レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

歴史上の異名

2007-07-29 13:45:50 | 歴史
「むこうの人は王様にアダ名をつけますね」、
女子高時代の世界史の時間に出てきた先生コメント。確か「短躯王ピピン」のときだった。「たんく」なんて難しそうな言葉なのでごまかされているけど、要するに「チビ」と言ってるのだな。「タンク」が戦車ならば少しは格好もつくだろうが。カール大帝の父、カロリング王朝を開いた人。
 同じ名前が多いので、個体の識別のためにはこういう区別があると助かる。

 思いつくままに挙げてみると、
シャルル「無謀公」:ハプスブルクのマクシミリアン1世の最初の妃マリー・ド・ブルゴーニュの父
フィリップ「美公」:上記マクシミリアンの息子
「狂女」ファナ:上記フィリップの妻
ファナ母イサベルの兄エンリケなんて「不能王」ときてる。
ルートヴィヒ2世の「狂王」なんてのももちろんカゲ口だろうけど。
ザクセンの「強王」はアウグスト2世。
「ブラッディ・メアリ」「慎重王」「処女王」

(時代が飛びすぎるけど)「ヨーロッパで最も危険な男」オットー・スコルツェニー、
「バンベルクの騎士」フォン・シュタウフェンベルク大佐
「砂漠の狐」ロンメル将軍
「黒い悪魔」エーリヒ・ハルトマン
 ロシア戦線で活躍したドイツ空軍の戦闘機乗り。黒いのは機体であって、本人は金髪。仲間内では「ブービ(坊や)ハルトマン」と言われる童顔の主。

「中世にとどめをさした男」=マルティン・ルター
・・・・・・これは私が勝手に言ってるだけである、念のため。

「仇名」という字面は人聞きが悪いけど、「異名」「二つ名」、「人呼んで~」はむしろかっこいい。
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『怖い絵』

2007-07-27 15:24:11 | 
by中野京子、朝日出版社。新刊。副題が「名画に塗り込められた恐怖の物語」。私が買った大型書店では、「美術エッセイ」の棚だった。
 いろいろな意味での「怖い」がある。『我が子を喰らうサトゥルヌス』のように見るからに惨たらしい絵。ダヴィッドの『マリー・アントワネット最後の肖像』のように作者の悪意が怖ろしいケース。ドガ『エトワール、または舞台の踊り子』は、バレリーナに対する当時の偏見を作者も無批判に持っていることを感じさせるのが怖いと解釈されている。
 アルテミジア・ジェンティレスキの『ホロフェルネスの首を斬るユーディト』は、己の醜聞(厳密に言えば被害者であったのだが)にも開き直ったように凄惨な光景を描いてのける画家の度胸を筆者(中野さん)が賞賛しているあたり、読んでる私も小気味良さを感じる。
 題材として私が関心を持つのは、コレッジョ『ガニュメデスの誘拐』。(ローマ小説で、オクタヴィアヌスにこれの比喩を使った例があるので。その場合ゼウスはカエサルである、もちろん。) 同じ題材のレンブラントも載っている。こちらは一昨年、上野のドレスデン展で見た。目玉展示の一つだった。失禁すらして泣き叫ぶ赤ん坊の絵を、カタログでは、この題材に含まれるエロティシズムへの風刺だと説明してあった。--『怖い絵』では、作者が赤ん坊を失くしたばかりだったので、同性愛要素は入らず、親の悲しみが主題だと説明している。そういう事情は初めて知った。
 大神が美少年に懸想して、鷲に化身して連れ去る、--神話の衣を剥いでみれば、明らかに犯罪である、言うまでもなく。(だいたいあの神々は怪しからんことを山ほどしている。) そこを美しく描いてしまうことの危険、現代でも子供を犠牲にした性犯罪があとを絶たないことに思いを致してこの絵は怖ろしい、というわけである。
 ガニュメデスの心理をどうとらえるかでも様相は違ってくるだろう。当人の心を問うこともなく連れ去ろうとする神に対して、拒絶や怒りを見せるガニュメデス、そんな絵があってもよかろうに。


 取り上げてあるブロンツィーノ『愛の寓意』は、『エロイカ』ファンにとっては複雑な懐かしさを抱かせる絵だ。第1話はこの絵から始まる(「まるで春画のようだ」なんて言われていたな)。しかし、少佐の登場から『エロイカより愛をこめて』は真に始まったと見做す、たぶん多くのファンは、あのあたりはなかったことにしてしまいたいのではなかろうか・・・(私はそうだ)。
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『天を斬る』

2007-07-25 14:45:56 | 新選組
 いま「時代劇専門チャンネル」で、栗塚旭特集として主演作品をどんどん放映している。いまは『天を斬る』と『新選組血風録』。『天を斬る』はビデオも発売されておらず、うちでも全部は録画がなかったので嬉しい。正直なところ出来不出来があるが、私が初めて半分以上見た結束&栗塚作品なので愛着がある。
 昭和44年ー45年(1969-70)放映、26回。(これに続いて『燃えよ剣』となる) 幕末ものではあるけど新選組ではない。それよりも少し前の時代。第1話で「安政6年」と言ってる。
 なにかやらかして講武所頭取をクビになった大身の旗本の牟礼重蔵(栗塚)、都の治安悪化に苛立つ京都東町奉行所与力桜井四郎(島田順司)、茫洋とした西町奉行所与力権田半兵衛(左右田一平)が、隠密として不逞浪士の取り締まりを命じられる。前半は京都で、後半は各地を転々としながら任務遂行。
 (森川久美の昔の名作『南京路に花吹雪』の前編『蘇州夜曲』と設定に共通点がある。本来エリートだったヤツが反抗して、物騒な時代で特に物騒な町にやられて危険な任務、という点で。)
 ゲストキャラの人々が、時代のうねりに翻弄される庶民の哀歓、という結束信二ドラマのいつものテーマを感じさせるしくみになっている。
 悪者退治と人助けという点では『水戸黄門』なんぞと共通なんだが、この旦那がたはさほど面倒見が徹底していない。そのせいなのか作者の主張なのか、ハッピーエンドにはめったにならない。
 3人の旦那がたに使われている(雇ったわけでもないのに)メンバーは、大工の棟梁の万五郎(小田部通麿=『燃えよ剣』伝蔵)、江戸っ子無宿者の百太郎(西田良=『燃えよ剣』原田)、西の与力大沢孫兵衛(香月涼二=『燃えよ剣』の河合ーーただしこれはオリキャラと思ってもらいたい)。
 それぞれに「キャラだち」しているので、いま普通に放映されたらきっと同人誌を生むタイプであろう。

 改めて第1話を見てのどうでもいい感想:
「本来単なる無頼の者が、主義主張の為と称して狼藉非道を繰り返すのを手をこまねいて見逃さねばならないことを申しておる」
ーーこれ、早口言葉で言ってみよう!
 桜井さんが、奉行所の無策に抗議して上司に談じ込んでいるセリフ。順ちゃんも言いにくかったろう。


 弟がヤフーBBで『仮面の忍者赤影』を見ている。赤影の坂口さんは『血風録』の山崎丞(監察というのも忍者みたいなものだな)である。『血風録』から『燃えよ剣』に至る作品群は出演者製作者がたくさん重なっているが、『赤影』にも新選組の(?)メンバーがたびたび出ているそうだ。
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ボディシャンプー

2007-07-22 15:58:05 | 雑記
 30数年前、シャンプー・リンスにやたらと凝ったことがある。店には様々な種類が並んでいてカラフルで楽しい。それでたくさん買っていた。もちろん使用はした。
 いま、多少凝っているのがボディシャンプー。いま風呂場には、母のもらいもの、試供品の小ビン、私が地元デパートの半額品を二つ買ってみたもの、と4つ並んでいる。本屋へ行く途中の売り場で「ラベンダー」が目に入り、その時はやめといたが、昨日朝のニュースでラベンダー畑が映ったので、それを理由にして購入。なるほどそれらしい香りだ。
 ところで、「ボディシャンプー」と「ボディソープ」は違うのだろうか。
シャンプー:液体。髪を洗う
石鹸:(現在ではほぼ)固体。顔・身体を洗う(洗濯石鹸というものもあったけどいまはあまり見ない)
「ハンドソープ」というものもあり、これはたいてい液状だろう。ポンプ式で。思うに、学校など公衆の手洗い所で固体の石鹸が置いてあると、見ず知らずの人と間接的に手を触れることになるのがイヤだという神経質な要望から作られたものではなかろうか。
 体洗いに使うことに変わりがあるじゃなし、ボディのあとにシャンプーでもソープでも、たぶんたいていの人にはどうでもいい。私も特に区別を考えずに使っている。
 でも「ヘアソープ」という名称はなさそうだなぁ。
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『山田太郎ものがたり』

2007-07-20 14:43:00 | マンガ
 by森永あい、95-2000、「あすか」に掲載されたコメディ。
 名門校に通う山田太郎は、容姿端麗頭脳明晰スポーツ万能品行方正、「唯一の欠点は貧乏なこと」。放浪癖のある(ほとんど留守)絵描きの父、元お嬢様で病弱で経済観念ゼロの母、多くの弟妹を抱えて日々生活に追われている境遇でありながら、その容姿と雰囲気から周囲は彼をお坊ちゃまだと思い込んでいる(本人はまったく隠していないのに)。

 私がこれを知ったのは、森奈津子『耽美なわしら』を介してだった。当時「あすかノベルス」でこのナイスなタイトルを目にして、面白そうなので買って、ほんとに面白かった。イラストが森永あいで、雑誌「小説あすか」には、この小説のキャラと太郎が共演する番外編が載ったこともある。(『耽美なわしら』をきっかけとして私はモリナツと森永双方の読者になった。)

 台湾で『貧窮貴公子』の題でドラマ化されたことは知っていたが、いま日本製も放映中。
 主演が、・・・坊ちゃんに見えないぞ(それにさほど美少年でもないぞ)という不満はあるが、まぁ悪い感じではない。
 原作を思い出してみて、これは使わないかな?と思う点
・先輩(ドラマでは同級生設定)杉浦(男)が太郎に惚れてしまう展開
・太郎の妹(実は女装した弟)が「夜のお供に すっぽんまんじゅう」のポスターのモデルになる。けっこうロリな図。
・上の妹よし子(小学生)が、御村の婚約者同様になる(数年後の後日譚では本格化してる)
  「家族愛」を強く出して健全路線のようだから、ロリは避けるだろうな。原作で太郎は父ちゃんが14、母ちゃんが20のときの子だけど、少なくとも父ちゃんの年齢は上げてあるらしいし。

 いま書店では改めて大きく並べてある。私は既に持っていないけど、売れてほしいものだと思っている。昨今の少女マンガのヒット作では珍しく、伝統的少女マンガの絵だから、ということもその理由だ。ほどほどにきっちりしていて、可愛さも華やかさもあるタッチ。
 『耽美なわしら』は、別の出版社から挿絵なしの完全版(ノベルスには未収録だったぶんも入れたという意味で)が数年前に出たけど、おーい角川、この際だから、イラストも復活させた「完全版」(マンガ込みで)を出したらどうだ?

 ドラマの間でやっている「ホワイト家族」のCMに出てくる白い犬が可愛い。
「ホワイト家族 」
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仇名

2007-07-18 15:04:59 |   ことばや名前
 先月、言葉に関する番組だったろうか、「仇名」がテーマになっていた。「いじめにつながるから」という理由で禁止し、苗字+さん で呼ぶようにさせている学校もあるという話が出たので呆れた。確かに、本人の嫌がる呼び方もあるが、個別に観察して指導すべきところだろうに、それを一括禁止とは、手抜きでないのか。それに、なぜ苗字なんだ。下の名前が不可の根拠はあるのか。同じ年の男の子同士が「さん」づけなど、気持ち悪い光景だと私は感じる。
 こういう感覚は世代の習慣にもよっても違うが。

 「仇名」といっても、どのくらいから該当するか?。名前をアレンジしたものはむしろ「愛称」「通称」だろう。(唐突ながら)『スラムダンク』の桜木花道(ハデな名前だな)はたいていの男を本名以外で呼んでいる。リョータを「リョーちん」、三井を「ミッチー」なのは愛称のうち、「ゴリ」「メガネ君」なんてのはアダナか。監督を「オヤジ」と呼ぶのは?

 上記の番組で、欧米人には仇名の習慣ないって言っていたけど、そうとも言えないだろ、と世界史に首つっこんでいれば思う。王様にもずいぶんな名前つけてるじゃないか・・・とこれは「歴史」カテゴリーで。
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ローレライ

2007-07-15 14:20:11 | ドイツ
「ローレライ」「ライン河」「やめよう あのケーキ屋は高い」
『エロイカより愛をこめて』番外編『パラダイスPARTY』のワンシーン。ある種のスパイごっこで、合言葉として「ローレライ」と「ライン河」の結びつきが出てきた。すでに25年も昔のことである。『エロイカ』にハマり始めのころで初めて雑誌で読んだのでいっそう思い出深い。

 ライン河をめぐるロマンティシズムを語るうえで、ローレライは欠かせないだろう。ドイツ・ロマン派の主要詩人クレメンス・ブレンターノの小説中の物語詩で登場した。多くの男たちを惑わせることから魔女として訴えられた美女は、恋人に去られた過去があった。司祭の勧めで修道院へ向かうが、その途中で彼の乗った船を目にして身を投げる。この作品が1802年。
 同じくロマン派、ブレンターノとも親交のあったヨーゼフ・フォン・アイヒェンドルフの小説『予感と現在』(1815)の挿入詩には、森の魔女として「ローレライ」が出てくる。森の中で美女に声をかける男、からかうように拒絶してみせる女、しかしもう男は罠にかかっている。
 (この『森の対話』はシューマンの連作『リーダークライス』にも含まれている。)
 誕生の際に、男との関係において被害者でも加害者でもあった「ローレライ」は、こうして危険な誘惑者としての面を強めていく。
 そして決定打は、1824年のハイネの『ローレライ』。「なじかはしらねどこころわびて むかしのつたえはそぞろみにしむ」の近藤朔風の名訳で知られるジルヒャーの作曲は38年。ユダヤ人迫害で悪名高いナチス時代の歌の本にはこれが白々しく「作者不詳」として載っていたというのは有名な話である。

 ライン下りは、90年秋と99年夏に2度した。確かに、どうということのない岩山なのだけど。川からはかなりの距離があるので、これで舟乗りに聞こえてくる歌ならばものすごい声量だぞ、とか、美女かどうかなんてわかるもんかい、とツッコミをいれずにはいられない。
 まえに読んだ詩の本に、ハイネにとって女の美とは男を滅ぼすものでなくてはならないのだ、という解釈が載っていた。「ミロのヴィーナス」のように、惑わしはしても差し伸べる腕は持たないとか。ローレライなんてまさに女の中の女、理想の極み!なのだと。
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7月12日なので

2007-07-12 14:18:10 | ローマ
ユリウス・カエサルの誕生日は、7月12日説と13日説とある。生年も必ずしもはっきりとはしてないが、キリよく紀元前100年とされていることが多い。
 「古代文明ビジュアルファイル」の22号に、「カエサルの意外な素顔」とかなんとか書いてあるが、ハゲの女たらしの借金王云々で、『ローマ人の物語』読んだだけでも知ってることだろう、と思った。もっと言うなら、・・・・・・ハゲの女たらしでないカエサルなんてカエサルじゃないやい!
 この雑誌(?)の3ページ右端に載っている「若き日のカエサル」が、やたらとハンサムなので、これほんとにカエサルか?オクタのマチガイでないのか?と思ってしまう。単に私が知らなかっただけならば仕方ない(?)が。これがカエサルならば、マクロウの小説でオクタと容貌が似てる設定なこともムチャではない。「ローマ文明博物館」の品だという。検索してはみたけどわからない。
 しかし私の本音は、カエサルの容姿レベルは、まあまあ程度だったとしておきたい。美男というわけではなくてもモテるという役どころのほうが似合う。私に決める権限はないけれど。

  カエサルの死直後に作られた彫像は整っているけど、生前のはハゲていることに言及した文章が載っている(長谷川博隆『カエサル』が出典と思われる)。
 美男であることとハゲとが矛盾対立するかのような文章はかなりおかしい。(「クレオパトラは、美女?それとも悪女?」と同じくらいおかしい。)
 ハゲで美男だっているだろう。「土方役者」栗さんを見るがいい!

この同じ号には、「マリー・アントワネット女王」が「中世のファッションリーダー」だというザツな記述が見られたので憤慨にたえない。
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夏の文庫フェア

2007-07-09 18:39:01 | 
「新潮社の100冊」を始めとして、角川文庫、集英社文庫の3つで夏に100冊のセレクションでフェアをするのが常である。読書といえば秋なのに夏なのは、夏休みの読書感想文の名残だろうか。
 新潮社は、今年は2冊買うとアロハ柄のブックカバー。応募ハガキには二口貼れるようになっているので4冊買いたくなり、芥川の短編集2冊と、『金閣寺』、『黒い雨』にした。・・・アロハ柄とパンダのカバーをかけて『黒い雨』を読むのか、似合わん。来年は『夏の花』も入れてくれよ。
 角川は、2冊でブックカバー。去年のは欲しいデザインがなかったので応募しなかったが、今年は、弟にやろうと思って「ゲゲゲの鬼太郎」を申し込んだ。
 集英社は、「その場で携帯ストラップ」、--いらん。
 
 「背表紙のカラー」の項目を投下したころ、講談社文庫のブックカバーの申し込みを送った。今日着いた。早くて20日くらいということか。「デニム地 黄色」「レザー風 紺」。「黄色」は、そう鮮やかな色調ではなくて、むしろカラシ色に近い感じ。数年前に本屋の店頭でもらってきた「白泉社文庫」のカバーは明るい黄色だけど、ビニールが本に張りつき気味でいささか使いにくい。その点ではデニム地のほうがよさそうだ。
 こんなにブックカバー集めてどうするんだという気もするけど。
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川崎苑子=北村夏

2007-07-06 05:45:37 | マンガ
 これまで手元以外にためてあった本の山から、手放す気のないものを持ってきた。コミックスでコンプリートしている作家は、これまでどおり、あずみ椋さんと川崎苑子さんだけとなる。
(コンプリートといっても、新しいバージョンで出たらそちらに替えるけどね)

「川崎苑子」は、70ー80年代に「週刊マーガレット」で活躍した。『あのねミミちゃん』、『りんご日記』など。
 数年のブランクの後、「スコラ」のソフトレディコミ「さくら」で復活。読みきり2作のあと、PNが「北村夏」に変更。「スコラ」倒産の後レディコミ系列を引き継いだ「あおば出版」の雑誌にたまに載る。しかしここ1年ほど新作が出ていない。
 「北村夏」としては『私に似た人』しか単行本は出てない。連載のいちばん長かったのは『杏おばさんの姪』、しかしこれは「総集編」にもなっていない。アンケートを出すたびにしつこくリクエストしているんだが。

 昔のマーガレットコミックス『野葡萄』(表題作は、ソノラマコミック文庫『ポテト時代』に併録)に入っている『スノードロップ』はとりわけ佳作。
 内弁慶な中学生あや。中学教師の父が、進路指導のために熱があるのにムリして学校に行こうとするので、それをとめようとするやりとりの「おとうさんは他人の子が本気でそんなにかわいいの!?」「うんっ、あや」。 のちに、自分と姉が母の連れ子であることを知って、この言葉を思い出して涙ぐむ場面は私も泣けてしかたない。
 「珠玉」という表現がこれほど似合う作家はまたといるまい。
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