レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

勢いでお江本3冊

2011-02-27 06:31:10 | 歴史
 なんとなく勢いで、物好きにも、お江本を3冊購入。

『お江 戦国の世を生きぬいて』by国松俊英 画 十々夜 岩崎書店 フォア文庫
 児童書の棚にある。
 二男の国松を手ずから育ててひいきしたと書いてある点は残念だけど、おおむねまともな内容であり、無理やりな教訓づけなどはしていない。

『お江 信長の系譜』 島崎譲 PHP研究所 B6
 表紙見て、まつざきあけみの絵みたいだと思った。茶々は、激しくウェーブ入りの髪のせいで、葉月陽子の清明ものの「虫愛づる姫君」に見えてしかたない。 この作家読むのは初めてだけど、デビューは少女誌だったのか。
 浅井長政たちの髑髏の杯の件、あれは呪術的(?)な意味合いに解釈する説もあるときいたことはあるが、このマンガでも、自分を散々悩ませた「名将」たちへの敬意だと演説している。傍若無人で傲慢で、並みはずれた、この信長像は納得のいくものだ。
 それにしても、長政の髑髏を手に取り、「賢く若々しく美々しい・・・・・・勇猛なる武将よ・・・・・・ わしはーーそなたを愛していた!!」--などと公然と言ってのけるのは創作の中でも前代未聞だろう。
 江戸へ嫁いだところまでで終わっているので唐突に見えるが、「権力争いやら女の戦いやら、そんなドロドロしたことは「私のお江」には不向きです。少女期で物語を終えられたことを少し感謝する作者でありました」と作者はコメントしている。

『江  姫たちの戦国 1』 暁かおり 講談社 KCDXデザート B6
 タイトルのとおり、現大河の少女マンガバージョン。あっさりしてかわいい、オーソドックスな少女マンガ絵。お江の父長政のほか、一人目の夫、三人目の夫は絵として美形(少女マンガの場合、絵としてきれいでも設定上そうなっていることとは別物なので)。1巻は佐治与九郎と別れさせられたところまでなので、二人目はまだわからん。
 史実としてわかっている範囲を超えて、お江の性格を勝気にしてはいるが、噂にきいている大河でのような出しゃばりぶりではない。失笑をかったらしい、本能寺でのお江の「生霊」も、このマンガの描き方ならばさほどヘンには見えない。


 結局、三冊とも、(さんざんネットその他で目にする評判で判断する限りの)大河ドラマよりもずっとマトモな出来だと推測する。

 さて、歴史ものの感想を書く場合、それが創作物ならば「本」「マンガ」のカテゴリーに入れることを原則としており、こういうのはどうするのか困る。でも今回はまた「歴史」の扱い。
 
 某お江ヨイショ本で、「日本のマリア・テレジア」と書いてあったらしい。--そりゃないだろ、とつっこみたい。お江をくさす意図はないけれど、強固な意志・行動力をもって戦争をも辞さずに粘り、改革もおおいに行った、受け身でなく能動的に戦った事実上の女帝を同列にはできないだろう。 むしろヴィクトリア女王あたりのほうが違和感ない。(私は特にヴィクトリアに知識があるわけでないので、あまり断定はできないけど)本人がどんどん政治行動をとったというよりも、家庭をしっかり保って世に模範を示し、子孫をあちこちにばらまいて血筋を広げた、ということで。
 日本でマリア・テレジアとダブるのは、私にとっては北条政子。激しく夫LOVE、(夫はわりに浮気者?)正しい夫婦関係を世に示そうと熱心だった、子供運が必ずしも良くない。
 「日本のマリア・テレジア」という言葉から、関ヶ原か大坂の陣にあたって、息子抱えて大名たちに訴えるシーンをつい想像してしまったけど、あいにくそれに手頃な年頃の息子はいないんだな。家光は関ヶ原の翌年生まれてるし。

 『お江』を本屋で買おうとして見当たらなかったので、店員に尋ねた。「これ(『お江』を指して)と同じ題材の、島崎譲の最近出たコミックスの『江』はないですか」   店の奥に引っ込んでしばらくたって、わかりませんと言った。「ゴウって英語のGOですか?」
 大河のムチャぶりからすると、おGO!のほうが案外はまっているかもしれないな。
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餃子の数

2011-02-25 18:48:18 | 雑記
 私は特に数字にうるさいわけではないが、ところどころで気にする。
 本を読みながら、○分に何ページのペースで読めているか?となんとなく数えて、ではあとどのくらいかかるかを予測するとか。
 外出した時に、どこまで行くのにどのくらい時間がかかっているのか時計をわりに見るとか。
 餃子をうちで食べるとき、私は数えている。学級での選挙のときの5=「正」のように、自分の皿に一度に五つずつ盛るのでわかりやすい。20以上25以下が基準。
 店での餃子一皿なんて5,6個、そんなのオヤツ程度だ! ああいうのは、ほかにいろいろ組み合わせて食べること前提なんだろうか。外で餃子をたくさん食べたことはないので知らん。
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ローマ三題 『アグリッパ』その他

2011-02-23 10:56:33 | ローマ
『教師諸君!』での、教育実習の場面。
「貴族に対抗して山にこもっちゃたんですね~~ 一種のストライキとゆーか」
 共和制時代の事件だな、「アグリッパ」が身体のたとえ話で説得するあれ。
「カラカラ浴場 五賢帝 内乱の一世紀 ガリアの雄鶏ヴェルキンゲトリクス
 毎年毎年ここだけが 実習生にとられるんだよねー!! うず うず うず」
 作者としても、うんちく傾けたいことは山ほどあるに違いない。

 偶然、上に出ている二つの名前が満たされているのが今月待望の単行本の出た『アグリッパ』1 by内水融 集英社 B6.
 主人公はガリア戦争末期のガリア側反乱の指導者のヴェルチンジェトリクス(と表記してる)であり、副主人公が架空キャラであるやはりガリアの一族長の遺児の少年、したがって、なにゆえタイトルがアグリッパなんだかは謎のまま。たいへん息の長い構想であるらしいので、その謎がわかるのもだいぶ先なんだろうな。(描くにも時間がかかるようだけど、せめて季刊から隔月ペースにはなってもらいたいと読者としては思う) 一般少年誌で、歴史のマイナーな部分を背景にして読ませるのはたいへんだろうけど、お約束をふまえつつ健闘していると思う。
 この1巻の続きになっている最新号に御大登場だときいて、気になって買ってしまった。なるほど、実物を生かしたキャラデザイン。
人の顔の描き方が全体として「濃く」ない画風なのだろうか。これで美少年オクタヴィアヌスを描いたらどんなだろうと、それがいちばん気になる。
 ローマ史部分も、バトルものとしても面白いマンガといえば『セスタス』もあった。あれはどうなっているんだろう。伏線いっぱいなのだから、アグリッピナやオクタヴィアの死も描かなきゃいけないだろうに。

 小学館の学習マンガの伝記で、『クレオパトラ』が出るという。よりにもよって3月15日、いや偶然だろうけど。
 
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乙女文具

2011-02-20 06:37:51 | 
 このまえ、本屋で「活字倶楽部」をぱらぱらと立ち読みした。広告ページは相変わらず多い。その中に「乙女文具」(おとぶん)という奇妙な名前がある。ブックカバーの宣伝である。ポケットつきなんてことは別に驚くものでもないけど、なにやらある種の覆いというのかなんだか、ページの上に乗せて、自分には見えるけどほかからは見えないというシート(?)、公共の場でも人目を気にせずに読書ができますーーという商品があるのは大いにヘンに思った。 そこまで気になるものなのか? しかし、某掲示板でも、電車内で横から見られることを嫌がる人はいるのだ。 そもそも、人目が気になるような本を外で読むのは落ち着かないのじゃないか、と私は思うんだが。
 しかしそうでもないらしい。酒井順子『いつから、中年!?』が文庫で出た。(単行本では図書館で借りたのだった) その本で、新幹線で隣の席のおじさんがエロ文庫本を手にしていたが、隣人の目を気にしてやめて、次に取りだしたのはビジネス本で、この素直な組み合わせに感動した、というエピソードがある。「エロ小説というものは、確かに新幹線の中で読むのに適した本なのかもしれません」、妻子の前ではだめだしもちろん職場でも。だから長距離移動の電車の中は最適かも、という意見が書かれていた。 まあ確かに、駅のキオスクでは売られているしなぁ・・・。
 ところで、この「乙女文具」のHPを見ると、くだんの品については載っていないので、上述の説明が不正確になっているのが残念である。

「乙女文具」
もろにBL絵を使ったブックカバー、こんなのこそ人目が気になるものじゃないのだろうか? --「活くら」に広告の載っていることには深く納得できたけど。 
 ヘタリアグッズの宣伝もあって、エコバッグはちょっと欲しいと思った。ほかの品はアニメイトで見たことがある。
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二色ゼリーの謎

2011-02-18 19:02:59 | 雑記
 ときどきゼリーを作る。原料はジュースだったり牛乳だったり。市販のプリンの素にせよ、ゼリエ○スにせよ、指示のとおりだと濃すぎるので、セラチンもそれより薄くしてつくる。「1袋につき250cc」と書いてあれば300ccにして充分固まる。
 まえに、イチゴのゼリエースと牛乳とで、ピンクと白二層のセリーをつくろうとした時。まず、牛乳300cc(指定では250)にセラチンを溶かしてある程度固めて、その上にゼリエース400ccを流した。すると時間が経って、紅白が逆転していた。それ以来、この組み合わせのときにはゼリエースから先にしている。
 先日、コーヒーと牛乳で二色をつくろうとした。先に、ゼラチンを溶かしたコーヒーを容器にそそいで固める。そのあと、ゼラチン入れた牛乳をその上に。すると、ドーナツ状の容器の中身は、上にコーヒーのブラウンが浮いてきて、牛乳部分(でもコーヒーが溶けて薄茶色)が下方へ。しかし、もと市販ゼリーの透明プラスチック容器にそそいだぶんは、上から牛乳がコーヒーを溶かして色が薄茶と化し、下のほうがまるでプリンのカラメルソースのようにセピア色。いずれにせよ、白とセピアにはできなかった。
 今回は、牛乳もコーヒーも量は同じくらいのはず。固くなったセリーの上ならば溶けて混ざりはしないのかもしれないけど、ぷるぷるのほうがおいしいからなぁ。
 容量とか、濃度とか、熱さとか、いろいろな要因が考えられるーーけど、追求しなくていいや、おいしければ。
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ベルリンへの心残り

2011-02-16 05:23:26 | ドイツ
 春学期の講義のタネを選ぶ際に、多少は時事ネタも意識する。今年が「日独交流150年」で切手が出ており、そのデザインにちなんでベルリンやドレスデンの話もしようと思い、関連本を読んでいる。
 プロイセンという名称はいまは存在しないけど、かつて世界史上では重要な役割を果たしていた。
 いまのブランデンブルク州あたりのマルク・ブランデンブルク地方と、いまのドイツよりうんと東に位置する、いまはポーランドになっている、「ドイツ騎士団」が侵攻していったプロイセン、これらがまとまって、18世紀初めにはプロイセン王国に。
 ベルリンが首都として大きくなった歴史も浅い。国書刊行会から出していたアンソロジー『ドイツの世紀末』(ウィーン、ベルリン、ミュンヘン、プラハ、チューリヒ の5冊ある)の「ベルリン」によると、いきなり近代から始まった都市だと説かれている。そして繁栄は1945年にまたいきなり終わったと(33年で黄金期が終わるとする見方は当然ある)。--このアンソロジーは86年に出ている、つまり「壁」の崩壊前。たぶん編集者たちはこの数年後に激変するとは夢にも思わなかったろう。少々感慨にとらわれる。

 私がベルリンに行ったのは98年の夏の3泊。バスなどを駆使してめいっぱい動き回った。最も感動したのはカイザー・ヴィルヘルム記念教会の『スターリングラードのマドンナ』(当ブログでは既にたっぷり言及済み)。 歴史博物館には2度行ったのにそれでも見きれなかった。有名な「壁博物館」には行ってない。「博物館島」のいくつかは修理中だったので見てないぶんがある。東ドイツの信号機のキャラクター「アンペルマン」の店は当時まだなかった。「コンツェルトハウス」のピアノコンサートには友達が連れて行ってくれて、建物共々楽しかった。この近くに「ドイツ大聖堂」と「フランス大聖堂」があって、後者の中には「ユグノー博物館」があるそうだけど、両方とも行ってない。  巨大なベルリンはそのぶん見ものも豊富だし、私も心残りは山ほどある。ローマキャラの彫刻だって当然見たい。ユダヤ博物館もできている。動物園で白クマのぬいぐるみも欲しい。名物の「カリーヴルスト」(カレー粉とケチャップをまぶした焼きソーセージ)食べたい。
 1週間いたって味わいつくせそうにない都市のはず。それなのに、パックツアーでは半日しかあててなかったりして、人ごとながら抵抗を感じる。もっと限定した地域をじっくり落ち着いて見せる企画はなぜないんだろうか。あちこちまわらせないと旅行会社のもうけにしにくいのか?
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『教師諸君!』その他

2011-02-13 07:02:32 | マンガ
『教師諸君!!』1巻 駒倉葛尾 芳文社まんがタイムコミックス A5判

 コミックスは(雑誌もだけど)サイズで棚を分けてあることが多いので、紹介する際にはサイズも明記しておいたほうが便利ではなかろうか。違うところを探してしまうのは空しい。

 さて、『教師諸君!』、4コマ雑誌「まんがタイムファミリー」でおととし夏から掲載の作品がついに単行本化でバンザイ!

 変人の世界史教師、西名史生は、サリバン先生ふうのクラシカルな衣装に身を包み、己の教科に尽きせぬ情熱を抱き、茶道部顧問としてドジを踏み、世界の甘いものをつまみ、休日は博物館を巡り、愉快な仲間たちや生徒たちと共に四季と学校行事を堪能している。--いいなぁこんな生活。
 スリムさの秘密であるあの衣装、欲しいと思った読者は大いに違いない。
 
 各回ごとについている長ったらしい説明的なタイトルは、昔の書物によくあるものを意識しているのだろう。
 カバー見返しのカットは、多くの人々が世界史教科書で目にしたことのあるザビエルのまねっこで必見必笑。バックの二人はデューラーとサド侯爵ね。

 「まんがが無ければ教科書を読めばいいじゃない」--ここだけで使うのはもったいないコピー。
(関係ないけど、『動物のお医者さん』のヒット中に、紀伊国屋書店の新学期キャンペーンのポスターでチョビが使われていた、「まなぼ。」と。)

 ところで、アマゾンでこれのレビューを書くためにこの題で検索したら、いっしょに『生徒諸君!教師編』もぞろぞろ出てきた。本編の始まったころに私は中学生で、仲よしの友達が庄司陽子のファンで応援していたけど私は当時も今も読んだことはないのだった。


『あかねこの悪魔』1  竹本泉  エンターブレイン A5
 新刊ではなくてもう数カ月経っている。
 『テルマエ・ロマエ』の掲載誌であるのでたま~に買う「コミックビーム」の連載。やたらとアクの強い作品の目立つこの雑誌では、珍しく可愛い絵でオアシスを感じる。
 読書好きの高校生、山嶺茜子が、変わった本のある「第二図書館」でよく一緒になる辻島君と話すようになる。茜子の借りた本を次に彼が借りて読むと、彼女が読んだときと内容が違っている? 本の世界の中に生息する「紙魚(しみ)」が文字を食い散らして内容を変えてしまうので、紙魚を捕獲しなければならない、そんな使命を負わされた茜子は、妙なコスプレをさせられて本の中を探検する。
 『恋するアーサー王 円卓の美女殺人事件』 12人の騎士がみんな美女 みたいな本
ーー読んでみたいぞ。
 「昔すごく面白いと思ったのに あらためて読んだらあれー?て思うことよくあるよ」 「紙魚のせい?」
 女性読者には話よりもキャラの魅力のほうが大事なのよ~なんて発言が出てきたのはトーマス・マンの『ワイマルのロッテ』だと長いこと思ってたけど、読みなおしてもそんなのはないので、あれはなんだったんだろうと気になる。紙魚のせいだったり・・・しないか。
 「ときどき なにを読んでたんだっていうような書評あるけど・・・・・・ あれは紙魚のせいかも」 あははは。


『文学少女と恋する詩人』  角川あすかコミックスDX B6
 「文学少女」シリーズはまえにも目にしていて、その時は迷って結局買っていない。
 今回、出てくる詩人の中にハイネの名前があったので購入。
 変人の文芸部長が、片思いに悩む男子生徒にアドバイスとして詩集を渡していく。
 「ほら「四季の歌」にもあるでしょう? 秋を愛している人は心がとっても深い人で 愛を語っちゃうハイネみたいな僕のお友達だって ハイネは君の友達よ!」 
「んな失恋ばっかしてるポエマーな友達はいらねえ!」
 しかし、ハイネやらバイロンやら、真正面から受け止めて読んで、燃えたり怒ったりしている姿が微笑ましい。読書の本来のあり方かもしれない。
 ところで、『四季の歌』で「愛を語るハイネのような」は正しくは「僕の恋人」である。--話の都合で変更したのだろうか。


『へだたり』 坂田靖子  ジャイブ  B6
 これと上記の「文学少女」は同じころ新刊棚に出ていて、勢いでまとめて買った(購入する際か否かで、タイミングや勢いには結構左右される)。
 主としてJUNEに載った作品集。ほとんときわどくはない。
 雪だるまたちが禁断を破って滅亡する『スノーマン』、ナメクジの嫉妬が恋人を死においやる『ジェラシー』に、じわじわとくるおかしさがある。
 抑制、洗練、ウィット、そういう言葉が坂田ワールドには似合う。
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巻数とタイトル

2011-02-08 14:52:57 | 
 高校時代、武者小路実篤を多数読んだ。武者には「山谷五兵衛もの」と言われる作品群があり、暇人とその友人である書家や画家などの交流の日々を扱っている。現代ならばシリーズと言われるだろう。
 同じ人々が登場する作品群をまとめて「○○シリーズ」という場合、その○○は作品タイトルにはなっていないほうが私にはしっくりくる。
 『エロイカより愛をこめて』の場合、これを「エロイカシリーズ」と言われることに私は抵抗がある。実際に『エロイカより~』の題が表に立っているので、「シリーズ」などと言わないで、単に『エロイカ』でいいではないか(『エロ愛』なんて呼び方には断固反対!ウィキペディアにまでそう書いてあるとはけしからん)。しかし、コミックスの奥付には『エロイカより愛をこめて・シリーズ」と書いてある。長編にはみんなそうしているだけなのだろうが。
 佐々木倫子作品でも、人の顔を名前を覚えられない少年黒田勝久の話は「忘却シリース」であり、就職浪人と美大生の姉妹の話は「雁子&鴫子シリーズ」、それぞれ、『忘却』、『雁子&鴫子』なんて題のマンガがあるわけではない。『ペパミント・スパイ』は、これが通しタイトルになっていて、各話は「○○編」と添えて区別している。わざわざ『ペパミント・スパイ』シリーズなどと呼ぶ必要はない。

 本の一覧でしばしば感じる目ざわりなことーーもう終わっていて続きが出るはずないのに、「全○巻」ではないこと。『坂の上の雲』1~8 とか、『風と共に去りぬ』1~5 とか。
 その逆に、「全1巻」といちいち書いてあるのもなんだかうっとうしい。巻数が書いてなければ全1巻と読者は判断するという前提でいいのではないか?--もっとも、続きがあるべき内容なのにそれっきりということも少なくないのも事実。しかし、そういう意味があって区別しているとはまず思えない。
 作者は続かせたい意欲があるけど、反響がなければこのままなので、最初の巻には「1」も、エピソードタイトルもつけず、めでたく続いたらそこから「2」とか、添え題がつくということは多い。そういう統一のなさはたいへんみっともないと私は思う。
 『天上の愛 地上の恋』は、打ち切りにあったときには単行本はただ『天上の愛 地上の恋』だった(尻切れトンボもいいとこの終わり方で)。その後めでたく再開が決まり、同人誌として発表していたぶんが一気に2巻3巻4巻として出たあたりから、そのまえのぶんに「1」とつくようになった。巻数なしのぶんはそれなりに貴重になったのだろうか。
 『炎の蜃気楼』は、最初の巻は単に『炎の蜃気楼』であり、その次巻は『緋の残影  炎の蜃気楼②』となった。
 『マリア様がみてる』の場合は、2巻目からは『マリア様がみてる』に添え題がつくようになった。この作家、「巻数がつくとごちゃごちゃする」という考えで、巻数がない。しかし、明らかに話に流れがあるのだからつけておいてもらいたいと私は思う。

 ところで、ここで「添え題」などと書いているものを、通常は「サブタイトル」と言っていることが多い。
 ウィキペディアには、
「サブタイトル (subtitle) は、本、映像作品、音楽作品などにつけられる、説明的な、もしくは代替的なタイトル(題)である。副題に同じ。
目的には、テーマを匂わせる、購買意欲を沸かせる、シリーズ内での位置づけを明確にする、既存のタイトルと同名になることを防ぐなどがある。」

 (しかし、英語のサブタイトルって本来は字幕を指すという。)テレビドラマなどでの各回の題はエピソードタイトルというらしい。ちょっと長いな。すでにエピタイなんて略語ができているのだろうか。
 上記の説明の例としては、『クレオパトラの時代  ローマ共和制の崩壊』  『ウィリアム・テル伝説  ある英雄の虚実』  主要題がムード優先で内容がわかりにくいので副題で説明を、あるいはその逆とか。『呪縛の宴  ドイツ運命劇集』 『月下の幻視者  ドイツ・ロマン派短編集』
 あ、類似品や同じ題のものと区別するためといえば、「ナポレオン」とか「クレオパトラ」のように、ネームバリューがあって何度も本・映画のタネにされるものの場合に必要だろう。 しかし実際のところ、上手な副題で区別した映画の例を私はただちに挙げられない。愚劣な手抜き題ならば多いけど。 原題が『ヘレン・オブ・トロイ』である映画は少なくとも二つあるが、一方は(日本公開時は『トロイのヘレン』)今日のDVDでは『ヘレン・オブ・トロイ』。もう一つが『トロイ ザ・ウォー』、・・・あ~言いにくい、腹立たしい。
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きのうはいろいろ

2011-02-06 07:54:36 | 雑記
 きのう、半年ごとの歯医者の定期検診で、まえに住んでた町へ(電車で40分くらい)。
 これと同じくらいの時期に、調布で「毘沙門天管弦楽団」の演奏会があるのが常で、今回は同じ日の午後。それで出直すのはもったいないので、そのまま調布へ。「なか卵」で食べようと思っていたけど、場所をきっちりとは調べてなかったのでわからず、結局「吉野家」へ。並みサイズ牛丼とキャベツと味噌汁で500円のセット、さすがに安い。そのあと甘いものが欲しいので、隣の店でカスタードのタイ焼きを食べる。
 わりに大きい本屋があり、レジで今月の『本とも』(徳間書店の冊子)をもらう。文学のマンガ化の文庫が、マンガでなく文庫の棚で、袋いりでないからいろいろと絵を確認できた。もうかった気分なのでお礼になにか買うものはないかと探したら、穂村弘『現実入門』という文庫が目についたのでこれを購入。この店のブックカバーには、鬼太郎キャラの絵の品もあるのでそれにしてみた。バスにもそういう絵。水木しげる夫妻が調布に住んでいるかららしい。調布の駅の北側には初めて来たけど、これは『ゲゲゲの女房』以来なんだろうか?
 1時ごろ南口に行ったら、もう会場まえには人が並んでいた。別の入り口から入って中でしばらく待っていた。1時半に開場。
 曲目は、シベリウスの組曲『カレリア」』、チャイコフスキー『ロメオとジュリエット』、メインはベートーヴェン『運命』。「ジャジャジャジャーーン!」を山ほど浴びて、でもまだまだ終わるわけではなく、最後の章でもまた盛り上がりまくりでフィナーレ。おまけにアンコール曲は『ラデツキー行進曲』! 
 帰りに、地元の図書館で予約本を借り、本屋で『アグリッパ』1巻×2冊を買う。
 帰宅したら、母がこれからコロッケを丸めるところだったのでもちろん参加する。「今日もコロッケ 明日もコロッケ」である。

 したがって、今日(日曜)はコロッケパン。私はクリームコロッケのほうが好きだけど、用途の多さではイモのほうが楽しい。


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寺田寅彦随筆集から

2011-02-03 05:24:18 | 
『寺田寅彦随筆集』から、興味を感じた部分、主としてドイツに関連したところを引用してみる。引用の前後に -- をつけることにする。


ーー『映画雑感Ⅱ』から

 「制服の処女」とこの映画とを比べても実によくドイツ人の映画とフランス人の映画との対照がわかるような気がするのである。映画人としてもドイツ人はやはり「あたまが悪く」で、その結果として物事を理屈で推して行く。フランス人は理屈を詰めて行くのをめんどうくさがって「かん」の翼で飛んで行くのである。
 (「パリーベルリン」)ーー

 別の個所で、科学者にはあたまの良さと悪さの両方が必要だと述べているし、上記引用で「あたまが悪く」がカッコつきであることからしても、単純にネガティブな意味で使っているのではないと思われる。 
 「パリ祭」を、たわいのない話でもわずかな呼吸のよさで見せているという評価の文脈で、「やはりフランス人には俳諧がある」と言っている。
「人生謳歌」という映画に関して、
ーー 作者はロシア人でも映画は純粋なドイツ映画である。ロシア映画にはもう少しのんびりした愉快なところもあるはずである。一応わかった事をどこまでも執拗にだめを押して行くのがドイツ魂であって、そのおかげで精密科学が発達するのであろう。ーー
 
 と述べている。
 多くの個所で、「俳諧」というものがあるとかないとか言っており、これは別の言葉でいうとすれば、ポエジーなのだろうか。ドイツよりもフランスのほうが洒落っ気があるという指摘ならば、なるほどそういう感じはあるかも、と私も思う。その半面、ロマンティシズムや叙情性は、ドイツ文学こそ本場であるという考えも私は抱いている。もちろんフランス文学でもイギリス文学でもロシア文学でも「ロマン主義」はあり、いわゆるロマンティックな作品はあるのだが。新潮文庫に収められている外国文学の詩集は、イギリスがバイロン、シェリー、フランスがランボー、ヴェルレーヌ、ボードレール、コクトー、ドイツがゲーテ、ハイネ、リルケ、ヘッセ。--これ、ものすごく、それぞれのイメージが偏っているのではないか? フランス勢はやたらと難解お耽美な感じがする。イギリスのはあぶなっかしい放蕩青年たち。叙情性という要素はドイツのがいちばん目立っているように思う(この中で最も難しいのはリルケだと私は思う)。  最近の聞きかじりであるが、ハイネの意見では、最高の小説はスペインのセルバンテスの『ドン・キホーテ』で、最高の戯曲はイギリス、シェイクスピアの作品で、最高の抒情詩はドイツ、ゲーテのものだそうだ(そしてイギリス文学でシェイクスピアの次にえらいのはウォルター・スコットだそうだ)。 ハイネ自身、「ロマン派」に対して距離を置いてはいるが、その作品にロマン派的な要素は充分にある。もちろん、「ロマン派」要素と「叙情性」とイコールというわけではないけれど、普通に考える、ムードのあるもの、空想幻想、憂愁、郷愁、情熱、悲劇性、そういった魅力はドイツの精神文化に横溢している。
 

ーー映画雑感Ⅲから
 ロシアでもドイツでも、男どうしがおおぜい寄り集まったときに心ゆくばかりに合唱することのできるような歌らしい歌をたくさんにもっているということはじつにうらやましいことである。日本でも東京音頭やデッカンショ節があると言えば、それはある。しかし上記のトーキーに出てくる二つの合唱だけに比べても実になんという貧しさであろう。ーー

そういえば、男声合唱はドイツやロシアがいちばんしっくりくるイメージが確かにある。


ーー「記録狂時代」
 シガーの灰の最大な団塊を作ったというレコードもやはりドイツ人の手に落ちた。これは1929年のことであるが、ことしはヒトラーがたくさんな書物の灰をこしらえた。それでも昔のアレキサンドリア図書館の火事の灰のレコードは破れなかったであろう。
(昭和8年=1933年)
「涼味数題」
 風鈴の音の涼しさも、一つには風鈴が風に従って鳴る自由さから来る。あれが器械仕掛けでメトロノームのようにきちょうめんに鳴るのではちっとも涼しくはないであろう。また、がむしゃらに打ちふるのでは号外屋の鈴か、ヒトラーの独裁政治のようなものになる。自由はわがままや自我の押し売りとはちがう。自然と人間の法則に服従しつつ自然と人間を支配してこそほんとうの自由が得られるであろう。ーー

 これらの書かれた年には、かの悪名高いナチスの「焚書事件」がドイツ各地で行われたので、上記の「書物の灰」はもちろんそれを指している。
 日独協定に近い時代でも、こういうことを書いていたのか、ちょと驚く。この随筆集の編集者の小宮豊隆は独文学者だし。
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