いい国作ろう!「怒りのぶろぐ」

オール人力狙撃システム試作機

彼に騙されなかった理由は・・・たぶん嫉妬(笑)

2016年03月18日 14時21分23秒 | 社会全般
ちょっと話題になっているので。

>http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/174784/031700036/?P=1


小田嶋氏をして、騙された、とは予想外。

我が家では、特に妻がずっと前から「この人おかしいよ、怪しい、一目で分かる」みたいに豪語しており、今回の一件でも珍しく「ホレ見たことか」の自慢を仰ぐ結果となりました(笑)。まさしく仰る通りでございました。


ま、当方は彼に特段の関心を抱いていたわけではありませんし、経歴等についても知らなかったので、経歴詐称で「騙された」感と言いますか、被害者感情のようなものは、一切ないわけです。ただ、時折「報道ステーション」なんかで顔を知ってた、という程度でした。番組登場時の紹介が「経営コンサルタント」と表示されていたので、「へん、そうなんだ、大したことないな」くらいにしか感じてなかったわけです。


どうしてか?と言いますと、ずっと以前から「胡散臭い連中」の『傾向と対策』(古!)があったものでして、経歴なんかよく知らなくてもいいけど、仮に「MBA取得、経営コンサルタント」みたいな肩書だったなら、まずその時点で「胡散臭い人だな」の印象を抱いてしまうであろう、という、当方独自のバイアスがあるからなのです(笑)。



リーマンショック前に、コンサルは…ねえ…、と。


2008年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/13d4607a915647fdb489764da699eb9d



2009年2月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/394a76a69263f245146a2ab63a7eb36e

(一部再掲)


世の中には、色んな商売がある。中には、詐欺的商法なんかもあるし、自尊心や見栄を満たす為だけに存在する商売もきっとあるだろう。「ハナモゲラ大学院大学のMBA取得、学位取得、●●博士、現在ハナモゲラ大学院大学客員教授」みたいな、新聞紙で出来たようなどでもいい肩書きをしょって、空疎な泥人形を誤魔化しているような連中というのは、結構いるかもしれない。

早い話が、「中身がない」というだけ(笑)。

どんな形であろうといいので、親が金を出して、あまりありがたみのない大学に行かせて、大した教育も受けず、「名ばかり大学」を卒業してしまうことはあるのではないかと思えたりもする。履歴書の学歴欄を見ると、「名ばかり大学卒」とか書いてあるという寸法です(笑)。資格欄には、バブル気味の超安値「MBA」とか。まずお前が鍛えてもらえ的なダメ講師陣が役立たずな屁理屈を指導、ないし腐れ理論を「ネットで自学自習(笑)」や「仮想現実授業」、で、出来上がるのは、ロクでもない講師陣とほぼ同様な大卒者の拡大再生産が繰り広げられる、と。



別に、有名大出だろうが、MBA持ってようが持ってなかろうが、どっちだっていいんじゃなかろうかと。そんな肩書を有難がるという風潮が、当方にとってはアホらし、と思ったということなのですが。



2009年1月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/cafc82c5bc9915e987d10b0e0d409f3c

(一部再掲)

よくいるコンサルだのというのは、米国でMBA取りました、とか、肩書きは立派な人たちはそれなりにいるわけだ。そういう人たちの多くは、「米国では…」という「出羽守」(笑)タイプの連中が圧倒的に多い。で、米国モデル以外の解決法とか考え方とか、そういう何かを提案できる人間というのは極めて少数。
米国ではそうだとして、だからどうだっての?
何、それが一番優れているわけ?

つまり、彼らには考察というものがまるでない。
 (中略) 

人々の無知につけ込む、という点においては、詐欺師もコ○○ルも似たり寄ったりだわね。コンドルは飛んでゆく、ではないよ(笑)。


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とまあ、このように、コンサルを目の敵にしているわけではございませんが、辛辣な意見を浴びせてきた当方としては、あまり信じられるタイプの人種ではなさそう、ということです。いや、中には立派なコンサルタントの方もおられるでしょうから、心外に思われるかもしれませんが、当方の抱く感触というのは、概ねこういうことです、と。


なので、コンサルの発言には、一種の「眉唾」っぽく聞いておいて、自分で確かめないと気が済まない、というような感じですね。そうか、自分でやるなら、コンサルの必要性を感じない、ということになってしまいますかね(笑)。


いずれにせよ、世間さまに対して、何らかの「箔」を付ける必要性から、経歴のモリモリが横行してしまうのでしょうね。

しかし、当方が渦中のイケメンをくさしてしまうのは、詐欺的だろとかいうことよりも、世間が「彼に対する高い評価」を与えていることでしょうね、と気付いたのですよ。それは、当方が「彼に嫉妬している」ということなのです。


これはこれで、痛々しいわけです(笑)。
けど、自分がイケメンではないことくらい、簡単に分かりますし、誰も当方には質問してきたりコメントを求めたりすることは決してありませんから、日常的な社会生活においては当たり前のことのはずなんですね。


にも関わらず、心のどこかで「そんな程度のコメントはオイラでも言えらい!へん!」くらいに思っていて、これは嫉妬心なんだろうな、と。だから、当方には彼を非難できないし、彼の経歴の正誤は当方には関係がなく、どうだっていいことなんです。何処かで、ざまあ、なんて思いたくないからなんだな、多分。彼が降板させられたとて、自分に成功が訪れるわけでも何でもないわけで。逆に、嫉妬心に気付いてしまった以上、自分を誤魔化すのもちょっとナンだな、と(笑)。他人の不幸を喜ぶことは、避けたいから。


むしろ、報道機関側の方が、変に肩書を有難がってみたり、無駄な権威主義的姿勢だったりするということに問題があるのではないでしょうかね。

人間ってのは、チヤホヤされたり、傍から見ればうまく行っているようで悩みもなさそうであっても、分からないことってたくさんあるんですね。

普通の幸せを実感できることに感謝したいです。



原発行政を正すことのできる司法を応援しよう(追記あり)

2016年03月15日 14時09分21秒 | 法関係
先日の大津地裁の仮処分決定に関して、もうちょっと追加しておきたい。


まず、大勢の国民が裁判所なり原子力規制委員会なりを、真剣に応援し、これを支持する覚悟をもってすれば、必ずしも全部が全部権力サイドのご意向に従うわけではないかもしれない、ということを、ほんの僅かな希望なのかもしれませんが、心の何処かに持っている方がよいと思います。


その為には、原発推進派や電力会社に対抗できるよう、主張したり、諦めず声を上げ続けることだと思います。そしてなにより、「我々は常に見ているぞ」という、多数の国民の存在を示すことが重要かと思います。


原子力規制委員会の人たちだって、日本に原発事故が起こって欲しいとか再度悲劇が訪れてもいい、などと考えている人たちは、一人もいないと思いますよ。だから、全否定をする存在ではないんだ、と心の片隅に思っていてほしいな、と。

たとえ、原発が全て停止したとしても、これを何十年か何百年か分かりませんけれども、世紀単位のオーダーで管理し続けて、どうにか処理をしていかねばならないことは既に確実なのです。福島原発の事故処理だけの話ではありません。核の管理は、ずーっと続くということです。この作業を全て管理監督することだけでさえ、多大な労力を伴うし作業員の安全確保は必須ですから、規制庁の役割はいつも求められます。


処理の見通しが立つまでは、延々と冷却を継続しなければならないわけですから、これは簡単なことではないのですよ。
規制庁は、そうした管理体制をきちんとできるようにやってもらいたいと思いますし、場合によっては、廃炉作業の面で各民間企業なり業者なりを先導しまとめる役割が必要になるかもしれません。



一方、裁判所についてですけれども、15年には川内原発に関して残念な結果となってしまったこともありました。けれども、兎に角、怯えず、諦めず、言い続けて行くしかないのではないかと思います。応援の声が大きくなればなるほど、矢面に立つ判事たちを勇気付けることができると思います。


拙ブログ記事を再度、読んでほしいです。

2015年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1734b8fc948cf410eabfd64ef62d9a04

(一部再掲)

原子力発電所の有するこうした深刻な危険性に鑑みれば、本来国が使用を中止し、少なくとも、国民の生命財産を保護し健全な社会生活を営む為に、他の取り得る代替手段が全く存在せず、その使用がやむを得ないという特段の事情がある場合を除いては、行政が使用を控えさせるべき義務を負うと考えられる。

行政がこのような義務を履行しないという重大な危険の存在を認めた場合には、裁判所は、法律上の強制的な権限行使が許容されるばかりでなく、行政に義務履行を促すべく措置を採ることを実施すべきであり、原子力発電所事故がもたらす結果の重大さと事故予防の重要性の観点から、裁判所には率先して危険を除去し事故を防止すべき責務があるものと考えるべきである。


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偉そうなことばかり言って、すみません。

けれどもね、私は、悔恨の中で死んでいった吉田所長をはじめ、死地での過酷な作業に従事して、命を落とされた人々の魂に報いる為にも、また現在も作業を続ける人たちの為にも、安易に「原発は安全だ、これまで通り稼働できる」などとは、言えないのですよ。他の原発施設に人員を割くより、まずは事故処理を優先し、全国の作業分散化を計画的にやってゆくべきだと思います。


これは、魂の救済をかけた、日本に生まれた人間としての戦いなのですよ。



追記:18時頃

本日付の記事で、昨年末の福井地裁での再稼働を容認した決定に関して、裁判官にまつわる記事があったようだ。

>http://lite-ra.com/2016/03/post-2066_2.html

(一部引用)


問題は林裁判長の経歴だ。1997年に任官した林裁判長は最初の赴任地が東京地裁で、2年後に最高裁判所事務総局民事局に異動。その後も宮崎地裁勤務以外、東京・大阪・福岡と都市圏の高裁と地裁の裁判官を歴任している。(中略)

この最高裁事務総局というのは、裁判所の管理、運営、人事を仕切る部署で、将来は最高裁判官を狙えるようなエリートが集まるところだという。林裁判長は人事権を握る事務総局から目をかけられ、将来を約束された最高裁長官さえ狙えるようなエリートだったのだ。
 いや、林裁判長だけではない。昨年12月、林裁判長と一緒に高浜原発再稼働を認めた左右陪席の2人の裁判官、中村修輔裁判官と山口敦士裁判官もまた最高裁判所事務局での勤務経験があるエリート裁判官だった。
 中村裁判官は一度も遠隔地赴任がなく、東京、横浜、大阪で過ごし、事務総務局総務局付で国会対策などを担当したエリート。
 また山口裁判官も大阪高裁や出向で外務省の花形ポジションである国連日本代表部2等書記官の肩書きを持っていたという。

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拙ブログでも、林潤裁判長、中村・山口裁判官について、批判記事を書いた。

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5c7a0f104368dc6b7abb6a3d250109c7



『220ページを超える膨大な量ですが、要点を平たく言うなら、「示された基準に合格しているんだから、文句言うな、合格は合格だ」ということです。しかし、福井地裁の林潤裁判長、山口裁判官、中村裁判官の判決には、重大な欠陥があります。このような人たちが、本当に重大な安全上の問題を判断できるものなのか、大いに疑問があります。根底から、安全思想と言いますか、事故防止の対策を考える上での常識の欠落があると思います。』

と重大欠陥について指摘した。
本音部分については、後段の方に、

『ヒューマンエラーが発生することを前提に設計できない、というのは、これがまさしく福島原発を崩壊に導いた最大要因だということが、まだ裁判官にすら理解されてないのだよ。こんな連中に、司法審査を任せるという日本の裁判所というのは、どうなっているのだ?
個人的感想を許してもらえるなら、はっきり言って、判決で出した理由は、頭がおかしいとしか思えない。どうして、こんな低レベルなヤツラに委ねなければならないんだ!』

と書いた。
道理で、結論ありき的な、分量だけ多くて無駄な作文を連ねただけの220ページを超える大作(笑)だったわけだ。論点をぼかしつつの、彼らにとっての再稼働させる為「お得意の”作業”」をこなしたに過ぎない。エリート気取りのお仕事、ということだな。




災害から5年、何年経っても愚かなエリートたち

2016年03月14日 15時53分56秒 | 社会全般
日本という国の狂気、これは筆舌に尽くし難い。

愚か者を政治の上層部から排除できない、という、まさに「システム」なのだ。かつて国会事故調が指摘した、「日本文化の慣習」なのである。


5年経っても、溶融した燃料の状況を確認する手段すら、開発されてはいない。処理方法を誰も考えられず、実行することすら不可能なのだ。それでいて、再稼働だけはどんどんやって行こう、という政治姿勢だけは堅持されているのである。満足に解決もできないくせに、また懲りずに同じことを繰り返すのである。学習できない連中ばかり、だ。


昨日、NHKの再現ドラマが放送されていた。
当時の、現場で作業に当たってくれた人々の苦闘を忘れてはいけない、と思う。その意味では、悪くはないのかもしれないが、記憶の書き換えが行われてしまうかもしれない、ということに注意が必要である。


12日の1号機水素爆発以降、報道発表が非常に気になっていた。なので、テレビを注視していた。初期の頃、1号機を「水棺にする」というような官邸側の見解が示されていた。爆発したのは、あくまで建屋だけなので、圧力容器や格納容器は健全性が保たれているから大丈夫だ、海水で満杯にすれば大丈夫だ、というような話だった。


しかし、14日、3号機がまたも爆発。
当日、当方はたまたま家にずっといた。休暇だったからだ。国内放送は延々と同じACの広告映像ばかりが流れ、時折官房長官会見とか、保安院か東電会見で新たな情報が報じられる程度だった。

なので、しばらくCNNを観てた。
すると、遠距離からカメラがズームアップすると、3号機が吹き飛ぶ様子が映し出された。


外人のキャスターはオウと短く叫び声を上げてた。
すぐさま、国内報道を確認したが、遅々として報道されず、「水素爆発」とも言われてなかった。ネットでも大差なかった。数時間後、黒煙が上がっただったか、大きな振動を感知だったか、寝言みたいな表現で広報されただけだった。

海外メディアを含め、日本政府の情報開示に「疑念」が生じたのは当然だった。隠蔽しているようだ、と。
その後、2号機の危機が夜から明け方にかけて報じられていたが、どうなるのはか全く不明だった。が、東電発表で、早朝(6時頃だったか?)に地下に爆発音と大きな振動があった、と報じられた。どうやら、サプレッションプールのどこかに穴が開いたのではないか、という見解だったはずだ。

これにより、圧上昇で格納容器破壊が心配されていた2号機が、線量上昇はあったものの建屋ごと吹き飛ぶという事態は免れたようだった。しかし、15日午後には、運転していなかったはずの4号機が建屋から出火と報じられ、仕事中だった私は、このままでは本当にダメか、と思った。

神仏に人生最大級の祈りを捧げた。
あの時の、見えない遠くの人々のことが胸に突き刺さって、その苦しい痛みは一生忘れない。


3月15日>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5f9954d2b1cd8dc023a3e9ea0d1d8612


死を覚悟して、注水作業をしてくれた人々がいなければ、日本は本当に終わっていた。
国会事故調の報告書を読めば、それは誰しもが同じ思いを抱くに違いない。


2012年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e86e7ca57d08ea20637c249807fcc20a


先日、大津地裁の仮処分決定が出されたが、司法が立ち向かう勇気を持ちはじめてくれているように思う。これを支えるのは、多くの国民の「声援」なんだ。誰でもいい、裁判所はどう判断したか、その後上級審はどうしてるか、不当人事などはないのか、いつも注意を払っていてほしいと思う。そうすることが、声を上げ続けることが、勇気ある裁判官たちを守ることになるのだから。



事故から約半年後、当時の原因調査の中間報告が出されていて、それを基に初期対応の問題を記事に書いた。


2011年10月

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/3ecfb64c88554a0258aa06000ad5692b

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/87e660e99bd74ed29357431c4b98f558



日本は、異常な国である。

当初から東電の報告にはおかしな点があることなど、拙ブログの素人から見たって分かるのに、原発事業者も研究者も規制庁も「誰も異議を唱えない」という、まさしく「規制の虜」状態を延々と継続しようというのだから。


人災、そうとしか言いようがない。
決死で作業してくれた人々には申し訳ないが、失敗ということである。そして、今も、原発を稼働してもよいという事業者など、日本のどこにも存在してない。


旧態依然、事故前と、何一つ変わってなどいない。
むしろ、敗北からさえ、何も学べないということで、悪化しているとさえ言える。向上の跡を見せたのは、裁判所だけである。

いや、ひょっとすると、原子力規制委員会もまた、ほんの僅かながらでも、踵で残して、昔の規制庁よりは前進しているかもしれない。が、政治面からの圧力に抗し切れるものではないので、永久に「審査合格を先延ばし」するわけにもいかなかった。規制委員会に全ての責任を押し付けてくる政治に対し、そもそも「国として、政治家が責任を負うべき」と大声で言いたいであろう気持ちは、推察できる。


原発行政は、福島の原発事故を受けてでさえ、やっぱり、以前と同じく「無責任」かつ「馴れ合い」なのだ。これこそが、「日本という病気」なのだよ。そのことに無自覚な政権自体が、深刻な病気なのだ。



>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/890a749238252e2b35c0b925191eb655

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/ee22e764404fc71f1d74b9ae32d511c1

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8b9e1c9851272fc1ebab6ccd2b9decd1

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a174e64635cba29ebe49fa92c9724bac


今の政治体制を続ける連中、それは、経済・産業界にも官僚にもマスコミにも大勢いるんだ。歯車を回し続ける、協力者として、だ。彼らに対抗できる勢力を結集しない限り、多数派がいつまで経っても勝てるようにはならない。大勢の国民が望んでいるのは、原発をやめること、だ。



人工知能が支配する世界~「AlphaGO」の衝撃

2016年03月13日 10時58分30秒 | 俺のそれ
まさに激震と呼ぶに相応しい。囲碁のAIが相当強い、という評価は知られていたものの、これほどまでに進歩を遂げていたのは驚きだった。


先月、仮想通貨の話を書いた時、ちょっと取り上げた。
>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/72b2d65d6e52ceaa550a2eec9585969c


が、将棋みたいに、人間と勝ち負けがあるレベルなのではないかと想像していたのだが、韓国トップ棋士にこれほど完勝できるなんて、と驚いた。


参考:

06年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b9856aa62911468bbd172fd1b36aa551

09年1月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/998c2d915a3c186607a5f7386704d600


まだAIの碁がどういう内容だったか棋譜を知らないので何とも言いようがないのですが、報道のイメージだけからすると、いわゆる「宇宙流」なのではないかと。

そうです、日本の誇る宇宙流開祖、武宮正樹九段のことであります。
棋士のタイプとしては、アルファ碁は「寄せと計算を間違えない、武宮さん」みたいな感じでは?
人間の武宮さんは、失礼を承知で言えば、全局的「1手」を打ってくるが、寄せや途中のミスやポカなどで失着を出して逆転負けしたりすることがあった。だが、AIは間違えないし、集中力も切れない。

特徴的だったのは、武宮さんの手(主として序盤~中盤)自体が、殆どのプロ棋士に必ずしも賛同される手とは言えない(印象です)ことも多く、常識では掴みどころがない手だったりした。勿論、完勝譜では、その宇宙流の面目躍如となる一手が「勝着」とか「この輝く一手」とか賞賛されていたが、これを囲碁常識っぽく説明することは難しかったわけです。

なので、最も武宮さんの手を理解してくれそうなのが、AIなのではなかろうか、と。実戦でその強さを示してくれたかのようです。武宮さんは、類稀な「感覚」で勝利へと結び付く手を見出していたことは、驚くべき才能としか言いようがありません。常識の枠に囚われていないのは、AIも同じということでしょう。


今後、どうなってゆくか、楽しみでもあり、不安でもあります。


ひょっとすると、完全無欠の投資AIが誕生してしまうかもしれません。1秒たりとも無駄にしない、恐るべき投資マシンです。必勝手順を間違えることなく、瞬時に実行するわけですから、人間など誰も勝てません。


高浜原発運転差止仮処分~大津地裁決定(追記あり)

2016年03月10日 13時24分11秒 | 法関係
まだ決定文書を読んでいないのだが、報道から感じたことをとりあえず書く。時間がある時に、大津地裁決定を読んで考えてみたい。


これまでのなし崩し的再稼働に対し、裁判所が問題点の指摘をした決定であったと思う。報道からすると、恐らく(関電側が)説明義務を果たしているとは言えない、という考え方なのではないかな、と思う。
政権の顔色を窺うことなく、差止め決定を出した裁判所の勇気を高く評価したい。


さて、今朝の読売新聞には、大津地裁決定についての論説が掲載されていた。論者は、遠藤典子慶大特任教授、近藤恵嗣弁護士(工学博士)、升田純・中大法科大学院教授の3名だった。

当方の理解をかいつまんで言えば、遠藤氏は原発稼働のハードルは上がっているが経済性も留意せよ、ということで地裁決定についての言及はほぼ回避されていた。近藤氏は、「事故は起こらない」「そんなに揺れない(から壊れない)」というような立証に終始することより、万が一事故が発生したとしても「対策で被害は及ばない」という方向に転換するべきではないか、という現実的な意見を述べていた。

両氏の言いたいことは分かるし、原発行政の一般的なことなので的外れということでもないと思われた。そういう考え方は考慮に値しますね、とは思った(上から目線っぽい言い草で失礼)。だが、升田氏はかなり厳しい裁判所批判を展開しており、見出しも「結論ありきの決定 疑問」とする刺戟的なものだった。


そこで、升田教授の論説について一部紹介し、拙ブログの感想などを述べたい。


『一つは、立証責任の所在が関西電力にあるとした上で、…(中略)
しかし、伊方訴訟が正式裁判だったのに対し、今回は仮処分だ。正式裁判で求められる「証明」よりも簡易な「疎明」で足りるはずで、提出できる証拠も限られる。にもかかわらず、争点となった過酷事故対策については、裁判所として関電が行うべき安全対策の基準を示さないまま、「主張及び疎明が不十分な状態」だと断じている。これでは関電がどうしていいのかわからないだろう。伊方判決の趣旨をはき違えているように思える。』


升田教授の言い分は、こうだ。
ア)簡単な疎明で足りる
イ)裁判所が安全対策基準を示さないから関電はどうしていいか分からない
ウ)伊方判決趣旨をはき違えている

まずイ)だが、裁判所は安全対策基準を具体的に作り出すことなどできない。行政の仕事であり、基準を裁判所が示す義務など存在しない。安全対策は、基本的には規制庁と事業者の提出する資料に基づき、普通は(これまでは)こうするんだなと分かるだけである。
例えば医療であれば、学会基準のような具体的指針、教科書、成書、論文、海外との比較、等で判断されるだろう。裁判所が求めるレベルはどの程度か、は、これら客観的提示資料(=当事者意見に左右されない)から総合的に判断されるだろう。

だとすると、関電はこれに類する提示資料をきちんと裁判所に示せたのか?この点において、不十分だと指摘されたものと思う。
仮に、人が「病気X」で死亡しました、というエピソードがあったとしよう。裁判官が「患者さんはどうして死んだんですか?」「原因は何ですか?」「病気Xの治療法はどうなっていますか?」「次に同じ患者さんが出た時は、どのように治療できますか?」と具体的に尋ねているのに、「私は医師国家試験に合格したので、きっと治療できます」としか言われなければ、どう判断できるのか、ということだ。

裁判官の仕事は、病気Xの治療法だの診断基準だのを「生み出す」ことなどではない。まず高い専門性の分野を担っている側(例えば医師とか、原発事業者とか、行政庁とか)がきちんと説明・資料提示を行った上で、このような治療なり対処なり判断なりの根拠がこれこれこうなので、「現状では自分の主張が正しいと言える」と明示できるはずだ、ということ。その意見の妥当性なり合理性なりを裁判所が判断するのだから。


関電の言い分程度では、裁判所の判断の前提となる「きちんと説明・資料提示」ができていない、ということであり、それを裁判所に指摘されたと考えられるのである。升田教授がいう「関電はどうしていいか分からない」なら、裁判所はもっとどうしていいか分からない、というだけである。
高い専門性を持つ側がきちんと説明できてないなら、裁判所を説得できるはずもなく、主張を判断してもらうことなどできまい。升田教授の裁判所が安全対策基準を示せという要求は、無謀のように思われる。


次を見てみよう。

『二つ目は、検討内容の乏しさだ。福井地裁が昨年12月、高浜原発3、4号機の再稼働を認めた保全異議審の決定書は、200ページを超えていたが、今回は3分の1以下しかなく、提出された証拠を十分検討したのかという疑問さえ抱かせる。一つ一つの争点に対して、抽象的な事実を列挙した上で、「説明が足りない」の一言で片づけてしまっている。』


また升田教授の言い分を列挙する。
エ)福井地裁決定書は200頁超なのに今回は70頁以下
オ)提出証拠の検討に疑問
カ)抽象的事実で「説明が足りない」と片づけている


ページ数が多けりゃいいというものではない。そんなことを言うなら、国が提出した辺野古代執行訴訟の準備書面は、900ページ超だったとからしいが、これを壮大な無駄と呼ぶのではなかろうか。どんなに無理無駄な主張を連ね、虚飾を重ねようとも、間違ってるものは根本から間違っているのだ。しかも、間違いの理由を説明するのに何百ページも要するわけでなく、比較的少量であっても適確に間違いを言うことはできる、というのが重要なポイントなのである。

抽象的事実で足りないと片付けてるかどうかは、決定書を読んでないので分からない。過去の福島原発事故の原因究明・検証・説明などからすると、事故防止という観点から正確・妥当な意見が出された形跡などどこにもない。加えて、過酷事故発生時には、誰が責任を持てるのか、本当にきちんと対処できる人間が存在してるのか、それすらも不明のままである。


升田教授にしてみると、疎明は簡単でよいが、裁判所は数百ページにも及ぶ決定書―まるで本裁判の判決文のような―を書け、と要求するのは当然、ということであろう。分量の多寡ではなく、考え方や判断の適切さを見るべきなのであり、思考方法が間違っていれば、無駄な資料をいくら添付した所で意味などないということを知るべきである。


因みに、無駄にページ数が多いというのは、代執行訴訟の準備書面に限らない。東電の事故調査報告書も、矢鱈とページ数が多くて確か900ページくらいあったわけだが、その多くは「何ら役に立たないもの」が並べられており、事故の真相に迫れる資料などごくごく限られていた。

彼らに共通する傾向があるだろう。官僚主義的であること、責任逃れに終始すること、要点をボカして煙に巻こうとすること、などである。理由は簡単。何を言っているのか、分かり易く「理解させない」為、だ。
専門用語などを並べ立ててしまえば、相手は何を言っているのか分からなくなる、ということにできるから、だ。件の福井地裁の決定書も同じく、事業者側主張を単になぞるだけの空疎な内容であった。


本当に重要な核心部分というのは、できるだけ簡潔明瞭に説明しようと心がけるものだ。それは、相手を説得しようと努力するからだ。この欠如が東電であり、関電であり、九電他の原子力事業者、ということである。

自動車の速度が時速60kmだと、どのような物理的エネルギーを有するか、自動車の挙動はどうなるか、等といったことを平板に並べ続けたって、事故原因を探ることにもならないし、運転者の過失の有無の判断にも至らない。問題なのは、運転者がどのように注意して運転していたか、どういう行動なり操作を行ったのか、という点である。対策を考える、とはそういうことであるはずだ。


これまでの原子力事業者の主張から見て、日本で原発運転を任せられる事業者というのは、本当に存在するのかと問われたら、否と言わざるを得ないというのが率直なところである。この危惧を認めてもらったのが、今回の大津地裁の決定だったものと思う。



※※11日追記:

昨夜、決定書全文を読んでみました。
報道から推測されたように、関電側の説明なり資料提示がまこと不十分である、ということが分かりました。それは、建設前にやった設置申請の書類提出程度であって、福島原発事故を受けての対策として調査研究した資料というレベルにはない、というものであろうと思われました。

大丈夫だ、と宣言する側が、どう大丈夫なのかをきちんと言えておらず、その大丈夫だと言ってる根拠も曖昧なのではないですか、と指摘されているものということです。



平気で嘘をつく政府及び法務省訟務局の自己矛盾

2016年03月07日 16時51分18秒 | 法関係
辺野古埋立について、安倍政権が代執行訴訟を提起したにも関わらず、裁判所の和解案を受諾することになったわけであるが、これにより、国の主張が徹頭徹尾デタラメであった、ということが明らかになった。


裁判での争点の一つと言われていたのは、知事の取消処分が妥当なのかどうか、ということであった。

国側は、これまで何と言ってきたか?
(知事の)「取消処分は違法だ」
「一度承認したものは、取り消せない」
だったであろう?

ところが、である。

何と、国交省は執行停止の決定を取り消したのである。おかしいですね。
国は、一度出した授益的処分は原則として取消できないことを、最高裁判例まで持ち出して自己の正当性を主張していたではないか。その理屈は、どこに行ったのだ?

取り消した場合と取り消さなかった場合の不利益の比較考量により、高いハードル(笑)を超えないと取り消せないと、準備書面で主張していたではないか。

15年11月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6285ad6c968ae5b68fe319db1ccd4eeb

(因みに、拙ブログでは、処分は取消できる、と言ってきましたよ)


和解案を受け入れたので、執行停止を取り消したんだ、という言い訳をしたところで、国が執行停止を決定しこれを実施したこと、決定通知書の存在、これらは消すことができないものである。事実として、永久に残ったのだ。

少なくとも、国側主張の言い分が正しいとしてこれに沿うなら、執行停止決定の取消は処分であって、準備書面で述べたように取消しない不利益が上回らない限りは「取消できない」ものである。これが国自身の主張を取り入れた場合の対応である、ということだ。執行停止が取り消せる、ということは、執行停止を維持する場合の不利益と執行停止を取り消す場合の不利益を比較してみれば、前者の方が「不利益が大」である、ということだ。

執行停止をしてた国が、執行停止を維持してる方が不利益が大きい、と認めたということである。おかしな話だ。
事業者が審査請求や執行停止申立てを取り下げた場合においても、執行停止は職権で実施可能である(行政不服審査法第34条第2項)ので、取り消す必然性などないと言える(法34条4項適用の場合においても、2項は除外されないので職権で執行停止を維持できる)。
国が決定した執行停止が本当に正しかったのであれば、取り消すことなどあり得まい、ということだ。先行する事業者の申立てが消滅したので、執行停止する利益が存在しないから取り消したんだ、ということであれば、それでもいいが、矛盾を解消できることにはならない。

国交大臣が沖縄県知事宛てに、「承認取消処分」を撤回するよう求める、ということは、今もって「知事のなした埋立承認の取消処分は間違っている」という主張を維持しているのでしょう?
ならば、執行停止が維持されて当然というのが、普通の見解なのではないのかね?国交大臣の出した執行停止の「決定を取り消し」た上で知事に承認取消処分を改めよ、と求めている、その理由を説明できるかね?

知事の出した「取消処分」は生きており、消えるわけではないのだよ。政府見解は「知事の処分は間違ってる」というものだから、執行停止を取り消す理由を説明できなければならない。それは、訟務局が言い張った、「不利益の比較考量」によってのみ説明されなければならず、執行停止決定の時に挙げた理由は崩壊する(笑)。



○行政不服審査法 第三十四条

審査請求は、処分の効力、処分の執行又は手続の続行を妨げない。

2  処分庁の上級行政庁である審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより又は職権で、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止その他の措置(以下「執行停止」という。)をすることができる。

3  処分庁の上級行政庁以外の審査庁は、必要があると認めるときは、審査請求人の申立てにより、処分庁の意見を聴取したうえ、執行停止をすることができる。ただし、処分の効力、処分の執行又は手続の続行の全部又は一部の停止以外の措置をすることはできない。

4  前二項の規定による審査請求人の申立てがあつた場合において、処分、処分の執行又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるため緊急の必要があると認めるときは、審査庁は、執行停止をしなければならない。ただし、公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき、処分の執行若しくは手続の続行ができなくなるおそれがあるとき、又は本案について理由がないとみえるときは、この限りでない。

5  審査庁は、前項に規定する重大な損害を生ずるか否かを判断するに当たつては、損害の回復の困難の程度を考慮するものとし、損害の性質及び程度並びに処分の内容及び性質をも勘案するものとする。

6  第二項から第四項までの場合において、処分の効力の停止は、処分の効力の停止以外の措置によつて目的を達することができるときは、することができない。

7  執行停止の申立てがあつたときは、審査庁は、すみやかに、執行停止をするかどうかを決定しなければならない。




それから、執行停止の理由について、農水省の決定でも、国土交通省の決定でも同様に、34条4項に基づいて、「重大な損害」と「緊急性」(=緊急の必要があると認めるとき)を理由を挙げて指摘、主張していたものである。裁判においても、執行停止は正当である、との主張をしてきたわけだ。


ならば、お尋ねしよう。
執行停止が取り消されるということは、どういうことを意味するか?
それは、「重大な損害」と「緊急性」の要件を満たしていなかったものだ、ということを必然に意味する。
「重大な損害」を蒙るから回復不可能なので、それを回避できる唯一の方法が執行停止、ということなんですよ。執行停止をしなくてもいい、という状態ならば、これは「重大な損害」要件に該当してない、ということです。それとも、緊急性は備えていなかった、ということになりますよ?
「重大な損害」でもなかった、或いは、そんなに言うほど「緊急」でもなかった、ということなら、執行停止決定の理由は嘘を言った、ということなりますよ?
おまけに、準備書面(or反論書?)でも言ってきた「重大な損害なんだ、緊急なんだ」だから工事を続行しなければならないんだ(=知事の処分を執行停止)、という言い分は、真っ赤な嘘だったと認めたことになるのですよ?
(差止め訴訟でありがちな、取消訴訟で取消処分が出て被害が回避可能な程度の損害は、回復不可能な「重大な損害」に該当しないよ、という裁判所の見解は今後どうするんだね?)


このような、物言いをペテンと呼ぶに相応しいのではないですか?(笑)

元検察とかいう人間であっても、ペテン師もどきはザラに見かけるので驚きはしませんが、ここまでその場しのぎの、ご都合主義となれば、国の言い分は到底信じることはできませんね。


要するに、

・執行停止を決定した際に挙げていた理由は、嘘だったと認めたことになる

・昭和43年最高裁判例を引いて主張していた授益的処分の取消に関する言い分は、デタラメだったと認めたことになる
(それとも、不利益の大きさ比較が完全に間違っていた、と認めるか?)


矛盾なく説明できるなら、してみて>訟務局


男子卓球も銀

2016年03月07日 00時23分43秒 | いいことないかな
残念でした。
やっぱり、中国は桁違いに強いですね。

3人目は、丹羽くんが来るかと思っていましたが、違いました。大島選手が頑張るも、力負け。


現状では、仕方がないかもしれません。
やはり、強豪相手に練習できている人たちは、切磋琢磨のレベルが一段上で、日本人選手同士で実現できるものではないかもしれません。
2対1で練習するとかくらいしかないのでしょうか?


恐るべき強打とか、切り返しとか、再現することが難しいので、何か方法があればよいのですが。

「強い選手」を想定した練習相手をどのように作り出すか、工夫が必要かと思いますけれども、思いつきません。


銀メダルはとても立派です。
日本チーム全体の底上げが実った結果かと思います。おめでとうございます。



卓球女子は、銀メダルおめでとう

2016年03月06日 18時16分26秒 | いいことないかな
んー、まことに惜しかった。

恐らく、一番悔やんでも悔やみきれないと思っているのは、石川選手だろう。

運命の第3ゲーム。
王者相手に、あと一歩のところまで追いつめたのだから。


かつては、中国選手相手に手も足も出なかった。
パワーもスピードも全然追い付けなくて、何をやっても通用する感じがしなかったのではないかな。


だが、今回は違っていた。成長の痕がくっきりと出たというくらいの、手応えがあったはず。だからこその、勝利目前での悔しい思いがあった。
佳純ちゃんの意識が、「勝てるかもしれない」という、無心とは違う状態となったことが、勝利目前で、勝ちがこぼれ落ちてしまったのではないかな。


勝ちが見えてしまったことで、逆に固くなってしまったんだ。
それまでとは、プレーが別人のようになってしまった。中国選手も開き直って攻めてきたということもあるけど、むしろ、佳純ちゃん自身がほんの僅かに動きも悪くなり、正確さを欠くようになってしまった。相手は世界一流選手なので、自分が凡人に戻ってしまっては、打撃投手を相手に打つかのような状況に陥ってしまう。


気持ちのたて直しができぬまま、第4ゲームを取られてしまった。
最終ゲームの立ちあがりは、きっとできると自身を鼓舞して、競った試合に戻したものの、中盤で追い付かれると、また固さのある状態に戻ってしまったようだった。最初の頃の、積極性も、伸びやかさも、影を潜めてしまって、メンタル面での変化が体の動きに直結してしまったようだった。さっきまで出来てたことが、微妙に狂ってしまい出来なくなるのは、多分、そのせいなんだろうと思う。ミスをすると、これを恐れてしまう。すると気持ちが縮こまってしまうから、腕の振りも縮こまるの悪循環に陥る。気持ちのコントロールは難しいけど、これを乗り越えられたら、よい時のプレーを持続できるようになると思う。あと、ほんの半歩、くらいの所まで来ていると思う。能力的には、勝てる所にかなり近づいている証だ。積極性を失わなければ、次はきっと勝てる。


伊藤選手、よくもまあこんな大舞台で、丁寧相手に、ゲームを奪取したもんだ。凄いことだよ。
が、相手もギアを上げてきた。気持ちを高めて、ギリギリのショットに反応して返球してくるようになった。

伊藤選手は、「普通の日本人」なら殆どが返球できないであろう、バックハンドのクロスとかのナイスボールを打ち込んでいて、確かに最初のゲームでは丁寧も打ち返せなかったくらいの球だった。しかし、相手は強い。腕と足の伸びが、普通の人とは違うんだ。だから、決まったかのように見えるボールを打ち込んだ後に、まさかの好返球が返ってきたから、ほんの僅かに準備が遅れていて、ミスショットをしてしまった。速い球が返される、と心積もりをしている時と、そう予測してない時では、多分反応の速さとかで遅れの有無があるんじゃないかと思うがどうだろうか。なので、常に相手はナイスボールを普通の打ち返してくるんだ、と思っていた方がいい。惜しい攻めが何本かあったけど、あれが逆にポイントを取れていれば、2・3ゲーム目もどうなるか分からなかったと思うよ。


最後は、集中力が切れてしまい、打つ手に窮して大差がついてしまったけど、仕方ないよ。ゲーム途中で、一流選手は戦いを調整してくるし、良さを消してくるからね。あれほど気迫を全面に出してきた、ということは、伊藤選手の力を決して甘くみたり侮っていたりはしていなかった、ということさ。恐れの裏返しだ。反撃する気力を失わせる為に、全力で来てたということだ。


弱い小学生相手に、吠える一流選手などいない。
それくらいに、伊藤選手の実力を認めていた、と考えてよいのではないかな。恐らく、「危なかった、ヤバかった」と内心で冷や汗ものだったショットが何本かあったはず。それが逆に転んでいた(伊藤のポイントになっていた)ら…、と分析してても不思議ではない。だから、自信を持っていい。


愛ちゃんは、ベテランだし自分で考えてるはずだから、何も言わずとも大丈夫でしょう。五輪での精神的支柱としても、期待しています。



試練の時を迎えた「なでしこ」サッカー(10日追記あり)

2016年03月06日 10時30分18秒 | いいことないかな
五輪予選では、ほぼ出場が絶望的と伝えられた「なでしこ」たち。

すまん。実はこの予選はまだ1試合も見てなかった。なので、どういう戦い方だったかというのを知らないんだ。それで何か言えるのか、というのは、分からないけど、この結果は予期されていたものではないだろうか。


まだ残り試合があるから、一つでも多く勝つよう頑張って欲しい。


さて、昨年から、ヤバいかも、という予感は多くの人たちが持っていたのではないかな。けれど、重大な危機感は持ってなかったのでは。なでしこたちは、常に結果を出してきたので、本番になれば、きっと何とかしてくれるのではないか…それが悪夢へと変わってしまった。勝負の世界は、甘くなかった。


昨年、東アジアカップで韓国、北朝鮮に完敗した時、今回の迷走の序章となっていたように思う。それは、新たな出発が失敗で始まってしまった、ということだ。基本的に、なでしこに求められるのは、アジアでの負けは許されない、という厳しさだ。そうした危機意識のようなものが、足りてなかったように思える。

まるで、シーズン前のオープン戦だから、っぽい、ふわふわした感じ。ちょっと色々試している段階だから、調整だから、本番になればきっと…的な、甘い思考がなでしこ全体(監督、スタッフ含め)を支配していたのではないか。


で、11月の強化試合でもオランダに完敗。


さて、男子が優勝という形で予選通過を決めたのだが、あれが大きな参考になったことは間違いなかった。短期決戦での戦い方、という点において、だ。メンバー全員が戦う姿勢を持ち続けてないと、体力勝負になった時、勝てなくなる。決勝の韓国戦は、逆境からの逆転勝利で、走力と運動量において勝った日本が粘って勝ちをもぎとった。日本の女子は体力的に見て、海外勢に比べ条件面で厳しいことは予想できているのだから、短期決戦では疲労蓄積を回避しなければならないことは明白だった。


なでしこに話を戻そう。
本来なら、今年に入って強化試合をいくつかこなして、昨年の「負けの形」を修正しておかなければならなかったはずだ。誰が出ても、見劣りすることなく戦えるチームでなければ、短期決戦を勝ち抜くことは難しいはず。


だが、なでしこの強化試合は、今年どことやったか思い出せない。

1月か2月に対戦が組まれていたか?
どこで実戦の感覚を取り戻したのだろうか?


今大会では、恐らく、昨年から続く「悪い体質」が無修正のまま来てしまって、打開策が全く見えないままで試合に入ってしまったのではないか。そこには、きっと何とかしてくれるだろう、という依存があったものと思う。選手たちが自力で打開することを求めるのは、酷ではないかな。


想像だが、これまでの実績という点で主要な「なでしこ」メンバーの戦い方、というイメージがあったものと思う。代表例で言えば、澤さん、だ。そういうスタイル、ということ。その過去の実績に対する、新たに加わった選手たちが抱いていた「イメージ」に、何となく「合わせなければならない」というような、まるで「お客さん」的な遠慮のようなものがあったのではないかな。


チームに合わせなければならない、というような、まるで「学校の試験」みたいに、自分が及第点を取れればいいんだ、というような発想ということ。チームに合わせる、って、どういうことだと思う?


本当は、そんな形なんて、これだというものは存在してなんかいなかったんだよ。何となく抱いていたイメージというのは、幻想であって、それに合わせることが一番重要なことなんかじゃないはずなんだ。大事なのは、勝つこと、だ。自分が評価されること、などではないんだ。


何故、ショートパスを多用するスタイルが多かったか?
それは、キック力の弱さが主な理由だろう。体格的に不利で、正確なキックに難があるメンバーなら、どうしたってショートパスをつなぐしかないわけで。しかし、それは、自分の所で奪われないようにすれば合格点だ、的な発想とは違うんだ。パスを正確につなぐことが目的なんじゃない。ゴールを奪うことだ。


そういう意識が乏しくなってしまっては、攻撃の形になんて繋がらない。そして、どうしていいのか分からないまま、試合に突入してしまったんだ。


個々の能力を、まず全部発揮できること、これができてなければ、話にならない。
チームメートの個性を理解した上で、走るスピードの違いがあれば、お互いカバーする範囲が変わるかもしれないし、そういう「相手を見ている」ことを多くしないと、チームとして戦うことができなくなる。それは、個々の選手同士がまず理解する、ということだ。理解できる範囲が多くなればなるほど、はっきりとは見えてなくとも、スペースにボールを送ったら、うまく走り込んでいる、というような、形として繋がってゆくのでは。


そのズレが大きくなればなるほど、攻めの形が作れなくなってしまう。
自分ができること・やるべきことをきちんとやる、得意の攻める形のパターンをいくつか持っておく、困った時・迷った時の互いの約束事を徹底する、そういうことができてなかったんじゃなかろうか、と思うわけです(今大会の試合を見てないので、昨年基準ですが)。


基本戦術の徹底、ボールキープ、パスの受け方、そういう基礎的な部分で課題が多ければ、互いによく相談したり話をして、修正しなければならないはずなのだが、及第点を取ることに意識が向いてしまった「お客さん」状態の人になっていては、適合しなくちゃと思うだけになってしまったのではないだろうか。


個人が「チームのスタイル、枠からはみ出してはいけない」っぽい、合わせようの意識だけが残ってしまうと、能力発揮が乏しくなってゆくのではないかな。100%、いや120%発揮するつもりくらいで立ち向かわないと、勝負に勝つことは難しくなるんだ。


個人の良さをまず最大限に発揮することに集中しないと、ギリギリの局面で相手を上回ることは難しい。相手は強いんだから。個性の発揮、個人の良い部分が最大に発揮された時、互いの発揮できる部分が違うんだから、これを「組み合わせて」戦うってことのはずなんだ。


基本戦術というのは、米をとぐとか、メシがきちんと炊ける、みたいな話なんだな。これはまず全員が同じくできるようにしておくこと、のはず。この部分で、チーム内に考え方が徹底されてないと、「私は土鍋で炊くわ」とか「いやいや炊飯器がいい」とか「2合でしょ」「4合に決まってる」みたいに、考え方のズレが生じるってこと。基本部分は、全員が統一的ルールであるべき、ではないかと思うのですが。

個性の発揮とは、選手がカレーが得意な人もいれば、肉じゃがだの焼き魚だのが得意な人もいる、ということで、それぞれ違うんだ。その組み合わせ全体が「献立」ということになり、チームのスタイルということのはずなのだよ。今は、メシを炊く、という部分でつまずいてしまっている印象。献立以前の問題なのではないかな、と。


苦しみながらも結果を残してきたここ数年の実績は、一度忘れたものとして、再度挑戦するしかないと思います。どんな献立になるのかは、まだ分かりません。個々の特質の組み合わせですから、意外な料理が出てくるかもしれないんです。



※※※10日追記:


色々とありましたが、2戦とも勝利して終わることができましたね。
(2試合ともテレビで応援できました)
苦しんだことは、未来の為に必要だったと思って、また前進するしかないと思います。
皆さん、お疲れ様でした。

更なる飛躍の為に、耐えることも必要な時期に来たのだろうと思います。
これからも頑張って活躍する姿を見せて欲しいと思います。



マジ?男子卓球決勝進出!

2016年03月05日 23時25分32秒 | いいことないかな
昨日の女子の試合も凄かったが、今日の男子も凄かった。


水谷、吉村2勝で、その後大島選手の敗北で、2-1で迎えた第4試合。
キャプテン水谷が自力で決めたいという思いが強く出過ぎてしまい、相手にまさかの2ゲーム先取を許してしまう。

だが、ここからの粘りがエースの称号に値する、素晴らしい粘りだった。
打たれても、粘って返す。カウンターで打ち負けない。本当にエースらしい戦いぶりで、勝ちをもぎとった。


勝つべくして勝つ、これがどれほど難しいことか。
エースの水谷の苦闘が全て報われた試合だったのではないかな。


兎に角、男女とも日中決勝戦ということで、最強軍団に勝ってほしいです。
頑張れ、水谷。他、その他大勢(笑)。

素晴らしい試合をありがとう。



辺野古代執行訴訟で露呈した安倍政権と霞が関の無法ぶり

2016年03月05日 10時31分03秒 | 政治って?
和解案が示された当初は、国側として受け入れるわけがない、と強弁していたのだが、和解表明が総理決断として突如報道された。

昨年10月時点では、政府は「絶対に負けるはずがない」と自信たっぷりで代執行訴訟に臨んでいた。かつての代執行訴訟においても、最高裁判決は沖縄県側敗訴だった上、今回の準備書面での最高裁判例は「高いハードル」と自画自賛していたくらいだった。

しかし、代執行訴訟の前提となる要件を満たすものではないことは明らかであったので、入口論として不可であることは誰しも容易に理解できたはずだった。にも関わらず、政府は敢えて代執行訴訟に打って出たのである。そこには、驕りがあったものと思われる。法的検討なり、手続論としての妥当性の検証なりをしておけば、代執行訴訟が手続論の「理屈に合わない」ことは、簡単に気付けたはずなのだ。


2015年11月


>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1e4277799f75006c49fd4dc954071fc0

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/bf7e5efbaafe1bec40232961a216b126

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/33a53dacde971369e10c00e6dc1d030b

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6285ad6c968ae5b68fe319db1ccd4eeb

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/3a8bbcc1cbcf838a229dd190cbb71827

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/00e28f084ca20667f4350615f488dd07

>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f47d48e0f48a0e42a0d3a549597c70f3


主務官庁の国土交通省、申立をした沖縄防衛局を所管する防衛省(工事全体を取り仕切る立場でもある)、政権幹部側近として法解釈論・代執行訴訟を支えていたであろう外務省(対米関係上、代執行手続に入れば確実に遂行できる、とあらぬ約束手形を米国側に提示してたことだろう)、訴訟全体を統括し裁判を主導した法務省、これら省庁のいわば”連合軍”がいとも簡単に敗北を喫した、ということに他ならないのである。


この原因は、最初から分かり切っていた通りの、法を正しく運用・適用し、行政行為の基礎となる法に則り正確に執行する、という姿勢の欠如であった。法を無視したり都合の良いように悪用・援用しようとする、誤った思考にこそ、陥穽があったものと思われる。


国の言い分など、どこにも勝算などなかった、ということである。残された手段は、最高裁に「政権の意向を忖度してくれ」と非公式で不当な圧力をかけたりするというものくらいしかなかったであろうが、これをはね返したのが裁判所だったものと思われる。それは、政府側主張をある程度認めたとしても、それを合理的に説明できるような判決文を書くことが極めて困難なほどに、代執行訴訟手続は杜撰だったということである。
屁理屈ですら、国側勝訴を書けないという、根本的な誤りだった、ということである。


福岡高裁那覇支部の法廷が示した和解案とは、せめて「国は正当な手続をきちんとやってから法廷に持って来い」という、教え諭したようなものであった。要するに、平たく言えば、入口論からして間違ってるので顔を洗って出直して来い、と、そういうようなことである(笑)。


官僚諸氏の劣化は、以前では考えられない程に進んでいるようだ。法と手続きで食ってきた歴戦の人々のはずが、唯一にして至高の「正確性」を欠いてしまうことになれば、行政制度は崩壊の危機に立たされる。国がやっていることは、原則として「正しいものである」という信頼性が失われた、ということであり、これを決定付ける代執行訴訟となった。



世界卓球の女子は凄い(福原・石川・伊藤)

2016年03月04日 23時19分46秒 | いいことないかな
マジ、泣いた。
勝利の瞬間、涙が溢れてきた。

それほど、凄い試合だった。
たまたま家に着いたのが佳純ちゃんの試合で、既に1敗した後だった。ああ、ドイツ戦と同じで先鋒に伊藤さんだったか、と思った。

取りあえず、北朝鮮のカットマンとの試合に石川さんが対戦ということだった。
以前、老練なカットマンに敗北を喫した石川さんのことが思い起こされた。

2012年8月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5726a1382440d1abdebb504ded170ba6


今日は、当時とは大きく成長した跡がうかがえた。
北朝鮮のカットマンはかなりしぶとく、どんな球でも食らいついて返球してきた。それが、異例のエッジボールの多さにつながっていたように思う。
しかし、石川選手は迷わず打ち込み続けた。難しいつなぎは、無理せずつないで、チャンスと見るや叩き込む。素晴らしい試合運びで勝利した。

続く、福原愛ちゃんも貫録勝ちを収め(第三ゲームはご愛敬、メンタル面が心配されたが吹っ切れているようだった)、第4試合の伊藤美誠選手へと引き継がれた。


最初の試合を観てなかったので、全く知らなかったのだが、あっさりと0-3負けだったようだった。そういう日もあるさ、と思ったわ。
で、激闘の第四試合となったわけです。

1ゲーム目は、伊藤選手のいい所を出す間もなく、嫌らしい(というか、上手い)カットマンの餌食となってしまった。佳純ちゃんの試合を観てて、これは苦戦するな、伊藤さんではかなり厳しいな(恐らく勝つのは難しいのではなかろうか、の意)と思っていたので、ああ、やっぱり試合経験とかの差が出てしまうのかな、と落胆していたのだった。


しかし、現実は全然違っていた。ゴメンね、伊藤美誠さん。
最初のゲームを落としてしまって、第二ゲームでは、組み立てをうまく変えてきたのだった。15歳の少女が試合をしているとは、到底思えなかった。リズムを変えて、短い球とかをうまく使って、相手を前後に揺さぶる作戦に切り替えたのだった。バックのつなぎを多用し、ここぞのフォア攻撃ショットを打てるまで我慢を続ける試合運びとしたのだった(そういう印象、ということです)。カットマン相手に、つなぎで勝負するという、柔軟な作戦だった。攻撃力では上回っているので、凡ミスを先にしないという、まるで試合巧者のような戦術だと思えた。

これが功を奏し、1-1に追い付くことになった。そして、壮絶な第三ゲームを迎えたのだった。
ピンチを迎えつつも、相手にゲームポイントを何度も握られながらも、凌ぎ続けたのだった。チャンスも数回来たが、どちらかと言えば、奇跡的に追い付き続けたという感じだった。最大のチャンスは、スマッシュが殆ど決まりかけてて、相手は返すのが精一杯で偶然返球された球を、まさかのミスショットした時だった。ゲームポイントだったので、あそこで決まっていたら、と思わずにはいられなかった。が、心配をよそに、伊藤選手は相手に食らいついていった。18-20まで、ほぼ2ゲーム分くらいを接戦で戦い続けたのだった。


それは、もう、もの凄い精神力としか言いようがなかった。
で崖っぷちの第4ゲームを取り返し、最終第5ゲームとなった。あの大接戦の第3を落としたのは痛かったが、肉体的にも精神的にも、追い詰めたのは後を追う伊藤選手の方だったのだ。

カットマンがまさかのミスを連発。反応が鈍くなり、フットワークが遅れ、ミスショットを誘発したのだった。石川選手の試合と、伊藤選手との試合での経過で、相手を追い詰めて行っていたのだ。


それでも、相手選手はもの凄い執念と粘りで伊藤選手からリードを奪う。
果たして、これを挽回できるのだろうか?

ハラハラ、ドキドキでしたよ。1ポイント毎に、拍手と声援を連発してしまった(笑)。
ただただひたすら、「がんばれ」と祈ったのは、解説者のオジサンと一緒だったわ。全てを忘れて、とにかく、かけられる言葉が「頑張れ」と、そういう祈りのような気持しかなかった。


15歳の少女が、これほどまでに落ち着いて、怯むことなく打てるのか、と驚嘆するしかなかった。既に、相手は精彩を欠いており、反撃する力は残されていなかった。伊藤選手の若さが爆発したのだった。


痺れるような、最後の数ポイントを取って、勝利したのだった。
素晴らしいゲームだった。

対戦相手も、凄かった。だからこその、平野選手の大逆転勝利以来くらいの、素晴らしい試合となった。
試合直後、伊藤選手が涙が溢れた気持ちは、観ていた我々にもよく分かるものだった。恐らく、解説者のオジサンは泣いてたことだろう(知らないけど)。なんというか、全身全霊の、鼓動が伝わってくるような、凄い試合だったんだ。


これを招き入れた、石川、福原のベテラン(いつの間にか、すっかりお姉さんになっていたのだね)があってこそ、だった。福原が代表に招聘された時、まだ卓球はこんなに強くはなかった。が、仲間を得て、今の活躍できる環境になった。福原の12年間が、ここに実ったと言えるかもしれない。若い選手を育てたのは、福原登場の功績だと思っている。

良いチームになった。平野さんが抜けた後でも、活躍できるという時代を彼女たちが築き上げたんだ。

おめでとうございます。
決勝でも、是非とも頑張って欲しいです。絶対王者の中国に一泡吹かせてあげて欲しいです。