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2011~14年の日本で子宮頸癌が多かったのは何故か?(データ追加)

2020年09月04日 11時28分11秒 | 法と医療
今、必死で新型コロナワクチンの導入に向けて、日本国政府に大金を支払わせるよう、欧米企業が頑張っているらしい。


ロイター記事によれば、既に5億1200万回分の契約を結んだそうだ。
(ファイザー、アストラゼネカ、モデルナ、塩野義、等)

>https://www.reuters.com/article/us-health-coronavirus-vaccine-japan/japan-eyeing-olympics-lines-up-half-billion-doses-of-covid-19-vaccine-idUSKBN25O0EW


「5億だぞ、5億!!」(半沢第1シーズンの江島副支店長風w)

日本国民に何遍ワクチンを打つ気なんだ?
全国民に4回以上も打つのか?全く無意味としか思えないが。


これは、まあおいておく。

本題は、日本の子宮頸ガンの罹患率が何故か増加した時期があったのはどうしてか、ということだ。
(国立がんセンター 年齢階級別罹患率 人口10万人当たり)


※※9/12 16、17年の数字が公表されていたので、表に追加しました。
参考>https://ganjoho.jp/reg_stat/statistics/dl/index.html



   20~24  25~29  30~34  35~39  40~44(歳)

(年)
00   0.777   5.112    13.577   19.410   18.398
05  1.386   8.157   11.433  20.889   22.844
10  1.220   10.864    22.061  28.427   31.012
11  2.279   12.602    24.454  27.727   35.510
12  2.123   12.236    21.057  28.122   32.864
13  1.224   9.988    20.229  25.789   30.195
14  1.560   9.007    21.071  24.951   30.722
15  0.472   7.283    21.399    25.019    28.422
16  0.9    6.2    20.0   27.8   27.8
17  1.0    6.1    18.9   27.9   27.2

(14歳以下は16、17年共にゼロ、15~19歳では16年ゼロ、17年に罹患者3名のみ)

日本でのHPVワクチン開始は09年でしたよね?
ある程度の規模でHPVワクチン接種が本格的に開始されたのは10年頃からでしょう?


約700万人程度の女性が接種したらしい。その効果はどうだったのか?
目を引くのは、11~12年頃に子宮頸ガンの罹患率が何故か増加していたことである。検診の効果ですかね?


専門家がこの理由を探らないのはどうしてなのかな?
あなた方、気にならないの?(黒崎検査官風w)


日本で、接種者と非接種者のその後の違いを調べてないのかな?
やればいいのにねw


HPVワクチンを接種すると2度とHPVに感染しないとか思っている人もいるかもしれないが、そんなことはないですよ。
例えば90%以上の感染予防を達成したという根拠はないんですよ?

早い話が「部分的には防げるかもしれない」という程度です。

更には、ワクチン接種から5年後に感染防御水準がどうなのか、なんてのは、まともな数字が公表されてないんじゃないですか?
じゃあ10年後にはどうなのか、誰か知ってるの?w

「エビデンスが!」って大上段から説教してくる連中に限って、そういう大事なエビデンスは提示してこないんですよ。

12歳で接種したとするでしょ?

10年後の22歳時点で、ヒトパピローマウイルス=HPVに感染しない、という保障はあるんですか?
それは、誰がしたんですか?

好発年齢はもっと先ですよ?
32歳とか42歳時点ではどうなのか?

本当にHPV感染は起こらない、と思ってるんですか?
更には、子宮頸癌の発生を「ワクチンで防げる」と主張できる根拠って何ですか?


仮に、ワクチン接種するとほんの少しだけHPV感染の確率が下がるのかもしれないとして、子宮頸ガンの発生が同じだけ減るかどうかは、誰にも分からないんじゃないですか?


他人には「根拠がないことは決して言うな」などと言う割に、ワクチン業界にとって儲け話になるとどういうわけか「何らの根拠もない」ことを大々的に主張してくるという謎w


日本だと45歳以下の層での子宮頸ガンの罹患率が欧米より低めなので、全国民にワクチン接種を義務化するメリットはかなり小さい。ましてや、発癌全部を防げるわけでもなく、どの程度の抑制効果があるのかは誰も知らないレベルなのだから、費用対効果面で見ても殆ど意義は乏しい。


やるなら、検診でよい。
検診の効果については、特段の否定的見解は出されてないのでしょう?w


過剰診断バカが反対してくる可能性はあるのかもしれないがwww



安易なブログ…

2009年07月21日 17時19分05秒 | 法と医療
えー、有名になった「加古川事件」判決についてですが、事実誤認があるということが指摘されているみたい。

はてなブックマーク - 「加古川事件」判決への安易なブログでの批判は不当:日経メディカル オンライン


記事を読む為に、個人情報を日経グループさんに晒すという危険を冒して(笑、冗談です)まで登録してみました。


どうやら「転送先を探していたというのは誤り」、を言いたいらしい。そういう誤った事実に基づいて批判をするのは止めろ、と。なるほど、指摘はご尤もである。

タイトルにもあるように、「安易なブログでの批判」は不当、ということらしいので、ブログが安易なのか、批判が安易なのか、という問題はあるものの(恐らく後者であろうなとは思います、いや、ブログが安易でもかまいやしませんがね)、間違った批判はするべきでない、というのはそうだろうなと思います。

拙ブログにおいても、この「加古川事件」についての痛烈批判記事は書きましたので、安易なブログの仲間入り認定間違いなし、かと存じます。

Terror of jurisdiction ~加古川事件について

私のつけたタイトルがヘンだ、というのはおいといて(笑)、兵庫の研究会での指摘する論点とは若干違っているかな、とは思いますね。別に、市民病院の担当医が「転送先をいつから探していたか」ということにはあまり関係がありませんからね。

あと、補足記事はこちら>医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その4

時間経過の詳細を知っているわけではありませんが、受診から診察・検査して診断をつけて、とりあえずの応急的でも処置を行って、今後の対応を考えるとして、転送要請をいつの時点で可能であったか、というのがまず一つありますね。裁判所判断では、多分診断をつけた0時40分頃には転送をしろ、ということでしょう。確かにその時点で要請したとして、受け入れ先が見つけられたか、断られることはなかったのか、そういう問題はあるでしょう。

また、仮に0時40分に要請できて、転送先が見つかるまで10分、救急車に載せたりする移動に10分(ルート、シリンジポンプやモニター類などを付けた状態でストレッチャー移動しなくてはならない)、救急車の乗車移動時間が10分、という風にいくらでも時間は経過してゆきますよ。移動による病態悪化の危険性だって当然にあります。転送先病院到着後に処置開始までのタイムラグはどのくらいなのか、そういうのを計算できているのでしょうか?移動先到着までに30分経過していれば、既に1時10分なのですよ。
転送先が見つかることは、急に処置開始可能になる、ということを意味しないことは明らかです。加古川地域の医療水準では、電話で転送先が見つけられれば、直ぐにでも循環器の専門医が対応でき、PCIが実施できる環境下にあったのでしょうか?本当に、患者引受に何の障害もなく、受け入れられたでしょうか?転送後、処置開始までの最低所要時間はどのくらいなのか、という問題は誰か判っているのでしょうか。

救急隊が専門病院への移動先を見つけられずに、30分以上とか1時間以上もの間、救急車が動かずにいることだって珍しいわけではないということは、報道から多くの人々の知るところとなったでありましょう。本当にそんなに短時間で転送できて、処置開始が可能だったのでしょうか?裁判所がそういうことを理解した上で、時間の遅れを計算できるとは到底思われませんね。

だったら、救急隊が最短時間で病院へ搬送できなければ、ほぼ全例において「義務違反」を構成するということを認めるのでしょうか?


判決が萎縮をもたらすのは、当初に望んだ結果ではない、といくら主張しようとも、原告及び法曹が招いた現象である可能性は高いのです。加古川の救急医療体制の縮小を招いたのは、こうした「不当な」判決というものの結果なのではないか、ということを、真剣に考えるべきでしょう。
ヘタに受け入れて、自分の専門外の領域の疾病で、診断に時間を要したり、診断をつけられなかったり、自分の手に負えない状態だったりして、他へ転送させようにも受け入れ先を見つけ出すのが極めて困難であり(マスコミ報道などで言う『たらい回し』ですな)、そうして時間を浪費すれば「助けられたのに助けなかった、何もしてくれなかった」とか非難された挙句に訴えられ、裁判では論理構成のおかしい法曹の責め苦に遭い、最終的には賠償金を払うべく過失認定された判決を裁判長から食らう、ということになるわけですから。そんな目に遭うくらいだったら、確実にできるものだけ受け入れて他は断るべきだ(自分のできる医療のみ行う)、という防衛体制が強化されるので、「うちでは、できません」という返事が多くなるに決まっているのですよ。

受け入れを減らせば当然に稼げなくなるわけで、そうすると救急部門なんてのは赤字の筆頭格ですから、三位一体改革以降の自治体財政の苦しい折、市民感情に配慮したり市民の税金を”無駄”(笑)に投入するわけにはいかないという大義名分があるのだから、部門縮小なり廃止なりという方向になってゆくのは当然でしょう。つまりは、社会は回りまわって、自分のところに返って来る、ということなんですよ。

「不当なブログ批判」を批判する以前に、他に大事なことがあるのではないかと思うわけです。「不当なブログ批判」を撲滅したところで、何のメリットがあるのかよくわからないけれども、医療が良くなるとか救急体制が元に戻るということもないのではないかな、とは思いますね。個人がそういう「不当なブログ批判」の撲滅活動をやることがあっても判るような気もしますが、法曹や患者の団体等なのであれば、もっと他の重要な活動をやった方がいいのではないかと思いますね。


結果的に見れば、判決によって、被告側病院に「認めさせること」を、賠償金で得た数千万円かで得ることができたわけですよ。その数千万円は同時に「病院の救急部門の縮小」をも購入できたのです。自治体財政に貢献でき、いずれは他の誰かが健康や生命でその対価を払うということになるのではないかな、とは思います。




感染症検査のこと

2009年03月09日 16時38分43秒 | 法と医療
原則論から言えば、確かに同意は必要、ということなんだろうけど。

無断でHIV検査川崎の総合新川橋病院(カナロコ) - Yahooニュース

(一部引用)

白内障などの手術の前に医師が患者に説明する同意書には、HIVを含む感染症の検査を実施し、HIV検査は自己負担を求める旨が記されていた。しかし、実際は患者が同意書にサインする前に、採取されていた患者の血液がHIV検査に回されていた疑いがある。厚労省関東信越厚生局は事実関係を把握しているもようだ。

関係者に対する取材では、同局神奈川事務所が二〇〇八年十二月、健康保険法に基づく立ち入り調査を実施し、HIV検査費を「保険外材料」の名目で患者に負担させていた点を過大請求と指摘したとみられる。同病院に対して少なくとも、カルテの保存期間の五年間を自主点検して該当する患者に返金するよう指導した。同事務所は「HIV検査は患者の同意が不可欠であり、院内感染を防ぐ名目で半ば強制的に患者に行われていたとするならば、指導の対象となる」と話している。

=====


いや、患者の権利を守れってのは大事だよ、そりゃ。
だけど、もし決定権を委ねるなら「自己責任」を重くする、ってことなんだからね。そういうことが本当に判ってるのかな。しかも、普通の説明をして十分理解できない場合でも、後出しで「そんな不利益があるとは聞いてない」「言ってなかった、知らなかった」とか言われるんだよね。そういう説明がいちいち無駄なわけさ。そういう内容については、来る以前に十分予習してきてもらうか、判らないならそれなりにお任せ部分を増やすとか、そういうことをやらないと「高コスト」になってしまうんだわ。

説明して納得してもらい同意を得る、というのは、実際のところ、医学に関する授業をやっているようなものですので。それも個別授業ということですね。普通であると、家庭教師だって学校の授業や塾の時間単価よりも高いはずなのに、医療に関しては「納得できるまで、理解できるまでレクチャーをやってくれ」というシステムになっている、ということですね。

そんな無駄なコストをかけるくらいなら、一様にスクリーニングをかけて検査結果を出してしまった方がいいよね、ということはある。検査そのものに「何の意味もない」というものでもないから。


大体、C型肝炎で「薬害だ」と騒いでいた時なんて、「検査方法がなかった時代」にでさえ「肝炎を防げ」とか言われていたじゃないの。検査方法が90年以降に出て、そうしたら「なんで検査しないんだ」とか言うし。術前スクリーニングでは、「HCV検査は保険では(原則)認めない」と厚生省が言っていて、じゃあ「患者の自己申告だけでいいのか」ってことで、感染があっても発見が遅れるだけですね、って話でしょう。実際、「今まで全然気付かなかった」というHCV感染者は大勢いたわけで、スクリーニングしなけりゃ発見のしようがないでしょう。感染拡散を防ぐ為にスクリーニングをやったら「認めない」と厚生省に言われ、一方では患者サイドで「何故検査しなかったんだ、発見できたはずだ、過失だ」と事後的に責められ、全てに渡って「患者の同意を得ろ」とか言われてしまう、と。
言う側は、簡単。だって、どんな状況にだって文句のつけようがあるから。

ま、HIVは肝炎の検査とは違うよ、とか言うかもしれんけど。
昔だと、普通に「既往歴なし、問診でも何もなし」とかいう人でも、「ワ氏(+)」(*)とかいくらでもあって、珍しくも何ともなくて、そういうのも「あなたが梅毒かどうかを検査しますが、よろしいですか?」とか、誰も言えなかったわけで。

(*):ワ氏というのは、ワッセルマンさんというドイツ人のことで、梅毒検査に付けられた名前だっただけだけど。概ねHBV検査や梅毒関連の術前検査は行われていることが多いかったのではないかと思われ、HCVの検査登場後には、やはりスクリーニング項目は増えたであろう、きっと。


MRSAの院内感染が騒がれた時だって、一般人が陽性者なんて普通にいるし、そういうのを検査する目的を全て事前説明していたなんてことはなかったんじゃないでしょうかね。あなたがメチシリン耐性黄色ブドウ球菌に感染している虞があり、他の患者さんにうつってしまう危険性があるので、検査したいと思いますが、よろしいでしょうか、なんてことを言い出すのは難しい場合もあるわけで。同意を得られない場合、どうやってうまく説得しますかね?
「病気一つない、と答えたのに、オレを疑うってのか!」とか「バイキンみたいに扱う気か!」とか「遊び人だったから梅毒だと疑ってるんだろ!」とか「酷い、私のことヤリ○○だと思ってるんでしょ」とか、面倒が増えるだけなんですけど。


指紋押捺問題みたいなのも、アメリカみたいに「入国する人は全部取ります」って機械的にやってしまうかと思えば、「人権侵害だ、外国人差別だ」とか言い始まるといくらでも面倒を増やせるわけでして。拒否だ、ってね。差別なし、ってのは、「機械的に実施してしまう」とみんな平等に一様にできるわけで。そういう場合には、説明がなかった云々って問題になるんですかね?
献血したら一様に「HIV検査」は自動的に行われてますけど。梅毒も、肝炎も、勿論、全部含まれますけど。


・検査をやったらやったで文句が出る―聞いてないぜ!知らなかったぜ!同意してないぜ!
・やらずに万が一問題が発生すれば―職務怠慢だぜ!どうして判らなかったんだ!検査できたのに!

どっちにしても医療側がとっちめられるんですよ。しかも、オール事後的に。
検査できたはずだ、できたのにしなかったので過失だ、という理屈で、裁判にかけられ、ぶん殴られる、と。

ああ、HIV陽性者の場合、眼症状ってのは割りと頻繁(←ハンザツじゃないよ、笑)に見られますから、一応。感染が明らかになっていない人でも、そうですから。専門家じゃないから、詳しくは知らないけど。
必ずしも全部にHIV検査が必要だ、とまでは言わないけれど、スクリーニングで発見されることはあるから、ここ数年の感染者増大傾向を知っていれば、「用心するにこしたことはない」と考える場合がないとまでは言えないと思いますけど。


前にも辛辣な例で書いたことがあるけど、電話帳みたいに分厚い説明書&解説書に全て書いておいて、「読んで同意した人だけ診察しますので、拒否したい人は診ません」という制度にしておけばいいんじゃないか。指紋を拒否したい人は「入国できません」っていうのと、同じだもの。人権侵害だ、とか言い出す人は、はじめから入国しなければ済むもの。それと同じで、理解できない&納得できない人たちには「どこか納得できる医療機関」に行ってもらうしかないんじゃないか。

全部を理解させ、同意を得るなんてことは無理だ。
そういう発想には、限界がある。それを達成したいのなら、それ相応の「対価を払う」というのが必要。高度な個人授業を「誰もが激安で受けられる」という制度そのものに問題があるのだよ。



フィブリノゲン製剤投与義務を判示した裁判例

2008年10月03日 01時46分11秒 | 法と医療
「薬害だ」と言って、原因も判らぬままに、何でも薬害に結びつけてしまう人々は後を絶たない。マスコミにもそうした論調は依然として残っている。よく判りもしないのにマスコミが大騒ぎした結果、一律救済という欺瞞を生み、多額の税金が投入されるのである。この国は、ちょっとおかしいぞ、本当に。


古い裁判例であるが、以下で検討してみる。

輸血措置止血措置の遅れ

(以下、一部引用)

弛緩出血ショック止血措置輸血措置懈怠―医師側敗訴
東京地方裁判所昭和50年2月13日判決(判例時報774号91頁)

本件では胎盤娩出から同6時10分までの僅か35分位の間に少なくとも300ccの出血があり、前記ガーゼタンポンの操作に取掛る同6時4、50分頃には合計650ccに達し、その頃既に正常範囲を超える出血を見たほか、なおも子宮から少量の血液が持続的に流出している状態であった、というように、分娩時の出血の中でも特に重大視されている弛緩出血、しかも子宮の収縮不全がその原因として疑われる状態であったのであるから、医師としては、これに対して迅速な止血措置を行うと共に、出血量、血圧数及び一般状態を確実に観察把握の上、輸血適応の状態に達したときには、時期を失することなく速やかに輸血措置を講ずべきであり、これに伴い、血液の性状につき凝固性が疑われるとき、又は多量の出血によって生ずる出血傾向を防止する必要があるときには、線溶阻止剤や線維素原の投与をなし、輸血にしても新鮮血の大量輸血を施すのが当を得た注意義務ということができるとすべきである。

(中略)

またその頃既に前認定のように、流出している血液は暗黒色で凝固しにくいようにも見られ、引続き多量の出血があったことからして、血液の凝固性を維持する措置が考慮されなければならなかった。そして、同7時25分以降アミノデキストラン輸液が開始された後、血圧は最高値が80mmHgより上昇せずに、同7時50分に最高50mmHgとなっていることから見ても、前記ガーゼタンポン挿入の操作と併合して、血圧、脈搏等の状態を把握しつつ、輸血の手配がなされていれば最善であったが、少なくとも同7時25分以降は速やかに、いかに遅くとも同8時頃までには輸血が実施されるべきであったことが明らかであって、同8時50分輸血が開始されるも、もはやショック状態の回復には奏効しなかったのであり、被告医師の輸血の手配時期は遅きに失したものであって、同被告には前示注意義務を怠った過失があると言うべきである。また右の点のほかに、線溶阻止剤や線維素原の投与並びに新鮮血輸血について配慮していないことも指摘できる。

=====


まるでどこかで目にしたかのような、妊婦の出産に伴う大量出血例の裁判である。事件の中身については、とりあえずおいておく。
かいつまんで言うと、本件では大量出血があったので、「速やかに輸血すべし」「線溶阻止剤や線維素原の投与すべし」ということが義務であったと認定され、これを怠ったのであるから注意義務違反である、という判示である。

a)輸血適応の状態に達したときには、時期を失することなく速やかに輸血措置を講ずべき
b)血液の性状につき凝固性が疑われるとき、又は多量の出血によって生ずる出血傾向を防止する必要があるときには、線溶阻止剤や線維素原の投与をなす、新鮮血の大量輸血を施す

ということである。
そもそもは、輸血時期が遅きに失した=注意義務を怠った過失がある、とされているが、これに加えて、線溶阻止剤や線維素原の投与並びに新鮮血輸血について配慮していないことも、義務違反と指摘されているのである。

これはどういうことか?
輸血は当然として、他にも「抗プラスミン剤」や「フィブリノゲン製剤」を投与すべき、ということである。これを裁判所が求めている、ということである。事件は1965年に発生、判決は1975年である。65年時点で「フィブリノゲン製剤投与を考慮しなかったことは注意義務を怠っていた」と言われてしまうのである。抗プラスミン剤はとりあえず関係ないので、裁判所指摘の「線維素原」だけ考えると、「フィブリノゲン製剤」以外には有り得ないであろう。

以前に紹介した厚生労働省の出した調査報告書によれば、1965年時点で存在していた製剤は旧ミドリ十字のものだけであった。

・6月9日 株式会社日本ブラッド・バンクがフィブリノゲン製剤の承認取得(販売名は「フィブリノーゲン-BBank」)
・10月24日 株式会社ミドリ十字への社名変更に伴い、「フィブリノーゲン-ミドリ」に販売名変更

と記載されていたのだ。つまり、裁判所はこの「フィブリノーゲン-ミドリ」を投与すべきであった=投与しなかったことは義務違反でしょう、と認定したということである。

で、これを投与したら、後になってから「薬害だ!一律救済せよ!」と?
投与しなかったら義務違反、じゃあ、一体どうしろと?


この国の法学分野の研究は、この40年間、一体何をやってきたのか。
法曹界では、どういった前進があったのか。こうした裁判例をどのように検証し、どう生かしてきたのか。言った通りだったじゃないか。検証ができていないのだ。知見の積み上げには役立ててこなかった、ということさ。
昔も今も、何も変わってなんかいないのだ。同じようなことが繰り返されるだけなのだ。


1965~85年までは、ウイルスの不活化処理として、BPL(β-プロピオラクトン)処理が行われていた。
推定ではあるものの、この処理によってHCVはほぼ不活化されていたと考えられる。完璧に感染防止ができていたかは確かめようがないが、感染リスクはかなり軽減されていたであろう。偶然にも、HCV感染は多くが防がれていたであろう、ということだ。発症例の報告が少なかったこととも符合するであろう。

85年8月以降には当時の厚生省の指導もあって、BPL処理ではなく抗HBsグロブリン添加に変更された(残留薬剤とその発癌性の問題なども影響したのかもしれない)。肝炎感染では最も怖れられていたのがHBVであったので、止むを得ない面もあったろう。輸血後肝炎の発症はかなり減少していたものの、ゼロになっていたわけではなかったから、主原因としてはHBVが疑われていたのかもしれない。この当時でもHCV同定は不可能であった。


参考:薬害の一律救済は欺瞞に過ぎない

防げないものについてまで、賠償せよ、というのは、そもそもおかしいのである。ましてや、裁判所が投与義務はあった、と認定しているのだから、防衛医療ということで見れば、投与しがちの風潮を生み出した可能性すらある。過失認定を恐れて、フィブリノゲン製剤を投与したのは「判決のせいだ」と言われたら、それを否定できるだけの論拠を裁判所は持つだろうか?

C型肝炎訴訟に関していうと、弁護士たちの立論や考え方もおかしいが、感情論的に何でもかんでも薬害とか言って煽動するマスコミもおかしいのである。これは、また改めて書くことにする。



福島地裁判決と医師法21条違反の考察

2008年09月07日 15時20分37秒 | 法と医療
大野病院事件で、医師法21条違反には該当しない旨判示されたが、これについて過去の最高裁判例をもって「判例に反する」といった意見が散見されないわけではない。そこで、医師法21条違反について、若干考えてみたい。

条文を確認しておく。
○医師法 第二十一条
医師は、死体又は妊娠四月以上の死産児を検案して異状があると認めたときは、二十四時間以内に所轄警察署に届け出なければならない。

ポイントだけ書くと、
(a)検案して
(b)異状がある
(c)と認めた時は届出義務がある
ということである。(c)に関しては、特に論争はないだろう。問題となるのは、(a)と(b)である。
個々に考えてみる。

ア)近時における最高裁判例

平成15(あ)1560(平成16年4月13日判決)では、次のように判示されている。

=====
医師法21条にいう死体の「検案」とは、医師が死因等を判定するために死体の外表を検査することをいい、当該死体が自己の診療していた患者のものであるか否かを問わないと解するのが相当であり、これと同旨の原判断は正当として是認できる。
(中略)
本届出義務は、警察官が犯罪捜査の端緒を得ることを容易にするほか、場合によっては、警察官が緊急に被害の拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にするという役割をも担った行政手続上の義務と解される。そして、異状死体は、人の死亡を伴う重い犯罪にかかわる可能性があるものであるから、上記いずれの役割においても本件届出義務の公益上の必要性は高いというべきである。
(中略)
本件届出義務は、医師が、死体を検案して死因等に異状があると認めたときは、そのことを警察署に届け出るものであって、これにより、届出人と死体とのかかわり等、犯罪行為を構成する事項の供述までも強制されるものではない。
(中略)
以上によれば、死体を検案して異状を認めた医師は、自己がその死因等につき診療行為における業務上過失致死等の罪責を問われるおそれがある場合にも、本件届出義務を負うとすることは、憲法38条1項に違反するものではないと解するのが相当である。このように解すべきことは、当裁判所大法廷の判例(昭和27年(あ)第4223号同31年7月18日判決・刑集10巻7号1173頁、昭和29年(あ)第2777号同31年12月26日判決・刑集10巻12号1769頁、昭和35年(あ)第636号同37年5月2日判決・刑集16巻5号495頁、昭和44年(あ)第734号同47年11月22日判決・刑集26巻9号554頁)の趣旨に徴して明らかである。
=====

平たく表現すると、次のようなことである。
①「検案」とは、医師が死因等を判定するために死体の外表を検査すること
②検案対象となる死体は、自己の診察していた患者か否かを問わない
③届出義務は、犯罪捜査の端緒を得ることを容易にする
④同、緊急に被害拡大防止措置を講ずるなどして社会防衛を図ることを可能にする役割を担う
⑤届出義務の公益性は高い
⑥届出義務は犯罪行為を構成する事項の供述までも強制されるものではない
⑦自己が業務上過失致死等の罪責を問われるおそれがある場合にも本件届出義務を負う
⑧届出義務は憲法38条1項に違反するものではない

過去の判例から明らかである、ということを最高裁は指摘しているので、よく用いられがちな「憲法38条1項違反」という主張をする場合には、判例をよく検討してからにした方がよい、ということはあるだろう。「憲法違反だ」と安易に主張する傾向があるのではないか、という指摘をしたことがあるが、案外と当たっているのかもしれない、と最近思いつつある。

それから、古い学説や判例は(新しいものではないので)当てにはならない、とか思っているのかよく判らないんですが、古いことに文句を言う法曹?の人もいるみたいですけど、最高裁でも古い判例を蔑ろにしたりはしていない、ということをご確認下さればと思います。判決文は一部分とかだけではなく、できるだけ全文を読んで判断することが必要ではないかと思います。部分的「切り取り」だけですと誤解や理解が不十分であることもあるので、評釈っぽいものやダイジェストだけを頼るのは注意が必要かと思います。

話が逸れましたが、本判決の意義としては、当然に「憲法違反ではない」と判示したことはありますけれども、①~④の再確認を行ったということにあるかと思います。すなわち、判決当時の時点における司法の考え方が判る、ということです。
ここで重要な指摘をしておくと、最高裁判例では「検案」についての定義を示してはいるものの、「異状」については何らの定義を示していない、ということがあります。上記(a)については判例通りということですが、(b)については何一つ述べていません。届出義務の目的や当該行政手続の義務が違憲ではないということも明らかにされていますが、(c)が肯定されただけです。


イ)診療中か否かの論点

前項の最高裁判例で②が示されたので、これについては答えが出ています。すなわち、「『検案対象』は診療中か否かを問わない」ということです。ただ、このことが「届出義務は(死んだ人が)診療中か否かを問わない」ということを自動的に決するものではありません。


ここで、「検案」や「診療中か否か」については、医師法20条も関係しているのです。これを見てみます。

○医師法 第二十条
医師は、自ら診察しないで治療をし、若しくは診断書若しくは処方せんを交付し、自ら出産に立ち会わないで出生証明書若しくは死産証書を交付し、又は自ら検案をしないで検案書を交付してはならない。但し、診療中の患者が受診後二十四時間以内に死亡した場合に交付する死亡診断書については、この限りでない。

「診療中の患者」という用語が本条文で登場しているのですが、これが判り難くなっているかもしれません。

まず、初歩的原則としては、死亡診断書か死体検案書を交付する、ということで、診療中の人なら死亡診断書、診療中ではない人なら死体検案書、ということになります。20条の但書部分についての解釈は、局長通知が出されています。

=====
厚生省医務局長通知(昭和24年4月14日 医発第385号)

医師法第20条但書に関する件

標記の件に関し若干誤解の向きもあるようであるが、左記の通り解すべきものであるので、御諒承の上貴管内の医師に対し周知徹底方特に御配慮願いたい。

     記

1 死亡診断書は、診療中の患者が死亡した場合に交付されるものであるから、苟しくもその者が診療中の患者であった場合は、死亡の際に立ち会っていなかった場合でもこれを交付することができる。但し、この場合においては法第二十条の本文の規定により、原則として死亡後改めて診察をしなければならない。
 法第二十条但書は、右の原則に対する例外として、診療中の患者が受診後二四時間以内に死亡した場合に限り、改めて死後診察しなくても死亡診断書を交付し得ることを認めたものである。

2 診療中の患者であっても、それが他の全然別個の原因例えば交通事故等により死亡した場合は、死体検案書を交付すべきである。

3 死体検案書は、診療中の患者以外の者が死亡した場合に、死後その死体を検案して交付されるものである。

=====


少し整理しますと、「診療中の患者」とは外来か入院かを問わず、医師から見て診療を行っている途上の患者ということになります。心臓疾患があって外来通院しており投薬していた、とか、そういう関係です。以前に足を骨折して治療したけど、その後診療していない患者が死亡したなら「診療中の患者」ではないので、死亡診断書交付はできず検案書ということです。

◎「診療中の患者」以外の者→死体検案書

20条と通知から、「診療中の患者」であっても場合分けがあることになります。
(便宜的に診療中の「中」を取って名称を付けています)
・中-1:受診後24時間以内→死亡診断書
・中-2:受診後24時間以上経過→死亡診断書
・中-3:全然別個の原因→死体検案書

中-1の場合には、20条規定の「自ら診察(検案)しないで、診断書(検案書)を交付してはならない」の例外的措置として、但書の診察し(立ち会ってい)なくても死亡診断書を交付していいですよ、ということを認めているのです。24時間以上経過している場合には、中-2に該当するので「死後診察」を行って死亡診断書を交付しなければならない、ということになります。中-3の場合には、時間経過には無関係に検案をして、死体検案書を交付しなければなりません。

したがって、死体検案書を交付する場合というのは、「診療中の患者」以外の者と、「診療中の患者」であっても全然別個の原因により死亡した者の2通りあることになります。これは最高裁判例の②に矛盾せず、「診療中の患者」か否かという点では、「検案」はどちらも有り得るということになります。


ウ)「検案」と「異状」

前述ア)のように、「検案」についての定義や届出義務の意義・目的を考慮すれば、医師法21条の届出義務は死亡診断書を交付した場合に適用されているとは考え難い。「検案」が適用されているのは、「診療中の患者」以外の者か中-3の場合であり、届出するのは犯罪捜査か社会防衛の目的に合致しているようなものである。例えば手術中に合併症で死亡した場合が、緊急に社会防衛すべしという場合に該当するとは考え難いのである。最高裁判例においても、そのような指摘がなされたわけではない。

次に、「異状」または「異状がある」ということの定義についてであるが、法学的な定義や判例からは明確になっていない。そうであるが故に、この本文下段に挙げたような日本学術会議の見解と提言が出されているのである。

この大変不明瞭なものを、ある個人が正確に識別できなかったとして、そのことをもって刑事責任を問われてしかるべきである、ということは言えないだろう。少なくとも、罪刑法定主義には反しているのではないかと私には思われた。

再掲すれば、医師法21条というのは、死体を
(a)検案して
(b)異状がある
と認めた場合にのみ届出義務があるのであって、診療中の患者を「検案する」のは中-3の場合であり、なおかつ「異状がある」という要件が満たされなければならないのである。

大野病院事件では、「癒着胎盤」という医学的状態に付随的に生じ得る「止血困難」(大量出血)ということであり、このことから「全然別個の死亡原因」であったと判断できるのであろうか?福島地裁は、一連の医学的状態(疾病、病態等)ということを認めたのであり、「診療中の患者」かつ「妊娠~癒着胎盤~止血困難」という一連の医学的状態にあった、ということで別個の死因ではない、という立場を取るものであろう。また、「異状がある」ということについても、「癒着胎盤」という医学的状態であれば「止血困難(大量出血)」は同様のケースが複数例ある、すなわち「普通に近い状態=ままあること」なのであって、「異状」(=普通とは違う状態)ではない、という判断をしたものと思われる。これは極めて妥当な判断であったと思う。

変な例かもしれないが、「空腹」状態であれば「足がふらつく」ことは有り得るので、異状とは言わないであろう。そうではなくて、空腹でもなければその他特別の理由もなく「足がふらつく」のは異状かもしれず、そうであるなら届け出てね、ということだ。

この届出義務違反であるが、「異状がある」と認める状態を完璧に見極められない(判断できない)からといって刑事罰を与えるということになれば、例えば「検察(警察その他行政機関とか)に通告しなければならない」というような通告(通報)義務のある条文に違反している事例は、全例義務違反で刑事罰を与えることが可能であろう。以前に例示したような会計検査院の検察への通告義務違反は、明らかに刑事罰を与えるべきということになるだろう。よく談合事件とか裏金事件とかが明るみに出たりするが、こういうのも「事後的に」何故検査で発見できなかったのか、ということを問うことができ、発見できなかった職員(公務員)は全員刑事責任を負わせて処罰可能ということになる。そういう法の運用の仕方も、有り得る、ということではないかと思う。
が、福島地裁はそうした運用の仕方を肯定したわけではなかった、ということであろうと思う。


医師法21条の立法趣旨や判例から見て、検案というのは刑法(それとも法学?)上の判断を医師に求められるものではなく、あくまで医学上の状態を判断することが求められているのである。精神鑑定で被告人の刑事責任能力というようなことが問題となったりすることはあるが、あれも同じで「医学上の状態」を記述することが必要なだけであり、刑法(法学)上でいう「責任能力」の判断というのは、裁判所が行うべきものである、ということだ。最高裁判決では、医師という専門家の出す鑑定意見を尊重するように、という方向性が示されていたと思うが、医学的に見た場合の「能力」と法学上の「能力」というのは、必ずしも同一ではない。それと同じだ、ということ。よって、医師が「検案」した結果「異状がある」と判断するのは医学上の基準においての話であり、そこに法学的基準を持ち込まれて「異状がある」状態を正確に判別できなかったことをもって刑事責任を追及されるというのは、精神鑑定で医師が完璧に法学上の「責任能力」について判定できなければ刑事罰を負わされる、というのと同じようなものである。


長々と書いてしまったが、福島地裁判決は過去の最高裁判例、医師法条文や医務局長通知との不整合がある、ということにはならないであろう。



「過失」論議と「医学的準則」の意味について

2008年09月06日 17時21分31秒 | 法と医療
一部法曹とか某○弁護士あたりに、過失論について疑義が生じているかのようです。今後、専門家による検討がなされていくものと思います。


私の素人的理解で申し訳ないが、また書いてみます。

過失論というのは、平たく表現すれば、
◎注意を払っておけば、どういう結果を生じるかを予見でき、~を回避できたはず
→なのに、その注意を怠っていたので、こういう結果を生じたのだから、注意義務違反


また簡単な例で考えてみます。

a)後ろを見ずに車をバックしたら
b)後ろに人がいることに気付くことができず
c)人を轢いてしまった

この場合、「後ろを見ずに車をバックしたらどうなるか」ということが事前に想定でき、通常人であれば容易にその危険性について認識できたものと考えられます。b)の「後ろに人がいることに気付けなかった」ことの理由が、「後ろを見ていなかったから」ということであり、それが「普通はできない」レベルの注意ではない、ということです。誰でもできる水準の注意だ、ということです。で、「後ろさえ見ていれば、まず間違いなく轢くことにはならなかった」という結果が予想されるので、結果を回避できたであろう、という理屈でありましょう。

A)後ろを見て車をバックすれば
B)後ろに人がいることに気付くことができ
C)人を轢くことは(まず)ない

ということです。
「後ろを見ない」という選択によって、「後ろに人がいる→轢く」という結果を生じる危険性について、予見できるか否か、ということが重要です。そんな結果を招来するとは「事前には誰も想定できない、判らない」ということであれば、「予見不可能であった」ということになります。しかし、普通の人であれば「誰でも判るよ」ということであるので、=予見可能性はあった、と判断されるでしょう。

この例というのは、予見さえできていれば「相当程度の確からしさ(ほぼ全部に近いくらい)で結果を回避できた」という、結果回避可能性との関連性が高いことがらです。これが最初に書いたことの意味であり、注意を払って(=後ろを見る)おけば、轢くのを回避できたはず、ということです。なのに、後ろを見るという注意を怠っていたので義務違反、という理屈だろうと思います。


今度は医療ではどうなのか、ということ考えてみます。

例えば「膏肓」(笑)に病変があり、これを適切に処置できなかったので死亡した、とします。
過去の知見からは、
ア)膏肓の病変が診断できた例がある
イ)膏肓の病変に対して処置Xを行って助かった例がある
ということが判っているとします。

すると、診断が可能であったかどうか、処置Xを行うのが必然であったかどうか、ということが問題となるでしょう。
有能な医師であれば診断し得た、同じく、有能な医師であれば処置Xを行い得た、ということであれば、予見可能性も回避可能性もあった、という立論は可能でしょう。現実に、「回避している例」が存在しているからです。
しかし、上記例で見た如くに「通常人であれば」という水準と同程度に行い得る事柄であるかどうか、ということが問題なのです。8割か9割方の場合に「後ろを見てバックするよ」ということが言えるのであって、逆に言うと「殆ど皆がそういう注意をして行為をやっている=結果を回避している」のに、それを怠っていた(=後ろを見ないでバック)のだから注意義務違反ですね、ということに他ならないのです。
医療であっても同じように考え、8割か9割方の人(この場合では医師)が、「後ろを見てバックするよ」というのと同程度の水準のことができていなければならない、ということです。「膏肓の病変」について診断できる、処置Xを行える、というのが、(その分野の)圧倒的大多数の医師(他の例でいう通常人に該当)にできないような水準であるなら、それを「医学的準則」とすることはできず、そういう義務を課すことはできない、ということです。

車の事故の例で言えば、「ラリードライバーは回避できたよ」とか「F1レーサーなら回避しているよ」といった通常人でない水準の人が行い得た行為を、一般の人たちに適用してしまうとなれば、多くが義務違反を問われることになってしまう、というのと同じようなものです。「4輪ドリフトができていれば回避できた」とか判決で言われてしまったら、そんなご無体な…、と誰しも思うはずでしょう。


予見可能性とか(結果)回避可能性というのは、通常人に可能かどうか、という水準であるべきであり、通常人というのは建築士なら建築士全般、航空機パイロットなら同業パイロット全般、そういう人たちに通用しているレベルでなければならない、ということでしょう。もっと平たく言うと、「他の皆なら当然にわかるはずだよ、だからこうしている(=求められる水準)ので回避できるよ」ということです。泥濘の上に建築物を建てれば、後で大きく傾くだろう、ということは建築士ならば誰でも判る(予見できる)よ、それなのに泥濘の上に何らの対策もせず建てたのは義務違反、とか、そういうのと同じようなものだ、ということです。

これまでの裁判例では、「通常人であれば」という前提があまりにも当たり前すぎて、そのことの検証を省いて適用されてきていたことが多かったのではないかと思いますが、医療における刑法上の過失を考える上では「通常人」に相当する基準というのが、福島地裁判決で判示された「医学的準則」ということになるかと思います。


ところで、コンニャクゼリーの和解が成立したとのことらしいですが、あれも「過失」を詭弁的に適用すれば、「こういう結果になるかもね」と怖れていた通りになってしまった、ということではないかと思います。

参考:コンニャクゼリーの問題と裁判を考えてみる

この中で触れましたが、「予見できたハズ」というのは、「他の食品と比較してどうか」ということが問題になると思うのですが、所謂「超人的」水準でならば「防げるはずだ」ということになり、この論理が通用することになれば、殆ど「全ての食品」で窒息死した場合には過失を問える、ということになるかと思います。

レンタカーの判決(コレ→レンタカー会社の賠償責任)みたいなのもそうですし、本件和解もそうですけれども、共通するのは(乱暴な表現で書くと)「会社は金を持っているんだから払えるはずなので、遺族が可哀想だから払ってやれ」みたいなことです。

コンニャクゼリーで死亡した人よりもモチで死亡した人の方が圧倒的に多いことや、モチを除外したとしても、その他食品で死亡するか、異物の誤嚥で死亡することは起こり得るのです。その危険性は回避できないとしか思えないのですが、何故かコンニャクゼリーだけは回避可能だ、ということなのでしょう、きっと。

10年前にコンニャクゼリーが消滅していれば死ななかった、とか言うのは、10年前に危険な浴槽が消えていれば死ななかった、とか、10年前にモチが消えていれば死ななかった、といった言い分を認めろということになってしまうのかもしれません。



医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その8

2008年09月04日 13時13分59秒 | 法と医療
これまでの経過>

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その6(1~5はこの中にリンク有)

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その7


過去に幾度か書いてきましたが、法案に反対するのはご自由ですので、好きにして下さい。
第三者機関ができない(代替案も実施されない)なら、これまでと同様の状況が継続されるだけなので、現行法制度の枠組みで頑張って下さい。多くの医師が反対しているであろうと思われる、「これでは警察や検察という司法の介入を招く」ということが、今までと同じ状態で維持されるというのが、法案が潰れた場合の結果である、ということです。そういうことを考えた上での賛否であろうとは思いますが。

ところで、反対している医師たちを説得する役割というのは、一体誰が担うのでしょう?国会議員ですか?官僚が行うのですか?それとも、マスコミ(笑)や患者ですか?

本気で刑法211条の改廃を目指すのであれば、そういう工作や運動を頑張ってやればいいだけです。お抱え弁護士だろうと、医学系団体だろうと、そういう運動を皆さんがやっていけばいいでしょう。少なくとも、法学関係者たち(法曹やその他学者さんとか)に論戦で勝てなければダメでしょうから、さっさと刑法の権威だとか法務省の偉い人とか、相手は誰でもいい(というか、私には適切な相手というのが判りかねます)ので法学的な決着をつけてごらんなさいな。
一部弁護士がそう言っている、とか、個人的見解とか、そういう末端レベルの話ではなく、本格的に残りの法曹や法学関係者たちを説得すればいいだけですから、「法学のド真ん中」で戦いなさい。そこで勝つ見込みというか目算があるのが当然だからこそ、刑法211条を云々できるわけでしょう?それをやれば、すぐに結論が出せるはずですよ。法学的な議論において、法学関係者たちを説得or論破できないとなれば、改正の見込みはあるのですか?主張している弁護士たちが、何故決着をつけないのか不思議だ。


法案に反対、と言っている医療側の人というのは、第三者機関設置に反対なんですか?もしそうであるなら、その旨表明するべきだし、設置には賛成だが法案の中身には反対ということであれば、何が反対なのか、修正では応じられないのか、そういうことを明確にすべきだ。全く別の案にするなら、自分たちの好きなように考えて、「対案」を出せばいいだけだ。


これまでの状況を傍から眺めていたのですが、一部弁護士あたりが「本当にそうなの?」と思うような解説を付けていたりするようなのですが、それを多くの人が鵜呑みにしているのでしょうか?
行政法や行政制度の知識に乏しいかもしれない弁護士の話というのは、どの程度の正確性とか妥当性があるものなのでしょう?低レベルの解説を聞いてみたところで、何の役に立つと考えているのか疑問に思います。



偶然発見したのですが、こういうご意見があるようです。

厚労省第三次試案の法的弱点(その3)ー井上清成氏による|kempou38のブログ

弁護士の方の意見ですから、きっと専門的立場からの意見なのだろうと思います。私は法曹でもない単なるド素人に過ぎないので、弁護士先生に批判できる自信があるわけではありませんが、中身を見ると「本当に行政について理解しているのだろうか」と疑問に思います。こういう意見を聞かされている医師たちの中には、信じてしまう人が出てもおかしくはないかもしれません。これに基づいて、当該委員会設置には反対だ、ということであるなら、お好きにどうぞ、と思います。


井上弁護士の指摘した各論点について、個別に書いてみる。

医療者代表選出には、医療者の選挙だの医療界団体協議による選出だの、委員会設置の根本的問題なんですかね(笑)。航空・鉄道事故調査委員会のメンバーには、そうした選挙みたいな制度があるんですか?それが法的に規定されていなければ、鉄道のことを何にも知らない人ばかりが選ばれてしまうわけですか?(笑)
通常、人事の決め方は似ていて、内閣が指名し国会同意というのが多いように思いますけれども、それで実務上大きな不都合を生じた事例というのがあるのであれば、それを示して欲しいものです。

法律家の参加は不必要、というのも、委員会設置の是非にはあまり関係のない論点であり、「絶対にいらない」と頑強に主張するなら国会にそうしてもらえればいいんじゃないですか?(笑)
日銀総裁(副総裁もだけど)人事で、不同意ということになれば決められなかったわけで、国会のチェック機構(笑)は一応機能していることが実証されたみたいですけど。これも主要な論点でも何でもなくて、反対すべき理由の一つに挙げてみたかっただけのようにしか見えませんね。

刑事司法のコントロール権を完全に与えるというのは、行政組織としてはあまりないと思いますけど。JR西日本の脱線事故の場合ですと、航空・鉄道事故調が報告を出してから送検ということであったように思います。事故調には刑事司法のコントロール権なんてないわけですが、そうであっても、そうした運用がなされているわけです。


公取の場合には、近年法改正されて犯則調査権が設定されまして、これは検察捜査(告発)を前提とした調査権限行使ということが法律上で定められました。それ以前には、検察告発事例というのが区分されておらず、どれも同じ調査権限でした。そうではあっても、全部を告発していたわけではなく、調査したうちの一部だけが告発対象となっていました。現在は、独禁法12章権限以外であれば、旧来と同じ行政調査権限です。この場合には、排除命令や課徴金納付といった行政処分か、不服として審判請求で争うというのは以前と同じです。審決が出ても争うという場合にのみ、訴訟ということになっています(高裁スタート)。

で、調査開始の契機といいますか端緒となるのは、職権、一般人の申告、内部告発(課徴金減免制度)、中小企業庁の請求、というのがあります。検察への告発を前提とする犯則調査で、一般人からの申告であった場合でも、公取がまず調査を行う、ということになっているわけです。行政調査権限であると、以前にも紹介した(法律家にお願いしたいこと)ような、多数の法律に見られるのと同等の権限ということになります。犯則調査のような「裁判所令状」を必要とする強制力が発揮されるものではなく、弱い権限という位置付けかと思います。

基本的には、行政調査の場合で刑事罰を受けることになるのは、違法にこうした行政調査に逆らうような場合のみであり、行政調査は「その後に続く刑事罰」を与えるということを目的としていないからではないかと思います(犯則調査であれば、その後には検察への告発があるという前提となりますので異なります)。つまり、行政処分を行う為の調査なのであり、本来的には刑事罰を与えるものではない、という主旨かと思います。改正前であると犯則調査がなかったわけですから、基本的に刑事罰を目的とはしてこなかった、検察への告発は特別な事例のみという運用が行われてきた、ということです。

全医連が出した調査権限に「裁判所令状」というのが出ていたと思いますけれども、あれを導入するということになれば、犯則調査と同じ意味合いになってしまうので、この後には刑事手続が控えている、というのを前提とすることになってしまいます。ですから、木之元弁護士の解説の如くに行政上の調査に係る権限は憲法違反だ、というような主張を真に受けて信じてしまうなら、令状主義に基づいて調査を行うのだ(=裁判所令状があるので、法的強制力はより強力になってしまう、刑事司法の手続に事実上則る)、ということを自ら肯定・是認することになってしまうでしょう。医療安全調査委員会の権限強化は危険だ、とか言いながら、わざわざ強い権限を持つ組織に仕立て上げようとしているとしか思われませんね。

やや論点が離れますが、当該委員会の持つ行政処分権限が強力過ぎる、とかの批判も目にすることがあったように思います。しかし、医療以外の分野においても、許認可取消や業務停止命令等の、比較的強力な行政処分権限は現在の省庁であっても有しているでしょう。こうした他分野との比較において、当該委員会の持つ権限が強すぎる、ということを主張しているのか疑問に思います。現時点であっても、「医師免許取消」処分の権限もあれば、医療機関の業務停止命令の権限も厚生労働省又は都道府県知事が握っています。当該委員会だけが暴力的な強権を持つ組織として成立するわけではありません。他にも、例えば公認会計士・監査審査会の権限との比較で、特別に無謀な組織となっているんでしょうか?
反対意見を述べている弁護士の方々が、そういうことを果たして考えたことがあるのか、甚だ疑問です。


手続法として問題がある、という主張をするのであれば、足りない部分を「条文中に書き込めばよい」だけではないかと思うのだが。法曹であれば、多分「適切な条文」というものを具体的に書けるはずであろう。それを是非教えて欲しい。具体的な例示として、早急に出して欲しい。

実体法の欠如というのも、具体例云々を言う前に、検討会の資料や議事録くらいは読んでからにしてはどうかと思います。クーパー使用が、みたいな単純事例だけではなく、もっと複雑な具体例も数多く出されていたのであり、井上弁護士が想定可能な例などではないでしょう。議論があまりに乱暴すぎるという指摘をされておられるが、乱暴なのは一体どちらなのか考えてもらいたいですね。

実体法にない概念とか言っているのも、疑問です。もしも、実体法上で何らの区別がないのであれば、211条1項は「業務上必要な~~処する。」で終わってよいはずではないか。何故、その後に「重大な過失により人を死傷させた者も、同様とする。」と続けなければならないのか?「重大な過失」という区分(概念?)が法的に存在していないのであれば、単に「業務上~処する」で済む話なのです。わざわざ余計な一文をくっつける必要性というものがないでしょう。しかし、実際には、最初の文と、それに続く「重大な過失~」の文は、条文上で明確に分かれているのであって、立法主旨としては(法律用語ではなく)“重大な”過失があれば、重大には至らない過失よりも罪が重い、ということでしょう。つまり、普通と重大と、区別があるということです。その範囲については、キッチリと線引きできるものではないので、個別に判断していくしかない、ということでしょう。「何が重大か」という法的定義は明確には存在していない、ということであると思います。平たく言ってしまえば、感覚の問題であり、主観的な評価による、ということになってしまうでしょう。これまでの運用上においても、法的に厳密な定義をすることなく「重大な過失」として認定されてきたのではないかと思います。

刑法上の評価を行うことなく、単なる情状で判断して警察に通知する、ということを問題としているのであると思うが、そもそも当該委員会は裁判所ではありません。例えば「刑法上の犯罪」として認定し、その認定したものだけを警察に伝えるということを行わねばならないとすると、委員会は裁きを行っているのと同じではありませんか。そんなことは検察だって、できません。不可能です。それを法の素人集団(法律家は入れるな、というご主張でしたよね?)でしかない当該委員会に求めるというのは、どういうつもりなのか理解しかねます。検察でさえ「犯罪だ」と思って裁判所に通知(実際には起訴)したのに、裁判所に「それは違います」ということで無罪判決を出されているではありませんか。それなのに、当該委員会に「刑法上の(重大な)過失」を実定法上で確定し(そんなことできるの?)、その確定したものだけを警察に通知せよ、と仰るわけですか。当該委員会は司法上(刑法上)の裁きを与える(決する)組織ではありません。
つまり、「これは犯罪なんじゃないか?」と委員会が判断した(そういう印象を持った)事例について通告するということなのであり、当該委員会の設置法等に例えば「刑法211条の適用事例」を通告せよ、というように、条文上に規定すること自体が不可能でしょう。「刑法211条の適用事例」かどうかを知ることができる(判定できる)のは裁判所だけだからです。裁判によってのみ、それが明らかにできる、ということになっているからです。法案中にそうした法的規定を置け(実定法として定めよ)、という要求そのものが、無理があるのではないかと思われるが。


何度も引き合いに出すが、公取の犯則調査と行政調査の区分についても、あくまで公取の主観的判断によるものであり、極端にいうと「悪質の程度」が並外れて酷いとか社会的に大問題だというような事例は犯則調査ということになるし、厳密に解釈を行えば事実上違法であっても軽微な事例については行政処分で対応している、ということになっているでしょう。
独禁法の12章権限は89条適用事例が該当するが、89条は3条違反や8条1項1号違反があれば、その適用となります。

条文では、

・事業者が、単独に、又は他の事業者と結合し、若しくは通謀し、その他いかなる方法をもつてするかを問わず、他の事業者の事業活動を排除し、又は支配することにより、公共の利益に反して、一定の取引分野における競争を実質的に制限すること(3条違反)

・一定の取引分野における競争を実質的に制限すること(8条1項1号違反)

となっており、いずれもやや抽象的な部分があるのである。

したがって、個別の事例ごとに公取が判断し、犯則調査と行政調査を振り分けるよりないのである。「競争の実質的制限」という違反を厳密に解釈・適用すれば広範囲に及んでしまうことになるであろうが、実際には検察に告発されているのは一部に過ぎないだろう。12章規定が制定される以前には、区別のない調査権限でしかなかったが、公取が告発事案を内部的に判断して(検察との事前協議は当然あったろうが)、告発していたということである。独禁法45条4項において、
『公正取引委員会は、この法律の規定に違反する事実又は独占的状態に該当する事実があると思料するときは、職権をもつて適当な措置をとることができる。』
となっているが、「適当な措置」というのが厳密かつ具体的に定められているかといえば、そうではないでしょう。
行政調査かそれとも犯則調査に該当しているかの区分は、たとえ同じ3条違反とか8条1項1号違反であるとしても、公取が内部的に判別しているに過ぎず、条文上では12章規定を適用するのは「必要があるとき」という規定があるのみです。つまり「必要なら」犯則調査ができますよ、という定めなのであり、行政処分で対処し検察への告発をしないという事案であれば、3条違反があることが判っても「適当な措置」で済ませることも可能です、ということです。


こういう時にも、弁護士の先生方は、「適当な措置」という曖昧な規定ならば大変なことになってしまう、とか言うのでしょうか?或いは、「必要があるとき」といういい加減な条文だから、検察捜査をどんどん狙って、好きなように司法権力の介入が行われてしまうので「大変危険だ!」とか、大騒ぎをするのでしょうか?

ならば、独禁法改正の前に、大規模反対運動でも展開しておけばよかったものを、そうした法案阻止運動が大々的に行われたことを私は知りませんが。勿論、経済団体とかは反対声明を出していたと思いますけれども(主に罰則強化に対して)、業界団体が反対したとて立法措置はなされたわけですが。

要するに、弁護士の先生方は、行政法や行政制度等について十分に理解してもいないにも関わらず、通り一遍の批判を出しているとか、法案の文言だけを見て不備を指摘したいということの為に、低レベルな批判や解説をしているとしか思われません。法案成立阻止という意図だけにしか見えない、ということです。


代替医療っぽい分野でも、よくいるんですよ。まともな医学的議論からは外れているにも関わらず、「○○をすれば病気が治ります」とか言う輩が。医学的理論に基づいて正しいのであればよいのですが、他の専門家(医師)たちに簡単に撃破されることは珍しくはないでしょうね。なので、法学上の論争(専門家同士による評価)を突破できた論説だけが信頼に値するのであって、どこぞの個人が「違憲ではないか」「法に欠陥があるのではないか」というような見解を述べたとしても、全くあてにはならない、ということです(当然、私も含めて)。法学素人の一般人には、正しい解説を行っている人の見分けがつけられない、ということです。正当な医療ではない、まがい行為に引っ掛かるのは、患者が正しい医療と怪しげな療法との区別がつけ難いから起こるのだ、ということは覚えておいた方がよいと思います。



日本救急医学会のご意見について

2008年09月02日 20時48分05秒 | 法と医療
日本救急医学会のパブリックコメントについて、少し書いてみたいと思います。

産科医療のこれから 救急医学会「大綱案」への反対声明


本当に理解する努力をした結果が、こうした意見なのでありましょうか。いささか疑問に思う部分もございます。賛成できない、という意見表明を行うことを否定するわけではございませんが、まず「誰かに聞く」「解説をお願いする」というような基本的取組みなどを行うことが望ましいのではないかと思われます。賛否があるのは普通ですし、問題点や疑問点を炙り出すのにも役立つと思いますが、「団体として」反対表明を行うからには、個人ブログで「反対」と表明するレベルとはわけが違うのだ、という認識をお持ち下さればと思います。


ア.「Ⅰ-(1)医療安全を構築することと紛争を解決することの違い」について

ご指摘の『原因究明を通じてより安全な医療を展開しようとする作業と、原因に関する責任を追求する作業とが本質的に異なる手法である』ということが、学問的に正当であるかどうかはここでは問わず受け入れるものとして、大きく2つに分けて呼び名を付与しますと「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」というものであると理解しました。さて、当該委員会が、この2つの根本的に異なる機能を持つことが問題なのだ、だから委員会は反対、ということが反対理由として成り立つものなのか、ということがございます。

喩えて申し上げると、弁当箱の「おかず」と「ご飯」の仕切り問題みたいなもので、区分けをして一つの入れ物(弁当箱)とすることが問題なのであれば、「おかず箱」と「ご飯箱」を個別の箱として設置するものの、外見上の認識としては「弁当箱」として理解されるものと思います。現在の厚生労働省が所管する法律には根本的に異なる分野―極端な例で言えば「医療」と「労働」というように―というものが存在しており、外見上は一つの弁当箱(=厚生労働省)ですが、内部的には組織として区分されているものとなっております。単一機能に単一組織の割当以外は、全て不当なものとして反対するというご意見が存在しないとは申しませんが、それをもって弁当箱全部の反対理由とはできないのではなかろうかと思います。

そうであるなら、「医療安全調査委員会」という弁当箱に外見上なっているとしても、内部的に「医療安全」と「責任追及(紛争解決)」とを区分けするだけでよいということになり、「本質的に2つは違う」という意見や根拠をもって弁当箱そのものの批判に使うというのは、妥当とも思われません。


イ.「Ⅰ-(2) 背景にある諸問題」について

ご指摘のことは、ポイントを示しますと、
『理解不能な刑事訴追や書類送検(検察官送致)、医療の実態を無視した民事判決があり、加えてそれらに関するマスメディアの過剰とも言える報道が散見されます。』
『ここには、前段で理解不能と表現した諸々に関する私どもの不安や不満があります。』
ということであると受け止めました。
つまり、医師たちが「理解不能」なこととして
・刑事訴追
・書類送検
・民事裁判
・過剰報道
がございます。
当該委員会の設置に反対する理由としてこの4つを挙げたということではないのであろう、と思いますけれども、これがあることが反対と結びつくということにはなり得ないのではないかとしか思えません。大きく分けますと、司法に関すること(刑事・民事)と報道に関すること、という2点になるかと思いますが、まず簡単な報道の問題についていえば、医療に限らず一般的に指摘されている問題なのではないかと思います。対抗策としては、BPOなどへの通報や名誉毀損による損害賠償請求等があるかと思われます。医療団体等が一体何の為に顧問弁護士を置いているのか判りませんが、こういう時にこそ活用すべきはこうした制度や法的枠組みなのではないかと思われます。

次に司法に関することについてですけれども、医療者が理解できないとしても、これがどこまで専門的評価を受けたものであるのか、ということに留意すべきかと思います。事例は異なりますが、花火大会で起こった圧死事件では、警備上の理由で業務上過失致死傷罪で逮捕・起訴された警察官がいたと思います。何も医療者だけに限らず、警察官だって同じなのです。こうした報道の時や事件が明らかになった時に、国民がどれ程注意や関心を払っているのか、ということにも関係しています。報道の論調の多くが、「責任追及」に終始し、それをあたかも大多数の国民が支持しているかのように錯覚しているからこそ、同じような論調が繰り返されるわけです。そうした社会の要請は、司法サイドにも影響を与えてしまうと思います。
他にも、砂浜に入れた砂に空洞が生じ、子どもが空洞内に陥没して死亡した事件があったように記憶していますが、これも砂浜の担当者(具体的にどういった職務の人であったかは忘れましたが、市の管理責任者のような人ではなかったかと思います)が起訴されて有罪となっていたと思います。似ているのは、「どうして気付かなかったんだ、何故防げなかったんだ」ということになり、それは「○○に過失があったからだ」という結論になりがちなのであろうと思います。医療に限らず、どういった判決が出されているのか、ということについて、注意を払っていなければならないのだということです。問題があるのではないかと考えるなら、そうした声を司法サイドに出していくということが必要になるかと思います。法曹にはそういう検証努力が足りないと考えるのであれば、具体的に指摘するべきではないかと思います。


ウ.「Ⅰ-(3) 法曹界への要望」について

『テロリストにすら与えられる権利、国民に等しく保障されている権利さえも奪うものと主張する意見が法曹界にみられます。』とのご指摘ですが、多分コレ(法律家にお願いしたいこと)を言っているのではないかと思います。
医療界におきましても「様々な鑑定意見」が存在するのと同じく、法曹界といえども安易に「違憲である」という「ありがちな見解」になっていることは珍しくはありません。誤った解説を聞いてみたところで、あまり役立たないことはあるのではないかと思います。これを解消する方策としては、私個人の提案に過ぎないのですけれども、「反対と言う前に、まず話を聞いてみよう」という姿勢を持つことではないかと思います。論点が判り難い、条文や仕組みについて理解が困難、ということであるなら、具体的にひとつずつ「判らないこと」を解消していく以外にはないのです。

「誰にでも判るように解説してくれ」という要望はある意味万能ではあるかもしれませんが、「医師は何が理解できていないのかが判らない」ということがあるので、法曹にだって解説が難しいかもしれません。というよりも、それのはるか以前の問題として、本法案とか当該委員会の仕組みについて、「正しく理解している人は誰か」ということを探すことから始めるべきではないかと思います。ここでも「通訳」問題が発生しているわけですね(行政側情報を正確に伝えられる人がいない。コーディネーター的人材が欠けている。司法-行政-医療をうまく連結させられるような人がいない、ということです)。更に、「何を聞きたいか」ということをある程度明確にすべきかと思います。行政側の解説とか、これまでの議事録を誰かが読み、簡潔に要約できるか他の誰かに解説できる程度になるまで、理解を深めることが必要です。そういうのを理解した上で、Q&Aに類する程度の「聞くべきこと」というのを出すといいのではないかと思います。そうですね、例えば「委員会が調査した事案は全部警察に通報されるのですか」みたいな感じで。


エ.「Ⅱ-(1)~(3)」について

ここの論点を乱暴にまとめるとすれば、「警察への通知の問題」、「業務上過失致死傷罪の判断基準が不明確」ということになるかと思います。
まず、当該委員会を何の為に設置するのかといえば、「医療者の基準から判断する為」ということを目標としているのだ、ということです。これまでは、誰がどのように判断しているのか、ということが、あまりよく判らなかった(はっきりとは判らなかった)ということなのです。誰かが鑑定を書き、裁判所が鑑定結果から「好きなもの(部分)」を取捨選択し、裁判所で独自の論理が組み立てられてきたのだ、ということです。だからこそ、「理解不能」な判断結果が時として出されてきたのです。医療者たちは、それに対抗する術を持たなかった、ということです。そうした判断の権限を「大幅に委員会に移してはどうですか」ということを私は言っているのですよ。それが達成されるように、当該委員会の仕組みや機能について、個別に検討してみたらいいだけなのです。

私は「判断の基準は医療者の中にある」のだ、と記事の中で書きました。そのことの意味がまだ判っておられないのかもしれませんが、絶対基準は存在していない、ということを前提としているのですよ。絶対基準があれば、法の条文中に明確に書けるかもしれません。しかし、実際の医療というのは、そうではありません。あくまで相対的な基準でしかないのであれば、その判断基準は「医療者が持つもの」であるのだから、その判断は当該委員会において「医師たちが行えばいい」だけなので、それで解決がつきそうなのですがね。

大野病院事件における判決文中に判示されたように、「医学的準則」違反がなければ刑法上の過失を問うことは基本的に難しいということなのですから、この「医学的準則」は誰がどのように判断し提示するのですか、という話をしているのです。そういうことへの理解がないのです。医学的準則を提示できるのは、刑事さんでも検察官でも裁判官でもありませんよ、「医療者だけです」って言っているではありませんか。なぜ、そういうことを考えようとしないのか、と疑問に思います。


オ.以下全部について、というか、乱暴な総括

厳しいことを言うようですが、はっきり言えば「法案批判」のスタートラインに立つ資格が本当にあるのか、疑問に思います。某左系の方々に言わせると、「軽く2冊くらいは読んでから批判しろ」とか叱られると思いますけど(笑)。ま、これは冗談ですし、私はそういう「知らないなら意見を言うな」みたいな姿勢には賛同していないので、反対表明は別にいいでしょう。
しかし、行政側の資料を満足に読んでいない、読んでも理解できていない、しまいには「もっと易しく言ってよね」ということで、極端に表現すれば「よく判らないから反対」と言っているのとあまり変わらないようにも思えます。幼稚というか、稚拙な批判に団体名を付けて出すのが恥ずかしいと思わないのかな、とさえ思います。

本当は、私自身そういった努力をして来たわけではないので人さまのことは言えないし、医療者側が言いたいことやその気持ちは判るので、何とか前進できる道を考えるべきではないかな、と思っています。


ただ、現時点になってでさえ、「法との対話」だのとか言い出す始末で、これはどうなの、とは思うわけです。
医療界はこの10年、一体何をやってきたのですか?
法医学者たちは、絶滅していたのでしょうか?法と付いているのは、ダテですか?
法曹との対話の機会なんて、いくらでもあったではありませんか。医師会にだって、顧問弁護士の1人や2人どころか、もっとだろうと思いますけれども、何人もいたのではありませんか?学会関係の方々には、法との接点はなかったわけですか?
これまでの民事訴訟の過程や結果を受けて、法との対話はなされてこなかったわけですか?


私から見れば、まず、医療界の数名でもいいので、「正しく理解できる人」というのを全力で作り上げることでしょうね。その人がきちんと判れば、その他大勢の医師たちに解説できるでしょう。そういう通訳になれるような人というのを、医療界の中に作ることです。それから、本当に対話が必要なのは、行政となのではないでしょうか?立法趣旨とか、そういうのを理解してみることから考えた方がよいのではないでしょうか。行政側からのレクチャーを受けて、判らない部分は突っ込んだ質問をして、というようなことを、いくらか繰り返さないと、医療界の発言力があるけれども「よく判っていない人」の間違った解説や意見だけを聞いてしまうので、行政側の意図というのを殆どの医師たちが正しく理解できていないのではないかと思えます。

なぜそうしたことが行われてこなかったのか、というと、敵対視していたから、なのではありませんか?
司法はトンデモ判決や不当な起訴を生み出す敵だ、厚労省(や官僚)は役立たずの無能で邪魔ばかりする敵だ、というようなことかな、と。ここまで酷くは思っていないかもしれませんが、そもそも相手側の言い分を「聞く気」なんかなかったから、なのではないかと思います。しかし、問題に直面してみると、医療側は「法」や「行政」に関しては、やはりただの素人でしかないわけなんですよ。医療がよく判っていない患者側というのと、全く同じ構図なのですよ。だからこそ、まず落ち着いて説明を聞いてみる、という姿勢が必要なのではありませんか?


もしも、ある薬剤でも治療法でもいいのですが、新規で保険診療に導入するか否かということになった場合に、医療の素人でしかない、とある患者団体が「治療内容がよく理解できない、説明を読んでも判らない、効果も曖昧なので、導入には反対」とか要望したとすると、医療者は果たして何と言いますでしょうか?
まさか「完璧に理解してから文句を言え」、「判らないなら口を出すな」、「素人が間違った批判をするな」、みたいに言ったりはしないのですよね?そういったことを、よくお考え頂き、単純に反対と言うだけではなく、まずは「これが不安です」という率直な意見表明に留めてみてはいかがかと。その悩みを解消する為の方策は、法や立法・行政に強い方々に考えてもらえば済むではありませんか。
患者が自分で「どの薬を飲むべきか」と深刻に悩む必要なんかないではありませんか。その為に医師がおられるのですから。患者は、自分の悩みや困ることを正確に述べれば、医師がきちんと判断(診断)してくれて、必要な薬(=解決策)を患者の代わりに考えてくれるのではありませんか?


相手側になって考えるというのは、そういうことを理解していく、ということなのではないかと思います。同じなのですよ。相手も自分も。良い方法を探していけば、きっと解決の道が開けてくると思います。それには、患者が医師を信頼しなければ治療がうまくできないのと同じで、医療者たちも同じく「法」や「行政」の専門家たちを信頼することなしには、対話も成功しないし解決策も見出されず、物別れに終わるだけなのではないかと思います。また、当該委員会設置については、医療側以外の意見は「ほぼ全部」が賛成しているということも、よくお考え下さい。立法措置は、必ずしも特定業界の為にあるわけではありません。国民の為にあるのです。



癒着胎盤例と死因究明のこと(資料追加)

2008年08月31日 13時32分54秒 | 法と医療
こちら経由で知りました。

産科医療のこれから 癒着胎盤で子宮摘出し、大病院であっても救命できなかった一例

総合周産期母子医療センターの癒着胎盤例ということのようです。
残念ながら子宮摘出にも関わらず、救命できなかった1例ということのようです。大野病院事件だけに限らず、難しい症例はあるのだな、と思いました。

が、報告を読んでいて、気になったことがあります。あくまで素人考えですので、ご了承下さい。
本報告書作成には医師11名(弁護士2名)が関わっているようなので、既に検討された論点かもしれません。


①貧血と自己血について

『臍帯血の値も貧血』と表現されているのは、恐らく「Hbが低かった」ということだろうと思われる。数字がないので、どの程度であったかは不明ですけれども、10g/dlを切る水準であったのかもしれない。ここから想像するに、術直前の段階において、「母体のHbが割と低かった」のではないかと思われる。児娩出までは僅か2分足らず、そこまでの出血量は少量であると思われ(数字的には400となっており、これには羊水含む量かと想像しますが、定かではありません)、貯血しておいた自己血を返血していることもあって、そんなに多くの血液が喪失したとは思われない。なので、元々の「術前の数値としてHbは低目であった」と考える。

さて、本症例では貯血の為に24w以降33wまで5回に渡り採血を行い、1200mlの自己血を得ていたということである。保存期間の問題があるので、早くから採血していた血液はどうしていたのか不明であるが(期限前に返血していたのかもしれない)、取っては保存し、暫くしてから取って保存、というのを繰り返していたのかもしれない。この採血段階で、どの程度までHbが回復していたのか、というのが気になるところだが、数値は全くないので判らない。最後の採血前時点では恐らくHbが10~11程度まで回復していたであろうと想像されるが、それがいつ(手術のどれくらい前か?)だったのか、というのは不明。もしも、回復が見られていなかったけれども、採血してしまえば、当然Hbは低値となってしまうであろう。

貯血開始後には鉄剤投与とか、エリスロポエチン投与とか、そういうのが行われていたのであろうと思うが、その実施具合と貧血の関係との記述がない為に、母体の術前状態が「貧血の程度がどうであったか」というのが一切不明のままである。もしもHbが9とかくらいしかないのであれば、術中に返血したとしても、出血量が多くなればやはり低いままであった可能性は考えられるのではないか。


②呼気ガス濃度について

報告によれば、「娩出直後から血圧低下が始まり、PaO2低下」という記述が見られるが、直接的な血液ガス分析をいつ行ったのか、というのは不明である。多分、血液ガスで見る前にSpO2のモニター数値が低下していき、酸素飽和度が99~100だったのが次第に90近辺とかに落ちていったのを見たのではないかと思うが、どうだろうか。普通は、モニター数値が低下するので先に気付くのではないかと思うのである。で、血液ガスの測定結果とカプノの数字からは、ETCO2は正常範囲であったのではないか。報告書の中では「呼吸終末PCO2も低下していない」という記述になっており、これは、数字が正常よりも高いままで推移し(例えば50以上とか)正常範囲までには低下しなかった、ということを言っているのか、ほぼ正常範囲のままでそれ以上に低くなるということはなかった、ということを言っているのかが判らない。が、文章の感じからして、後者であろうと推測した。

つまり、血液中の酸素濃度は低下したが、呼気中の二酸化炭素濃度は低下していなかった、ということが起こったのであろう、ということだ。これが重要なカギではないかと、私は考えた。


③では、何が起こったと考えるか?

あくまで可能性だけ考えたものですので。
貧血傾向であったこと、PaO2の低下、ETCO2は低下せず、ということから、不整脈発生をもたらす要因となったのは、低酸素血症であろうと考える。低酸素血症は、致死的不整脈を惹起する要因となり得る。Hbが5.5くらいまで低下していたこと、PaO2がかなり低下していたこと、などから、そう考えた。純酸素で換気しても、低い酸素分圧となっていたのであろう。
が、低Hbが致死的かと問われると、単純にそうとも言えないかもしれない。

これ以外に存在した要因の可能性としては、肺水腫(高山病とか、よく出る病態です)を疑う。非心原性のものである。
娩出後から出血量は多くなっていたものの、自己血やMAPなどでかなり補っていたであろうと思われ、1600~2000mlの出血程度であれば、自己血1200他血液を補充されるので、カバーできないほどの量ではない。貯血例での出血量としては、飛びぬけて多い量とも思われない。が、出血とは別に、モニター上でSpO2低下が始まっていたのではないだろうか、と。そうであれば、単にHbが低いから、という理由だけではなく、呼吸器系に問題が生じていた可能性があると思うのである。で、疑わしいのは、肺水腫だったのではなかろうか、と。それが低酸素血症を招来していたのではないだろうか、と。これは、ETCO2が低下していないこととも整合的である。

更に、入院後から常用していたのが、子宮収縮抑制剤である塩酸リトドリンであった。入院がいつだったのか記述がないので不明であるが、貯血などもあってある程度の期間の入院となり、術前の割と長い期間に使用されていた可能性はあるのではないか。本剤の副作用としてよく知られているものに、肺水腫がある。肺水腫自体は、リトドリン使用の如何に関わらず、妊娠中には見られることがあるものなので、関連性は判らない。

術前から低Hbであったと思われること、それと同じように膠質浸透圧低下の素因(要するに血液サラサラみたいな)があったかもしれないこと、リトドリンの影響、などから、PaO2低下の原因として疑わしいのは肺水腫ではないか、と考えた。特に、術前に赤血球、Hb、Ht、Alb、Pltなどの数値が低目で、リトドリンのような子宮収縮抑制剤を用いていれば、その発生リスクは高まっていたのではないかと思う。


返血後にも別にMAPやFFP等の輸血は行っていたであろうと思うが、血圧低下が著しかったこともあって循環血液量を維持する為に輸液も大量に行ったのではないかと思われ、水分が多く入ったことによって肺水腫は起こりえるかもしれない、と。しかし、解剖所見からは肺に関する記述が見られないので、実際にどうであったかは不明である。


また、子宮を摘出したのに出血が続き、しかも出血部位が不明というのは、よく判らない。解剖所見でも特定できないのであれば、術中に出血点を特定するというのは極めて困難なのではないか。子宮を摘出したのに出血するとなれば、癒着胎盤の大量出血例の場合には子宮を摘出すべし、という意見そのものが無効ということなのだろうか。この辺もよく判らない。


追加です。

資料を探したら、見つかりましたので。

日本輸血細胞治療学会誌第53巻第3号目次

この中に、『妊産婦における自己血輸血の安全性の検討―多施設共同研究に向けての予備研究―』という原著がPDFで読めます。


あと、こちらも。

JJSCA : Vol. 26 (2006) , No. 1 86-89



高カリウム血症に関して気になること

2008年08月29日 18時57分04秒 | 法と医療
以前、大野病院事件の死亡理由について、「高カリウム血症」の疑いについて書いたことがある。

福島産科死亡事件の裁判・その2


これと似た症例が報告されていたようで、天漢日乗さんの所で見ることができました(有難うございます)。

天漢日乗 産科崩壊 昨年大病院で延べ人数にして産科医4人心臓外科医1人救命センターの外科医1人麻酔科医8人麻酔科研修医5-6人、看護師15-20人、臨床工学技師2-3人を動員して術中心停止をなんとか救命できた癒着胎盤子宮全摘の症例→追記あり


中身が濃いので、私のような人間からは何とも言い難いわけですが、「自己血1200ml」ですか。結構驚きました。そういう時代になっているんですね(因みに、いくら貯血の為とはいえ、そんなに度々採血されたら、私ならフラフラになってしまいそう。←ウソだけど。でも、血を抜かれるのは怖くて、実を言うと、今まで人生で一度(400)しかしたことない……母は強し、ということなんですね)。

この高カリウム血症は腸骨動脈阻血後の再還流によるものだろう、という考察かと思います。大量輸血(保存血)による高カリウム血症ということではないだろうと思います(MAPは4単位でしかないですし)。が、阻血時間が多くても30分程度(※注意!!ここの記述は誤りでした。申し訳ありません。今―といっても2日後なんですが―見たら、気付きました。阻血時間は約60分だったようです)であったにも関わらず、それほどの高カリウム血症が惹起されるものなのか、ということはかなり意外でありました。子宮摘出までに6500の出血があり、還流再開後に急速に心停止に陥ったということのようです。GI では改善されなかった為、CHDF実施となった、と。ECG上では、高カリウム血症が疑われる所見があったようなので、そこにも注意するべき点があったかも、と。

それにしても、よくぞ頑張ったな(患者さんも医療者も)と思います。



手術とは関係ないのですが、こうした阻血?が理由で「突然死」のような状況に至るのではないかと、内心疑っていることがあるのです。まるでクラッシュ・シンドロームのような例ではないか、と疑っているのです。

それはどういった場合かと言いますと、「逮捕」などの場合です。
警官が暴れる犯人を暫く押さえつけていたら、連行しようとすると「いきなり死亡に至る」というケースがよくあるのです。

押さえつける側は必ずしも警察官ばかりということではなく、万引き犯を捕らえた店員などの一般人もあったりするようです。

例えばこんなの>
現行犯逮捕直後に死亡 - 元検弁護士のつぶやき

エンタメ!一般!ときどき脱線? 万引き犯が死亡…取り押さえた店員2人逮捕…

その他もいろいろあるみたい
押さえつけ 逮捕 死亡  - Google 検索


これらが全部同一の死因かどうかは判りません。中には頭部外傷によるものとか、高血圧性脳症のようなものとか、そういうのがあるのかもしれませんが、割と健康そうな人が暴れたりして複数で取り押さえられ、暫くその姿勢を取っているうちに死亡している、ということがあるのです。
私が勝手に想像している理由を書きます。
この原因としては、やはり高カリウム血症による致死的不整脈の発生なのではなかろうか、ということです。

機序としては、
・激しく暴れる→筋組織挫滅や破壊→カリウムが血中に出る
・取り押さえた後に同一姿勢で押さえつけ→何らかの還流障害(阻血?)
・偶然還流再開とか阻血が解除される
・再還流後高カリウム血症様の症状を呈する
・致死的不整脈発生

通常は、不整脈が発生した時点では気付かず、その後に急速なポンプ機能低下を生じて、脳虚血となった状態になってはじめて「グッタリした状態」に気付く、ということになるのではないかな、と。僅か数十分前まで、あれ程元気に暴れていたのに、場合によっては「人一倍」とか「これ程暴れている人間を見たことがない」というくらいに暴れていると思ったのに、いきなり死んでしまうとは通常考えられないのです。それが発見を遅らせる要因でもあると思うのです。

これと似た状態で事故が発生しているケースはあります。
例えば、歯科治療を行う際に、強度の抑制を行っている場合です。幼児や知的障害者の治療で抑制具を用いていることはあり、そうした器具が危険ということではないかもしれませんが、偶然にも上記犯人を押さえつけたのと同じような状態に陥る可能性はあると考えています。そうなれば、少し前までは激しく暴れていたのに、いきなりグッタリする、ということになります。実際に治療中の死亡例があり、死因としては薬物によるアナフィラキシーショックとか、そういうのが疑われたのではないかと思いますが、本当に薬物によるショックだったのかどうか、というのは疑問の余地があるのではなかろうか、と思ったりします。


そういうわけで、逮捕などの場合に同一姿勢をとり続けるのは避け、例えば5分程度毎に膝で押さえている場所を変えるとか、うつぶせに押さえているなら、腰の当たりにばかり体重をかけずに、時折頭部を股にして両肩に均等に体重をかけるとか、何らかの工夫をするべきではないか、と。
あと、応援を待つ時間の中で、数分おきに犯人の呼吸(胸が上がるので判る)とか、意識レベル(声を出すか、とか)を確認するように注意した方がよいかもしれません(実行可能であれば、ですが)。一般人が逮捕した場合にも同じで、警察に通報があったなら、犯人を確保しているかどうかを聞くと思いますので、押さえつけの注意について電話で指示した方がよいのではないかと思います。

とは言うものの、実際にこうした抑制と高カリウム血症の関連性が確認されたわけではありませんので、全く別な死因であれば、こうした注意は役立たないかもしれません。全くの見当ハズレかもしれませんし。

が、よく似ていると思っていたのですよ、こういう事例が。
激しく暴れていたこと、無理矢理押さえつけたこと、抑制下で数十分程度の時間経過があること、急に死亡に至ってしまうこと、そういった共通性が見られていることから、「何かあるのではないか」とこれまで感じてきたので。

できれば、専門家の方々によく研究していただければ、と思います。



福島産科死亡事件の裁判・その8

2008年08月28日 19時55分02秒 | 法と医療
警察や検察の反応がいくつか出てきたようです。

21日の吉村警察庁長官が、「判決を踏まえながら医療事故の捜査について慎重かつ適切に対応していく必要がある」と発言したとされる。これは長官側から出されたものか、記者からの質疑の中で答えたものかは判らない。しかしながら、警察当局としては、「慎重かつ適切に」対応していくという姿勢を見せた、と考えてよいものと思います。悪く解釈すれば、単なる模範解答に過ぎず、所謂お役所答弁の一種と取れなくもないが、警察トップの言葉の重みとして受け止めたい。
今後、告訴を受理せねばならない状況があるとしても、いきなり身柄拘束といったような旧来型の捜査手法・段階を選択しない、という可能性は高いかもしれない(ただし、警察が好き勝手に逮捕できるわけではないはずで、逮捕状請求は裁判所に行われるのだから、ここでも裁判所が適切に判断して逮捕拘留の許可を与えなければ防がれるはずなのだが)。


検察の方はどうかといえば、控訴を断念するかどうかの調整中ということのようです。

<大野病院事件>検察、控訴断念へ最終調整 (毎日新聞) - Yahooニュース

(一部引用)

福島県大熊町の県立大野病院で04年、帝王切開手術中に患者の女性(当時29歳)が死亡した医療事故で、福島地裁(鈴木信行裁判長)が業務上過失致死などの罪に問われた産婦人科医、加藤克彦医師(40)に無罪判決(求刑・禁固1年、罰金10万円)を出したことについて、検察当局が控訴を断念する方向で最終調整に入ったことが27日分かった。
(中略)
福島地検が上級庁と協議を進めているが、女性の症状の「癒着胎盤」は症例が極めて少なく、剥離を中断した臨床例の提示も困難なことなどから、慎重に検討しているとみられる。

=====


この記事は、毎日新聞だけが先に掴んだのかもしれません。
結論が出されたわけではないと思いますので、どうなるのかはまだ判りませんが、どうも他の報道などからの雰囲気からしますと、「断念」という可能性が強まりつつある、ということではないかと思います。

◇◇◇


検察で思い出したのですが、読売新聞に出ている「時代の証言者」の今シリーズは、元検事総長の松尾氏なんですよね。とても興味深く読んでいるんですが、私がまだ子どもだった、あの浅間山荘事件の担当検事だったのかと知り、時代や時の流れをじみじみと感じましたよ。同じ時代に生きていて、同じ事件を全く違う立場・角度から眺めている、というのが、なんというか不思議です。


映画の『ダークナイト』でも出てきましたが、正義や正義の味方というのは、どこからもやって来ないし、タダで楽して手に入れられるものではない、ということなんだろうと思うのです。正義の象徴としての「検事」を守るべくバットマンは行動し、あの警官もその正義の象徴を守ろうとする(因みに、あの警官がああなって奥さんや子どもに知らされるシーンがあったけど、涙が滝のように出たぞ)。「我が身可愛さ」や「自己利益」で行動してしまう愚かな大衆、というのを意図的に見せていましたよね。大衆はまさにあのような状態になりがちかもしれない、ということなのでしょう。真実を知らずに、「誰か」をひたすら非難する。生贄として差し出そうとしてしまったりもする。

が、究極の選択を迫られても、人々は「心の底から悪になれる人は滅多にいない」ということを知るのです(いや、中には根っからの悪人が存在するかもしれんけど、とりあえず)。やはり人間として踏み越えられない一線というのがあるのだ、ということなんですよね。そして正義というのは「ヒーロー(誰か)に与えられる」のではダメなのだ、人々が自ら気付き、選択し、行動しなければ、決して得られないのだ、与えられるものではなく勝ち取るものだ、ということなんですよね。全ての検事に、この映画を(笑)。



福島産科死亡事件の裁判・その7(続)

2008年08月24日 16時53分22秒 | 法と医療
4 司法(裁判所)への不信

これまで、医療側から司法側に痛烈な批判というものが出され、トンデモ判決とかトンデモ裁判官とかについても同じく批判の対象とされていたと思います。

以前に「判決文というのは研究論文のようなもの」と書いたことがあります。
司法の「品質管理」を問う

こうした論文の結果については、ごく一部に評釈等があるものもありますが、多くが「スルー」されてきたのではないかと思っておりました。そうであるなら、どうやって検証されているのか、ということが判らなかったのです。医療側が司法への不信感を抱くのは、患者側に医療不信があるのとあまり変わりがないのではないかと思います。法学素人ゆえの知識や理解の不足もありますし、誤解を生じたりしていることもあろうかと思います。ある程度理解力が高いであろうと予想される医師たちをもってしても、専門外の分野のことになれば、一般国民が医療についてよく知らないのと同じく「知らない、判らない、よく理解できない」ということが起こってしまうものなのだ、ということです。

恐らく大多数の裁判では「問題なく行われている」のかもしれませんが、いくつかの不可解な(納得できない?)判決が医療裁判にはあるということから、厳しい批判が出されるものと思います。そういう判決が出されることの是正方法が、医療側からしてみると全く見出せないということも、余計に「特定裁判官への非難、人格批判」とか「司法全体への不信」という形で現れてしまうのかもしれません。

しかしながら、いくつかの行き違いなどはありましたが、法曹の方々のご尽力(モトケン先生のところをはじめ、法曹・法学関係の方々)とか、医療側が一体何を言いたいのかということの対話の積み重ね等により、何かが伝わっていったのではなかろうかと思っております。

やはり一番大切だと思ったのは、まず相手側主張を理解していこうとすることではないかと思います。それは「判決文」という形で司法側の見解(判断)が示されているわけですから、これを自ら知るようにすることと理解に努める以外ににはない、ということです。出発点は、ここにあるのです。その上で、指摘すべき点をきちんと「相手側にも判るように」提示し、その論点について討議を重ねていくとか、もっと判りやすく説明できるように試みるとか、そういう努力を必要とするのではないかな、ということです。それをせずに、ただ単に「○○判事はトンデモだ」とか「資質に問題がある」だのといった非難を浴びせても、有意義とも思われません。少なくとも、「相手側の土俵」で勝負するということが必要であり、割と有効なのではないかな、と思います。医療側が「医学の常識」だけを持ち出しても、司法の土俵ではないので、相手には通じないとか理解してもらいにくい、ということだろうと思います。
まあ中には、よく知りもしないのに、経済関連の人が最高裁判事に的外れな文句を並べたり、逆に法学関連の人が経済分野に論破を挑むことはあるようなので、医療に限ったことではないかもしれません(笑)。なので、医師たちが司法に文句を言うのは、それ程特別なことではない、ということでしょうか。

いずれにせよ、司法側が理解してくれるようになってきたのではないか、と思っていいのではないでしょうか。そうであるなら、必要以上に不信感を募らせる必要性はないのではないか、と思います。「以前とは違うんだ」と、肯定的に受け止めていくことが双方の利益になると考えます。


5 福島地裁判決

新聞報道の要旨から前の記事を書きましたが、詳細版があったようです。
大野病院事件判決要旨詳細版 - 元検弁護士のつぶやき

細かい内容の前に、立論のやり方という点について。

以前のやり取りは無駄ではなかった、と内心思っています。
司法の品質管理を問う~3の補足編

本件での「検察側立証」というのも同じで、「主張するなら、根拠を提示せよ」という、ごく当たり前のことが判決でも生きています。どの裁判であってもそれが守られているのかもしれませんけれども。議論の時でも同じで、何かの主張(仮説なり命題なり)を提示するのであれば、その立論を自らが行うべきだということです。この記事にも書いた通りです。

根拠を提示せよ、というのは、「悪意の受益者」と推定されうる貸金業者で取り上げた「合理的根拠」の提示、ということと同じような意味でしょう。「文献的なもの」(学説、論文等)とか、「複数例(判例、症例、…)」といった、ある程度合理的とみなされる根拠ということです。本件判決において、それが検察側に求められたのです。


判決要旨を読めば裁判所の言わんとしていることが、よく判ると思います。

予見可能性と結果回避可能性については、裁判で出された「事実認定」に基づいて判断されています。主張内容として、弁護側とか検察側とか、そういう偏りはなく、きちんと積み上げられていると思います。

例示としては適切ではなかったかもしれませんが、以前に書いた記事がコレです>医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

判示されたのが予見可能性、(結果)回避可能性ともに肯定、ということであるのは、上記参考記事の例で考えてもよく理解できる。予見できた可能性を考えるのであるから、予見可能であったということになるし、回避可能性についても「現実に回避している実例がある」ということなのだから、回避可能性はあった、ということになろう。ただ、これまで回避できた人もいた(=結果回避可能性あり)、ということと、本件で「回避できたハズ」ということは違う、ということだ。

課せられる義務(=行うべき回避技術)の水準としては、多くの船頭が行う回避技術をもってすればできるものでなければならず、神業的な回避技術ではない、ということ。このことは、この中で触れたように、一般性及び通有性を満たす水準でなければならない、ということ。それが医学的準則なのだ、ということです。

一部医療側には、この医学的準則から外れた医療行為が違法認定されるんじゃないか、というような誤解が生じているようですけれども、そういうことを判決で示しているわけではありません。医療行為について、裁判所が決められるわけではないからです。どのような治療法であろうとも、「医師が行おうとする行為」は原則的には違法とはなりません。具体的な禁止行為は決まっていないでしょう。ただし、どんな治療法を採用してもよいが、その為にはクリアするべき義務があるのであり、例えば「患者の同意を得る」(説明義務)とか「治療法に熟知・熟達している(それが無理ならアクシデントに備えてリカバリー体制を十分確保しておく)」というようなことです。その他大勢の医師にとっては「難しすぎる」というような手術法であるとか、日本ではまだ一般的には広まっていない方法であるとか、そういう医療行為を行うことに何らの禁止規定はないが、行うに当たり注意すべき点はしっかり守ってやって下さいね、ということです。


最後に、医療側の人たちこそ、本件判決文を繰り返し読んでおくべきかと思います。中身を吟味すれば、裁判所がどのように考えて判決を書いたのか、ということが伝わってきますし、何をどのように説明すると司法側に判ってもらえるか、ということのヒントがつかめるかもしれません。



福島産科死亡事件の裁判・その7

2008年08月23日 17時48分16秒 | 法と医療
判決が出たこともあり、少し整理してみたい。
(あくまで個人的感想について縷々述べるだけですので、ご了承下さい。)


1 警察や検察への批判

これまでにも幾度か書いてきたと思うが、拘留するべき事件であったのかということについては疑問がある。
が、警察や検察は、医師に対して「特別な悪感情や処罰感情を抱いて」、本件逮捕や拘留を行ったというわけではないだろうと思われる。医療を目の敵にして、「こいつを檻にぶち込んでやるぜ」みたいな感情をもって逮捕したわけではないはずだ、ということ。

恐らくは、遺族側感情への配慮とか、マスメディアが動いている以上「野放し」にはできない(拘留しないでおく、という意味であり、犯罪者を放置しておくといった意味ではない)というような事情があったりもしたであろう、と想像される。
この事件を知ったキッカケを書いたことがある(プロフェッショナルと責任)が、警察や検察は何が何でもやりたくて「捜査着手、逮捕、拘留」したのではないだろう。そうであるなら、警察や検察への非難をいくら浴びせてみても分かり合えなくなるだけなので、「逮捕、拘留期間が長すぎる」「医療措置の理解が低劣である」(これは言い過ぎか、笑、「理解が不十分である」の方がいいかも)という具体的指摘に留めておくべきかと思う。

医療側が「警察(or検察or裁判所or司法)は日本の医療を崩壊させる気だ」みたいに、誰も言ってない・主張していないこと(そうした企みでもあれば別だが)を非難してもはじまらない(→オレか)。そういう大袈裟な意見は、悪影響はあっても、役には立つことはない。「裁判官は貸金業界を崩壊させる気か」(笑)みたいなものも同じ。

なので、ネット上で意見を述べている医療側(若しくは賛同側)の人たちに是非言っておきたいのは、必要以上に相手を責めるのは逆効果となるだけで、何ら得られることはないので程ほどにしておくべきということです。私から見た感じでは、一部の方々には人権擁護法案頃に見かけた「悪印象の方々」と近いものがあると思います。多くの場合には、誤った情報で大騒ぎする、誤った主張を繰り返してしまう、敵側(笑)を単なる決め付けで叩こうとする、みたいなことでしょうか。

もしも自分が検察官で今回の事件を担当していたとすれば、やはり起訴していたかもしれない。
何故なら、検察官の「手持ちのカード」には弁護側証人のような医師はおらず、病院の出した事故調査結果が残されていたのだから、非があるように見えたのは医師であり、過失があったと疑われるのであるから、起訴していたかもしれない、ということだ。もっと大きな要因としては、何らの落ち度もなく命が失われてしまった、ということを、強く感じるかどうかだと思う。恐らくこの検察官は、人間味のあるいい人なのではないかと思う(いい人だから起訴していい、とか言うのではありませんが)。だからこそ、起訴に踏み切ったんだろうな、と。

私はたまたま出産に伴う危険性というものについて、少しは判る部分があったから、これまで記事に書いてきたが、そういう情報や知識を持たずに事件を俯瞰してしまえば「起訴するのが妥当なのではないか」と考えたとしても不思議ではない、と思う。

ただ、検察官には僅かなチャンスがあった。
起訴する前に、「被告人が語る知識」や「証拠・鑑定結果」などから得る知識以外に、もっと医療や医学について知るべきであったし、知っておけば起訴には踏み切らなかったかもしれない。検察官が得られた情報というのは、断片的知識でしかなく、そのピースからは検察官が組み立てた論理構成となってしまうのかもしれないが、「現実」はもっと複雑で欠けているピースが多かった、ということだと思う。予想以上に欠けていたんです。それが「人体の複雑さ」、つまりは医療の複雑さを示しているのだろうと思う。そういう想像力が足りなかったか、「実は他にも隠されたピースが存在しているんじゃないだろうか」という慎重さが足りなかったのではないのかな、と。他の人間が組み立てた構成(例の事故調査報告みたいなの)を安易に採用すると、ハマる場合があるのだ、ということでは。
「ヒマワリか、アサガオか」ではなく、「本当は別な花なんじゃないか?」という素朴な疑問を見落としてはいけない、ということかと。本当はパンジーかもしれない、という疑いの目を忘れるべきではないと思う。


2 マスメディアへの批判

これは私も度々書いてきました。分野を問わず、酷評を繰り返してきました。なので、人のことは言える立場にないわけですが、敢えて申し上げるとすれば、やはり上の警察や検察への批判と同じでやり過ぎは良くない、ということではないかと思います。少なくとも、「自分の意見や考え」を誰に届けたいか、ということを考えておくべきではないかと思います。最終的に、大勢の国民に知ってもらいたいと考えているのであれば、「マスメディアを利用するかどうか」という点については考慮が必要かと思います。マスメディアになんて広めてもらう必要性なんかない、と考えているのであれば、徹底的に叩いておこうとゴミ呼ばわり(笑)しようと自由でいいと思いますが、ネット上の活動や現実にビラ撒きなどで大勢の国民に知ってもらうことは、現在でも割と難しいと思っています。

私の場合は「自分が極めて非力」であることを知っているので、マスメディアの方々に届くのであればそこからもっと大勢の方々に効率よく伝わると考えており、マスメディアの持つ役割についてはかなり肯定的です。そうは言っても、ありとあらゆる部分を批判してきましたので、「お前の言うことなんて誰が聞くかよ!」とお叱りを受けるだけかもしれず、実際にどうなのかというのは判らないのですけれども(笑)。

「医療崩壊」がマスメディアの中で広く取り上げられるようになったり、特集記事や番組が組まれたり、ドラマが作られたり、といったことは、全て「マスメディア」がやってくれていることです。厳しく「マスゴミ批判」はするけれども、そういうことへの評価をしない、というのも疑問に思うのですよ。医療側がいくらマスコミ叩きをやったところで、何が変わると考えているのでしょうか?悪辣な文句を言えば、「スミマセン、改めます」という風になることを期待しているのでしょうか?この図はどこかに見覚えがありませんでしょうか?まるで暴言を吐くモンスター何とかと、ほぼ同じようなものなのではありませんか?これでは、大勢の国民に理解が得られるようになるとは、とても思えないのです。「医者はウソばかり言いやがる!何とかしろ!」と凄まれ、医師が「申し訳ありません、改めます」ということですか?少数例の失敗を殊更取り上げられて、そのことを理由として「医者はウソばかり言う」と全員一緒に非難されるのは妥当なのでしょうか?

指摘すべき部分については、具体的に「これこれが間違いなんじゃないか」「ちょっと現実と違うよ」とか、記事や報道を批判した方がいいと思えます。全部が間違っているわけではないのなら、あまり抽象的にレッテルだけ貼って攻撃するのは止めておくべきかと思います。これは司法への不信とか、不満についても同じではないかと思います。ある医療裁判の事件だけをもって、「お前も同じ医者だから批判されるのは当然」と言われて反発するのであれば、同じくマスメディアにしろ司法にしろ反発はあるものなのだ、ということを念頭に批判を展開すべきかと思います。マスメディアの人が抱く程度の疑問に答えられないとか、彼らを説得できない(賛同を得られない)という意見であるなら、それは対象が多くの一般国民であったとしてもやはり難しいことなのかもしれない、ということは考えておくべきでしょう。

そもそもマスコミが、遺族の味方をしているんだ、医療叩きをやっているんだ、というのは、受け手の印象でしかないのであり、普通の人たちにとっては医療裁判や医療事故の記事ばかりを何本も読んだりしている人は少数派ではないかと思います。しかし、医療側の人間であると「とても気にしている」のでそこばかりに目が行くし、「またこんな記事が…、報道が…」という風に感じると思いますけれども、普通の人たちには同程度に知られていないということは少なくないでしょう。マスメディアにとって「医療が敵」なわけではありません。が、そういう勘違いのような感情を持つことの意味はないように思います。ただ、ニュースバリューという点では、関心の高さということからマスメディアにとっては「扱いたい分野」であると思います。

医療側の感情的意見ではなく、有識者のご意見をまず知ることをお勧めします。
権丈慶大教授の医療不信に関する論説を読んでみてください。

こちら>勿凝学問48
http://news.fbc.keio.ac.jp/~kenjoh/work/korunakare48.pdf

<寄り道:
最近の医療ドラマで『tomorrow』の話を取り上げたのですが、フジ系の『コードブルー』というのもあったそうで、先日観てみました。芸能記者?あたりから、山ピーの表情が単調だのという完全な的外れのご意見があったやに聞き及んでいますが、あれは完璧に演出でしょう。そもそも「笑ってはいけない」という役作りでありましょう。それは何故かと言えば、救急ですので「心を凍らせた」のですよ、山ピーは。人が死ぬからです。命が消えてゆくことの辛さ・厳しさ・哀しさ、そういったものを心の底から感じてしまったからでしょう。だから、自分の心を押し潰されない為の「防衛反応」として、心を閉ざしたというか感情を捨てたというか鉄壁ガードで固めた結果なのです。そうでなければ、職務を遂行できないから、でしょう。そういう医師像を描いているのが山ピーで、常に淡々としていなくてはならない、迷いや苦悩の表情といったものを完全に消し去らねばならない、自分の感情を表に出してはならない、ということを忠実に演じているのだと思います。
なのに、これを「表現力が足りない、顔が平板」とか何とか言われたら、役作りにならんわな(笑)。記者さんの鑑賞能力に疑問を抱くね。一瞬の「微かな逡巡」のようなものを、顔つきや目の動きだけなどから演じなければならないので、一番難しいんだと思いますよ。女医が泣くとか、慌てるという方が(怒るでも、笑うでもいいんですが)、まだ演じ方がハッキリしている分だけ容易だと思うけど。
しかし、一緒に観ていたウチの妻は言っていたよ。「あんな美男美女の病院があったら、仕事にならん」と。大爆笑。確かに。可愛い女医さんや看護師多すぎ。医師もカッコ良すぎ。なので、キャーキャーしちゃったりして、用事もないのにやってくる患者とか「○○先生を指名で」とかの勘違いさんなんかも大勢現れそう。ああいう病院があったら、私も一度は行ってみたい(笑)。>


3 遺族のご意見

医療側の中には、遺族に対して厳しい意見や若干問題と思われる意見があるように見受けられます。ある面では正当なのかもしれませんが、「誰かが答えていない」からこそ、未だに解消されない疑問のようなものがあるのではないかと思います。ご遺族に批判しても、問題解決には繋がりません。むしろ、態度をより硬化させるだけかと思います。それよりも、「何を問題としているのか」ということを理解しようとする以外にはないのではないかと思います。

具体的に言えば、「他の凄く上手な医師がやっていたなら、助かっていたんじゃないか」というような疑問に答えることです。
仮にそう質問されたとしても、「判りません、答えようがありません」としか言えないだろうというのは、常識的に考えれば判るのですが、遺族にしてみるとそれが「納得できない」ということなのかもしれません。「実際にその場面になってやってみないと判りません、何ともいえません」ということの意味が、中々伝わり難いのかもしれません。

喩えとして変かもしれませんが、オリンピックの体操競技で鉄棒をやる場合、みたいなことでしょうか。
練習では9割以上成功する「ある技X」を、A選手が本番にやるという場合に、やる前から「失敗しないと言え」ということかな、と。同じ技をもっと上手な他のB選手がやったら、「必ず成功できる」と言ってくれ、とか。どちらも「本番になって、実際にやってみないと結果は判らない」ということなのですが、遺族にしてみれば何故か「いつも練習しているんだから、やる前から必ず成功できると判るはずだ」という意見になってしまうのではないかと思います。いつも出来ているんだから、オリンピックの時にだって出来るのは当然だ、と。つまり、遺族にとって「最善の医療」とは、「オリンピックで金メダルの選手」がある技Xをやればいい、ということなのです。ごく普通のA選手が技Xをやるのは「ケシカラン」と。これは最善ではないのだから、やるべきではない、と。

もしこうしたご意見に沿うのであれば、技Xをやっていい人というのはかなり限られてしまいます。金メダル選手であっても、失敗することは当然あります。競技を見ていれば判ると思いますが、有力選手であっても、思いもよらぬミスをしてしまい、メダルを逃すことは珍しくはありません。なので、いかに「金メダル選手にやって」とお願いしたとしても、百発百中で必ず成功できる、とは断言できないのです。更に、やっていいよ、という人を10人以下に絞ったとして、日本の産科を全部カバーできるのかといえば、それは無理です。つまり「メダル級以外の選手にもやってもらおう」ということにしない限り、日本の出産全部を賄いきれないのです。メダル級じゃなきゃ絶対ダメだ、というご意見なのであれば、それを同時に表明してもらうべきでしょう。

他には、「もしあの時、こうしておけば…」とか「こういう選択をしていたら…」とか、そういう後悔が残っているということなんだろうと思います。「もし別な病院へ行っていたら」とか「手術はやめますと言っていたら」とか、そういうことです。こうした後悔が大きいというのは、人間の特性でもあるでしょうから、中々解消は難しいのだと思います。自分の子を失ったことを思えば、その後悔がどれほどのものかというのは筆舌し難いでしょう。そういう後悔が、頭にこびりついて離れないんだろうと思います。しかも事件が終わるまでは、繰り返し繰り返し蘇ってくるのですから。もう少し突き詰めて行きますと、「自分は悪くなかった」という感情なのではないかと思います。自分の選択が悪かったせいではない、「他の誰かが悪かったんだ、他の原因があったんだ」ということです。そういうことでしか、自分を納得させられないのではないかな、と。

私が乗り物を予約したとします。家族の分も一緒に予約するのです。で、妻が「この日には~があるから時間の都合が悪いわ、他の時間に変えてくれないかしら」と言ったとして、私が「いや、この日は~~だから、どうしてもこの時間に乗らないと間に合わないんだ」と答えたと。その時間に乗ってしまったが為に乗り物は事故に巻き込まれ、自分の子どもが死んだとしましょう。私はどう思うだろうか?
あの日、「時間を変えておけばこんなことにはならなかった」と自分の選択結果を呪うでしょう。「何故あの時…」と、いつまでもいつまでも自分の予約した行為を責めるでしょう。妻の言うことを聞いておけばこんなことにはならなかった、と悔やみきれないけれども、後悔し続け、自分を責めるでしょう。けれども、「自分のせいじゃない、乗り物の運転手がミスしたからだ!」と、原因を他に求めることができるのであれば、「運転手のせいだ」と責めることで自分の救済となすしかないのではないか、ということです。実際のところ、そういう感情なのかどうか判りません。が、「娘が死んだのは○○のせいだ」と強い権威をもって「言って欲しい」ということなのではないかな、と。

「パイロットのせいだ、だからお前が悪い」ということが社会的にも明確になれば、「こうしておけばよかった」という後悔の念が若干でも軽減され、心が救われるのではないでしょうか。そういうようなことがあるのではないかな、と思います。

専門家である医師たちから見れば、遺族の意見が無理筋であるとか、医療への理解が不十分であると感じたとしても、それをなじるだけでは解決されないので、非難していることの意味が判らない。
遺族の疑問を解消する方向を考えない限り、対立が深刻化していくだけなのであり、「どうして判らないんだ」ということをいくら責めてみてもしょうがない。

なので、遺族の感情を逆撫でするような意見は慎むべきではないか。



長くなったので、とりあえず。



福島産科死亡事件の裁判・その6(追加あり)

2008年08月20日 10時17分57秒 | 法と医療
ニュース速報で知りました。

無罪判決が出たようです。
詳しいことはネットでのニュース配信後に。

とりあえず。



判決要旨が出ていたので、追加です。

asahicom(朝日新聞社):福島県立大野病院事件の福島地裁判決理由要旨 - 社会

(一部引用、丸数字は筆者による)

●医学的準則と胎盤剥離中止義務について

(中略)
①本件ではD、E両医師の証言などから「剥離を開始した後は、出血をしていても胎盤剥離を完了させ、子宮の収縮を期待するとともに止血操作を行い、それでもコントロールできない大量出血をする場合には子宮を摘出する」ということが、臨床上の標準的な医療措置と理解するのが相当だ。

(中略)

②医師に医療措置上の行為義務を負わせ、その義務に反した者には刑罰を科する基準となり得る医学的準則は、臨床に携わる医師がその場面に直面した場合、ほとんどの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度の一般性、通有性がなければならない。なぜなら、このように理解しなければ、医療措置と一部の医学書に記載されている内容に齟齬(そご)があるような場合に、医師は容易、迅速に治療法の選択ができなくなり、医療現場に混乱をもたらすことになり、刑罰が科される基準が不明確となるからだ。

(中略)

③また、医療行為が患者の生命や身体に対する危険性があることは自明だし、そもそも医療行為の結果を正確に予測することは困難だ。医療行為を中止する義務があるとするためには、検察官が、当該行為が危険があるということだけでなく、当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならず、このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠だといえる。

 しかし、検察官は主張を根拠づける臨床症例を何ら提示していない。被告が胎盤剥離を中止しなかった場合の具体的な危険性が証明されているとはいえない。

 本件では、検察官が主張するような内容が医学的準則だったと認めることはできないし、具体的な危険性などを根拠に、胎盤剥離を中止すべき義務があったと認めることもできず、被告が従うべき注意義務の証明がない。

=====


ポイントと思った部分を順に見てみます。

<①の部分について>

検察側の根拠となるべく「鑑定医」の証言は採用せず、弁護側証人である2名の医師の証言を採用。『臨床上の標準的な医療措置』についての基準を示したものである。その採否により、医師が「どのような義務を負うのか」ということが分かれることになるので、この判断は重要であった。

弁護側が鑑定に真っ向から挑戦していなければ、検察側証人(鑑定医)の出した意見が採用され、負けていたかもしれない。弁護方針は正しかったものと思う。


<②の部分について>

・医学的準則は一般性、通有性がなければならない:
一般性及び通有性とは、「臨床医師がその場面に直面した場合、殆どの者がその基準に従った医療措置を講じているといえる程度」のもの

つまり、「こういう場面では、殆どの者がこういう医療措置を行っている」という程度の一般性及び通有性が認められるものであるはず、ということだ。だから、「その程度の医療措置を行う」ことが、医師に課せられる「義務である」ということになる。行為基準の義務とは、要すれば「殆どの医師がそうしているよ」というものである、ということであって、所謂「神業的な行為」を基準とはしていない、ということだ。この判示は大きな前進であると思われる。


<③の部分について>

ア)当該行為を中止しない場合の危険性を具体的に明らかにしたうえで、より適切な方法が他にあることを立証しなければならない
イ)このような立証を具体的に行うためには少なくとも相当数の根拠となる臨床症例の提示が必要不可欠


まず第一に、より適切な方法が他にあることを立証するべき、ということ。検察側立証ではそれが不十分だった、と。
そもそも「より適切な方法が他にある」ということを示す為には、上記②の検討で見たように、「一般性及び通有性のある医療措置」として提示しなければならない、ということ。平たく言えば、「他にこういういい方法があるよ」と示せるでしょ、ということだ。
で、その「他にあるいい方法」というのが臨床上一般性及び通有性があるのであれば、「そういう臨床例が実在しているでしょう、だから、その実例を提示してごらんなさい」ということだと思われた。なので、「根拠となる相当数の臨床症例」があるならそれを提示すべき、と。

最後のところは、検察側立証ではア)やイ)がなかった、なので検察側が主張した医療措置というのは「医学的準則」に該当するとは判断できず、よってそのような義務を負わせることはできない(=注意義務違反を問うことはできない)、と。



かなりよく検討された判決だと思いました。
いずれ全文が出るかもしれませんので、出たら拝読したいと思います。



法律家にお願いしたいこと

2008年08月06日 21時14分53秒 | 法と医療
モトケン先生のコメント欄経由で知りました。

MRIC 臨時 vol 105 「診療関連死の死因究明制度創設に係る公開討論会」に参加して

(以下に一部引用)

 ここで、法案大綱の内容について、一点のみ、極めて重大な問題があるので指摘したい。それは、大綱では新たな刑事処罰規定が登場しているという点である。第30の(1)~(5)である(他にも刑罰規定はあるが、この規定に絞って述べる)。

 これらは、虚偽報告罪、検査拒否罪、虚偽陳述罪、関係物件提出拒否罪などと呼称してもよい新たな刑罰規定であるが、明らかに憲法上の基本権を侵害する憲法違反の規定なのである。現行憲法上、供述を強制されないことは基本的人権として保障され(38条、黙秘権保障)、また、所有物をむやみに捜索押収されないことも基本的人権として保障されている(35条、令状主義)。「何人(なんびと)」に対しても保障された権利である。大綱のこれら新たな処罰規定は、このような憲法上の基本権を正面から否定するものと言ってよい。

 憲法上のこれら基本権は、何人にも保障されているのであるから、極端なことを言えば、組織的暴力集団やテロリストにも保障された権利である。なのに、何故、医療者だけがこれら憲法上の権利を制限されるのであろうか。黙秘権保障、令状主義が、医師・医療関係者については格別保障されなくてもよいと考える理由を昨日のシンポで、是非とも法案大綱に賛成される立場の方に尋ねたかったのである。

 大野病院事件の悪夢が亡くなるという根拠のない安易な妄想によって、組織的暴力集団やテロリスト以下の立場に医療者を置こうとしていることに気づいているのであろうか。まさに本末転倒、「角を矯めて牛を殺す」の類である。

 なお、討論会では、医療者側から、「医療不信、医療不信」という言葉が連呼されていたが、これも根拠ない誇大妄想に医療界全体が陥っていると言えないか。我が国において、圧倒的に多数の患者(=国民)は、医師から受けた医療に満足し、感謝して帰っている。このような日常の「声なき声」を聞き取れない人たちには新たな制度設計など任せられない。極端な病理的現象上の議論をもって、通常の生理的現象に当てはめようとすることは、容易に生理を病理に変質させるという、大いなる誤ちを招来することになる。医療崩壊という現象を助長することは明らかである。

====

恐らく医療崩壊を防ごうという立場から活動されている弁護士の方ではないかな、と思いましたが、法曹の中にもこうした医療への理解を示しておられる方がおられることは心強い限りではないかと思います。医療従事者以外に理解を求めていくということは、中々大変なことであると思いますので。

大野病院事件に強い危惧をお持ちであることは文章を拝見すれば一目瞭然で、医療へのご理解を頂いていることはよく判ります。医療者は法学の基礎的知識や理解が十分ではないことはよくあり、できれば法曹の方々には正しい知識を広めてもらえるようにと思い、記事に書いてみます。法学素人の人間が弁護士の方に申し上げるのが差し出がましいということも重々承知の上で書きますので、ご容赦願います。


ご指摘の「大綱では新たな刑事処罰規定が登場しているという点」で、「これらは、虚偽報告罪、検査拒否罪、虚偽陳述罪、関係物件提出拒否罪などと呼称してもよい新たな刑罰規定」と述べておられます。これが憲法違反規定ということで、38条の黙秘権や35条の令状主義に反する規定であるとする見解ではないかということです。「何故、医療者だけがこれら憲法上の権利を制限されるのであろうか」と厳しく糾弾されておられるのですが、これは誤解ではないかと思います。

行政側への報告、検査、質問等への返答、関係物提出という規定は、様々な法令で一般的に見られる条文です。業種等に大きな違いというはあまりなく、基本的には行政側に広範な権限が与えられています。一般社会でよくありがちなのは、消防の検査なんかでしょうか。所管省庁の行政職員には「捜査権限」は附与されませんが(当たり前ですが)、行政上の管理権限として各種の調査・検査・質問・報告を徴する等があります。裏を返せば、行政側に不作為を問うことが行われるのもその為ではないでしょうか。ありがちなのは、「何故問題企業を調査しなかったんだ、立入検査を行えば防げたはずだ、調べて営業停止処分にするべきだった」などといったご意見でしょうか。

話を戻しますが、ご指摘の「虚偽報告罪、検査拒否罪、虚偽陳述罪、関係物件提出拒否罪などと呼称してもよい新たな刑罰規定」というのは、ほぼ定型的な条文であると思いますので、以下に例示してみます。


まず銀行法。

○銀行法 第六十三条
次の各号のいずれかに該当する者は、一年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。
一  第十九条、第五十二条の二十七又は第五十二条の五十第一項の規定に違反して、これらの規定に規定する書類の提出をせず、又はこれらの書類に記載すべき事項を記載せず、若しくは虚偽の記載をしてこれらの書類の提出をした者
(中略)
二  第二十四条第一項(第四十三条第三項において準用する場合を含む。)、第二十四条第二項、第五十二条の七、第五十二条の十一、第五十二条の三十一第一項若しくは第二項若しくは第五十二条の五十三の規定による報告若しくは資料の提出をせず、又は虚偽の報告若しくは資料の提出をした者

三  第二十五条第一項(第四十三条第三項において準用する場合を含む。)、第二十五条第二項、第五十二条の八第一項、第五十二条の十二第一項、第五十二条の三十二第一項若しくは第二項若しくは第五十二条の五十四第一項の規定による当該職員の質問に対して答弁をせず、若しくは虚偽の答弁をし、又はこれらの規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者

四  第四十三条第一項(同条第二項において準用する場合を含む。)の規定による命令に違反した者

五  第四十五条第三項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避し、又は同条の規定による命令に違反した者

六  第四十六条第三項において準用する第二十五条第一項の規定による当該職員の質問に対して答弁をせず、若しくは虚偽の答弁をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避した者

八  第五十二条の三十七第一項の規定による申請書又は同条第二項の規定によりこれに添付すべき書類に虚偽の記載をして提出した者
(以下略)


医師ばかりではなく、公認会計士でも同様です。

○公認会計士法 第五十三条
次の各号のいずれかに該当する者は、百万円以下の罰金に処する。
一  第三十四条の二十五第一項の登録申請書又は同条第二項の書類に虚偽の記載をして提出した者

二  第四十六条の十二第一項又は第四十九条の三第一項の規定による報告若しくは資料の提出をせず、又は虚偽の報告若しくは資料の提出をした者

三  第三十四条の五十一第一項、第四十六条の十二第一項又は第四十九条の三第二項の規定による立入検査を拒み、妨げ、又は忌避した者
(以下略)

○同法 第五十三条の三
次の各号のいずれかに該当する者は、二十万円以下の罰金に処する。
一  第三十四条の四十七第一項の規定による参考人に対する処分に違反して出頭せず、陳述をせず、又は虚偽の陳述をした者
二  第三十四条の四十七第二項又は第三十四条の五十第三項において準用する民事訴訟法第二百一条第一項 の規定による参考人又は鑑定人に対する命令に違反して宣誓をしない者
三  第三十四条の四十九第二項の規定による物件の所持人に対する処分に違反して物件を提出しない者
四  第三十四条の五十第一項の規定による鑑定人に対する処分に違反して鑑定をせず、又は虚偽の鑑定をした者

○同法 第五十五条
次の各号のいずれかに該当する者は、三十万円以下の過料に処する。
一  第三十三条第一項第一号の規定(第十六条の二第六項、第三十四条の十の十七第三項、第三十四条の二十一第四項、第三十四条の二十一の二第七項及び第三十四条の二十九第四項において準用する場合を含む。)による事件関係人又は参考人に対する処分に違反して出頭せず、陳述をせず、虚偽の陳述をし、報告をせず、又は虚偽の報告をした者

二  第三十三条第一項第二号の規定(第十六条の二第六項、第三十四条の十の十七第三項、第三十四条の二十一第四項、第三十四条の二十一の二第七項及び第三十四条の二十九第四項において準用する場合を含む。)による鑑定人に対する処分に違反して、出頭せず、鑑定をせず、又は虚偽の鑑定をした者

三  第三十三条第一項第三号の規定(第十六条の二第六項、第三十四条の十の十七第三項、第三十四条の二十一第四項、第三十四条の二十一の二第七項及び第三十四条の二十九第四項において準用する場合を含む。)による物件の所持者に対する処分に違反して物件を提出しない者

四  第三十三条第一項第四号の規定(第十六条の二第六項、第三十四条の十の十七第三項、第三十四条の二十一第四項、第三十四条の二十一の二第七項及び第三十四条の二十九第四項において準用する場合を含む。)による立入検査を拒み、妨げ、又は忌避した者



事故調と似た組織の公取でも同じです。

○独占禁止法 第九十四条
次の各号のいずれかに該当する者は、一年以下の懲役又は三百万円以下の罰金に処する。
一  第四十七条第一項第一号若しくは第二項又は第五十六条第一項の規定による事件関係人又は参考人に対する処分に違反して出頭せず、陳述をせず、若しくは虚偽の陳述をし、又は報告をせず、若しくは虚偽の報告をした者

二  第四十七条第一項第二号若しくは第二項又は第五十六条第一項の規定による鑑定人に対する処分に違反して出頭せず、鑑定をせず、又は虚偽の鑑定をした者

三  第四十七条第一項第三号若しくは第二項又は第五十六条第一項の規定による物件の所持者に対する処分に違反して物件を提出しない者

四  第四十七条第一項第四号若しくは第二項又は第五十六条第一項の規定による検査を拒み、妨げ、又は忌避した者



医療関係でも、同様な罰則は昔からありました。

○健康保険法 第二百八条
事業主が、正当な理由がなくて次の各号のいずれかに該当するときは、六月以下の懲役又は五十万円以下の罰金に処する。
一  第四十八条(第百六十八条第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、届出をせず、又は虚偽の届出をしたとき。

二  第四十九条第二項(第五十条第二項において準用する場合を含む。)の規定に違反して、通知をしないとき。

三  第百六十一条第二項又は第百六十九条第七項の規定に違反して、督促状に指定する期限までに保険料を納付しないとき。

四  第百六十九条第二項の規定に違反して、保険料を納付せず、又は第百七十一条第一項の規定に違反して、帳簿を備え付けず、若しくは同項若しくは同条第二項の規定に違反して、報告せず、若しくは虚偽の報告をしたとき。

五  第百九十八条第一項の規定による文書その他の物件の提出若しくは提示をせず、又は同項の規定による当該職員の質問に対して、答弁せず、若しくは虚偽の答弁をし、若しくは同項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避したとき。

○同法 第二百九条
事業主以外の者が、正当な理由がなくて第百九十八条第一項の規定による当該職員の質問に対して、答弁せず、若しくは虚偽の答弁をし、又は同項の規定による検査を拒み、妨げ、若しくは忌避したときは、六月以下の懲役又は三十万円以下の罰金に処する。

○同法 第二百十条
被保険者又は被保険者であった者が、第六十条第二項(第百四十九条において準用する場合を含む。)の規定により、報告を命ぜられ、正当な理由がなくてこれに従わず、又は同項の規定による当該職員の質問に対して、正当な理由がなくて答弁せず、若しくは虚偽の答弁をしたときは、三十万円以下の罰金に処する。



単に反対の立場とする前に、できれば全体について理解を深めて頂き、医療者の理解不足の部分は専門家である法曹の方々が正しく解説してもらえれば、問題点が絞り込めていくのではないかと思われます。修正すべき部分があるならば、そこはよく議論をしていけばいいと思います。医療者を組織的暴力集団とかテロリスト以下に貶めるつもりなのか、というような手厳しい批判は当たらないのではないか、ということをまずご理解下さればと思います。医療者と同じく「医療崩壊を食い止めねばならない」という立場を取るのに、過った批判を掲げれば同じ立場の人間たちが同様の「誤解集団に過ぎない」といった逆効果を生むことになりかねず、できるだけ誤りのない批判を心掛けていただければと思います。このことは、医療者側にある各種批判や反対意見についても同様であると思います。


最後に、医療不信の連呼を見咎められていますけれども、今世紀以降の医療への厳しい目というものを医療者側が実感する故ではなかろうか、と思ったりします。勿論、マスメディアの喧伝効果のようなものもあるのかもしれませんが、国民には「医療不信」があるのではないか、という印象を受けてきたのだろう、と思います。文中で述べておられる通りに、「圧倒的に多数の患者(=国民)は、医師から受けた医療に満足し、感謝して帰っている」というのが現実であろう、と思う一方で、ごく少数の例外的事例(たとえば大野病院事件)が司法を通じて医療に恐怖心や萎縮をもたらしたのだ、ということだと思います。100万人が満足したとしても、100人か1000人がトラブル(民事・刑事訴訟等)になれば、全体から見れば0.1%~0.01%に過ぎない出来事であったとしても、医療を崩壊へと導く危険性のあるものである、というのが医療世界の特殊性ではないかと思うのです。

法学の世界では8割~9割といった大雑把な水準で何でも通用してしまうのかもしれませんが、医療者にとっては「重箱の隅をつつく」ような小さな事象であっても、決して無視できるような水準のものでもない、ということなのかもしれません。多分、そうした訓練を受けてきたせいではないか、と勝手に推測しています。0.1%の事象の改善、というような、ほんの僅かの前進を常に求めてしまうというような習性によるのかもしれません。それは「たった1人でもいいから救いたい」ということの意味です。医療とは、同じ病気の患者が千人いようが或いは1万人いようが、1人でもいいから救いたいということの積み重ねでしかないから、ではないでしょうか。