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デフレ期待は何故形成されたのか・3

2006年01月31日 20時51分25秒 | 経済関連
今まで期待形成などについて書いてきましたので、まとめてみたいと思います。これほど持続的に起こってしまったデフレというのは、日本経済を大きく毀損したと思います。一部には失政による影響もあったかもしれないですね。

(ちょっと追記してます。0時頃)

経済学は難しい13(追加あり)
価格とULC
デフレ期待は何故形成されたのか
デフレ期待は何故形成されたのか・2
アニマル・スピリット(ちょっと追加)
「不確実性」と価格
「不確実性」と価格・2(追加あり)
「不確実性」と資産価格
「不確実性」と資産価格・2


心理的要因によってかなりの落ち込みとなってしまったことが大きな原因であったと思います。そして、資産(主に土地や株)取引においては、「アニマル・スピリット」が資産価格に反映されると思いますので、経済全体の強気・弱気というものが出やすいのではないのかな、と。資産価格下落という「弱気」情報は、不安や更なる弱気などのstickyな情報として作用したかもしれません。主に企業を中心とする経済主体に広がり、デフレ持続に繋がった可能性が有り得るのではないでしょうか。株価下落で、1万円割れ、8千円割れ、などというネガティブな情報は、投資心理を冷え込ませるには十分であったでしょう。新規投資抑制や資産価格の下落予想が強まったかもしれないですね。つまり、「現金頼み」というか、安全地帯への退避ですね。キャッシュで持っていれば損しない、ということです。退蔵資金にも通じますね。


輸入品の影響についてですが、これは決定的なデフレ要因とは言えないが、「低価格戦略」という幻想によって、価格決定側である企業のマインドに影響した可能性はあると思います。主にマインドの問題であろうな、と。実質的な直接作用というのは明らかになっていませんが、一応要因分析などでも下落圧力と見られており、また特定業種(繊維業界)では大きな影響を受けた可能性が有ります。経済全体で見れば、下落圧力として存在したが、直接のインパクトは強くはなかったと考えます。


それから、賃金、価格やデフレに関する資料を見つけました。

ESRI ディスカッションペーパーNo.90


原文を読んで頂いた方がいいと思いますが、私の理解で大雑把にまとめると次のようなことが書かれていると思います。この資料によれば、98年の影響が大きいものであったことを述べられており(私が「97年ショック」と呼んでいる危機のことです)、物価下落要因としては賃金の影響が大きいのではないかと分析しています。即ち、ULCの低下ということになるのではないかと思います。デフレ脱却を目指すのであれば、遅行指標ではあるけれども、失業率についてもよく観察するべきである、ということも述べられています。これは人心の不安が大きい期間が長く続いたので、その緩和という意味合いでもあろうかと思います。


別な資料を見てみます。

価格下落に向けた企業のR&D対応


企業の行動傾向としては、収益が悪い方が人件費削減圧力が強まるようです。連続減益の場合にはその傾向が最も高くなっています。日本企業の場合、先の資料に見られるように「コスト・プライシング」が多いようですので、価格決定において「低価格戦略」を実現するには経費削減―殊に人件費であろう―を行わなければならない、と考えがちだったのでしょう。そもそも日本経済全体で需要が伸びなかった為に、相対的に労働分配率が上昇することとなってしまい、その是正を試みると、結果的には人員削減・リストラ・非正規拡大・給与引き下げ、といった方向に突き進んでいくこととなったのでしょう。「日本型経営は敗れ去った」「終身雇用悪者説」「成果主義がいいんだ」「会社にいる2割は働いてない不要な人間だ」・・・・こういった説が蔓延していたしね。


賃金要因は「低価格輸入品」よりも影響が大きかった可能性が高いかもしれません。つまりは、生産性向上や賃金抑制(低下)などのULCの低下ですね。このインパクトはかなりあったと考えられるでしょう。しかも、業績に一定の連動が見られるので、即効性のある抑制要因であったでしょう。


多くの企業経営者達が「会社の為に」と思って行動したことが、実は社会全体の為には大きなマイナスであったのですよ。一致して似たような行動をとっていたことが、経済の収縮をより大きくしてしまい、デフレ持続の原因となり、病状悪化の大きな原動力を生み出したのですよ。そして、資産売却も心理的悪化要因として作用したことでしょう。何でも、キャッシュに変えていったのですから。「現金を持ったら、何に投資するか」ということではなくて、「とりあえず、キャッシュフロー経営でも」とバカの一つ覚えみたいに、みんなのマネをしようとしただけなのですよ。「金、金、金」って、現金に魅入られ、特に大企業の経営者たちは、日本経済により大きなダメージを与えたのですよ。


多分、デフレの張本人は、実は大企業経営者たちであったのではないのかな。もとはと言えば、企業がクソみたいな投資をして、そのツケは国民に回された。金を企業に回していた銀行も同じだよね。そいつらを救済する為に、国民はザッと百兆円規模の経済価値を失ったのさ。民間大企業は政治がどうとか非難するが、「”おまいら”を救う為にいくら払ったと思っているんだ」と言いたいね。経営者たちの判断の誤りの為に、凄く大きな調整コストを払うこととなってしまったのさ。確かに民間企業も血を流した。だが、これは自業自得であり、そんなの国民全部が背負うべきものでもないはずだ。しかし、日本経済を救うという大義名分で大企業は救済されたが、その陰では多くの個人が悲惨な目に遭った。左翼的な「資本家」批判じゃないけれど、クソみたいな企業経営者たちが大挙して「狂った」結果じゃないのか、と思うね。


何だか、根本原因に辿り着いたような気がする。年寄り達は、「拝金主義」だの、「額に汗して働け」だの言ってるけれども、日本経済を沈めたのは、そもそも「爺さん社長達」=財界のお偉方たちだろ?日本経済が上り坂にあった時に、多くの企業経営者達が余りに愚かであり、金の有効な使い方も知らず、持ったことのない金を持ってしまったが為に、ただドブに金を突っ込んでいったのだろ?せいぜい銀座で豪遊したり、ゴルフ会員権を自慢するとか、愛人囲ったりする(笑)ことくらいしか思いつかなかったのだろ?そういうことをやってたクソじじいどもが、大挙して一気に沈んでいったのさ。それは次の時代に繋がるものに、全く投資されていなかった、ということ。新たな価値や将来の収益を期待出来るものなどには、誰も投資しなかったのさ。人材教育・育成にも投資しなかったのだよ、多くのクソじじいどもは。逆に、何にも収益をもたらさない、新たな価値の創造には繋がらない分野にばかり投資したのさ。要するに非効率分野への過剰な投資によって、特定業界の延命効果となっただけなのですよ。建設業界や不動産業界というのは、そういうことになった訳ですよ。自分の懐を肥えさせることばかりを考えた結果、過剰な不動産投資や株式投資に金をつぎ込んでいただけなのですよ。本質は「金儲け」だけを考えてたのですよ、クソじじいどもは。


こういうバカなクソじじいどもがいなければ、日本経済の急速な悪化はもうちょっと緩和されていた(それか、バブルもバブル崩壊もなかった)かもしれない。企業経営者としての資質に欠ける連中ばかりが財界のお偉方だったので、日本経済全体がそういう「クソみたいな方向」に突き進んだのですよ。バブルで最も踊っていたのが、一般庶民よりもお偉方のクソじじい達が多かったので、深刻なダメージを食らったのですよ。そうでなければ、銀行なんて破綻せんのですよ。たとえ個人が株で破産しても、まともな銀行やノンバンクなら破綻など起こり得ないのですよ。民間の大銀行は「リストラなどの努力をして・・・云々」とかって言うでしょ?でもね、本当は当たり前なんですよ、そんなの。瀕死の状態だったのを、「国民の血」を直に輸血(公的資金注入)して助けてあげたんですから。こいつらのツケを未だに国民が払わさせられて、公的資金も何十兆円も投入したのに、それでいて彼らは社会に何か恩返しをしたか?誰か1人でも国民を救ってくれましたか?国民に詫びも入れず、一体何をしてくれましたか?失われた15年は、銀行・大企業経営などをやっていたクソじじいどもの悪行三昧と頭の悪さのせいです。


数千万円とか貰ってるであろう、役員給与の半分は毎年返せよ。災害募金用に積み立てるとか、奨学金を設立するとか、何かで返すことくらい出来るはずだろ?頭の悪いクソじじいどもが、日本経済をどん底に陥れたというのに、奴らはこれっぽっちも悪いとも思ってないんですよ。責任なんてないと思って、涼しい顔して知らないフリをしてるんだよ。そういうお偉方ばかりのくせに、何が「額に汗して働け」だ。それは”おまいら”だろ。銀行は個人が破産しようが自殺しようが、ガッチリ取り立てるくせに。銀行や大企業ならば、救ってもらえるんだとよ。金も国が融通してくれるんだとよ。「再生」してくれるんだと。個人ならば「再生」されずに、一生涯日陰暮らしなのに。浮かび上がれるチャンスさえ失うというのに。


要するに、日本の財界トップの大方の連中は、まともな判断力も何も無かったのだ。みんな派手にやってるから、マネしただけ。会社とは何か、企業のあるべき姿とは何か、企業家の志とは何か、なんて殆ど考えていなかったのだよ。ただ横並び意識でドブに金を突っ込んだ挙句に、バブル崩壊後にも横並びが続いて、リストラや賃金カットや経営判断もみんなの真似をしてただけ。成果主義が流行りなら、「ウチも早速導入せにゃならん」、アウトソーシングが流行れば「ウチもウチも」、「派遣、派遣・・・」「インセンティブ、インセンティブ・・・」「キャッシュフロー、キャッシュフロー・・・」「株主、株主・・・」、、、ありとあらゆる幻想に惑わされて、他人の判断情報に影響されて、揃いも揃ってデフレの歯車を力いっぱい駆動していたのだよ(笑)。で、経営が苦しいのは政治が悪いから、補助金を削るから、法人税が高いから、天下りが、公務員が・・・って文句ばかり言うの。そりゃ先代とかのクソじじいども(少し前の経営陣)がみんな揃って頭が悪かったせいだろ?(笑)


ホリエモンが調子に乗ってるとかってじいさんたちに言われるが、本当に調子に乗り有頂天になっていたのは、ヒルズ族でもお立ち台ギャルとかでもなくて、大企業経営陣のクソじじいどもなのだ。今の若者たちは、そのクソじじいどもの大きな負の遺産だけを残されていて、それでいて「イマドキの若者は・・・」とクソじじいどもから文句を言われるんですよ。もしも、私が20代前半くらいのフリーターだったら、「クソじじいどもは若者に土下座して謝れ!」って、怒っているかもしれない。「藻前ら、全財産没収」って叫ぶだろう。国民全体で見れば、ほんの一部の大企業トップの連中の頭が本当に悪かったのだ。それに一緒になって浮かれていた政・官もくっついていたかもしれないが、本当の罪人は恐らく大銀行や大企業の腐れ頭のクソじじいどもだろう。現在まっとうな経営者になっているのであれば、多分この意味が理解出来るだろう。「ちゃんとした企業経営者が多ければこんなことにはならなかった・・・」と、本当は誰しも知っているだろう。


そういう訳で、デフレは何故起こってしまったのか、まとめてみたいと思う。

「大銀行・大企業経営者の半分以上が異常で、頭が悪かったから」
じじいのバカどもが揃って、熱病のようなeuphoria になってしまったからですね(笑)。

これではダメですか?仕方がありませんね。
これが結論だと言ったら文句が多いと思いますので、もうちょっと違うのにしましょう。


・最大要因は「97年ショック」以後の経済収縮
・資産価格の下落は「弱気」スピリットを刺激した
・企業は資産売却し企業貯蓄を増加させた(キャッシュフロー幻想?)
・人件費や投資の抑制を企業業績に応じて行った
・輸入品は直接のインパクトは大きくなかったが、価格決定マインドに影響した
・コストプライス型の為、企業が「低価格戦略」を選択した
・「弱気」情報は特に企業のデフレ期待をstickyにして持続させた

実際の現象面で代表的なものは
・ULCの低下(物価上昇吸収要因)
・政策的要因(規制緩和、医療費削減など)
・電話、通信等公共料金の影響



話題シリーズ21

2006年01月30日 22時29分24秒 | 社会全般
1)談合はまだ続いていた

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <防衛施設庁談合>前・現技術審議官ら3人を逮捕 入札妨害


空港公団ルート以外の、防衛施設庁ルートについても捜査の進展があったようです。あちこちの役人が同じようなことをやり、どいつもこいつも腐れ談合システムを続けてきたんだそうです。役所とはそういう所だそうですよ。誰かが逮捕されても、同じ事をまたやってるんですね。場所を変え、時期を変えても、また同じように誰かが逮捕される。これは、根絶出来ないシステムなんでしょうね。何たって奥田さんも、「無くせない」って言ってたくらいだからね。社会的信用もあり、政府の要職にもある経団連会長自らがそう言うのだから、きっとそうなんだろう。まさか、物事を知らない、馬鹿な私と同じって訳ではないだろうから、どこの業界もそういう構造になっているのだろう。つまり、いくら逮捕しても、次から次へと湧いてくる訳だ。そういうシステムだから。国民はいちいち談合の有無を調べられないもんね(笑)。


国民としては捜査機関の頑張りにひたすら期待するしかない、と。そういう社会だそうです。

「タイーホ!タイーホ!」と囃し立てることくらいしか、国民には出来ないようです(笑)。



2)野党はアホか?


地味に国会は始まっていました。昨年の今頃を思い起こしてみれば、郵政民営化の攻防スタートということで、私的には結構盛り上がっていたけど。今年はそういうものが出てきてないので、ポスト小泉くらいしか話もない、ということのようです。メディアもさ、ちゃんと国会の議論を盛り上げてあげなよ。メディアが得意の「格差拡大」とかで、「拡大阻止せよキャンペーン」を張るとかくらいなら出来そうだろ?(笑)


社会保障問題というのは、まさに格差拡大路線だろ?予算は縮小されていく方向なのですよ?しかも地方ごとに格差を助長する路線が今年の改革案なのですから。それに、年金問題はどうなってるの?こんだけ長々とやっているけど、来年度までに国庫負担2分の1引き上げ財源を決めるのだろ?また千分の11だけ、とかってスズメの涙ほどのアップでないの?正確には知らんけど。公務員共済はどうなった?国民年金未納問題だって、前進してないだろ。若年者雇用問題は、どうなった?政策的に雇用創出が可能なの?むしろ、「人減らし」方向なんでしょ?あちこちで。


アメリカが消費者物価のマイナスにならなかったのは、医療や教育などのサービス価格がアップしていったからだよ?耐久消費財の値下がり分は、そうした他のサービス分野にお金を回せる、ってことでしょ?社会保障給付水準の削減というのは、はっきり言えばデフレ圧力だよ?過去の診療報酬マイナス改定時にも、同じく下落圧力として作用したわけで。まるで「政策デフレ」だな(笑)。


これはいいとしても、野党のバカさ加減には呆れるね。こいつらは本当に国民のことを考えているのか?国民生活にとって最も大事な事を議論してくれ。それは「将来に対する不安」なんですってば。何遍も言うようですが。これは年金などの社会保障の問題でもあるし、(リストラされたりせずに)仕事が続けられるかどうかという雇用不安でもあるし、子供の教育はどうなるかという教育問題でもあるのですよ。そういう国民の不安を少なくしていくことが一番大事なのではないですか?既に問題点として出てしまった、耐震偽装問題やライブドア問題などは、国民生活の根幹を揺るがしたりはせんよ。


民間検査機関に開放することになった、建築基準法改正の時に、よく議論しとけっての。建築確認が大甘だってことくらい知っていたんでしょ?役所の役人が見に来ても、ボサーっとした形式的検査だって知ってたんだろ?何で、法改正の前によく議論をしないんだ?アホか。

公認会計士協会(だったかな?)とか経済産業省が昨年初め頃(?)に出したIT企業の会計監査に関する指針だか基準だったかを、野党の連中はちゃんと見て検討してたのか?何でそん時に、「行政府は監査法人を厳しく指導しろ」と言わないんだ?基準作成の際に、何で経済産業省にねじ込みに行かなかった?何で政府に厳しくツッコミに行かなかった?「メディアリンクス事件」の時点でも、厳しく追及出来ただろ?本来その時に適切な対策を講じておけば、これほどの広がりは防げたのではないのか?それに、カネボウの粉飾が発覚した後にだって、有価証券報告書の虚偽記載がテレビ局やら西武王国やらからボロボロと出た時に(これって結局三桁の数の上場企業で虚偽記載だったんではなかったか?)、何で厳しい会計監査基準や金融庁検査を設けろって言わなかった?経済産業省職員がインサイダー取引で逮捕された後で、監視がぬるい、権限が弱いって、金融庁や証取委(日本ではSECって言わないんだね。ゴメンね、きっと日本でもSECと呼ばれてると今まで思ってました。記事にもそう書いたしね)の責任追及を何故やらなかった?


頭の悪い連中ってのは、まず問題が発生する前に考えたり言ったりはしないのですよ。そして、何かコトが起こってから、「何でちゃんとやってなかったんだ」と言うのだよ。今更になって言うくらいならば、今までにもチャンスは山のようにあったでしょ?何でそん時に言わないんだ?国民が現実に被害を受けてから言うのなら、競馬の予想屋でも言えるんだっての。レース後なら、後講釈は誰が言っても同じなんですよ。国民の為に何かを考えているんじゃないんですよ、野党議員達は。「批判の為の批判」だけを求めてるの。そして、自民党がちょっと困った顔をしたり、答弁に詰まったりした時だけ、喜ぶの。そんなことには何の意味もないって。


耐震偽装、ライブドア、牛肉で三点セットとか言ってるらしいが、ネタがやけに小さくないか?牛肉以外は個別の問題じゃないか。野党が偽装やライブドアにいくら頑張っても、私の周りの人々の生活は何にも良くなりません。もっと大事なことがあるでしょ?普通の人にとっては、ライブドアがどうしたこうしたなんて、どうだっていいんですよ。直接影響があるのは、せいぜい数十万人規模だろ?もっと多くの人々に問題になることがあるじゃないですか。国民年金未納問題だって、4割近く未納のままですよ。数百万人規模でそういうことが起こってるんだってば。フリーター・非正規雇用の問題にしたって、400万人以上なんだろ?何でそういう議論にならないのだ?本当に頭がオカシイんじゃないか?野党議員は。もっと重大な議題に真剣に議論しろよ。仮に武部さんを降ろせたら、国民に大きな利益があるのか?そんなの放っておいたって、国民の信頼を失えば降ろされるに決まってるんだから。


この前に書いた記事(参考記事)に似た事件がポーランドで起こってたね(Yahoo!ニュース - 読売新聞 - ポーランドで展示会場の屋根崩落、66人死亡)。事故というのは案外と似ているもの、ということですね。日本のどこかでもプールの屋根が落ちてきたことがあったような気がする。例えば、こういうことを教訓として、制度や政策に活かす努力・工夫をする、ってことでしょ?そういう発想が全くないのですよ。より大きな問題に発展する前に、考えるべきことは何か考えろ、っての。そして、本当に国民の役に立つ順番に議論してくれよ。



「堂々巡り」の議論

2006年01月29日 18時13分05秒 | 社会全般
議論や何かの決定の際に起こることがある。それは堂々巡りというやつだ。昨年の小泉さんとロボ岡田くん(そういえば最近見ないね、どうしているのかな?)の間で起こった議論もそうだった。「Aを認めるならば、テーブルにつこう」「テーブルにつかなければ、Aは認められない」という状態になったら、双方どちらも譲歩しなければ、永遠に続くことになるのですね(笑)。多くの事柄で、こうしたことが続く場合には、何も問題解決には繋がらないのですね。


また例で考えてみます。

今、腹を空かせた子供が目の前にいるとしよう。この子の欲求を満たしてあげる必要があるのですが、その時にどうやって空腹を満たしてあげるか、という問題があるとします。ちょっと変ですが、論者Aの主張は「安全が確認されている食品だけで作り、スローフードがいい」というものだとします。一方、もう1人の論者Bは、「とりあえず空腹なのだから、多少なりともそれを軽減した後で、じっくりといいモノを食べさせればよい。だから、今はインスタントでも、ファーストフードでもいい」という主張だとします。


この論者A、Bは、議論を続けますが、一向に解決の気配がありません。Aは「絶対にファーストフードはダメだ」と言って譲りません。しかも「添加物のない安全食品じゃないと、子供の健康に被害があっては困る」と言うのです。確かにそうですね。安全な食品がいいに決まっています。Bは「目の前にファーストフードの店もあるし、今持ってるインスタント食品もあるのだから、それをとりあえず食べさせたっていいじゃないか」と言います。子供の空腹問題は、全く解決しません。延々と議論が続けられるだけだからです(笑)。腹が減るばかりで、子供にとっては、A、Bのどちらが正しくても、どうだっていいのです。結論的に言うと「何でもいいから、早く空腹を改善してくれ」と思っているのです。

ですが、AもBもそんなことはおかまいなしに、自分の正当性とか主張の証明を試みており、相手を説得するまでその努力を続けているのです。その時間と労力があれば、もっと他に解決手段がありそうなのですが(笑)、何故か「どちらの意見が正しいか」を巡って議論を続けるのです。

Aは言います。「子供の親はうるさいし、安全でないものなど食べさせられない」
Bも反論します。「仕方がないじゃないか。ちゃんと説明すればよい。それに、ファーストフードは他の人達も食べてるし、安全でないなんてことはないよ」
A「じゃあ、万が一、何かあったら君が責任を取れるのか」
B「それは無理だけど、選択肢が限られているのだから、今出来ることをやった方がいい」
A「そんないい加減な方法は選択出来ない。安全確認が先決で、害があるなら、かえってマイナスだ」
B「だから、他の人達も食べてるじゃないか。それでいいじゃないか」
A「他の人と、この子は体質も違うし、安全かどうかは判らない」
B「食べられるものを先に食べて何が悪い」
A「だから、それが間違ってるんだよ。害になった時にはマイナスの方が大きい」
B「そうだけど、その確率は少ないと思うよ」
A「今慌てて食べるよりも、きちんとした食べ物を手に入れて調理するべきだ」
・・・・・・

要するに無限に続く訳です。しかし、子供の空腹は続いていくのです。何も解決されないのです。両者の言い分には一理あると思いますし、それぞれに正しい部分もあるでしょう。ただ、ここで最も大きな問題となるのは、正しさが証明出来るか、どちらかが根負けして諦める頃には、子供の空腹が限界に達してしまうことでしょう(笑)。栄養失調とか低血糖で生命の危機に陥ってしまったら、何の意味もないのです。或いは、あまりの空腹に耐えかねて、近所の柿の木から柿を盗み食いしてしまうかもしれません。そういう結果となってしまうなら、何の為に議論しているのでしょうか?AかBの主義・主張の正しさを証明することが、どのような意味を持ちますか?


現実世界でこういったことが起こるとも言えませんが、政治的な問題などを見るに、このような傾向が強いのではないかと思います。実質的な「問題の解決」ということに無頓着というか、子供の空腹には目もくれず、自己の主張の正しさを証明することに全精力を注いでいるのですね。いつまで経っても子供の腹が減ったままですので、いずれ子供の不満も爆発するかもしれませんね(笑)。


次の資料を見ると、既に7年くらい前に、現在と同じような話を検討している訳ですね。

経済企画庁物価局


当時の問題意識と現在では何も変わっていないのですよ。委員会のメンバーを見ると、私が知ることとなった人達が何人かいます。岩田副総裁、大竹、小塩、玄田各助教授、須田審議委員、高橋統括官ですね。少なくとも一度は拙ブログ記事に御登場頂いた方々です(少し意外に思ったのは、各助教授は「経済」担当ということなのですかね?社会学とか(?)ではないんですね)。こういう人達は、何度も集まって、同じような内容の議論を繰り返してきたのです(笑)。そして、そこから一歩も前進していない。今までの時間とは一体何だったのか?これまでの議論の蓄積は、何を生んできましたか?


腹を空かせた子供(=国民)を放置し続けた結果、この数年後には最悪期を迎えることとなってしまいました。一体全体、何をやっていたのか?日銀にしても、大蔵との綱引きなのか、政治的影響力を嫌ったのか、何だか判りませんが、何一つ知見を利用した有効な手を打つことなく放置してきたのですよ(ああ、量的緩和はやったね)。政治的にも同じです。問題意識は当時と大きな違いなどなくて、こうした議論を政治の現場に活かせる方法を探す訳でもなく、無為に時間を消費しただけでした。政治そのものが、何の役にも立たなかったということです。腹が減りすぎた子供は、結局自分で何かの食べ物を見つけてきて、自分で手当てしたに過ぎないのです。


議論が延々と続いた割には、結局「無策」ということで終わり、しかも、現時点でも決まった解決策は提示されず、どの主張が正しいのかについても未だに結論が得られていない訳です(笑)。こうした議論の進め方は、全く愚かとしか思えない面がありますね。正当性を中々確かめられない主義・主張で、それぞれが自己の意見を決して曲げたり出来ず、相手の意見を受け入れられないのであれば、特別な解決方法を探す以外にないと思いますけどね。空腹の子供には、限界に達する前に何とか食べさせて、その後から変更することも可能なはずですし。「腹が空いてる子供を何とか助けるしかない、その全責任は私が取る」という決意というか、決断力というか、そういうものが誰にも無かったのではありませんか?誰一人、責任を取る、という決意を持つ人が出てこなかった訳です。政府にも、日銀にも。政治的無力というのは、このようにして無駄に時間を浪費してしまうのです。


そして、暫く時間が経つと再び同じような議論が再開されるのです。「フリダシに戻る」という、双六の恐怖を味わうみたいなものですね。そのうち福井総裁のように、「ああ、またか」と感じてウンザリすることもあるかもしれませんね。「ですから、その問題はですね、何度も前から言っている通り・・・」といつか来た道を同じように進み、同じ説明を初めっからしなおす訳です。諮問会議の中でも、何年も前に似たような議論がなされていて、福井総裁は説明をしている訳ですね。こうなってしまうと、政治的な解決方法を提示しない限り、事態を打開することは出来ませんね。それぞれの主義・主張がぶつかりあっていて、膠着状態なのですから。


別な資料もありますので、見てみましょう。

第154回国会 予算委員会公聴会 第1号(平成14年2月27日(水曜日))


この資料を読むのはちょっと辛かったですけど、これと大体似たようなことがあちこちで繰り返し言われている。内閣府主催の会議やフォーラムなんかでも似たような議論が繰り返されるてし、質疑応答で出される意見とか疑問というのは主なものがほぼ出尽くしている訳ですね。日銀の会議などでもそうです。それでいて、堂々巡りの議論が起こる訳ですから、余程頭が悪いのではないか、としか思えませんね。


予算委員会の委員に選ばれるのは、有力議員の証としてある種のステータスのようなものだと思われているようですが、ここに参加していた議員たちが一体何をしたのか、というと、こうした議論の先にある「問題解決」という部分からは全く遠のいてしまっているわけです。野党も「予算案審議を(単なる嫌がらせのように)延長できた」ということに満足を見出したりして、本質的には何もやってないのと同じなのです。自民党も、野党も、「問題意識の共有」すらままならず、政治的解決方法を模索する、というところにまで到達すら出来なかったのですよ。予算委員会の意味って何ですか?何の為の議論なのでしょうか?今、最も問題となっていることは何か、という所の理解が余りに足りないのです。デフレ問題というのが、引いては景気対策であり(雇用でもあるな)、経済政策であり(財政問題でもある)、そういう最重要課題である、ということを認識出来ていれば、もっと早い段階から手を打てたかもしれないのです。なのに、何年にも渡って放置してきたのです。


かなり愚痴っぽくなっていますが、済んでしまったことは仕方がありません。今後の道を誤らないようにするには、どのような方法がいいのか、よく考えてみてください。少なくとも、空腹の子供を長い間放置するというのは全く意味がないと判ったことでしょう。そして子供が自分で何とか食べ物を調達してきて、少し空腹を満たしたところですので、それをわざわざ再び腹ペコにしたりしないでほしいですね。議論しているのは主義・主張を曲げない者同士であるので、部分的に折衷案にするとか、初めにA案で効果がなければ次にB案に移すとか、そういった何かの解決方法を考えるしかないと思いますね。



「不確実性」と資産価格・2

2006年01月28日 16時56分47秒 | 経済関連
昨日の続きです。通常の資産取引では、ナイトの「不確実性」存在下での取引が一般的なのであり、投資の際に参照情報を得ることが経済主体の主観的確率に影響を与えるのではないかと思います。つまり、何かの情報を得てしまう為に、ケインズの言うところの「アニマル・スピリット」が刺激されるという訳です(笑)。経済主体の抱く主観的確率は、通常状態であれば危険性(投資リスク?)に対してできるだけ中立であろうとするはずで、その為に預貯金などの安全資産へ投資する傾向が表れていると思います。しかし各種情報を知るということによって、「投資スピリット」(?、こんなのがあるかどうか知らないけれど)が何かのキッカケである閾値を超えると、一種の「ブーム」に似た同期性が発生することが有り得ると思われます。それが、所謂バブルではないのかな、と。


ケインズの「アニマル・スピリット」で言えば、「強気」が多くなり、相対的に「弱気」が減弱していくということになると思います。特に社会的にeuphoria の状態(笑)になれば、推定される期待収益がより高まっていくことによって投資意欲が旺盛となるでしょう。ポジティブな主観的確率はネガティブなそれに比べて高まるということを意味すると思います。「不確実性」の存在が、逆に「強気」予想を強化してしまうのかもしれないですね。


このような環境に置かれた経済主体は、合理的決定を選択しようとしてしまう為に、資産価格水準の評価よりも、期待収益に比重が移るのだろうと思います。

前の記事に書いた()式を利用して、期待収益を表してみましょう。ある時点の資産の現在価値をVt、将来価値の高い方の価値をU、低い方をDとし、主観的確率は同じくP(u)とP(d)としましょう。すると期待収益 x を用いて表すと、次のようになります。

Vt+x=D+P(u)(U-D)

これを変形して、x の式に変えると

x=P(u)(U-D)-(Vt-D)・・・・(a)

となります。euphoria状態では、直近の過去の取引情報や値上がり益情報(「オレは幾ら儲かった」「私はこうして1億円儲けた」とか・・・他モロモロ、笑)を見ても、損失というのは殆ど存在しないのですね。上がり続けている局面ですから、そりゃ、下がる確率を考えたって、普通は上がる方が優勢になると判断しがちでしょう。P(u)はどんどん大きくなり、P(d)は逆に小さくなっていく、ということです。また、現在価値と低い方の価値との差が縮小するという、ある種の錯覚が起こると思います。それは所謂「下値不安」というやつで、何故か現在価値が下値であるという錯覚ですね。それまで上がり続けてきたことによるのだと思いますが、VtとDが近似的にほぼ等値となり、(a)式で言うと(Vt-D)の項がほぼゼロであるという錯覚をもたらすということです(本当は「値下がり確率(リスク)」もそれなりに存在しているはずなのですけれども)。


もしもVt-D=0が近似的に成立してしまうと、(a)式は次のような近似式に変えることが出来ます。

x=P(u)(U-Vt)・・・・(b)

これは現在価値から「いくら値上がりしそうか」ということが重要になり、Vt=1000、U=1500、P(u)=1/2であると、言葉で言えば「半分の確率で、500円の値上がりが達成される」ということです。多くの人々が実際に投資を決めた時には、このような思考パターンがあったのではないかと思いますね。すなわち、「現在価値がどれ位なのか」よりも、値上がり幅に期待収益が代表されてしまう、ということに問題がありそうです。資産価格水準Vtが不適切であったとしても、周囲には「強気」の情報が充満しており、主観的確率を上方偏移させる材料が揃っているのですから。その為に「”U-Vt”の値幅」だけに関心が集中することになりがちだろうと思われます。「強気」予測の取引を繰り返していくと、資産は理論的価値と大幅に乖離していくので、Vtの水準は高くなっていきますが、人々の関心が「”U-Vt”の値幅」にあるために、Vtの異常さを気にかけなくなってしまうでしょう。バブル期には、土地であろうと株であろうと、そういう傾向が見られたと思いますね。理性的に(「アニマル・スピリット」だけではなくて)考えれば、到底信じられない水準なのですから。


株のデイトレーダー達が現在価値にはあまり拘らない、ということも似ていますね。同じように、「”U-Vt”の値幅」を獲得することだけを考える訳ですから、「Vtの水準がファンダメンタルズから見て適正かどうか」というような判断基準は必要ない、ということになると思います。あとは確率変数(値上がり期待の主観的確率)の問題なのだろうとな、と。


このようにして、取引の活発化とともにVtの水準訂正は進み、言ってみればある「セット・ポイント」の水準訂正が行われる、ということです。値上がり局面では、例えば従来Vtが100万円だったのが、150~200万円程度での取引数が多くなっていったりすると、次第にDが同様の価値であると信じ込まれ(=下値不安が軽減されていく)、Dの水準が切り上がっていくような錯覚に陥るのだろうな、と。そして、D=Vt=150万円などというような、経済主体の価値判断における「セット・ポイント」の上方へのシフトが起こるのではなかろうか。そうでなければ、相当な高値であるにも関わらず、次々と新たな参加者達(取引参入者、買い手)が登場するとは思えないのですね(笑)。


前の記事にも書きましたが、本来的には、資産価値自体は利子率のようなファンダメンタルズによって規定されうるものであって、仮に現在価値がV1からV2に変わっていった時には、利子率との比較で(借金をして投資するならば、そういった借入金利も含めて)期待収益率がそれを上回っているかどうかが重要なはずのです。ですが、euphoria に陥ると、V1もV2も判断材料としてはあまり違いがなくなり、主観的確率に依存した判断を行ってしまうのではないでしょうか。


そして、皆が一気にeuphoria から覚醒するとバブル崩壊となり、値下がりの主観的確率が大幅な優位となる為に急速に値が下がることになります。VtとU が非常に接近していくことになり、下値不安が強くなるためであろうと思います。損失を y として式で書けば、

y=P(d)(Vt-D)・・・・(c)

となります(ただし、Vt=Uが近似的に成立するとして)。
値下がりの主観的確率が増大する(=P(d)が大きくなる)か、将来価値が下落する(=Dが小さくなる、下値がもっと下がる)と期待損失yが大きくなるということになります。なので、現在価値で売った方が損失を抑制できると判断してしまうのでしょう。


結局、資産価値というのは、時としてファンダメンタルズに依拠しない取引が登場することがあるのではないかな、と。
以上、まとめると、次の通り。

・ナイトの「不確実性」の存在によって、取引では主観的確率が中立(値上がり、値下がりとも1/2)であると考えたとしても、売り手と買い手にとっては合理的判断となるのではないか
・投資は期待収益率によって判断され、それは本来、現在価値とファンダメンタルズによって決まる

そして、euphoria 環境下では
・参照情報の影響を受ける為に「アニマル・スピリット」は「強気」に偏りやすいのではないか
・その為に値上がりの主観的確率が増大するのではないか
・想定する資産価値水準は切り上がる(セット・ポイントの上方シフト)のではないか
・現在価値の水準は投資判断のおいて、次第に重要視されなくなるのではないか
・逆に覚醒する過程では、「弱気」優位となるのではないか
・覚醒すると、値上がりと似たような現象が、今度は値下がり方向に起こってしまうのではないか


資産価格についてあれこれ書きましたが、実際のところはどうなのでしょう?でも、普通に見られる現象にも近いかな、と思います。正しい理論では、どのような説明なのか判りません。でも、もしもバブル期の経済学上の論理的説明があるとすれば、きっとeuphoria などとは呼ばずに(笑)何かの理屈で説明したのではないかな、とも思ったりするのですけど。


皆様の御意見をお待ちしております。



「不確実性」と資産価格

2006年01月27日 21時43分35秒 | 経済関連
90年代のバブル崩壊後以降には不動産価格の下落がありましたが、元々の価格が不適正であったので(要するに「バブル」ですね、笑)、その水準訂正が起こったとも言えるでしょう。バブル時に設定された価格が、理性的な判断に基づく資産価格であるとは多くの人が思わないでしょうから。株式と似たようなものとも言えるでしょう。ですので、熱にうなされたような夢から醒めてしまえば、相対的に値下がりしていくことは普通の現象とも言えますね。チューリップの球根と同じです。まさに、euphoria(日銀研の翁邦雄氏曰く、だったかな?確か日銀の誰かでしたよね)からの覚醒ということですね。


資産価格というのは現実的に判断が難しい面があると思いますし、経済学的ファンダメンタルズに依存しない価格での取引も行われています。それはナイトの「不確実性」の存在ということが影響していると思われます。また、資産価格の決定というのは、特に取引が活発化すればするほど「主観的確率測度」に影響される可能性があるように思います(これはあくまで推測です)。


また例で考えてみましょう。とりあえず、土地よりも株の方が分かり易い(単に私の経験量の差でもありますが、笑)ので、株取引を考えてみたいと思います。

普通は、現在価値よりも将来時点での値上がりとか、配当収益が期待されると株を購入する動機となると思います。金利水準よりもそちらの方が上回っていれば、投資対象としては魅力的ということだと思います。すなわち、期待収益率と金利の比較で株式の方が有利であれば、そちらに投資するということになると思います。期待収益率が国債とか預貯金の方が高ければ、普通はこちらを選択すると思います。実際に投資してみようかな、という時には、普通そういったことを厳密には考えていないと思いますけれども(笑)。


現在自分が持っている現金で現物株を買うとしましょう。多くの人は値上がり益を目論んで買うと思いますね。買う前の段階では、「上がる」か「下がる」かのどちらかです。簡単にする為に、現在価値を150円、ある将来時点で実現すると考える価値のうち、高い方を200円、低い方を100円とします。つまり予想通り値上がりすれば200円という株価が達成され、残念ながら逆に値下がりしてしまう可能性もあってそれが100円ということです。この場合は、どちらも同じ変動幅です。今ある人が考える値上がりする時の主観的確率をP(u)とし、値下がりする時の確率をP(d)とします。

この時に期待される収益をx円とすると、

150+x=100+P(u)*(200-100)・・・・()

このように表すことが出来ます。上がる主観的確率P(u)が1/2である時は、()式の右辺が丁度150となるために期待収益xはゼロということです。つまり現在価値と同じですね。現在価値が150円よりも下がるか、主観的確率が上がれば期待収益xはプラスとなる為に、買った方が得ということになります。そういう推測と現在価値を常に照らし合わせて投資判断を行っているのだと思います。つまり期待収益xがプラスになると推定する時に、「買う」という決定(投資)をすることになると思います。ここで、ナイトの「不確実性」を再び思い出して頂きましょう。「不確実性」が存在する時にはどうなるか、考えてみましょう。

()式を変形すると、

x=50*(2P(u)-1)・・・・()

と表せます。ここで、()式の2P(u)-1の部分ですが、通常(所謂加法的確率測度)であればP(u)+P(d)=1ですので、2P(u)-1を書き換えたものをx’とすると、

x’=50*(2P(u)-(P(u)+P(d)))・・・・()

と表せます。ナイトの「不確実性」が存在すると、P(u)+P(d)<1が成り立ってしまうため、xとx’の間には常にx<x’が成立することになります。これはどういうことか?
仮にP(u)=1/2であるとしても、x’=50*(1/2-P(d))>0となってしまうのです。
加法的確率測度に従えば、期待収益がゼロ(x=0)であったのに、です。よって、上がる主観的確率が1/2であると推定していても、期待収益が正の値をとる為に「買った方が得(合理的)」ということになってしまうのです。


今度は売る側から考えてみましょう。買う人と別な人が売る場合を仮定してみます。
先ほどと同じ条件ですが、今度は期待収益ではなくて、損失で考えてみましょう。

推定される損失をy円として、()式と同様に表すと、

150-y=200-P(d)*(200-100)・・・・()

となります。これを変形すると、

y=50*(2P(d)-1)・・・・()

となって、()式と同じような形となります。x’と同様にy’を置くと

y’=50*(2P(d)-(P(u)+P(d)))・・・・()

となり、()式の説明と同様に「不確実性」の存在下では y<y’が成立し、P(d)=1/2の時、y’=50*(1/2-P(u))>0となります。つまり、値下がりの主観的確率が1/2であっても、損失がゼロより大きい値を取る為に、現在価値(150円)で「売った方が得」ということになります。


このように、買う側、売る側、双方とも得になる方法を選んでいるにも関わらず、ナイトの「不確実性」の存在によって、主観的確率測度が双方から見て共に(値上がり確率も、値下がり確率も)1/2であるのに、収益と損失の両方が有り得ることになってしまうと思います。


これは以前に書いた交換取引の際の、双方共に満足度が半分を超えるのではないか、ということと似ているように思えます(笑)。単なる偶然ですが。通常の取引の際には、片方が得をすると考えれば、もう一方が損を感じても良さそうなのですが、双方がベストを尽くしたとしても、ほんの僅かにでも「得した」と感じてしまうかもしれないですね。これは推定を必要とするブラックボックスが存在しているということかもしれないです。相手の心の中?かな。他人の意思決定や思考というものだろうか・・・?


ここまで書いてみたのですが、ナイトの「不確実性」の用い方や考え方が間違っているのかもしれません。ご専門の方々で、誤りを指摘下されば有難いと思います。もしも正しいとしたら、これは証明されているんだろうか?株取引においては、実際にこうしたことが起こるので、売る側と買う側が存在するということなのかな?


とりあえず載せます。後で追加したいと思います。
結局資産価格の話まで行けなかったし。
それに、europhia にも進めませんでしたもんね。


『オリバー・ツイスト』

2006年01月26日 23時53分33秒 | 俺のそれ
前にちょっと書いたが、子供へのクリスマスプレゼントは、毎年本をプレゼントすることにしている。今回(サンタが来なくなった日)はディケンズ著の『オリバー・ツイスト』だった。もうすぐ映画が公開になるそうですね。本の帯にも書いてあったし。これを選んだ理由というのは、特にない。文庫本でお手ごろだった(上下併せても、千円ちょっと)のと、時にはこうした映画の原作もいいかな、と思って。


この本は何と昭和30年発行で、訳者は中村能三氏で1981年に亡くなられていたようです。随分と古いんだなー、とちょっと感激。既に第24刷ということで、息の長い作品として存在しているのだろう。言い回しとかも、現代とはやや異なった感じがするので、これもまた雰囲気がいいと思った。


子供の感想としては、中々良かったようです。冬休み中だったこともあって、昨年中に読み終えてしまっていたようだ。今自分が置かれている生活環境がどれほど恵まれたものなのか、多少は感じられるかもしれないと思った。何も現代でも同じように苦労したり、悲惨な生活をしてみろ、ということではないが、際限のない欲望に囚われるというのも、不幸せな感覚が増すだけなのではないかと思う。

慌てていて、ゴメンナサイ。



情報と専門家

2006年01月25日 22時02分15秒 | 社会全般
とっくりばーさんからTB頂いたので、記事に書いてみたいと思います。


耐震偽装もライブドア事件も、共通することがあります。それは、本来信頼されるべきエージェントが、正しくその業務を行っていないことであると思います。耐震偽装をした建築士も、会計監査を担当した監査法人(会計士)も、エージェントとしての問題があったと言えるでしょう。その基本的な問題発生要因というのは、情報の非対称性の存在ですね。本来、専門家ではない人達(マンション購入者や一般投資家達)は、専門家と同じ情報を持ちそれを元に個々に判断するということが非効率なのであり、その代わりにエージェントを利用した方が有利でしょう。そういうシステムとして、建築審査や会計監査というものがエージェントによって行われ、その判断情報を元に一般人は判断するということになっています。そういうシステムを作ってきたのだと思います。その機能の根幹を揺るがすのが、こうしたエージェントによる不正とか過誤などが存在する場合で、一般人は専門家と同じ情報を持たないのですから、いかに自己責任といっても正しく判断することは困難だろうと思います。

以前の記事ですが、参考に挙げておきたいと思います。

法と正義9
談合三兄弟
続・知識階層は弱体化が進んだのか


政治的にはどうなのかというと、エージェント(議員を含めた所謂公務員達)と国民との情報格差は小さくなりつつありますが、それでも格差は存在すると思います。本来、有識者達や言論人とか評論家などという人々が国民の代わりにあれこれと指摘してきたのですが、現実にはそれでは問題解決に繋がってきませんでした。エージェント達の一部には、情報格差があることを悪用して色々とやってきた人たちがいました。そういう代表例は道路公団のような特殊法人等であったり、政治家たちの中にも贈収賄などをしたり、といったことがありました。エージェント自体にも問題があったと思いますが、周りから批判することを商売にしている人々も同様にあまり役立ってこなかった。それは批判者たち自身が情報を持っていない(分からない場合もあると思うが、単に知らないだけもある)とか、情報を正しく国民に伝えていない、正しく解説していない、などということがあったのだと思います。今までいくつか記事に書いてきましたが、一般大衆に何がしかの影響力を持つような人達(何とか評論家とか、何とかジャーナリストとか、一般メディアとか)が、実は間違ったことを堂々と解説していたりするし、事実を歪曲的に伝えたり、大袈裟に伝えたり、関連性の乏しいことをあたかも関連するというような意味付けを行ったり、そういうのが普通に行われてしまっていると思います。専門家に依存することは、逆に間違った情報や判断を受け入れることになってしまう恐れもあると思います。何の影響力もない一般個人がいくら間違えたことを言ったとしても、普通は大きな問題とはならないと思います(私自身の誤りを正当化するという意味ではなく、笑)。


客船の乗客たちはエージェントであるクルーに安心して任せられるならば、いちいち口出ししたり、あれこれ意見表明をしたり、自分で航路航海の情報を仕入れて自分で判断したり、といったことをする必要性がないはずなのです。それがエージェントの存在意義でもあり、信頼関係がその根底にあるべきものだと思っています(「良心的な完全主義の文化」ということでもあります)。でも、それに期待してシステムを作っていくという時には、非難も起こってしまいますけれども(人間は不正を犯したりする生き物であり、信頼や倫理感に期待すること自体が奇麗事・間違い、とか)。

やっぱり、エージェント達が国民を欺こうとするとか重大な過誤を招くとしたら、たとえコストをかけたとしても、何らかの対策が必要になってしまうのではないかなと思ってしまいます。残念ながらこれといって、うまく結論というのも思いつかないのですけれど。



「不確実性」と価格・2(追加あり)

2006年01月25日 14時50分51秒 | 経済関連
昨日は尻切れトンボで終わってしまいました。余りに眠かったもので。ゴメンナサイね。
ナイトの「不確実性」というのはどういうものか、私の理解の範囲で簡単に書いてみたいと思います。


これにはある思考実験のようなものがあります。
「Ellsbergのパラドックス」と呼ばれるものです。

まず、赤と青の玉が入った2つの箱アとイがあります。アの箱には赤と青が半分ずつ入っていて、その情報は明らかとなっています。一方、イの箱は全くのブラックボックスであり、玉がどういう割合で入っているかは不明であるというものです。ここから赤玉を選ぶという場合に、人々はどちらの箱から引くのか、という問題です。

アの箱の赤玉を選ぶ期待値は1/2です。ブラックボックスになっているイの箱の主観的確率がどうなっているか、ということにもよるのですが、一般にはアの箱から引く人が多い、ということのようです。これはどうしてなのか?

今、イの箱の赤玉の主観的確率をP(r)、青玉をP(b)とします。すると、通常であれば、

P(r)+P(b)=1・・・・(1)

が成り立ちます。もしも、主観的確率がアの箱と同じく半分ずつであれば、P(r)=P(b)=1/2ということになりますね。普段期待値を考える時には、こうした等式(1)が成立します(加法的確率測度)。ところがナイトの「不確実性」というのが存在している時には、非加法的確率測度Pが凸であるということのようで、

P(r)+P(b)<1・・・・(2)

が成立する、というものです。これは数学的に説明されうるもので、私にはちょっと難しすぎて省きます(笑、関心の向きはご自身で調べてみて下さい)。そういうわけで、もしもイの箱に半分ずつであると主観的に考えるとするならば、(2)式においてP(r)=P(b)<1/2となるために、ブラックボックスのイの箱から引くよりも、情報が判っているアの箱から引く方が有利である、ということになるのです。実証研究もこれを支持しているようです。


Wikipediaからの引用ですけれども、判り易いので記します。

フランク・ナイト - Wikipedia


ナイトは、不確定な状況を3つのタイプに分類した。第1のタイプは「先験的確率」である。これは例えば「2つのサイコロを同時に投げるとき、目の和が7になる確率」というように、数学的な組み合わせ理論に基づく確率である。第2のタイプは「統計的確率」である。これは例えば男女別・年齢別の「平均余命」のように、経験データに基づく確率である。そして第3のタイプは「推定」である。このタイプの最大の特徴は、第1や第2のタイプと異なり、確率形成の基礎となるべき状態の特定と分類が不可能なことである。さらに、推定の基礎となる状況が1回限りで特異であり、大数の法則が成立しない。ナイトは推定の良き例証として企業の意思決定を挙げている。企業が直面する不確定状況は、数学的な先験的確率でもなく、経験的な統計的確率でもない、先験的にも統計的にも確率を与えることができない推定であると主張した。



上記パラドックスが起こるような「不確実性」は、第3の「推定」のタイプです。企業の意思決定というのがこうした「不確実性」存在下で行われる、ということが重要であると思います。企業は消費者の意思決定(の確率分布など)を知ることがないままに(事前のマーケティングなどで、多少の近似情報は入手するはずでしょうが)、価格決定を行わなければならない、ということです。ナイトの「不確実性」は、企業の期待形成に影響があると考えることが出来るのではないか、と思います。


一般に、経済学的には価格というのは硬直性が存在しており、価格変更が必ずしも行われるとは言えないようです。

例えば、Akerlof・Yellenの提示した「near-rationality」とは、企業が惰性や経験則によって行動し、適正価格水準から少しだけ乖離しても価格訂正を行わない(その分ロスを発生する)ことがあり、それが非合理的であっても起こってしまう、というものです。
他にもMankiw は「メニュー・コスト理論」で、価格硬直性が社会的な一次オーダーの余剰ロス発生の可能性を指摘しています。名目価格変更に伴う必要コスト(=メニュー・コスト)が非常に小さいものであっても、生産者余剰の減少を招くにも関わらず(価格を変更した方が利潤を得られるのに)販売価格が変更されない傾向にある、ということのようです。このような非効率を取り除く意味で、緩徐なインフレが望ましいとしています。


他の研究でも、どちらかと言うと値上げはしやすく、値下げはしづらいと通常考えられているようです。価格は下方硬直性(価格粘着性)がある(渕・渡辺)のだ、と(業種別に有意差があると考えられていますけれども)。


しかし、現実に見る現象としては、マックのハンバーガーも、吉牛の牛丼も、プレステも、実際に値下げされており、これらは経済学的には非常に特殊な(個々の)事例であって、他の圧倒的大多数が違うのだ、ということなのかもしれません。そうであれば、そもそもデフレ(持続的な物価下落)なんて発生し得ないようにも思えます。何故なら、ごく稀な企業群のみによって価格下落となったとしても、圧倒的大多数は価格を下げることがない(=下方硬直性)はずですから。特に財に比べて、サービスでは粘着性が高いのですし。

それでも全体的に価格が下落するということは、そういう硬直性を打ち破ってなお、下落圧力が存在するとしか思えないのですね。そこに影響を与えたのが企業の期待形成であり、「不確実性」の存在によって、「値下げ」が有力な戦略であると信じ込まれたか、強力なインセンティブとなっていたのではないのかな、と推測するのです。価格設定側である企業に形成された、バブルの熱狂と反対の、まことに弱気の「spirit」を刺激する(それか、ある種の”セットポイント”の下方移動のような)sticky information が彼らに充満していたのではないのかな、と。元々企業の期待形成というのは、家計に比べてbackward-looking 優位でもありますしね(笑)。


ちょっと追加。

ところで、私はビールを好んで飲みます。ビールの味が好きなので、絶対に発泡酒等を買ったりはしませんね。これは前にも書きましたが。誰かがブログか何かに書いていたが、ビール好きの人は「知的水準が低い人」だそうです。ちょっと失礼だな、と思ったけど、自分がまさにそうなので仕方がないかもしれない(笑、妙に納得した)。アイリッシュがパブで散々愚痴を言ったり、政治や政治家(それとも伝統的イギリス人のスノッブ?)批判をするというようなことと関係しているのかな?(笑)それは関係ないが、ビールの状況というものを振り返ってみたいと思う。


今は、発泡酒とか「第三のビール」などが登場して、言ってみれば「ビールもどき」が氾濫しており、市場規模は相当なものとなっていますね。元のビールよりも販売ケース数は多くなっているかもしれません。どうしてこのようなことが起こってしまったのか?

まずは、当初ビールメーカーは費用削減努力をしたでしょう。販売店は大幅な値引きなどによって、単位当たりの利益を削っても販売数量で補おうとした。需要に変化がない時、販売側が価格を下げる意味というのは本来なさそうですね。それなのに、どうしてなのか?

多く売ったらもらえる、メーカーからの報奨金(リベートのようなもの?)が十分魅力的であるとしたら、その分の価格を下げてもよさそうです。しかし、リベートが廃止されれば、価格を元に戻す必要があります。他にも酒税のアップによって、価格転嫁するべき費用が発生するとしたら、価格は上げるべきですね。こういう時に、どうしたかというと、流通分野などでのコスト削減などによって価格上昇を抑制し、販売価格を据え置くということもあるかもしれません。値上げしている業者も存在したと思いますが、すると、消費者は安く売っている店を探してそちらにいってしまい、売れなくなる。それでも、メーカーにとっては何処で売れたとしても、販売数量が変わる訳ではないですよね。販売店の何処かが高く売っていて、その結果価格競争に敗れて潰れたとしても、別な量販店で今まで通りの数量が代替されてしまえば、メーカーには関係ないと思えます。

では、何が問題なのかというと、競合はビール会社同士ばかりではなくて、その他の飲料ということなのではないのかな。つまりワインが昔よりも売れるようになってきたり、焼酎がブームになったりして、従来2000円分のビールを買っていたものが、同じ金額をワインや焼酎などに投入されてしまい、購買層を奪われてしまう、と。この時に、ビールという「商品」そのものの魅力(競争力)が高ければそれ程数量が落ちていかないかもしれない。新たに発生したコスト分だけ価格に転嫁したとしても、同じ数量が売れていればいいのですから。しかし、実際の観察される現象としては、「ビール離れ」のようなことが起こってしまい、数量が落ちていくとなれば、「こりゃイカン」と焦る訳ですね。ビールの商品力を高めようとすると、プレミアムビールのようなコストアップになってしまう。同じコストではそれ以上の魅力アップに繋がらないと考えれば、やはり「低価格戦略」を選択するということになるかもしれません。マックのハンバーガーが驚くほど安くなって、サラリーマンの昼食の一部を占有したようなものです(笑)。


で、ビールの原価を下げる努力をするのですが、それでもコスト削減にも限界がある。1000円の原価の商品で、10%削減ならば効果が結構あるかもしれないが、原価が100円で100円が税金であると(実際には違います。今は単なる仮定ですからね)、血の滲む思いで10%削減(100円→90円)を達成しても、現実の販売価格への影響力は5%にしかならないのですし。ワインや焼酎から消費者を奪い返すには、200円が190円になったとしても十分魅力的とは言えないのかもしれません。本来転嫁するべき税金分とコスト削減で、メーカーとしての努力にも限界が訪れるということになります。「もうビールという商品自体には、コストを削れるところが(ビールだけに)一滴もない」という状況となるのです。もしもこのままでは、他の飲料に消費者を取られて売上が落ちていってしまう、という悲観的推定が出てくると思います。


そういう訳で、「ビールもどき」の販売に移るということになります。発泡酒はそれまでのビールと比較すれば驚くほど低価格で、ビールとほぼ似た感じであり、消費者の欲求を満たす水準の商品力を有していたということですね。今までビールを手控えて、他の商品に投入されていた資金が、再びビールメーカーの下に戻ってくるということになります(しかし、結果的にはビールそのものの販売数量が低下してしまうので、ある意味競合ということになるけれども)。「低価格戦略」は成功したということです。この成功は「第三のビール」の誕生を促したと思われます。低価格品の投入によって利益を生み出せることが、既に判っているからです。


こういう風にして、価格転嫁を抑制し、新たな低価格品を投入して新規市場を生み、企業利益も創出しようとしたのだと思います。ミクロ的にこうした一部低価格路線が実行されたとて、他の財やサービス価格が上昇するならばマクロで見れば物価の変化なんか起こらないのでしょうから、デフレになどならないでしょう。しかし、もてはやされた「勝ち組企業」が似たような「低価格戦略」で利益を生み出し、その選択をしなかった企業群に「敗北」が多かった―要するに「負け組」への仲間入り―としたら、多くの企業に(ある種の羨望の対象として)「低価格幻想」が根付いたとしても、多分有り得るかなと思うのです。


そして、”根付く”というのは、企業の期待形成が一定方向により強固になっていくことでもあり、「デフレ期待」が台頭していったのだろうと思います。企業の「インフレ期待」は「弱気」となっていったのだろうな、と。判断する時の参照情報としては、よりsticky な情報であったであろう、と。



「不確実性」と価格

2006年01月24日 21時56分56秒 | 経済関連
昨日ケインズの「animal spirit」について書いたのですが、その続きです。ケインズは株式市場の不安定要因として、市場の惰性・慣行などを示している。その根拠としては、大衆心理の性質、投機、信用状態を挙げている。この分野に関連しそうなのが、リスク、エージェンシーコスト、信用、期待などの研究であると思う。それらに関する研究というのは、数多く出されているようです。


再び資料探しをしていて、特に目を引いたのが「不確実性」というものでした。この先駆的研究はKnight(1921)によってなされたようです。何とケインズの『一般理論』に先立つ事、15年です。やはり昔の研究者達が大体考え付いて、研究をやっているんですね。普通に考えて、そりゃそうですね、と思うな。

このナイトの「不確実性」が存在する時、人間の行動決定というものが中々面白いのですね。普段の経済活動も、株式投資なども、こうした将来時点の不確実性を含んで様々な決定を行うので、その結果には影響してくると思います。ケインズが言ったように大衆心理だとか信用状態といった情報によって、人々の行動決定は左右されるのです。「不確実性」の存在によって加法的確率測度ではなくなると考えられ、期待値最大化は従来加法的に行われていたものが、非加法的確率測度による非加法的期待値ということになるのです。

ちょっとまだ、調べ中なので、続きはまた。



アニマル・スピリット(ちょっと追加)

2006年01月23日 16時51分10秒 | 経済関連
私は今までケインズなど読んだこともないのだが(昔公民だか、政経で名前を聞いたくらい)、「期待形成」についてネット上の資料を探していたら偶然知ったのが、偉大な経済学者ケインズが名付けた「animal spirit」(日本語訳では「血気」が与えられているようです)だった。

ケインズは「animal spirit」について、合理的な計算ばかりではない自生的衝動のようなもので、経済活動・投資行動などを生じさせるものだと考えたようである。彼は、人間の行動(決定)の不思議さに気付き、人間(各個人)内部に存在する「意思決定過程」を抽象的に「animal spirit」と呼んだのかもしれない。私は原文を読んだ訳でもなく、正しい解釈が出来る訳ではないので、きっと死ぬほど沢山出されているケインズ関連の研究書などを勉強して頂いた方がいいと思いますが。


ケインズが考えた経済理論を支える前提とは、様々な経済主体には(その当時)理論的に明確な説明が出来ない「animal spirit」が内部化されていることだと思った。そうでなければ、経済活動の発生する動機が存在せず、うまく説明出来ないからではないのかな、と推測するからである。それは経済学というよりはむしろ哲学に近いものかもしれないが。経済主体は大抵大学教授や高度な学問を修めた人々なのではなくて、満足に経済学理論も知らない人々が圧倒的に多いのであり、そういう人々が意志・行動決定を行い、様々な投資行為や経済活動を行ったりしているのですから、いかに経済学理論の研究上で「合理的行動」「最大利益追求」といった前提を置いたとしても、そのことの矛盾というか空々しさをケインズは感じていたのではないか。


ケインズが「spirit」に到達した理由は、「人間の行動決定の不思議さ」を経験的に知っていたからではないかと思うのである(彼は投資家でもあり、投機家でもあった。破産寸前の莫大な損失を被ったこともある)。略称『一般理論』が書かれたのは1936年で、恐らく当時までには「金鉱探し」(一発当てようという夢にとり憑かれた山師を、ゴッソリ見たり聞いたりしたに違いない。それとも石油-油田かな?)とか「鉄道バブル」とか、そういったことが既に起こっていただろう。世界恐慌を経験した後でもある。彼が経験した現象そのものは、現代の「(90年頃の株・不動産)バブル」「ITバブル」等とあまり違いがないことだと思う。彼が株式取引を「美人投票」と比喩したのは、そういう人間の行動傾向(経済活動)を真に興味深いと感じ、そのことが経済活動に結びついている重要な因子であると考えたからだろう、と思うのである。


例えば、「鉱山株ならばどんなボロ株でも値上がりする」とか、「鉄道会社ならば何でもいい」とか(昔の日本の株もそういう面はあったろう)、常識的には考えられないほど値上がりしていくというような人々の「熱狂」を見るに、理性的・論理的な判断や経済学的な合理性に基づいて行動決定がなされているとは到底考えられなかっただろう。即ち、こうした妄信的行動決定は人々の内部的な「spirit」であり、客観的に見て「理性を備えた知的活動」の結果であると信じることは出来なかっただろう。それ故、彼は人々の内部に存在する「欲望」とか「熱狂」とか「ギャンブル的な感覚」とか、そういった精神活動―すなわち経済主体の行動決定―を動物的(理性・知性に対比する意味で)精神活動として「animal spirit」と名付けたのではなかろうか。「人間の本能的(生得的?)欲求」の延長線上に彼の経済学理論が存在している、ということを、彼は自覚的に書いたのだと思う。


当時、認知・情報科学、行動学やゲーム理論研究などに関する知識が存在しなかったか、或いはさほど発達していなかったであろうことを考えると、(人間観察に基づく)経済活動動機を見出して「animal spirit」と表現したことは、偉大な学者である証拠ではないかと思える。それまでの経済学という範疇ではない考察を含むものである、ということだ。そして、有効需要創出自体が、経済主体の「animal spirit」を「刺激」するものであり、そういう個々の「spirit」の総和が経済全体の傾向を特徴付けるものだと考えていたのではないか。これは科学的若しくは理論的背景を持つというよりも、経験論的背景に起因する考えなのではないか思う。それは、「animal spirit」についての数理的・論理的意味付けが、ケインズ自身によって行われていないからである。存在そのものの証明ということも考慮されていないからである。「spirit」の存在がそもそも自明であるということを、暗黙の前提としているとしか解釈出来ないからである。


それまでに存在した、多分彼が批判対象としていた経済学―古典派経済学者、リカード、ミル、ピグーら(=the classical economists)の経済学―とは異なった理論なのであり、その正当性を社会や他の経済学者達に認めさせることは容易ではないと知っていたはずで、最も単純な批判―お前さんは「animal spirit」で投資を決めるのかい?爆笑―ということもすぐさま頭に浮かんできたことだろう。しかし、あえて経済主体の内部に存在する「spirit」に、そうした精神活動に、経済学理論が立脚するのではないか、という斬新な理論を示したのである(と思う)。そういう視点で見れば、古くて新しいというべきか、経済学をより行動科学に近い捕らえ方をしているというか、やはり凄い学者だったのではないかと思うのである。経済学の理論的構築を考えていく過程で、「人間の意思決定」(経済主体の自由な振る舞い)という根源的な問題に光を当てた功績は大きいのではないか、と思うのである。


そういう訳で、私にとっては、ケインズというのは非常に意外な発見となりました。今まで読んだ事がなかったこと自体に大きな問題があるかもしれませんが(笑)。でもね、普通、興味ない人の方が多いと思うけどね。こんなのごく一般的な「教養」の一つに過ぎないだろ、ってお叱りを受けると思いますが。


もう少し「期待形成」と「animal spirit」について考えてみようと思います。


追記:22時頃

遂にホリエモン逮捕ですか。

Yahoo!ニュース - 毎日新聞 - <ライブドア>堀江社長ら逮捕 証取法違反容疑で東京地検

宮内氏も一緒に逮捕されたようです。

柳田先生は昨日非常に残念だ、ということを書いておられましたが、そのお気持ちは何となく判ります。しかし、もしも報道されてる内容が事実ならば、彼らは企業家としては決してやってはいけないことをやってしまったと思います。そして、最も重要であるはずの投資家(株主)達との信頼関係を破壊した行為は、厳しく指弾されるべきものだと思います。

基本的に彼らがひたすら考えたことは、自社株を買ってくれる投資家たちから「金を巻き上げる」ということです。たとえどういった動機でライブドア株を購入するにせよ(短期的な利益狙いだろうが)、少なくとも自社株を買う投資家達に対する背信行為であることは間違いないでしょう。通常、株式市場というのは株の発行会社自身が取引の「キープレーヤー」になったりはしません(時には自社株消却とかTOBへの対抗などで買ったりとかは、あると思いますが)。

ところが彼らは、ネット上の掲示板などで胡散臭い情報を流したり、逆に煽られたりといったことをやっているような連中と全く一緒になって、似たようなことをやったのですよ。これをやるとどうなるかというと、勝敗は圧倒的ですね。一方は全ての情報を知っており、なおかつ大株主同様大量に「売る株」を持っています。どれ位の規模で売られるか初めから知っているのですよ。買う(投資家)側は、売られる株の存在を詳しくは知らないのです。買う前に知っていたら、勿論誰も買ったりはしませんよ。そういう投資家たちを悪用した、ということです。無知な投資家達から金を巻き上げたのです。


同じように「風説の流布」(インサイダー取引もあったみたい)で株価操作の疑いで社長が逮捕され、上場廃止となった「メディア・リンクス事件」(これは大阪地検特捜部の捜査でした)がありました。この時にもSECからの告発であったと思いますが、この時の架空取引相手として所謂エッジ時代のライブドアなどの名前が挙がっていたはずだ。そうした架空取引というものが明らかとなって以降から、当局にマークされていたのかもしれない。

ホリエモンは本当に「アニマル・スピリット」に溢れすぎていて(笑)、動物的「野生の勘」によって今までやって来たのだと思う。ある意味凄いね。

ところで、ネット上では何故か「タイーホ」と表記されるようです。これは元々どういった意味合いで使われていたのでしょうか?普通の「逮捕」と同じですか?


中々判らないことが多い、ネット世界でございます。



話題シリーズ20

2006年01月22日 17時30分26秒 | 社会全般
1)ホリエモンのこと

今は捜査の途中ですので進展を見守るしかありませんが、逮捕が視野に入ってきてるかもしれませんね。ホリエモンがニッポン放送株買収の時にとった戦術、それはまさに急襲作戦―Blitzkrieg―だった訳ですが、奇しくも東京地検特捜部の捜査開始も全く同じでした。もっともホリエモンがとった「ドーン・レイド」は朝で、特捜部は夕方でしたけれども。


ライブドア株の約6割が個人投資家と言われているそうです。つまり、現時点までに失われた約3800億円程度の時価総額分の約6割=2280億円程度は個人投資家が損失を抱えた可能性が有り得ます。掴んでしまった人達がきっといるんでしょうね。仮に1人228万円の損失としても、10万人が「やられた」ことになります。結構な数字ですね。他にもライブドア関連銘柄を保有している人々もいるでしょうから、そういう人達の損失を想像すると、かなりの数の個人投資家が泣いていることでしょう。今後の動向が気になりますね。


以前にホリエモンについて書いた記事は幾つかありましたが、私の考えは大体次のものに表されていると思いますので、参考までに挙げておきたいと思います。今でも考え方は変わっていません。


ライブドア第二幕の続きなど…
ホリエモンに政策はあるか
終わったな、ホリ○モン



2)消費税増税とか

この問題は過去に何度か書いてきたが、私の主張は「消費税を上げるべき」というものです。カテゴリーの「社会保障問題」のところに記事がありますので、そちらを読んで頂きたいのですが、再び要旨だけは書いておきたいと思います。

まずは、「無駄をなくせ」というのは多くの国民と同じ意見であり、そうした怪しげな部門への予算貼り付けなどをいくつか嗅ぎ回ったりしまして(笑)、それは記事にして参りました。これは今後も努力をしていくべきですが、政府側にも削減努力の跡が多少は窺えるようになってきています。諮問会議の中でも非常に厳しいやり取りを含みながら、何とか目標に向かって努力しよう、ということが出てきています。そこは一応評価してあげてもいいと思います。

で、財政再建ですけれども、大前提があるのですね。小泉流のワンフレーズで行けば、「成長なくして再建なし」です。まずは経済活性化と経済成長、これは再建の為の絶対必要条件なのです。その源泉は何処にあるかと申せば、「民衆の活力」に他ならないと思っています。その為には、多くの人々が意欲的に働けたり、生活基盤がある程度整えられることが必要だということです。

そのセーフティネットとして、社会保障改革が必要である、と申し上げている訳です。これは出来る限り、一定水準以上となることを確保することを主眼としており、年金も医療保険も労働保険も一律です。この財源は主に消費税となります。社会保障負担というのは実質的には税と同一と思ってもよいと思いますね。国民負担率というのは、計算上一緒ですし。多くの人々が誤解をしていると思いますが、消費税は「弱い個人からも、チマチマとかき集める卑怯な税」という見方があると思いますが、従来の社会保険料負担をゼロにして消費税を支払うことの方が有利だと思いますよ。従来ではその徴収も運営も個別の法制度で組織もバラバラで行っていたことが、一本化出来るのでスリム化にも繋がるし。もしも同じ額を払ったとしても、霞ヶ関の作り上げた錬金術組織に飲み込まれるのをかなり防げるようになるでしょう。それに、高額所得者というのは、社会保険料負担には上限があるのですよ。前にも書いたのですけれども、2千万円の給与所得者と1億円の給与所得者というのは、同じ年金保険料なのです。等級が最上位までいってしまうと、それ以上増えることにはならないのです。ですので、所得税を直接税率を上げないとしても、消費支出が多い人(通常は大金持ちで贅沢品を沢山買うような人々)には実質増税効果が期待出来るのです。


例えば、400万円もする腕時計とか2000万円もする高級車を買うという、年収1億円の人がいたとしますね。今は、年金保険も医療保険も最上位等級であっても、年間約120万円くらいです(ちょっと不正確かも)。この買い物(合計2400万円)に対する消費税は今は5%なので、120万円の消費税ということになります。社会保険料120万円と合わせると240万円ですね。ところが、仮に消費税が15%ということであれば、消費税額は3倍となり、360万円支払う事になるのです。社会保険料と合わせた額(240万円)より、120万円も多くなるのです。これは上限制がない為に、このようなことが可能になります。つまり、所得の多い人々は社会保障負担能力ということでいうと、現在は「リミッター」がついているので、最大支払額は決まってしまうのです。これは年金保険とか医療保険とか、そういう保険方式になっていることが主な理由になっていると思います。保険加入者に選択権を持たせるよりも、税として徴収した後で、必要な分野に重点的に配分した方が得だと思います。因みにこうした高額の買い物をする人は、年収300万円の独身8人が全額使い切った時に払う消費税額と同じになります。要は、8倍多く1人で払ってくれるのです。しかし、今の社会保険料制度であると、300万円の人が国民年金と国民健康保険加入であるとして、社会保険料を1人で年間約40万円くらい払うことになります(市町村により違いがあります)。大金持ちと僅か3倍しか開きがないのですよ?年収1億円の人と、年収300万円の人は、所得水準が33倍も離れているのに、社会保険料負担はたった3倍しか違いがないのです。


なので、社会保険料方式を止めて、沢山お金を使う人(=通常は金持ち)から税で徴収した方が得なはずだと思います。私が消費税を上げることを主張しているのは、そういう意味なのです。所得税は入ってくるお金(賃金)に税をかけますが、消費税は出て行くお金に税をかけるのです。この方式ならば、年収100万円の人が使えるお金は100万円だが、少なくとも年金を貰える権利や医療を受けられる権利は確保されているのです。大金持ちと同じように医療も年金も受けられます。この方が最低限の保障は得られると思うからです。勿論、従来のパート労働の人も、主婦の人も、正規社員の人も、受ける年金と医療の権利は同じにすることが出来るのです。それと、所得税だけに頼るにも労働世帯が減少していくので、多くの資産を持つ高齢者からはそれなりの負担をして頂くことが必要だろうと思いますね。海外旅行や世界一周旅行に何百万円も使える人も少なくないので、そうした方々からは負担して頂いた方がいいでしょ?今の税制ではそれは中々難しいのです。現在所得がある訳ではないですからね、そういう資産家達は。所得税だけでは取りきれないのです。使える額の多い人達に多く払ってもらうというのは、言ってみれば「応能負担」ということですね。年収300万円の人が(余程の借金でもしない限り)その何倍も支出したりは出来ないのです。こうした公平性の方がいいと思っています。金持ちは消費税率が高かろうが低かろうが無関係に買いますって。1億円のダイヤのネックレスの消費税が5%から15%になったところで、欲しけりゃ買うに決まっているんですから。この人が払ってくれる消費税額は従来の500万円から一気に1500万円にアップするんですよ!年収100万円のフリーター100人分と同じ消費税額を1人でドカーンと払ってくれるのですよ。所得税で1千万円アップしたら怒ると思うけど、消費税ならばその怒りは少ないと思うけどな。所得の低い人達にとって、社会保険料制度よりもはるかに有利なはずだと思っています。


企業の側から見れば、今後厚生年金保険料は毎年上昇し、18.3%まで上がることが決まっています。なので、事業主負担は9.15%というのは確定的なのです。そして、医療保険料もいずれ上げられるでしょう。老人保険導入や保険料率アップは今までにも何度もありましたが、これからもそれは覚悟せねばならないでしょう。従って、いつまで、いくらまで上がり続けるか判らない制度よりも、労働保険料も全部含めた社会保険料負担を税で行った方がいいのですよ。私の提言としては、社会保障税(他のネーミングでもいいんですけど)という形で企業は負担するべきということです。予想税率は概ね15~18%程度(現在でも既に15%くらい事業主負担があると思うが、不正確かも)です。福利厚生の充実している大企業には高い税率を、中小企業とかにはやや低い税率を適用するのがよい、と考えています。


現在は意図的に加入から逃れている事業所が数万箇所という規模で存在すると言われています。そういう隠れ事業所からも、きちんと税という形で年金も労働保険料も応分の負担をしてもらった方がいいのです。その代わり、従来の正規・非正規の枠組みで負担のあるなしはなくなり、給与総額などに応じて払って頂くことになります。その方が企業としても、従業員に対する差別的な罪意識(笑)を軽減できるはずです。今は業務内容がほぼ同じなのに、派遣には負担せず、正規社員に負担するというアンバランスが起こっていますからね。企業側は社会保障税は従業員全体にかかるので、正規非正規に関係なく支払わねばならず、従来の非正規雇用の「うまみ」の大半部分が失われますから、そういう区別というのはあんまり意味がなくなります。労働者にとってはそういう働き方の区別をされなくなるので、多い労働時間の人と短い労働時間の人といった程度の差しかなくなります(他の福利厚生には格差は存在しますが)。それでも従来のようにフリーターだからといって、失業して直ぐに所得全部を失うことはなくなり、安い賃金なりの失業給付は確保されるようになります。


民主党がマニフェストで書いていた最低保障年金というものにかなり近く、一元化によってセーフティネットをきちんとしましょう、ということです。この方式ならば、個人間の格差は少なく、かなり均等な社会保障制度となります。あとは、残ったお金を何に回すかを、自分の責任で選択する必要があります(従来のような社会保険料を納めないので、受給年金額は厚生年金よりもはるかに安くなる)。豊かな老後を目指すのであれば、やはり自分の為の年金などに加入して、計画的に積み立てておく必要があります。将来「アリ」さんの方が確実にお金をもらえることになる、という仕組みです。なので、努力したら、その分は報われます。酒販組合みたいに、納めた保険料が何処かにいってしまうということもある程度防げます。勝手にグリーンピアのようなものに使われたりするのも防げます(笑)。


こういうことなので、消費税率は少なくとも15%くらいは必要になるだろう、という風に考えています(一応、3段階の税率を推していますが。過去の記事をお読み下さい)。

「日本の、これから」の増税論議

2006年01月22日 03時32分16秒 | 社会全般
率直な印象―大企業と金持ちへの怨嗟が渦巻いていた。
非常に悲しい現状が改めて明らかになったような気がした。


最もまずかったのは、萩原博子氏を呼んだことだろう(笑)。経済ジャーナリストという肩書きだったが、「経済」は外すべきだろう。全くの無知といい加減な言説とアジテーションしかなかった。谷垣くんに噛み付くばかりで、ウソを並べ立てていた。これは前にも書いたのだが。彼女の主張の多くは、主に勘違いというか、無知によるものだったと思う。

室井さんも大変まずかった。彼女はひたすら感情的な意見しか言わないので、「税金で給料を貰っている人達が、まず泣いてみろ。そうじゃないと増税(消費税)は受け入れられない」ということを述べていた。ひたすら「板垣さん」を責めていた(笑、彼女は隣に座っている谷垣大臣を「板垣さん」と思ってそう呼んだのだった)。


萩原氏はひたすら「情報公開」と述べていたが、実際には財務省が公開している情報ばかりで、谷垣くんも「それは出ていますよ」と苦言を呈していた。本当に「経済ジャーナリスト」という肩書きであるならば、もう少し調べておくべきだろう。彼女は、自分が知らないことは「政府は情報を出してない」と決め付けていたが、本当は公開されている内容ばかりだった。それは私にさえ判るものであった。まあ、人選ミスであったとしか言いようがない。

谷垣くんは「山口先生の仰ったことが大事で・・・」と山口二郎北大教授しか相手にしてなかった(笑)。元大蔵官僚の村尾教授(だったっけ?)は、殆ど大蔵側(今は財務省ですけど)の弁護に回っていた(笑)。


私もそうだが、外からしか行政を見ていないので、不満の方が多く出てくるのだが、本当は個人でもある程度知ることは可能だ(ちょっと時間とか労力とかは必要なのだが)。国民の多くは情報を持っていないので、正しい道筋に沿って考えることが難しくなっているのだと思う。メディアの論調にしても、肝心なことや正確な情報提供ということに問題があるだろうと思った。知らないということが、多くの誤解を生んでいるのだな、と。実際に、あれこれ調べていくと、行政って非常に複雑だもんね。


普段の生活の中で、地方とか自治体とかの身近な行政に、各個人がそれぞれどんな形でもいいから関わっていかないと、理解を深めるのは難しいかもしれないと思った。一般参加者の中でも「ガラス張りの行政」という意見があったが、隠されている情報もあるが、本当は調べると多少は判ることもあるのに、単にそれを知らないだけということもあるだろうと思った。私もそうなのだけれど。それでも、ブログを書くようになってからは、公開されている情報を見つけて、オカシイと思う部分を少しは探せることもある、と思うようになった。何度か書いてきたが、行政の情報開示は随分と良くなったと思うよ。


多くの参加者達の意見としては、特に消費税に関しては「これ以上の負担増には耐えられない」というものであり、その一方では「安心できる社会」を求めているのだが、現実問題としてその「安心」をどうやって確保するか、ということへの理解は少ないと思った。そりゃそうだよね。私もそういう傾向はあると思う。けれども、誰かが財源を負担しない限り、そういった保障は受けられないのだけれど。大昔にあった「資本家」と搾取される「労働者」という対立を見た思いがした。多くの低所得者達は自分が払っている負担額よりも受益の方が多いのだが、そういう実感は少ないのだと思う。出てくる意見は「苦しい」「生活出来ない」「死ねといっているのと一緒」という厳しいものが相次いだ。あと、多かったのが「誰が借金を作ったのか」「責任者を出せ、責任者を」というものだった。これも心情的には理解できるものだったが、反面、誰かを吊るし上げて溜飲を下げたところで借金が減ることはないのだ。悲しいかな、問題が解決する訳でもなく、楽になれる訳でもないのだ。勿論責任所在を明らかにして、その追及をすることも必要なことかもしれないが、私達国民にもその責任の一部はあると考えざるを得ないのだ。身近な部分から、国民がいつも行政に関心を持ち、うるさく口出し(笑)をしていかないとダメだ、ということなのだと思う。


国民の願いとしては、やはり「医療」「福祉」「介護」「教育」等には、「きちんと配分して欲しい」ということだろうと思う。それはきっとそうだろうな、と。だが、そういうものをタダで受けられる訳ではないので、冷静に考えることも必要だろう。多くの否定的意見の方々には、「大企業」や「大金持ち」といったところが一般庶民からゴッソリと搾取している、という潜在的な批判が存在しているのだと思う。きっとそういう面はあるだろうね。メディアで報道されるように、公務員の天下りでいくつも渡り歩いて金を引っこ抜いていくという実態を聞けば、「公務員がそんなことをやっているのに、何で国民が金を払わねばならんのだ」と怒る気持ちは理解出来る。私もそう思っているしね。でも、そういうのを全部なくしたとしても、国民が負担せねばならないものは残るのだから。「困っている人を助けましょう」という気持ちは同じだが、自分がその出資者となるかということになった時には、実際には多くの人が反対しがちだ。


今後行政の最も重点的に行うべきは、「正しい情報」を判りやすく国民に伝えることだと思った。多くは誤解から生じているような気がした。メディアに対しても、正しい情報提供を頻繁に行う努力をしていく必要があり、国民との情報格差を埋められるような努力が必要だろうと思った。萩原氏は典型的な例だろう。彼女に理解出来る程度には情報を提供する必要がある、ということだ(笑)。そういう面では、メディアももうちょっと頑張ってもらった方がいいね。議論を深めていくことは大切だが、その前提というか準備段階での問題がまだ多いのかもしれない。

大体こんな感想でした。



格差拡大論争

2006年01月21日 18時46分12秒 | 社会全般
朝日新聞が早速反応した模様ですね。内閣府もそれなりに、「小泉政権になってから、拡大したという訳ではない」というのを示したということのようです(笑)。

asahi.com:所得格差の拡大「見かけ上の問題」 内閣府が否定 - 暮らし

記事より一部以下に抜粋。

厚生労働省の所得再分配調査による同係数は80年の0.32程度が01年に0.38程度になるなど上昇傾向だという。だが、年齢別の係数分析や単身世帯を含まない所得統計の分析から、元来所得格差が大きい高年齢層世帯の増加や、核家族化の進行で所得の少ない単身者世帯が増えたのが上昇原因であって、所得格差の拡大は見かけ上のものだ、と内閣府はみる。その見解を5ページの文書にまとめ、19日の月例経済報告の関係閣僚会議に提出した。

所得格差の拡大をめぐっては「小泉政権の経済改革が加速させている」「生活保護世帯の増加や自殺者の増加を招いている」「低所得者層の教育機会が奪われている」などの指摘があり、政策論争の題材にもなり始めている。

経済協力開発機構(OECD)が04年発表した加盟国のジニ係数では、日本は0.314で、平均の0.309を上回った。日本より不平等な国はアメリカなど数カ国しかない。


「日本より不平等な国はアメリカなど数カ国しかない」と、厳しく非難されていますね。まあ、これも理解は出来ますね。ですが、朝日新聞の記者氏も、まずは月例報告に書かれている内容をよく読んでみた方がいいですね。別に「格差がない」と主張している訳ではなく、「ここ数年で格差が拡大した」という客観的事実は見出せないということを取り上げていると思うが。それでも、社会的問題が消えて無くなる訳ではなくて、それについてはきちんと問題として存在することが提起されており、こういう一部分だけを報道するというのもちょっとフェアではないと思うね。

雇用問題、若年層や高齢層の問題とかは、内閣府の中に専門の部署を設けて取り組んでいるのだから、記者氏につっこまれなくても内閣府ではよく知っていると思いますよ、多分(笑)。


橘木先生のコメントを持ってきて、「どう考えているのか」という専門家の意見をぶつけるのは結構だが、大竹文雄先生(因みに囲碁のプロ棋士は大竹英雄先生です。本を何冊か持ってます。笑)とかのような解釈もあるので、専門家の中でも意見は部分的に分かれているのです。それでも、誰も「問題を解決しなくてよい」などとは考えていないのだから、無闇に国民の将来不安や不満を煽り立てる報道などは逆に良くないと思う。


『下流社会』で有名となった三浦氏は、他の雑誌だったかに、今度は「団塊ニートだ」と勝手なことを書いているらしいし。読んでないから詳細は知らないが(見出し広告を見た)。定年退職後に、団塊世代が「ニート」になっちまうんだそうですよ。こういう「ニート」という語感は、明らかに意図的に「差別用語」として誌面を飾ってる訳ですね。こういうことはメディアがやっているし、それに便乗する人々も次々と現れるのです。誤用を恣意的に行って、差別を助長しているんじゃないか。


「格差」「不平等」「不公平」「這い上がれない」「下流」「下層」とか、大体がそういう”不幸な”論調なんですよ、全体的に。連想されるのが、悲惨・暗い・不安、そういうマイナス面ばかり。


なので、内閣府では「そういう格差拡大は否定的」ということをわざわざ発表せにゃならんのですよ。国民への誤解を植えつけるメディアにも責任があるのです。コメントを取るのが橘木先生じゃなくて、もっと他の人だったらどうでしたか?一方からだけの意見を載せるのは、これこそ「不平等」じゃないですか。別な論者も併記するくらい出来るでしょ?


労働問題とか社会保障問題とか、色々絡むけれども、それぞれ政策的に解決方法を模索しているのだから、国民には出来るだけ正しい情報提供をすることが望ましいと思うが。



米国牛肉輸入停止

2006年01月21日 12時08分46秒 | 外交問題
再開したばかりで、いきなりの緊急停止措置となったようですね。これには、米国も「ギャフン」でしょう。ある意味、「うまくいった」ということも出来ます。


再開前の状況では、米国側のイライラ度は頂点に達し、米国議会議員達の報復措置を含めた強硬発言が相次いでいた。強力なロビイストが圧力をかけ、それが奏功してたかのように見える。そして、米国政府にしても、日米首脳会談での「成果」を持ち帰らなければならなかったことを考えると、ブッシュに「手土産」を持たせない訳にはいかなかった。従って、「輸入再開」は必然であったとも言える。ここで、無駄な反発をして、摩擦を引き起こすことは日本にとっては得策とも言えないからである。


日本政府としては、「OKサインは出しました」というポーズが必要だったのであって、「ルール」は別だ、という姿勢は貫いた。農水省あたりの頑張りだったのか、他の誰かが頑張ったのかは判らないが、一応「20ヶ月」だけは守った。そして、輸入再開となったのですが、米国のバカがまんまと「罠」に引っ掛かったとも言えるでしょう。日本は「きちんと『ルールを守る』ならばいいですよ」と折角言ってあげたのに、米国はむざむざと自分で地雷を踏んでしまったという訳だ。米国人の土俵で勝負してあげたのに、彼らは自らそのルールに足をすくわれたのだ。


私の個人的印象では、米国人の多くが好む傾向というのは、「fair」であることだと思っている。そして、決まったルール上では、「不正」が嫌われる(勿論、大なり小なりあちこちで不正はあると思うが)。アメフトでの不正なプレーというのも、同じく罰せられる(何だったかな、複雑なんだよね、ルールが。見ててもよく判らないことが多い。でも「illegal play」みたいな感じで反則になるよね?)。そういう国民性があると思っている。過去を振り返ると、日本が時として非難を受けやすいのは、「日本はルール違反なんだ」ということを米国人はしつこく強調してきたと思う。


そういう状況で、日本も「ルール遵守なら、いいですよ」とGOサインを出してあげたのだ。それなのに・・・・、米国人の間抜けっぷりに、自ら「ルール」を破ったことを露呈してしまったのだ。こりゃ、一本取ったね、と言わざるを得ないだろう。日本への不満も圧力も意味がなく、「自分の足元をまずちゃんとやれよ」と言われる事は米国側がよく知っているはずなのです。従って、まずは米国国内での厳しい検査体制とか除去作業とかの見直しなどを迫られることとなり、「ルール」を破った連中は処分されるだろう。「ルール」重視の彼らの性格を逆手にとった(ただの偶然だけど)、ある意味うまい「輸入停止措置」なのだ。これで日本は胸を張って、米国から何の文句も言われずに、「残念ですね、折角輸入出来ると思って喜んでいたのですが、これでは停止措置とするしかありませんね」と言う事が出来るのである。あとは、「早く日本の消費者の信頼を回復出来るように、米国での厳正な管理・検査体制をお願いしますね。でないと、輸入再開できないですよ。牛丼屋も困っているんですよ(笑)。今後決してこのようなことがないように、お願いしますね(冷淡)」とガツーンと言ってもいいのである。「ルール」を重んじる彼らは、「ルール」には弱いのである。

Yahoo!ニュース - 時事通信 - 容認できぬ失敗=BSE検査を強化-米農務長官

記事より一部抜粋します。

長官はこの中で「容認できない失敗だ」と遺憾の意を表明。日本などに対する輸出向けBSE検査を強化する考えを示した。同長官は「米国は深刻に受け止めている」との認識を示した上で、加藤良三駐米大使に「極めて残念だ」と伝えたことを明らかにした。


いつも強気な彼らでも、このような弱い発言にしかならないのである(笑)。いつものトーンに比べて、やけに弱腰じゃないか、と思う。再開前の、「こちらにも考えがある」とか「日本に報復的措置を考慮すべき」とか、そういった声は封殺されたと言えるのではないか。


輸入停止措置は悪い面が主に強調されると思うが、そうでもない面もあると思っていい。米国にとっては、「fairではない米国」というのが、耐え難いものなのである。そこを鋭く衝いていく方策が、最も有効だろうと考えている。



ミス事例のデータベース

2006年01月20日 15時55分01秒 | 社会全般
面白いので、紹介したいと思います。

JST失敗知識データベース > 失敗事例 > 設計ミスから市民会館アリーナの屋根が自重と積雪で崩壊


因みにアメリカの「9.11」事例も載っています。これと似てる事件は、1945年7月、あの有名なエンパイアステートビルに激突したB25の事件です。この事件も、データベース検索で知りました。79階に激突し、ビル火災となったんだそうです。へえ~、へえ~・・・・。詳細はご自身で検索して読んでみて下さいね。

因みにB25(ミッチェル)は映画「パールハーバー」にも出て来た有名な爆撃機です。物語の中では、空母ホーネットに載せて行き、中国大陸の日本軍基地に爆撃するというものでした。燃料切れで不時着してしまいましたよね。


史実としては、昭和17年4月に東京初空襲を行ったことで知られている(本当にホーネットから発進してきた)。作家の吉村昭氏は当時西日暮里あたりに住んでいて、この爆撃隊を目撃したそうだ。吉村少年が見たとされるのは、隊長機であったドーリットル中佐機だったのではないか、と言われている。また、伊藤整は当時杉並区に住んでおり、地上200m位と思われる「超低空」を飛び去るB25を目撃したと書いているらしい。


また横道に逸れてしまいました。

選んだ事例は1978年とかなり古く、結構昔から人間のミスってあまり変わっていないんだなー、と思います。このようなミスの研究をしていくと、考えるべきことが色々と出てきそうな気もします。耐震強度偽装問題はこの事例とは多少趣きが異なっているとは思いますけれども。

この事例の中の「社会への影響」という項目を見ると、「ずさんな建築事情に人々はショックを受けた」とあり、今の日本の騒動と全く一緒ですね。まさにこの通りだろうと思います。



それから、全く無関係ですが、落合先生と溜池通信のかんべい殿が共に紹介していたのが、「堀江の拳」だった。

見ましたよ、勿論。
凄く笑えました。