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医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その4

2007年05月01日 20時04分01秒 | 法と医療
説明の仕方が悪かったかな、と気になることがあって、もうちょっと書いて行きたいと思います。

参考:
裁判における検証レベル

Terror of jurisdiction ― 司法権力が医療崩壊を加速する

医療過誤と責任・賠償問題についての私案~その1

Terror of jurisdiction ~加古川事件について




加古川事件の「90%の確率で救命できた」というのと、「90%の確率で○○という技術が提供される」というのは違うのですよ。また例で考えてみたいと思います。

・降水確率90%

(正規の用語は定義を知りませんので、ご容赦下さい)
降水確率を単純に「ある日に雨が降る確率」ということにします。すると、「降水確率90%」であれば、バラツキはありますが、100日を取り出して調べると、雨が降る日は圧倒的に多くて90日くらいは実際に雨が降りますが、雨が降らない日は10日前後存在するわけです。降水確率90%であっても、です。こうした100日のグループを数多く調べてその平均を出していけば、そのグループの数が多くなればなるほどより90%丁度に近づいていくでしょう。

「降水確率90%」を対象となる日として、それが100日あるとします。対象日を、D1、D2、D3、…D100、と割り当てたとします。この時、「降水確率90%」という条件から、「どの日が雨が降らないか」ということを「事前に予測」することは困難です。仮に、D50は「雨が降るか降らないか」ということは(結果が出ているので)「事後的には判る」けれども、事前にどちらかを判定することはできません。もしも判定する要因が別に存在するとすれば、例えば「雲の量・面積」「気圧変動」「風速」「風向き」等の何らかの決定要因を見つけ出し、それに基づく条件を追加して、判定するということになります。でも、もしも、もっと別な要因が判っているとすれば、そもそも「降水確率」をもっと正確に決定できることになり、初めからその区分を用いておけばいいことになります。別な呼び名を割り当てて、それを「降水確率’」とすれば、新たな要因を加えた条件で判定すると、「降水確率’」は94%、とか、前の「降水確率」よりも精度が上がることになります。

加古川事件の裁判官は、「このD50という日は雨が降る」ということを事前に決定できるとしているものです。それが可能である、ということであれば、事前に決定できる要因について示し、立証するべきでありましょう。


・期待と結果は違う

期待水準はある程度規定することができると思いますが、結果について約束することは困難なことが多いのではないかと思います。

またカレー屋でスミマセンが、これが100軒あるとします。すると、「カツカレーが食べられる確率」というのは、客観的に判定できます。90軒でメニューに「カツカレー」がある場合、ある人がランダムにこの100軒を訪れるとすれば、「カツカレーが食べられる確率」は90%である、ということです。カレー屋に行く前に、「カツカレーが食べられるであろう」という期待として、90%の確率で期待できると言えます。

ところが、結果となると事前に約束することは難しい面があります。とあるカレー屋があって、非常に多くの客が来たとします。メニューは1つしかなく全く同一の「カレー」を食べた評価として、「美味しい」と答えた割合が90%、残り10%は「不味い」と答えたことが判っているとします。ある客が1人やってきて、そのカレーを食べた時何と答えるかを事前に決定できるでしょうか?「美味しいと答えるであろう」確率は90%でしょうけれども、「不味いと答えない」と何故判るのでしょうか。

判決としては、「カツカレーが食べられるように、メニューに入れるべき、作れる技術を有するべき」という水準を求めることは、可能であろうと思われます。社会的に「カレー屋ではカツカレーが食べられるべきである」という要請が強ければ(望ましければ)、それを判決に入れるかもしれない、ということは理解可能であるからです。しかし、問題となるのは、結果を約束する、というものなのです。裁判官の理屈では、90%の客が「美味しい」と答えているのだから、全ての客で「美味しい」と答えるはずで、「不味い」と答えた場合には過失と認定する、ということなのです。「美味しい」「不味い」を決定する要因というのは不確実であって、割合的には少ないけれども「不味い」との答えをゼロにはできず、それを少なくする努力はしているものの大変困難なのです。でも、裁判所はそれを「ゼロにできる」ということを主張しているのですよ。


・司法権力は結果を確実に決定できる特殊能力を持っている

ある疾病Sがあるとします。ある期間において、この疾病Sの死亡確率は10%であることが知られています。治療法としては、a1、a2、a3、…aN と色々あるものとします。どの治療法を行ったか(単独か、複数の組み合わせか)、或いは何も治療を受けていないか、規定できないけれども、死亡する確率は10%であるものとします。ここで、ある患者Pが疾病Sに罹患していて、他の死亡要因は皆無であるものとします。

この患者Pは死亡することは有り得ますか?
事前に「死亡しない」ということを決定できるでしょうか?
「疾病Sを有する人」1万人を集めて調べると、恐らく1000人前後の人が亡くなる、ということは事後的に判りますが、その1万人に含まれる特定の患者Pが事前に「どのような結果になるか」ということを確実に知ることは難しいのです。
しかし、加古川事件での裁判官の論理では、「死亡することは有り得ない」かつ「事前に決定できる」ということなのですよ。

治療法でa1を選択せず、a2を選択したので死亡した、とか、何らかの原因を特定できるのであれば、その論理を明らかにしてもらいたいですね。もし、本当にそれが可能であるならば、「完璧な治療法」を確立できるでしょう。すなわち、降水確率100%を事前に完全予測できる「何らかの理論」を発見したのと同じようなものではないかと。普通医療というのはそうした予測が極めて難しく要因が多くて複雑であるが故に、「何が原因なんだろうか、何を変えればいいのか」ということを探求しているのであって、そんなに簡単に結論が出るものであるなら誰も苦労はしないだろう。司法権力は特別な能力を有していて、Aさん、Bさん、Cさん、…それら全員について事前予測が可能なのだそうだ。それは本当に正しいと言えるだろうか?


・因果関係をどう考えるか

原因と結果が明瞭で必然的に起こるものであるなら、そもそもこうした疑義を生じたりはしない。それが明らかではないにも関わらず、裁判所の論理では「明らかである」と決定することに大きな問題があるのである。

いくつか例で考えてみよう。

○スイッチ入れる-風呂に水を注入-水が風呂から溢れた
風呂に水を入れていく時、溢れることが有り得るのだから、「溢れないように見張ってろ」とか「定量注入装置を付けとけ」とか「注意できないならスイッチを入れるな」と求めることができる。過失もはっきりしている。

○後ろを見ずに車がバックする-誰か轢く-死亡
ミラーを見ていれば気付いた、安全確認をしていれば防げた、というようことが明らかなのであれば、「ミラーを見なさい」「バックする前に後方確認せよ」ということを求めることができ、「見ていなかったのは過失」と認定できる。判り易い。

○青酸カリ投与-窒息-死亡
青酸カリを投与しなければ死亡しなかった、というのは必然で、「投与したことは過失」と認定できる。これも簡明である。「投与前に確認しなさい」とか「青酸カリの管理は厳重にやれ」とか求めることができる。

○筋弛緩薬投与-呼吸停止-死亡
これも必然的な結果であり、呼吸停止が起こるのだから「投与するなら呼吸させなさい」とか「呼吸させられないなら投与するな」ということを求めることになり、過失認定できる。

○錠剤Aを服用-下痢-脱水
この原因特定は難しいだろう。下痢となったので脱水、というのは一連の流れとして「相当の因果関係を持つ」ことは判るとしても、錠剤Aを服用した為に下痢となったかどうかは判らない。錠剤Aを服用した全員が同じ現象なのであれば、因果関係があると推定されるかもしれないが、1人だけ見ても、他の要因を否定できない限り、錠剤Aを原因と特定できない。錠剤Aはダイエット製品とか、普通の医薬品などがあったりするが、錠剤Aの作用(副作用)に関係なく、服用者が偶然カゼであったとか消化器系の疾患であったとか、別な理由があるかもしれない。そうであっても、裁判によっては「錠剤Aの副作用に下痢と書いてあるので、Aのせいだ」と認定されたりするかもしれない。他の要因を否定しきれていないにも関わらず、原因と決定してしまう、ということである。

錠剤Aの副作用として下痢の発生頻度が1%未満である時、「下痢の原因は何か」と考えるのではなく、「(副作用として書いてあるのだから)下痢の発生が予期できたのに、下痢を防げなかったので義務違反」という理屈を適用するのです。他の99%は「起こってないじゃないか」と。更には、「下痢を予防する薬を”内服しやすい環境”になっていなかったので義務違反」とかのかなり飛躍した理屈を持ち出されることさえあるのだ(万能な用語としての「義務」―際限なき義務化)。

○手術Bを実施-大量出血-死亡
出血というのは、多くの分野の手術において「合併症」として起こりえるものである。その程度の差はあれども、起こる。このある種の「副作用」発生をゼロにすることはできない。にも関わらず、司法の理屈では、「副作用の発生が知られているのだから、防げるはずだ」ということであり、極めて稀な「大量出血という重篤な合併症」について「起きることは許されない」ということである。

方法として、医療行為というのがcomplication発生を回避できないのであり、「薬の副作用発生」ということと意味合い的には同じである。大昔のように、外科的治療法が存在せず、「薬だけを使う」という医療であれば、副作用発生を回避できないのと同じである。治療法に名前を付けて治療法1、治療法2、…と割り当て、治療法1とは「薬物1を投与すること」、治療法2とは「薬物2を投与すること」、というようなものなら(中には「薬物xとyとzを複合して投与」というものもあるだろうが、治療として想定し得る全ての組み合わせを考えることは可能である)、「治療法1には合併症が発生する確率は~%」という具合になるのである。薬が「夢のような薬物」でない限り、良くないことは起こってしまうのである。ゼロにはできないのだ。「adverse event」が全くない「完璧な治療法」というものが存在しない限り、『「治療法N」におけるcomplicationの発生確率は0%』ということを達成できない。

内科的治療法においては、薬物の副作用等が存在することから「adverse event」を含むものである、ということが理解されるとして、外科系の治療法になった途端に「iatrogenic complicationは全て回避できる」という発想に繋がるのは何故なのかとは思う。治療法の割り当てを外科系も含めて「治療法n」まで果てしなく拡大していった時、取扱いとしては同じようになると思えるのだが。

薬を用いて重大な副作用が発生した時、「薬を用いなければ、副作用は発生しなかった」というのはその通りで、ならばその薬の重篤な副作用を全て未然に防げるかというと、それは難しいのである。例えばタミフル騒動みたいな場合に、「副作用があることは知られていたのに防げなかったのだから、事後的に処方した医師を刑事告訴する」ということですか?司法権力の考えることというのは、そういう発想しか持ちえないのです。「薬飲んだ→飛び降りた→飲まなければ死亡することはなかった=因果関係はあった=過失認定」ということですよ。「手術した→出血した→手術しなければ死ぬことはなかった」も同じなんですよ。


司法が求めることというのは、完璧な預言者であり、未来を正確に決定できる超能力者になれ、ということです。因果関係の推定も、原因探求も、根本的に間違った発想に基づいて行われており、それを是正させることはできません。裁判官権限はあまりにも強力であるからです。判決文についての詳細な検討が積み重ねられているならば、統一性も整合性もあるかもしれませんが、そういうことはあまり行われていませんし、法学関係・法曹関係の中で100人が同じものを判断したら「90%の確率でこうなる」というものではなさそうです。大体がバラバラです。つまり裁判はやってナンボの「でたとこ勝負」、ということで、その程度の「正確性でよい」というのを法曹界では「当然である」と考えている、ということでしょう。


・お詫び

最後に、お詫びしなければならないことがあります。加古川事件の記事の中で、次のように書いてしまいましたが、完全な誤りでした。どうもすみませんでした。
『第一に、日本全国で70分以内に転送可能かつPCI を即時実施可能な医療機関網が整備されているのか。大都市だけの特殊な事情で時間基準を語られても現実には実行不可能である。「○○分以内に治療を受けられれば助かった可能性」を語る時には、普遍性のある基準を適用するべきである。70分以上とか2時間以上行かないと無理だという地域もあるのなら、それらは「治療を受けられる権利、助かる権利があったにも関わらず、国や自治体がPCI を実施可能な医療機関を整備しておかなかったことは不法行為に該当する」ということなのか?』

この理由を述べておきます。
判例において、重要な指摘が存在しておりました。
「臨床医学の実践における医療水準は、全国一律に絶対的な基準として考えるべきものではなく、診療に当たった当該医師の専門分野、所属する診療機関の性格、その所在する地域の医療環境の特性等の諸般の事情を考慮して決せられるべきもの」
(最高裁平成四年(オ)第二〇〇号同七年六月九日第二小法廷判決)
ということでした。
即ち、①全国一律の絶対的基準で考えるべきものでない、②医師の専門分野、③所属診療機関の性格(一般開業の診療所か、基幹病院か、大学病院か、等ということであろう)、④所在地域の医療環境特性、⑤諸般の事情、によって医療水準を考える必要がある、ということです。従いまして、日本全国云々とか、普遍性のある基準とか、医療機関網未整備は不法行為とか、これらは全部出鱈目でありました。上記①~⑤に則って考慮すべきことであるので、加古川事件の場合であれば加古川事件の当該地域における「医療基準」が存在する、ということになります。その基準は「加古川の当該地域のみ」で通用するものであって、他の地域においては個別に考慮するべきことなので、1つの判例での「医療基準」を他に当てはめてみるというのは、殆ど意味をなさないかもしれません。他地域の医療従事者の方々が心配してもしょうがないということですね。でも、別な地域にある裁判所の裁判官が「重要な判例」として参照してしまうかもしれませんけど。



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