レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

セーラーム-ン論⑤女性性の優位

2006-05-18 15:28:02 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
5 女性性の優位

 『セーラームーン』における女性性の優位は、次の点にも現れている。
第3部の終わりで、ほたる=サターンは、うさぎたちよりも少し年上の3人の戦士(はるか、みちる、せつな)に引き取られて、第4部に再登場する。「はるかパパ」「みちるママ」「せつなママ」の間でほたるは急成長している。ここには血縁も婚姻もなく、そして4人の暮らしはユートピアのように幸せである。これは、保守的な家族観に対して挑発的なほどの設定である。
 うさぎ&衛の関係は、過去においては姫と王子の定形を成しているが、未来においてネオ・クイーン・セレニティはもはや戦士ではなくとも、危機の際には力を発揮する。そしてミレニアムの女王は代々第一王女しか産まないことになっていて、つまり、この王国は「女王国」なのである。
ラストシーンは二人の結婚式で、うさぎは衛に「もうすぐあたしたちの娘が あたらしいセーラー戦士は生まれてくる予感」を告げる。「戦士」とは、とことん女の役割である。
 作者武内直子は、「女の子を描くほうがずっと好き」と公言している。2001年の読みきり『ときめか』で、天才少女科学者を登場させて、自分の友だちとして女の子型ロボットを発明する話を作っている。これまでの物語では、ロボット、アンドロイド、サイボーグ、ホムンクルスなどの発明者は専ら男だった:『ファウスト』『フランケンシュタイン』『ピノキオ』、『Drスランプ』『鉄腕アトム』『ブラックジャック』。発明や科学が男の領分と思われていたこと、女は自然に産むことができることが理由として考えられる。『とキめか』の設定は、女もまた科学者たりうることをさりげなく主張して少女たちを応援している。
この物語が表現しているのは、すべてを欲しいという貪欲な願いである。すなわち、美も力も、恋も友情も、安らかな日常もわくわくする冒険も。過去の働く女性たちは、家庭かキャリアかの選択を迫られていたが、もうそういう二者択一ではない。一見たわいのない恋と戦いの物語である『セーラームーン』は、――プリンセスが最高の位置にいる、少女たちが戦いの主役である、太陽が月に救われる、女二人がカップルとなっている、結婚もしない他人の娘たちが家族を構成しているーー様々な価値観の転倒を含んでいる、挑発的、革命的な世界だったのである。

原題 Im Namen des Mondes oder Von der Umkehrung des gesellschaftlichen Geschlechterrollenverstaendnisses in Sailor Moon. Ein Blick auf den japanischen Maedchencomic
所収 Zwischen Flucht und Herrschaft. Phantastische Frauenliteratur. edfc
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セーラームーン論④神話へのアンチテーゼ

2006-05-18 15:23:07 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
4 ギリシア神話へのアンチテーゼ

 男女関係の検討にあたって、少年マンガのヒット作、車田正美『聖闘士星矢(セイントせいや)』(1986-90)に若干触れたい。多くの女性ファンを持ち、戦士の名前が星座から取られている、つまり神話起源という点で『セーラームーン』との接点はある。このマンガでは、戦士は「聖闘士(セイント)」と呼ばれ、女神アテナの生まれ変わりである財閥の令嬢に仕えている。
 『セーラームーン』と比較すると、次のような違いがある。まず、『星矢』では、戦いが男の領分であること。これは少年マンガであることからしても不思議ではない。数少ない女のセイントは、女であることを捨てた証として仮面をつける。
 そして、日常生活というものがほとんど出てこない。中心になる5人は中学生の年齢だというのに、学校へ行っている様子もなく、家族の縁も極めて薄く設定されている。子供向けメディアで女が戦う場合、動機が個人的だという傾向が指摘されているが、日常性の重視もこれに関連している。
 最大の相違点は、女戦士と女主人の関係である。『星矢』では、たくさんのセイントがアテナを護っているが、女セイントがアテナへの好意を表す場面は皆無であり、セーラー戦士たちがクイーンやプリンセスへの揺るぎない愛と忠誠を抱いていることとは対照的だ。これは、神話で女神アテナが専ら男に味方していることに合致している。
 そして、単性生殖という点で神話と比較してみよう。『セーラームーン』で、過去の世界のシルバーミレニアムで、プリンセス・セレニテイには父がいない。クイーンの夫の存在は問題にもされない。画面には男の住人は見当たらない。プリンセス・セレニティは、専ら母の娘である。
 一方、第3部以降に登場するセーラーサターン=ほたる。彼女は子供のころ火事で死にかけ、マッドサイエンティストの父にサイボーグ化された。そして、悪に染まった父の傀儡にされかかる。つまり、母の娘のセレニティは正義の戦士となり、父の娘ほたるは悪に利用される。そして、一度肉体が滅びてから生まれなおし、また3人の戦士たちによって育てられて仲間に入り直す。これは、ギリシア神話でのアテナとヘパイストスの設定ーー父ゼウスの頭から生まれたアテナが輝かしい存在であるのに対し、ヘラが一人で産んだヘパイストスが醜く滑稽なことーーの男尊女卑への強烈なアンチテーゼではなかろうか。
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セーラームーン論③月と太陽

2006-05-18 15:17:52 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
3 月と太陽

 『セーラームーン』では、戦士たちが天体の名(ギリシア・ローマ神話)を持っており、月との縁も深い。日本の伝統の中の月と太陽の役割をふりかえってみよう。
 日本の神話では、太陽の女神たるアマテラスが主神であり、その弟の月神ツクヨミは影が薄い。
 最古の仮名物語である『竹取物語』は、月の世界から来たかぐや姫が主人公となっている。日本人にとって「お姫様」といえばほとんど西洋のイメージである中、唯一に近い和製(中国起源ではあるが)プリンセスとして定着している。(番外編『かぐや姫の恋人』もこれをふまえている) 月がメルヘン的な舞台になることもこの物語以来の伝統といえる。
 和歌の世界で、桜花と月は美の代表である。「月下の歌人」西行は「願わくは花のもとにて春死なん その如月の望月のころ」とうたい、その願い通りの死を迎えた。同時代の高名な歌人藤原定家の編んだ、今日でもカルタ遊びとして親しまれる「小倉百人一首」に月は1割以上出てくるのに対して太陽はほとんどうたわれない。大正の日本浪漫派の代表、「情熱の歌人」与謝野晶子は「清水へ祇園をよぎる桜月夜 今宵あふ人皆美しき」と絢爛と詠んだ。そもそも月は恋と結びつきやすく、太陽は詩的になりにくい。
 大正時代、婦人解放運動が高まった中、運動家の雑誌『青踏』の巻頭の言葉「元始、女性は太陽であった」は名高い。ここでは、他の光を反射する月は受身で否定的なものとしてとらえられ、太陽こそが新しい女の模範とされた。
 なお、日本語には、悪いことをしたら「お天道様に顔向けできない」という言い回しがある。
 総じて、太陽は力・正義の象徴であり、月は美と恋の領域に属しているといえる。
 『セーラームーン』は、ほぼ太陽系が舞台であるが、月こそが最高の位置を占めているように見える。それそれの惑星の「プリンセス=守護戦士」が月の王国「シルバーミレニアム」に仕えている。そして地球も月によって見守られている。第4部で、地球の奥にある聖地「エリュシオン」、そこの祭司「エリオス」が登場する。そこの主はエンデュミオンであり、エリオスは奥で祈ることが使命だと言う。ここでも、家にいて守ることが女の役割だという前提は覆されている。
 この4部の結末では、捕らわれていたエリオスはセーラームーンたちによって救われ、うさぎ&衛の娘の「ちびうさ」、未来の月のプリンセスのキスで目覚める。
 「エリオス」はそもそもギリシア神話の太陽神の名である。彼をちびうさは「王子様」と呼ぶ。太陽の名を持つ少年が、未来の月の姫に救われるのである。
 『セーラームーン』では、月が太陽よりも能動的である。「あたしはスーパーセーラームーン みんながさずけてくれた力で光り輝く戦士」――ここでは、月はただの反射として否定されているのではなく、仲間たちの協力として肯定的に解釈し直されている。「愛と正義の」戦士が「月にかわっておしおき」することは、伝統的イメージに沿いつつ新しかったのだ。
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セーラームーン論②奇妙なカップルたち

2006-05-17 16:11:54 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
2 奇妙なカップルたち
 『セーラームーン』において、プリンセスとプリンスというおとぎ話的なカップルが確かに過去から未来までの軸を成してはいる。しかしこの物語の「プリンセス」はかなり奇妙な存在である。
 プリンセス・セレニティはほかのセーラー戦士たちに護られていて、それぞれの戦士は母星たる惑星を持っている。惑星の守護戦士であり、同時に「プリンセス」である。つまり、「プリンセス」とは、王女という以前に守護戦士の肩書きなのだ。連載終了の2年後に描かれた『ぱられるせーらーむーん』でも、「今日からあたしがお姫様!この星を救うわよっ!」とのセリフが出てくる。本編の第5部で、うさぎに遠い星の戦士が言う、「プリンセスは護られて強くなっていくものだから」。強さもプリンセスに期待されるものであり、ただ受身で護られるという前提はない。
 現実には「プリンセス」とは、キングまたはクイーンの娘として生まれるか、プリンスと結婚することでしかなれない他律的な存在である。しかし『セーラームーン』世界では最高の位置にあり、娘・妻としてではない。
 では「プリンス」は? プリンス・エンデュミオンは現世で「地場衛」として生きている。この名前は「地球を守る」の意味で、古風なヒーローに一見ふさわしい。しかし物語を読めば、この「守る」は、古典的なヒーローとしての意味でなく、むしろ、「攻」――男性的とされるーーの対立概念である「守」であることに気づくだろう。衛=タキシード仮面は、戦いの場で主導権を取りはしない。そもそも変身後の衣装がタキシードであり、元来が軍服の一種であるセーラー服よりもはるかに実用的ではない、このことからも彼が戦闘用のキャラクターでないことがわかる。彼の務めは、うさぎ=セーラームーンを精神的に支えることである。
 戦う女を一歩退いた位置で支える、これで古い少女マンガファンは、『ベルばら』のアンドレを思い出す。アンドレは、近衛隊長オスカルのばあやの孫で、幼なじみとして彼女のそばにいる。もっとも彼の場合は、長年の片想いであり身分違いという二重のハンデを追っているので、控えめな態度もそう異なことではない。
 その点、衛=タキシード仮面はプリンスであり、うさぎとはほぼ同格であるので、退いた態度は一層特筆に価する。しかも、彼はうさぎに護られるという役回りにもなっている。
 番外編の『かぐや姫の恋人』に登場する宇宙翔(おおぞらかける)と名夜竹姫子(なよたけひめこ)のカップルは、うさぎ&衛とパラレルを成す。翔は宇宙飛行士の夢を持っていたが、心臓病でそれを断念し、科学者になっている。幼なじみの姫子は月へいく夢を実現しつつある。うさぎの相棒のネコのルナは、人間の姿で彼に言う、「あなたは生きなければだめ あなたの本当のかぐや姫が宇宙からやがて帰ってきたときに 家の明かりをつけて出迎えてあげなきゃ」――伝統的な役割分担しか頭にない人々なら目をむきそうな場面に違いない。
 女のほうが動的なカップルが出る一方で、第3部以降に登場する、はるか=セーラーウラヌス&みちる=セーラーネプチューンもまた目だっている。みちるは、バイオリニストとして活躍しており、美しく優雅で女らしい。はるかはF1レーサーで、たいていは男装しており、多くの人は彼女を男だと思い、みちるとは似合いのカップルと賞賛している。読者の間でも、うさぎ&衛よりも人気があった。はるかは戦いにおいては変身してセーラー戦士となる。つまり、戦いという使命=公生活では女、私生活で男の服を着ているのだ。これも、「公」を男の領分とする見方に逆らう。男っぽくふるまう、アンドロギュノス的なはるかと、女らしく強いみちる、うさぎ&衛よりも「男女」カップルのように見える二人がともに女であるという状況も、この作品世界の奇妙な特徴である。
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セーラームーン論①伝統と革新

2006-05-17 16:05:08 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
『セーラームーン』論

1 お約束と新しさ

『セーラームーン』は、1992~97年に、最もポピュラーな少女マンガ雑誌の一つ「なかよし」に連載され、テレビアニメも平行して放映された。
 東京の中学生である月野うさぎの前に、しゃべる黒猫ルナが現れて、うさぎは正義の戦士セーラームーンなのだと告げられる。うさぎの周りに次々とセーラー戦士の仲間――マーキュリー、マーズ、ジュピター、ヴィーナスーーが集い、彼女たちは呪文と共に、セーラー服姿の戦士に変身するのだった。しばしば彼女のピンチには謎の青年「タキシード仮面」が現れる。ふだんの彼は高校生地場衛(ちばまもる)。そして彼らは前世を思い出す:超古代、うさぎは月の王国「シルバーミレニアム」のプリンセス・セレニティ、ほかの4人は姫を守る戦士たち、衛は地球の王子エンデュミオン、しかし姫と王子の恋は月と地球の間の戦いによって破局に終わり、彼らは転生したのだった。そして彼らの敵もまた甦り、戦いは復活した。第一部はこういう設定になっている。シリーズが続くに連れて戦士が増えていくが、中心になるのは上記5人、ムーンたち5人である。
 『セーラームーン』は、戦隊、セーラー服、転生など、「ウケる」要素がふんだんに織り込まれている。「戦隊」は主に男の子向けメディアによくあるもので、多くは5人組で成っており、共に悪と戦う。『セーラームーン』のヒットの原因は、男の子向けの大枠に女の子向けの細部を組み合わせたことであるという解釈もある。「セーラー服」は、元来は水兵の制服であるが、日本では女子生徒の着る制服としてよく採用され、一般には少女らしさの象徴である。この姿で戦うヒロインにも先例はあった。「転生」もまた人気のあるモチーフで、前世からの恋など合理的ではないがそれでもロマンティックな効果を上げる。
 前の章で挙げた少女マンガの3大特徴も大いにあてはまる。
 「美しさ」の要素、これは問題ない。典型的な、極端なほどの少女マンガの絵、大きな目、細い体、なびく長い髪、背景の花、そして、区別の不明瞭な顔。美はここでは自明のことである。
 「異世界」、ファンタジックな要素もふんだんにある。日常の中に神話的・メルヘン的なものが混在し、銀河にまで舞台は広がる。
 そして「トランスジェンダー」。「戦う女」はもちろん世間的な標準からはずれている。これについてはあとで述べる。
 「戦う女」が話題になる時、すぐに浮かぶのは『リボンの騎士』のサファイヤ、『ベルばら』のオスカルである。これらとの比較で、セーラームーンたちは男装していないという点がまず違いがある。セーラー服は本来軍服の一種であるが、それにミニスカートの組み合わせははっきりと若い娘のものだ(両性具有的とも言える)。そしてセーラー戦士としての力が強まる時、衣装はいっそう装飾的になる。セーラームーンが「シルバークリスタル」で最高の力を得るとき、衣装はプリンセス・セレニティのもの、ウェディングドレスのような姿に変わる。つまり、旧来のヒロインたちが女らしさを抑えて戦っていたことに対して、セーラー戦士たちは少女らしさを強めている。
 変身の呪文は、第1部でのセーラームーンは「ムーン・プリズム・パワー、メイクアップ!」である。確かにmake upには「変身」の意味がある。しかし日本語の中で「メイクアップ」は「化粧」として定着している。少女が少女らしさを放棄しないで戦える。これが新しかった。美しくなることと、強くなることはここでは対立しないのだ。
 従って、女であることもハンデにならない。「セーラー戦士」とはすべて若い女、たいていはまだ少女である。戦士を名乗る存在がすべて女であることが言及さえされず、異常なことともされていないのである。
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少女マンガの特質③トランスジェンダー

2006-05-16 06:35:01 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
3 トランスジェンダー

 この言葉は広く解釈できる、男装・女装、同性愛、そして「戦う女」もこれに含まれうる。
 最初の少女マンガとされる『リボンの騎士』は、王子として育てられたサファイヤ姫の冒険物語である。作者は宝塚歌劇に大きな影響を受けたことは有名であり、宝塚歌劇はずべて女性が演じており、特に男役スターが花形である。
 少女マンガにおいて、男装はしばしば現れる設定であり、このテーマで必ず言及されるのが上述のサファイヤと、『ベルサイユのばら』のオスカルである。フランス革命を背景に持つこの物語の主人公は、王家に使える軍人の家に生まれ、跡継ぎとして男として育てられ、王妃に仕える。しかし、革命思想に目覚め、バスティーユ攻撃に参加して戦死する。
 ホモセクシュアルも、『トーマの心臓』などの少女マンガ古典、専門雑誌の創刊、外国映画のヒットなどの段階を経て、今日の少女マンガでは無視できない要素となっている。人気の理由は様々に分析されているが一言では言えない。日本の歴史や風俗を見れば、古代の伝説的英雄ヤマトタケルの女装エピソード、歌人紀貫之が女のふりをしてつづった『土佐日記』、男装して舞う中世の白拍子、伝統芸能歌舞伎、男歌手が女心を歌う演歌。そして、仏教では男色をタブー視していなかったこと。これらの性別越境が日本だけのものだと断言はもちろんできないが、目だっているとは言えよう。
 戦いは男の領分とされているので、戦う女も性別越境に加えることができる。この関連で、あずみ椋『神の槍』を取り上げよう。主人公アースゲイルは、ノルウェーのハラルド美髪王(9世紀に実在)の側室の娘。この美しく勇敢な少女は、強いられた婚礼の席でヴァイキングの襲撃にあい、首領レイヴに連れ去られる。海に出られたことを喜ぶ彼女は、父との葛藤と和解ののち、レイヴと共に旅を続ける。これが連載の前史になる。
 続く部分に登場する、アースゲイルを羨ましいと思う少女の挿話が興味深い。パリ伯の娘マチルドは修道院で「女なんてつまんない 白い天馬に乗った勇者がここから連れ出してくれないかといつも思ってた」ところ、ヴァイキングの襲撃で人質となり、アースゲイルに出会う。マチルドは、男たちに混じって渡り合うアースゲイルに憧れを抱く。しかし、トラブルの相手をたやすく斬り伏せる様子におののき、「ヴァルキューレの翼は血に汚れていた その覚悟がなければ飛んではならないのだ 私になんの覚悟があろう 父のもとに帰ろう」――もとに戻った少女の心は少し変化している。「天馬なんか来なくてもきっと何か違う明日がやってくるよね」「あの北の国のヴァルキューレはどこまで飛んでいくのだろう」
 この結末は、冒険心の否定では決してない。諦めのような決心、楽天的な妥協、自由に伴う責任の自覚は、むしろ、自由への渇望が普遍的なテーマであることを示している。そして、少女マンガが昔も今も様々な形でのトランスジェンダーを追求していることは、意識的にせよ無意識にせよ、ジェンダーフリーの世界、女らしさという名の鎖からの解放の試みなのである。
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少女マンガの特質②異世界

2006-05-16 06:30:45 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
2 異世界指向
 学園ものやホームドラマのように日常生活を舞台にした話がある一方で、非日常、別世界に展開する作品も数多くある。
① SFやFT
これは、少女よりも上の年代を対象とした「レディスコミック」との比較で際立った特徴である。少女誌よりも、「女性誌」のほうが、たとえば嫁姑、近所付き合い、キャリアと家庭の葛藤など身近なテーマが多い。
 その点、少女マンガのほうでは、宇宙や魔法の世界も珍しくない。神話伝説、メルヘンがよく取り入れられる。
② 外国
現代ものならばアメリカが比較的多く、歴史ものならばヨーロッパが目立つ。後者では『ベルばら』が代表である。
アクションものは、世界各地を飛び回る。最大ヒット作は『エロイカより愛をこめて』、東西冷戦下に繰り広げられるスパイアクションコメディである。ドイツ関連でほかに注目に値するのは『トーマの心臓』、ギムナジウムの少年たちの愛と苦悩が文学的に(?)描かれる。
 エジプト、トルコ、ペルシアなども異国情緒を感じさせる。近年では『三国志』も人気があり、少女マンガでもたびたび素材になる。
 しかしやはり一番人気の舞台はヨーロッパであろう。日本は「鎖国」をやめて欧米との関係を持つようになって、必死で追いつこうとしてきた。西洋化がすなわち進歩という時代が続いた。このことは美意識にも当然影響を与えた。一例として、池田理代子の発言がある。少女マンガの絵はまるで日本人には見えないと非難されるが、私たちは美術の時間にギリシア彫刻を美の理想として教えられてきたのだから、描く絵が西洋人のようになっても当然ではないか、とコメントしていたことがある。そして、最初の少女ストーリーマンガとされる『リボンの騎士』が宝塚歌劇の影響が大きいことは周知の事実であり、宝塚は華やかな異国情緒が売り物である。少女マンガとは、日本人のヨーロッパ憧憬が最もはっきりと現れたジャンルと言える。
 
③ 歴史
過去の日本も、現代人にとっては異国である。古代、平安、戦国、幕末あたりが頻繁に登場している。平安時代は、才気ある宮廷婦人たちが活躍した時代で、日本の女流文学の最盛期である。代表作、国際的にも名高い紫式部の『源氏物語』はマンガにもたびたびなっており、その一つ『あさきゆめみし』は、多くの女子高校生が、古典の授業で『源氏』を習うまえに読み、筋や登場人物を覚えることにも役立っている。
 明治維新の前の「幕末」、多くの血を流した殺伐とした時代にも様々なドラマがあり、最も人気のある存在はたぶん新選組であろう。幕府に対するテロ行為を抑えるために当時の首都、京都にあった戦闘部隊。キャラクターの多様性、傾く幕府のために最後まで戦った男たちの誠と友情の物語は多くのファンを持ち、少女マンガでも繰り返し描かれてきている。

遠いもの、異質なものへの関心は、冒険への憧れと見ることができる。これは、次に述べる「トランスジェンダー」とも関わってくるだろう。
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少女マンガの特質①美への偏愛

2006-05-16 06:25:52 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
1、美しさへの偏愛
 女は美しいものが好きと思われているので、少女・女性の読むマンガが美しくあるのは当然である。「少女マンガ」に対する偏見として出てくる言葉は、「顔の半分が目、目の中に星、日本人なのに金髪、やたら細長い脚、背景の花」など。これらは誇張であるが嘘ではない。いまどきのマンガではかつてほど目が大きくはないが、それでも現実よりは大きい。長い脚も細い体もリアルではない。背景の花は、雰囲気つくりのためであり、または、「この人物は美人」というサインにもなる。少女マンガでは、登場人物が読者の目にきれいに見えることと、作中でそういう設定になっているかが必ずしも一致せず、少女マンガ標準は現実よりも美しい。だから、上記のような記号が必要なのである。
 美しさは醜さよりも単調なものなので、顔の描き分けの苦手なことは少女マンガ全般の弱点である。だから、人物の区別のためにも髪の毛が重要な役を果たす。髪の毛を美しく描くことが大切なのは、シャンプーのCM並と言える。髪は感情表現にも使われるが、髪形や色で人物を区別することは欠かせない。日本のマンガはほとんど白黒だが、日本人だからといって全員髪を黒くしなければならないわけではない。金髪のように描かれていても、染めているとすぐに思ってはならないのだ。誤解されるような西洋コンプレックスではなく、まずは、人物の区別が目的である。少女マンガの美意識は、西洋と日本と混ぜ合わせて美化を加えたものである。
 美への偏向は、歴史ものにおいて顕著である。少なからぬ少女マンガは歴史的素材を扱っているが、その選び方は、史的意義や業績、モラルではない。重要なのは、人生が(悲)劇的であること、周囲に個性的な人々がいること、そして容姿である。だから、チェーザレ・ボルジアやサン・ジュスト、多くの人々を死に追いやった悪役でもよく登場するし、奇矯な行動でハタ迷惑だったルートヴィヒⅡ世やシシィも人気があるのだ。したがって、ナチ時代が時々取り上げられても、決してヒトラーが主人公にならないことは容易に理解できる。
 極端なことに、史実では美しくないはずの人物までもしばしば美化される。好例はロレンツォ・ディ・メディチ。このフィレンツェの豪腕の権力者は、少なくとも少女マンガに3度出ているが、「美しくない」とセリフでのみ言っていたり、設定自体が美男に変えられていたり、本当にブオトコな絵で描かれてはいないのだ。
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少女マンガ論の序

2006-05-16 06:19:39 | 月にかわって:少女マンガ論文要約
2001年に、私は初めてドイツ語で論文を書きました。友人が紹介してくれたのですが、ドイツで出版される、「女性文学」がテーマの論文集で、日本はマンガが特殊な位置を占めているのでマンガでも可、ということなので、遠慮なく少女マンガを扱いました。なにを対象にしたものかと考えて、国際的知名度とそして私自身の愛着もあるという理由でやはり『セーラームーン』。でもせっかくなので、少女マンガというジャンル全般についてもまとめてみました。この拙稿について抜粋・要約してみます。本文は、外国人が読むこと前提なので日本史や日本文学についての説明もたびたび入ってますが、ここではそういうのはなるべく省略です。
 
 まず、マンガの出版形式が日本とドイツではだいぶ違う。ドイツでは基本的に雑誌がない。キオスクで売ってるような薄い冊子は、一冊につき一作。アルバムと呼ばれる本はだいたいA4サイズでカラー、せいぜい50,60ページくらい。モノクロでB6サイズの本もあることはある。
概して、日本のマンガは、モノクロで小さくて厚く、安い。
 マンガは読者対象でも分類されている、子供、少年。少女、成人男性・女性。この分類は今日明確ではなく、少女マンガを読む男性も、少年マンガを読む女性も多い。初期の「少女マンガ」は男性作家が描いていた。60年代から女性作家たちが活躍し始める。
 とりわけ重要なのは、72-73年の『ベルサイユのばら』池田理代子である。宝塚歌劇団で上演されてヒットし、少女マンガ読者たけでなく世間の注目も集めた。
 少女マンガは、次のような特徴を持っている。1、美しさへの偏愛 2、異世界指向 3、トランスジェンダー。
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