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『官僚たちの夏』~第2回

2009年07月14日 15時11分22秒 | 俺のそれ
このドラマの話を書くつもりはなかったのだけれど、偶然目にした記事が気になったので。


ふーむむ、一理ある意見ではあるけれど…。

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本石町日記 総選挙ですか、そうですか(棒読みモード)=「官僚たちの夏」で追記

「官僚たちの夏」、第二話の視聴率はかなり下がったようだ。でも、個人的には、大臣も巻き込んだ海外組(高橋克典など)との派閥抗争の芽生えがあったりして、まだ面白いと思った。あと、制作サイドへのかなわぬ希望だが、女性キャリアに「私達があたかも将来が分かったふりして産業界を指導するのはソビエト的ではないのか」と言わせたりしたら、ドラマの奥行きが深まると思うが。視聴率、取れないね(苦笑)。

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「将来が分かったふりして産業界を指導するのはソビエト的ではないのか」という意見は、よく判る。そんなに官僚の発案や意見が正しいとも思えないからだ。だから、女性キャリア(吹石一恵)に路面電車の中で、「でも、指導する立場の側が間違っていたらどうするのかしら」(おおよそセリフはこんな感じ)という意見を敢えて言わせていた。
ソビエト的だの社会主義的だのなんて言わなくても、国が産業界を正しく指導することなんてできるのか(意味があるのか)、ということをきちんと捉えていたわけである。昨今の官民一体の産業プロジェクトを見れば、無駄の温床とか補助金のムダ遣いとか、そういう側面があることは否めない。だからこそ、現場の仕事も何も知らない官僚なんかに産業政策なんて考えられるのか、という意見が多くなってしまうのも無理はない。


これは確かにそうなのだけれども、産業政策がまるで意味がないかというと、案外そうではないかもしれない、と思えたりもする。日本ではベンチャー育成の環境とかはあまり整備されていないかもしれず、そうなると「やってみたけどダメだった、無駄だった、失敗だった」というようなことって、ごく普通のベンチャーでぽしゃった事例と似たような話なのではないのかな、と。やってる主体が、民間だけなのか、国も混ざっているのか、というくらいしか違わないようにも思える。


マージャンをする時を考えてみよう。
メンバーには、民間企業A、B、C、Dがいるとする。このうち、Dの後ろには「官僚のXさん」マンツーマンで付いて指導するものとする。普通なら、民間企業に全部任せて「好きなようにやっていいよ」ということで、ゲームを見守るくらいしかないのだが、「官僚のXさん」は必死に指導してDに成功させようと「ああ、それは切らないで、こっちを切って」とか、後ろからいちいち細かく言うわけだ。Dにしてみると、「本当にマージャンをよく知ってるのかな、経験はこっちの方があると思うんだけどな」とか思うわけです。

で、うまくいかないと、「官僚のXさん」の言う通りに打っていたのに、「なんだ、ダメじゃん、振り込んじゃったじゃん」とか「またアガれなかったじゃないか、アンタ本当にマージャン知ってるの?」とか、そういう意見が出るのだ。「官僚のXさん」が余計な口出しをしたばかりにうまく行かなくなったんだ、というわけですね。でも、どっちにしろよく判らないんじゃないでしょうか。「官僚のXさん」が何もせずに、じっと黙って見ているだけだったら、民間企業のDさんがアガれたんでしょうか?要するに、民間に任せておくというのは、ただ好きなように打たせておくだけで、だからといって成功できるかどうかは結局のところ判らないんじゃないかな、と。民間だけだからうまく行く、ということも、そうなのかどうかは判らないかも。マージャンの面子に、民間3人と国の1人を入れる場合と、民間4人だけの場合と比べて、後者の方がはるかにうまくいくということなんでしょうか?

余計な口出しや手出しはしないでくれ、アンタは下手くそなんだから、ということなら、それをはっきりさせられる関係にさえなっていればいいのでは。けど、新規事業とか将来産業育成というのは、国(省庁)だからこそある程度のリスクを許容できる(税金を無駄にするので、それを責められるリスクは大きいだろうけど)ので可能な部分というのもあるかもしれず、ベンチャー育成環境の十分整っていない日本にはそういうリスクを取る主体も必要なのではないだろうか、ということがあるんじゃないのかな、と。



ドラマの中では、テレビ製造事業の新規参入規制というのがテーマにあったが、これも所謂「レモン」を防ぐという視点で見れば、必ずしも悪い政策だったのかというと、あながちそうとも言えないのでは。新規参入規制のない事業者ばかりであっても、市場淘汰が働くから問題ない、ということになるかというと、それは割りと難しい問題であったりするかも。

例えば、FX事業者(外国為替の取引)のような場合であると、初期の頃には何らの規制もなかったので誰でも好き勝手に始められたが、そうすると顧客財産の消失等(会社倒産含む)のトラブルが発生し、消費者側が保護されないということが起こりえるわけです。事後的に損失を賠償できればよいかもしれませんが、現実にはそれが困難であることは少なくありません。そこで事前規制ということになってしまうわけで、これはテレビ製造の場合でも同じようなものではないのかな、と。

昨今では、弁護士の資質低下が嘆かれている記事をネット上でも見かけますが、これとて同じで、弁護士の参入障壁をなくして自由化すると良くなるのかといえば、それはどうなんだろうなと。参入制限というのは、テレビ製造でも似たようなものなのです。社会の中で、事後的に損失の取り返しにくいようなものについては事前規制が厳しいことが多く、損失がそこまで大きくはないであろう事柄については参入が緩やかに設定されているように思われる。これはある種の経験則のようなものなのではないか。


将来も結果も見通せないのは、官僚であろうと民間業者であろうと同じであり、誰がやってもダメなものはダメだろう。ただ、トライする時のリスクは誰が負担するのか、という点においては、民間業者だけがリスクを負うのが自由なやり方、国がリスクを一部負担してくれるのが産業政策、ということになるでしょうか。官僚は民間業者に比べて現場の情報とか専門的な知識という点において劣るかもしれませんが、民間業者が「やりたい」と言わないことを無理矢理に押し付けてやらせることがそんなにあるのか、ということはあるでしょう。

官民一体でナニナニ、という場合、民間業者側が「研究の補助金を付けてくれ、そうじゃないとリスクがあるからできない」というようなことを言うからなんじゃないかと思うわけで、本当にこの先ダメなものや芽のないものを民間業者がやると言うとも思えないんですよね。情報や知識で上回る民間業者たちが、敢えて「大損」するような方向を選ぶのだろうか、と。多分、そういうことはないんじゃないのかな、と思うのですよ。だとすると、情報や知識を持っていたって、やはり失敗の事業を選んでしまうこともあるわけで、それって普通の研究とか実験とか、そういうのと大体同じじゃないですかね。


個人的には、産業政策を礼賛したいわけじゃないが、全部が全部ダメというわけではないと思っている。特に、リスク許容度という点においては、やはり民間には難しい部分というのはある。が、官民一体とか、産官学一体とか、そういう連携が意味ないとか無駄だということを決め付けることもできないのではないか、とは思う。

「ソビエト的」というのが、まるで悪魔の法則であるかのように用いているのも、やや疑問ではある。
産業の段階にもよるかもしれないが、社会主義経済が自由資本主義経済よりも高い成長率を誇っていた時代はあった、というのが厳然たる事実であることは覚えておく方がよいのではないか。計画がそこそこ優れていることだってあるのだ、ということ。計画するのが、個々の民間企業の経営者たちなのか、知識や情報の豊富な官僚たちなのか、という違いくらいしかない。かつて、ある程度うまくできた部分はあったけれど、長く全部をうまく計画し続けるのは困難、ということであろう。それが社会主義の限界、ということなのだと理解している。

それは官僚が政策を考えると必ず失敗する、ということを意味するものではないだろう。