いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

「バトー、残念だがお前は産めない機械だ」―by トグサ

2007年01月31日 18時13分13秒 | 社会全般
ますますヒートアップする柳沢バッシング。ちょっと気の毒。
森元総理のことを思い出すね(笑)。前にそれも触れたのですけど(参考記事)。「神の国」発言で、所謂「言葉の切り取り」「言葉の独り歩き」というので、格好の攻撃目標となってしまいました。しかもメディアで繰り返し報じられることで、十分情報を行き渡らせ、女性たちの怒りを煽ることになり、一地方都市の「閉じられた参加者」の集会という場での発言をネタに、辞任要求まで出されるとは…。

そもそも、こういう閉鎖的講演会での内容というのは、完全に広く公開してもいいものなのでしょうか?仮に、「きっと儲かる株式投資講座」みたいな場があって、そこでコッソリ「推奨銘柄10選」とか教えてもらったとして、それを参加者たちとかそこに居た誰かが外部に完全公開してしまうと、大変なことになるように思うのですけどね。

でも、大臣の発言内容ならばよい、ということなんでしょうか?ちょっとこの辺の法的な考え方とか判らないんですけどね。

ところで、しょうもないタイトルですみません。まあ、深い意味はないです。


話は変わりますが、NHKの番組改変に関わる訴訟がありましたが、微妙な判決であったようですね。当時書いた記事を読み返してみたのですが、気恥ずかしいです。

報道の中立性

あるある捏造問題とか、NHKの問題というのを通じて、「テレビ」「報道」ということについて、考えてみる機会になるかもしれません。信頼度では高い評価を得ているのですけれどもね……

信頼される組織・制度は

でも、実際は思っていたほど信頼に値しない組織だったのだ、ということに気付くべきでしょうね。メディア側が変えようとしなければ、神話?か幻想か判りませんが、必ず崩れ去るでしょう。一度信頼を失えば、そう簡単には取り戻せないものなのです。


爆笑だったので、ちょっと追加です。

今日、ウチの子のクラスでも「産む機械」発言で盛り上がっていたそうです(笑)。さっき教えてもらった。既に、中二にも取り上げられる話題となってるんですね。

一応、中二女子の意見として、次のような感じだったそうです。
「産む機械って、ちょっとね。機械まで言わなきゃね…」
「そりゃ、女の子だから、産むのはそうだけど…」
「でも、産めない人は壊れた機械ってことで、酷くない?」

だって。うーん、確かに。
でも、ウチの妻は「ちょっと滑っちゃったんでしょ?しょうがないでしょ。別に辞める程のことじゃないよね」と言ってました。どうなるんでしょうね。



06年の実質賃金

2007年01月31日 16時59分55秒 | 経済関連
この前、個人消費のことについて書いたのですが、やっぱり賃金は厳しい状況ですか。日銀の”引き締め”策実施後には、停滞が明らかになってきた、ということですかね?素人の私には、よく判らないんですが。折角ですから、実質賃金が減少したのは日銀の利上げのせいではない、とか擁護してあげた方がいいんじゃないですか?エコノミストだか、経済評論家とか何とかの肩書きで「利上げするべし」とか言ってた人たちは(爆)。


実質賃金2年ぶり減 景気回復 家計に波及せず

(以下に一部引用)

厚生労働省が三十一日発表した毎月勤労統計調査(速報、従業員五人以上の事業所)の二〇〇六年まとめによると、物価上昇分を差し引いた〇六年平均の実質賃金は前年比0・6%減となり、二年ぶりに減少した。物価が緩やかに上昇する中で賃金の伸びは抑えられ、景気回復の恩恵が家計に及んでいないことがあらためて浮き彫りになった。

残業代などすべての給与を合わせた現金給与総額の月平均は、0・2%増の三十三万五千五百二十二円と二年連続で増加。しかし、所定内給与は0・3%減の二十五万二千八百十円と、二年ぶりに減少した。所定内給与が減った理由について厚労省は「若年者を中心に(賃金が安い)パートや契約社員など非正社員が増えた結果」(雇用統計課)としており、企業が安価な労働力にシフトする動きが昨年も継続していたと分析した。実質賃金は、現金給与総額をもとに物価上昇分を考慮して算出する。一九九八年以降マイナス基調だった実質賃金は〇五年に五年ぶりにプラスに転じたが、再びマイナスとなった。




日銀の人たちは、総裁、副総裁や政策委員とか、その他専門の人たちがいっぱい揃っていて、本当にアレなんですかね。「賃金上昇」を謳ってた人たちは、是非ともここで名乗り出て欲しいですね。「06年は、賃金上昇という形で、家計にも波及する」という見通しを立てていたんでしょう?違うの?

専門家の判断というのは、本当にどうなんでしょうか?これを誰が、どのように評価するのでしょうか?たとえ政策的に誤りであったとしても、彼らは誰一人何の責任も負わないわけです。結果責任ということについて、一切、問われることもないのですよ。きちんと検証することもなく、そもそも「失敗であった」ということを認めることすら一切できないのですよ。そういう心底「Bureaucracy」の染み付いた、硬直的な組織なのですよ、日銀というのは。

まず、「失敗だった」「良くなかった」ということを認めるところから始められないと、改善や向上は全く期待できないだろう。これはどんな分野でもそうだと思う。だが、「認める」ということのできない連中が、改善するどころか余計に悪い伝統にだけ固執しているのだ。それで、どんなフィードバックが働くというのか。故に、彼らは失敗から教訓を得ることができないのである。失敗から学ぼうとしないから、同じ誤りを繰り返し、同じように失敗し続けるのである(これも前に書いたが)。組織としては、既に腐っている。昔のフレーズで言えば、「オマエは既に死んでいる」だ。

はっきり言いますと、日銀の政策決定は、「ヤマ勘」と大して違いがありません。それも、大ハズシの。大体の雰囲気、印象で決めてるんですよ。これまで、そういうので何となくやってこれたから。しかし、変化やそのスピードにはついて行けてない、対応もできてないのです。実戦で全く役立たずの連中が、敵がもう目前に来て弾が頭の上に飛んできてるのに、ノロノロと教科書やマニュアルを広げて「どうやって撃ち返すのか」と迷っているようなもんです。司令部にいる上官がそんなありさまですから、国民は次々と無駄死にするのです。先行きについて、慎重な洞察も、豊富な経験に裏打ちされた鋭い予測も、見落としがちな予兆を察知する観察力も、何も持ち合わせていないのですよ。作戦指揮能力を著しく欠いているような組織に命運を託している方は、たまったものではありません。専門家という看板を掲げているのであれば、まず自分達のやっていることに対する評価をもっと厳密にやるべきだ。レベルが低すぎる。厳しさのハードルをもっと上げていくのは当たり前で、「いつまで経っても同じ」というのは何も良くなっていないということだ。企業だったら倒産してるぞ。

素直に、「ここは悪かった」「もっとこうすれば良かった」「次からはここを注意してみよう」というような、反省(=評価)をきちんとやって、それぞれに対して「改善策」を講じるのは当たり前だろ?それが普通なのではないか?これを繰り返しやっていけば、精度は向上するだろうし、研究成果などによっても使える知見は増えていくはずだから、その分良くなるはずなのだ。なのに、それすらできない。それは、「ここが間違いだった」という反省を誰もしない、できないからだ。本当のヤブなんですよ、日銀は。完成度が上がっていかないのです。

フィードバック機能もなく、いつまで経っても官僚主義を脱却できない機構と伝統を持つのが、日銀という組織なのでしょう。こんな連中は、絶対に信頼できない。



教育を考える13

2007年01月31日 10時39分26秒 | 教育問題
朝日新聞に本田由紀先生の論説が載っていた、というのをH-Yamaguchinet 教育再生会議から学んだことで知った。
山口氏のご意見は、政治的な決定プロセスという部分に着目して、専門家同士の会議では中々踏み込めない部分については「専門外」の構成員が多数含まれている、教育再生会議のような「超越的諮問機関」で踏み込むという手法も一法であろう、ということだと理解した。うん、そうかもしれない、というのを私も思う。だって、専門外のことにばかり首を突っ込んで色々と書いているのは、何を隠そう私だからである(笑)。これまでの教育の専門家たちの議論というのは、対立点があったりすると、そこから先に進めなくなって、結局具体性に欠ける合意点にしか到達できなかった、という部分があったのではないかと思える。故に、教育行政については、一貫性も決定打(これは過剰な期待かもしれないが…)も見出せなかった。昔の記事の中にも何度も書いてきたのだが、専門外でしかない国民の「じゃあ、どうするのさ?」という素朴な疑問に対して、明確に説明することがなかった、答えを用意してこなかった、ということなのではないかと思う。

これは教育分野だけに限ったことではなく、他の学術分野でも同じような問題構造を持っているかもしれないのだが(ニセ科学云々と似た部分はあるように思えるからである)。教育再生会議の位置づけと似ているのは、上限金利問題で議論を呼んだ貸金業に関する懇談会もそうかもしれない。国民の大多数や市町村議会からの提出意見は、全て上限引下げを求めるものであったし、懇談会メンバーは全部が金融関係の学者や専門家ばかりということではなかった。これがもしも経済学者たちや業界専門家たちだけで構成されていたならば、踏み込めない部分はかなりあったかもしれない。そういう意味では、「超越的諮問機関」の「素人感覚」的意見というのは、局面打開の推進力になり得るかもしれない。

前置きが長くなってしまったが、本題に入る。
この前の中教審での山田先生の議論(教育を考える12)を選択したのには、ちょっとした理由がある。それはあの回の提出資料に、中々重要なことが書かれていたからである。これはついこの前の記事の中にも、チラッと含めておいた。「勉強時間」をただ単純に増やせばいい、という発想が本当に望ましいのか、という問題があるからである。「成績」との関係というのが、あまり明らかになっていなかったからである。OECDの比較なんかでは、成績優秀なフィンランドの授業時間数が、そんなに飛び抜けて多かった、ということも認められなかった(笑)。本田先生の論説は、そのことを的確に指摘していると思えるし、そちらの解説をよく見て頂いた方がいいだろう。


今回は、これを取り上げたい。

子どもたちの自己評価・勉強観・将来の希望について


この中から、いくつか気になった部分をピックアップしてみる(資料は、ご自身で内容を確かめられた方が良いと思います)。


◎生活の中で重要なこと(の上位回答)
(「きわめて重要」と回答した比率、%)

同性の友人との交友  62.5
学校の勉強  49.1
一人でいる時間  43.9
家庭生活  43.3

何と、「おトモダチ」関係が一番大事、ということが窺える。しかも同性。これは年齢にもよるのかもしれないが。最も気になるのは、要するに「自分が友人関係の中で浮かないように」とか、「友達が一番理解してくれる」とか、そういう思い込みなのか幻想なのか判らないが、「友達と繋がっていないと超不安」症候群(私の勝手な創作です、失礼)みたいなことのように思える。価値観として、友達は大事なんだ、というのは同意なのですが、やや違和感があることはある。

疲れたので、砕けて書きます。

携帯を一日何時間くらいやってる(操作?)か、とかの質問で、2時間以上やってるヤツラとか、6時間くらいやってるとか、もう信じられないわけです。アホかと。下手すりゃ、睡眠時間よりも長いんじゃなかろうか、というくらいの勢いなんですよね。そりゃ、さすがに「やり過ぎ」だわ。勝手な推測だけど、それもきっと「おトモダチ」関係を継続させていくための、相当な自助努力なんだろうな、と思ったりするわけですよね。そんなに、交友関係を維持していくのに、コストかけてどうすんの?とは思うわけです。時には、深刻な話を聞かされたり、色々と悩みを打ち明けられたり、仲違いをしたり、あれこれあるだろう、というのは理解できる。でも、友達同士の関係の中で、そんなにコミュニケーションを努力しなくてもいいんじゃないか、もうちょっと気楽に行ってもいいんじゃないか、とは思うね。ひょっとして、全てを知りたい、みたいな勘違いとかあるのか?赤の他人なんだから、判らないことだらけだと思うよ。それで、いいじゃないか、と思うね。

なので、「友人」呪縛によって、相手が「時間をかけてつくす」のだから、それにこっちも応えていかねばならん、みたいなことになっているんじゃないでしょうか。それって、低年齢のうちに、子どもの世界の中で「トレーニング」を受けてない(少ない?)からとか、あるんじゃないだろうか?どうなんでしょう?よく判らんけど。どっちにしろ、昔は電話すること自体が滅多になかったし、電話してても「家族みんなが聞いている」中で、会話せざるを得ず(昔は全て有線方式の固定電話が居間なんかに置かれていた、笑。ワイヤレスだの、子機だのが登場するまでは、手に持って何処かに行くなんてできんかったのよ)、短くしか話さなかったね。学校で、面と向かった時に話せばいいんだよ。でも、今はそういうのが難しいのかな?全員が交換日記(=今で言えばメールでやりとり)でもやってる感じなんだろうか。そう思うと、何だか笑える。交換日記を非難してる訳ではないですよ、勿論。でも、(男のくせに)交換日記なんて…とは思ってた、昔(なので、やった経験はない)。


◎してはいけないこと(%)

先生に暴力をふるう  77.3
友達をいじめる  78.7

規範意識については、米中に比べて低い数字が多い。特に、教育再生会議でも議論に上がってきた2つを見れば、約2割以上の子どもが、「してはいけないこと」と認識していない面がある、ということが問題だと思えた。「親に反抗する」という項目でも4割を切っており、米中の半分程度でしかない。これらから思うところを述べれば、子どもにとって「絶対的権威」のようなものが存在していない、という面が強く感じられる。言葉として「絶対的」とか「権威」とか言うのが不適切なのかもしれないが、まるで社会のルールとしての法みたいなものがない、という印象である。普通の社会では、違法なことに対しては、それに対する法の強制力が働くようにできている。店に陳列されている商品を見て、自分がどんなに「これが欲しいー」と思っても、それを自由勝手に自分のものにすることはできない。しかし、子どもたちは「自分が主張」すれば、そこそこ通ってしまう、という経験を積むことで、自分のものにできる、という「学習」効果を得ているのではないだろうか。要は、甘えであり、我慢がないのである。自分の意に反して「受け入れなければならない」ということがたくさんある、ということを経験的に学んでいない面があるのではないか。

そうは言っても、してはいけないと認識しているのが多数派なので、みんなが問題になるわけではない。けれども、家庭生活の中での親子関係に、子どもに同調しがちとか「おトモダチ」感覚でしかないとか、そういう部分は多くなってきているのかもしれない。基本的には、してはいけないことやルールを守ることなんかは、家庭で教育するべきことであり、学校教育での問題であるとも思えないのである。主に大人(親)が「ルールを守らない」というような規範意識の低下が酷くなっている影響かもしれず、政治家や知事や高級役人などがボロボロ逮捕されたりしているのを見れば、一体全体どういう教育を受けてきたのか、とは誰しも思うだろう。子どもばかりを責めるのは酷かもしれない(笑)。

親子の間では、衝突や反抗したいこととかは必ずあるし、それは子どもの成長の証でもあるように思うので、絶対服従みたいな軍隊式が良いとは思わないが、それでも基本的には「親」という権威の前には従うというのが規範であるし、その延長として先生(という権威)や大人たちには従う、ということがあるのではないかと思う。子どもたちが力関係を認識する時、自分と同じかそれ以下であるという場合には、当然それ相応の態度を取るのではないだろうか。昔ありがちだった、「校則は管理教育で害悪だ」「権力によって押し付けるのは子どもの人権を侵害する」「子どもの権利を守れ」というのも、部分的にはそうなのかもしれないが、別な面では過度に「放任」になってしまって、何の強制力も働かない・罰を受けないというのが子どもに「見透かされている」という方向に来てしまったのかもしれない。何だか、ドラマの「女王の教室」を思い出した。


◎クラスのいじめに気づいたら(%)

いじめをやめさせようとする  45.2
そのまま見ないふりをする  54.8

いじめについては、傍観者の立場になっている方が多い、ということである。これが中3だと6割以上が見ないふりをすると答えている。段々と、「やめさせようとして」逆に浮いたりターゲットにされるくらいなら、見ないふりをした方がいい、ということを学習するのかもしれない。人間はそれほど強くはないですよね。先の「おトモダチ」関係を維持するということともちょっと関連しているのかもしれない。異質性というのを極度に恐れるのかも。イジメに関しては、もっと専門的なご意見が多々あるので、対策等は別に考えてもらった方がよいが、家庭では卑怯者への嫌悪感みたいなものを子どもに教えてあげられるとよいかな、と思う。



福島産科死亡事件の裁判・その2

2007年01月30日 14時36分41秒 | 法と医療
この前、本当に「失血死であったのか」ということを疑問に思い、ちょっと記事(福島産科死亡事件の裁判)に書いたりしたのですが、推測とは全く違っていました。事件の概要について詳しく載っていた本物の産科医の方のブログを読みました。


ある産婦人科医のひとりごと 大野病院事件

これで見ると、出血量は約12000mℓとなっており、本当に大量出血であったようです(朝日の記事の検察側冒頭陳述要旨)。これでも、確かに出血が多くて失血死と言う可能性は皆無とは言い切れませんが、もっと重要な証言がありました。それは、子宮摘出後に「心室細動」を生じたという点です。ここに重要なカギがあるのではなかろうか、と思われました。


心室細動というのは、心臓から血液が送り出されなくなるという致死的状態で、突然死の原因として最も多いと考えられています。一刻も早く除細動を実施し、言うなれば「再起動」に成功しないと死亡します。せいぜい猶予は数分間しかありません。術中であったことから、心マッサージをすぐできたにせよ、除細動が奏功するかは何とも言えません。心臓が拍動を再開するかどうかは、不明なのです。この事件での、直接死因は心室細動であった、というのはほぼ間違いないのではないでしょうか。


ここに一つの可能性が思い浮かびます。
それは次のようなものです。

・出血量が極めて多かったので、大量輸血を必要とした
・大量輸血による、高カリウム血症の可能性
・高カリウム血症が背景にあるとすれば、心室細動発生リスクは高まるのではないか

ということです。出血自体は多ければ勿論生体にとっては良くないことが圧倒的に多いのですが、それでも致死的状況とはなり難いと思うのですよね。前の記事にも書きましたが、出血量が1万超えというのは、他の手術でも有り得る話だからです。しかし、心室細動が惹起されたのであれば、これが致死的となってしまったというのは判る気がするのです。

通常の輸血用の血液というのは保存血であり、内容液に保存液が含まれています。この保存血は保存期間が延長すれば、カリウム濃度が高まることが知られており、普通用いられる保存血は全部照射血(GVHDを防ぐ目的で照射されている、それでも完全には防げないが)だし、保存日数が経っているものほどカリウム濃度は上昇するのです。

本件の輸血用血液は足りなくなって、あちこちから緊急でかき集められて持ってきたのだろうと思いますが、その量が何十パックにも及ぶものであったと推測されます。その中には、保存日数がある程度以上経過しているようなものも恐らく含まれていたでしょう。そうして、輸血をポンピングで急速に入れなければ間に合わないような量の出血だったのでしょう。それでも、循環は何とか維持されていたのだと思われます。しかし、相当量の輸血をした後であった為に、血液中のカリウム濃度は次第に上昇を続けていった可能性があったのではないでしょうか。以前に少し触れた(参考記事)ことがありますが、細胞外のカリウムというのは、人体にとっては危険な物質なのです。なので通常は血液中のカリウム濃度というのは、極めて厳密に狭いレンジで維持されているのです。しかし、血液中のカリウム濃度よりも高濃度になっているかもしれない(ひょっとして1.5~2倍くらい?)保存血を大量に輸血していけば、高カリウム血症の状況が起こりえるかもしれないかな、と思います。ただ、大量に出血もしていたので、入れても入れてもどんどん出て行っていくのですから、他のリンゲル液などが一緒に入ってるだろうし、必ずしも血中のカリウム濃度が高かったかどうかは不明なのですけれども。データを見ない限りは、判定のしようがないですし。

しかし、置かれていた状況だけ考えると、有り得ない話ではないのではなかろうか、とも思ったりしましたもので。

なので、まとめると、
・大量の輸血が必要
・保存血中の保存液には、生体の血液よりも多いカリウムが含まれていた可能性
・高カリウム血症か、もしくはそれに近い状況があった可能性
・その為、心室細動が惹起されやすい状態にあった
・直接死因は失血ではなく、心室細動

ということです。
素人考えなので、何とも言えない訳ですが。


追加だけど、またTBが全く届かないな。何でだろう?
ひょっとして、何処にも送れないのかな?拙ブログの場合には(笑)。
まあ、仕方がないか。届かないような設定とかってあるのかな?



最近のガキは2ちゃんねるを通じた罵倒合戦で鍛えられていないから生きる力が足りない

2007年01月29日 21時30分04秒 | 俺のそれ
この前、福島産科死亡事件の裁判の記事を書いていて、最初に参考記事に挙げた中にリンク先があって、『論座』に掲載されたとりごろう氏の記事をまた読んでみようと思って踏んでみた。

すると、全然別な記事が登場。何で?

OPENDOORS:雑誌:論座

今度は偶然にも山形氏の記事。最近よく登場してくるね、山形氏は(笑)。タダの偶然だけど。で、この記事は面白いですよ、中々。


印象的なのは、タイトルに挙げた部分とか。本当にこういうことを言う人が現れかねないかも。似たような「釣り」タイトルはfinalventさんの記事にも、パロったのが出てたな「最近のオヤジは2ちゃんねるばかり見ているせいでリテラシが高い。もっとブログをやるべきだ。」ってヤツです。
(参考までに、元の記事タイトルは「最近の若者はブログばかり見てるせいでリテラシが低い。もっと2ちゃんねるをやるべきだ」ですよね)


まあこれはあんまり関係ないからいいんだけど、またしても「オレに喧嘩売ってんのか?」と思うような所(笑)がバシバシ出てくるんですよね(冗談です、論座の記事をちゃんと読んでね)。

この辺。
>かつてのテレビドラマは、一話完結型ワンパターンで、何の深みもなかった。『水戸黄門』や『遠山の金さん』を考えてもらえばいい。

いいじゃん、「水戸黄門」や「遊び人の金さん」が好きだって(笑)。ワンパターンなのに、あんなに毎回話を作らねばならないのも大変なんだから。あれはあれで、もの凄い工夫をしないと難しいのよ。大体、『宇宙戦艦ヤマト』とか『ガンダム』とか出る以前だって、毎回怪獣を倒すか侵略者ロボを倒すという一話完結型のロボット漫画かウルトラマンや仮面ライダーみたいなのを皆だって見てたんじゃないか(笑、ごく稀に2話にまたがる時があったけど)。『マジンガーZ』とか『ゲッターロボ』とかも見てみなよ。水戸黄門とおんなじだし。ドラマのストーリーを複雑化したり、専門的でリアルなシーンを増やしたりすることで人気を博すのは、別に不思議じゃない。そっちはバリエーションに富んでるからね。判らないのは、視聴者の好みとか、何(どの分野)が当たるかということだけだだと思う。むしろ、非常に限られた設定の中で、異なるシナリオを考える方がよっぽど難しい。昔の『超人ハルク』や『バイオニック・ジェミー』なんかがそう。水戸黄門と似た構造を持っているように思うね。これを何十話も続ける方が至難の業。

って、擁護は無理っぽい?
いや、別に水戸黄門が低級でも構わないんだけど(笑)。


じゃ、コレはどう?
>日本でも、麻雀について類似の議論がきかれることがある。麻雀は4人を長時間拘束することが必要だけれど、最近の大学生はもう麻雀をしなくなり、コンパもしなくなり、集団行動や社会性が衰えていてダメだ、という話だ。かつて麻雀は不良おちこぼれ大学生の独壇場だということになっていた(各種麻雀劇画での描かれ方を見てみるといい)。「あいつは麻雀ばかりしてやがる」と言ったら、それは悪口だった。それがこの議論では、実は社会性を示す代替指標として賞賛されるべきものとなっている。

これも、私のバカさ加減を知っている人なら知っている(笑)。ヒントは無し。
「不良おちこぼれ大学生」って、そこまで言わんでもいいじゃないか。悪者のドクセンジョウですか。まあ、確かにそうだね。でも、「社会性を示す代替指標」とまでは行かないんじゃなかろうか。賞賛はされてないような気が…恐らくやや年配の人たちに、「オイ、誰かメンツいないか?」みたいに言われた時、たとえその日に約束とか用事があっても、「エエ、いいですよ」って割とスンナリ受けてしまうような便利なヤツということなのではないか?例えば私みたいな(笑)。でもね、結婚してからは、殆どやらなくなったね。年1回ってところだね。

ああ、『哭きの竜』だってワンパターンじゃないか。アイツは毎回鳴きなんだよ?落ちは「パタ」か、せいぜい「パタパタ」だよ?ホラー、案外みんなこういうお決まりパターンが好きなんだよ(笑)。


で、トンデモ関連は「ネタにして遊ぶ」というのを”考えてみ”、ということ。なるほど、一理あるね。次々生まれくるトンデモ軍団を全部防ぐのも、全部反論して撃破し続けるのも「困難だ、コストも高い」、ということで、ならば「何本気にしてんの?ネタじゃん、ネタ」という、大体ネタ扱い以上にならないような土壌を作っておけ、と。


「あるある」不祥事にマジ反応してた人々の多さを見ると、それはそれで判るんだけど、初めっから「こんな番組なんだから、ネタ以上なわけないじゃん」って普通考えてると思ってたんだけど、そうでもなかったのね。意外に真剣に信じてるっぽい人たちが多いことに驚いた。番組自体を観たことが殆どないから、アレなんだけど。確かに番組不祥事は褒められたことではないけど、そんなに真剣に反応(納豆買いに殺到するのも、番組製作会社の糾弾も)せんでもいいのでは、とかチラリと思ってた。だから、今まで触れなかった。これはどうでもいいのだが。


というわけで、山形氏の記事はどうやら私に喧嘩を売っているようです(笑、だから冗談だってば。というか、こちらの存在にすら気付かないでしょ)。



続々・イルカはサメになれない~ちょっと補足

2007年01月28日 19時04分37秒 | 俺のそれ
1年位前に書いた記事を一応載せておきます。

デフレ期待は何故形成されたのか・3

金利とインフレ率

後で、もうちょっと言いたいことを追加しようと思います。

にしても、池田氏はかなり飛ばしてますね。「釣り」です、とかもハッキリ言ってるし(笑、コメント欄ですけどね)。意外にお茶目といいますか、長年の「ネット住人」なんですね。それと、私は掲示板とかの歴史なんかも知らないし、読む必要も興味もない訳ですが、過去のバトルといいますか、遺恨試合みたいなのが未だに続いているかのようです。

「~という策が有効だったかどうか」というのは、結構後付けの理屈っぽい面があるので、何とも難しいわけですが(過去に戻って試せる訳ではないので)、やるべき方向性というのと、具体的な策としてどうなのか、というのは、これまた判断が難しい面があるかもしれません。

追加です。

また重農主義のケネーの世界みたいで申し訳ないですが、ご容赦を。だって、人体の血液循環の仕組みと経済(お金)活動のイメージが似ているんだもの(笑)。

一般によく知られる心臓の病気に、狭心症とか心筋梗塞などがありますね。狭心症というのは、簡単に言うと心臓の筋肉(心筋)にエネルギーや酸素を供給する為の血流が減少して、心筋が苦しがる状態(虚血)の病気です。多いのは心筋に血液を送る冠動脈(たくさん途中で枝分かれしてるけど)の狭窄(血管が狭くなる)が進むと、流れる血液が減少して胸が苦しくなります。心筋に酸素やエネルギー供給が追いつかず、心筋細胞がそれ以上働けなくなるので、運動負荷などで苦しくなるのです。それでも、心臓の負荷が解除されれば、苦しくなる前の状態に戻りますので、少なくなっている血液でも酸素供給が可能になりますから、症状は感じなくなります。

心筋梗塞というのはもっと酷い状態で、心筋に血液供給が途絶えてしまって、心筋細胞が壊死(死んじゃう)してしまい、心臓の一部分が全く機能しなくなってしまうのです。急性心筋梗塞の場合には、致死的状況ということも多々あり(致死率は高く、代表的な心臓死の疾患です)、必要な手を尽くさねばなりません。壊死した心筋組織は、元に戻ることはないので、たとえ死を免れたとしても、その後の心臓機能は低下してしまったままです。狭心症と心筋梗塞というのは、おおよそこういう疾患なのです。

で、経済の話に戻りますが、日本のバブル崩壊後の状況というのは、こうした狭心症や心筋梗塞の病態にやや似た感じがするのです。それをなぞって見ていきたいと思います。

92~93年頃というのは、バブルが崩壊したと言っても、日本経済の明らかな異常というのは、それほど明確になってはいませんでした。つまり、ショックの大きさというのはこれまでにも経験した程度の不況期、という程度だったのではないでしょうか。勿論株価や地価の下落というのは相当程度あったわけですが、「致死的」という状況をもたらすほどのダメージではなかったでしょう。それは経営サイドの心理的悪化もさほどではなかった、という時期だったと思われます。理由としては、バブル崩壊後であったにも関わらず、新卒採用の為の求人というのは増加しており、失業率も後に5%超となるような最悪期に比べれば全然低かったでしょう。2~3%程度であったように記憶しています(間違ってたらゴメンなさい)。93年春の大卒新規採用者たちは、90年よりも多かったのですよね。当時は売り手市場であったという側面もあって、青田買いが卒業1年前どころか2年くらい前から「採用予定」というような、半ば「約束」みたいなものがあったのかもしれません(それほど大卒新人を確保するのが困難だった…思えば凄い時代だったのですよね…)。なので、直ぐには新卒採用数を削るというわけにはいかなかったのかもしれないです。

でも、その後の氷河期を考えれば、当時はダメージはまだまだ小さかった。この95年くらいまでの間に、適切な対処が行われていたならば、その後のショックの大きさは軽減できてたかもしれませんね。当時の金利水準(公定歩合しか知らないけど)は、まだまだ下げ余地があったのですから。つまり、バブル崩壊のショックで、挽回可能な代償期であったわけです。そこでの金融財政政策で適切な運営がなされていたならば、まだ救うこともできたのではないかと思えます。この時代には、政治的に不利な部分があった。一つは日本の政治の混乱です。新党ブームだの、政権交代だの、頻繁な混乱を招いてしまっていた。政党分裂も起こった。つまり、政治的な政策推進という面においては、一貫性が失われ、日銀に対しての強い要望・姿勢というものも、殆ど意味をなさなくなっていたのではないでしょうか。頭の挿げ替えが頻繁に起こるわけですから、経済政策面までは政治家たちの目も行き届くわけもなく日銀任せということになっていたのです。もう一つは、クリントン政権が誕生してしまったことでしょう。それは日米経済交渉という「決戦の舞台」で常に戦うことになってしまったこと、米側の強い要求を突きつけられそれを呑んでしまった(呑まざるを得なかった?)ことが、結果的に日本企業の歪な変化をもたらしてしまって、後々のダメージを深刻にしてしまった可能性があるように思えます。

なので、95年くらいまでの挽回チャンスに経済政策を適切に行ってさえいえれば、その後の最悪期を迎えることは阻止可能であったかもしれないです。先の例で言えば、心筋梗塞になっていなくて、まだ狭心症で心臓が苦しくなることがあった程度であった、ということです。連鎖的なノンバンク破綻に陥る前に、適切な処置をしておけば、重大な壊死組織(巨額倒産・不良債権)を生ずることはなかったでしょう。こうしてノンバンクにツケが回り、遂には銀行にもそのダメージが広がっていくことになるのですが、ここから先は物価面でのデフレというのが顕在化していきます。97年後半以降、現在に至るまでの間、長い長いデフレ期間に突入となっていったのです。

塞栓症のような場合には、急速な血管閉塞を生じ、急性心筋梗塞に至ることもあるのですが、多くは血管内壁にゴチャゴチャとくっついて血管を段々と狭めていき、遂には完全に血流遮断が起こります。完全に詰まるまでには、時間があるし自覚症状というのも出てくるのですよね。何度も言うようですが、この時期に適切に処置しておくことが必要だ、ということなのです。それをやれば、壊死に至らずに済むのですよ。ゾンビ企業はこうした壊死組織と似ているのです。壊死組織に血液を供給しても(=追い貸し、資金供給ということ)、既に死んで動かない心筋なので意味がないですね。それはそうです。でも、壊死に至らせないような処置が必要だった、と言っているのですよね。壊死しなければ、企業は大量にゾンビにはなったりしませんからね。

壊死組織というのは、細胞が壊れるのでタンパク分解酵素やカリウムイオンなどの有害物質を大量に放出することになり、周囲組織にもどんどんダメージを与えていきます。壊死範囲は広がるのです。これは企業の連鎖的な倒産にも似ているのですよね。しかも、他の生き残っている企業のバランスシート悪化も招くので、倒産をまぬかれていても不良債権化してしまったゾンビは、残っている企業に悪影響を及ぼすというのは理解できます。それでも、回復させるような手を尽くすべきだったろうと思えるのです。

人体というのは、中々不思議な機構を備えています。肺は呼吸によって二酸化炭素を吐き出して、酸素を取り入れますよね。このガス交換は小さな肺胞という部分で行われますが、肺胞には血管がたくさんあって血液中の二酸化炭素が肺胞内に放出され、酸素を取り込むことができます。肺という組織はちょっと不思議で、場所によって酸素濃度が違っていたりします。どの肺胞でも酸素濃度が一様である、ということはないのです。すると、ガス交換の効率に違いを生じます。酸素を豊富に含む肺胞では、そこを通過する血液の酸素化は「良く」なりますが、逆に酸素濃度の低い肺胞では、酸素化は「悪く」なるのです。肺に病気などなくても、こうしたことは起こってしまいます。で、一定基準よりも「悪く」なっている場所では、どうなるかというと、酸素の少ない肺胞を通過する血液の量を減らし(=血管収縮が起こり血流を減らす)、酸素の多い肺胞の方に多く血液を流すように配分を変えるのです。これは、hypoxic pulmonary vasoconstriction(HPV)と呼ばれる反応です。酸素濃度変化によって、自動的に起こる血管反応なのです。つまりは、酸素化効率の悪い部分には血液を少なく送ることで、肺全体の効率を高め、酸素化効率の良い部位に優先的に血流を配分するのです。

経済活動も似ていて、効率がよく成長する分野にどんどん資金供給を優先した方がいいですよね。

でも、心臓の場合だと、こうした血管反応は生じないのです。たとえ若干「動きの悪い部分」があるとしても、そこへの血液供給を減らしたりすれば狭心症のような症状が出るでしょう。更に血液を減らしていけば、壊死に陥る心筋細胞が出てくるかもしれません。肺ならば全体効率を高められるのに、心臓で同じ事をやってしまうと良くない面もあるのです。狭心症のような症状が出れば、逆に冠血管を拡張する(=血流を増やす)ような薬剤を投与せねばならないのです。経済活動で言えば、資金供給を潤沢にする、ということと同じような意味合いです。代表的な薬剤は「ニトログリセリン」ですね。冠血管の拡張作用があるので、狭心症症状は改善されます。

薬物を投与すれば、副作用も生じてしまったりしますね。たとえば、冠血管系以外の他の血管も拡張してしまって、血圧低下を招いたりすることになります。また、先のHPVも抑制されてしまいます。心臓を「助けよう」と思えば、ニトログリセリンを投与するのは当然であっても、他の良くない現象をも引き起こしてしまうのは止むを得ないのです。更に、血管拡張をもたらす薬剤でありながら、狭窄病変のある部位の血管を拡張したいのにも関わらず、狭窄部位の拡張があまり起こらないで健康血管が主に拡張し、健康部位にばかり血液が盗られてしまうというスティール現象ということが考えられる場合もあります。これはまるで肺で見たようなHPVと似たような現象になります。経済活動で言えば、苦しんでる部分(=瀕死の企業、不良債権になるゾンビ企業)はどうせダメだから資金供給を絶って死なせ、残った健康部分に多く血流を流せば良い、というような発想に似ていますね。これは心筋梗塞を招き、壊死組織が大きくなることでどんどん悪化していくかもしれないのではないかと思えますね。

狭心症で苦しむならば、
・冠血管を拡張する薬剤を投与
・その副作用として、血圧低下や酸素化効率低下が起こる
・スティール現象に注意が必要
・他の症状に対しては、それに合わせた別な対処が必要
ということになると思います。

日本経済が深刻なダメージを受ける前の状況(大体95年くらいまでかな?)は、まさしくこの時期であり、壊死(不良債権)がそれほど大きくはなっていなかったでしょう。つまり、主病因に対する適切な処置(=金融政策)、残りは個別に政策を割り当てていくべきであったと思われます。例えば、金利を早く引下げ緩和を実施、為替は外貨を大量購入、雇用対策や財政出動を合わせて実施、などというのが考えられた(いい加減ですけど)かもしれないです。何よりも、「壊死に陥らせない措置」(=心筋梗塞に陥らせない)というのが最優先課題であったでしょう。

ところが、的確な手を打たずに放置してしまった為に、壊死組織は広がっていきました。つまりは、後戻り可能な狭心症の状態から、急性心筋梗塞へと悪化してしまった、ということです。それが96年以降に起こり、大々的に壊死したのが97年ということになるでしょうか。見通しが甘かったのですよ。日銀の診立ても全然ダメだったのですよ。一端壊死に陥れば、もう心筋細胞は元に戻れないのですから。こうして97年ショックを迎えることになってしまったのです。不良債権処理云々というのは、壊死に陥りそうな組織には血流を遮断すべき、「今ある血流で生き延びられる組織だけを助けることを考えるべき」というようなことなんですよ。それが最悪の悪循環を招いてしまったのです。
つまり、
壊死が広がる→周囲の生きてる心筋細胞もダメージ→心臓の動きは悪化→血流全体が減少→減った血流に見合った心筋だけ救え→更に壊死が拡大→もっと広い範囲の生きてる心筋細胞にダメージ→心臓の動きはもっと悪化→もっと血流が減少→救える心筋はもっと減少→以下最悪ループ…

というようなことです。こうして弱い部位は続々と壊死していったのです。アジアに吹き荒れた通貨危機も、日本の体力を大幅に奪っていきました。これも大きなショックとなってしまいました。

それでもITバブル期には、脱出チャンスが訪れました。人々は恐る恐るながらも、考え方を変えてみようかな、とちょっと思い始めたのです。90年代後半から、社会の大きな変革時期を迎えたからでした。それは携帯電話とネットの普及、急拡大があったからです。この時に、金融緩和策をガッチリ実施し、「明るい兆し」を感じ始めた人々の自信を取り戻してさえいれば、その後の最悪期を迎えることは防げたハズです。しかし、日銀は引き締めを断行、ゾンビは「逝ってよし」政策(=不良債権処理等)を推進することなったと思います。こうして日本経済は瀕死の状態に陥りましたが、基礎体力がまだ残されていたのと、偶然外部の(主に米中経済の)活況が訪れて、運良く生き延びたのですよ。誰かが正しい治療法を選択して助けてくれた訳ではありません。政府や日銀が救ってくれたのではないですよ。自分の力で、元々持っていた回復能力で、「自然に」回復軌道に乗ってきたに過ぎません。治療が奏功したかどうか、治療法の選択が正しかったかどうか、それは全く不明だと思いますよ。日銀や政府のとった策がなくても、もっと早く回復出来た可能性すらあるのです。これまで何度か書いたが、日銀のとった策というのは、自らが自然に回復しようとする力を妨げることでしかなかった可能性の方があるくらいです。余計な手出しをしてくれたお陰で、逆に病状は悪化して、回復までの時間が延長したようなもんです。昨年の量的緩和、利上げや今年の利上げ騒動などを見れば、そうとしか思えませんよね。

デフレに至るまでの間に打てる手を尽くさなかったこと、ゼロ金利になって金利政策は効果がないとしても、他にやるべきありとあらゆる手を尽くさなかったこと、そうした責任はあると思うのですよね。自分が死にそうになった時、「こうなってしまっては、もうニトロは効かないから、お手上げです。他の手は自信ないから何もできませんね」とか言う医者が担当だとしたら、どう思いますか?(笑)
助けようという決意も責任感もなさ過ぎる、って言ってるんですよ。無責任な対応に終始していたような連中は、是非とも「アナタはもう手遅れですから、逝ってよし」とかハッキリ言われてみた方がいいと思いますね。



福島産科死亡事件の裁判

2007年01月28日 16時26分37秒 | 法と医療
既に色々な意見が出されてきたと思いますが、いよいよ始まった、ということで注目を集めているでしょう。特に、多くの医療関係者たちの関心が高いようですね。

これまでの参考記事です。

プロフェッショナルと責任

サンバの幻想?

医療不審死の問題

悪い予想が現実になってしまった

私は官僚ではありません(笑)

助産師・看護師の業務に関する法的検討

奈良の妊婦死亡事件について

続・奈良の妊婦死亡事件について



まず、毎日新聞の記事を見てみました。
例の奈良県の病院の報道後でもあり、あの時と報道がどう変化しているのか、参考になりますし(この事件に関して、報道ベース程度の情報しか見てないので、詳しいことは知らないです。2ちゃんとか読みませんし、何か別の情報源もないです。事件のまとめサイトみたいな所も、詳しく読んでいません)。


Yahooニュース - 毎日新聞 - 福島産科事故 被告産婦人科医、起訴事実を否認 初公判で

一部抜粋しながら、思うところを述べてみたいと思います。これまで何度もお断りしておりますが、私は医師ではありません。なので、あくまで専門外の素人考えであるということを念頭に置いて、お読み下さるようにお願い致しますね(以下、毎日の記事からの引用部分は『』で表示します)。




『冒頭陳述で検察側は、応援を呼ぶべきだという先輩医師の事前のアドバイスを被告が断ったことや、胎盤はく離開始5分後の血圧降下など大量出血の予見可能性があったことなどを指摘した。』


◎「応援を呼ぶべき」というのは、殆ど全ての場合に当てはまってしまいます。どのような手術であっても、自分1人よりは他にも同じ専門家が居てくれた方が有り難いに決まっています。「医師の技量評価」について、自分が自ら行う場合と、他人から見て行う場合には乖離がある可能性があります。更に、本人にとっては「十分可能」と判断できるレベルであっても、実際の現場では「想定外」というようなことに度々突き当たるのであり、そこで判断や予測が「甘かった、悪かった」というのを事前に判別するのは難しい部分があります。医療の本質的な部分というのは、「想定外」ということが割りと頻繁に生じてきて(つまり、未知の領域である部分が”いつも”ある)、常にそれとの格闘なのである、ということなのです。これに対して、どの程度の共通認識があるか、医療関係者たち以外にそれが理解されうるか、そこに大きなギャップが存在しているのではないかと思えます。

いつもの如くヘンな喩えでスミマセンが、レジで会計する時みたいに、「誰がやっても」「どのような場合でも」同一の答えがはじき出されるというものではないのです。値段がいくらになるのか、計算してみるまでは正確に判るということではないのです。事前に「おそらくコレくらいだろう」という目安みたいな金額を判定する能力は培われますが、実際計算し始めたら予想もしていなかった答えが待っていたりするのですよ。機械的、単純に、「答えは~円だ!」という定型的な結果は出せません。医療というのはそういうものだ、ということです。


◎「胎盤剥離開始5分後の血圧降下」というのは、かなり断定的ですけれども、本当なのでしょうか?疑問は残る可能性があります。
以前ドラマであった(現代版の方、私は好きでした)「白い巨塔」でも大量出血シーンがありましたよね。2番手で入っていた講師の先生が、自分の顔面に返り血を浴びて我を失うシーンでした。こういった事態は、ごく普通の手術でも起こりえるものなのです。胎盤剥離の有無になど全く関係なく、血管損傷を生じたりして大量出血することなど、「特別珍しい」などということはないでしょう。もしも、こうした「血管損傷」とか「大量出血」自体が、「医療過誤であり、刑事罰を受けねばならない」ということになれば、手術できる人は誰もいなくなるでしょう。

血圧降下の原因については、色々と考えられるのではないでしょうか。出血は勿論ありますが、例えば、麻酔薬(麻酔深度)の影響、神経線維などの牽引(鈎などで引っ張られて)による反射なども有り得るのではないでしょうか。通常、健康な若年者(この事件の患者さんも恐らくそうだろう)であれば、一時的に出血量が100や200mℓ程度出たとしても、予備的能力が高いので大したことないのが殆どではないかと思えます。剥離した部分から動脈性の出血を生じ、一瞬で腹の中(術野)が血の海になるとか、天井付近まで血しぶきが上がるというような(「白い巨塔」のシーンみたいなものです)、本格的大量出血でもない限り、出血したからと言っていきなり死亡する訳ではありません。大量輸液、代用血漿投与、等でも循環は維持されうるのです。前にちょっと触れましたが、赤血球の酸素運搬能は理論値で言えば相当低くても生命は維持されますし、術中であれば酸素濃度を高く呼吸させられるので、低酸素血症に直ぐに陥ったりしません。1ℓ程度の出血があったとしても、「輸血なし」で手術を終わる人々はたくさんいます。体重60kgで全血量が仮に5ℓであるとして、手術中に5ℓ以上の出血となっている手術は、日本全国を探せばそれこそたくさんあると推測されます。出血量が多いからと言って、必ずしも死に至るわけではありません。輸血がある程度追いつけば、全血以上の(或いはその何倍かの)出血があったとしても、命に別状があるということにはなりません(勿論、出血が少ないのが一番いい)。

失血死というのは、そもそもただ「血が出たから」といって死ぬ訳ではありません。循環が維持できなくなるのが大半の理由であると思います。要は出血性ショックみたいな病態ということでしょうね。しかし、血液そのものではなくても、輸液で血管内のボリュームがある程度維持されていれば血圧は維持され、5ℓの約3分の1以上の出血(通常、致死的とか言われる出血量)が起こっても生命維持には影響しません。術前のHbが12あって、出血で8まで落ちたとしても、全く輸血しない場合でも酸素化は十分可能ですし、循環維持も可能なのです。殺人事件みたいに刺されて出血したままになれば、どこからも「血管内に」ボリュームを維持する為の水分は補給されないので、血圧低下が避けられず、循環虚脱に陥って死亡することになるのです。しかし、術中というのはそうした「突発的事態」に備えて、対策が予め講じられているのです。

本当に術中の出血死であるとすれば、手術を終えることなど不可能です。胎盤剥離や子宮摘出など全く出来ません。腹の中が血の海で、何も見ることもできないからです。死亡が確実となって、循環が止まれば(心室細動のような状態でしょうか?)出血自体も止まるので閉じることはできるかもしれませんけれども。繰り返すようですが、「出血量=死」というような単純なものではありません。一気に出るのではなく、ジワジワ出るというのであれば、術中に出血が多ければ多いなりにある程度の対応は可能であり、MAPが2単位とか4単位とか用意されているのであれば、相当の出血量にも耐えうると判断できると思われます。たとえ出血量が2000mℓであっても、輸血量が同量である必要性は全くない、ということも付け加えておきます。




『被害者の父親は「事前に生命の危険がある手術だという説明がなかった」と振り返る。危篤状態の時も「被告は冷静で、精いっぱいのことをしてくれたようには見えなかった」と話す。』


◎「生命に危険がある手術という説明」は、全ての医療に当てはまります。手術というのは、どんな場合でも「生命に危険」があります。他の医療行為の大半がそうです。では、それを予めどのくらい説明するべきか、というのは、決まっているかというと、実際には誰にも判っていません。もしも、出産に際して「帝王切開手術は生命に危険があります。どうしますか?」と訊いたら、ますます不安に陥る患者さんはいないでしょうか?

あなたが航空チケットを購入する時、「この便は墜落する危険性があります」とか、事前説明を受けた上で購入したりしていますか?電車の切符を購入する時、「この電車は脱線死亡事故のリスクがありますのでご注意下さい」とか、事前説明を受けそれに納得同意した上で購入したりしているのでしょうか?なぜ医療だけが、そうした「事前説明」を厳格に適用されねばならないのでしょうか?

普通に生活していて、「(一定の)リスクがある」というのは、周知の事実であるという不文律があるからなのではないでしょうか。自動車を購入する時に、「この車は衝突事故で死亡する割合が10万人中○人、轢き殺すリスクは×人です」などという説明を求めたり、それを「聞いてなかったから」といって刑事告訴したりするということはあるのでしょうか?答えるのが難しい事柄であるにも関わらず、「事実に基づいて事前に説明せよ」ということを、求めることに意義がどの程度あるのでしょう?

本来、医療の説明責任というのは、ある判断に基づいて、「患者の希望」というものを治療に反映していくことを目的としているのであって、例えば治療法A、B、Cの選択範囲が”可能である”時、それぞれについて効果やリスクについて説明し患者の同意を得るものとするべきものなのです。選択余地が殆どない、予後を大きく左右しない、患者の選択権を大きく侵害しない、というようなことについてまで、過剰な説明義務を課すとすれば、その為のコストを社会全体が負担するべきです。一件一件について、極めて厳密な契約を定め、代理人同士で契約締結を行うというレベルにしなければ、医療側がどんな説明をしたとしても紛争解決には至らないであろうと思われます。患者や家族側に完璧な説明をするというのを実施することがそもそも不可能だからです。全てを網羅することなど、今の医療にはできません。「説明を聞いた結果、治療を受けたくない」というような選択肢についてまで、コストは負担されていないのですよ、現状では。弁護士の相談と同じくタイムチャージ制にして、依頼をしてもしなくてもコストを払うということにする、或いは、契約成立時の報酬を不成立であった人たちのコストもカバーするほど負担する、などの対応を取らなければ、説明を受ける権利だけを一方的に主張されても無理ではないかと思われます。説明を受ける権利は、その対価がないのに契約が発生するとも思えないのですが、どうなのでしょうか(法学的な解釈は全然判りません)。


◎「危篤状態の時も被告は冷静」というのは、医師として当たり前です。そんな所で取り乱したり、慌てたりしているようでは、むしろ医師としての資質を疑うでしょうね。自分だけが頼り、という厳しい状況下では、自分が隊長であり全ての指示も自分だけでやらねばなりません。そんな所で冷静さを欠いているような隊長だったら、指揮命令系統は機能しなくなり、部下は全く動けなくなります。誤った指示や行為を生むことにも繋がります。どんなに追い詰められても、慌てず冷静でいることは絶対必要でしょう。まさか、泣き崩れて土下座でもしたならば、精一杯のことをしたと評価されるのでしょうか?




『「納得できない。娘が死んだ真相を教えてほしい。このままでは娘に何も報告できない」と不信感を募らせる。』


◎「納得できない」というのは理解できない訳ではありません。もし私も自分の子が死んでしまったりすれば、同じように思うと思います。しかし世の中には、判ることと判らないことがあるのは普通なのです。誰にもよく判らないことなんて、たくさんあるのです。医療の多くは、大半に有効な治療法というのはありますが、それが奏功せず残念な結果に終わってしまうということもあります。それが「何故なのか」判らないが故に、多くの医師たちや研究者たちが答えを探しているのです。「何故、患者さんがお亡くなりになったのか」という問いは、医療の中では常にあるのではないでしょうか。それが正確に判るのであれば、誰も苦労はしないでしょう。7割の人たちがみんな治癒しているのに、どうして他の3割の人たちは不幸な転帰を辿ってしまうことになったのか、教えて欲しいですよね。そういうことが依然として判らないからこそ、完璧な医療なんて存在していないのですよ。「完全なマニュアル」も存在し得ないのですよ。




今回の毎日の記事は、一応他の患者さんの意見も掲載されており、必ずしも一方的ということでもなく、以前よりも配慮はされていると思います。それから、「ニュース23」では、筑紫さんは「(事件の評価は別として)医療崩壊の危機が現実問題として、ある」というようなコメントを述べていました。女子アナもちょっと補足してましたが、周産期死亡は減少してきた、医療側は努力してきた、ということに対して触れていたので、一定の評価をしてくれたのだと思っています。ただ、事件のことについては、法的な評価があると思うので、どうなるのかは判りません。



続・イルカはサメになれない~幻想崩壊

2007年01月28日 00時05分50秒 | 俺のそれ
前の記事の続きです。
何が言いたいのか判らん、というご意見がきっと多かったでしょう(笑)。スミマセンね。
端的に言うと、日本の経済システムが混乱に陥ったのは、きっと「イルカ」が「サメ」になろうとしてうまく行かなかったからではないのかな、という気がするのです。これは本当に素人考えに過ぎないので、あんまりマジに突っ込まれるとアレなんですが。


日本企業というのは、世界的に見てかなり特殊な世界であったのですよね?外資は「ケイレツ」とか「日本独特の村社会」みたいなのがあんまり理解できないので、「オレたちには判らないじゃん」と文句を言い、情報が公開されてないし不平等だ、日本市場は閉鎖的だ、というような不満が多かったのでしょう、きっと。会計基準とか帳簿なんかも日本のはアヤシイんじゃないか、金も持ってないし、効率的でもないじゃないか、とか色々とあったのかもしれません。この辺は何がどうというのは全く知らないので、いい加減な憶測なのですが。まあ、米国を中心に不満が噴出していて、バブル当時などは日本が海外に進出していったし、企業買収なども盛んだったので、「日本は改善すべきだ」という批判を浴びやすかったでしょうね。

日本企業の傾向というのは、かなり借金が多く、不動産や持株などの「休眠資産」みたいなのが結構あって、従業員にはそれなりに給料を払っていたのではないかと思います。企業スポーツも割りと盛んであったり、福利厚生施設―社員寮・社宅みたいなのに代表されるだろう―みたいなのも意外と整っていたでしょう。海外からキャッシュフロー経営みたいなのを取り入れるまでは、日本式経営でやってこれたんだろうと思います。そういうのに合わせた社会制度や給与体系なんかが日本人気質というか体質に合わせて、何となく作り上げられてきたのだろうと思います。それが良いか悪いかは判りません。この評価については、とりあえず触れません。

少し話しが飛びますがご容赦を。以前にちょっと書いたのですが、時価総額というのは、ある種の幻想みたいなものだ、ということがあると思います。世界的に有名な企業の株式取引は世界中で行われていると思いますが、たとえそうであっても全株式が全部取引される訳ではないでしょう。売ったり買ったりはあると思いますが、あくまで一部分であって、それが全部取引市場に投入されることはまずないでしょう。倒産寸前とか、何かのショックに見舞われた企業だと、一斉に売りが起こったりすると思いますけれども、そういう特殊な事情がなければ、「大量に売られる」ということは滅多に起こらないのではないでしょうか。

企業を株式の面から評価する時、時価総額で評価するというやり方がありますが、これはほぼ幻想に過ぎません。実体としての経済価値がどうなのか、というのは、もっと厳密な会計上の数字などによって決まってくるでしょう。株式の取引結果である「株価」で時価総額という企業価値は、取引参加者たちの会社の一部分だけ売買した結果に過ぎないのです。実際に全部を売りに出して取引すれば、もっと違った株価になってしまうかもしれないのです。なので、大半はみんなが時価総額という数字、価値を「信じ込んでいる」というだけなのではないかと思います。

かつての日本企業の価値というのは、これと同じくタダの幻想に過ぎない部分が相当あったのであろうと思います。それに立脚した経済活動というのが普通で、それに長年慣れ親しんできたのです。なので、企業は土地建物等の不動産を中心とした担保を元に資金調達を行い、それによって企業活動を行ってきたのだろうと思います。つまり、信用創造の源泉は、「いくらなのかよく判らない資産」であったということです。そうした不動産というのは、社員寮の土地であるとか、草ボウボウの遊休地であるとか、誰も来ないような保養所のある社有地とか、企業の本質とは関係ないようなものであっても通用していたのだろうと思います。昔はそれで良かったのです。大量の持合株にしても、それがどれくらいの投資リターンを生むか、担保差し入れの不動産がどれほどの利益率なのか、そういうことはあまり重要ではなかったのでしょう。でも、現実世界の中で使われている部分だけ(実際に工場が建設されるような土地とか、本社ビルを建てる土地とか、株式市場で取引される株式とか)の価値が取引によって決まり、それは企業活動の成功によって「着実に価格が上昇してきた」、つまり「価値創造が順調に行われてきた」ということであったろうと思うのです。なので、土地価格が坂道を転げ落ちるように下落していくとか、持株価値が何分の一、何十分の一まで下落するとか、誰も想定していなかったのです。これら資産価値というのは、ここ数十年に渡って、順調に右肩上がりできていたからです。

ところが、バブル崩壊で歯車が狂い出したのです。米国式の考え方が直輸入されるようになってきたからです。人々は自信を喪失してしまったのです。これまでになかったような不安に陥り、自らを疑ってしまったのです。根底にあったのは、恐怖でした。そこに追い討ちをかけるように、「サメ」はひたすら「イルカ」に誘惑の囁きを続けたのです。同じ「サメ」になるように耳打ちしていたのです。「オマエらは効率が悪いんだ、眠ってる資産からは金は生み出されないんだ、借金が多すぎなんだ、キャッシュが一番なんだ・・・・」

確かに一部は正しかったでしょう。日本が素早く米国式に変われるならば、ダメージは少なかったかもしれません。でも、何十年も続けてきたことを急に捨て去るのは、多くの場合難しいのです。本来的には、自分たちにあった方法で変革を遂げれば良かったのでしょうが、人々を支配した恐怖や不幸にして同時期にそれに加わったいくつかのショックによって、それまで経済システムを支えていた幻想は打ち砕かれました。それは、まるで貨幣制度を支える人々の幻想が一気に崩れ去り、それまで「価値がある」と信じ込まれていた紙幣がトイレで尻を拭く紙にもならないと目覚めたかのようでした。そもそも、経済活動の多くを支えているのは、こうした幻想に過ぎない部分なのですけれども。

つまり、日本企業の信用創造を支えてきた不動産や持合株などが、「あまり価値がない」と多くの人々が信じた為なのです。その結果、(資産の)時価総額は収縮することになったのだろうと思います。もしも、世界的な有名企業の株式が途切れることなく売りに出された時、一体どのようなことが起こるでしょうか?仮にGEの株式の大半が売り出されたら、相当の下落を覚悟せねばならないと思いますね。取引価格は、ごく一部の売買で代表されているうちは、「ある範囲」に収まっているだろうと思いますけれども、大半が「実物」として頻繁に売買されてしまえば、殆どが売り優勢になると思います。日本で起こった土地や持株の売却は、まさしくこれと同じようなことになってしまったのだろうと思います。こうして、悪循環が形成されてしまいました。そりゃそうですよね。それまで「金を生んでこなかった」社宅や保養所、ボロい物置しかない雑草だらけの土地、こんなのを見た人が「これに投資すればリターンはこんなに得られる」みたいに考えることって、まず滅多にないでしょうから(笑)。

実際どうなのか判りません。元々の簿価は全然低かったかもしれないので、資産として占める割合が多くなかったかもしれないですしね。でも、「東京都だけの土地価格でアメリカ全土が買える」みたいなたとえ話(うろ覚えなので不正確です)があったりしたので、米国から「日本の土地がそんなに価値を生み出すわけがない」、「そんな土地価格はオカシイ」とか、色々言われたりして、そうかもな、と思ってしまったのが日本だったのだろうと思います。それって学問的にどうなのかは判りませんが、「別にいいんだよ、これで」と相手にしなければ、幻想は維持されていた可能性はあるかもしれません(バブルの時の価格が適正とも思いませんが)。シンガポールのマンションはきっと高い値段であったりすると思いますが、その同じ金を出せば「~の国土の○%が買える」みたいな話って、世界中で探せばいくらでもありそうですし。ルクセンブルクは小さいけれども、その何倍も大きな国全部を買えるというような話も十分有り得そうですよね。そういうようなもんです。

なので、資産の一部分だけの取引価格から幻想によって「時価総額」を創造していたのに、それが全て否定され幻想を捨て去ったことが悪循環を固定化してしまったのではないでしょうか。そして、遂には耐性の臨界点を越えてしまい、銀行破綻・金融危機へと突入していったのではないのかな、と。


少し離れますが、池田氏の記事が面白いですね。リフレ批判はまだまだ続きそうです(笑)。

池田信夫 blog ケインズ反革命の終わり

因みに、この中で池田氏は『デフレを直すことによって不況を脱出しようというのは、体温計の目盛を変更して熱をさまそうというようなものだ。』と述べておりますが、うまいこと言いますね。これって私の書いた記事とは関係ないと思いますけど、どうなんでしょうか(笑)。
特に、ここ>「価格設定側である企業に形成された、バブルの熱狂と反対の、まことに弱気の「spirit」を刺激する(それか、ある種の”セットポイント”の下方移動のような)sticky information が彼らに充満していたのではないのかな、と。」
偶然だね、多分。読んで判る(感じる)人には、通じるかな?


それから、ゾンビ企業に資金供給したからダメだったんだ、というお話でしたが、これって、企業だけのことなんでしょうかね。個人だとどうなのでしょう?以前に、貸金業関連で書いたのですけどね。
コレ>貸金業の上限金利問題~その15

「追い貸し」と「多重債務」というのは結構似ていて、「中小・零細業者が借りられなくなる」とか池田氏などは書いておられたので、思わず『このような多重債務に陥った事業者の処理を先延ばしするのが、「経済学的に合理的」と?(笑)』と書いたのですけれどもね。貸金が返済困難なゾンビに貸し込んでるかのように見えなくもないのですが、どう違うのかよく判らないですね。自転車操業期間を延長して破綻処理を先延ばしするよりも、資金供給を停止して処理を進めた方がよい(つまり、多重債務に陥っている個人には、それ以上の貸出を止める、ということだ)ということに賛成するのだろうか?池田氏は。しかし、既に貸金から借りている900万人だかが「もう借りられなくなる」=市場から締め出される・超過需要が発生する、と言って反対していたように思うが。ゾンビに貸せ、ということなのかな?
この話題は過ぎたことだから、別にいいけど、ちょっと疑問に思えたので。


イルカはサメになれない

2007年01月26日 18時24分31秒 | 俺のそれ
失われた15年についてのお話。
池田氏の批判的論説は、この前からの続きだね(笑)。

池田信夫 blog 経済停滞の原因と制度


ふむふむ、追い鰹じゃなかった、追い貸しが悪かったんだ、と。
ゾンビに無駄な資金供給を続け、下手に延命させたばかりにその後の成長を妨げたんだ、と。そういう面はあるかもしれんね。

資料>
追い貸しの外部不経済効果について

追い貸しと経済の生産性



でも、それは97年ショック(参考記事1参考記事2)が起こらなければ、違っていたかもしれんけどね、と、チラッと思ったりします。どうなんでしょうか、素人考えなんですが。


ヘンな喩えですが、日本と米国は似ているけれども、ちょっと違ってたりするので、イルカとサメのような違いがあっても不思議じゃないかな、と思うのです。同じように海で生活していても、同種であるとは限らないんですよね。持っているシステムも別なのです。イルカが哺乳類で、サメが魚類だからと言って、どっちが優秀とか良くわからなさそう、という程度なのでは。サメがイルカに向かって「お前は効率が悪いんだよ。エラで呼吸できる方が水の中ではいいに決まってるじゃないか。エラで呼吸してみな」とか言って、それを真に受けたイルカが「俺たちはどうしてエラ呼吸ができないんだーー!」とか深刻に受け止めてしまい、それまで持っていたシステムを根本から変えようとして、サメになろうとしているようなもんじゃなかろうか、と。でも、それがイルカにはあまり合わなかった、というようなことはあるだろう。元々身に付いてたシステムを大きく変えることは、良い部分と悪い部分があると思う。

まあ、これはよく判らないので、別にいいのだが、「97年ショックがあったから」その後のゾンビ軍団は健全な人たちをも苦しめる(ゾンビは映画の中では噛み付きで、正常な人々をもゾンビ化してたから、そういう意味ではわかり易いね)結果となってしまったかもしれない。でも、元々ゾンビになるような事件に至らなければ、つまり「97年ショック」が現実経済に顕在化しなければ、その後の落ち込みはある程度回避されたかもしれないように思うのですよね。それは本来持っていたシステムの「(防御)反応」の一部に過ぎないのであれば、ショックに対する代償(=資金供給)が働くことも有り得るのではないだろうか。だが、極めて深刻な状況に陥れば、代償期を過ぎて不可逆期に突入(=主として清算、ゾンビに資金供給を絶つ)してしまうのは、当然であるかもしれない。「代償期に誤った治療」が行われたことによって、ショックから立ち直れなくなるということでもある。健康体であっても、ショックは起こるのですよ。心臓に病気とか、大量出血とか、重篤な感染とか、そういったことがなくても、起こる場合もあるのですよ。それは、主に血管の反応(神経反射、VVRとか)によって生じる可能性があるのです。

イルカはショックによって甚大な被害を受けたのだが、そうしたら「原因は、お前が”サメにあるもの”を持っていないイルカだからだ」とか「サメみたいなエラ呼吸ができるようにならないとダメなんだよ」とか、色々言われて、それまで持っていたシステムを無理矢理変えようとして、そうしたら、サメにもなりきれず、これまであった「使えるシステム」さえも使えなくなって、瀕死のイルカとなってしまったようなものかもしれません・・・・。



ちょっと途中ですが、また改めて。時間がないので。失礼。



議論の跡が見える判決にしてほしい

2007年01月25日 22時14分42秒 | 法関係
――滝井繁男元最高裁判事

via ボツネタ (毎度利用させて頂いてます、スミマセン)

朝日新聞にインタビュー記事が出ていたそうです。取ってないので読んでませんが、ボツネタさんの記事で何となく伝わってきましたです。
「全員一致が多すぎる」というのは、裁判官故の実感なのでしょうね。ことなかれ主義?なのか、形式主義?なのか、私のような素人には分りかねますが、消極的な判断しか出さない面があるのかな、と。社会に与える影響、制度や法に与える影響、そういうのが大きいので、裁判所が何かの方向性?を判示するべきだ、ということかな、と思いました。難しい法学理論とか、法的考え方とか、そういうのは判りませんが、実感としては何となく判るような気がします。判決の出し方によって、世間の評価や議論は変わることがあるし、現行法体系では厳密に阻止できないものでも、実質的に阻止効力を発揮する、というような面なんかがあるからだろうと思うからです。行政裁判とか、社会に与える影響の大きい裁判などが、そういうことがあるかな、と思います。

「議論の跡」というのは難しい部分があると思いますが、「否定した、採用されなかった」意見や解釈とかを必ず載せて、「何故否定されたか、何故採用されなかったか」という理由を判示するとか、そういうのは可能ではないかな、と思いました。通常、「これこれこうなので、~~だ(が正しい)」みたいな判決になってるように思いますが、そこに至る過程を載せるということで、裁判官(たち)の判断に至った道筋が読み取れる、ということなのかな、と思いました。

たとえをあまり思いつかないですが、「XがAをしたので、Bに至った。なので、Xには相当の責任がある」という時、別な見解として「本当は、Bに至ったのはCという状況があったからではないか」というような疑義(相手側主張とかに関係なく)を生ずる可能性というのはあるのですよね。そのような場合、裁判官同士で協議したり検討したりすることもあるでしょうから、それを判決に盛り込む、というようなことでしょうか。これに類することというのは、割と有り得そうにも思えます。判りきった裁判であれば、最高裁までもつれることも滅多にないんでしょうし。「これこれこうで、~と解するのが妥当(合理的?)である。××という解釈はホニャホニャなので採用できなかった。それが該当するのは、何とかナントカの要件を満たすことが必要である」みたいな感じとか?ですかね。

何が言いたいのか伝わっていないかもしれません。ゴメンなさい。私自身が法律とか裁判なんかをよく知らないし、判決文の書き方とかも判らないので。ただ、紛争当事者たちにとっては裁判の勝敗が重要なので、通常は何故勝訴であったか、というような理由に大事な意味があるのだと思います。しかし、それでは不十分なこともあると思うのですよ。例えば住民訴訟の手続き関係が「法的に有効なのかどうか」みたいなのが争われているとしても、紛争の本質はそこにはないわけですよね。以前あったように、被告を知事とするか、県警本部長とするか、みたいな形式論・手続論だけで退けられたら、裁判の意味なんて全然ないのが明白な場合だってあるのです。もしも、手続的に不備があって法的には有効とは認められない、というようなことがあるとしたら、では「住民訴訟を行うにあたり、これこれの手続を踏んでおくべきで、そうすれば(今回のような)無駄な裁判には至らなくなりますよ、というような部分にまで踏み込んで示しておいてくれ、とは思いますね。あと、法学・法曹関係者たちからの評価や検討の上でも、大事なのですよね、きっと。みんな判決文をよく読んで、今後の裁判に活かそうとするわけですし。なので、そういう他の法学専門家たちからの批判・検討に耐えうるような判決文を書いてくれ、ということなんでしょう。


ところで、滝井元判事はどこかでお名前を拝見したような…と思い返せば、グレーゾーン金利に関して”画期的な判決”を出されて、有名になられたのでしたよね。昨年毎日新聞にインタビューが掲載されていたとか。でも、ネット界隈では著名な官僚であるbewaad氏に、「法匪」とまで罵られ(こんな言葉があるのを初めて知った)、水戸黄門的世界観の自己満足でしかない、とか断じられてましたので、裁判官という職業も大変ですね。思わぬところから非難が投げつけられ(消費者金融業界には関係なさそうな、ということで)、同情してしまいます。先日の藤山裁判官(参考記事)も、ちょっと似た状況?であったかもしれませんね。



本当に若手??(笑)

2007年01月25日 20時42分56秒 | 経済関連
これまで何度かご紹介しました中西先生の記事で、「驚愕の事実」を発見(テレビの見出し風)。

J. Nakanisi Home Page


この中に、こんな記述が。

中西『パネラーは私と,私は最初に座長に選ばれまして,もう一人,副座長のような形で,京都大学の大学院の内山先生にお願いすることにいたしました。で,中西と内山先生とで,2人ずつのパネラーを選ぶということを取り決めました。私は,ジャーナリストで若い人,あるいは学生がいいというふうに考えまして,一人は山形浩生さんという新進気鋭の評論家の方をお願いいたしました。』


どうでしょう?

ジャーナリストで若い人…
(山形浩生さんという)”新進気鋭の”評論家の方……

新進気鋭の評論家…

新進気鋭の評…

新進気…

新…


こだまがコダマしている(笑)


うーむ、一応新進気鋭の若手ジャーナリストであったんですね。しかも評論家でしたか。翻訳家ではなくて。こりゃ、池田氏も迷うはずだな(笑)。



素晴らしき昆虫たち

2007年01月25日 15時24分34秒 | 俺のそれ
こんなよい教材があったなんて知らなかった。

アリとキリギリスの「景気のイイ話!?」――土居丈朗どい・たけろう -カルチャー:スマートウーマン

経済学の詳しい知識がなくても、生活の実例に沿って理解しやすいように書かれています。普通の人たちが読むということを想定して、あまり難解にならないように工夫されていますね。啓蒙とか、情報提供ということを考えると、素晴らしい内容ですよ、本当に。

(参考までに、土居先生の写真を初めて拝見いたしました(これは中身には関係ないので、別にいいんですけどね)。どうも著者写真に拘っているかのような印象を与えていますか?私の場合(笑)。)

このくらいの解説を基本にしてみた方がいいと思います>コメンテーターやメディア関係の方々


で、土居先生の別な記事も発見。選挙と景気の関係。
気になるでしょ?>与党の方々(笑)

コラム:Biz-Plus


「参院選」で見れば、「景気後退期」は結構あるね。でも、統一地方選で見れば、「拡張期」の方が随分と優勢なので、今年の選挙では前半までは何とか景気拡大が維持されているが、年央あたりから「踊り場」気味になり夏場にはやや停滞、という傾向かもしれないな…が、経済面でも政治面でも「大きな波乱要因はない」というのが順当なところなのではないか。


地方選前までに、旧式の「政治」スタイルというのを変えていくような議論を出して行くべきなのですよね。地方議会の「持ちつ持たれつ」みたいな規律のなさは、現実問題として深刻だ。地方分権を云々する以前の問題として、一蓮托生みたいな腐れ議員が多すぎるのですよ、多分。議会がまともに機能していない。下らん「政治ゲーム」参加者たちを排除していくような意識を住民に持たせないと、これまで彼らが築き上げてきた「分配システム」を破壊することは難しいだろう。

名古屋の談合疑惑に関して、公取委が動いている(応援しています)が、こうした公権力での摘発というのは必要だし効果もある程度期待できるが、本来的には住民たちができるだけ考えて理解するというのも大事だと思う。問題の根元の部分に迫るには、分配システムを構成してきたような連中を政治・行政から叩き出す、ということが必要なのだ。今なら、「夕張」の悲惨な例が全国に知られてきたということで、それを切実に感じられるんじゃないかな、と思う。どうか目覚めて欲しい。全ての選挙民の方々に。



教育を考える12~教育問題は、教育では解決できない

2007年01月24日 23時04分52秒 | 教育問題
直接講演を聞いた訳ではなく資料からだけですが、山田昌弘東京芸大教授の意見を見てみたいと思います。

中央教育審議会義務教育特別部会(第2回)議事録・配布資料

(一部抜粋)



学校が希望だった時代:

*  パイプライン・システム(ヤンミン、マイミン)
勉強努力(苦労)が報われる「確実性」があった。
受験勉強という努力 よりよいパイプ(卒業学校)に入ることができる。
卒業という努力 パイプ(卒業学校)が想定する職に就くことができる。
(職に就く - 将来、豊かな生活が送れる)


教育が希望でなくなる時代:

* パイプラインの漏れ - 学校システムの機能不全
勉強努力 (苦労)が報われるという確実性の消失 - 教育は希望でなくなる
受験努力  学校が入りやすくなる - たいした勉強をしなくても入れる
卒業努力  パイプが想定する職に就けない - どうせ使い捨て労働者になる

特に、(相対的)能力がそこそこのもの 希望を失う (「希望格差社会」)
「漏れの多いパイプに入ったもの」「パイプが合わずに漏れてしまったもの」




まず、この対比ですけれども、なるほどうまく言い表せているかな、と思います。ただ、いくつか疑問があるので、とりあえず書いてみよう。

乱暴な言い方をすれば、今は勉強の努力が報われないという不確実性があるから「頑張る気力も失せる」、ということなんでしょう。でも、今までに何度か書いてきたが、「努力」と得られる結果というのは一致するとは限らない、というのは当たり前のことなのではないだろうか?努力している人たちなんて世の中にごまんといるわけで、「オレは毎日塾に通い、頑張って勉強したのに志望校に入れなかったのはオカシイ」、とか、そういう発想そのものというかそれを認める風潮みたいなものに問題があるのではないでしょうか?どれ程努力してもオリンピック代表に選ばれない人たちは、選ばれる人よりも圧倒的に多いでしょう。そういう時、選手たちは「努力する気力が失せる」とか言ってるのでしょうか?プロ野球選手を目指していてもプロになれなかった人たちは、「野球で努力をしない方が良かった、努力が無駄になったから希望はなくなった」とか言う人たちが多いのでしょうか?

この記事を書いた時に思ったことと同じなんですよね。簡単に言うと、ある大学院生が「自分は勉強を一生懸命頑張ってきたが、勉強とか成績とかにはあまり関係ないコミュニケーション能力とかで企業採用が左右されるのは疑問だ、勉強よりもバイトや部活をたくさんやった人たちが評価され採用されるのもオカシイ」みたいな意見を出していたのだが、これと似ているのですよね。家庭とか社会なんかの、価値観の植えつけ方そのものに何らかの問題があるのではないか、という印象を受けます。それは大人たち―親や教師など―が、正しくそう考えているからで、子どもたちはそれを学んだだけなのではないのかな、と。「頑張っても無駄なんだ、会社の為に努力してきたのに切り捨てられるんだ」というような、多くの大人たち自身が希望を失ったのでしょうか。

受験努力にしても、フリーターを多く生んだ90年代後半に受験~卒業期を迎えていた世代は、同年齢人口が割りと多い世代(団塊ジュニア世代~それ以降)であり、例えば95年入学、99年卒業なら(現役であったら)今年30歳になる。この世代でも競争はそれなりにあったのではないかと思うが、どうなんでしょう。本当に受験努力のハードルを上げようと思うのであれば、入試水準を上げるべきなんじゃないでしょうか。たとえ学生数が大幅に減少したとしても。成績の低い学生しか集まらない大学は、助成金を打ち切る等によって淘汰してあげたらいかがか、というようなちょっと過激な考えも浮かんでしまいますね。それは大学側の問題なのではないだろうか、というのが率直な感想です。パイプが想定する職業に就けない、というのも、昔ありがちであった価値観―いい学校、いい大学、いい会社というレールに乗るというような幻想―に基づいているんじゃないのかな、と思えます。そういう幻想は、あくまで幻想に過ぎなかった、ということに気付いただけのようにも思えます。そういう幻想を頭から信じ込んでいたのであれば、それを否定された時、将来が見失われることもあるのかな、とは思います。それは親の教育が悪かっただけなのではないかな、とも思えます。働けば、生きていくことは可能なのですし。大企業みたいな既存システムにうまく乗れなかった人たちに必要なことは、「じゃあ、自分の力でやってみよう」という起業家的精神なのであり、昔はそういう自営業者たちはそこそこ存在していたと思います。しかし、労働者の構成を見れば、自営業者の数は大幅に減少していたと思います。

「漏れの多いパイプ」というのは、ダメな学校という意味なのでしょうか?ちょっとよく判りませんが、そんな意味なのかな、と推測しています。それとも就職率の悪い学校とか?まあ、どうでもいい大学とか専門学校は掃いて捨てるほどあると思うので、そういう学校自体に問題があるのであって、教育全体とか社会全体の問題なのか疑問ですよね。そういう進学先を選ぶ本人も、親もそのリスクを負うのは仕方がないですよね。能力がそこそこのものが希望を失いやすい、というのは、「オレの能力に見合うのは、こんな低レベルの仕事じゃないんだ」とか、「他のヤツラは要領よくやったのに、どうしてオレだけが」みたいな不条理?のような感情を抱くから、ということなのかな?これも、酷い言い方をしてしまえば、「ハイ、しょうがないです」としか言いようがないような…プロ野球のドラフトで入団した後で、芽が出ずに数年で解雇されている選手なんて、それこそかなりいますよ。2軍暮らしで明け暮れて、一度も一軍の試合に出られないまま、切られる選手は必ずいますよ。毎年新人選手を採っているのですから、その分選手生活を終わらせられる人たちは必ずいるのです。「オレはこんなもんじゃない」といくら本人が思っていようとも、野球以外の「やりたくない仕事」に就いて生きていかねばならない人たちだって必ずいるんですよ。それは自分の選んだ道で、チャレンジなのだから仕方がないのですよ。希望を失う人たちには、そういう厳しさが足りないとしか思えないんですよね。


更に引用してみたいと思います。



*絶望の二極化
親にパラサイトし、親が教育費を出し続ける - 絶望の中で学校に行き続ける
豊かでない親 - 社会から漏れていく

*義務教育の希望とは?
これだけの勉強をしたら、このレベルの職に就け、この程度の生活ができる
教育問題は、教育では解決できない 「職や生活」への見通しをつける




まず、親が教育費を出し続ける、というのは有り難い話で、これのどこが希望を失わせるのか全く不明なのですよね。絶望の中で学校に行くのはイヤならば、辞めればいいと思うのですけど。極端な話、どこかの外国にでも行って、自力で生きてみればいいのではないでしょうか。学校に行けることのありがたみがよく判るような気がするんですけど。豊かでない親の家庭であると、社会から漏れてしまう、ということであるならば、奨学金(無償、有償)、教育費貸与とか免除とかの支援制度を拡充することで対処すればいいのではないかと思えます。金がないから勉強できないとか学校に行けない、というのは、本当にそうなんでしょうか?私立中学とか何とか言っても、それは2割程度に過ぎず、残り8割は公立なんですよね?社会の大勢は公立じゃないでしょうか(笑)。私立大学にしても、中には成績上位者の学費免除とか制度はあると思うのですけど。要するに、そういった情報が届いていない部分があるのであれば、是正するべきですし、「金がなくても大学を卒業する方法はある」ということをできるだけ知ってもらえれば、と思います。

山田教授のまとめの中で、最も「アレ?」っと思ったのが、「これだけの勉強をしたら、このレベルの職に就け、この程度の生活ができる」という部分なのですよね。今の子どもたちは、利益志向で合理的に行動するのが当然だから、「どうして勉強するのか」「この勉強が何の役に立つのか」ということ(近頃のハヤリ?偶然ですけど)を納得できないと勉強しない人間になっている、ということなんですかね。これも、家庭での生活の仕方によるのではないでしょうか。親が子どもに何かの忍耐とか、厳しさを教えるということが少ないように思うのですよね。「勉強できる」そのこと自体が、とても幸せなことなのであり、価値があるのだ、ということでいいような気がするんですが。もっと何か高度な理屈を付けないと、子どもは納得できないものなんでしょうかね。よく判らないんですけど。

「これだけ勉強したら~云々」というのは、昔のような、「レール」主義(こんな言葉はないですけど)みたいに、「東大出れば、官僚か一部上場企業で安泰」「○○大だから、スーパー店員が関の山」というような感じで、「職や生活」を提示せよ、ということなんですかね。それとも、たとえ成績が悪くても、「キミは毎日2時間勉強してるから、年収は400万円まで行ける」というようなことなのでしょうか?こんなことで勉強の動機付けを行えるとは思えないのです。将来見通しは大事ですよ。でも、それは「最低限こうなる」という下支えであって、いい大学、いい会社幻想を強化することではないと思うのですけどね。


「教育問題は、教育では解決できない」

山田先生はもっとこれを広く訴えるべきではないでしょうか。この意見には全面的に賛成できるという訳ではないのですが、当たっている部分もあるな、と思えますので。教育再生会議の性急な議論にも、不安がありますし。



財務省の内紛?

2007年01月24日 13時49分12秒 | 社会全般
偶然発見。
エリート官僚バッシングのネタですけど、これって晒された方は泣くね。

財務省エリート主計官と朝日新聞美人記者の不倫生活 エキサイトニュース

これ、「財務省主計官・中川真」ってキーワードになっちゃってるし。で、この前書いた記事で紹介したイザ!ですけど、(財務省エリート主計官、朝日新聞女性記者と不倫?-事件ですニュースイザ!)この直ぐ下の関連ニュースのところに、バッチリ出ちゃってるじゃないですか、「人語り」で。

【人語り】財務省主計官・中川真(46)「日本の得失考えたい」-話題!ニュースイザ!

これって、どういうことなのでしょう?まさか、後日晒されるのを予定していた、とか、そんな陰謀?ではないですよね。でも、タイミング良すぎです…


更に、山崎氏のブログでは、こんな感じで出ていたんですよね。

評論家・山崎元の「王様の耳はロバの耳!」 財務省エリートと朝日新聞美人記者の不倫生活

これを見たら、AERAの記事がどうなんだろ、と思って、ネット上にもありましたです。コレ>Yahooみんなの政治 - 政治記事読みくらべ - AERA - ボロボロ本間で安倍自滅への道

記者は連名で、「川村昌代、秋山訓子」って出てるから、半分バレたようなもんですよね。だって、確率2分の1ですもんね。因みにこの記事中の次の記述は、何だかズレてる気がするが、どうなんでしょうか。

(以下に一部引用します)

実は、その数々の審議会への招集の際、旅費が二重払いされていたケースがなかったのか、調べられていたというのだ。
「辞意表明の2、3日前から、会計課がゴソゴソとやり始めた。辞任しないのであれば、07年の通常国会の質問に備えなければなりませんからね。当然の行動ですが……」と前置きしながら、ある財務省関係者が明かした。
「財務省内ではなかったんですけど、内閣府との兼ね合いでは、旅費の二重払いがあったことが分かったんです」
 経済財政諮問会議に出席するときは、所管の内閣府が旅費や謝礼を払い、そのほかの財政制度審議会や政府税調などは財務省が払うのだが、本間氏の場合、年に数回の頻度で、1日に二つ以上の会合を掛け持ちしている。
 大阪―東京間を一度の往復で済むのに、二度分もらったことがある、というわけだ。
 例えば羽田―関西空港だと、正規料金で2万2100円。往復で、その他の分も含めて、ざっと5万円とし、全ての掛け持ち日で二重払いされていたとしても、年に3回の5年分なら75万円。
「実際に本間さんの場合、朝、財政制度審議会に出て、昼間、大阪にとんぼ返りして、夕方、諮問会議に出る、などというスケジュールがありましたから。すべてが二重払いということには、多分ならないし、多すぎて、本人もわけが分からないんじゃないでしょうか」(内閣府関係者)




昨年にちょっと書いた(要職と腐敗)が、諮問会議と財政審の両方から交通費を貰っていたことが問題になるかどうかは知らないけど(そういう規定が個別にあるならば別に2重取りとか関係ないのでは?)、「東京の公務員官舎に住んでいる」のに、大阪からの「交通費」を貰うのはオカシイんじゃないか?って言ったんだよ?03年以降東京に住んでいたのに、何で大阪までの往復交通費を貰えるの?ってことだよ。でしょ?本間氏が大阪に行くのは、あくまで「自分の都合」でしょ。だって、個人の理由で東京に住んでいるんだから。

もう過ぎたことだけど(本来的には返還させるべきなんじゃないのか?とは思うが)、財務省とか官邸とか色々とあるんだね。コワイ世界で何だね。



格差社会9(ちょっと追加)

2007年01月23日 20時57分15秒 | 社会全般
日本はこれまでのところ、「諸外国に比べて格差が著しいということは言えない(=それほど酷い格差社会とはなってこなかったであろう)」ということだったと思いますね。でも、今後どうなるかは判りません。今20歳の男性が将来80歳で死ぬ時点で見れば、この男性にとっては「酷い格差社会だったな」という感想も十分有り得るかもしれない、ということです。今までの実績に基づいた国際比較が、今後の社会(でもそうだ、ということ)を「約束」している訳ではない、ということは覚えておいた方がよさそうです。十分注意が必要でしょう。それは後ほど触れたいと思います。


またまた古びたシリーズ復活です(笑、近頃の傾向?なのかな)ので、これまでのおさらいをしておきましょう。


格差社会1

格差社会2

格差社会3

格差社会4

格差社会5

格差社会6

格差社会7

格差社会8


で、シリーズにはなっていないが、こちらも。

階層意識って、本当に変わったのか?

格差拡大論争

格差拡大論争~その2

かなり無駄に長いのですが、お気の向いた方はどうぞお読みくださいまし。メディアの「ウソ」みたいな事例も具体的に登場していたりしますので、メディア批判の参考にはなるかもしれません(違うか)。


で、今回のネタは、内閣府がとても頑張ってくれて(とは言っても、ESRI 内部じゃなく委託先である外部の民間研究機関の人だと思う)、「日本の格差はそうでもないよ!!」ということを、以前の月例報告みたいな「さみしい」感じじゃなく、もっと大々的に報告しようよ、ということにしたんだろうと思う。昨年末にチョロっと報じられてたが、イマイチ誰の関心も得られず(これぞ行政情報の「待ち組」決定、笑)、かなりガッカリした様子だった(って、見たわけじゃないけど、多分そうかな、と)。でも、「もっと頑張って政府広報やろうよ、内閣府」というような内部的ハッスル(死語?)部隊が登場したんでしょう、きっと(笑)。

そういう流れで、今回のナイスなESRI のペーパーを出させて頂きます。これは私も、ナルホド、いい報告だな、と思いましたよ。勉強になるし。これからの方向性を考える上でも、示唆に富んでいます。


必ず本文をお読み頂きたいのですが、私の非常に乱暴なまとめをしますと、次のようなことになります。

1)日本の所得再分配―国際比較で見たその特徴

①再分配機能は弱い
②中間層に有利で貧困層には厳しい
③社会保障の再分配機能は富裕層で全然効いてない
④現役世代への給付が少ない

どちらかと言うと、中間層よりも上の人たちには有利に働きそうですよね。高額所得者の税率が低いというのはあるかもしれないですが、基本的に財源としての所得税の比率が低いというのはあると思います。社会保障負担ですけれども、これも随分と前に書いたことですが、高額所得者たちというのは保険料の等級上限がある「リミット制」になっている為に、所得額に比例しない負担で済むことになっているので、所得が高額なほど有利になります(相対的に保険料負担比率が下がる)。これを是正するべきです。更に、現役世代への給付が少なすぎるので、これも何か考えるべきでしょうね。フランス並みに手厚くしてくれ、とまでは申せませんが。それから、最も多数派である中間層のサラリーマンが文句を言うかもしれませんが、「再分配効果」をこの最大多数派が得ることによって、それより下層の「貧困層」への再分配を奪っているであろう、ということは推測できるのです。以前、山口氏も書いていたと思うが(H-Yamaguchinet 賃上げより前にやるべきこと)、多数派が実は得しているのですから、その一部を低所得層に回してあげてもいいんじゃないか、ということですよね。

なので、対応策としては、
・高額所得者への課税強化、社会保障負担強化
・中間層から下層へ再分配比重を高める
・現役世代への給付を増やす
・課税を多くして、再分配余力を増やす

というような感じでしょうか。

2)日本の賃金格差は小さいのか

①賃金格差は大きくない(真ん中辺のやや下)
②生涯賃金格差は最少グループかも
③相対的に下位層での格差はやや大

こちらは、下手をすると「日本に格差はないんだ」という誤った勝利宣言(笑)に利用されるかもしれませんのでご注意を。

<ちょっと寄り道:
朝日新聞あたりは、OECD報告から日本は「相対的貧困率が上位(3番目)だ、”ず抜けて”いた」ということを力説(格差拡大を海外からも心配される日本)していた訳ですが(笑)、それもイマイチ説得力が弱くなってくるかもしれませんね(冗談です)。けれど、朝日新聞風な論調を用いるとすれば、例えば「日本はG7の中で、”ず抜けて”生涯賃金格差が少なく、最も格差が小さい国だったことが裏付けられた」という具合になり(「裏付けられた」が好きなのは日経さんだったか?)、これを読む記者氏はどう思いますか?ってことなんですよ(笑)。ムカムカしてきますか?でしょ?ならば、いつも「そうならないような表現」を心掛けるべきなんですよ。「G7中では生涯賃金格差が最も小さいと考えられたが、相対的貧困率では上位3番目で、特に下位層での格差拡大の懸念がないとは言えない」とか、淡々と書けばよろしいと思いますけど。なのに、記者自身が優位的であるというような心理を自覚する場合、それをモロに記事の文中にちりばめてしまってると思いますよ。「ホレ、見たことか」とは書いてなくても、記事を書いてる記者の得意満面の顔とか心情が文中に出ちゃってるもの(笑)。それが伝わってきてしまうのですよ、マジで。>


ええっと、元に戻りますが、問題は下位層での格差拡大というで、多くは若年層が該当してきそうだというのは普通に推測できますよね。若年層ではフリーター等の非正規雇用者の割合が高い為であり、結果として下位層に多く若年者が存在するであろう、ということです。これは初めから内閣府が言ってたように、「若年層で今後格差拡大の恐れがあるので、要注意」ということです。これは上の参考記事(格差拡大論争)に書いた通りです。

今回調査結果での賃金格差、生涯賃金格差というのは、一応今までの人生モデルであれば、「あまり大きな格差はないかもね」ということであって、現状フリーターとかニートの道に進んでしまった若年者たちが40年後とかになったような時点では、その道を選択しなかった同年齢の人と比べるとかなり大きな差になったりする可能性もあるんじゃないの、という心配があるんですよね。なので、現時点(というか少し過去の時点だけど)では、日本はそんなに格差社会じゃない、ということは言えるかもしれない、というだけなんですよね。今後20年くらいした時点では、50歳前後の人たちの何割かは日雇いのままとか、短期雇用のままであるとか、過去の50歳くらいの人に占めていた非正規雇用者の割合に比べてもっと高くなっているかもしれない、というような危惧です。

1)の項目で見たように、賃金格差を是正する方向としては、労働政策面以外に再分配政策を見直すということが必要なんじゃないのかな、と。税制も社会保障負担も一体で見直すべき、と何度も言っていますが、今回も同じくそう言っておきたいと思います。



ちょと追加アルね。中国のアンバランスは酷いアルね。男多すぎアルね。
コレ>finalventの日記 - 今日のtypo 「のたらさない」

前にも書いたアルね。
中国の非モテは日本よりも非モテ(笑)

これって、他人事だけど深刻だよね~ホントに。だって、野郎ばかり余るから、勢い、ストレス発散できず犯罪なんかも多発しそう、とか書くと、突撃されるかもしれんが。「私ちゅこくの人でーす」みたいに、日本にたくさんやって来てたら、中国も女性の逆輸入でもしないと供給が間に合わないわな。となれば、ふっふっふ…人類史上空前の少子高齢化に見舞われるのが中国なんですよ(前から言ってるが)。

栄耀栄華は長続きしないものなんじゃない?……(←『ダメな議論』)