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続々・賃金に関する論議~池田氏の批判は本当なのか?

2007年02月16日 21時08分41秒 | 経済関連
以前に触れたが(参考記事、経済学の理論は世の中のことを何でも正確に説明できるわけではない。置かれている仮定、前提みたいなものが必要なのであり、実際の現象というのは理屈通りではない部分もある。そういうことを念頭に話を進めるのが普通だと思う。言うなれば、「エネルギー保存の法則が成り立つのだから、雨滴に頭をブチ抜かれる」みたいな話を信じてるのでしょうか?(笑)


また、ある例を考えてみましょう。
世の中にある金属を採掘する仕事しかないとします。で、「監獄島」というところでは全て人力で掘っているとしましょう。労働者たちが頑張ってもあまり大量に生産できないので、賃金は一人当たり100ギルだとしましょう。この島では労働者たちが生存する為に、必ず80ギルの「生存キット」を購入しなければならないものとしましょう。「生存キット」というのは食糧等の最低限生き延びる為に必要なものです。全員が買うとしますか。すると、賃金は100ギルですが、生存キット購入に80ギル使ってしまうので、残りの使えるお金は20ギルしかありません。

この監獄島に突然売春婦が降って湧いたとしましょう。彼女達は労働者たちの相手をして稼ぐことにしました。彼女たちの価格は、1~20ギルの範囲に収まるでしょう。労働者1人が使えるお金は20ギルが最大だからです。なおかつ彼女たちが生き延びる為には最低限「生存キット」と同額以上を稼がねば死んでしまいます。80ギル以上の売上が必要です。売春婦の価格が需給で決まるでしょうが、この時の価格交渉はどうなるでしょうか?少なくとも、次のルールを知っている、ということになるんじゃないでしょうか。

①労働者1人当たりの賃金
②生存キットの値段
③他の売春婦たちの価格

中には飛びっきりの上玉で、20ギル払ってもいい、という労働者たちが続出するような人もいるかもしれませんし、ブス過ぎて「ブス専」みたいなマニア系以外からは全然稼げない人がいるかもしれません(笑)。それは正確には判りませんが、もしも全員同一条件であればみんなある「価格」に落ち着くことになるでしょう。そして彼女たちの稼ぎは、80ギル以上の大体決まった水準になるでしょう。ここにとんでもなく高い、高級コールガールみたいなのが現れても、商売にはなりません。「最低1000ギル払え」とか言われても、誰も払うことができないからです。こういう売春婦は「撤退」となりますね(笑)。


同じく金属を採掘する別な島があるとします。「ピッチブラック島」とでも名付けますか。この島では強力な「採掘マシーン」があるので、先の監獄島みたいな生産力ではなく、もっと稼げるとします。で、この島ではマシーンのオペレータだけが必要で、監獄島よりも少ない人数で済むはずですね。まあ、数はどうでもよいが、彼らには1人当たり1万ギルの賃金(監獄島の100倍だ!)を払っているものとします。もしもこの島に売春婦が降ってきたらどうなるでしょうか?売春婦たちが知っているのは、「ピッチブラック島」での①~③であるとします。生存キットの値段が同じ80ギルであれば、オペレータたちは9920ギルを自由に使うことができるので、売春婦の価格はそれなりに高くなってしまうかもしれません。

監獄島とピッチブラック島での売春婦の価格差というのは、何故生じてしまうのでしょうか。サービス内容(笑)が同じで、両方の島で売春婦には全く違いがないとしても、恐らくピッチブラック島での価格の方が高くなってしまうでしょう。それは、賃金水準の違いによると思います。結果的に、ピッチブラック島での売春婦の方が生産性は高いということになるでしょう。売春婦が島外からどちらかに自由に行けるという時、予め両方の島の条件①~③を知っていれば大半がピッチブラック島に行くでしょう。その方が多分稼げるからです。供給がかなり過剰になっても、監獄島に行くよりはマシと思うからですね。競争力のない「ブス」は監獄島に行って独占的に稼ごうとしたりするかもしれませんが(笑)。ピッチブラック島では、監獄島では営業不可能であった、1000ギルの「高級コールガール」も登場可能でしょう、きっと。売春婦に固有の生産性というのは、果たしてあるのでしょうか?売春婦の「絶対価格」なんて存在しないのではないかと思えます。

この2つの島での売春婦たちの数とかは無視していますが、現実の社会では人間がいきなり降ってきたり、仕事にあぶれたからといって無収入でも構わない、ということにはなりません。限界原理というのは、失業して無収入になってしまった労働者とかが「生き延びる」ということを想定していないのではないでしょうか。現実の社会というのは、労働供給が過剰になったからといって、その労働者たちを「消し去る」わけにはいきません。生存の為のコストは必ず誰かが負担しなければならないのです。賃金ゼロの労働者は「消えてなくなったりはしない」のです。2つの島の売春婦のように、「別々な労働市場」に分断されている場合も多いと思います。島を移動できなければ、監獄島の売春婦とピッチブラック島の売春婦が寸分違わず同じであるとしても、「別々な価格」ということになり、稼ぎの格差を生じるでしょう。それが現実の社会なのです。国際競争も生産性も無関係に、売春婦の稼ぎは違ったものとなるはずです。新幹線で車内販売されてる缶ビールがバカ高く、量販店では安いのと違いなどないでしょう。現実世界では、マーケットは分断されていたりするし、同一の競争市場なんかではないことは多々あるのです。


補足として、次の資料を挙げておきます。

産業構造変化とその見方

(以下に一部引用)

経済全体の労働生産性は、各産業の労働者構成比と労働生産性という2 つのベクトルで示すことができる。これを簡単な式で示すと、1 国内における全産業の付加価値総計、労働者総計をそれぞれY、L とし、各産業の付加価値、労働者をそれぞれ Yi、Liとすると、全産業の労働生産性は次のように表される。

全産業の労働生産性Y/L=∑(Li/L)・(Yi/Li) ……(1)

一般に、産業間には生産要素の資本集約度や技術特性などに起因する生産性格差が存在する。したがって(1)式は、労働者による産業間シフトが経済全体の生産性の決定に重要な意味合いを持つことを示している。

この「経済成長と産業構造変化」の関係を部門間労働移動の観点から説明するモデルとして、Lewis[1954]、Fei and Ranis[1964]らによる「二重経済モデル」がある。このモデルは過剰労働力を抱える「伝統部門(主に農業)」と、利潤最大化原理に従う「近代部門(主に工業)」という 2 部門(二重経済)から構成され、低生産性の伝統部門から高生産性の近代部門への労働力シフトにより経済全体の(労働)生産性が上昇することを極めて説得的に描写している。このモデルにはいくつかの特徴があり、そのひとつが伝統部門における「過剰労働力(Surplus labor)」の存在である。ここで過剰労働力とは限界生産性が実質賃金を下回る水準にある労働力を指す。この存在により、伝統部門では限界価値生産性が最低生存水準を下回り、通常の経済主体のように限界価値生産性と等しいところで賃金を決定することができない。

そのため、伝統部門では「コミュニティーの原理」により平均生産性に等しい賃金を設定し、近代部門ではそれに若干の上乗せした賃金で伝統部門から労働力を無制限に引き抜くことができる。さらに近代部門では、低賃金コストのために大量の利潤を創出することができ、その利潤を資本投下することにより大量の雇用吸収が可能になる。このとき伝統部門では過剰労働力が減少するため(平均生産性に等しい)賃金が上昇し、それに伴って(伝統部門賃金に若干上乗せした)近代部門の賃金も上昇する。このような労働需給の変動の結果、この経済の主要産業が伝統部門から近代部門にシフトし、それに伴い持続的な経済成長を実現する、というのがこのモデルのストーリーである。



このモデルでの説明で、池田氏の述べていた意見は否定的であろうな、と思います。



追加ですけれども、また池田氏はTBを削除したようだ。この記事の何がマズイのだろうか。批判だから?(笑)

「絶対に許せない」というタイプが私の記事なんだろうか?
非礼は詫びるけれども、実際のところ「どうなのか」ということを真剣に考えたり、探求したりできないということを残念に思う。どうしてそれほど現実の経済や現象について考えてみることを拒否するのか、過去の研究成果なんかを否定するのか、私には理解できない。違うならば違うという意見を出せば済むことなのに。


こうして書いた記事も、ある種の自己満足でしかないのだね。ふと考えると、そうなんだな、と思った。他の経済学とか研究していたり、詳しい人々というのは、どう考えているのか知りたいところだ。




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