レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

アンの翻訳 子どもの物語

2011-09-28 05:15:34 | 
『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』 村岡恵理  新潮文庫

 『赤毛のアン』等の翻訳で知られる村岡花子さんの、孫による伝記(厳密には、姪で養女の娘)。
 父親は貧しい茶商人だったけど、長女はなの賢さを見込んで、東洋英和女学校に給費生として入学させる。カナダ人婦人宣教師の多いこの学校で、彼女は英文学に親しみ、家庭文学の大切さを強く感じる。
 戦争へと向かう時代に、帰国していく教師から託された『グリン・ゲイブルスのアン』を、戦時下に訳し続けて、昭和27年、ついに出版。この時、花子さん本人は『窓辺に寄る少女』という題を考えて、社長の『赤毛のアン』を一蹴したけど、養女みどりさんが『赤毛のアン』がすてきだと言うので、若い人の感性を信じることにしてそれを採用したという。--それで成功だったな。のちに『少女パレアナ』(E.ポーター)として出る作品が当初『くり毛のパレアナ』だったというのはその前例のせいだろうか。
 同じモンゴメリの『エミリー』の1作目は、あとで『可愛いエミリー』になるけど最初は『風の中のエミリー』だそうで、これは『風~』のほうが良かったと私は思う。
 東洋英和で、のちの柳原白蓮と親交を結んでいたというのもたいへん興味深い。波乱のある時代背景で有名人もちらほらと出るし、女たちの地位向上を目指す志も旺盛だし、夫との大恋愛もあるしーーこれはぜひ市川ジュンさんに描いて頂きたい、あの人も『アン』好きだし。
 激動の時代で、著名人たちが出てきて、女の自意識も濃厚に出ているという点で、田辺聖子『ゆめはるか吉屋信子』にも通じる点のある本だ。


『ふしぎなふしぎな子どもの物語  なぜ成長を描かなくなったのか』 ひこ・田中 光文社新書

 ゲーム、ドラマ、アニメ、マンガ、文学、さまざまな子ども向けメディアを、そこで「成長」がどう扱われてきたかを中心に考察している。
 私は筆者よりはだいぶ年代は下だけど、小学校にあがる年に『帰ってきたウルトラマン』と『仮面ライダー』が始まったし、女の子ものでは『サリー』『アッコ』『アタックNo.1』になじんでいたので、うんうんそうだった、と頷く部分やら、へ~そうだったのかと驚くこともあって、懐かしさも込みで楽しく読んだ。
 こういう本は、自分自身の思い出をたどることとも容易に結びつくので、純粋な(?)感想としてここに書くことはわりあい難しいものだと思う。だから、いまはまず、興味深いと思った指摘について述べておく。
「アニメ(女の子編)--魔法少女」の章での「女の子ものはなぜ後回しにされるのか」、子供向け番組で、女の子用の出てくることが遅れたことに関して、「現場の作り手の多くが男だったからです。彼らにとって、自信を持って想像できる子ども像は男の子であり、それを描いて物語を作り、男の子に届ける方が計算しやすいし、簡単だし、抵抗もなかったのでしょう」
  私はかねがね、人間の標準、座標軸を男の側に合わせてあることを不当であると主張しているのであるし、上記のような後回しも差別の一種だとも言えるが、このように説明されると、モト男の子としては女の子に受けるものがわからなくて、という素朴な事情もなるほどあるかな、と少しばかり悪意でなくとることができた。
「ちなみに90年代のデータですら、日本の放送局社員に占める女の比率は9%、管理職にいたっては0.4%で、世界でも最低ランクにあります」  では、男職員がどうにか女の子ものと苦闘しているのだろうか。
 「『セーラームーン』の新しさは、それが少しも新しくなかった点にあります」ーー『紅一点論』でも、男の子向けの枠組みに、女の子向けのディテイルをはめ込んだことがウケた原因だと解釈していたっけな。
 『プリキュア』を私は見たことないけど、恋愛より友情に傾いていること、太ももやパンチラではなく戦っていることなどで『セーラームーン』から一歩踏み出しているーーという指摘で興味が湧いた(とはいえ、私がいまからああいう世界に首つっこむのはかなり辛いが)。
 ついでに思いだすこと。『セーラームーン』放映当時、新聞に、見ている女の子の母親から投稿があった。曰く、登場人物の日常が恋愛中心過ぎる、原作は子供向けではないのかもしれないけど考慮してほしい。私はそれに対して、--逆だろう、マンガは子供向け雑誌の掲載で、アニメのほうがもっと上の年齢層まで意識しているんだろう、と思ったものである。よくある謎本の『セーラームーンの秘密』では、マンガは恋愛中心、アニメは友情中心だと書いてあったけど(これはまだ全体の半分くらいまでしかいってない時期だった)、私はむしろ逆だと思う、少なくとも全部読めば。セーラー戦士たちのプリンセスやクイーンに対する強い愛と忠誠、男の介入する余地のない団結は、アニメよりもマンガのほうでラディカルだ。
 この本、『紅一点論』を面白く読んだ人にもお勧めである、いくつかの同じ作品も別の視点から論じられているし。
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いつのまにかたまっているもの

2011-09-25 05:22:01 | 雑記
 財布の中のレシート。なんの反省も計画もしないけど出費メモはつけている。本屋のレシートを数日経ってから見て、なにを買ったのか思い出せないこともある。

 家の中のホコリ。言ってもムダだけど、お札を放置しておいたらこんなに子孫がわいてくれるならいいのに、と掃除機をかけるたびに思う。

 メールのごみ箱。一部の広告なんて見ないで削除するし、「下書き」で不要になったぶんも移すし、しばらくほっておくと、わっ、と思う数になってしまう。
 きのう、一部の人だけのアドレスのほうを整理がてらまた読んでみたら、うちの前を通過する可愛い犬の散歩について、2008年のメールに既に言及があった。
 それにしても、あほらしいことをかなり書き送っていたものだと我ながら思う。
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10月のコミックスと『公爵様』と『マンガ描き』

2011-09-22 11:02:14 | マンガ
10月の発売リストを見て、私の購入予定は、
伊藤真美『秘身譚』2
『聖おにいさん』7
たぶん、木原敏江『伊勢物語』文庫
かつて「歴史ロマンDx」でやっていた佐久間智代の平家物語シリーズが、ホーム社コミック文庫で出る。大河便乗は明らかだけど結構ではある。
 『Z』が「完全版」として出るのも多少気になっている。  HCの1巻のあたりは、『エロイカ~』共々、最高の時期だった、絵もきれいだし。


黒川あづさ『公爵様とわたし』 ハーレクインコミックス・エクストラ  A5サイズ
 HQのコミックス(広い意味で)も、HPが原作でないものがけっこうある。古典扱いのジェーン・オースティンとか、映画『ローマの休日』も含んでいるし、オリジナルもある。
 この『公爵さまと私』も、主に四コマで黒川さんオリジナル。
 「ヨーロッパ西部の某国」・・・ってドイツか英国を意識しているだろう、ネーミングや画面の新聞記事からすると。 その某国の若い公爵ウォルフがいつまでも独り者なので、父がお節介して、金髪巨乳女キャサリンを執事として押し付ける、しかしウォルフは道楽でやっている老人ホームで楽しくやっている模様、そのホームにキャサリンものりこんでみると、すっかりアイドルのゴージャスなメンバーがいた。
  ハーレクインの枠でやっているのだから、もちろん男女のハッピーエンドでロマンスの基本はおさえてあり、そこも読ませる。
 そのうえ、作者のシュミも全開で、『バングラデシュで玉の輿』で書いていたインド映画からの影響もはいっているのだろうなと(あとがきで書いてなくても)思わせるし、JUNE以来のノリもやはり健在。
 ところで、Wolfgang Müllerならば、「ミュラー」であって、ミューラーと伸ばさないのが正しい、ドイツ語の標準規則ならば。Stollenがシュトーレンではなくシュトレンであるのと同様。 まぁ、「某国」なんだからそう目くじらたてることもないけど。だいたい、バレンタインデーに女がチョコ贈ることになってる点からしても、考証は敢えて外しているんだろうし。『ペパミント・スパイ』みたいなものか(あれは、人の名前が英語で王室があって野球があってお節料理があるという国だった)。

ヤマザキマリ『世界の果てでもマンガ描き』②エジプト・シリア編
 作者マリさんは、「私の中の兼高かおる」と自らの旅行欲を表現していたけど、その夫ベッピーノさんも、興味の赴くままにカイロへダマスカスへと留学・引っ越しを繰り返していて、ずいぶんフットワークの軽い人ではなかろうか。もし、「ぱふ」(休刊だそうだが)のベストテンに応募するならば、「助演男優賞」はこの人に投票したいくらいのものだ。
 「ベッピは幼い時から 怒ったり緊張したりすると激しい腹痛を催す性質なのでした・・・」--この人、アウグストゥスに親近感持ってないだろうか。部屋に貼ってあった皇帝ブロマイドの顔ぶれが知りたい。
 いちばん笑ったのは、ぼったくり避けのためにタクシーで陰鬱な演技をするシーン。
 私はJALしか使ったことはなく、要ったことのある空港は羽田と成田とデュッセルドルフとフランクフルトだけで、それらも覚えているとは言い難い。あれこれ比較批評できる人たちはすごいなぁ。
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ヘンな分冊

2011-09-20 11:04:03 | 
『謝罪代行社』 ゾラン・ドヴェンカー ハヤカワ文庫 上下
 今月の新刊。私は、ドイツ産のエンターテインメント(SF以外)が文庫で出た場合にはたいてい買っている。
 若い男女4人が、仕事上のトラブルの「謝罪」を代行するビジネスを始めて成功するが、ある依頼によって現場に向かうとそこには異様な死体があった。
 語りが変わった形で、「おまえ」「わたし」「いなかった男」が誰なのか、○○が誰なのか、二度読んでやっと納得、わかれば味が増す。
 「第一部」から「第八部」まであり、下巻を開くと「第四部 (承前)」とある。私はそもそも、この「承前」というものが嫌いだ、少しくらい巻ごとの厚さに差があってもいいから、まとまりのいいところで切ってくれよ、と思うタチだ。  するとこの下巻、10ページとしないでその「第四部」が終わった・・・。

佐藤賢一『小説フランス革命』 集英社
 単行本が出てからたいして経ってもいないのにもう文庫化か。
 まあそれはおいといて、単行本での『Ⅰ 革命のライオン』『Ⅱ バスティーユの陥落』を文庫では三分冊にしている。文庫のⅠが『革命のライオン』、来月出るⅡが『パリの蜂起』、たぶんⅢが『バスティーユの陥落』なのだろう。まあこのタイトルは妥当だと思うけど。 でも、文庫のⅠは230ページくらいなのだ、これが単行本の3分の2冊だとすると、もとの1冊を文庫にしたって350ページ程度だということになる。このくらい1冊ですませてかまわないし、そのほうがすっきりするんじゃないのか? 『ローマ人の物語』と張り合ってるなんてわけもあるまいが。(『ロマ物』だって薄すぎだとも思う、たいていの巻は3分冊だけど、上下で充分だったよ)  
  まだ読んでないので分冊の話題だけ書いておく。

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「コモドゥスと同名の悪帝」

2011-09-18 06:09:46 | ローマ
私がPCを開いてまず出てくる画面はMSNである。そこのニュースでこのまえ目にしたものから少し抜粋。
2011年9月14日 14:39 (ナショナルジオグラフィック)
巨大グラディエーター養成所跡を発見
オーストリアのウィーン近郊で、古代ローマの巨大な剣闘士養成学校の遺跡が見つかった。大規模な複合施設で、ローマのコロッセオ周辺の養成施設に匹敵する。

養成学校はおそらく、隣接する1万3000人収容の円形闘技場と同時に作られている。円形闘技場はマルクス・アウレリウスがローマ皇帝だった西暦150年ごろに建設されたもので、1920年代と1930年代に発掘された。

 アウレリウス帝はカルヌントゥムに滞在したことがわかっており、その息子コンモドゥス(2000年の大作映画『グラディエーター』に同名の悪帝が登場)が剣闘士の試合を初めて見たのは、ここカルヌントゥムだった可能性がある。

抜粋終わり。
 ローマ遺跡はあちころにあるものだなあという感慨が生じる。

 ところで上記の文章で気になったのは、「コンモドゥス(2000年の大作映画『グラディエーター』に同名の悪帝が登場)」の部分。『グラディエーター』に悪役として登場、ですまされそうなものなのに、「同名の」にしてあるのは意味があるのか? 史実から激しく捻じ曲げた部分があるので、あんなのは歴史上のコモドゥスとは認めないぞ、という意思の表明だろうか、それならばそれで中々面白いと思うが。だいたい、コモドゥスの姉ルキラが、実際にはかなり愚かな女なのにヒロインとして駆り出されているあたりにも抵抗がある。(映画には「ヒロイン」が不可欠だと多数派が思うのだろうか、ヤローだけでは見せるに苦しいのか?) 同じ時代を扱った『ローマ帝国の滅亡』もそうだったしな、あれは後味悪くて嫌いだ、映画としての面白さは『グラディエーター』のほうが上だと思う。

 この「同名の悪役が登場」という説明はあちこちで使えそうだ、ある種の言い訳としても。

 10月は『秘身譚』2巻が出る。
 あれも、暴君の暗殺から始まり、やがて別の愚帝が出てくることになる時代なんだな。

  光文社文庫から、『密偵ファルコ』が長いこと出ていないのが気にかかる。たしか全20巻の予定だと書いてあった、だとするとあとわずか?
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ミスユニバースからどんどん脱線

2011-09-15 05:17:26 | 地理
「ミス・ユニバース」の今年の結果は、1位がアフリカのアンゴラ代表、2位がウクライナ、3位が今回の地元ブラジルだというニュースをネットで目にした。この中では私はウクライナが好みだ。ウクライナといえば、「えらい人が美人でごめんね」という『ヘタリア』でのセリフを思い出す。行ったこともないしつきあいもないが、元ソ連やら旧ユーゴやら、バルト諸国とか東欧とか、あのへんはキレイな人が多いというイメージがある。
 ブルガリアほど美人の多い国は知らないと書いていたのは逢坂剛さんだったろうか。
 ヨーロッパ一の美男の産地はユーゴだとかつてギリシア人の友達が言っていた、とは米原万理さんのエッセイに出てきた。
 あ、少しは自分で知ってるのはポーランドの数か所、通行人の若い人々を観察すれば、「きれい!」「ハンサム!」「かわいい!」の連続だった。
 ところでミスユニバースといえば、2007年に日本人がなったけど国内の反応は芳しくなかったものだ。そのあとは、ベネズエラ、ベネズエラ、メキシコ、そして今年アンゴラ。  濃いタイプのほうが有利なのかね。 私の好みではないな、そんなことだれもきいてないけど勝手に言う。歴史上の人物でいえば、シシィ、マダム・レカミエ、アルマ・マーラー、ああいう端正な顔が好みである。

 美人の話題とはズレるけど、もう10年以上は前に読んだ記事。どの国の異性が魅力的だと思うか?のアンケートをヨーロッパで行ったところ、女性から男性を見た場合、1.イタリア人 2、フランス人 3、スペイン人。 男性から女性をなら、1、フランス人 2、イタリア人 3、スウェーデン人  という結果だった。 スウェーデン、美人国のイメージがヨーロッパでもあるのかな。
 なお、同じ調査をアメリカでしたら、男女ともに、1、アメリカ人  だったという。

 よくある国民ジョークの「天国と地獄」で、「天国」に挙がるのは「日本人の妻、フランス人の愛人」だが、「地獄」のほうに「アメリカ人の妻、ドイツ人の愛人」とくるのは大笑いである。 
 ヤマザキマリさんの夫は、生まれ変わっても結婚するなら日本人がいいと言っており、周囲の日本人妻を持つ男性たちも、「日本人妻サイコー!」と言うそうである。妙な幻想は持たれたくないとは思うが、現に日本人と結婚している人たちがそう言っているのならば、いまの奥さんと幸せだということで、それは誠に結構なことである。

 付記。
 ヤマザキマリ『世界の果てでもマンガ描き ②エジプト・シリア編』に、シリアのダマスカスに着いてまず衝撃を受けたことは、女性たちが美しいことだったと書いてある。そういえばシリアも美人国だときいた。
 かつて新聞の片隅にあった『シリアだより』にあった:神が人間を作ったときに、日本人が最後で顔を描く絵の具が足りなくなったので目が細くなった、その代わりに日本人は優れた頭脳を与えられたのだーーという話を筆者はシリアできいたという。
 この話がたいへんウケて、私や母は目が細いことを「絵の具が足りない顔」と言う。
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映画化と目的語

2011-09-13 08:44:50 |   ことばや名前
 新聞のテレビ欄の映画紹介でよくある「~~~を基に映画化」という書き方。私はどうにも落ち着かない。。なにを?と目的語を要求したくなる。
 たとえば、「マリー・アントワネットの波乱の生涯を、ツヴァイクの伝記を基に映画化」、これなら納得できる。
 「~~化」という言葉は、~~(のよう)になるという自動詞と、~~にするという他動詞とある。
 「野生化する」、「幼児化する」なんて言葉は前者だ。
 「Web連載が書籍化」は・・・やはりこれは「する」よりも「される」のほうがしっくりくるのではないだろうか、だから他動詞。同様に、マンガ化、アニメ化、映画化もたぶん、「される」だと思う、少なくとも私の言語感覚では。誰が決めたんだと言われても困るし、慣習の問題だとは思う。
 最初に挙げた例、「~~に基づいた映画」ならばすっきりする。そもそも、「~~を映画化」ならばなにも問題を感じないのに、「基に」があるからこんなモンクが出るのだ。「~~の原作を基に」とか。「~~の小説を映画化」よりも、「基に」がついたほうが準拠の度合いが薄くても許される、「原作」と「原案」の違いというところなのだろうか。旅行CMの「イメージです」みたいに。

 最近、新聞に「スキャンダラスな愛が映画化」と大きな広告が載っていた。この場合、無意識に「される」を補って見たのだけど、映画になる=映画化、つまり自動詞としての使用なのだろうか。 そこまで理屈で考えてないなきっと。

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『巨人たちの落日』その他

2011-09-11 05:27:13 | 
『ノーサンガー・アビー』ジェイン・オースティン
 オースティンの長編6本は、大昔に一通り読んでいたのだけど、きれいさっぱり忘れていた。(『マンスフィールド・パーク』『説得』も忘れていたほうに属する)
 牧師の娘のキャサリンは、常識的な両親に育てられた、善良な17歳の少女。ゴシック小説の読み過ぎで、招待された元僧院の屋敷で奇妙な想像に耽ってしまうエピソードがのちに出てくる。小説というものを貶めた風潮への反論もあり、小説ゆえの妄想を笑いのタネにする要素もある。後者の点で、漱石の『猫』や『倫敦塔』を連想させられる。漱石はオースティンを評価していたので、少しは念頭にあったかもしれない。

 筋とさほど関係ないところで注目したのは、以下の部分。
「でもほんとに、『ユードルフォの謎』は世界一すてき(ナイス)な本だと思いませんか?」
「すてきな本? それはきちんとした本という意味ですか?
(ヘンリーは、nice「きちょうめんな」「好みがやかましい」という言葉が、「すてきな」という意味で多様される風潮をからかっている)」
「でももともとは、「きちんとした」「適切な」「繊細な」「洗練された」という意味で使われていたと思う。  ところが最近は、何でもかんでもその言葉で誉めるようになってしまった」
 これは19世紀初頭の作品。辞典をひくと、確かにそういう意味が載っている。
 いつの時代にも変化はあるということ。--だからといって、なんでもずるずるなあなあで許容していくつもりは私にはないが。
  少なくとも、「ナイーブ」を「繊細」として使うのは、原語の意味を検討しても間違いだろうよ。



『巨人たちの落日』 ケン・フォレット ソフトバンク文庫
 上中下の3巻、内容からしても大河小説である。
 第一次大戦前後の欧米が舞台。英国ウェールズの炭鉱夫の若者ビリー、その炭鉱の持ち主である伯爵のフィッツ、ビリーの姉でフィッツの屋敷でメイドを務めるエセル、フィッツの妹で婦人参政権獲得を目指すモード。
 フィッツの学友で、ドイツの大使館つき武官ワルター。
 ロシアの農夫の子であり、冷酷な皇女のせいで父を亡くし、「血の日曜日」で母も殺された過去を持つグリゴーリイ&レフの兄弟。
 アメリカの上院議員の子のガス。
 これらの人々が激動の中で交錯する。
 モードとワルターが恋におちて、戦時ゆえ内密に結婚して離れ離れ、これは非常にハラハラして応援する。エセルが未婚の母となるけど、ラストでちょっとした溜飲の下がるシーンで象徴的に終わる。でもこのあと、第二次大戦が背景の続編が待っているんだと思うと、見たいような見たくないような。
 
 フィッツの妻ビー(本来はエリザヴェータ)はロシアの皇族で、使用人など人間と思ってないような傲慢な美女。ロシアで、彼女の土地を勝手に使っていたというかどで、グリゴーリイとレフ兄弟の父は処刑されたので、彼らは皇女に対して憎悪を抱いている。
 --ここで私の頭には、『オルフェウスの窓』第3部のアントニーナとミハイルが頭に浮かび、レフ(悪知恵のある女たらし)とビーが不倫にはしるという展開を思った。


『人間の絆』
 サマセット・モームの代表作といえばこのタイトルが挙がるだろう。自伝的要素の入った長編で、新潮文庫でかつては4冊、いまは上下巻になっている。女子高のころ、というと30年くらいまえか、そのころ読んで、退屈な印象を受けた。
 再読したいまは、ほかの作品も多く読んでいて、フィリップのハイデルベルク留学のあたりとか、貧民街での見聞など、体験がはいっていることがわかったり、世紀末のパリの芸術家(きどり)たちの群像に精彩を感じたり、当時よりも面白く思えた。--カフェの女給のミルドレッドにひっかかってうだうだしているのにイライラしたのは同じである。ちょっとばかりきれいなだけで、軽薄でうそつきで横着で、実につまらん女なのだ、こんなのにひっかかって散在させられなけらば、伯父の遺産がはいるまでのしばらくの間医者修業を中断してビンボー生活することもなかったんだろうに・・・。
 英文学でよく出くわす中野好夫氏の訳、登場人物の言葉遣いで語尾に「ねえ」が多すぎることにひっかかる、「~ですねえ」「~だねえ」「~わねえ」、それで合っていればいいけど、もっとキビキビしゃべりそうな人までこれだとイヤだ、『自負と偏見』のダーシーとか。   それに加えて今回、「、」が多すぎるとも気がついた、半分に減らしていい。


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史実を知るタイミング

2011-09-09 09:29:06 | 歴史
 歴史ものフィクションに接したあとで史実が違うことを知って、驚いたりがっかりしたことのある人は少なくあるまい。
 自分のこともなにか言うとすれば、映画『福沢諭吉』で、諭吉を支えてくれる家老の奥平様(榎木孝明)がたいへんかっこいい味のあるキャラだったのだが、『風雲児たち』等で、実際には家老とそのバカ息子に妨害されていたことを知った。歴史フィクションを鵜呑みにはしてないつもりだっただけにちょっと悔しかった。・・・まぁ、信じさせるくらいでないとフィクションも創りがいがないとも言えるか。

 フィクションの枠内にある作品(ノンフィクションとかドキュメントとか銘打ったわけではない)に感動した場合、どのくらい事実なのかということは気にしないで、まるごと『~~』という作品としてのみ受け止め、むしろフィクションとして考えるという態度もそれなりに(少なくとも、事実と思いこむよりは)無難であるかもしれない。
 しかし、いつぞやネット上で、「かつて某歴史ものマンガを読んで、なんて面白い話を描く作家なんだ!と感動したけど、あとでそれは単に史実だったことを知ってガッカリした」という声を目にしたことがある。史実知ってガッカリよりは少ないケースだと思うが、題材に頼っていて描き手の手腕はたいしたことないものだったのだろうか。
 市川ジュン『華の王』を某友人に貸したときのこと。頼朝たちが狩をした際に、長男が獲物をあげたのでそれを政子に知らせると、政子はそんなことでわざわざ遣いをよこすなんて、と白けた態度を示す場面がある。これをその友人は、政子のキャラをよく表わしていて面白いと評価していたが、あとで、これは史料にあるエピソードだと知って再び感心していた。上記の例とは違って幸せな反応のケース。
 (ところでこの場面、永井さんでは、頼朝が狩にかこつけて浮気するから政子は八つ当たりで喜んでやれなかったのだという描き方だった)

 いまこれを話題にしているのは、先日、ネットの某掲示板で、
小説『---』でダーウィンに興味持って調べたら、史実とフィクションが混ざっていることを知ってがっかりした。どこが史実か創作かを書いておいてほしいーーと書かれ、それに対して、混ざってるのが歴史もののダイゴミでないの?とあり、さらにそれへの返答として、 メジャーな人については混ざってもわかるけど、マイナーな人についてだと、わざと変えてるのか調査不足なのかわからないので、大枠だけ借りてあとはテキトーな印象を受けたのだ、ということだった。
 言いたいことはわかる。 あとがきで変更部分を説明することも悪くないとは思う。
 しかし、池田理代子『天の涯まで』の例を思い出す。巻末に、意図的に変えた点について説明が載っていた。あれに関して、興ざめだったという声を2件見た。もちろん、肯定する感想だってあるのに違いないが。『ベルばら』のように、フランス革命ならばメジャーなので、オスカルが架空の存在であることくらい、多少読んでみればじきにわかるだろうけど、ポーランドの歴史では接することもあまりなさそうなので、早々と説明したのだろう。 私自身は別に興ざめな気にはならなかった。  もう少しページを開けるなりして、本編読んだあと続いて目に入ってくる事態を避けることがいちばん無難だったろうか。ところでこのマンガ、ポーランドでも出たけど評判はぱっとしなかったという。そのへんについてもっと詳しく知りたいものである。ユーゼフ・ポニャトフスキは人気があるらしいけど、史実じたいはどの程度知られているのかも。

 ドラマ『ローマ』を見た人々は、あれをどのくらい信じたのだろうか。ヴォレヌスとプッロは架空キャラだということくらいはわかったろうけど。アティアは100%フィクションだからな~! オクタヴィアも90%創作だからな~~!

 結束脚本、栗塚主演の『燃えよ剣』における、勘定方・河合耆三郎は、名前を借用しただけであとはフィクションです! 悲惨な死に方はしないので、これから見る人は安心して好きになって下さい!
 あそこまで変えてしまうならば名前も変えておくべきだったと私は思う。
 説明しておくと:新選組の勘定方の河合は、新選組の歴史上で最も後味の悪い死に方をした人の一人。しかしドラマ『燃えよ剣』ではまったく違っていた。放映当時、先に史実を知っていた人はいったいどういう気持ちでいたのだろう。逆に、ドラマのを史実だと思ってた人が史実を知ったら落ちこみそうだ。私は運よく、ドラマを見るまえに史実を知り、かつ、ドラマではぜんぜん別ものになっていることも知ったので、安心して見ることができたのであるが。

 ローマ史小説の例を言えば、アンドルー・ジョンストン『カエサルとカルプルニア』(未邦訳。詳細は当ブログにカテゴリーを設けてあるのでご覧ください)は、あとがきでいくらか説明していた。
 ソーントン・ワイルダーの『三月十五日』(未邦訳)では、なんと前書きで史実と変えた点について説明してある。なんとなく、クールなインテリの読者を想定してあるような感じを受ける。
 

17.10.05に付記。上記の『三月十五日』の邦訳が近日発売。
「三月十五日」



 

 
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プリGOにさらば

2011-09-07 05:17:52 | マンガ
 秋田書店の少女マンガ月刊誌の「プリンセスGOLD」をプリGOと呼ぶのは私が勝手にしていることで、公認のものではない。ネット上では「姫金」という書き方をよく見る。
 2004年に、大河便乗で「新選組イヤー」という企画を始めたことから、それまで長いこと購読していた「別冊花とゆめ」をやめて、こちらにしたのだった。(当時は、氷栗さんの『カンタレラ』など、コスプレ要素が多く、替えるならばここかプチフラワーだと思っていたのだ)
 しかし、ここもだんだん楽しみな作品の率が減ってきていた。木原さんの『杖と翼』番外編も終わり、先月号で、『エロイカ~』が一区切りついた(おまけに『アリーズⅡ』も終わったし)のを機として、やめることにした。単行本で買うことにしているのは、山下友美『海賊姫』、河村恵利作品。竹内未来は『女王様の犬』で知り、話は必ずしも面白くないけど絵がたいへん好みで、いまの連載『HoneyBullet』はいまのところ面白いので、これもコミックス買いだ。滝口琳琳の連載も、続きが気になりはする。
 あ、『アスカのアラスカワンダホー!』も好きだ、これはコミックスは・・・出たら嬉しい。
 『キウイケツキ ドラキウイラ』が終わってしまったこともマイナス要因だな。かなり長い連載だったのに、コミックスはそこから巻数をつけずにごく一部だけ抜いたものを1冊出しただけというのはなにごとか、けしからん。バンドのおっかけ女の生態を描いた『バンギャル』も好きだったけどこちらもご無沙汰だったのだ。

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