「転び」経済学者の話に関連して、もう少し書いておきたい。
ちょっとした話題になっていたのは、こちらの記事だ。
>100年に1度の危機に、ケインズはよみがえるのか?|野口悠紀雄 未曾有の経済危機を読む|ダイヤモンド・オンライン
いやはや、経済学者自身が「マクロ経済学はくだらない」と言い放つ人がいようとは、露とも思わなかった。これまで書いてきたが、日本の経済学の中では、流派ごとの争いみたいなものが盛んなだけで、学術的な進歩というものには互いに貢献してゆくということがないのように見えるのはこの為だ。これはまあいい。
野口氏の記事はご自身でよく読んでいただきたいが、とても不思議な部分を挙げておきたい。
『経済学者が持っているモデルは、きわめて「大まか」なものである。その大きな理由の1つは、モデル上の概念と実際の統計データが必ずしも正確に対応しないことである。たとえば、「純輸出」という概念が出てくるが、これは貿易統計における貿易黒字なのか、それとも財サービスの黒字なのか、それとも経常収支の黒字なのか。どれを取るかで、結果の数値はずいぶん違ったものになる。これは、自然科学の場合には存在しない問題だ。あるいは、「経済規模」というが、これは、GDPなのかGNPなのか? かつてはGNPを使っていたのをGDPに変えたのだが、日本企業の海外での経済活動が拡大したいまでも、GDPを考えていればよいのか?』
GDP統計の意義とか目的に対する適合性とか、そういうことへの疑問を生じるのは単なる素人であってもよくある話だ。野口氏がそう言ったとしても有り得る話かな、と思うが、「純輸出」や「経常収支」とかの定義については決まっているものなので、比較する時に統一されていればいいだけの話である。GDPで見るなら時系列でも国ごとでも統一的にGDPで見ればよいし、昔のようにGNPで見れば統一的にGNPで見ていけばいいだけの話である。
私の理解としては、GDP統計というのは経済学における「モデル」などという話ではなくて、極端な言い方をすると単なる「おこづかい帳」であって、記帳の仕方に関する取り決めを行ったものが数値として出されているだけである(参考記事)。集計の仕方や精度の問題というのはあると思うけれども、会計帳簿の細かい決まりのようなものと同じようなもので、複式簿記ということで記載方法が決まっているのと同じことでしかない。会計については詳しく知るわけではないが、「経済学モデル」という話なんか何もなくたって、税理士さんはきちんと仕訳して資産が負債+資本(+利益)と厳密に一致するようになっている。それと何が違うというのであろうか。
よく賃金を上げるには付加価値がどうとか、生産性が云々とか言うわけですが、これもGDP統計の仕組みの話というだけであって、よく考えてみればよいのに、と思えるのだ。
GDP=国内総産出額-中間投入額
=雇用者報酬+営業余剰+(間接税-補助金)+固定資本減耗
つまり、雇用者報酬が増えれば、GDPは増える(企業の営業余剰を削ってしまうだけではダメだけど)。雇用者報酬+営業余剰は国内要素所得であり、分配することを考えると、労働者が取るか、企業が取る(配当は株主)が取るか、ということでしかない(厳密には非企業の受取る財産所得が営業余剰に含まれている)。今世紀以降には株主に配当する割合が増加した一方では、従業員の賃金を削ってきたわけだ。合計額が同じなら、GDP統計上では同じ。
ある財の販売価格の構成が次のようになっているとしよう。
価格100円=人件費20円+原材料費40円+その他費用30円+利益10円
雇用者に賃金を1%増加させると販売価格が1%増えると思うか?答えは否だ。販売価格を1円値上げすると、人件費を21円にする(5%増!)か、人件費を0.2円だけ増やし利益が微増かだ。販売個数が若干落ちたとして、利益が横ばいかもしれない、という程度である。生鮮品は価格改定が頻繁に行われるのに、他の商品ではそうならない必然性というのはあまり感じられないが。仮に、毎年平均で価格が0.2円ずつ上昇したとしても、10年後になったって102円でしかない。原材料高や為替など他の要因で大幅値上げとなったのに、人件費捻出の値上げがそれほど反社会的と考えられるのだろうか?(笑)
もしインフレ率が4%くらいあると、ほぼ自動的に毎年4円以上の値上がりになるんですがね。昔の「預金金利が5%」という時代には、そうやって物価上昇があったからこそ5%だったんですから。これで人件費分の僅か0.2円を上げられない、なんてことはないはずだ。
次に生産性向上ということを考えてみよう。最も基本的な労働生産性というのは次の式で表される。
労働生産性=付加価値額/労働投入量
生産額=数量×価格と考えれば、
付加価値額=生産額×付加価値率
付加価値率は上述した100円の製品の例で言えば原材料の投入を除いた60円なので0.6ということになる。つまり、
労働生産性=生産額×付加価値率/労働投入量
=(数量×価格)×付加価値率/労働投入量
ということになる。価格が上がれば労働生産性は上がるということになるのである。価格を構成する賃金を引き上げると労働投入量が全く同じでも、労働生産性は向上するということになるのだ。また、賃金が増加することで価格に占める原材料などの中間投入額の割合が相対的に減少するので、付加価値率は改善することになり、それもやはり労働生産性が向上するのである。
100円の例でいうと、人件費が25円となった以外は他が全く同じ割合であるとすれば、価格105円のうち中間投入額40円は40%から約38%に減少、つまり付加価値率は60%から62%に改善するのだ。販売数量が同じなら①価格上昇分の増加要因と②中間投入額割合の相対的減少による付加価値率改善、という効果が考えられるのである。価格上昇で販売数量が若干落ちたとしても、生産額が大幅に減少しない限りは、賃金引き上げで労働生産性が向上する。
今度はもっと単純な例で考えてみよう。
よくオークションで絵画取引が行われているが、ピカソの絵を一度も見たことのない人にとっては、一枚の絵が数十億円とか百億円を超えるということが判らないのではないかと思う。価値なんてものは、案外と適当なのだ。希少性と、欲しいと強く願う人が誰か1人でもいれば、それで十分なのである。
ある画家が一枚の絵を描いて、5億円で売れたとしよう。今年の売上はそれだけだった。すると、この画家の労働生産性とはどうなるのだろうか?絵の具やその他用具類の中間投入額なんて微々たるものでしかない。労働投入量にしても、毎日10時間くらい描いていたとして、それはまあありがちな仕事時間なのではないかな。この絵の価格が5億円というのは、ある意味幻想みたいなもので、他の著名な画廊経営者が「ああ、これは駄作だな」と言ってしまう程度のものでしかないかもしれないのだ。でも、生産額が5億円なので、労働生産性は高い仕事、ということになるだろう。付加価値とか生産性なんてものは、そういうものなのだ、ということ。
これに類することは世の中に多々あるのである。ある建設プロジェクトの設計引き受け額が「この案件は3億円で受けます」という時に、3億円の価値かどうかなんて、特に決まっているわけではないのだ。設計担当の人件費とかその他モロモロの経費とかそれにプラスして利益が上乗せされてくるだろうが、設計料なんて特別に決まりがあるわけでもない。著名な建築家だとかだとべら棒に高いかもしれないし、無名の若手ならずっと安いかもしれない。けど、価格が高ければ当然付加価値額は上がり、半分ボッタクリみたいなものであるとしても、それはそれで労働生産性が高い、ということになるのだから。
全く同じ壷を売るのに、口がうまいやり手の女性が1個100万円で無垢なダサ男に売るのと、道端で1個1000円で売るのでは、商品本来の価値なんて同じであろうと、やり手の女性の方が労働生産性は圧倒的に高い、ということなのだよ。付加価値なんてものはそういう面があるのだ、ということ。日本人というのはあまりに真面目すぎて、ついついお客様に尽くしてしまう、顧客を考えて自らの身を削ろうとしてしまう、みたいなことですかね。同業者間の競争にしても、極めて過酷になりがちなんだろうと思います。もうちょっと、「これだけの仕事をしたので、こんだけもらいますね」というような面があるべきなのです。
最後に、野口氏の「ケインズの時代に国債なんてなかった」という驚異の発言にはビックリです(笑)。
イギリスではもっと前からコンソル債が発行されており、欧州での信用度は最も高かったでしょう。現代で言えば、米国債を海外諸国が大量に買っているようなもので、米国というのが経済面でも国の信用という面でも、最も高い信頼を得ているから、ということに他ならないでしょう(今後もそれが約束されているとは誰にも判らないでしょうが)。
コンソル債を知らなければ、利子率の話が判らないということになるでしょうね。それで経済学者を名乗っていても大丈夫なのですから、日本の経済学の世界というのがどういったレベルなのか、というのは推して知るべしということでしょう。
ちょっとした話題になっていたのは、こちらの記事だ。
>100年に1度の危機に、ケインズはよみがえるのか?|野口悠紀雄 未曾有の経済危機を読む|ダイヤモンド・オンライン
いやはや、経済学者自身が「マクロ経済学はくだらない」と言い放つ人がいようとは、露とも思わなかった。これまで書いてきたが、日本の経済学の中では、流派ごとの争いみたいなものが盛んなだけで、学術的な進歩というものには互いに貢献してゆくということがないのように見えるのはこの為だ。これはまあいい。
野口氏の記事はご自身でよく読んでいただきたいが、とても不思議な部分を挙げておきたい。
『経済学者が持っているモデルは、きわめて「大まか」なものである。その大きな理由の1つは、モデル上の概念と実際の統計データが必ずしも正確に対応しないことである。たとえば、「純輸出」という概念が出てくるが、これは貿易統計における貿易黒字なのか、それとも財サービスの黒字なのか、それとも経常収支の黒字なのか。どれを取るかで、結果の数値はずいぶん違ったものになる。これは、自然科学の場合には存在しない問題だ。あるいは、「経済規模」というが、これは、GDPなのかGNPなのか? かつてはGNPを使っていたのをGDPに変えたのだが、日本企業の海外での経済活動が拡大したいまでも、GDPを考えていればよいのか?』
GDP統計の意義とか目的に対する適合性とか、そういうことへの疑問を生じるのは単なる素人であってもよくある話だ。野口氏がそう言ったとしても有り得る話かな、と思うが、「純輸出」や「経常収支」とかの定義については決まっているものなので、比較する時に統一されていればいいだけの話である。GDPで見るなら時系列でも国ごとでも統一的にGDPで見ればよいし、昔のようにGNPで見れば統一的にGNPで見ていけばいいだけの話である。
私の理解としては、GDP統計というのは経済学における「モデル」などという話ではなくて、極端な言い方をすると単なる「おこづかい帳」であって、記帳の仕方に関する取り決めを行ったものが数値として出されているだけである(参考記事)。集計の仕方や精度の問題というのはあると思うけれども、会計帳簿の細かい決まりのようなものと同じようなもので、複式簿記ということで記載方法が決まっているのと同じことでしかない。会計については詳しく知るわけではないが、「経済学モデル」という話なんか何もなくたって、税理士さんはきちんと仕訳して資産が負債+資本(+利益)と厳密に一致するようになっている。それと何が違うというのであろうか。
よく賃金を上げるには付加価値がどうとか、生産性が云々とか言うわけですが、これもGDP統計の仕組みの話というだけであって、よく考えてみればよいのに、と思えるのだ。
GDP=国内総産出額-中間投入額
=雇用者報酬+営業余剰+(間接税-補助金)+固定資本減耗
つまり、雇用者報酬が増えれば、GDPは増える(企業の営業余剰を削ってしまうだけではダメだけど)。雇用者報酬+営業余剰は国内要素所得であり、分配することを考えると、労働者が取るか、企業が取る(配当は株主)が取るか、ということでしかない(厳密には非企業の受取る財産所得が営業余剰に含まれている)。今世紀以降には株主に配当する割合が増加した一方では、従業員の賃金を削ってきたわけだ。合計額が同じなら、GDP統計上では同じ。
ある財の販売価格の構成が次のようになっているとしよう。
価格100円=人件費20円+原材料費40円+その他費用30円+利益10円
雇用者に賃金を1%増加させると販売価格が1%増えると思うか?答えは否だ。販売価格を1円値上げすると、人件費を21円にする(5%増!)か、人件費を0.2円だけ増やし利益が微増かだ。販売個数が若干落ちたとして、利益が横ばいかもしれない、という程度である。生鮮品は価格改定が頻繁に行われるのに、他の商品ではそうならない必然性というのはあまり感じられないが。仮に、毎年平均で価格が0.2円ずつ上昇したとしても、10年後になったって102円でしかない。原材料高や為替など他の要因で大幅値上げとなったのに、人件費捻出の値上げがそれほど反社会的と考えられるのだろうか?(笑)
もしインフレ率が4%くらいあると、ほぼ自動的に毎年4円以上の値上がりになるんですがね。昔の「預金金利が5%」という時代には、そうやって物価上昇があったからこそ5%だったんですから。これで人件費分の僅か0.2円を上げられない、なんてことはないはずだ。
次に生産性向上ということを考えてみよう。最も基本的な労働生産性というのは次の式で表される。
労働生産性=付加価値額/労働投入量
生産額=数量×価格と考えれば、
付加価値額=生産額×付加価値率
付加価値率は上述した100円の製品の例で言えば原材料の投入を除いた60円なので0.6ということになる。つまり、
労働生産性=生産額×付加価値率/労働投入量
=(数量×価格)×付加価値率/労働投入量
ということになる。価格が上がれば労働生産性は上がるということになるのである。価格を構成する賃金を引き上げると労働投入量が全く同じでも、労働生産性は向上するということになるのだ。また、賃金が増加することで価格に占める原材料などの中間投入額の割合が相対的に減少するので、付加価値率は改善することになり、それもやはり労働生産性が向上するのである。
100円の例でいうと、人件費が25円となった以外は他が全く同じ割合であるとすれば、価格105円のうち中間投入額40円は40%から約38%に減少、つまり付加価値率は60%から62%に改善するのだ。販売数量が同じなら①価格上昇分の増加要因と②中間投入額割合の相対的減少による付加価値率改善、という効果が考えられるのである。価格上昇で販売数量が若干落ちたとしても、生産額が大幅に減少しない限りは、賃金引き上げで労働生産性が向上する。
今度はもっと単純な例で考えてみよう。
よくオークションで絵画取引が行われているが、ピカソの絵を一度も見たことのない人にとっては、一枚の絵が数十億円とか百億円を超えるということが判らないのではないかと思う。価値なんてものは、案外と適当なのだ。希少性と、欲しいと強く願う人が誰か1人でもいれば、それで十分なのである。
ある画家が一枚の絵を描いて、5億円で売れたとしよう。今年の売上はそれだけだった。すると、この画家の労働生産性とはどうなるのだろうか?絵の具やその他用具類の中間投入額なんて微々たるものでしかない。労働投入量にしても、毎日10時間くらい描いていたとして、それはまあありがちな仕事時間なのではないかな。この絵の価格が5億円というのは、ある意味幻想みたいなもので、他の著名な画廊経営者が「ああ、これは駄作だな」と言ってしまう程度のものでしかないかもしれないのだ。でも、生産額が5億円なので、労働生産性は高い仕事、ということになるだろう。付加価値とか生産性なんてものは、そういうものなのだ、ということ。
これに類することは世の中に多々あるのである。ある建設プロジェクトの設計引き受け額が「この案件は3億円で受けます」という時に、3億円の価値かどうかなんて、特に決まっているわけではないのだ。設計担当の人件費とかその他モロモロの経費とかそれにプラスして利益が上乗せされてくるだろうが、設計料なんて特別に決まりがあるわけでもない。著名な建築家だとかだとべら棒に高いかもしれないし、無名の若手ならずっと安いかもしれない。けど、価格が高ければ当然付加価値額は上がり、半分ボッタクリみたいなものであるとしても、それはそれで労働生産性が高い、ということになるのだから。
全く同じ壷を売るのに、口がうまいやり手の女性が1個100万円で無垢なダサ男に売るのと、道端で1個1000円で売るのでは、商品本来の価値なんて同じであろうと、やり手の女性の方が労働生産性は圧倒的に高い、ということなのだよ。付加価値なんてものはそういう面があるのだ、ということ。日本人というのはあまりに真面目すぎて、ついついお客様に尽くしてしまう、顧客を考えて自らの身を削ろうとしてしまう、みたいなことですかね。同業者間の競争にしても、極めて過酷になりがちなんだろうと思います。もうちょっと、「これだけの仕事をしたので、こんだけもらいますね」というような面があるべきなのです。
最後に、野口氏の「ケインズの時代に国債なんてなかった」という驚異の発言にはビックリです(笑)。
イギリスではもっと前からコンソル債が発行されており、欧州での信用度は最も高かったでしょう。現代で言えば、米国債を海外諸国が大量に買っているようなもので、米国というのが経済面でも国の信用という面でも、最も高い信頼を得ているから、ということに他ならないでしょう(今後もそれが約束されているとは誰にも判らないでしょうが)。
コンソル債を知らなければ、利子率の話が判らないということになるでしょうね。それで経済学者を名乗っていても大丈夫なのですから、日本の経済学の世界というのがどういったレベルなのか、というのは推して知るべしということでしょう。