レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

花々の詩歌

2013-04-28 06:47:05 | 
 駒場公園内にある「日本近代文学館」で、いまは「花々の詩歌」という企画展をしている。
「 日本近代文学館」
 小説とは違って短いものが多いので、いくつか気に入ったものを書き写した。

 佐佐木幸綱「満開の桜ずずんと四股を踏みわれは古代の王として立つ」 
      よほど貫禄のある桜の木なのだろう。

 漱石『あるほどの菊投げ入れよ棺の中」
    大塚楠緒子の死によせての句。

 有島武郎 「明日知らぬ命の際に思ふこと 色に出すらむあぢさいの花」
    絶筆。

加藤克巳 「子を産みてうつろなひとみアネモネのむらさきいろよりさらに恋ほしき」
  『エスプリの花』(1953)
 これは初めて知った作者。検索したところ、これは長女(すでに次男までいたが)の生まれた年に出た歌集に収録されている。「うつろなひとみ」はなにやら官能的に見える。
 同じ展示に出ていた漱石の「修善寺大患」あとの漢詩の「日は三春に似て永く心は野水に髄って空し」は、「空しい」はネガティブではなく、とらわれていない晴れやかな様を意味している(「則天去私」を目指しているのか)ので、関係はないけれど、この歌の「うつろな」も、それ相応に魅力を伴うものとして使われているという気がする。

 芥川の『水虎晩帰之図』という河童の絵は不気味で怖い。

 この文学館にあるカフェで、ランチメニューの「森瑤子のヨロン丼」を食べた。オイルサーディンを乗せて、細かいネギと唐辛子をふって、すだちをしぼってかけて食べる。ごくシンプルだけど美味い。

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アンペルマンの店が渋谷に

2013-04-24 15:13:20 | ドイツ
「アンペルマン JAPAN 」
 アンペルマン、直訳すれば「信号男」。ベルリンの信号機には、男の子のシルエットが描かれている。これは旧東ドイツで作られたキャラクターで、統一の際に消滅するところだったが、支持者たちの呼びかけによって残った。いまではキャラクターグッズの店もあり、ベルリンの観光案内には必ず出ている。
 私が行った98年にはまだなかったので私は行ったことがない。 それがこのたび渋谷に新しく店が出来たという情報がネットに出ていたので改めて注目。商品をチェックすると、いざ買おうとするとほんとに買いそうなものはごくわずかであるけど(クリアファイルは欲しい)なんだか楽しい。いつか行ってみよう。

2016.3月に付記。いまはもうこの渋谷の店はなくなっている。


 グッズということでもう一つ。
 地元の某ショップで、見慣れないトートバッグがあったので手にしてみた。都市の地図をあしらったデザイン。中に「友好都市トートマップ」として、日本と外国のが表裏になっているものもある。珍しくドイツのものでは、フランクフルトと横浜。欲しい気もあったけどとりあえずやめておいた。「松山」があるのだから、松山とフライブルクのペアが出ないものだろうか、それならば買う。ボッパルトと青梅は・・・ないだろうなぁ、あれば嬉しいけど。
「トートマップ マップマグ 」
 ドイツの姉妹都市についって検索した。マイセンと有田は焼き物つながりか。「バーデン・ヴュルテンベルク州」と「神奈川県」、それは知らなかった。
 バッグのようにそれなりの値段のするもの、マグカップのように多数必要ではないもの(好きだけど)とは違って、多数あっても使い道のある、値段がそうはるものではないクリアファイルならば、あちこちの町の品が出てくれていいのに。クライブルクならばミュンスター、ボッパルトならゼバルドゥス教会。ボンならベートーヴェン、エーベルバッハはイノシシ像。 
 日本ではミュージアム・展覧会グッズとして一般的だけど、ドイツではそうではなさそうだった。

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アイスクリーム

2013-04-21 07:29:32 | 雑記
 ネットで、ハーゲンダッツ店舗の閉鎖と出ていた。スーパーやコンビニでは見かけるけど店で食べることはもう長いことなかったなぁ・・・と思った。84年に青山に登場して以来の歴史が終わるという。
 ララ掲載の吉田秋生『櫻の園』で、「へえハーゲンダッツ行ったんだ」(略)「2時間待ってアイスクリーム食べる男なんて好きになれない」なんて会話が出てきたことを覚えている。当時の最先端だったのだろう。
 ところで私が初めて食べたのは、90年秋、ボンでのことだった。この年の秋に2ヶ月、ライン河畔の小さな町ボッパルトで語学講習を受けて、そのあと4泊をボンで、2泊をデュッセルドルフで過ごした。当時のメモを見ると、ハーゲンダッツ4マルクと書いてある。98年には1マルクは安くて80円、高くて120円くらい、感覚的には100円玉といったところ。98年~99年の滞在時には、どこで食べてもアイスクリームの1ホールが1マルクであったことははっきり覚えている。(いまサーティーワンでキッズサイズでさえ240円であることを思えばずいぶん安い) では、90年に食べたハーゲンダッツ(ダブルなんだろう)が4マルクはかなり高額であったということになるな。
 以前は、新宿の京王線乗り場の近くのショッピングモールにハーゲンダッツがあり、そこにポストカードが置いてあった。アレンジしたアイスクリームの写真のデザイン。私はアイスクリームならばシンプルなほうが好きで、パフェの類は好みでない。しかしあのカードは中々気に入っていたものだ。

 私にとってもっと身近なアイスクリームの店はサーティーワンである。女子高の通学路にあったし、いまも地元にあるし。定番で一番好きなのはキャラメルリボンとナッツトゥユー、これも長いこと変わらない。

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『ヨーロッパの王妃・プリンセス200人』の話題再び

2013-04-19 16:57:45 | 歴史
 先にローマカテゴリーで触れた本、『ヨーロッパの王妃・プリンセス200人』の話題。
 
 この本のいいところ:マイナーどころもたくさん入っている。
 例えば、ナポレオンの関係者では、ジョゼフィーヌだけでなく、2度目の妻マリー・ルイーズ、母や妹たちも載っている。薔薇戦争関連では、ヘンリー6世の妃マーガレット、エドワード4世妃エリザベス、ヘンリー7世母マーガレット、妃エリザベス。

 『ブロンズの天使』に出てきたニコライ一世の皇后とか、シシィと親しかったルーマニア王妃など、ここで顔を見られたのは収穫だった。

 デンマーク王クリスチャン10世妃アレクサンドリーネ(ドイツ出身)、初めて知ったけど、上品でりりしくてすてきだ。


 この本の欠点
1、時代区分に難あり。
 「古代・中世」と「近代」と「現代」に分けてある。
 確かにこういう区分は微妙なものがあるとはいえ、14世紀のポルトガルのペドロ一世妃イネスが「近代」は明らかにヘンだろう。ロシア革命で死んだ皇后や皇女が「近代」なのに、18世紀の人であるマリア・テレジアの娘や19世紀のゾフィー皇太后やシシィが「現代」。

2.使われた肖像に不適切さがある。
 カバーの内容紹介はこうである。
「王家に生まれ、豪奢な暮らしを営んだ宮廷のプリンセスたち。しかし、彼女たちの多くは政略の花嫁として他国に赴き、国家の命運をも背負った。その運命の過酷さを覆い隠すように、彼女たちの肖像は穏やかで美しい。男よりたくましく生きた者、運命に翻弄された者、人々の羨望の眼差しを集めた者―あの英雄の妻や娘はどんな顔をしていたのか?古代から現代まで、華麗な肖像とともに二百人の姫君たちがオールカラーで蘇る!」
 当時または近い時代の肖像を載せている場合はいいが、中には、はるか後世の芸術家の作品もある。 
 オクタヴィアは肖像で問題なかろうに、有名な、ウェルギリウスの朗読中に失神した様の絵。
 ポッパエアはフォンテーヌブロー派の絵。
 ユリア・ドムナは、アルマ・タデマ(たぶん)。
 アリエノール・ダキテーヌときたら、ラファエロ前派のイヴリン・ド・モーガンの絵だ、美化しすぎだろう(夫の愛人に自害を強いている場面なんだけどな、たぶん)。
 「どんな顔をしていたのか?」にマジメに答えるには、美化しまくりの後世の作品を挙げることでいいのだろうか。もちろん、ドリームが悪いとは言わない、しかし、少なくとも出典の明記くらいは必要だろう、と主張したい。
      
 ついでに、姉妹編『ヨーロッパの皇帝・国王200人』
「古代ギリシャ・ローマ時代から、ヨーロッパの歴史は数多の皇帝・国王たちに彩られてきた。名君・暗君・女帝など、その人物像はさまざまである。今も人々から崇敬される賢王、世界に名を轟かせた勇武の王、己の欲望に走った暗愚の王、国家の最期を見届けた悲劇の王―教科書にも登場するあの王は、どんな顔をしていたのか?英雄アレクサンドロス大王から現代のエリザベス二世まで、総勢二百人の帝王たちの姿をオールカラーで。」
 こちらでも「どんな顔をしていたのか?」である。アウグストゥスはいつもの像であり、こういうのはいいのだ、こういうのは・・・。
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近所のまんが喫茶を検索

2013-04-17 16:26:20 | マンガ
 まんが喫茶というもの、もう10年以上行っていない。
 少なくとも新刊では購入するのをやめたマンガについて、ふと、まんが喫茶で読むという手はどうだろうか、ブックオフでいちいち探すよりも効率がよいのでは?と思い、近所の店舗を検索してみた。
 地元駅からいちばん近いところは、蔵書がHPで調べられるのであるが、それを見た限り、新しいものがない。確かに私が読みたいものはさほどメジャーでないものが多いとはいえ、『大奥』や『チェーザレ』なんて置いてないのはおかしいだろう!? 売れ行きを邪魔しないための方針として新しいマンガは置かないということならばわかるけど。単に、HPの整理がなってないだけだろうか?

 私がたまに行っていたころには、ドリンクが無料で、アルコール以外の飲食物は持ち込み可であった。しかし今回いくつか見た限りでは、そういうのがダメになっている。インターネットだのシャワーだのと設備が増えている。
 ーー私はそんなのはいらんのだ、飲み物程度用意されていて、目当てのマンガがあって、1回に2,3時間読めればいいのだ。 そして健全さ。 いちばん近いところは上記のような有様、2番目に近い店は、HPの感じからするとどうもうさんくさい・・・。 私の行っていた上記の店は、同じビルの中に塾もあった。塾に行くふりしてこっちに来てる子もいるだろうな~と思っていた。
 3番目の店は、蔵書は結構だけど、やや遠い。
 
 まぁ、実際に行くことはそうそうないとは思う。ブックオフのほうが気軽ではある。


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裁くものは  死の途上にて

2013-04-14 06:59:00 | 
『裁くものは』 カバリェーロ

 まえに『かもめ』の感想を書いた、19世紀の作家。「国土社」の「世界名作全集」は子供向きの本らしい。

 表題作は、アンダルシアの田舎から始まる。小さい店を営むバリシオには、司祭になった長男と、少し頭が弱くヤギの世話をしている次男がいた。近所の理髪師の(通称)ナバハスが、バリシオを殺害して金を奪い、その罪を次男におしつけて死に追いやる。ナバハスは名を変えて軍隊で出世するが、バリシオの友人ベルナルドの追跡がそれを阻んだ。
 冒頭でのベルナルドの昔の手柄話があとで活かされるのは小気味よかった。
 ひとたび瀕死になったナバハスが懺悔で悪事を打ち明けた司祭が、バリシオの長男であり、しかし聖職者として復讐などしないで収めるのが、宗教の関わる物語の辛さ(少なくとも不信心者の読者にとっては)であろうか。原題は「『時は運より長い』で、それは、悪運は一時は栄えても、いつかはほろびるという意味です」と解説にあり、邦題は、それは神のみ、という含みなのだろう。
 まぁ、この話は悪人に結局報いがきたけど、併録(こちらのほうが長いんだけど)の『涙(ラグリマス)』はその点今ひとつ。
 持参金だけを狙って結婚し、妻と娘は冷遇しまくった性悪男に、いつ罰が下るのかと思って読んでいたが、あまりその期待はかなわなかった。ただの金ヅルと思っていた娘がその役にたたずに死んだことを残念がっているだけなので物足りない。その娘によくしてくれたお嬢さんが、意志を貫いて幸せになった点が救い。
 


『死の途上にて』 ホセ・ルイス・マルティン・ビヒル  彩流社 1990
 舞台は1950年代。三人兄弟、ホルヘ、カルロス、フェルナンド。
 大戦中、ホルヘが妻マルタや弟たちを残して出征、そのあとで息子ホルディが生まれる。ホルヘは死んだという知らせがあり、ホルディは叔父のカルロスに懐いて育つ。しかしホルヘは生還する。愛妻は既に亡く、初めて会う息子への接し方に戸惑う。息子の側でも、聞かされていた父の像と違う父に困惑する。カルロスも、可愛がってきたホルディと距離をおかざるをえないことは辛い。それでも努力してなんとか馴染もうとする彼ら。ところがカルロスは心臓が悪く、危険な手術をしなければならない。もしもの時に備えて、カルロスは司祭である弟フェルナンドに重大な告解をした。
 死んだと思ってた父・夫が生還した、それが不和を生むという事態はどこの国でも、日本でもありえた。(『ローマ』のヴォレヌスもそれだった) 一方、「神」の意識、告解の重さ、そういった要素はカトリック国スペインを感じさせる。
 抑留体験の辛さを打ち明けることが和解への道になったあたり、ドイツ映画『ベルンの奇蹟』も連想する。
 それぞれに誠意を持っているのに、それが中々実を結ばない辛さ、でも希望を持たせるラスト。ずっしりして、そして暖かさの残る1冊。 

 スペインとほぼ関係もないが:
昨日今日、4月の13・14が土曜日曜、28年前と同じだ。あの年のあの日、週末、図書館で借りた『鷲は舞い降りた』を読んで感動に打ち震えたのだった。
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新人物文庫新刊『ヨーロッパの王妃・プリンセス200人』のローマ

2013-04-11 05:55:44 | ローマ
 先日書店で目にした『ヨーロッパの王妃・プリンセス200人』(新人物文庫)。あとで「歴史」カテゴリーでも話題にするが、ここではローマ縁のことを書く。
 同じ文庫の『ヨーロッパの皇帝・国王200人』の姉妹編。
 ローマからのメンバーは、7人+東ローマ帝国から4人。前者は、オクタヴィア、リウィア、アグリッピナ、メッサリーナ、ポッパエア、ネロの妻オクタヴィア、カラカラの母ユリア・ドムナ。後者は、ユスティニアヌスⅠ妃等。顔ぶれに意外性はあまりないが、ユリ・クラから出すならば、ネロの妻オクタヴィアよりもアウさんの娘のユリアのほうが普通ではなかろうか。記述にたいして面白みはない。それだけに(?)、悪女扱いされることの多い人物に関してもスキャンダラスな描き方はしていない。リウィアに「ポイズナー」がなく、アグリッピナに夫殺しがなく、メッサリーナの「売春皇后」もない。そして、オクタヴィアの「婦人の鑑」もない。
 名前の表記で、「小オクタウィア」、「小アグリッピナ」となっているが、「大」に言及しているのではないのだから「小」は不要だろうに。そもそも「小」のほうが有名だ。
 

 もう一つ。
 ヤマザキマリ『Sweet Home Chicago』(A5版 コミックスの枠に入っているけどエッセイ)の2巻は、タイトルに反してシカゴ以外の話題が多い。パリでのイベントで萩尾望都さん等と会った話などは『世界の果てでも漫画描き』3にも出ている。
 
「現地の作家とのトークセッションも企画されていたのですが、そのお相手とは「テルマエ・ロマエ」を描くときに必ず机の上に並べて、行き詰まったときにペラペラと捲っている古代ローマを舞台にしたバンド・デシネ(欧州でポピュラーな漫画の形態)作家、マーク・ジャイニー氏だったのです。

 ヨーロッパのマンガでローマというとまず浮かぶのは『アステリックス』なんだけど、それとは違うのだな。ほかにもそういうのがあるのなら日本でも紹介されてもらいたいものだ。

「物静かで控えめなマーク氏の雰囲気はなんとなくうちの旦那に似ていて、古代モノに心囚われるのはヨーロッパでは皆こういうタイプなのかと笑ってしまいましたが、彼とは今後もコンタクトを取ってお互いにどんどん深くて面白い古代漫画を描いていきましょう!と誓い合いました」

 ぜひ描いてくれ。
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原作無視のハッピーエンド

2013-04-09 06:19:31 | 
「安易なハッピーエンドは物語を安っぽくするぞ」

 竹本泉『あかねこの悪魔』は、本の中身を変えてしまう「紙魚」を退治する役目を追わされた本好きの少女・少年が本の中の世界であれこれしてまわる話である。
 上記の引用は、『会議は踊るされど進まぬ殺人事件』で、ナポレオンのエルバ島脱出を知らせる使者を妨害してヒロインのロマンスを終わらせまいとした茜子に言われるセリフである。

 アンデルセン『人魚姫』は、報われない悲恋だからこそいいのに、ディズニーの『リトル・マーメイド』はハッピーエンドなんてけしからん話である(アニメじたいは見ていない、絵本で見ただけだが)。

 『フランダースの犬』、アメリカでの映画はハッピーエンドにされているというのはある程度有名な話。

 ユゴー『ノートルダム・ド・パリ』は、美貌のジプシー娘エスメラルダが無実の罪で処刑されてしまう結末であるのに、ディズニー『ノートルダムの鐘』ではハッピーエンドらしい。

 こんなんで育ったアメリカの子供があとで原典を知ってどう思うのだろうか。中野京子さんによると、1995年のアメリカ映画『スカーレット・レター』ーー邦題は『緋文字』で定着しているのにこのカタカナタイトルはひどいセンスーーも原作無視のハッピーエンドになっているという(子供向けではないが)。
 『ハムレット』が古い時代のドイツでドサ回り芝居で演じられていたころには、ハムレットは死なせてもらえなかったという話には微笑ましさも感じるけど。

 『太陽がいっぱい』は、原作(パトリシア・ハイスミス『リプリー』)は完全犯罪で、その後数作シリーズが続いている。それを暗い余韻のラストにしているのは、さすが(?)フランス映画なのか・・・?

 歌劇『ミニヨン』、原作はゲーテの長編『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』。ブルジョワの青年ヴィルヘルムが旅芸人のところで酷使されている少女(男装している)ミニヨンを助けて、この子はヴィルヘルムを恋い慕うようになる。実はいい家の生まれでありながら幼いころにさらわれていたというベタな設定だけど、それだけにうけて有名になっている。ミニヨンの歌う『君よ知るや南の国』は、作者の、ひいては北国ドイツ人の南国イタリアへの憧れを表す代表例となっている。
(森川久美さんに影響を与えている。『花のサンタ・マリア』のマミーカにはミニヨンのイメージを感じる)
 しかし、歌劇では、薄幸の少女ミニヨンが薄幸でなくヴィルヘルムと結ばれるなどという結末、気にいらん~~!!
(だいたい、演じた歌手がぜんぜん可愛くないし)

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海のカテドラル 血と砂 たそがれ世代の危険な愉しみ

2013-04-07 06:48:32 | 
イルデフォンソ・ファルコネス『海のカテドラル』上下巻 武田ランダムハウスジャパン RHブックスプラス 文庫 2010
 スペインの現代作家による時代小説。
 歴史的背景を持ち、架空の庶民たちが配された波乱万丈の物語。
 有名な例で言えば、ケン・フォレット『大聖堂』のようなジャンルである。
 14世紀のカタルーニャ、裕福な農奴バルナットは、領主に「初夜権」を行使されて妻を辱められる。生まれた男児は明らかに彼の子であったが、それも災いして領主の横暴は続く。自由を求めて息子と共に都市バルセロナへ逃亡。バルナットは話の4分の1で死亡し、全体としては息子アルナウが主人公となる。海の男たちの仲間として誇りと良心をもって健気に働くアルナウには応援の気持ちがわいてくるし、不当な仕打ちをした連中への報復には、やってしまえ!という気になる。
 アルナウの実母、彼を誘惑した高慢娘など、当初うっとうしかった女たちがあとになってあっぱれな活躍をするのはいい意味での裏切りで爽快。
 ユダヤ人たちへの迫害、異端審問など、時代の空気というものもよく反映されている。

イバニエス『血と砂』
 岩崎書店「世界の名作文学」とは、ラインナップに『ジェーン・エア』『ああ無情』『赤い子馬』なんて並んでいるところを見ると、ジュニア向けのようである。(『ジェーン・エア』が大人の本でないという意味ではない、『レ・ミゼラブル』でなく『ああ無情』が決定的。一般向けならばスタインベックは『怒りの葡萄』だろうし。私は『エデンの東』を勧めたい)
 貧しい身の上から野心を抱いてスターになった闘牛士フアンの栄光と破滅の物語が鮮烈に展開される。
 良い妻を得ながら、美しく高慢な貴婦人に惹かれていき、やがて飽きられる。ある闘いで瀕死の重傷を負ってからかつての大胆さが失くなり人気が衰える。盛り返しを賭けて戦うが、敗れて果てる。闘牛の、というよりは観衆の残酷さが印象に残る。
 きれいで堅実で優しい良妻がカルメンという名前で、才色兼備の貴婦人ドニャ・ソールが気まぐれで高慢で、もう愛していないときっぱりと言い切るあたりがメリメのカルメンを思わせるのは、よそ者だけど外国人にとってのスペインイメージに影響を与えているメリメへの抵抗のように見える。

ルイス・ランデーロ『たそがれ世代の危険な愉しみ』
 単調な仕事に従事する中年サラリーマンのグレゴリオは、僻地で同社のセールスをしている中年男ヒルからの電話連絡をいつも受けている。その際にヒルのグチをきかされ会話するうちに、自分は詩人で、インテリサロンの顔であり、政府ににらまれている大物だのと、どんどん大ボラをふいてしまう。やがてヒルが僻地から町へ戻ってくることになり、これまでの嘘から逃げようとして四苦八苦・・・という悲喜劇状況に陥る。
 へんてこな話で、ツッコミもいれたくなる大団円に変わったほのぼの感がある。

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「2号」

2013-04-05 06:42:14 |   ことばや名前
 私の姓○○はたいへん平凡である。そして私はこの姓をたいへん嫌っている。平凡だからといって必ずしも嫌いというわけではなく、鈴木や佐藤や高橋は嫌だと思わない、しかし○○は嫌いだ。いい点は、線が単純なのでマジックで書いたり縫い取りするのが楽だったこと、どこにでもある姓なので名乗って一度でわかってもらえることだけである。
 私の弟が漫研にいた時期のこと。1年下に、同じ○○という後輩がいたので、彼は「○○2号」と呼ばれるようになった。しかし次の年に彼は言った。同輩・先輩に「2号」と呼ばれるのはかまわない、しかし、後輩から「2号さん」はイヤだ、なにか別の呼び名が欲しい、と。それは新宿を歩いているときだった。「新宿 PePe」という看板があった、「ではおまえはペペだ」ーーと、2号にはペペの名も加わった。
 ところで、「2号さん」という言葉はいまでも使われるのだろうか、若干古い気がする。上記実話は既に20年以上まえのことである。
 弟の在学中に○○は「3号」までいた。仮面ライダーみたいと言ったら少しはかっこいい・・・こともないか。

 「2号」がまだ1年のある日、弟にその漫研の先輩から電話があった。用件は、「2号の名前なんだっけ?」  その先輩は2号に用事があって電話をしなければいけなかったのであるが、家族が出て取次を頼む際に、まさか2号君お願いしますとは言えないので問い合わせてきた次第である。
 日本人、特に男どうしでは、親戚か幼友達でもない限り、下の名前を呼ぶことが少ないという習慣の現れである。

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