された1年だったのではないか。これまで以上に、メディアについて大衆が考えたり、メディアの中の人たち自身が考えたんじゃないかと思う。


ちょっとバタバタしていて時間がないので、年明けにもうちょっと書こうと思うが、とりあえず今年の最後の記事としたい。

皆様、よいお年を迎えられますよう、また「上げ潮な新年」(by 中川秀直、笑)でありますようにご祈念申し上げます。


今年一年、ありがとうございました。



年金不安は越年

2006年12月30日 21時48分01秒 | 社会保障問題
「年金制度というのは破綻しない制度である」という説明を誇らしげにする人たちがいるが、こういうのを見るに相当アレだな、と思ったりする。もうちょっと一般社会の人々と同じ程度に考えて下さいよ。普通、「給付水準をお約束しますから、この制度改革案に賛成して下さい」と言っているのであれば、それが「契約」とほぼ同じ意味合いであると考えるのは当然であろう。「100万円預けたら、利息を1万円払いましょう」という約束をしていて、そうだろうと信じて預けたのに、「やっぱり100円しか払いません」と後で言われりゃ、「契約違反じゃないか」と思うのではないか?給付水準を50%確保します、なんて謳い文句を信じろというのは難しいんじゃないか?


年金見込み水準、人口減で破たん ニュース 医療と介護 YOMIURI ONLINE(読売新聞)


出生率に怯える社会


子どもの数が急には増えないのは、今すぐにはどうしようもない。回避できない。仮に上向いてきたとしても、効果が出るのはずっと先。なので、保険料を払う人々の割合が確実に減っていく。今のような厚生年金制度から漏れてる人たちとか、年金未納者たちとか、そういう人々の負担を将来誰かがせねばならない。その上、高齢者は確実に増えるから、受け取る人々は多いのである。現役世代の人々が払う保険料や税金でこれらを賄わねばならないのである。保険料の形であろうが、税金の形であろうが、取られることは同じである(笑)。よく「保険料で全部賄うのではなく、国庫負担がある」とか当たり前のことを言う人もいるのだが、国庫は「打ち出の小槌」なんかではないのである。誰かが税金を払わねばならないのであり、年金財源が不足するからといって、無限に国庫から金を引っ張ってこれるわけではないのである。


現在支払っている保険料の払い込み合計額と将来予想される受取額を考えた時、公的年金の水準が「約束通りには払えません」という落ち込みが強く推測されるなら、払わない方がいい場合も有り得る。別な消費や投資に回した方がマシだと考えるからである。それに、現時点で低所得の為払える余裕がないのであれば、「将来生活保護でいい」と考えることもあるかもしれず、そうであるなら未納を選択する方が有利である。遠い将来の数万円よりも、目の前の数千円、というのが本当に必要な人たちはいるのである。


悲観的な見方になれば、現役世代3人で2人の高齢者を支えろ、とかいうことになるかもしれないのである。本当にそれが可能なのであろうか?今の時点でさえ、厚生年金の保険料と給付額の差は6兆円規模でマイナスなのである。運用益や積立金取り崩しなんかで穴埋めはしているが、今後も労働者の給与が伸びず、企業が負担を回避している限り、給付額の伸びには追いつけない。負担逃れで「厚生年金には入れてやんない」という選択をしているのであるから、保険料の払い手の頭数が大幅に減るに決まっているのにね。


要するに、たくさん保険料か税金の形で現役世代が払い続け、給付を受ける高齢者世代も思ってたよりずっと少ない額で我慢することになり(働き続けられる限り働かねばならないかもしれない)、老後の生活設計の大幅変更を強いられるのが関の山である。こういう制度を「破綻している」と呼ぶのは当然ではないか。


そういえば、上の参考記事でポンジーのことを書いたのだが、前に立ち読みした経済関係の本にも出ていたな。著者の書名も全く覚えていないけれど、確かに出ていた。割と有名な経済学者の本だったと思うんだけどな・・・・


金は天下の・・・

2006年12月29日 23時15分11秒 | 社会全般
by ツルゲーネフ(笑)

本当にそうなんだろうか?確かに回っている所には回っているかもしれない。でも、不足している所には依然不足したままだ。こんなんでいいのか?虚血に陥って、壊死を待つだけの組織となってしまってもいいとでも?そんなことあるもんか。


06年に一言 弱者切り捨ての果て…急増する自死遺児=萩尾信也(社会部)-記者の目:MSN毎日インタラクティブ


師走の東京で幾度も「貧困」という言葉を耳にした。「格差」にあらず、人の生命や尊厳までもが脅かされている状況をいう。戦後の経済復興の過程で一度は日本社会の表層から消えたかに見えた言葉が、06年冬の街に戻っていた。

 「日本で『貧困の世襲化』の時代が始まった。腹を据えてかからなあかん」

(中略)

しかし、98年に912人だった高校奨学生の出願数は今年1796人に倍増。高校生遺児の母子家庭の平均勤労年収も98年の200万円が145万円に落ち込んだ。政府が打ち出した生活保護の母子加算の廃止の方針は、彼らの窮状に拍車をかける。

 時代は遺児が生まれた原因にも影を落としている。97年に高校奨学生の3・5%を占めた自死遺児は今年16・7%まで上昇。自死の背景には、「倒産」や「リストラ」の言葉が浮かぶ。

 「世の中を金持ちやエリートに任せていてはえらいことになる。これからは君たちが切り開く番や。それには一人一人が力をつけなあかん。人の痛みに思いをはせる想像力や」




沈み行く船に乗っている時、「オレには救命胴衣があるのさ」と「持てる者たち」が「持たざる者たち」に向かって言っているようなものではないか。今なら全員で協力して船底の穴を塞ぎ、入ってきた水を汲み出す作業をすれば、船は沈まずに済むかもしれない。だが、今すぐに溺れる心配のない連中なんかが、「オマエらが乗ってる重みで船が沈むんだ!自分で泳げないヤツラは船から叩き出せ」とか、「オマエらの分まで支えきれないんだ」とか、そういうことを言い出せば、全員船と一緒に沈んでいってしまうんじゃないのか。大海原で海に放り出されれば、いかに救命胴衣がある人なんかでも、大半が助からないんですよ。冷たい海に放り込まれれば、次第に低体温になってどうせ助からないのです。今、溺れなくても、です。いずれそういう事態が訪れるかもしれないのです。


社会が死んでいく過程は、非常に緩徐ではあるが、着実に進んでいくであろう。不可逆的な過程に足を踏み入れてしまえば、もう後戻りはできなくなる。その前に何とか回避する努力をするべきなのではないのか。


大企業を中心とする企業側の言い分は、「企業の負担を軽くせよ」の大合唱だ。パートの分まで負担できない、とか、そういうことを必ず言う。競争力が落ちる、とか言うんだ。でも、国内消費者の多くが消費に回せるお金を持たなくなれば、どうせ一緒に沈んでいくんだぞ?今まで散々現金をかき集めてきたじゃないか。その金はどうした?うまく投資して、利益を生み出してきているのか?違うだろ。それは何故なのか?金を持っているヤツラがバカだからだ。金は持っているだけでは、価値を生み出さない。使ってこそ始めて意味があるんだよ。


銀行というのは、金を持っていても直ぐにうまく投資に回せないとか、余りに少額でそれ単体では投資できないというような人々のお金を預かって、代わりに投資していくんだろ?そういう代理人というようなものなのだろ?それがどうだ?実際には、投資をしていく連中が無能であるが故に、金が新たな価値を創造できてないんだよ。大金庫に100億円を眠らせておいて、百年後に100億円を持っているかもしれないが、その百億円は何ら「成長」していないんですよ。こんなの当たり前。


一般個人でも似ていて、タンスの底とか、床下の甕の中に100万円を後生大事にしまっておいても、それは成長には繋がらないのです。使ってこそ意味があるのです。勿論、収支変動には備えなければならないけれども、金を持っているだけでは、未来には繋がらないのです。有効な使い道に回した方がずっといいのです。みんなが恐れて、こういうタンス預金をしていたら、その分だけ消費や投資が伸びないのではないでしょうか(この方が有利だ、という気持ちにさせられるのは、「デフレ」という悪魔に取り憑かれたからだろうけど)。


企業貯蓄は増加の一方であって、今まで十分溜め込んできたでしょ。使うべき時が来ているんですよ。未来に投資するべきなのですよ。投資できないのであれば、消費すればいいのです。従業員に分けたり、公的負担をしたりすればいいのですよ。何故それができないのでしょう?そうやって、手元に金を集めて持っているだけでは、金は成長していかないのですよ。新たな富を生んではくれないのですよ。どうしてそれが判らないのでしょうか?


価格競争に敗れてしまう、とか危惧するのであれば、外国に工場建設投資などをして、そこでバンバン売りまくって、本社にその利益をガッポリ持ってくればいいじゃありませんか。賃金の安い国であれば、そこでの価格は抑えられるのでしょう?もっと稼いでくればいいじゃないですか。トヨタみたいに(笑)。要するに、金だけ持っていてもしょうがないんですよ。使え、っての。国内であろうが、国外であろうが、企業利益をどんどん増やせるような投資をしなけりゃ、金庫の中で(実際は帳簿の数字上で?なのかな)金が眠っているだけなんですって。投資にも消費にも回らない金の割合が増えれば増えるほど、社会全体の成長は弱まるのですよ。「天下の回りもの」なのであれば、使えばきっと戻ってくるでしょうよ(笑)。


これまで何度も書いてきたが、過酷な労働環境で家にも満足に帰れないとか、睡眠時間も取れないとか、そういう社会はおかしいですよ、やっぱり。オレが寝ずに働いているんだから、オマエらも寝ないで働くのは普通だ、というようなことは無くしていく方がいいと思います。1人でやるのが難しいのであれば、できるだけ仕事をチーム単位でやるようにした方がいいと思うよ。確かに「寝ないで頑張らないと」みたいな状況は出てくることはあると思うけれど、常時そういうのが続くというのはオカシイですよ。それなら、今まで給料の高かった人たちの一部を下げる代わりに、安い給料の人をちょっぴり増やして均等化し、仕事量も分散した方がいいと思いますね。能力の高い人にしかできない部分というのが、その職種の全部を占める仕事ということって、実際にはそんなに多くないんじゃないかと思っています。例えば、検察官もいれば、検察事務官もいるわけですよね?裁判所だって、全員が裁判官なんじゃなくて、事務官とかいるんですよね?そういうのが普通なのではありませんか?そういうチームというか、「パーティ」を作っていく方がいいと思うんですよね。1人1人の負担をちょっと少なくして、働く人数を多くできる方向にいくべきなのです。


厚生年金にパートを入れたくない、とか企業は言っているので、小手先の改革では改まることはないと思う。一回全部壊して、企業には応分の負担をさせるべきだ。どの国民も、生活水準や医療なんかの最低保障は確保されるべきであり、働き手にとって、ある人たちは社会保障があるのに、フリーターやパートのような待遇にある人たちだけがそういう保障から外される、というのは、オカシイです。労働者側だって、給料をもらえれば消費に回す方が多いんですよ。そりゃそうですよ。月収が10万円しかない人たちはそこから国民年金だの国民健康保険だの社会保険料を支払い、家賃とか公共料金も当然払わねばならず、残った僅かな中から消費に回さざるを得ないんですよ。それ故、消費にはお金が回っていかないんですよ。消費に金が回らないから、国内販売が伸びないのです。企業は、こうした社会保障関係の負担とか賃金の負担をしないで、労働力だけ搾取しているからだ。decent workなんかじゃないんですよ。そのツケは後から必ず回ってくる。保険料上限を18.3%としてはみたものの、年金制度を支えきれなくなって、保険料値上げとか法人税率アップとか、そういう形で返ってくるんですよ。世の中そういうものだと思うね。なので、今のうちから少しずつ負担を均等化しておくべきだろう。後に回せば回すほど、苦しみは大きくなるはずです。


江戸時代とかは、娯楽だの、絵画だの、読み物だの、そういった「製造業」じゃない(笑)分野でお金がたくさん使われたと思うよ。そういう文化を育む余地というか、背景があったんだろう。人々はそういうものに「お金を使った」からこそ、育っていったんだろうと思う。しかも、お金持ちばかりではなく、大衆が使ったのですよね、きっと。


金を持っている連中こそ、金を有効に使うことを考えるべきなんじゃないのか。足りない部分に行き渡らせられる方法を、選択するべきなのではないか。



地獄の沙汰も・・・・

2006年12月28日 17時28分31秒 | 政治って?
佐田行革担当相の辞任劇となった波乱の年末となりました。

「違法行為はあった」というから、厚顔無恥とはこういうのを言うのでしょうね。時効が成立している、とか言ってるけど、問題ですよね。


「ホンマ効果」に懲りて、今回は直ぐに辞任となったわけですが、安倍政権にとって痛手には違いなく、エラー絡みでランナーが出る、塁が埋まる、で、タイムリーを浴びて失点する、という悪循環に陥ってきてるかもしれません。


発足当初の、先取点の大量リードが大きいかったので、今のところ逆転打を許してはいませんが、年明け以降、「ジリ貧モード」に陥る可能性があるので、要注意でしょう。

今の下落基調で行けば、夏の参院選までは支持率を維持出来ない可能性すらあります。その前にある地方選で、民主党を初めとする野党の巻き返しが強ければ、「安倍政権」を前面に出して参院選挙を戦えない、という危惧を生じるかもしれません。


ところで、佐田さんの問題ですけれども、こうして見るにつけ「政治には金が必要なんだ」というベテラン政治家の言葉を思い出します。そりゃそうなんでしょうね。元々金のある建設会社を母体としている現職議員でさえ、これですからね。議員といっても、裏では何をやっているか判らんな、という陰謀論に直ぐ傾いてしいまいがちです(笑)。

佐田大臣だけに、「地獄の沙汰も金次第」というのが、オヤジギャグ的にはピッタリします。


どうも「復党問題」以降、ケチがつき始めてしまった感がありますね。
メディアの取り上げられ方を見ると、安倍総理の最大の良かった所、即ち女性受けしやすそうな部分が弱くなっているのではないかと思われます。つまり、多くの女性たちから見て、「ツマラナイ」とか「よくわかんない」というような状態なのではないかな、と。

元々は「好感度よし」であったはずなのですが、何が悪くなったのか男の私から見ても判り難いのですが、例えば「頼りなさそう」「自信なさそう」「精気に欠ける」みたいな、論理的ではない(つまり政策の成否、誰かの醜聞や党内部の問題などの決断内容には関係ない)、直感的・感情的な印象の部分ではないかと思うのですけどね。これは女性の意見を多く聞いてみた方がいいのではないかと思いますけど、どうでしょうか。


通常だと側近なんかの意見を聞くことが多いのではないかと思うので、どうしてもガチガチ男の意見(笑)とか、内輪・同業者(要するに政治家だ)たちの意見ばかりが耳に入りがちで、そうなると、一般有権者たちの印象とは離れて行ってる場合があるかもしれないな、と。


登場シーンとしては、ひたすらイヤな会見が多い(笑)ので、もっと全然別な登場場面を作るべきでしょうね。ぶら下がりとか、答弁の場面でも、「安倍ちゃんの物語性」を思い切って出す方が大衆支持は集められるかもしれません。今は、女性が応援してあげたくなるような雰囲気ではないのだろうな、と思います。恐らく個人の物語性に乏しいから?とか、そういう女性特有の何かなんだろうと思います。

こういうことを書くと、劇場型だとか印象操作だとか批判されるかもしれませんけれど・・・・でも、女性の視点というのは、恐るべき観察力なんですよ。それは理屈で判るとか、正確に説明できるとか、そういうことではなく、何となく「ウソを見破る能力」やら、「強いリーダー(オス)を選ぶ能力」やら、「現実(実利)的に判断する能力」やら、男には理解し難い能力が隠されているのです、きっと(笑)。そういう女性支持をもう一度獲得する、というのは、安倍総理の利点を活かす、ということでもあるんじゃなかろうか、と思うんですよね。


ところで、立花氏は今の状況を「官僚の暴走」という時代に入っていると警告しているようですね。


未熟な安倍内閣が許した危険な官僚暴走の時代 - ビジネススタイル - nikkei BPnet


こりゃ危ないですね。暴れ馬か、野牛の群れみたいじゃないですか(笑)。実際どうなのか知りませんが、官僚諸氏は暴走しているんでしょうか?そうだとすれば、日本の行政は本当に官僚に牛耳られてしまっている、ということなのでしょう。

民主政治の危機ですね。一大事です。



将棋と空間認識能力

2006年12月27日 18時15分23秒 | 社会全般
将棋連盟の女流棋士独立問題に関連した話題です。

macska dot org Blog Archive 「日本将棋連盟から女流棋士会が独立」報道を巡って


ここで、将棋の能力が性差にどの程度影響されているのか、ということが出てきます。これについてちょっと考えたいと思います。
あくまで素人談義ですので、ご了承下さい。


まず、脳科学者が言う「空間認識能力」云々という話ですが、これって将棋の能力と直接的に関係が深そうには思えないんですよね。「男性と女性の脳には、”生まれつき”性差があるのか?」という問いには、「ある」という答えにはなると思うが、「将棋の能力に性差があるか?」には、やはり「判らない」ということになるんじゃないでしょうか。「空間認識能力の性差がある」ということが、「将棋脳力」(笑、イマドキ風な感じで呼ぶと)の差を意味しないでしょうね。


もしも、「将棋の能力に違いがあるのは、性差の影響が出てるんでしょうか?」という問い方をした時に、「空間認識能力云々」という説明をしたのであれば、この学者さんは将棋自体をよく理解していないとか、考える道筋に誤解があるように思えるが、どうなんでしょうか。或いは、ひょっとすると漫画の『シュート!』の愛読者で(笑)、多大な影響を受けていた、とか(多分違うと思うけど)。

<この漫画の中で、主要な登場人物に平松というのがいるが、彼が父親と将棋をする場面があり、空間認識能力云々の解説も色々と出てきたように記憶しているが・・・・フラッシュパスの考案者でもあり医師でもある父親だったのが幸いしたのではなかったかな。昔読んだので詳細は忘れた>


将棋というのは、どちらかと言うと、答えから逆算していくようなイメージがあり、わかり易く言えば「王」を討ち取るという答えはハッキリしていて、そこに近づく為の可能なパターンを探す作業のようなものではないのかな、と。即詰みの局面なんかは、割と明確にそれが出てくるように思えます。それとも、「ウソをついている証言者が1人いる」という時の犯人探しのクイズみたいな、推論の問題に近いイメージです。単純なのは「捨て駒」ですよね。「ある状態」を実現できればよい、という条件が判っていれば、その状態を達成する為にワザと「捨て駒をする」ということですので。

そういえば、コンピュータソフトが強いのは詰みの局面で間違ったりしないことで、それは計算することで可能になるということでもあり、数学(?、計算?)に近いということだろうと思います。なので、将棋に必要なのは、空間認識能力というよりは、どちらかというとプログラムみたいな論理的思考ではなかろうか、と思います。サッカーをするのであれば、空間認識能力が求められるというのも理解できますけどね。


男性と女性の脳に生まれつきの違いが存在している、というのは日常生活の中でも感じることがあります。例えば、脳梗塞とか脳出血の後遺障害で「失語症」というのがあります。言語野は大脳の左脳に主に存在しており、こちら側の脳に損傷を受けて障害が残る(体では右半身マヒというような症状です)と、失語症(或いは言語障害)が見られることがあります。右半身マヒとなっている人に出会うと、男性であれば多くが言語障害を有しているのですが、女性になると重度の言語障害とか完全失語症はやはり少ないイメージですね。元々の脳機能に男女差があるからだろうと思いますね。


以前に女流の囲碁棋士の(話題を取り上げたことがありますが、囲碁では女流棋士であってもかなり強くて、男性棋士にも普通に勝ちますね(通算成績でどうなのかは知りませんが)。アマが相手であれば、それが最強アマのクラスであっても、女流棋士には殆ど勝てないでしょう(ハンディを勘案した、置き碁なら別と思いますけれども)。それ位プロとの差があるかと思います。単純に女性だから弱い、などということは言えないように思えます。将棋と囲碁というゲーム性の違いがあるのかもしれませんけれども。個人的印象では将棋よりは囲碁の方が、男女差がないように思えますね。


この理由は判りませんが、ひょっとすると将棋の方が序~中盤の定量的評価が難しいのかな、と思います。囲碁の場合だと、所謂「地」(=自分の獲得した陣地・領地の数というか面積)を数的に数えることがある程度可能ですので、定量的に評価しやすい面があるかもしれません。将棋だと、どちらが有利なのか、進行状況の選択で良かったかどうか、というのが数字のようには計れず分りにくい、ということかもしれません。それと、囲碁では「白・黒」の2種類ですので、「イメージング」の効果が大きいのかもしれないです。数手~数十手進んだ局面がパッと写真みたいにフラッシュでイメージしやすいのかも。今は置かれていない石が数個~数十個置いた局面が、瞬間的というか短時間で見えるということです(脳内ですけど)。そういう部分が将棋よりは大きいのかもしれません。


これと関連して、女性の場合、ちょっと出会った男性や女性の身なりとか持ち物なんかを一瞬のイメージで捉えたりすることができ、男性よりもその能力は大概高いと思います。でも、男はそういうのが不得意で、後から「女性の靴はどんなのだったか?」「ハンドバッグの色と形は?」「服装はどんなのだったか?」とか聞かれても、殆ど答えられないような有様ですからね(ほら、推理モノの証言なんかでもよく怪しまれるでしょ?)。そういう女性の能力が活かしやすい、という部分が多いのは、囲碁の方なのかな、と。


まあ、結論としては、将棋の能力に「性差」があるかは不明であるし、女性は向かない、とかっていうこともよく判らないでしょう。脳の機能のうち、「空間認識能力」と将棋の能力との関連は弱そうな気がします。


更に言えば、仮に将棋には性差が存在し、男性より女性は向かないとしても、女性は将棋をしない方がいい、とか、女流のプロ棋士は必要ない、とか、そういうことにはならないでしょうね。そんなことを言うのであれば、女性のマラソン選手とか、プロゴルファーとか、女性のサッカーもヤメレ、というのと同じようなものです。やりたい人たちがいればどんどんやった方がいいし、プロを作りたい、という人たちがいるなら作ればよいことであって、それを否定する方がオカシイでしょうね。もっと言えば、女流棋士に負ける男性は世の中の大半(というか圧倒的大多数)なのであり(つまり、将棋という種目においては劣っているということでしょうか?笑)、女流が男性プロ棋士には中々勝てない、ということが一般的な男女の脳における能力差を意味するものでも何でもない、ということは当然です。


女流棋士には女流棋士の良さがあるし、普及活動とかレッスンとか、色々な面で男性よりもずっと活躍できる場面もあると思います。朝日・毎日の契約問題とか、独立問題なんかで紛糾が続く将棋連盟ですが、体制立て直しをしっかりとやった方がいいと思いますね。女流の方々も独立となれば大変でしょうが、地道に頑張って欲しいと思います。


(*以前のユニセックストイレの記事の後、暫くして補足記事を拝見しました。こちらからTBしていなかったのですが、お気づき頂き有難うございました。特にパニックを起こしたわけではございませんので、どうぞご安心下さいませ。笑)



トヨタ「ブレイド」は「オーパ」の二の舞か

2006年12月27日 16時08分01秒 | 俺のそれ
先頃発表された新車「ブレイド」について、感想を少々。

NIKKEI NETクルマ


特徴としては、

・価格帯が高い(=高級セダンを意識、ということらしい)
・ハッチバック
・「2.4ℓ」エンジン

というところか。


欧州戦略車の「オーリス」が秋に投入されたばかりで、その上級車種を同じジャンルに敢えて投入ということらしい。これもイマイチ理解できないけれどね。まあ、金持ちトヨタさんのやることだから、好きにすればいいと思うが、きっと失敗に終わる可能性が高いのではないだろうか。かつて、高級感があってミニバンに近い性質とかを持ち合わせた「オーパ」という新型をトヨタが投入したことがあったが、その後どうなったのかは知らないけれど、大したことなかったのではないでしょうか?


オーリス自体、前にあったアレックス(カローラ・ランクス)の統一車種みたいなものですよね?あまり変わったイメージはないけれど、欧州戦略車だから国内では売れなくとも構わないと思いますが、その上に同一ジャンル?で新型車種を投入する意味がよく判りませんよね。

<関係ないけど、オーリスのエンブレムは、現代自動車のマークにパッと見たら似てるような気がするが、きっと気のせいでしょう、笑>

例えば、ゴルフの車種はそれこそたくさんあって、日本のカローラ・ファミリーみたいなものだと思いますが、安いグレードもあるし高級感のあるグレードもあるという構成で、こうした「派生型」というのならまだ話が判りますね。なので、「オーリス」の高級(上級)グレードを売る方が知名度だの、宣伝効率だの、色々と考えると有利な気がしますけど。マーケティング的には間違いだ、とか言われるかもしれんので、どうなのか判りませんがね。それをわざわざ「ブレイド」という独立したモデルで売り出す気持ちが理解できん。大概中途半端なモデルは失敗に終わるのがオチですので。まあ、実際売ってみたら、意外に売れることもあるかもしれんから判らんが。


因みに、ブレイドクラスの対抗モデルとしては、日産の「ティーダ」とか、マツダの「アクセラ」あたりが思い浮かぶ。自分が選ぶ時には、ブレイドをきっと選ばないと思う。何故かって?

まず、300万円近く出すなら、もっと別なタイプの車種を間違いなく選ぶ。ハッチバックタイプが良くて、動力性能もそこそこ選びたい、ということでなら、迷わず「アクセラ」を選ぶ。なので、ブレイドを選択肢として考慮には入れないだろうと思う。


単純にハッチバック車を選びたいと思う層というのは、上級モデルには手が届かないであろう層が多いと思うし、形だけで選ぶならもっと安いティーダでも十分だと思うからね。昔みたいなシビックのようなタイプを選択していた層にとっては、現在選べる車種が確かに減っていると思うので、チャンスはあるかもしれないが。

(ところでシビックはどうして高級の方向へと行ってしまったんでしょうね。ちょっと寂しい気がしますね。比較的若い層は割と選んでいたと思うのですけど。1.3~1.6ℓクラスの車としては、手ごろではあったろう。)


200万円以上の高価格帯であれば、マツダスピードの「アクセラ(スポーツ)」を選ぶと思う。現在のFF車ではほぼ最強の部類だと思っているんですよね。難点は6MTでオートマ車が設定されていないことだろうか(冬を考えると躊躇われるのと、妻が運転したいような時とか厳しいんですよね、ちょっと・・・・・なので、是非AT車設定した方がいいと思うんですけどね)。動力性能もそうだし、装備の充実度などからみて、お買い得だと思うよ(言ってみれば、昔の「ファミリア」の最強モデルみたいな感じ?かな)。どうしてもオートマ免許(昔はこんなのなかったのにね)でダメという方であれば、その下のノンターボ2.3ℓモデルでも十分でしょう。オプションを付けてもブレイドよりは安いと思う。外見上の好みはあると思うが、個人的にはアクセラの方がずっとスタイリッシュだと思う。


トヨタが好きで、ハッチバックを買いたい、というなら、オーリスの上級グレードで十分じゃないかな、と。


というわけで、選ばれる場面がイマイチ想像できないんですよね、ブレイド。何が良くて買うのかな、と。上級コンパクトを求めたい人に応えるラインナップにしたいなら、オーリスの中に高級グレードを作れば良かったんじゃないでしょうかね。ゴルフのラインナップなんかだと、そういう感じに近いと思うのですけどね。


こうして考えると、ちょっと前にあったWiLLとか、オーパなんかと同じように「消滅」していく運命にあるかもな~、って。ああ、あと、ヴェロッサとか。共通しているのは、どれも微妙に「中途半端」ということですよね。ランクスが生き延びてこれたのは、やっぱりカローラ・ファミリーだったから、というのはあると思うけど。


念の為に付言しておきますと、私は元暴走族とか、走り屋とか、そういうのと一切関係ないですから(笑)。中には、私の頭の悪そうな所や、生い立ち関連とかバイク・車関係の記事なんかを見て、「暴走族だった」とか、「ワイルドスピードに出てくるような走り系?の人」とか、そういう誤解を招いてるかもしれませんが、全く違いますので。本当ですってば!(笑)。



マジック・ナンバー?

2006年12月26日 20時45分04秒 | 俺のそれ
クリスマスで「苦しみます」というオヤジギャグを地で行っている人が、IT戦士(笑)ばかりではなく、他にも存在しているということが判りました。自分は家庭があって良かった、と心の底から感謝しつつ(”官舎”ではないですよ)、記事を拝見しました。


ハリ・セルダンになりたくて - 魔法のナンバー1600


(ところで話は全然変わるが、今年「実物の岡田記者に会った」とか「どんな人であった」といった印象なんかをブログに書いていた弁護士先生は、何か私に自慢したいのでしょうか?(笑)何か意味なく、負けた気がするのは何故でしょうか?小倉先生はああそうなのね、と思ったりするが、何と落合先生までもが書いていたので、羨ましいです。って、冗談ですが、いつも微妙に顔が見えないのが気になります。→見えないこともある


記事にあった「Hodrick-Prescott フィルター」のλ値は何故「1600」なんだー!という素朴な疑問があるということで、これを見たら日銀関連の昔の記事を思い出しました。


確か日銀の推計でも同じく「λ=1600」を用いていたハズです。前に記事を書いた頃に日銀か日銀研のペーパーで見たけど、当該ペーパーは日銀のHPデザインが大幅変更された後から、どこに行ったか判らなくなりました(URI だかURLだかが変更になって、ネットの闇空間の何処かに逝ってしまいました)。意地悪だな、と思ったけど、まあしょうがない。そうではなくて、日銀でも「1600」を用いているから、何かしっかりした理由があるのであろうな、と思ったりします。4半期データは多くが「1600でいいんだよ」と言い、年次データは100を、月次データは14400を用いるのが「一般的なのさ」と決めているのだろうと思います。理由は、「それが通説らしいから」ではないでしょうか。


日銀でもそれでいいと思っているんだから、多分かなり普及している考え方なのではないでしょうか。一応このフィルターには色々と問題があって、長期トレンドを見るのはできますが、直近部分の信頼性はあまり役に立たない面があり、乖離が大きくなりがちということらしいです。


本当はやっぱりλ値の調整を行って、精度を上げるのが望ましいのではないかと思いますが、そういった方法論とかはあまり研究されていないのかもしれませんね。自然科学分野では、まず観測・計測関連の方法論から積み上げが多いのではないかと思われますので、もうちょっとシビアなのかも、と思ったりします。


時系列データのパワースペクトル分析は、主に工学系とか気候なんかの分析が多いと思いますが、人体でも、脳波分析や心拍変動分析などで使われたりします。


よく判りませんが、経済学というのは「マジック・ナンバー」がいつまで経ってもマジック・ナンバーであるところに、系統だっていないというか、積み上げの少ない分野なのかな、と思います。もしもこれが重要なのであれば、λ値の決定の仕方とか、誰かが頑張って研究すればいいと思うのですけどね。どうなんでしょうか。



「こころの染み」

2006年12月25日 19時09分40秒 | 社会全般
さて、ハッピーなクリスマスを過されておられるであろう、日本全国の皆さん、昨晩サンタクロースは来ましたか?

我が家では、家族で楽しく過せました。今年も色々と迷いましたが、プレゼントを買いました。子どもがある程度大きくなってくると、中々頭を悩ませるんですよね。子どもは父親の感性を信頼している、と言ってくれているので、有り難いと思う半面、逆のプレッシャーもあったりします。妻には昨年大不評であった皿(別なプレゼントを買いなおすハメになったけど)に懲りて、無難なセーターにしました。こうした買い物で、低迷している家計消費に多少の貢献ができたのではなかろうか、と思ったりしますが、実際どうなのか判りません(笑)。


クリスマスということで、多数のカップルにとって特別な日であったと思います。実際には何が特別なのか、というのは、よく判らんのですけどね。世の中の流れ的にはそうなんだろうな、と。ということで、恐らく日本男児の数百万人か、数千万人規模で昨晩射精が行われたであろうと推測されます(下ネタでごめんなさい)。よくよく考えてみると、これは恐ろしいことです。何が恐ろしいかって?


男性1人平均が「3mℓ」の射精を行ったとしましょう。これが1000万人いたとすれば、3×1000万=3000万mℓ、即ち「3万ℓ」の精液が放出されたということになります。どれ位の量かと言いますと、通常のドラム缶(200ℓ)で150本分です。ぐは!!もっと言うと、深さ1mで5m×6mの大きさの浴槽に一杯になる量です。グ、ゲゲゲッ!考えただけでも気分が悪くなります。泳ぐことができます、精子風呂。恐るべし、クリスマス。

イカン。いきなりお下品な話題を提供してしまいました。失礼。そういう訳で、クリスマスは結構恐ろしいのです(嘘)。


余談はさておき、先日タクシーに乗ったとき、運転手の方と少し話をして、ハッとしたことがありました。

タクシードライバーの生活は厳しい、規制緩和で台数が増えた、将来も不安だ、といった話を聞かされました。よく言われている通りなのだな、と思いながら聞いておりました。で、その運転手の人は、国や自治体の財政が厳しいこととか、年金はダメっぽいとか、そういったことを言っていました。一応、私の知っている範囲で答えられるものは答えたりしましたが、こういう不安が普通の人々の感覚なのだろうな、と思いました。この運転手の人の話していた内容で特に印象に残っているのが、次の言葉でした。

「心の何処かに、”染み”みたいなのがあるんですよ。それが消えない、いつまで経っても拭えないので、お金を使おうという気持ちに中々なれないし、不安なんですよね」

まさしくその通りだ、と思いました。そうなのです。私たちの心の何処かには、消えることのない「染み」がずっとあるのです。

これがいつから生じたのか、どうして消えずに残ってしまうのか、そこが問題なのです。不安の象徴とも言うべき心の染みは、不安が増大すれば「暗雲」のようにどんどん広がり、大きくなっていくのです。その割合が大きければ大きい程、防御体制を堅く築こうとするのです。これはある意味当然なのです。それが身を守る為に必要な方策だからです。現在景気が拡大を続けている、というプラスのニュースなどが流れてはいるのですが、実際には、そういう心の染みが消えていないのです。きっと多くの人々の心にも、同じような「染み」が残っているのだと思います。


この「染み」はどこから来たのでしょうか?それはよく判りませんが、漠然とした、でも生き残る為の鋭敏な感覚で確実に捉えられている、将来の不安なのだろうと思います。普通の人々は学術的なこととか、難しい理論とか、そういうのは判らないかもしれません。しかし、圧倒的に多くの人たちは何かの「嗅覚」みたいなのを持っていて、それは人類が生存を続けてきたことの証のようなものであり、危険を嗅ぎ分けたり、生き延びることや自分の利益になることを見分けるようなものなのではないかと思っています。タクシーの運転手が話した「染み」というのは、多分そういうことの表現であろうと思います。


将来の不安を緩和することが必要なのだろうな、と思いました。それは、雇用、生活保護、年金、医療、介護等の社会保障のことであり、そこを確実にしない限り、「こころの染み」を払拭できないだろうと確信しています。


日本経済が壊れる前までは、おおよその将来予測というのはある程度見通しが立ったと思います。例えば、入社20年目くらいだとこれくらい、定年間近ならこんな感じ、という具合に。それは待遇とか、収入水準とか、そういった色々の面でのことです。そういう先輩達が普通に存在していたからです。身近な分かり易いモデルとして存在していたのだろうと思います。そういう時代では、そのモデルに沿って投資計画とか、住宅ローンのような消費計画を立てていた面があると思います。子どもの教育費なんかもそうでしょう。将来に対する「不確実性」がある水準で落ちついていたのだろうと思います。


ところが、リストラの嵐が吹き荒れ、成果主義などの新たな制度が導入されたり、賃金抑制策が次々と打ち出されることとなった為に、それまで存在していた身近なモデルは破壊されたのです。それまで多くの人々が心に抱いていた「将来見通し」という幻想は、悉く破壊されたのです。それが「不確実性」の増大に繋がっていったのです。これが多くの人々の心に「染み」として残ったのだろうと思うのです。不確実性が増大すれば、その変動に備えて防御しなければならないことは当たり前の話で、消費を抑制し変動を吸収可能にする現金(貯蓄)を持とうとするであろうと思います。それと同時進行で賃金削減(ボーナスカットや大幅減額、ベア消滅、等)が起こっていた為に、人々の「不確実性」増大の実感は確かなものとなって行きました。「染み」の元である不安は漠然とした感覚的なものでしたが、いま目の前で実証された、ということです。


民間ではこうした不確実性増大が起こった(中には雇用制度を殆ど変えていない企業もあったかもしれません)のに、昔に近いモデルが残されている部門がありました。それは教師を含めた、公務員です。ボーナス額の減額とか、若干の給与削減などがあったものの、概ね将来見通しの立ちやすい(霞ヶ関官僚は”脱藩者”が多いでしょうから、どうなのか判りません)人たちが多いでしょう。そこに「特権的」なものを感じ取る庶民は多いと思います。


クジ引きで、ハズレリスクが違っているのはズルイじゃないか、と。オレたちは不確実性が増大して、身も心も「不安定」になったというのに、公務員だけ安定していて不公平じゃないか、と。そうした怨嗟の念があったのではなかろうかと思います。そこに輪をかけて怒りを増大させたのは、「オレたちの金をネコババしているのは公務員」、「オレたちの年金原資を減らしたのも公務員」、「オレたちの金をドブに突っ込んでるのも公務員」、といったことが明るみに出たことでしょう。公務員4百万人と隠れ公務員みたいな他数十万人の所謂特殊法人のヤツラは「既得権益」によって守られている、裏ではオレたちの金をくすねているくせに、ということでしょう。


<ちょっと寄り道:
公務員と言っても、上は総理大臣から幅広く存在しているので、一概には言えないでしょうけれど、公務員制度改革云々にしても、部門毎に対策とかやるべき内容には異なる部分があるのではないかと思います。以前にも書いた(参考記事1)が、1万5千人程度のごく少数しか存在しない官僚の給料をいくら引き下げた所で、焼け石に水は変わらないし、それよりも「ヘンな予算貼り付け」を止めさせれば数十億円の効果くらいは直ぐに出るので、そちらの方が先決なのです。独立行政法人や公益法人の理事職を回って、生涯賃金を回収するということを止めさせる事、そういうシステムを無くすことの方が有効なのです。外部の給料で回収させないで、本来の正規賃金で支払うようにすること、ベテランにも活躍できる場を与えること、そういうことをやる方が意味があるでしょう。そこで人件費が増えても大した額にはならないが、官僚OBの理事職を養う為に外部団体に貼り付けられる予算は、組織を存続させる分だけかかってしまう為に、何百倍とか何千倍にもなってしまうのです。無駄な10億円の予算をカットして、代わりに官僚の人件費が1億円増えた所で9億円得するのですから、こちらの方がいいに決まっているのです。国民にとってはその方が大きなプラスになります。

公務員が自分たちで変えようとしなければ強い外力で変えさせられることになると書いたが、望まない制度改革を招くことになるのであれば、その代償は大きかったのではないか?まさか丹羽さんがよりによって諮問会議の民間議員としてお戻りになろうとは、当時誰も予想できなかっただろうからね(笑)。それ故、強く拒否して制度改革を頓挫させた結果、前よりもっと厳しい条件の改革案になるかもしれんね。>


結局、多くの国民には理解しやすいロールモデルが失われてしまい、不確実性という将来不安の「染み」だけが強く残った、ということでしょう。これは仕事上の話ばかりではなく、例えば「男性」「女性」とか、「家族」というような具体的で身近なモデルも段々と破壊されたのだろうと思います。これは女性蔑視とか、女性は仕事をしなくていいとか、そういうことを言っているのではありません。具体的な「人間像」とか、「家族像」といったものを見失う人たちがいて、そういう人たちは悩んだり迷ったりすることが多くなるのではないのかな、とちょっと思っています。この数が多いのか少ないのか判りませんが、問題の起こる背景にはそうした目標(目安というべきかな)喪失のようなことがあるのではないかな、と。

例えば「サザエさん」とか、「大草原の小さな家」とか、そういった具体的に分かり易いものがない、ということなのだろうと思う。価値観が古いとか、固定観念に囚われているとか、家父長的だとか、そういう意見もあるでしょうが、人間というのがあくまで生物であり、男は昔も今も出産できないことに変わりがないですからね。「こうあるべき」というモデルは難しいかもしれませんが、「こうなりたい」というモデルが存在することは大事だし、それを目標としてやっていこうと考える人たちは必ず誕生していくるし、それが親や先生を尊敬することとも繋がっているような気がするのです。


元を辿れば、今の年寄りたちの教えてきた「モデル」には失敗がたくさん含まれていた、ということが言えるのかもしれません。若い人たちの中には立派な人もたくさんいるし、頑張っていたり、努力していたり、「国際競争力」のある人(笑)はいるでしょう。礼儀にしても、「若いもんはなってない」という面が見られるかもしれませんが、私の観察する範囲では「年寄り」でも酷い人たちが多いように思えます。順番を守れない、電車に乗る時並ばない、直ぐに不満・文句を言う、等々、「なってないな」と感じることは少なくありません。殺人・傷害事件にしても、60歳以上の高齢になってからでさえ(介護・病気疲れや生活苦の無理心中のような場合ではなく)、「腹が立ってやった」とか「憎くてやった」というような事件は結構あります。感情や自分をコントロールできなくなる、というようなことなのかもしれませんが、頻繁に矩を越えてる様を見るに、「従心」といったことが必ずしも当てはまらないのではないか、と思えたりします。


子どもたちにしてみれば、比較的分かり易い大人たちのモデルを見て育ったら、今のような状態になった、ということなのではないでしょうか。それは大人たちの責任であり、そういうモデルを提示していたのは年長者たちです。今の高齢者たちもそうです。彼らの育てた子ども達が次の世代を育てるのであるし、孫への関わり方にしても問題がなかったとは言えないかもしれませんね。多くの人々ではあまり問題がないかもしれないのですが、それでも世の中で目立たない程少数ということではない数に問題があるんじゃないのかな、と思います。ホリエモンのようなモデルがもてはやされるということへの非難はあると思いますが、若い世代で冒険する人々が登場しなければ、今の日本はもっと暗い時代になっていたのではないでしょうか。身近なモデルは打ち砕かれてしまい、従来の将来見通しも役には立たず、ありとあらゆるものが合理性によって語られる社会で過していれば、ホリエモンを称揚したくなる気持ちは判るような気がします。


今こそ、不安を解消する道を、明確に提示するべきではないでしょうか。不確実性をできる限り抑制し、将来の見通しが立つような生活基盤を整えることこそが、心にくっきりと残された「染み」を消せる―或いは、消せないまでも薄められる―方法なのではないかと思います。最も重要な政治の役割だと確信しています。


そして大人たちは、自分が何かの「モデル」の1人なのかもしれないと自覚して家庭生活や社会生活を送るべきなのかも、思います。特に、ある程度の成功を収めた人たちこそが、多くの若者たちの目指すべき「モデル」になるように、素晴らしい人生を送って欲しいと願っています。



地方における演芸の思い出

2006年12月22日 19時43分08秒 | 俺のそれ
この前チラッと触れたが、我が家では落語の人気がある。これは何故なのか全く理由が不明である。結婚する以前に、妻が「落語が好きだから今度行きましょう」などということは一度もなかった。私自身も「落語が好きだから」などとは言ったことはなかった。なのに、ウチの子どもも妻も、落語に行きたがる。不思議だ。


今から25年以上前に、NHKのラジオでは落語の時間があって、何故か時々聴いていた(今もやっているのだろうか?)。当時中学1~2年くらいだったから、丁度ウチの子と同じ位の年頃だった。その頃、ゲーム機もなければ、大した娯楽もなかったのでラジオを聴くくらいしかなかったからなのかもしれない。でも、歌謡曲の番組とか苦手だったし、深夜放送を聴いたことはなかった。眠くて、起きてられなかったからだ。そんな私でも、ラジオは好んで聴いていた。NHKが好きだったのかもしれない。ラジオドラマとか、落語とか、外国人の「青年の主張」みたいなやつとか、朗読とか、「朝の小鳥」みたいなのとか(笑)、今思えばユニークな番組は沢山あったな。現在のラジオ番組がどうなっているかは、全く知らない。民放FMはなかったし(その後暫くしてできたと思う)、あまり選択の幅がなかったことも影響していたかもしれない。


地方に住んでいたので、演芸関係をナマで見る機会というのは基本的になかったのだが、年に一度だけそういう機会が作られることになった。それは市内の小中学校の生徒全員に見てもらう、というようなものだった。生徒1人から300円とか500円程度を集めて、生徒を観客とし、市民会館で上演する、というものだった。毎年違ったものが選ばれた。演劇、狂言、クラシック演奏、落語、といったものだ。落語を初めてナマで聴いた時、とても良かった、と思ったものだ。テレビに出ているような人はごく僅かであったが、名も知れぬ若い落語家の落語であっても十分楽しかった。未だに覚えているもの(笑)。演奏はオーケストラだけではなく色々とあったと思う。割と著名な人たちが来たこともあったが、大学生の楽団のこともあった。それから、普通の劇の時があったのだけれど、当時は無名に近かった「劇団四季」が地方の営業回りの一環?で来たことがあった。小学生の時だったけれど、十分理解しやすい劇だったし、感動してちょっと泣いた。象のような、所謂「かぶりもの」が出てくると、子どもというのは凄く喜ぶんだよね(笑)。あれから随分経ったが、劇団四季はメジャーになった。地方の寂れた市民会館で劇をやっていたことを思えば、立派になったのだな、と感心しています。


当時、誰があのような制度を考えたのかは知らないが、とても良い仕組みであったと思う。私にとっては、一生の思い出になるような出来事であった。今でもそうした制度が残っているのかどうかは知らない。少なくともウチの子の時代には一切なかった。住んでいる地域にもよるのだろうけど。昔は、安い報酬で田舎にやって来てくれる人たちがいたからできたのかもしれない。今だと、呼ぶのに凄くお金がかかったりするのかも。それとも、一般の人たちが「そんなことは止めた方がいい」というような意見が多くなってるかもしれない。実際のところはどうなのか判らない。

田舎にいると、実際にああいう演芸を見る機会がほとんどないので、あればきっと楽しいのに、とは思う。都会に出かけていくほどお金がなくても、割と安い金額だし、親の経済力?によらずに観られるのですからね。


昔の学校というのは、確かに教師のストがあったりして、「今日は3時間目以降は自習するように」とか、たまにあった(勿論大ラッキー!ということで、生徒は大喜び)。でも、悪い思い出というのは、あんまりなかったな。学校は楽しい所、というイメージしかない。それが今では、教師も生徒も随分と苦しむようになってしまったのは何故なんだろう、と思う。教師は学校の傍にあるボロい教員住宅にしか住んでおらず(市営団地と似たようなやつだ)と、転勤族の宿命のようなものがあった。日曜日なんかに、校庭で遊んだ帰り道すがら担任の家に行くと、住宅と同じ位くたびれたチェリー(知ってるかな?)だったかシビックだったかを洗車したりしていて、到底裕福そうには見えなかった(今では生徒が休日に、担任の家に歩いていったりすることはないかもしれない)。教師の子どもたちも、特別にリッチな家庭ということはなく、むしろ庶民の子でしかなかった。今では教員が特権的な職業であるかのごとく思われているようだが、不思議ではある。


日教組の活動とかは、昔の方がはるかに活発であり、むしろ過激とも言えるかもしれないが、そういう時代であったのに、今のような問題というのが多々あったようにも思えないのですよね。何がどう、とか全然判らないんですけれども。かつては日教組関連の大会が開かれるとか、そういう会場の場所になると、機動隊が大挙して出動したり、ヘンな街宣車とか出現したり、それはもう大変な騒ぎであったような気がする。よくもまあ、大の大人がこれほどまでにワケのわからん争いを真剣にやっているな、という感じであった。そういう無駄なエネルギーが社会の中に充満していたのかもしれない。今では、そんな無駄のエネルギーさえもが大幅に失われて、社会全体の活性すら残っておらず、エネルギーを一緒に失ったかのような感じがします。無気力、諦め、脱力、不安、そういうのがピッタリくるような社会、ということですかね。一体何が変わっていったのでしょうか。


話が逸れましたが、昔の学校教育の中で行われた演芸関連の鑑賞機会は、とても良かったと思います。だからと言って、ウチの子が落語好きの理由は不明なことに変わりはないのですけれど(笑)。



ナルホド、勉強になりますね

2006年12月22日 12時31分12秒 | 俺のそれ
ふーん。さすがに人気の出る記事は中身が違うね。
ビジネスとは、こういうものなのだろう。

第9回 良いアイデアがわく人とわかない人はココが違う:ITpro



そして、駄文(シリーズ)とはこういうものなのだろう。


私の「こころ」は有限世界なのか?~最終回


誰でも考えつく。
整理・体系化されている訳でもない。
ダメな見本ってことで。


喫煙とリスク

2006年12月22日 12時16分39秒 | 社会全般
これは色々な議論があるので、直ぐに結論が出せるというものでない。でも、話としては一般人にも馴染みのあるものなので、関心があるのではないかと思う。前にちょっと触れた事がある(参考記事)。

日本での喫煙率は世界の中で見れば依然高かった気がする。禁煙の決心は中々大変なのですよ。


中西先生の記事に出ていた(ところで、カウントダウンはユニークです)。

J. Nakanisi Home Page


日本での議論の仕方というか、見るべき点について、問題がある場合は少なくないと思う。それは、科学だの研究だのに無関係なごく普通の人々だけではなく、学問とか研究とかを専門にしている連中でさえ、普通の考え方ができないのである。「~学」とか、それ以前の問題ですよね。それがとても不思議に思えます。


最近話題になっているNHKの「蔓延するニセ科学」ネタで見られるように、「釣られる」一般の人々も結構いるようですし。まあ、私自身も日常生活の中で、論理的だの、科学的だの、といった考え方が実践できるわけでないので、人のことは言えないんだけど(笑)。


話がちょっと逸れますが、以前高速バスの中で偶然聞えてきた会話があった。
私の直ぐ傍に、中年(50~60歳くらい?)の男性4人くらいが座っていて、その中の1人が他の3人に色々と語っていたのだった(3時間くらいバスに乗っていて、その男性は殆どしゃべり続けていたな・・・)。

で、問題の会話だけが妙に耳に残った。眠くて、ウトウトしていたからだったかもしれないが。

男 「パンってあるだろ、これも『フランス語』なんだよ」
他 「へえ~、そうなんだ。パンねえ・・・覚えておこう」
・・・・

イマドキ風に言えば、これって「どうよ?」
いきなり釣られてるじゃないか(笑)。現実とはこういうものです。

他のオヤジたちも気付けよ、とか思ったけど、仕方がないことなんだろうな、と思った。多分彼らはいい人たちだったのだろう。


昔、カステラだの、パンだの、ビードロだの、社会科で習ったじゃないか。ポルトガル語だって。特にパンは、英語じゃないんだ、って知った時、何だか新鮮に思ったのだが、オジサンたちは習わなかったのかもしれない。でも、「フランス語だ」とかウソを教えるのは良くないよね。そんなの覚えておくなー(笑)



今年の我が家的芸能ニュース

2006年12月21日 20時04分16秒 | 俺のそれ
10大ニュースというわけでもないですが、一応ウチの家族の中では割とマイナーな「芸能」関係の話題を取り上げたいと思う。


第一位は「キャッツ」を観たこと。
今年は用事があって東京に行く時に、家族で観てきました。これは妻が「(フジテレビの)笠井アナが素晴らしい、って番組中に言ってたもん」ということで、絶賛されていたので是非観ておこう、ということになり、田舎の「お上りご一行様」となったわけです(笑)。

感想:感動した。とても良かった。妻も中坊も喜んでいた。他の演目も機会があれば観たい、と言っていた。笠井アナが言ってたのは正しかったですよ。


第二位はナマの「落語」を聴けたこと。歌丸さん他、数名。
ウチの子は落語が結構好きらしい。お値段があまり高額ではなく、お手ごろな娯楽ではある。コンサートに行くのはちょっと、と抵抗感があるが、落語はそういった抵抗感が少なく済むのでよい。ウチの子は笑いすぎて本当に腹筋が攣りそうになっていた。落語でこれ程笑えるものなのだろうか、と思いつつも、親が親だけに仕方がないであろう(笑)。


第三位は、「県庁の星」と「海猿」を観たこと。
どちらも家族内で好評であった為に、同順位としました。と言っても、家族で観たのはこれだけだから、というのも理由である。かつては大人と一緒の映画を観ることなどなく、専ら「ポケモン」シリーズが観たいだの、ジブリ作品だの、という要望が多かった。しかし、中学生になると、違うものなのですね。家族で観ても十分楽しめる、というのは、分かり易い作り方になっていた、ということなんだろうと思います。

ああ、「ハリー・ポッター」シリーズも観たな、そういえば。でも、1月だったので忘れてた。徐々にインパクトが薄れつつあるからかもしれない(駄作化していきやすいのかな、シリーズものは。登場人物も大きくなっていくし)。



このように見ると、我が家の芸能関係のイベントはあまりないですね。でも、まあいいです。
楽しかったから、それが一番です。




金利引き上げは見送り

2006年12月19日 22時43分39秒 | 社会全般
時間がないので手短に。

とりあえず年内は見送られたようです。ここで上げたら、ホンマもんにアホじゃ。

ホンマと言えば、政府与党内からの批判が相次いできたようです。当たり前だ。会長職を降りることが難しいわけないよね。少なくとも会長じゃなくても、税調内で留まることは可能なわけだし。だが、普通の良識というか、まともな神経の持ち主ならば、自ら身を処するのは当然なのだけれどね。


そういう「普通の感覚」さえも持ち合わせないような方が、要職にあるというのも本当に困ったものですよ。見苦しい。


日銀にしても、普通の人々がどんな暮らしで、どんな生活を送っているのか、よく考えた方がいいよ。言葉で言っても理解できず、あんまりにも頭が悪いようなら、本当に「体感指数」導入してもらうからね(笑)。

乱心いたしたか、松銀どの



コメンテーターを震え上がらせる高額訴訟

2006年12月18日 18時09分57秒 | 法関係
以前に「もうネット上に記事を書くの止めた」とか言っていたフリーのライターの方のお話ではないかと思いました。読み方が複雑なのね。名前。頭が悪いので覚えてられない・・・ええっと、「うがや」さんだそうです。


音楽配信メモ オリコンが自分たちに都合の悪い記事を書いたジャーナリストを潰すべく高額訴訟を起こす


この方の前の騒動(という程でもないのでしょうが)は、原稿料が安すぎなのでネット上で出していた連載か何かを止める宣言をして物議を醸したのではなかったでしょうか。安いのはしょうがない、とか、フリージャーナリストは生活苦しいとか、そういったモロモロのご意見が集まっていたように記憶しております。が、定かではありません。


で、今度は「オリコン」に訴訟提起されたということらしいです。それも、個人に対して。よく新聞や雑誌なんかでも、識者の話とか短いコメント文なんかが掲載されたりしますが、この発言者本人にその責任を求めるものですね。


「~教授の話」みたいに載っていれば、その教授本人に損害賠償の請求をされる、ということです。これって、どうなんでしょうね。掲載を決定しているのは新聞や雑誌ですし。ライブドア事件の時みたいだと、多くのコメントが「虚業」「実態のない金儲け」「ホリエモンはけしからん」という類のものが多かったので、こうしたコメントも全て「損害賠償」の対象となる可能性も有り得る、ということになるかもしれません。それも、テレビ局、新聞社や雑誌社が訴えられるのではなく、コメントした本人個人への責任ということですね。


こうなると、うっかりコメントするのも憚られます(笑)。あまりにいい加減なことを言うコメンテーターが多いのも確かで、そのお灸を据える効果があるのかもしれませんが、発言者個人への高額賠償請求というのは「嫌がらせ」的ではありますね。嫌疑をかけられたのであれば、きちんと「反論」を出すのが望ましく、事実が違うのであればその疑いを晴らすような客観的情報を提示して、「ホラ、あなたが間違っているでしょ」と言えばそれで済む問題なのではないか、とも思えます。


法律というのは、紛争解決には役立つし必要なのですが、まずそれ以前の問題として普通の社会生活上で解決可能な方法を試みる、というのは必要なんじゃないかな、とも思います。何でもいきなり訴訟提起では、ギスギスした社会のようにも思え(弁護士さんたちは仕事が増えて喜ぶのかもしれませんが・・・)、特に言論内容については新聞・雑誌等で「掲載判断」を行っているのであり、一定の取捨選択・校正手続を経ているのですから、掲載側にかなりの責任があるようにも思えます。


雑誌なんかで、「事情通の評論家A氏はこう語る」みたいな形で「伝聞形式」で掲載すれば、それがどんな内容であっても雑誌社は「ノーリスク」ということになり、ひとたび問題が発生すれば、その場合には発言者本人へ責任が及ぶようになってしまう、というようなことですよね。それって、オカシイと思うが。


でも、法律というのは、そういう理不尽というか不可解な面があることは否めず、専門的な判断を仰がなければ判らないんですけどね。


どうなることやら。



ハムをバカにしないで!―じゃなかった

2006年12月18日 14時18分01秒 | 経済関連
過激なタイトルになってしまいましたが、池田信夫先生のブログでは未だに「アマ無線」記事のコメントが多数ついているようで、一昔前の感じで言えば「200コメンツ逝きました」みたいな(ボヤ騒ぎ?)ものでしょうか。

粘り強くやっていたのですね、皆さん。

池田信夫 blog アマチュア無線って必要なのか


それにしても、池田先生の「ウンザリ」感は判りますが、

『ハムの老人が、自分たちの趣味を守るために「弱者」をダシに使っているにすぎない。』

というコメントが出ていたので、「な、なにーー?」と日ハムファンとしては思う訳ですが、アマ無線なのでただの「ハム」なんですよね。


でも、何となく「ヒドイわ、あなた」感が溢れなくもない。池田氏のコメント。

確かにアマ無線を趣味としている年代は、池田氏の表現を借りれば「老人」と言えなくもなく、微妙に時代の流れといいますか、廃れて行く悲しさを感じます。昔は、「お手柄!ハムで救った命のリレー」みたいな見出しが新聞紙面を飾ったものですが、そういう時代ではなくなりましたね。設備投資はアマ無線はかなりかかりますもんね。


<ところで、「命のリレー」はやっぱ危ないんじゃないか?命をリレーすんな、とお叱りを受けそうですよね。良い子のみんなは、真似しちゃダメだよ。命のリレーは止めてね。>


子どもの頃、電気屋に行くと、高額無線機が置いてあって、「かっちょいいー」と内心思っていたものです。何か判らんけど、男の子って、ああいうメカメカした(笑)機械に心を奪われるというのはどうしてなんだろうね。


どこかのオヤジの一軒家の庭に高さ数メートルのアンテナポールを立ててたり、すれ違うダンプのフロントガラスにはコールサインが貼ってあったり、そういう時代があった。でも、今はそんな人々は見かけないな。絶滅危惧種であることは間違いないだろう。