レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

4つのヒントから

2006-10-30 13:47:39 | ローマ
 2chの世界史板に「ここはどこ? わたしはだれ?」というスレッドがある。これはクイズで、誰か記憶喪失になっていて名前を思い出せないという想定で、そこで質問者がいろいろ尋ねて、その答えによって誰だか当てるという遊びである。これだと、なにをきかれるかわからないので、問題を出す側はその人物についてかなり詳しくなければならない。
 いまは無くなってしまったが、「4つのヒントから人名などを当てる」もあった。文字通り、4つのヒントで、それが誰か・何かを当てる。
 私も答えたし、出したこともある。
 ダブル不倫で略奪婚 身売り疑惑あり 病弱で長生き 月の名に名を残した
は、すぐに正解が出た。
 しかし、「権力者の継父に可愛がられた、その継父の実子かとウワサされた」「才色兼備の妻とラブラブ、本人も母親似の美男」「事故で若死に」「名誉ある仇名が長男に受け継がれた」は答える人がほとんどいなかった。「兄と孫と次男と曾孫が皇帝」「継父の治世の末期に救世主が生まれ、兄の時代に死んだ」など、ヒントをまた追加してもとうとう答は出ないままだった。
 ローマ史ファンならば簡単な問題だと思うけど、・・・他ジャンルの世界史マニアにとってそんなにわからないものだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

エカテリーナ

2006-10-30 13:41:04 | 歴史
 先日テレビで、女優山口智子が案内役で特番があった。いちおう録画したが、テープが古いせいか画面が悪く、おまけに女帝とポチョムキンとの熱々ぶりがのっけから披露されてたので、ほんの始めで一旦やめた。
 その後、早送りしまくりで一応見た。画面がブレまくりで、じっと見てたら目に悪そうだったし。二人のイチャイチャの激しさはイヤというほどわかった。秘密の娘の存在、そしてその子孫がいまでもいることが新しく知ったこと。

 私がそもそもエカテリーナについて知っていることといえば、理代子作品、その原作本、『おろしや国酔夢譚』、『歴史をさわがせた女たち』などで、マニアックなほどではない。あ、『ソフィアの歌』とそのマンガ版(森川久美)もあったか。プガチョフの乱を背景にしたプーシキンの『大尉の娘』にもいい役で登場していた。
 
 理代子さんと、作家の山崎洋子さんの対談で印象に残っていること。理代子さんが、エカテリーナについてとある男性学者と対談をしたことがあり、その際彼は、一人の愛する男性にめぐり合えなかった女帝はかわいそうだ、と言ったので、「あんな幸せな女はいない、権力を握って、次々と恋人を持って」と反論したら、「女性は一人の男性につくすのが幸せなんだ」と言い張った。「よく言えますね、女でもないのに」(山崎)
 この不幸よばわりがどれほど馬鹿げているかは、性別を逆にしてみればすぐにわかることだ。男の権力者が次々と愛人を持ったら、「ただ一人の愛する女に出会えなかった哀れな男だ」と男は思うだろうか、むしろ、羨ましいヤツと思うほうが多数派ではなかろうか。「ただ一人」「ただ一つの恋」にアコガレを抱く気持ちは理解できるが、女にだけそれを押し付けているのは滑稽きわまりない。
 手元でとっかえひっかえできて、かつ本命の誠実で有能な男もいるなんて、たいへん恵まれた境遇だろう。

 数年前に「運命のダダダダーン!」で、「世紀の悪女スペシャル」と銘打ってエカテリーナをとりあげていた。夫殺しだの男遊びだの美術品買い漁っただの、・・・「世紀の悪女」ってほどのものかい。批判するならば、ポーランド分割とか晩年の反動化を言えばよさそうなものなのに、やはり男遊びのほうを言うか・・・。
 だいたいあの番組は、クレオパトラのときだってーー長くなるのでまたにしよう。
 なんのかんの言っても、無能な夫を叩き出して帝位をぶんどったってカッコイイよなぁ! 貞淑なマリア・テレジアはそんな彼女を認めてなかったらしいけど。
 
 『女帝キャサリン』という映画がある。地元ツタヤでは、なぜか『カリギュラ』などと同じ棚、つまり、完全にポルノ扱いではないけどきわどい映画に分類されていた。ベッドシーンくらいはそりゃあるけど、そんなに激しいわけでもなかったのに。たいして面白くもなかったけど。 「キャサリン」も気に入らん。英語のセリフなので「エカテリーナ」では合わないというならば、「カザリン」のほうが重みがあってマシだ。
 そういえば、『赤毛のアン』シリーズに登場する、アンと当初仲の悪かった「オールドミス」教師の名前が「カザリン」だった。やはり「キャサリン」よりもこれのほうがカタく見えるという判断だったのだろう。
 アンリ・トロワイヤの本(原書はフランス語)の訳者あとがきでは、「カトリーヌ」では金髪の小娘のようだ、と書いてあった。同じ名前でもどの表記かでイメージが違ってくる。

 ところで。理代子作品で、ポチョムキンのそうそうたる戦果にエカテリーナが喜んでいる場面、私の頭では、オクタヴィアヌスとアグリッパにダブるーーと言ったら問題だろうか。
 あの粗野で華やかなポチョムキンは、マッシーのアントニウスと重なる。ただし、ポチョムキンのほうがはるかにアタマがあるけど。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

散文的な秋の雑感

2006-10-29 13:47:01 | 雑記
 たまに食べる「ごはん処 やよい軒」、最新の季節のメニューはカキフライ定食。ふっくりと大きなカキフライ。美味。790円。
 この店(私の行く店が、なので、ほかの支店はわからない)の変化、1、以前はドレッシングがカウンター前に置いてあってセルフサービスだったのが、これがなくなり、最初からかけてあるようになった。2、たいていの丼ものは持ち帰りできたけど、それがなくなった。

 先日、弟の奥さんが持ってきた「ハロウィンケーキ」、トッピングにカボチャが使ってあった。長方形の陶器(?)にはいっていて、その容器はカボチャなどの絵が描いてある。
・・・正直なところ、ハロウィンの絵って、ニタニタ顔に彫ったカボチャだの、ガイコツだの、コウモリだの、一般的に可愛いシロモノではないな。「キモカワイイ」とでも言うのだろうか。とりあえず湯のみ代わりに使っている。
 上記の容器の絵は、黒とオレンジと白と紫のカラー。いま当ブログのテンプレートの「ハロウィン」(じきに替えるけど)も、オレンジ色メインで紫が混ざっている。私にはシュミのいい組み合わせとは思えないが、これがハロウィン調だろうか。

 立川の昭和記念公園、今月はコスモス祭りをやっていた。行ってないけど駅にも花は飾ってある。
 春に花見に行ったときに買った「いちょうのお茶」は、・・・マズイ。薬と思わないと飲む気がしないほどまづい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『秋の惑わし』

2006-10-29 07:29:12 | ドイツ
ドイツ・ロマン派の詩人ヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフ(1788-1857)の最初の小説は、原題直訳ならば『秋の魔法』だけど、『秋の惑わし』で定着している。『妖惑』で「まどわし」と読ませることもある。
 中世、十字軍時代。騎士ライムントは、友ウバルドの婚約者である美しい令嬢に懸想して、彼を殺して令嬢との悦楽に耽るが、やがて後悔し、一人森にこもって隠者として贖罪にいそしむが安らぎは得られない。しかし、殺したはずの友は生きていることを知り、自分のこれまでの人生に空しさを感じて絶望したライムントは狂気に陥り森に姿を消す、という筋。この短編は生前に未発表だったが、姿を消したライムントの同系列キャラは何度も出ることになる。
 アイヒェンドルフは、「デモーニッシュ」なもの、超自然の力、暗い情念、そういう荒々しい力との葛藤をたびたびテーマとしており、この短編でその萌芽は表れている。はっきり言ってかなりワンパターンな作家なのだ。ジャック・ヒギンズは「10年続けて貫禄にしちゃった人」だが、アイヒェンドルフは30年はやってた。
 のちの作品、代表作の一つ『大理石像』(1819)でも、青年がヴィーナスの化身のような貴婦人に誘惑されて、祈りの力と、きこえてきた友の敬虔な歌声でそれを振り切る場面がある(これは、その数年前に書いた長編『予感と現在』(1815)の一場面をふくらませたもの)。後に彼は、異教の女神が春に目覚めては若者たちを誘うという言い伝えを知る。(女神の僕のようなどこか不気味な男が登場しているが、これは特徴からいってもライムントの成れの果てと解釈できる)
 『秋の惑わし』では、主人公は破滅する。こちらは舞台はたぶんドイツ。いわば「春の魔法」の敗れる『大理石像』はイタリアのルッカ。
 季節のイメージとして、秋も春も、ともに風情はあり、恋の舞台には似つかわしい。秋は、実りの季節としての華やぎと、暗い冬へと向かう陰鬱さとを兼ね備える。だから、秋のエロスには、夏へと向かう春のエロスと比べて、滅びの要素が内包されている。
 このような違いも、テーマに共通性のある二つの作品の結末の明暗に反映されているのだろう。


 今日からドイツも「夏時間」から通常に戻る。夜の長い、日暮れの早い冬へとどんどん近づいていく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『風が強く吹いている』

2006-10-27 14:59:17 | 
 直木賞とった三浦しをんさんの長編新刊。
ボロアパートに住む大学4年生の通称ハイジは、ある野望を抱えていた。過去に陸上をやっていて、故障のためしばらく断念していた身の上、しかしついにアパートに10人集めたところで、「箱根駅伝を目指そう!」と宣言。
 ここで笑えるのが、看板の仕掛け。汚れを落すとアパートの名の横に、「○○大学陸上部」といつのまにか書いてあったのだ。住人たちとしてはサギだーー!って感じだけど、とにかくのせられて練習に励むようになる。

 変人ぞろいのメンバーのうちで、最も運動に縁のなかったのが、マンガおたくの「王子」。「二次元の女の子にしかキョーミない」と言い切るやつだけど、世間の偏見のいわゆる「キモオタ」でなく美形に設定しているのが、自らもマンガ好きの作者らしいところだろうか。王子の運動能力に不安を感じるクララじゃなかった蔵原走(かける)にハイジは、無駄遣いも夜遊びも一切しないですべてをマンガにそそいでいる、ああいう粘着質な性格は長距離向きだ、と語る。・・・だったら私も向くのかいな。イヤだ、絶対イヤだ。体育の時間が申し訳程度だというだけでも大学生活はパラダイスだったと思ってるような私には、わざわざ走りに行くなんて異人種だっ!(単に違うというだけ。走るのは資源の無駄遣いもしないし騒音もたてないし、好きな人がするのは反対する理由がない。)

 これ、テレビドラマにでもなるかもしれないな。
 マンガにするならば、合作するならば、私の頭に浮かぶメンバーは、桑田乃梨子、川原泉、つづき春、よしながふみ、今市子、・・・佐々木倫子。
 なぜここに佐々木倫子の名が出てくるかといえば、メンバーの無邪気(そう)な双子ジョータとジョージが、『Heaven?』のノーテンキなサービス係の川合君にだぶるから。
 その双子に気があるのが、地元商店街の八百屋の娘の葉菜ちゃん。二人のどちらをというわけでなくて両方好みだと言う。正直なところ私は、紅一点なしでヤローだけでまとめてくれたほうが一層好みだったのだけどね。個性の違いをわかったうえでセットで好きというのは、潜在的フジョシなキャラかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

読売タオルのヘンな絵

2006-10-27 14:56:26 | 雑記
 うちの新聞はもう長いこと読売である。父が巨人ファンだから、がきっかけだったのだろうが、替えるのもめんどくさい。母は阪神ファンなので、スポーツ記事の偏りにたびたびモンクを言っている。私は基本的にどこが勝とうとかまわんけど、母の機嫌のために阪神が勝つほうがいい。
 いま洗面所に父用として下がっているタオルは読売新聞の購読継続でもらったらしい品。特に誰と特定していない選手がバットを持って構えている絵が描いてある。手の部分が前面にあるので大きく見えるのはいいとしても・・・なんでバットを4本も握っているのか。ムリがありすぎだろう。おかげでバットに見えん、易者のようだぞ。ーーほかにもそう思ってる人いませんかね。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『ラインの護り』と『ラ・マルセイエーズ』

2006-10-25 14:32:21 | ドイツ
ライン河、古代においてはローマ支配化のガリアと、ゲルマニアとの自然の国境を成していたこの河。だから、「左岸」と「右岸」とは中々に重要な区別であろう。左岸の町にはローマ遺跡がたびたびあり、有名どころがケルンでありマインツであり、小さいけどボッパルトもそれに入る。
 スイスに始まり、ボーデン湖にそそぎ、しばらくスイスを流れて、ドイツとの国境になり、北へ折れて独仏国境となり、そしてドイツに入ってやがてオランダから北海へと抜ける大河。
国際的な河であるとともに、やはりドイツの河という印象が強く、かつ、国境を成したり国境の近くであることから、ナショナリズムと結びつきやすい。
 ヨーロッパの広い地域を支配したカール大帝のあと、孫たちによって分割され、ラインはほぼドイツに相当する東フランクにはいった。
 三十年戦争のあと、ドイツの荒廃は特にひどく、フランスの領土がライン左岸に拡大し、革命後のナポレオン支配下で左岸と一部の右岸はフランスのものとなった。
 ウィーン会議のあと、プロイセンがラインラント、ヴェストファーレンを獲得して、ラインは再びフドイツの河になった。
この時期、フランスとドイツの双方でラインをめぐる愛国詩が書かれ、その代表例が、1840年の『ラインの護り』マックス・シュネッケンブルガー。

雄叫びが響く、雷鳴のように、剣の激突、怒涛のように、
「ラインへ、ラインへ、ドイツのラインへ だれがラインを護るのか」
愛する祖国よ、心安らかでいるがよい、ラインの護りは堅く忠実だ

この訳は、加藤雅彦『ライン河』に拠る。

 この歌は、今日うたわれることはまずないそうだ。確かに、ラインの観光土産店で民謡集はよくあるが、これが収録されたものは見たことがない。90年にコブレンツに行ったときには、河近くにこういう名前のレストランがあったが。
 ここで欠かせないのは、映画『カサブランカ』である。中立国であるモロッコのカサブランカが舞台のこのメロドラマ、キャバレーでドイツ将校たちがこの『ラインの護り』を歌っており、周囲の観客たちは苦々しい顔をしている。そこでフランス国歌『ラ・マルセイエーズ』を演奏させて大合唱、「フランス万歳」で盛り上がる。『君が代』では勢いがなくて無理だろう。
 これより先のフランス映画『大いなる幻影』--第一次大戦中の、ドイツ軍の捕虜収容所が舞台ーーに、これとだぶる場面がある。
 戦況がドイツ軍有利なときに、収容所側の人々は『ラインの護り』を歌っている。そして捕虜たちによる演芸パーティー、その最中に、フランス軍がどこそこで勝ったという知らせがはいり、捕虜たちが『ラ・マルセイエーズ』を歌い出す。この映画は37年なので、『カサブランカ』は真似したのかもしれない。

 『ラ・マルセイエーズ』は元々、フランンス革命の最中に、革命をつぶそうとして周囲の国々から攻めてくる軍隊に対抗する気運の中で作られた歌なので、歌詞は過激である。もとは『ライン軍の歌』といったらしい。たぶん当時ラインはむしろフランスのものだったろう。では、『ラインの護り』にこれをぶつけるという行為は、当時またラインがドイツに取り返されていたフランス側の意趣返しというふうにも見えてくる。

 それにしても。『カサブランカ』は1943年の映画である。まだ戦争終わってない。もしもアメリカが負けて、こんなん作った人々はどうなっていたことか。アメリカ人ってつくづく強気だ。

 私の見た『カサブランカ』では、二つの歌に字幕がついているものとないものとあった。、『ラインの護り』はさほど有名でないし、フランス国歌に対抗して出てくるし国歌と間違われやすい。字幕つけてくれよ。私とて、卒論がドイツ軍歌で民謡も調べていたからたまたまわかったのだけど。

 なお、ロシア語通訳者の米原万里さんのエッセイによると、どこかの国でアメリカ映画をたくさん上映して見せ付けたところ散々で、特に『カサブランカ』が不評だったそうだ。モロッコを植民地にして疑問も持たない連中が自由の闘士ヅラしてるのが片腹痛いということで。では例の場面などもさぞ噴飯ものに違いない。
 私はいろいろな意味で興味深いと思っている。ゲルマニストとしてムカっとするのも事実であるが、のせられてしまうのも認める。たぶんナショナリズムは感傷に訴えやすいのだ、「博愛」や「世界市民」を説くよりも。
コメント (9)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

トリスタンとイゾルデ

2006-10-23 11:57:40 | 
 映画『トリスタンとイゾルデ』。映画館に行く気はないが、ノベライズを読んだ。この名前を使う必然性が足りないのではないか、が第一印象。
 元来ケルト系の物語で、アーサー王ものの一環。マルケ王の甥である騎士トリスタンが、王の妃になるアイルランドのイゾルデ姫を迎えに行くが、この二人のほうに恋が芽生える。二人は誤って媚薬ーー本来、イゾルデがマルケとともに飲むようにと母が用意したものーーを飲んでしまい、もはや情熱をとどめてはおけずに逢瀬を重ねる・・・という展開が骨子。いちばんポピュラーなところはワーグナーだろうか。ケルト系とはいえ、フランス文学でもドイツ文学でも重要な物語である。私が最初に読んだのは、岩波文庫の『トリスタン・イズー物語』、フランス文学の分類だった。激しく圧倒的なロマンスは中々に感動ものだった。

 騎士と王妃の不倫という点では、アーサーの妃ギネヴィアとランスロットと共通する話である。トリスタンとイゾルデから、媚薬という小道具を抜いたものがランスロットとギネヴィアだという見方もある。
 その小道具をこの映画では使っていない。そうなるとどうも、彼らの名前にしておく意味があるのだろうかという疑問がわいてくる。これは例えば『トゥルー・ナイト』『キング・アーサー』などにも感じたことだけど。

 ところで、アイルランド王を演じる男優の名前が「デヴィッド・パトリック・オハラ」--パトリック・オハラだなんて、絵にかいたようなアイルランド名前で笑ってしまう。

 こういう題材は、少女マンガでこそ最もハマるはず。華麗な絵でぜひやってほしい。もし「歴史ロマンデラックス」が健在ならば便乗企画たててたろうに。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

和風オムライス

2006-10-23 11:50:30 | 雑記
 昨日の夕飯は私が作った。
 炊き込みご飯の残りがあったので利用。
 去年「プリンセスゴールド」でやってた料理マンガ、たいへんつまらなかったのだが、出てきた料理、和洋中華のお粥やオムライスはおいしそうだった。和風オムライスは、炊き込みご飯を使ったものらしかったので、たぶん外側が玉子焼きなのだろうと思い、試してみたかったのだ。ふだんの玉子焼きよりは砂糖少な目にして、炊き込みご飯には少し白いのを足して味を薄めた。くるむことは失敗したが味はいけた。
 中華風はーー、チャーハンをカニ玉みたいなので包んだものだろうか。
 ほんと、玉子は役に立つ。かわいくないけどニワトリはエライ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

コミックスは内容統一を

2006-10-22 14:10:20 | マンガ
 単行本の編集において、私は内容の統一が気になる。
 特に、長編の最終巻に少しページが空いて、ギャップの激しい初期作品など入っているのは目障りでたまらない。実例を挙げよう、マーガレットコミックスの『ベルサイユのばら』の9巻、10巻。特に9巻の『初恋物語』は、それ自体話は悪くないのだが、まだ絵が水野英子調だった時期のもので『ベルばら』との別世界ぶりが浮きまくっていた。
 通常のコミックスは各巻の厚さが決まっているし、連載中に出るし、キリの悪いところで「続く」になったり、穴埋めに別の話がはいっていることもまぁ仕方ないかと諦めもつく。しかし、全部終わってから出ることの多い、だから全体の見通しがわかっているはずの文庫版その他、それで切り方がヘンだと嫌だ。あと50ページで「第2部完」なのに、どうせならここまで入れてよとか、シリーズとは無縁の短編入れるのやめて欲しかったーー注--とか。

 こういう点で思い出すのは、『日出処の天子』のコミックスでの最終巻。半分の厚さだったのには度肝を抜かれた。続編がここに入る予定だったけど完成しなかったからなのはミエミエだった。それでも無関係作品でページ揃えをしないで押し切ったとは。そんなムリが通ってしまうほど山岸さんは力があったのか。

 逆に、同じシリーズで漏れているのはたいへん気になるし、そんなのが関連なしの本に入るのも嫌だ、少なくともそれが、作家全体として特別ファンでなく、特定作品限定で揃えたい場合は。
 『天上の愛 地上の恋』は番外編がいくつもあったが、そのうち1本未収録がある。連載が終わったあと、白泉社のホームページの掲示板で「また番外編を」という声が目立っていたけど、これもやはり未収録作品があったことが大きいと思う。本来、作品があってそれを収録するために本が出るのが筋であり、単行本の収まりが目的ではないはず、しかしこの気持ちはよくわかる。少し厚い巻になってもいいから、値段が高くなってもいいから、全部思い切りよく収めてほしかった。


ただし、単行本がめったに出ない贔屓作家の場合にはこんな不満は言ってられない。少しでも多くの作品が収録されたほうがいい。北村夏『私に似た人』での『月曜の朝の固ゆで玉子』とか、川崎苑子『ポテト時代』に『野葡萄』--表題作はコメディで併録はシリアスなんだけどーーとか、『いちご時代』に『木苺さがし』『天子さがし』。 もし『りんご日記』が文庫化されるならば、キャラの名前は違うけど事実上続編である『夢の入り口』もいれてほしいものである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする