レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『巨人たちの落日』その他

2011-09-11 05:27:13 | 
『ノーサンガー・アビー』ジェイン・オースティン
 オースティンの長編6本は、大昔に一通り読んでいたのだけど、きれいさっぱり忘れていた。(『マンスフィールド・パーク』『説得』も忘れていたほうに属する)
 牧師の娘のキャサリンは、常識的な両親に育てられた、善良な17歳の少女。ゴシック小説の読み過ぎで、招待された元僧院の屋敷で奇妙な想像に耽ってしまうエピソードがのちに出てくる。小説というものを貶めた風潮への反論もあり、小説ゆえの妄想を笑いのタネにする要素もある。後者の点で、漱石の『猫』や『倫敦塔』を連想させられる。漱石はオースティンを評価していたので、少しは念頭にあったかもしれない。

 筋とさほど関係ないところで注目したのは、以下の部分。
「でもほんとに、『ユードルフォの謎』は世界一すてき(ナイス)な本だと思いませんか?」
「すてきな本? それはきちんとした本という意味ですか?
(ヘンリーは、nice「きちょうめんな」「好みがやかましい」という言葉が、「すてきな」という意味で多様される風潮をからかっている)」
「でももともとは、「きちんとした」「適切な」「繊細な」「洗練された」という意味で使われていたと思う。  ところが最近は、何でもかんでもその言葉で誉めるようになってしまった」
 これは19世紀初頭の作品。辞典をひくと、確かにそういう意味が載っている。
 いつの時代にも変化はあるということ。--だからといって、なんでもずるずるなあなあで許容していくつもりは私にはないが。
  少なくとも、「ナイーブ」を「繊細」として使うのは、原語の意味を検討しても間違いだろうよ。



『巨人たちの落日』 ケン・フォレット ソフトバンク文庫
 上中下の3巻、内容からしても大河小説である。
 第一次大戦前後の欧米が舞台。英国ウェールズの炭鉱夫の若者ビリー、その炭鉱の持ち主である伯爵のフィッツ、ビリーの姉でフィッツの屋敷でメイドを務めるエセル、フィッツの妹で婦人参政権獲得を目指すモード。
 フィッツの学友で、ドイツの大使館つき武官ワルター。
 ロシアの農夫の子であり、冷酷な皇女のせいで父を亡くし、「血の日曜日」で母も殺された過去を持つグリゴーリイ&レフの兄弟。
 アメリカの上院議員の子のガス。
 これらの人々が激動の中で交錯する。
 モードとワルターが恋におちて、戦時ゆえ内密に結婚して離れ離れ、これは非常にハラハラして応援する。エセルが未婚の母となるけど、ラストでちょっとした溜飲の下がるシーンで象徴的に終わる。でもこのあと、第二次大戦が背景の続編が待っているんだと思うと、見たいような見たくないような。
 
 フィッツの妻ビー(本来はエリザヴェータ)はロシアの皇族で、使用人など人間と思ってないような傲慢な美女。ロシアで、彼女の土地を勝手に使っていたというかどで、グリゴーリイとレフ兄弟の父は処刑されたので、彼らは皇女に対して憎悪を抱いている。
 --ここで私の頭には、『オルフェウスの窓』第3部のアントニーナとミハイルが頭に浮かび、レフ(悪知恵のある女たらし)とビーが不倫にはしるという展開を思った。


『人間の絆』
 サマセット・モームの代表作といえばこのタイトルが挙がるだろう。自伝的要素の入った長編で、新潮文庫でかつては4冊、いまは上下巻になっている。女子高のころ、というと30年くらいまえか、そのころ読んで、退屈な印象を受けた。
 再読したいまは、ほかの作品も多く読んでいて、フィリップのハイデルベルク留学のあたりとか、貧民街での見聞など、体験がはいっていることがわかったり、世紀末のパリの芸術家(きどり)たちの群像に精彩を感じたり、当時よりも面白く思えた。--カフェの女給のミルドレッドにひっかかってうだうだしているのにイライラしたのは同じである。ちょっとばかりきれいなだけで、軽薄でうそつきで横着で、実につまらん女なのだ、こんなのにひっかかって散在させられなけらば、伯父の遺産がはいるまでのしばらくの間医者修業を中断してビンボー生活することもなかったんだろうに・・・。
 英文学でよく出くわす中野好夫氏の訳、登場人物の言葉遣いで語尾に「ねえ」が多すぎることにひっかかる、「~ですねえ」「~だねえ」「~わねえ」、それで合っていればいいけど、もっとキビキビしゃべりそうな人までこれだとイヤだ、『自負と偏見』のダーシーとか。   それに加えて今回、「、」が多すぎるとも気がついた、半分に減らしていい。


コメント
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