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最低賃金に関する議論~2

2009年07月31日 16時41分22秒 | 経済関連
前の記事の続きです。

個人的には、最低賃金をいきなり1000円にしたりすることには同意が困難というのはある。
最低賃金を上げるのはもっと引き上げ幅を細かくする方がよく、しかも持続的な方がよい。年率ではせいぜい1~2%くらいの引き上げ幅、ということだ。それ以上に重要なのが、デフレ脱却である。GDPは、名目値よりも実質値の方が断然大きいという、とんでもない事態が解消されるまでは、継続的な「金融緩和策」をとるべきである、ということだ。名目GDPが500兆円、実質GDPが520兆円、みたいな国は、世界広しといえども日本だけだ。それくらい異常な金融政策なのだよ。だから、これを是正しない限り、普通の経済政策とか経済運営をいくら目指そうとしても、うまくはいかないだろう。


賃金の話に戻ろう。
そもそも賃金を完全に自由に決めさせた場合には、「完全雇用が達成される」という仮定が極めておかしいのであり、現実にはそんな現象は起こらない。これはどうしてかといえば、まず「生存コスト」(今勝手に作り出した用語なので、悪しからず)があるからである。これを下回る賃金水準になると、労働者側は受け入れられなくなるから、実際には下限が存在しているはずであろう、というのが私の考え方である。奴隷を従事させるような、立場や交渉力の圧倒的格差が存在する場合には、「生存コスト」は大きく切り下げることが可能なのだ。

今、ある産業があって、売上が100あったとしよう。この時、支払う賃金総額が50で、一人当たり10の賃金を5人に払っているとする。ところが、この産業の業績が急激に悪化して、売上が50に減ってしまった。そうすると、払える賃金が25(必ずしも売上と同じく半分にはなったりせずに限界理論とかによって決まるのであろう)になってしまうと、失業がない賃金水準に自動的に変化するということで、一人当たりの賃金が10→5に減少する、ということなのである。これが、旧来からの”経済学理論”ということらしい。

最低賃金を決めてしまうと、この調整能をなくすことになるのでよくない、というのが、「経済学の常識」という世界に生きる人々のご意見なのであろう。労働者は生きていかねばならないので、上記労働者たちが生存する為に10の賃金のうちパンを買うのに6だけ充てていたとする。生存コスト=6、ということだ。もし労働者の賃金が下がると、労働者がパンを買うのに回せるお金が減少するので、パンの値段が相対的に高ければ需要が減少することになり、パンの価格は自動的に調節されるわけである。労働者はパンを食わずに我慢をして、価格が下がるまで買おうとはしなくなる、ということだな(笑)。

学者さんたちの信奉している世界では、こうした変化が一瞬のうちにして起こってしまうので、賃金がたとえ半分になってしまったとしてもパンが買えなくなるなんてことはないし、失業者が発生することもないわけである。賃金が5に減ったとて、パンの費用が払えなくなる、ということは有り得ないのだ。「賃金が5になれば、6のパンは買えないぞ」といったことにはならないのが、幻想の経済学が作り上げた世界に生きる労働者だ。


それは御伽噺の世界でしか通用しない理論だからではないのか。まさしく「不思議の国」なのだよ、学者が生きている世界というのは。そんな妄想世界の理屈を現実世界に適用しようとして、ラビリンスにハマっているのようなものである。
賃金の自動調節が起こった途端に、パンの価格が自動調節される、なんてことは現実には起こってない。水準訂正には、もっともっと長い時間がかかってしまうのだ。瞬時に起こる、なんて理屈の世界みたいには行かないのだよ。本当に売上高が半減したり、何分の1かに落ち込めば、その水準に合わせた賃金であると生存が不可能になるだろう。生存コストの方が上回る、ということ。そういう労働者は仕事にありつける場所に瞬間移動する超能力を発揮するそうだが、そんな人間には出会ったことがない(笑)。どこぞの経済学者は、こういう超能力者の存在を頑なに信じているのかもしれないが。現実世界には時間という制約がある、タイムラグがある、ということを考えられないような学者ばかりが大勢いるのだそうだ。

労働者の賃金が妥当である為には、労働者側には確実な「選択の自由」が保障されなければならない。例えば、失業給付を下回る賃金は全て拒否できる、高い賃金の仕事があれば自由に転職できる、などといった選択権である。労働者は、少しでも安い仕事や条件の不利な仕事からは完璧に逃避でき、違う仕事にありつくことができなければならないのである。交渉力が対等というのは、そういうことだから。現実に、そんなことが起こっていると?(笑)そんなのは、ウソだ。仕事といったって、机にふんぞり返って本のページをめくるくらいしかやったことのない学者先生には、到底判るまい。


仕事の働き口が50人分しか存在しないのに、そこに100人の労働者がいれば、賃金は下がるよ。労働力供給が超過しているからだ。そういう環境では、労働者側の交渉力は弱い。本当に生存ギリギリということになれば、パン一切れしか得られないのに労働者は労働力を提供してしまうだろう。企業側の交渉力が優位であると、そこでの標準的な生存コストを下回る賃金提示であったとしても、労働者は存在することになるのだ。まさしく奴隷みたいなものだ。植民地労働力とか。「生きるには、他に選択の余地がない」というような状態は多分存在するだろう、ということだ。
今の悲惨な低賃金労働者たちとは何が違うと思うか?

参考記事:

続々・賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?

労働者は「数字」でしかない

雇用問題について考える上で



経済学の論理を信奉する人々に、是非ともお尋ねしたい。

最低賃金が経済学理論では間違っている、不適切な政策である、というのが本当であるとして、ならば何故「日本以外の先進国」でそういう愚かな政策が採用されているのであろうか?
最低賃金制度のないOECD国は何カ国ある?
それ以外の国々では、どうして最低賃金を廃止してこなかったのか?
それは、経済学無知の愚か者だからか?(笑)
まあ、「吾こそは正しい答えを知っている」という自負のある人たちは、きっと愚かな人類の決定について哂うに違いない。


「どうしてその制度が存在しているのか、存在してきたのか」ということを、まず明らかにするべきなのではないか。全く意味のない制度など、存続してこなかったはずではないか、ということだ。




最低賃金に関する議論~1

2009年07月31日 14時00分58秒 | 経済関連
こちらに関して>はてなブックマーク - 上限金利規制と最低賃金 大竹文雄のブログ


大竹先生の記事について触れる前に、これまでの主張と大差ないが再び書いておこう。

日本の経済学者たちは、政策決定をする上で正しく論理的な判断ができるような、唯一の結論を得るべきだ。まず、自分たちの内部で一つの結論に到達できるように、互いが確実に説得できるようになれ。それすらできない人たちが、経済学には全く無関係な人々に何を教えられるというのか?経済学者同士ですら納得できないとか、結論を得られないというようなものについて、どうして経済学をよく知らない政策担当者たちが「正しい答え」を見つけられるというのか。

労働問題や労働市場なんて、今に始まったことではない。昔からあるではないか。
最低賃金が政策導入されたのは、一体いつからか?
次の民主党政権からですか?(笑)

これまで経済学者とか研究者とか、そういう人たちは大勢いたのではないか?
(労働問題の研究者たちだっていたよね)
何人もいたし、何年も時間はあったではないか。その間に、「最低賃金は政策的に妥当か、否か?」というたった一つの疑問点に対してですら、何らの共通理解や解答を得てこなかったのか?ごく一部の人たちは、「不当な政策だ」と主張し、一方では「いや、そうでもない」ということになっているのは何故なのか?どうして、過去何十年も「最低賃金は廃止せよ」という経済学の世界からの大運動が行われたり提言がなされてこなかったのか?人々に正しい答えを教えようとしなかったのは、経済学者たちが不誠実だったからか?(笑)

上限金利問題についても同じなのだが、これまでの学者さんたちってのは、何かの成果を得てきたのか?どうして、もっと昔から研究をしてこなかったのか?問題にされた時期は、はるか昔からであったのに、何故経済学的な答えを見つけ出そうとしてこなかったのか?

要するに、学者さんたちの怠慢みたいなものだ。結局、誰も答えを知らない、その時々でしか取り組まない、そういうことが繰り返されてきただけではないか。そうでなければ、もっと学術的検討がなされていたはずだし、何らかの答えを見つけることだって不可能ではなかったかもしれないのに。そういう取組みを、経済学者たちが行ってきたのかといえば、怪しいものだ。だからこそ、未だに「最低賃金は妥当か、否か?」なんていう古ぼけた話題にさえも、経済学者たちの共通理解など存在していないではないか。あるというなら、既に答えは出ているはずだ。その理屈でその他大勢を説得できる。

だから、まず、学者同士で結論を出すべきだ。答えを提示せよ。「経済学的裏付け」のある答えを用意できたなら、はじめて「間違っている」と言うべきだ。それすらできないのに、一般人を説得できるはずなどなかろうて。


米国のサブプライムローンが壊滅的打撃を受けてしまったことの理由をよく考えてみるべきだ。「外部性がない」というのも、本当なのかどうか疑わしいな。経済学の分野でそんな唯一の結論が得られたとでも言うのだろうか?(笑)


以前から、「借りたい人が借りられなくなる」とか非難する手合いは大勢いたわけだが、借りたい人には貸せばいいということで自由に貸せばどうなるか、ということのを考えたことがあるのだろうか。米国での貸出が必ずしも無軌道であったとまでは言わないが、貸し手が競って貸し出した結果、危機的状況に陥ったわけだ。恐らく金利が市場原理に基づいて機能していた(笑)であろう米国のサブプライムローン市場であっても、貸し手も借り手も正しく判断できるなんてことにはならない、ということなのではないのか。「高い金利でもお金を借りたい」という人々にローンを提供した結果、破綻したんでしょう?そこには、経済学者の言う金利や市場の機能は存在していなかった、とでも言うつもりか?(笑)
高利貸しに何故ヤクザが参入してきたか、そういうことを考えてみたらいいよ。これを合法化するべき、というのが経済学者の言い分なのか?もしそうなら、そういう結論の経済学的裏付けを取って、早速合法化の政策を政府に選択させるべきだろうね。



大竹先生は、
『今日暮すお金に困っているから高い金利でもいいと思って消費者金融から借りていた人を金利規制は排除しているのだから。』
と仰っていますが、トイチどころかもっと高金利を吹っかけて、たった1万や2万円を借りさせておいて、いずれは身包み剥がして死に至らしめる貸し手を正当化したいということのようだ。

こんなことを言いたくはないが、社会というものを知らないんだよ。学者大先生ってのは。
そういう現実を想像できないんだ。いや、私自身借りたこともなければ、そういう現場に出くわしたことなんかないが、漫画やドラマの世界ではどんな状況なのかは相場が決まっていると思うが(笑)。

「今日暮らすお金に困っているから高金利でもいいと思って借りてる人」が、払い続けられるとでも本気で思っているのだろうか?貸し手と借り手が対等な立場であると、本当に思っているのか?僅か1万、2万の、それどころか数千円というレベルの、「今日暮らすお金に困っている人」がどういう状況に置かれるか、金利などを正しく判断できるみたいな絵空事を言ってるんじゃねえよ、とは思う。学問的にどうだとかは、勿論判らんのだが。


まあ、上限金利反対派は、学問的正しさを証明したらいいですよ。
で、借りたい人が意志に反することなく借りられる社会、ということで、誰でもいくらでも自由に貸せるように規制緩和してやれよ。ヤクザの資金源になろうと、何だろうといいんじゃないか?(笑)
これで、日本版サブプライムローンの完成だな(笑)。一丁あがり、と。