いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

カゼと選挙カー

2007年03月31日 16時22分32秒 | 俺のそれ
ここ暫く飲み疲れなどもあって、不摂生が祟ったのかもしれない。

今朝起きたら喉と鼻の奥がヒリヒリと痛い。声もおかしくなっている。
カゼをひいたらしい。


インフルエンザみたいな症状ではないし、熱も大したことないので、早寝で対処してみるかと思うが、段々と咳が酷くなってきたよ。クヤシイから、薬は飲まないぞ(笑)。


こういう具合の悪い時に限って、選挙カーのウルサイのが気になったりするんだよね。アホか。何で選挙カーのような騒音を撒き散らす行為が認められているのか、全くわからんな。公共空間で自分勝手に騒音をばら撒く行為が制限されないなんて!!いい加減に止めて欲しい。


頭イテ~
ガンガンしてきたッス。


(酒を)飲む回数を制限しなけりゃイカンな、こりゃ。



タバコのリスクって…

2007年03月30日 22時09分00秒 | 俺のそれ
タバコに関して、リスクが云々というのは難しいから正確には知らないが、体には悪そうだとは思うけど。と言いつつ、意志が弱い…。

リヴァイアさん、日々のわざ 不都合なタバコの真実@週刊東洋経済(読了して追記)


評価方法は色々とあるかもしれないが、経済学では全く別な考え方であって、それが「研究者の世界」であっても受け入れられているというのが現実であることを認識してみて欲しいね。ごく普通であり、「経済学では常識」ってことなんでしょうけど。


参考
貸金業の上限金利問題~その8

貸金業の上限金利問題~その9


私自身は社会調査は勉強していないし、疫学研究にも無関係だが、モデルには疑問を感じたのですよね。

しかし、経済学上では「疑問などない」ということであれば、やはり「学術的に正しい」ということなのだろう。


人事院がご立腹?

2007年03月30日 17時48分32秒 | 行政制度
どうやら会計検査院は省庁から「恨み」を買ってしまっているらしい(笑)。


Yahooニュース - 時事通信 - 会計実地検査手当を廃止=「業務に特殊性ない」-人事院

人事院は30日、国家公務員に支払われている特殊勤務手当(29種類)のうち、各省庁や出先機関などの実地検査を行う会計検査院職員に支給されている会計実地検査手当(月額1万~1万4000円)を廃止すると決めた。「業務に著しい特殊性はない」と判断したためで、4月1日付で人事院規則を改正する。特殊勤務手当は「給料の二重取り」などとする批判があり、人事院は見直しに着手しているが、手当廃止は2年ぶり。


私が人事院に文句を言ったから(笑)というのは関係ないと思われますが、そもそも公務員の給料が人事院勧告に基づいておおよそ「一律に」決まる必然性が、あまりないようにも思えます。中央省庁で「官僚に優秀な人材が集まらなくなる云々」という話はせいぜい2万人程度であって、その他400数十万人が全部同じく給与が上がる必然性はなさそうです。職種や仕事内容によって変化があるべきでありましょう。それと、400数十万人全員が「大企業と同じ水準」の給与体系である必然性もないように思えますが、どうなんでしょうか。

地域によっては「大企業」なんかないので、大企業に就職する代わりに公務員になる、という選択肢が存在しないと、厳しい部分はあるかな。


いずれにせよ、人事院はちょっと怒っていたみたいで、会計検査院は財務省や日銀やその他官庁にも色々と「指摘」していたという背景などもあり、「根本的に会計検査院のお手当てが付いてるのはズルいんじゃないか?」とターゲットにされ易かったというところでしょうか。互いに叩き合いになれば、それはそれでいいと思いますので、身内を引き締めつつ歳出カットに繋がることになるでしょう。因みに、人事院は財務省系の息がかかっているのでしょうか?


独立行政法人や公益法人みたいな天下り先権益の大きいところに予算を流さないようにしないと、結局こうして自分達(現職)の取り分が確実に減らされることになるのです。自ら蒔いた種ですから、仕方がないのでしょうけどね。



公共交通機関の禁煙措置は違法か?

2007年03月29日 17時04分10秒 | 法関係
私は未だに禁煙の決心ができない、意志の弱い人間です(笑)。喫煙者であるという立場から、禁煙措置について考えてみたいと思います。このキッカケとなったのは、次の提訴を知ったからです。ネット界隈では、小谷野敦氏は割りと知られておられると思いますが、他の賛同者や支援者のような方々が登場したりはしていないのでしょうか。もしあまり賛同者がいないとすれば、難しい戦いとなるであろうと思います。

猫を償うに猫をもってせよ - JR東日本を提訴


この訴訟提起についての第一印象は、「それは無理じゃね?」ということ。喫煙不可の理由をJR側が何と答えたのか不明ですけれども、幾つかの論点があるように思えますので、次の4点に沿って具体的に検討してみたいと思います。あくまで素人考えに過ぎませんので、ご了承下さい。

①公共の場所での制限
②サービス提供者側の裁量
③閉所恐怖症と代替性
④憲法に反するか




①公共の場所での制限

◎電車、旅客機やバス等の公共交通機関の乗客室は、公共の場所であるということができる。

これについては、多分過去の判例等において数多く出された論点であると思いますので、省略します(理由については専門の方々がそれらしく解説してくれることでしょう)。基本的に、不特定多数の人々が共同で利用しなければならない「公共空間」(言葉として適切か否かは定かではありません。法学的には何か決まった用語があるかも)である、ということに反対意見は出ないだろうと思います。

喫煙とはやや異なりますが、騒音についての制限が近い考え方ではないかと思われます。音の発生は、その利用者・発生者以外の周囲の者に、受動的に聴かせることになります。判りやすい例はラジカセ(もう古い?)等を、車内である一定以上の音量で聴いているような場合でありましょうか。周囲の大多数の人間が、「うるさい」「迷惑だ」などと感じる場合には、「音楽を聴くのは個人の自由だ」とか「今株式市況の大事な場面だから短波を聴く」とか「メインレースのいい所だから中継を聴かせて」などという理由があるにせよ、それを制限されないということはないでしょう。何度注意しても止めない場合には、周囲の乗客たちから損害賠償請求をされてしまう可能性だってあります。公共空間で騒音と認定されるような「個人の自由」は制限されても止むを得ない、ということです。携帯電話の利用制限についても、これと似ている部分はあると思われます。これら制限を行うのは、サービス提供者側(レストランなんかもそうですね)であって、その判断基準はサービス提供者側に委ねられていると思います。

こうした考え方を喫煙に対しても適用することは合理的と思われ、レストラン等の飲食店によっては完全に喫煙不可であることもあれば、分煙化されていて喫煙可能なこともあり、この決定権限は飲食店側にあるということです。

◎公共空間における音や喫煙等に関する制限をすることは有り得る。
◎上記制限の決定権限は、基本的にサービス提供者側に存すると考えられる。




②サービス提供者側の裁量

①で見たように、公共空間において何らかの制限を加えることがあるという裁量権はサービス提供者側にあり、喫煙の可否についても同様に考えることは妥当であると思われます。

喫煙を許可しない理由として健康増進法の解釈を取り上げているが、仮に科学的根拠が「現在十分明らかとなっているとは言えない」としても、非喫煙者からの要望に応えるという業務上の裁量権は存在していると考えられます。例えば、プール、温泉や公衆浴場等において「刺青を入れた者の利用制限」ということがありますが、これはサービス提供者側が「刺青を入れていない利用者」たちからの要望に応えるものであり、このことは必ずしも「健康や保健衛生上の管理についての問題」ではなく、法規に基づく決定権限ではないでしょう。これと同様に、非喫煙者である利用者からの要望に応えるかどうかの決定権限は、サービス提供者側にあるものであり、それは裁量権の一部に過ぎないと言えます。すなわち、サービス提供者側には、「利用者からのどの要望に応えるか決定できる」という裁量権があるのです。レストラン等の飲食店において、店舗を全面禁煙とするか喫煙可能なスペースを設けるかの決定はサービス提供者側の裁量権に含まれるというべきでしょう。

サービス提供者側が喫煙を許容するか否かの判断は、利用者の要望もさることながら、その他理由も存在します。喫煙を許可することに伴って、灰皿の設置、空気清浄器等の換気システム、灰皿の清掃・吸殻回収業務、防火管理等に係るコストを負担することを考慮せねばなりません。喫煙による車両変色等の汚損、悪臭、シート等の焼け焦げによる損失、等々の費用についても、サービス提供者側が負担する可能性があります。これらコストについての軽減を図ろうとする判断は、主として企業の経営的判断に基づくものであるので、サービス提供者側にその裁量権が存すると思われます。喫煙を許可した場合の、非喫煙者の満足度低下による乗車忌避や管理運営に係るコスト増加等を考慮するとともに、喫煙を許可しない場合の、喫煙者の満足度低下による乗車忌避と管理運営に係るコスト減少等の比較考量によって禁煙を決定するのは「経営上の裁量権」と解するのが妥当であり、これは企業活動の一部とみなしうるでしょう。

更に、健康増進法自体が存在しないと仮定しても、小売店、映画館や劇場等において防火安全上の理由によって禁煙となっている公共空間は以前から存在しており、公共交通機関の公共空間がこれらと同様の制限が行われたとしても、直ちにそれを違法と断定することはできないでしょう。旅客機においては安全対策上の理由によってライター等の持ち込み制限があり、仮にこれと同等の制限が電車やバス等において行われたとしても、違法性を認める根拠を見出すことは困難です。

従って、健康増進法の解釈について適切か否かにかかわらず、サービス提供者側には喫煙の可否を決定できる裁量権を有していると解することができると思われます。

◎サービス提供者側には、どの要望に応えるか決定できる裁量権がある。
◎喫煙の可否決定は、経営上の裁量権の一部である。
◎必ずしも健康増進法の存在とその解釈に制限の根拠を求める必要はない。
(=健康増進法がなくても、喫煙を制限する裁量権を有している)




③閉所恐怖症と代替性

閉所恐怖症を理由として、長時間の禁煙には耐え難いということが、どの程度保護されるべきかという問題について考えてみます。

基本的には、取りうる代替手段が存在するか否かによると思われます。A地点からB地点に到達する為に、利用可能な交通手段がどの程度存在しているのか、ということになります。旅客機、特急電車、新幹線しかないとなれば、いずれかを必ず選択しなければならず、耐え難い「長時間の禁煙」を強いられるという不利益を被ることがあると考えられます。しかし、この他に自家用車、タクシー、路線バス、普通電車等があって、「長時間の禁煙」を必ずしも強いられない代替交通手段が存在するのであれば、その利用を行うことで解消され得ると考えられます。移動時間の延長という不利益は残るものの、耐え難い苦痛との比較考量で利用者が決定するべきものであると思われます。

そもそも、閉所恐怖症であることを理由として、例えば「新幹線の窓を開閉可能にするべきだ」という要望は受け入れ難いものであるのであって、閉所恐怖症というハンディキャップを持つことで利用可能な交通手段が限定されてしまうということは、公共交通機関にその責任や原因があるわけではありません。仮に「気圧変化によって病態悪化が考えられる疾病」を有する人が、「現在の旅客機は気密性が十分ではないので、利用できずに多大な不利益を被っている。もっと気圧変化を最小化するような気密性を達成するべきだ」という要望を出したとしても、それを実現するか否かは航空機製造会社が決めるものであります。そういう疾病を有する少数利用者において、旅客機を利用できなくなってしまうという不利益が存在することになりますが、それを解消する為には現在水準より機体の気圧変動をずっと小さくすることが必要になります。その為にかかるコストはサービス提供者側が負担することになり、ひいては全利用者の負担となってきます。「気圧変動の殆どない気密性の高い旅客機」を製造できれば、それまで利用できなかった人たちにも利用可能となるかもしれませんが、その為の製造コストは大幅に増加して全利用者たちがそのコストを負担することになるということです。それよりも、現在水準の機体を用いたままで、少数利用者には航空機が利用できない代わりに列車を利用してもらった方が、社会全体の利益になるということです。

従って、何らかの理由によって特定交通機関の利用が困難であるとしても、代替性があるものについては必ずしも法的に保護するべきものとは限らない、ということになります。禁煙を強いられることによって個人が不利益を被るとしても、代替性があるということは、少数個人の不利益を解消することを社会全体の利益よりも優先しなければならないとするほど重大な不利益とは認め難いと思われるのです。もしも喫煙者たちにとってサービス提供者側が取った禁煙措置が苦痛により耐えがたいというものである時、喫煙者の多くが利用を取りやめるのであり、それが大多数に及べば必然的に企業の売上高減少ということで無視できないほどの影響と考えられるならば、「喫煙者向けサービスとして何らかの別な措置を講ずるべき」理由になるものと思われます。しかしながら、そうした喫煙者向けサービス(具体的には喫煙スペースの設置や喫煙車両設置等)を措置するほどの不満が「乗車忌避」という形で現れていないということであるなら、多くの喫煙者たちにとっては「受容可能な程度の不利益」とみなすことが合理的ではないとは言えないでしょう。

◎代替性のある場合には、各利用者が代替手段を利用することで不利益は縮小されうる
◎社会全体の利益より個人の不利益解消を優先するべきとは認め難い
◎多くの喫煙者にとって禁煙措置自体は受容可能な程度の不利益と推認できる

長時間の禁煙についても、何らかの代替手段を取ることは考えられます。実際に喫煙できない状況であっても、ニコチンパッチ等の利用によって禁煙による不利益を軽減できる可能性があります。これが原告の閉所恐怖症に関する症状をどの程度改善させるかは定かではないものの、原告が耐え難き苦痛を覚えるのであれば、まず可能な限り代替手段を試みるべきでありましょう。別な視点では、閉所恐怖症自体が完全に克服不可能なまでの病状となっているかどうかについても、疑問の余地はあるでしょう。まず根本原因であるところの閉所恐怖症の治療がどの程度まで行われ、主要な公共交通機関の利用が不可能なほどに深刻な状況であるのかどうか、ということが、サービス提供者側に改善措置を求めなければならないほどの理由足り得るかの判断に影響するでしょう。個人の努力によって閉所恐怖症の症状を軽減したり、乗車中の不安を薬物的にコントロールしたりすることが可能な水準なのであれば、そうした手段を取ることで個人の受ける不利益は改善されると考えられ、非喫煙者の利益を損なうことなく社会全体の利益に適うものと思われます。これは公共空間で音楽を聴きたいという個人が存在するならば、個人的にヘッドホンを使用することで騒音に関する係争や諸問題を解決することが可能になる、ということと同じ意味合いを持ちます。

◎個人が取りうる代替手段を試みることが社会全体の利益に適っていると考えられる。




④憲法に反するか

喫煙者に関する取扱いにおいて、原告は憲法(法の下での平等)に反するものである旨主張していますが、公共交通機関のいずれも「喫煙者」であるという理由を以て「乗車を選別・拒否」したりするものでないことは明らかです。搭乗・乗車資格のような形で、喫煙者と非喫煙者に関する区別は存在しません。取扱いとしては同一であると思われます。喫煙者であることを理由にして解雇されるとか、医療を受けられないといった取扱いであるならば、これを不当な差別であるという主張も理解できないわけではありませんが、「全員が等しく喫煙行為を禁じられる」ということが平等に反するとは言い難いでしょう。

例えば、「サンダル履きの方は当店に入店できません」という条件のあるレストランにおいては、「サンダル愛用者」を不当に差別したり不平等な扱いを意図するものではなく、管理運営上の単純な行為規制として「サンダルを履いて入店する行為」を禁じるものであって、これを憲法違反であると断定する合理的理由はありません。サンダル愛用者であろうとなかろうと、店側基準に合致する靴であれば「誰でも入店できる」というのが、不当な差別がないという意味でありましょう。「ノーネクタイの方は入店をお断りしております」という制限も同様であり、「ネクタイが嫌いな人」を不当に差別するものではないのです。

喫煙者・非喫煙者に限らず、「車内で禁止するべき行為」として「喫煙」があるのであって、喫煙者を不当に差別するものではないと考えられます。「車内で花火をしないで下さい」という制限をする場合に、花火業者や花火愛好家を殊更差別するものであるはずもなく、それに従いたくないという個人については、公共空間から離脱して頂いて自由な個人的空間を有する移動方法を選択してもらうことが社会全体の利益であると思われます。公共空間においては個人の自由は一定の制限を受けるのであって、より高い自由度を求める場合には公共空間を共有しないことで個人の受ける不利益を回避してもらうのが合理的であると思われます。


◎「喫煙を禁止する」という行為規制をもって、憲法違反とまでは言えない。
◎健康増進法が違憲立法か否かは無関係(多分違憲ではないだろう)。




以上から、禁煙規制が違法という主張は無理ではないかと思えました。喫煙者の立場で申し上げますと、喫煙の権利を強く主張すればするほど事態が悪化していくのではないかと危惧され、提訴そのものを「一服」された方が宜しいのではないかと思えました。



男の匂いは・・・

2007年03月28日 23時26分12秒 | 俺のそれ
においに関する問題は複雑だ。

OhmyNewsにおいも電車のマナー違反? 


まず、においの根本的問題は、人それぞれで感じ方が違うということだろう。同じ匂いであっても、「クサイからイヤだ」と言う人もいれば、そうでもない、という人もいたりする。不快さに分布はあると思うが、好みというのも関係していると思う。

私は匂いには割りと鈍感であるが、化粧品や香水の「ムセるような不快感」というのはある。他の男性なんかだと、そういう匂いはセクシーだとか何かの感情をくすぐるものであるとか言うかもしれない。そういう違いはあるから、規制するといっても難しいのではないかな。


我が家のエピソードとして、笑い話を1つ紹介しておこう。
テレビCMで「匂いは男の武器になる(それとも「香り」だったかな?)」とか言うのがあったと思う。
<合コンの席で、女性側と男性側にテーブル上に小人みたいなのが出てきて、「両軍対峙」するというヤツですよ。で、男性側から煙幕弾みたいなのが一斉に発射されて「いいにおい」が広がり、女性の気を引くことができた、みたいな内容。>

これを観ていた時、妻が言った。
「○○(←私の呼び名)の場合は、男の凶器だわね」

思わず噴き出した。自分の匂いは殆どないと思っていたのだが、タバコ臭なんかが入り混じっているのだろう。大笑いしてしまいましたよ。うまい表現だなと。


確かに、匂いは凶器にもなるかもしれない(笑)。




支配される生と死

2007年03月27日 15時44分04秒 | 俺のそれ
昨日書いた記事の中で、意図的にタブーとも言える領域に触れた。それはどのように考えたらよいのか、私自身が明快な答えを持たないからだ。全ての例で、善い、悪いの両方の意見があるだろうな、と思う。そして、どれも現実に似たようなことが起こっているはずなのだ。それに目を向けて、そこから議論とか考えをスタートさせるといいのではないかと思った。だから、書いた。


立場が異なれば、考え方も捉え方も違うだろう。自分が全ての他人の心の中に入ることはできないし、全部を理解することは難しい。「その立場になったことがないのに、判ったことを言うな」とか思うことは多いかもしれないが、それを全肯定してしまえば誰とも議論が成り立たなくなる。他の人の置かれた状況や立場に理解を示して、気持ちを判ろうと努力してみて、それでも成り代われるわけではないから正確に判らないけれど、議論を始めるしかないのである。法律を考えるとか、政策を考えるという場合には、何か制度を作れば必ず弊害が表面化するであろう。制度がなければ、たとえ問題が存在していたとしても、はっきりとそれが認識されないか、覆い隠されているであろう。だから、制度化するということは、衝突を必ず生み出すということを前提として考えねばならないのだと思う。賛成する人がいれば、反対する人がいるという、極めて単純なことなのである。

もしも私が「自殺したい」という人を目の前にした時、それが自分の知らない他人であったとしても、止めるであろうと思う。まず100%近くは「待て、早まるんじゃない!」と制止すると思う。では、100%ではないのか?と問われると、自信が持てないのである。どんな場合であっても絶対に止める、とは断言するほど現実世界の全てを知らないのである。「あるがままの死を迎えさせてくれ」と懇願された時、自殺志願者の場合と同じくそれを阻止するべきなのか?この問いに、私は答えられないのである。生と死に関しては、三者三様の立場や意見があるのが普通であり、それを絶対基準で考えることはそもそも不可能としか思えないのである。あくまで、相対的な選択という結論を導くことくらいしかできないのではないだろうか。


1人の女性が、独力で自然に分娩することがもっとも自然に近く、人間本来の生き方なのだ、だから自分は病院なんかには行かずに1人で出産する、と言ったとしよう。1人で出産すれば恐らく母体死亡や新生児死亡のリスクは増大するであろう。しかし、この女性に対して、「1人で分娩するのは絶対に止めろ」と命ずる権利は誰かにあるであろうか?この女性が1人で分娩することを知りながら、それを阻止しなかった場合、自分の責任はどうなるであろうか。万が一、生まれた子が死亡してしまったりすれば、自分はその子の死を幇助したことになるのだろうか。運が悪ければ「死ぬかもしれない」と思っていたのに、彼女の意見を否定しないことは、死を助長したのと同じなのだろうか。彼女の考え方を尊重し、自然な形を選択することが、本当は悪いということなのか。出生児には、自己決定権はない。本人の意思も確認のしようがない。その子の生に対する意思とは無関係に、何らかの決定を下さねばならないのである。

死刑を認めるべきか、人工授精や体外受精を認めるべきか、尊厳死を認めるべきか、…生と死に関するさまざまな問題があって、それぞれに色んな考え方ができるのではないかと思う。そうしたテーマでは、他の意見―通常は主に自分の反対意見―への嫌悪感や反感などよりも、対立する側の人の立場になってみようとする共感性?というか感情移入?のようなことが最初に必要で、それでも自分の意見選択が変わらなければ、そこから先はどこまで行っても平行線を辿るように思える。どれほど当事者たちから「気持ちを理解してくれ」とか「なぜわからないんだ」という疑問を投げかけられても、問題の当人にはなれない。実際になってみるまでは、わかりっこないのである。死ぬ直前には走馬灯のように記憶が蘇るかどうかなんて、その時を迎えるまでは誰にも判らないのである。あくまで架空の世界というか、頭の中で想像してみるしかないのである。できるだけそこに近づけるように、「自己への投影」のようなことをやってみるくらいしかないのだ。

法律を作ったり、何かの制度として政策を決めるのであれば、作るか作らないかという選択は必要になる。その時、活用できる資源は無限ではないので、人もお金も現実的な有限範囲でどうにか配分する以外にないのである。比較そのものが可能かどうか判らないのであるが、1人に大金をかけた方法を考えるか、1人当たりは少なくして多くの人に広く配分できるような方法を考えるのか、それはどこかの水準で線引きをして決めねばならないのである。

全員が心の強い人たちばかりではないので、戦い続けられない人たちが出てくることを阻止することは難しいであろう。どんなに「一緒に戦おう!諦めずに立ち向かおう!」と言ってあげたとしても、脱落しないでついてこれる人たちばかりではないのである。果たしてそれを責めることができるであろうか?私には、脱落していく人たちに「どうして戦おうとしないんだ」という言葉を向けることができないのである。そこまで自分自身強くない。そういう人たちが出てくることを止めることはできないし、彼らの選択が誤りなのかどうかさえ判らないのである。ならば、自然に任せて、戦いから脱落してゆく人たちの意思を尊重する制度を考えることがあってもいいのではないかと思えるのである。制度が存在しないが故に救済されない人々が多くなってしまうなら、制度をつくるべきではないかという発想を否定できないと思う。


とても難しい問題であることは確かなので、安易に結論を出すことには反対ではあるけれども、慎重にであっても議論を行うことには意味があると思うし、意見表明すら否定するべきとは思えないのである。ある選択を「誤りである」と断定できる根拠というものが元々存在し得ないくらい難しい問題なのだ、ということに自覚的であるべきではないかな、と思う。私自身、未だに答えが判らず、迷い続けるしかないのですけれども。



支配される生と死―ある架空の物語(追加あり)

2007年03月26日 21時48分15秒 | 俺のそれ
・自然崇拝

ある国で白熊の赤ちゃんが瀕死の状況で発見され、動物園に保護された。その白熊の母熊は、不幸にして出産直後に死んだようであった。赤ん坊の白熊は母熊が死んだことを知る由もなく、傍にうずくまっていたのだった。そこを通りかかった漁師に運良く発見され、命が救われたのであった。

しかし、「自然を尊びそれを受け入れるべきだ」という運動を展開している自然保護団体のメンバーが動物園にやってきて、こう主張したのだった。

「あなた方は間違っている。人間の手で育てられることこそ、熊本来の権利を侵害しているのだ。自然な状態が一番良いのであり、母熊が死ねば赤ちゃん熊も死ぬ。これが自然の摂理なのだ。あなた方はそれを受け入れるべきだ。人間の主張を優先しようとする態度こそ、人間至上主義的な思い上がりに過ぎないのだ。自然のままに放置してあげることが、赤ちゃん熊にとって一番良い状態なのであり、正しいのである。自然こそ生命の尊厳の象徴なのである」

動物園の飼育係は困ってしまった。今、この赤ちゃん熊を自然界に戻せば、間違いなく死ぬ。それを選択することが本当に正しいのであろうか?赤ちゃん熊の命を奪う結果になったとしても、自然状態が一番良いのであろうか?本当にそれが正しいことなのか…?

迷う飼育係に団体のメンバーの1人は、更に追い討ちをかけるように、こう言った。

「あなたは目の前のたった一つしかない、小熊の尊い命を奪うことを考えて躊躇っていますね?でも、あなただって、1つの命を何の躊躇いもなく奪うことに、日常的に加担しているではありませんか。牛は確実に死にますよ?子羊のうまい肉だって、1つの命なのですよ?何も違いなどないのです。なのに、この小熊は躊躇い、牛やブタや羊を躊躇わないというのは、単なる偽善でしかないんですよ」


飼育係は目の前が真っ暗になり、どう考えてよいのか、何と返事をしたらよいのかわからなくなった。グルグルと、頭の中で何かが回っているような気がした。団体メンバーの言い放った言葉の一つひとつが、鋭く突き刺さってきた。小熊を胸に抱えたまま、体が凍りついた・・・・。



・デスマスク

ついてない一日の終わりの最悪の出来事は、病院で聞いた告知であった。
ガンだった。

彼女は元モデルで、自分の美しさにはそれなりの自信を持っていた。今は結婚して夫と二人で暮らしていた。夫婦生活は割と楽しく過せていたし、やりがいのある仕事にも満足していた。

だが、つい数ヶ月前くらいから目の奥の方に疼くような痛みを感じるようになった。初めのうちは、疲れているのかなと思ったりして、あまり気にもしていなかったが、痛みがはっきりと感じられるようになった。何となく、鼻が詰まったような、息苦しいような、そんな感じもあった。仕事が忙しかったから我慢していたのだが、いよいよ病院に行かねばと決心をして受診したのだった。

この日は朝からついてなかった。出勤の電車の女性専用車両の中で後ろのオバサンにカカトを踏まれたし、会社に届いているはずの書類は先方が送ってくるのを忘れていたし、珍しくミスって上司に呼び出されたし、本当に良くないことばかりだった。午後に病院の予約を入れておいたのだが、約束の時間よりも30分遅れて駆け込んだのだった。そこで聞かされたのが、ガンであった。

彼女は自分の聞いた言葉が、何かの間違いではないかとしか思えなかった。
「本当にガンなんでしょうか」
「そうなのです。珍しいのですが、顔面部にできる悪性腫瘍です。既に、鼻の奥から目の下までガンが広がっています」
「治る方法はあるのですか」
「手術と、放射線治療との併用ということになるかもしれません・・・が、治る見込みは何とも・・・」
「手術って、顔を切るのですか」
「恐らく右目を摘出することになるでしょう。頬の辺りも大きく取ることになるかと思います・・・が、正確にはもっと調べてみないと何とも」

彼女は、この世で一番恐ろしいものを生まれて初めて知った。
それは、死の恐怖よりも恐ろしいものであった。
彼女にある決心をさせるには十分であった。


それから4ヵ月後、彼女は遺書を残して自殺した。
夫は、突然の妻の死にショックを受けたが、その遺書を読んで初めて彼女の病気を知ったのだった。夫には、ガンだとは一切告げられていなかったのだ。彼女は自分の中に全てをしまっていたのだった。

彼女はガンの治療をして、たとえ手術が成功したとしても、美しい自分の顔が切り刻まれ見るに耐えない姿になってしまうくらいであれば、「生きてなんていたくない」と本気で思っていたのであった。彼女にとって生きることとは、自らの変わり果てた顔を曝すことなどではなかった。それは自らの生きる意味を奪うことと等しかったのだ。そのような選択をするくらいなら、死んだ方がマシだと考えていたのであった。遺書には夫に託された唯一の願いが書かれていた。

「私の生きていた証に、デスマスクを作ってほしい」



・「お金持ち」なら助かります

ある客船が事故に遭い、沈没しそうな状況になった。救命ボートに乗れるのはあと1人しかいない。だが、残っているのは10人だ。さてどうしたものか。そこに経済学に詳しい学生がいた。彼はこう提案した。
「救命ボートのイスを公平にセリにかけよう。10人の中で最も多くの費用を払ったものが乗れることにしよう」

10人は自分の持ってる全財産を数えた。
1人が言った。「私は10万ドル払えるぞ。これだ」
他の連中は全員押し黙ってしまった。そんな大金を払える人は滅多にいなかった。
別な1人の紳士が言った。
「他の人はもういないのかい?ならば私は11万ドル払おう。ここにある」
彼は分厚い小切手帳を手にしていた。彼の書き入れる金額を超えられる者など誰もいなかった。

先の経済学に詳しい学生は言った。
「やっぱりお金で決めるのは、間違ったやり方かもしれない」
紳士は言った。
「いやいや学生さんは正しいのだよ。仮に他の誰かが生き延びるとして、私の生み出す富以上を稼ぎ出すことなど誰もできないだろう。私の命の値段はこの中で一番高いのだよ。それは裁判所だって認めてくれる。法的にも正しい考え方なのだよ。もしも君が私を車で轢いて死なせたりしようものなら、逸失利益は莫大になるんだ。君たちの中で、誰も払えやしない。君たちの誰かが生きて社会に戻ったとしても、私が戻る場合に比べて、社会にとってはプラスにはならないんだ。私が戻ることが社会にとって一番良いのだよ。それは社会が求めている、ということさ。これは経済学的に考えて正しい結果なのだよ」



人口1万人のある孤島で謎の感染症が広がり、助かる為にはワクチンを接種する以外にないことが判った。この島にやってきた救助の特別医療チームの班長はこう言った。
「ワクチンは1人分しかない。これをたった今使わねば命は助からないだろう。そこで、このワクチンを販売することにした。さあみんなで値段を付けてくれ。この収益は国庫に納付されるので、安心してくれたまえ」

人々は値段をレイズしていった。初めから諦めているものも当然いたのだが。
「1億円出す」
「私は2億円でもいい」
「じゃあこっちは3億円だ」
「上には上がいるんだよ。3億5千!」
「4億!」
・・・・

班長は言った。
「あなたに決まりましたか。良かったですね。では6億8千万円は国庫に納付させて頂きます。他の方々は残念でしたね。お金を払わないと、助かる命も助からなくなるのが現実ですね。これは大事なことですから、よく覚えておいて次の機会に生かして下さいね」



「100万ドル用意してもらえれば、きっと移植手術ができるはずです。娘さんの命を助けることができます。世界でたった一つの命ですからね。最愛の娘さんを助けたいでしょう?たとえ100万ドルかかっても、命を救えるのですから」
男はそう言われて、100万ドルを募金活動で集めた。
募金した人々は「大切な1つの命を救う為に協力しよう」と思って、募金してくれたのであろう。尊い志だ。

しかし、その募金活動を見ていた外国人男性が抗議にやってきた。彼は世界の中でも最も貧しいクラスに分類される国から来た男であった。彼は言った。

「100万ドルあればあなたの娘さんの命が救われるのかもしれない。だが、もっと貧しい国にその100万ドルをくれるなら、1万人が助かるのです。私の国にその100万ドルを寄附してもらえませんか。それがあれば、1万人の子どもたちを救うことができるのですよ。どうかお願いします。それとも、あなた方は自分さえ良ければいいと言うのですか。金持ちだけが医療を受けられることが正しいと思っているのですか?貧しい1万人の子どもたちを見殺しにせよ、と?1人の金持ちのわがままを優先して、1万人を見捨てるのが本当に正しいやり方なのですか?」


・負けない自分

彼は長年に渡る介護を続けていた。自分の母親が植物状態になってしまったからだ。しかし彼は、延命治療を止めてくれとは決して言わないと固く心に誓っていたのだった。母親にしてあげられることはどんなことも厭わない、という覚悟ができていた。

母親は自分で体を動かすことも、何かの反応を見せることも全くなかった。常時眠ったような母親がどんなことを考えているのか、彼の話しかける言葉が聞えているのか、何も判らないままであった。しかし、彼にとっては母親の面倒をみていくこと、決して諦めずに介護をしていくことが、彼の使命なのだと確信していた。

ある時、彼の友人の紹介で、とてもよく当たるという霊能者に会う機会があった。彼は常々気になっていたことを是非聞いてみたいと思い、思い切って霊能者に尋ねた。母は今、どう思っているのか、何を考えているのか、と。霊能者は言った。

「お母さんは、ずーっと前から早く楽になりたい、今のような状態から一刻も早く開放されたい、そう思っていたようです。お母さんにとっては、辛いだけなのです。この世に存在している意味を何も感じることができないのです。息子は可愛いし、愛してもいますが、声も聞えず、一切の感覚を奪われ、言葉も失い、何かを整理して考えることもできず、ただただ重く苦しい真っ暗闇の中で死への感覚だけが続いているのです」

息子は衝撃を受けた。これまで母のことを大切に思い必死で介護を続けてきたが、母にとってはそれらの全てが無駄であったのかと思うと、言いようのない徒労感と虚脱感に襲われた。しかし、彼は思い直して、霊能者の言葉を俄かには信じられないと伝えた。自ら率先して死にたいと考える人などそういるはずがない、とも言った。すると、霊能者は彼に諭すようにこう言った。

「お母さんの介護を続けるあなたは、他の誰よりも立派です。しかし、あなたは自分の為に介護を続けているのです。自分を納得させる為に。自分の心を救済する為に。放棄するという呵責から逃れる為に。絶対に諦めないという自分を肯定する為に。そういう負けない自分を愛しているのです。そういう自分を続けることで、お母さんから死を奪っているのです。死期を悟った象が群れを離れて静かに死を迎えるでしょう。死への恐怖を回避したいとか、何とか死を迎えずに済むようにもがき苦しんだり、生へ固執したりはしないのです。それが死の形なのです。あなたはそうした死の形を、お母さんから取り上げてしまっているのではありませんか?」

彼に言葉はなかった。
自分は大きな誤りを犯してしまったのか。これまで良かれと思ってやってきたことは、自分の為だったというのか。死を望むものなどいないと思っていたが、死ねないことの苦しさを考えてこなかったかもしれない。生きていることが、何よりも価値があり大切なことなのだと確信してきたが、それは間違いだったというのか…。

彼には、答えが見つからなかった。



サブプライムローンのトラップ

2007年03月26日 13時46分16秒 | 経済関連
先月記事で触れたけれども、FTの記事があったので、ピックアップ。


これがサブプライムローンの実態  FINANCIAL TIMES:NBonline日経ビジネス オンライン


ビジネスの国、アメリカでの話ですし、借りる方に責任があるわけで、サブプライムローンが悪いわけではありませんよね。借り手の自己責任です。そう言われてしまうかもしれませんね。

しかし、本当に何ら規制がないことが望ましいのでしょうか。借り手はみんな正しく判断して借入を行えるものなのでしょうか。「焦げ付きはごく一部分に過ぎない、他のみんなは返済できているんだ、借りられる方がメリットが大きいのだ」というような主張もあるかもしれませんが、貸し手に一定水準の義務を課す方が望ましいと思えますね。


この焦げ付きの大きな要因としては、「借入金利」というのが関与しているように思われるのです。変動金利によって、金利負担が増大することで破綻リスクが高まってしまう、という風に見えてしまうのですよね。以前に、早大の坂野ペーパーにあった「金利水準は関係ないんだ、ライフイベントが原因なんだ」という主張を支持していた方々は、どういった解釈をするのか是非伺いたいと思うのですよね。

「日本は特殊なんだ、米国とは違う」という理由はありかもしれません。ならば、英米では上限金利がないんだ、だから日本もいらない、という理屈は使えないのではないかな、と思います。他には、金利上昇幅が当初予想よりも増加してしまって、返済計画が狂ってしまった、ということがあるかもしれません。これも、収入減少で返済計画が狂うのと、収入は減らず(若しくは増加していても)返済負担の増加分の方が大きくて返済計画が狂うのとで、大きな違いは見出せないように思えます。確かに原因は異なるのですが、借り手の破綻リスクを増大させているのは同じように思えるからです。

それでも「金利水準は関係ないんだ」という主張を支持される方々がおられるかもしれませんので、米国のサブプライムローンにおける焦げ付き増加の理由についての別な説明を多分お持ちであろうと思います。「それは一体何か?」ということが大変気になるのです。


一応申し添えますと、池田信夫氏なんかは「借入金利はリスクを正確に反映する」という主張をしていたのですが、サブプライムローンの適用金利水準が「上昇する」のは、「借り手のリスクが増大していったからだ」という解釈を適用するんでしょうか(笑)。ローン金利が上昇したのは、借り手リスクが上昇していったからではなくて、資金の調達コストが上がったから(要はFFレート上昇ということ)それがローン金利に反映された結果と思っているのですが。

参考:
消費者金融市場の貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない

消費者金融市場の貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない・2

消費者金融市場での貸出金利は「リスクを正確に反映する」とは言えない・3


サブプライムローンの変動金利の上昇は、例えば、

◎ローン適用金利7%=コスト+リスク=1%+6%

であったものが、

◎ローン適用金利12%=6%+6%

と変動した、というふうに考えるのが妥当のように思うのですけれどもね。この適用金利7%と12%の違いの意味は、(資金の)「コストが高い」ということ(FFレートが0.5%→5.5%のように変動してしまえば調達コストが上がるので)であって、「12%の適用金利の人は、7%の適用金利の人よりもリスクが高い」という解釈は成り立たないでしょう、と言っているのですよ。

そうであるなら、例の堂下ペーパーのように、(借入)金利という数字を持ってきて、同一のグラフ上にリスクに応じて正規分布を想定することが「そもそも間違っているのではないですか?」ということなんですよ。それが可能なのは、唯一「全業者が同じコスト率である」という場合だけです。全部の業者が同じく効率的であればコストも同一にできるかもしれません。僅かでもコスト率が高い業者は、市場競争に敗れ撤退しますからね。それとも、コスト率の違う業者ごとに別々な市場となっていて、借り手はそれら隣接市場には入れない、という分断された状態でしょうか。こういう仮定は、あくまで理論世界の中でしか有り得ない話としか思えないのですよ。それをあたかも「理論的に正しい、これが経済学の教えである」などと正当化する理由に用いているのが大変疑問なのです。


いずれにせよ、上限金利問題の時に、「米国には上限がないんだ、経済学ではそれが正しい」とか言って反対しておられた方々には、米国おけるサブプライムローンの焦げ付きについて、経済学理論に基づいて解説して頂ければ幸いに存じます。


特にご期待申し上げております>坂野教授、池田先生



「追い貸し」が本当に悪かったのか(追記後)

2007年03月25日 23時55分38秒 | 経済関連
「失われた15年」の考察において、「追い貸しが悪かったんだ」という意見を度々目にするわけですが、これを採用する場合には何らかの前提条件のようなものがあるべきではないかと思っています。イルカのシリーズで取り上げたのですが、観察される現象についての解釈問題(参考記事)と言えるかもしれません。


今の日本の国と地方の借金を合わせると、ざっと1千兆円程度はあると思いますが、借入・返済比率だけ考えれば、「破綻水準」ですよね。多重債務者も真っ青の、「自転車操業」真っ最中です。現在のような低金利状態にあっても、元金返済どころか、利払いさえ出来ていません(笑)。日銀基準で言えば、たった1.7%程度かそこらの「低い潜在成長率」に過ぎない、低生産性のゾンビみたいなもんです。これも同じく「追い貸し」であり、規律を厳しくしてファイナンスを完全停止し、誰も貸さないようにした方がよろしいのではないでしょうか。政府を破綻処理した方が宜しいのではありませんか?「追い貸し」が全て悪いんだ、という考え方の方々ならば、きっとそう主張しても不思議ではないように思えます。

しかし、実際にこれを行うとどういった事態が想定されるでしょうか。日本経済はかなり大きなダメージを受けるでありましょう。破綻処理をしなかった場合に比べれば、大出血を覚悟せねばならないでしょう。国民生活は大きく破壊されるでしょう。失業者が街中に溢れかえるでしょう。たくさんの日本企業が海外資本によって買い占められたりするかもしれません。そういう変化を望むのであれば、破壊された後からは、「生産性の高い効率的な国」として生まれ変われるかもしれませんね。きっと理想的な姿となっていることでしょう。これが現実に望ましいことなのかと言えば、恐らく「否」であると思っておりますけれども。


何度も人体に喩えて申し訳ありませんが、再び考えてみたいと思います。

まず、冠血管が閉塞していくとその支配領域の心筋細胞の動きは当然悪化します。すると、心臓全体の機能低下も起こりえるでしょう。血液が十分行き届かないと、心臓の細胞が「苦しい、苦しい」となってしまい、働けなくなりますからね。それでも「壊死」していなければ、血流が再開されると再び活力を取り戻し、機能回復が期待できないわけではありません。狭心症の状態であれば、心臓の負荷が軽減されると心臓の苦しい状況が緩解します。つまり、元の状態に近く戻れるわけです。この可逆性が重要なのであり、心筋梗塞のように不可逆的変化に陥ると病状は悪化するし、もっと深刻な生命の危機的状況が訪れることになってしまうのです。

心臓の血管には代償的な機能もあって、実は、部分的に閉塞が進んだとしても経過に時間的余裕があれば、血流が代償されることもあります。側副血行路が形成されるのです。言ってみれば、高速道路とか幹線道路が大渋滞になっていて「詰まっていても」、もうちょっと目立たない県道や別な脇道を通過していくことができる、というのと同じようなものです。そうして代償機能が働けば、壊死に陥ることなく心臓の機能は維持されることになります。

ですので、不可逆的な状態に陥らせないようにすることこそ、最重要ということなのです。


ゾンビ企業というのは、苦しがっている、壊死に陥る直前の心筋細胞みたいなものです。そのまま倒産してしまうのであれば、壊死した心筋細胞というのと同じですね。このような「心筋細胞(=ゾンビ)が存在しているから」心臓の機能全体が低下し、悪影響となっているんだ、という考え方はそもそも間違いではないでしょうか、ということなのです。「心筋細胞が苦しくなったのは何故でしょうか?」ということが、根本的な考え方なのではないかと思います。壊死した心筋細胞が増えれば、確かに危機的状況を招きます。しかし、血流がある程度維持され、酸素供給ができてさえいれば、苦しくなんかならないのです。壊死を起こしてしまったりはしないのです。虚血に陥っている心筋細胞の存在自体が問題の根本原因などではない、ということです。

虚血に陥るには、何らかの原因があります。血管が狭くなる(=資金供給が低下する)、運動負荷などによって酸素需要が増加する(=外部の要因、金利上昇や為替変動などか?)、血管の攣縮が起こる(=資金供給の機能不全、例えば銀行倒産みたいなものか?)、そういった要因があるので心筋虚血が惹起されるのです。よって、血管を拡張する(=資金供給を潤沢にする)、負荷を軽減する(=金利引下げ、為替介入)、攣縮を解除させる(別な貸出・投資機能ルートを確保)、のような手当てが必要なのです。補助的に、酸素吸入なども行われるかもしれません(空気よりも高濃度の酸素を吸入することで血液の酸素化が良くなる)。


単なる推測ですが、ゾンビ企業は借入比率が高く、債務負担がかなりの重しとなっていたであろうと思われます。それはダイエーや新日鉄のような有利子負債が2兆円超という企業のようなものかな、と(新日鉄は蘇りましたが、ダイエーは厳しい結果になってしまいました)。個人債務とも似ているのですが、借入比率が高いと、何かの変動(収入・売上減少、債務負担増)を生じた場合に「予備的能力」の幅が狭い為に、苦しい経営状況に陥るであろうな、ということは判ります。それでも、望ましい「再生プラン」を実行できれば、清算を選択するより損失総額は軽減できることが多いであろうと思います。債権放棄や債務負担の一時延期などが必要になる場合はあるかもしれませんが、それでも倒産よりはまだマシということです。「追い貸し」の効果には、そうした部分があると思われます。

とりあえず。


前期までは一応「追い貸し」でどうにか大量壊死には陥っていなかったと思われますが、後期からは銀行が投資リスクを回避することで「貸し剥がし」「貸し渋り」のようなことが起こっていきました。これは酸素需要を行えないような状況に陥ったということです。まさしく「清算」の道を驀進することとなったであろうと思われます。これが大量の壊死組織を生じることになったでしょう。

更に、壊死寸前のゾンビ企業は恐らく「実質金利」の上昇によって相対的に債務負担が増加してしまい、その変動要因がダイレクトに伝わった為に、壊死に陥りやすくなったであろうと思われるのです。この実質金利上昇は「デフレ」によってもたらされたと思います。アジア通貨危機も変動要因として強い影響を持っていたであろうと思います。心臓で言えば、負荷が増大し「酸素需要が増加」した、ということです。元々血管が狭窄していた(=資金供給が細っていた)ことと、負荷が増大した(=実質金利上昇、消費税増税、通貨危機や銀行破綻などが起こった)ことなどによって、急性心筋梗塞に陥ったのであろうと思うのです。そうして98年以降失業率はうなぎ上りとなり、「真の失業率」の乖離幅も加速的に増加していくことになるのです。「負荷を軽減する措置」「血管拡張させる措置」という政策パッケージが必要であった、と思うのですよね。


効率の悪い企業が撤退させられ、効率性の高い企業が新規参入してくれば、経済成長の停滞は避けられたとかいうのは、経済理論では多分正しいと思いますが、現実世界でそれが本当に効果的に起こるとは限らないのではないでしょうか。大筋として正しいのですが、変化が急激すぎであった場合には、入れ替わりがスムーズにいかず、そのことが停滞を招いてしまうことはあると思います。長期的には望ましくても、一定期間内でそれがうまくいくとは限らないのではないかな、と。


骨は新陳代謝があって、僅かながら「取り壊され」て、その代わりに新たな骨が作られていきます。普通は自分の顔の形とか腕や頭の形が、大きく変わったと感じる人はいないでしょう。でも骨は取り壊されているんですよ。それは大きな領域の骨が一気に取り壊されてなどいなからです。顔が変形するほど骨が壊されたら、「新たな骨が作られるから全然問題なんかないし、大丈夫だ」とか言うでしょうか。新陳代謝にも一定の取り壊し水準があるし、それを超えて壊されれば機能不全に陥ると思います。「新陳代謝が必要なんだから、一気に入れ替えればいいんだ」とか言って、上腕の真ん中で全部取り壊されたら間違いなく骨折しますよ。筋力に負けて真っ二つに折れますよ。そうなれば、腕を使うことができなくなります。当たり前なんですが。ミクロで見れば着実に取り壊されて新たな骨が作り変えられていても、それがマクロ的に見て(経済活動でいえば、その産業界全体ということかな)外見が大きく変形したりするほどであれば、それは「病的」としかいいようがないのです。ゾンビは退出させよ、新たな企業が参入すればいいんだ、というのは、長い時間経過の中でみれば正しいけれども、急激なのは良くない面があるかもしれないのです。


経済活動の中では、仮に農家を辞めて別な仕事に就こうと思っても、直ぐには労働力が移動できないことだってありますよね。それまで農業しかやったことがなければ、直ぐに仕事が見つけられるかどうかわかりませんから。それは住んでいる地域の問題があるかもしれないし。年老いた親を置いて他の地域に移動できないとか、そういうこともあるということです。経済理論では、「仕事を辞める」「廃業する」ということから、次の新規参入とか新たな産業・企業への労働力移動なんかは極めてスムーズに行われることが多いのではないかと思いますが、現実世界では中々そうはいきません。

骨の新陳代謝の例で言えば、大きく取り壊されたりしてしまえば、新たな骨が作られるまでは長い時間がかかるのです。経済学の理屈では、そういった時間経過をどのくらい正確に評価しているのか、その影響の大きさをどう見ているのかはよく判らないわけですが、現実世界の中ではタイムラグはあるし、そのラグの大きさ如何によっては、人々の人生を大きく狂わせるくらい重要なことなのですよね。まさか「退出している間は死んでいてくれ、新規参入の際には生き返ってくれ」とかできるわけではありませんしね。


要するに、ゾンビが存在したこと、それ自体が根本原因ではなくて、結果的に観察された現象ではなかろうか、という印象が強いですね。追い貸し効果がある程度機能していた前半までは、どうにか持ちこたえていたと思います。むしろそれを止めてしまったことが清算企業を無駄に増やし、それに代わる新たな投資もあまり生まれてこなくなり、停滞を深刻化させた可能性すらあるのではないかと思います。清算よりも、合理的な「再建」プランがもっと必要だったと思います。



浅田真央ちゃんは本当に偉いね

2007年03月24日 22時38分19秒 | いいことないかな
一家全員で応援していました。

泣けました。本当に…
スゴイ精神力だと思いました。

夫婦で涙してしまって、真央ちゃんはスター性抜群なんだな、と思いました。
こういうスターって、本当にいるんですよね。

とりあえず。


安藤美姫が優勝とは!
大人になったね、美姫ちゃんは。
我が家では「年が行ってるから、安藤さんに勝たせてもいいよ」とか言ってた。

それにしても、アジア勢が表彰台独占とは、時代も変わったな、と思った。トップ5でも、1人を除いてアジア勢だし。これってスゴイことです。



『「これをやったら急激に頭がよくなった」という方法』に群がるのは何故なのか?

2007年03月23日 17時27分50秒 | 俺のそれ
はてなの住人は「頭がいい」ネタが大層お好きらしい(笑)。


前にも記事に書いたが、多くの人々が「一発解答」を求めているように見受けられる。結論的には、「誰にも判らない」としか言いようがないのが現状なのではないだろうか。「コレをやれば…」というのが本当に確立されるとしたら、もっと人間について色々なことが判ってからだろうと思うのだが。世の中、こうして何かにすがりたい気分が充満しているのであろうか?


あるあるの納豆騒動も同じようなものかと思う。

「手軽に簡単に痩せられる方法を教えて下さい」
   →「毎日納豆を50g食べれば痩せられます」

みたいに解答が得られたとして、この答えには何か意味があるのだろうか?(笑)
実体験として「私が痩せられたんだから、いいじゃない」とか、「現実に痩せたのだから効果があったのよ」とか、そういう主張をするでしょうか?こういう解答を見たら、かなり多くの人が「これはひどい」とか「トンデモ」とか「頭がわるい」といった意見に集中しそうなんですけどね。ところが「頭がよくなる」という話題に振り替えられただけで、どうしてこうも人々の反応が変化するのか興味深いですね。


例えば、暗算とか算盤ネタは丁度先日書いたばかりだが、これを挙げている人も複数いるね。算盤十段の彼でも、難関校には行かない学業成績だったけど、すると彼は「頭がよいとは言えない」とか言われちゃうんだろうか?

だいいち、「頭がよくなる」ということの評価は、どう考えているのであろうか?「入試(テスト)の点数がアップする」とか?それとも、「大学の評定が向上する」とか?「読んだ本を百冊暗記できるようになる」とか?「一分間に何万字読めるようになる」とか?
なんだかよく判りませんけれども、基本的に「頭がよくなった」って思ったところで現実にそうなのかどうやって判るのかな、とは思いますね。最も普通に考えられるのは、「元々の能力に依存するんじゃないの?」という問いに答えられないと思うのですよね。要するに「生まれつき頭がよかったんじゃないですか」ということなんですよ。これに答えられるかどうか訊いてから、解答をもらった方がいいと思うね。もしも「遺伝的要因」であった場合、”来世”で優秀な両親の元にでも生まれ変われないと何をやっても無理ですから(笑、冗談ですよ)。


もし質問するなら、求めたいものをもう少し限定するべきでしょうね、きっと。
「自転車に乗れるようになる為のトレーニング方法で有効だったもの」みたいな。仮に勉強の範囲で言えば、「数学のテストで点数アップが期待できる勉強方法・トレーニング法」とか。

もうちょっと書いてみる。
水泳とかゴルフとかテニスとかを小学生入学後から始めた場合、あるトレーニング方法を子ども100人が実践した時に、みんな「同じレベル」に到達していると思うか?

たぶん多くの人たちが「ある程度開きがあるんじゃないだろうか」と考えるのではないか。まさか同じトレーニングをしていれば「みんなゴジラ松井と同じようになれる」とか、「タイガー・ウッズと同じくなれる」と思ったりするわけでもあるまい?これが勉強とか「頭がよくなる」みたいな話になると、「みんな同じようになれる」という発想をするのは何故なのだろうか、というのが根本的疑問なのである。同じトレーニング方法を選択したとしても「違うレベルにしか到達しない」と考えているのであれば、「急激に頭がよくなる方法」という一発解答を聞いてみたところで「大した意味はない」という風に考えるんじゃないだろうか。

別な例で考えてみよう。ゴルフのトレーニング法でAとBという方法があり、これをそれぞれ同じ年齢で平均的体格の子ども100人(たとえば人種や平均身長、体重等で違いのない集団ということ)が実践するものとする。ドライバーの飛距離とフェアウェイキープ率で評価した場合に、Aの方がBよりも成績が良かったとする。この場合には、Aというトレーニング法はBに比べると、「ドライバーショットの能力向上に効果がある、有効であろう」ということは言えるかもしれない。通常、優れたコーチなんかだと、そういう「有効な方法」を商売の種として「知っている、持っている」というようなことなのではないかと思う。でも、Aという方法だけを実践しているトレーニングスクールと、Bという方法だけを実践するスクールがあって、全く同じ人数が存在していても、「プロテストに合格する割合」なんかで見ると、あまり違いがないかもしれないし、年度毎でかなりばらつきがあったりするかもしれない。それとも、Aを同じように選択していたのに、「優秀な子」と、「パッとしない子」のような違いを生じるであろう。或いは、Aの方法でトレーニングしたのに、Bの方法を選んだ子より成績が悪いこともあるかもしれない。

ドライバーショットの方法だけに限らず、「プロテストに合格するのに効果的方法」を見ても似たようなもんかな、と。もしこれが「トレーニング法」の選択に関係ない結果であるとすれば、元々持ってる個性と言いますか、個人的資質と言いますか、所謂「センス」ってやつですか、それに大きく影響を受ける、という結論になってしまうのであれば、トレーニング方法の選択自体には殆ど意味はないかもしれないですよね。ただ、平均的にはAの方がBよりも有効で、あるレベルに到達するまでの時間短縮には繋がるかもね、といったことはあるかもしれないが。

みんなの体験に基づく「急激にゴルフがうまくなる方法」というのを実際にやってみると、自分には合わない方法(先の例で言えば、AよりBの方法で優秀だった子のような)であったりするかもしれないし、胡散臭いだけの「オレ流トレーニング方法」かもしれませんよね。これは「私はコレで痩せました!毎日スイカ1玉完食ですよ」みたいなものと、区別がつかないのではないかとしか思えません。「私はこれで急激に頭がよくなりました!毎日サンマを食べました」というのと、「毎日暗算を1000問やりました!」というのは、大した違いなどなさそうです、ということです。

ある子どもが「ゴルフに出会って」メキメキ上達し、元々センス抜群であったので普通に練習していてもプロになったかもしれないが、「5円玉をパッティングするという練習方法に出会って継続したら、凄く上達しプロになれましたー!」とかいうのを聞いて、「なるほどな」と思ってみんなが同じことをやってみたところでプロにはなれない連中が圧倒的大多数ということなんですよ。この子が5円玉パッティング法に出会って、それ以降急激にうまくなったように感じたのはただの偶然で、別な片手ハンガー素振り法(笑、そんなのないと思うけど、漫画っぽく表現してみました)であったとしても結果はあまり違わないかもしれませんよ、ということです。


そういうようなわけで、「急激に頭がよくなった」方法とか体験談がこれほど関心を集めるのは、不思議です。そんなに頭がよくなりたいという願望が強いのでしょうか。頭が悪いのは誰のせいだい?―「アタシだよ」じゃなかった、私の場合には自分の親を見れば大体想像がつくので、「その程度だわな」と思っています。年寄りのせいというのもあるか。40過ぎだしね。でも、多くの人々は「個々の持っている脳の基本的性能」みたいなのは、ある時点で「頭打ち」(脳みそだけに、笑)になっていると思いますね。


そもそも、「頭が急激によくなる」ことで、何をどうしたいのでしょうか?何を達成したいのでしょうか?そういうところが一番重要なのであって、それを自分で考えたり見つけたりできない限り、他人の「こうすれば頭が急激によくなる方法ベスト20」(笑)みたいなのを実践してみたところで、クソの効果も得られないということが圧倒的に多いだろうと思いますね。しょうがないんじゃないかな、自分は自分なんだから。もっと自分を愛せよ、と言いたい。

この前の逮捕されたエリートの成れの果てみたいな場合だと、超難関の慶応医学部出て官僚になっても、結局「頭が悪い」んですから、そんなもんなんですよ。そういう人間よりも、人生でたった一度だけでも「誰かを救ってあげられる」とかの方が「頭がいい」んじゃないかと思う。落ち込んでるヤツにかけた言葉とか、挫けそうな人を励ましてあげたとか、誰かの不安な気持ちを判ってあげたとか、そういう方が「頭がいい」と思うよ。


そういうわけで、「頭がよくなる方法を全てマスターして実践するオレ」になることよりも、「今より頭が使えるようになった自分」だったら、こうする・こう言ってみたい・こんな生き方をしたい、というようなことを「自分の頭で考えられるオレ」になってもらった方が何倍もいいと思うのだが。それを考えるだけじゃなくて実行していくと、いつの間にか「今より頭が使えるようになった自分」になっているんじゃないのかな。



初めて知る林信吾氏の存在

2007年03月22日 21時49分37秒 | 俺のそれ
どうでもいい話だが、JSF氏の所のコメントが700超行ってた。久々に見た、こういう炎上っぽい(違うんだけど)コメント数。

シリーズが長くて、全部読むと疲れるので、本文をチラチラとしか見なかったが、何だか凄すぎて笑いました。


原稿料の高い林信吾氏という人が本を書いて売っていて、その著者が自ら征伐?しに登場していたようであった(実際本人かどうかは私に確認する術がないので、JSF氏のブログ記事を信じるものとした)。が、普通に会話ができない、罵倒系の人って本当に存在するんですね。驚きました。
私はこういった本を全然読まないので、林氏の存在すら知らなかった。出版物に登場する時にもこういう態度を取るのでしょうか。ネットの片隅のコメント欄に書くような、裏の時だと本性丸出しで、こういう酷いコメントを残すのでしょうか。ちょっとよく判りませんが、何と言いますか、呆れてしまいました。まあ、裏表のある人物というのは必ず存在しますので、仕方がないことなのかもしれません。


やはり子どもが悪いのではありませんね。
大人が悪いのではないかと思いました。こういう行為や態度を平気でやってる大人が悪い見本を作っているのだな、と。



「ボナンザ」スゲー

2007年03月22日 19時54分14秒 | いいことないかな
例の、注目の将棋対決。人間vs機械。ああ、コンピュータ。所謂、AIか。

これほど強いとは予想だにしていなかった。本当に、このままでは人間を凌駕するプログラムができるかもしれないな。


Yahooニュース - 産経新聞 - 将棋最強ソフト 凡ミス…プロに及ばず


「凡ミス」ってのはちょっと可哀想なんじゃないだろうか。「読めてなかった」というようなことなんでしょう。ボナンザ的には、その手の評価が低かった(=相手はその手を指してこないだろう)ということなんでしょう。つまり「人間に近い」思考パターンを持っている、ということなのかもしれませんよね。人間であれば、1手詰み局面で間違えて負けたりするので(笑)。まあ、ミスはミスなのかもしれないが、「凡ミス」ではないよね、多分。

にしても、人間が、それもプロ級が負けるくらい強いソフト、というのは驚きだ。


まだまだスゴイ未来が待っているかもしれない。


離れている間に・・・・

2007年03月22日 16時11分15秒 | 俺のそれ
暫くネットから離れていたってヤツは誰だい?――「アタシだよ」


唐突ですが、少し前から我が家の注目株は「にしおかすみこ」です。初めてテレビで見かけて以来、口調の面白さというか、独特のフレーズが忘れられず、最近彼女のマネを頻用しています(どこで?笑)。


参考までに、彼女のブログを発見。

ワタナベエンターテインメント「にしおかすみこ」

初めてチラッと読んだが、大変そうだな。今年に入ってからでも、厨房で働いていたのか!売れない芸人関係は、ありがちな話なのであろう。感心する。

今どき、ブログはマイナーな芸人でも書いているんですね。


こんな話はどうでもいいのですが、ネットから少し離れると流れている「速さ」にちょっと驚きました。既に色々な話題が過ぎ去ってしまっていて、何だか乗り遅れた気分になりますが、これも錯覚なのでしょう。全部を知る必要ってないもんね。



後ほどコメントも書いていきたいと思います・・・・



歴史は大事なんだよね(追加あり)

2007年03月19日 21時45分12秒 | 経済関連
ちょっと時間がないので取り急ぎ。

以前、日本経済の停滞原因はTFPの低迷とか何とかあったよね。

イルカはサメになれない


これの関連で、原田泰氏らが書いてたペーパーで見たことがあって、それをご紹介と思う。

資源配分効率から見た戦前期日本の成長と変動


これは例の生産性論争の時、見つけたんですよ。勉強させてもらえて有り難いことです。あと、過去の歴史から色々な教訓を学ぶのは、大事ですよね、やっぱり。


後ほど追加したいと思いますが、とりあえず。



追加です。

このペーパーの中で「4. 乖離と全要素生産性の変化で昭和恐慌を説明できるか」という項があるのですが、そこでの記述を一部取り上げたいと思います。

『表2(1)に見るように、22-29年に順調に成長してきた経済が、29-31年に昭和恐慌に陥った。このような成長率の変動の大部分を説明しているのはTFPである。すなわち、1922-1929年の年平均成長率2.84%が29-31年にはマイナス3.65%へと6.49%ポイントも低下したことの大部分は、TFPが1.01%からマイナス5.25%へと低下したことによって説明される。

次に、全要素生産性を一定とし、実質賃金と労働の限界生産性の乖離がなかった場合の29-31年の仮想的な成長率と現実の違いに関しては、表2(2)のようになる。これによれば29-31年の平均成長率は3.73%と現実値に比べて大きいのみならず、29-31年の2.84%よりも大きくなる。これは実質賃金の低下により雇用が増大することとTFPが一定であるとしているからである。すなわち、この場合には、昭和恐慌は存在しなかったことになる。

しかし、TFPの低下はきわめて大きいので、TFPをソロー残差としたままでは、実質賃金の乖離がなくても生産は大きく低下する。だが、TFPがこの期間に急減したことを説明する要因を見出すことは困難であり、TFPの低下が昭和恐慌の原因であると結論付けるのも難しい。』

昭和恐慌における分析ではTFPの低下が観察され、成長率低下の大部分を説明されうるようである。バブル崩壊後の期間においても、同じくTFP低下が観察されるようであり、これにより成長率低迷を説明する試みがなされたということなのであろう。考え方としては、同じように思われる。成長率低迷があれば、その変動原因となっているか否かは正確に判らないまでも、TFP低下が観察される、ということなのであろう、と理解した。


続いて、「5. 経済変動の要因は何か」から引用してみる。

『以上要すれば、マネーサプライの変動が、実質賃金と労働の限界生産性の乖離とソロー残差と現実の生産と推計された生産との乖離の変動を引き起こしていると言えそうである。もちろん、因果関係を逆転させて、生産性の変動が金利を安定化する金融政策のもとでマネーの変化となったと論じることは可能である。しかし、そのためには、金融政策とは関係のない生産性の変動や実質賃金と労働の限界生産性の乖離が生じたことを説明しなければならない。しかし、そのような説明の試みはなされていないようである。』


ここまで見てくれば、TFP低下が原因であると考えることは難しい。むしろ観察される現象の一つであるとみなすのが妥当なように思われるのである。何故なら、もしも成長率低迷の最も重視するべき要因として「TFP低下」があるのであれば、金利政策の必要性そのものが感じられないからである。日銀はそもそもいらないのではないか、とさえ言えるかもしれない(これは言い過ぎか)。景気動向などに左右されて金利を調節する意味合いは殆ど感じられないからである。景気後退期になれば、TFP低下を防ぐ(高める)政策を常に選択すればよいということである。それが「原因に対する対処」ということになるのではないか。

仮説として、

◎成長率低下(低迷)の主な原因は、TFP成長率低下である

ということが言えるのであれば、金利政策の主な意味合いというのは何になるのであろうか?

経済変動によって生じる物価変動に対する、パッシブな物価コントロールというようなことであろうか。そもそも「景気が悪ければ金利を引き下げる」とか「景気が良くなれば金利を上げる」ということ自体が、「根本的に間違った説明」になってしまうように思われる。教科書をよく知らないから、このような疑問を生じてしまうのかもしれませんね。


例えば、「血圧が低下する」という現象が観察される場合、原因はいくつも存在している。大雑把に言うと、
①心臓から送り出される血液量(心拍出量)が減少する場合
②通り道である血管の狭さ(要するに容積、血管抵抗)が変わる場合
③循環血液量が減少する場合

のようなものがあります。これらのどれかが起こっていれば、「血圧低下」として観察される、ということなのです。原因が別ですので、対処も異なってきます。①の場合は、心不全とか心筋梗塞のような心臓のポンプ機能に問題が生じた場合なんかが多いです。②は血管が拡張するようなホルモンや薬物の影響とか、自律神経系の反応とか、一部のショックのような状態の時に起こります。③は代表的なものは出血ですね。

基本的に電流、電圧、抵抗の関係性とほぼ近いでしょう。ここで、「血圧低下の原因は~である」という仮説を考えることにしましょう。観察された現象が、「血管拡張」すなわち「血管抵抗の低下」であったとしましょう。
すると、仮説として

「血圧低下の原因は血管抵抗の低下である」

と言える、という主張をするということになります。この仮説自体が間違っている訳ではないのですが、これだけでは病状を改善することは難しいかもしれません。血管拡張を改善する為に「血管収縮薬を投与すればよい」と短絡的に考えてしまうかもしれませんが、それが必ずしも良い結果をもたらすとも言えないのです。更に考えるべきことがあるのであり、それは「何故血管抵抗が低下してしまったのか?」ということを探求しなければならないのです。ひょっとしたら、感染症が原因かもしれないし、神経系の障害が原因かもしれません。

つまり、
「血圧低下の原因は感染症である」
「血圧低下の原因は神経障害である」
「血圧低下の原因はショックである」

のような表現が必要なのです。観察された現象としての「血管抵抗の低下」と言うだけでは、不十分なのです。勿論、患者を目の前にした場面では、全てが正確に分らないままであっても治療を行っていかねばならないでしょう。血管拡張が実際起こっていることを直接観察なんかできない状態で、消去法的に可能性を絞り込んでいくしかないのです。


そういうわけで、元の仮説、「成長率低下の主な原因は、TFP成長率低下である」というのが、十分な説得力を持っているのか疑問に思われるのです。