レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

コミックスの完全版

2007-01-31 14:28:58 | マンガ
 過去の名作をまた買わせようとして、出版社はあの手この手で違う版を出してくる。文庫版、「デラックス版」、「愛蔵版」、コンビニ本、その他。
 「完全版」の売り物は、雑誌掲載当時のカラーページをカラーのままに復活した点だろう。私自身はそういうのを全く買ったことはないので実物をよく見たことはない。広告や、編集部のつけたアオリもそのままなのだろうか。コミックスで書き換えたり訂正した部分はどうなのか。雑誌と同じというのも良し悪しがあるだろう。
 私はこの「完全版」という名称は嫌いである。いままでのが不完全だとでも言うのかい、と絡みたくなる。
 私が多少なりと好きな作品でそういう「完全版」が出たのは、『ベルばら』と『スラムダンク』。
 『エロイカ』など、カラーページのみまとめた本が出たら欲しい(まだ絵が私の好みだった時期のは)。ハマったのが途中からなので、初期のは本誌を知らないのだ。

 コミックスに入ってない話があるのでそれも入れたという意味での、正しい「完全版」が出てほしいのは、佐々木倫子『ペパミント・スパイ』(少なくとも2本は未収録)、『忘却シリーズ』(『名犬アイボリー』がはいってない)、白井恵理子の賢治オマージュスケッチシリーズ(「夢二先生」が未収録)、加藤知子『天上の愛 地上の恋』(番外編が一つ漏れてる)。  白泉社め、『動物のお医者さん』以外の佐々木倫子作品をなぜ文庫にしないんだっ!出してくれるならばどこでもかまわんけどね。
 川崎苑子『りんご日記』を文庫化するならば、キャラの名は違うけど事実上続編である『夢の入り口』も併録希望。
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独訳『マリみて』の話題再び

2007-01-29 14:44:35 | ドイツ
『マリみて』マンガ版のドイツ語訳の話追加。

 こちらのブログで原作の独訳についてのレビューがあるので関心のある方はご覧下さい。「アホオタ法学部生の日常」


 まえにここで言及したあと、さらに読み進めた。
同じ人同士でも、「親称」であるduと「敬称」「社交称」の Sieが両方出てきている場面はある。
 交流のある男子高から、劇の共演のために王子役の柏木優が訪問。彼と祥子がなにやらもめてるところを祐巳と「白薔薇」聖さまが目撃する。「おのれ柏木、両刀だったか」という聖さまの名セリフに対して、「白薔薇君 誤解されるような発言は慎んでもらいたいな」の部分では彼は Sieを使っている。皮肉だろうか。このあと、ほかの薔薇さまた
ち(生徒会役員たち)も現れて柏木に詰め寄るが、このとき彼女たちはduを使い、申し開きしようとする柏木もdu。誤解が解けて、いちおう丁重な調子にもどってからの薔薇さまのセリフはまたSieだ。男っぽい口調の聖さまは柏木にたぶん一貫してduだと思われる。
 なお、上記の聖さまの「おのれ柏木」も、ほかの薔薇さまの「柏木さま」も、ドイツ語ではSuguruと名前呼びに変更されている。こういうことは『セーラームーン』でもあった。原文では「月野さん」が独訳では始めから「バニー」。年齢の上下は無視してdu。『スラムダンク』でも、初対面の晴子の「バスケットはお好きですか?」はduを使用していた。
 特殊な学校ということならば『ウテナ』が参考になりそうなのだが、そして5巻を持っていたのだが、あいにくもうない。『おにいさまへ・・・』がもしも訳されるならば、普通でない学園を反映した区別がなされるだろうか。

 『マリみて』1巻で、祥子が当時の紅薔薇さまに言う「横暴ですわ、お姉さまの意地悪」の「お姉さま」はgrosse Schwester で、けっこうそのまんまの訳。でもほかの箇所ではグラン・スール(フランス語特有の文字なのでカタカナで書く)を使っている。「スール」はフランス語もまま。祥子さまは、「お姉さま」たちに対してdu.で呼んでいる。祐巳は、相手が複数の場面ではdu の複数形ihrを使っているけど、相手が一人だとSieになる。ただし、私の読んだのは1巻だけなので、ほかの間柄、黄薔薇姉妹、白薔薇姉妹の間ではどうなっているかは確認できていないので念のため。祐巳もこのあと祥子さま相手にduかもしれないし。
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華麗なる・・・

2007-01-28 15:28:44 | 歴史
 スーパーのパン売り場で見つけてしまった、
「日曜劇場 華麗なる一族 コラボレーション企画  華麗パン」
おそらく多くの人が思いつくダジャレだが、ヌケヌケと実行したモン勝ちか。私は買わないけどな。
 山崎豊子作品は『白い巨塔』しか読んでいないけど、『華麗なる一族』が出た当時、こういうタイトルがよくパロられたいた記憶はある。腹黒欲深陰険な人々の話であるに違いないので、「華麗」は皮肉なのだろうか。

 歴史上では、この名のふさわしい一族はたくさん思いつく。
 ユリウス・クラウディウス朝(美形の家系だし。フラウィウスには似合わないだろう)
 メディチ家、ボルジア家
 ヴィッテルスバッハ家
 ハプスブルクも悪くないけど、全体としてけっこうマトモなイメージなので、「狂気」のつきまとうヴィッテルスバッハのほうがむしろふさわしい感じだ。
 それで言うなら、フランスはブルボンよりヴァロアだろうか。
 ・・・あれ、私もやはり、ただ栄華を誇ったというだけでなく、悪徳や退廃の要素があるほうが「華麗なる一族」にふさわしいと思ってるのだな。ただ、ビジュアルの美は不可欠。

 日本なら、源氏より断然平氏。藤原、蘇我。織田。徳川は・・・堅実な創始者で長続きしすぎで「華麗」に見えん!
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ブックカバーが届いた

2007-01-28 15:11:45 | 
 去年、講談社文庫のブックカバー(折り返しの切り取り部分10枚で一つもらえる)を申し込んで、きのう届いた。これで、去年までの品、「パールピンク」「パールブルー」「パールアイボリー」がそろった。本の取り扱いについてそれほど神経質というタチではないので、ブックカバーを常用というわけではない。持ち歩いて、日数をかけて読む、あとで人に進呈する予定があるもの、などに使うことになりそうだ。とりあえず、このところ読んでいる『マリー・アントワネット』(角川文庫の新刊、新訳。ツヴァイク。『ベルばら』の下敷きとも言える古典伝記。)にピンクをかけている。なんとなく楽しい。
 ほかにこのごろ読んでいるのは、『カンタベリー物語』、『大帝の椅子』。前者は、図書館のリサイクル棚で入手。3巻本の岩波文庫の上巻と、2巻本のちくま文庫の下巻。抜けている間はいずれ借りるとして、とりあえず手元にあるものを、というわけなのだが、最後の章は坊主の説教が延々と続いていてうっとうしい。
 後者は、図書館で偶然見つけた。日本の小説の棚にあって、「大帝」って誰だろう、と思って手にとった。ロシア、ピョートル大帝死後の宮廷の争いの話。切れ者の謎の日本人の真意は何処に?
 図書館で空くのを待っているのは、サトケンの『女信長』、三浦しをんの数冊、『ヘルマン・ヘッセ全集11』。
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ライプチヒ

2007-01-26 05:52:58 | ドイツ
 ドイツ、旧東、ザクセン州の都市。「ゲーテ街道」に属する。ゲーテが大学時代をすごした町のひとつで、当時「小パリ」と呼ばれていた。バッハが活躍した地でもある。
 私は98年の夏、アイヒェンドルフ縁のハレに4泊したときに足を伸ばした。
 印象に残っているのは、駅の中にたくさんのショッピング施設があって立派だったことと、旧市庁舎。旧市庁舎は、「名曲アルバム」にも何度か出てきたと思う、少なくとも見所としてよくあの建物は出てくる、クリーム色の壁とダークブラウンの屋根で、私は見るたびにティラミスを連想してしまう。現在、ここは歴史博物館になっている。19世紀、とある鬘師が嫉妬から女を殺して、精神障害が疑われたが結局ライプチヒで公開処刑されたという事件があり、夭折の作家ゲオルク・ビュヒナーの戯曲断片『ヴォイツェク』の元ネタになった。(オペラでは『ヴォツェク』) その処刑のありさまを描いた絵が展示に含まれていた。
 戯曲は、兵士ヴォイツェクが情婦に裏切られて彼女を刺殺する筋書き。しかし場面の順番もはっきりとはしていないため、彼も水に入って死ぬのか、生きて捕らえられるのかは演出家の解釈の余地がある。ヴォイツェクが殺人の前にマリーと見る月を「血に濡れたナイフのようだ」というセリフは、後年の『サロメ』を先取りしていると言われる。
 ライプチヒといえばほかにメンデルスゾーンとかヴァーグナーとか滝廉太郎、多くの有名人がいるが、「ゲルデラー環道」が駅近くにあることも指摘しておこう。1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件、通称「7月20日事件」の一味の一人のカール・ゲルデラーはライプチヒ市長だった。戦後つけられた名前なのだろう。すぐ近くに「リヒャルト・ヴァーグナー広場」があるのは少々皮肉な気もする。ライプチヒの生んだ作曲家をナチスが賞賛しまくるのをゲルデラーはどんな気持ちで見ていたのだろうか。
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『エンパイア』やっと見た

2007-01-24 17:21:24 | ローマ
 今年早々に出た「EMPIRE DVD-BOX」、買ってから半月以上経ってようやく今日見た。テレビドラマ6回分が収まっている。
 あらすじ紹介で見当はついていたけど、予想以上に史実からは相当にぶっとんでいる。カエサルにかつて剣術を教えたこともある一級の剣闘士タイラノスが、カエサルに警護を依頼されていたが、暗殺の日に(これも陰謀の一部)息子を誘拐されてしまって自宅を留守にし、その間に暗殺は行われてしまう。最期にかけつけて、後継者を護ることを託されて、以来、オクタヴィアヌスにつく。
 どちらかといえば、この架空キャラのほうが主人公に近いように見えたな。
 まずはカシウスたちが命を狙ってきて逃亡しまわり、そのあとはアントニウスが悪巧みして、表向きオクタは死んだことにされる。 もちろん生きてて対決することになるけど。
 「シーザー」(英語のセリフなので英語で聞こえるけど、字幕ではカエサル表記)の呼称を早々と「皇帝」にしているのは適切でないと思う。
 なお、この話ではオクタの恋人はウェスタの巫女。中々に健闘するキャラなのだけど、史実が頭にあるとどうも複雑だ。
 肝心のオクタ役、「サンティアゴ・カブレラ」なんて名前から、ラテンの濃い顔かと危惧していたけど、・・・まぁ、それほどでもないか、でもやっぱりダークの髪は違和感あるなぁ。病弱とか華奢とかいう要素は入ってないし、一部のファンにとって固まっているであろうイメージには近くない。
 スペクタクルアクションとして見るならば(5段階評価で)4くらいかな・・・。
史実との合致度は、『ローマン・エンパイア』が6,7割とすれば、これは3,4割ってところ。
 意外だったのは、アントニウス邸で殺されかかったオクタを助けた、そして以後従う兵士が「マルクス・アグリッパ」であること。なんだか坊やみたいだな、と思ったけど。とにかく、味方にこの名を使ったことは大いにほめたい。
 
 少し前に、ヘストン主演の映画『アントニーとクレオパトラ』をまた見た。クレオパトラはヒルデガルト・ネールというらしい。オクタヴィアヌスを演じた中では、ここのジョン・キャッスルがいちばん好評である・・・といっても、私がネットの上で目にした限りであるけど。(不評なのは『レジェンド・オブ・エジプト』--ああ何度書いても不愉快な手抜きタイトルだ)
 マッスル激情のアントニウスと、クールビューティー(金髪白皙に赤や黒の衣装がよく映える)オクタ、それぞれたいへんハマっている。あの映画の玉に瑕は、アグリッパがおっさんであること。欲を言えば、政略結婚の提案は史実に合わせてマエケナス(「メーシナス」は出ていない)にしてほしかったけど、それは原作通りなだけなので仕方ないか。
 これのDVDが出たら買う。
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とか・たり

2007-01-24 10:32:44 |   ことばや名前
 日本語の誤用の本を読んでいて、「とか」の使い方について意外だったこと。
○ 便箋とかハガキを使う。
× 便箋とかハガキとかを使う。
× 便箋とか使う。
一つしか言わずに「とか」がヘンなのは知っていたけど、最後に「とか」が間違いとは初めて知った。私の感覚では、二つ以上並べて最後にも「とか」のほうがしっくりくるけど。

「たり」も同様なのだろうか。まえに読んだ日本語についての本には、あっさり「テレビを見る」と言わずに「テレビとか見たり」なんて言うことが耳障りだと筆者が書いていた。私もそうだ。少なくとも、「・・・したりとか」なんてくると、せめてその「とか」「たり」のどちらかにしてくれ、と思う。
 「とか」「たり」がついてしまうのは、ほかにもまだあるけど、というハバを持たせる意味、悪くとれば単なる曖昧な逃げだろう。だいたい、よけいな言葉があるとソフトにはなるものなので、ある種の丁寧表現と思って使っているということもありそうだ。

 これで思い出したこと。
『暴れん坊将軍』(セミレギュラーの栗塚旭目当てで時々見ていた)で、お忍びの吉宗がバクチを教えてもらう場面。
「このツボをこう置いて、丁とか半とか言えばいいんですよ」
「丁とか半だな。・・・よし、丁とか半!」
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評伝アンソロジーの提案

2007-01-22 14:33:51 | 歴史
 「新選組アンソロジー」は読んだことがある。新選組を扱った短編小説の傑作選。たぶんほかのテーマでもあるのだろう。
 ふと思った、小説(フィクション)でないもの、評伝やエッセイで、同じ人物ないし事件を紹介したものをいくつも集めた本が出てほしい。児童書、一般書、マニア向け、学者の書いたもの、(クセの強い)作家のもの、お笑いモノ、思いいれの強いもの、シビアなもの、教訓拠り、等々。同じ事実のはずなのに、扱いによってずいぶん違ってくるものだということを読者は学ぶきっかけになるだろう。さらに進めば、書き手の個性を面白がる。
 
 きのう、PHP文庫の新刊『「世界の英雄」がよくわかる本』 を買った。
 明らかに架空である神話伝説のキャラまで入れているあたりはヘンに見える。
 カエサルはもちろん入っているが、アウグストゥスもいる。資料は『皇帝歴代誌』。「まれに見る美男」という形容があったので購入。でも説明にさほどの面白みはない、友・妻など、ロマンのある人間関係について言及がないので。
 カバーイラストの絵(アレクサンドロス、ナポレオン、ジャンヌ)はきれいだけど、中のイラストはそうでもない。どうせならカバーの調子で中も描いてもらいたかった。せめて美貌の主だけでも。肖像のある人物はそれを載せてもよかったのに。
 「世界の」なので、東洋も含んでいる。私の知識が西洋に偏っていることも改めて感じる。

・・・と書いて、ブログに新規投稿しようとしていたら、アマゾンから
残酷世界史血に飢えた悪女たち (単行本)
桐生 操

の宣伝が来た。買わないけどね。立ち読みくらいしてみるかも。
 25年くらいまえ、新書館からこの作家の『ルネサンスの女たち』というシリーズが出ていて、カバーが青池保子で評判だった。女子高の図書館にもあったけどカバーははずされていた。当時読んだのはそこそこ面白いと思ったのだが、いつのまにか、なんか内容薄いんでないか?と感じるようになったのはなぜだろう。作家の筆力が衰えたのか、私の目がうるさくなったせいなのか。少なくとも昔読んだ本を再読してみないことには答は出ない。
 桐生さんの『やんごとなき姫君たちの寝室』で、クレオパトラの宴のエピソードで「1000万セステルティウス」を「約100万円」と説明してあったけど、それは違うだろう。それでは、30万セステルティウス(オクタヴィアヌスがカエサルの秘書ヒルティウスに身売りしたと言われた値段)は3万円になってしまう。オクタの操がそんなに安く見積もられてたまるか!
 --これも、私がこの作家に不信感を抱いてしまった原因である。もろ私情。

26日に付記。
本屋で上述の『残酷世界史』を目にした。単行本っていうけどコンビニ本の装丁だ、既刊からの抜粋だし。
 同じ著者の『処刑台から見た世界史』をめくってみたら、ローマにもけっこうページが割かれている。カリグラやネロやヘリオガバルスその他。ティベリウスに対して、スエトニウスの伝える「淫行」云々を鵜呑みにして書いていることが激しく不愉快。だから、ユリアは「2度離婚」じゃないやい、マルケルスとアグリッパとは死別だぞズサンな! と細かいアラ探しをしたくなる。
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雪、こたつ、鉛筆

2007-01-21 15:19:18 | 雑記
 きのう雪が少し降ったらしいけど、その時間帯には閉じこもっていたのでまったく知らなかった。
 今日、こたつを出した。考えてみればなぜいままで出さずにいたのだろう。まさに真冬だというのに。コタツに入りたいというよりも、洗濯物の生渇きぶんを入れることに活用したいのだ。これがあるとだいぶ便利だ。
 もう10年くらいたつだろうか、クイズ番組で、カナダかどこかで「TVオレンジ」といって、テレビを見ながらオレンジを食べることが流行っていると言っていた。日本の冬の「コタツでミカン」のマネで。冬が深くなると甘さも増してくるけど、甘さの中で私の嫌いな種類の味があるので、私はむしろ早い時期に食べておきたい。

 年末の大掃除はとうとうしないままだったけど、机の上だけは少々整理した。なせかといえば、母が新しい鉛筆と電動鉛筆削りを買ってきたから。鉛筆ならば、紙の下が固くないと使い心地がよくない。カチカチ、さらさらと芯の磨り減っていく感触が気持ちよいのだ。だから、ほっとくと層を成してしまうプリント類を処分して、下敷きを並べる。数年前のコミケでなんとなく買った氷栗優のグッズと、2001年に美術館で買った品。後者は、表には、ピンクのドレスの婦人が鏡の前で身支度をしている様子の絵画、裏には2001年から05年までの暦が書いてある。もう過去になってしまった。いま行ったら、2006-2010用の品を売っているのだろうか。
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亜細亜の曙、痴人の愛

2007-01-19 15:29:53 | 
『痴人の愛』と山中峯太郎『亜細亜の曙』

 この二つのタイトルをなぜ一緒に並べているのか。いや、それ以前に、『亜細亜の曙』といっても知らない人が多いはず。古い森川久美ファンならばあるいは聞き覚えがある名かもしれない。
 山中峯太郎とは、戦前の「軍国冒険小説」と呼ばれたジャンルで活躍した作家である。私は大学の国文学の、児童文学の講義で知った。確か『敵中横断三百里』がそのときのメインだった。ほかに、『亜細亜の曙』も代表作の一つであるらしい。これと、その前編と続編のヒーローの名前が「本郷義昭」という。そして、彼が敵地に潜り込んで中国人のふりをしたときに使う偽名が「黄子満」。--かつて「ララ」のスターだった森川久美の『南京路に花吹雪』(そしてその前後の話)のキャラ名のモトなのである。ただしこちらは「義明」だけど。「ぱふ」の特集号で「義昭」と間違えていたのはネタ元にひっぱられたのだろう。なお、その特集号のインタビューで、『亜細亜の曙』がネーミングのもとだと指摘されていたので、あとで講義で知ったときには図書館で読んでみた。昔の児童文学のアンソロジーにはいっていたので。筋はまったく覚えていない。 
 
 さて、話はひとまず『痴人の愛』にとぶ。これはもちろん谷崎潤一郎。モダン好みの会社員譲治が女給見習いの少女ナオミを見出し結婚に至るが、その妖婦ぶりに翻弄されていく。最初に読んだときには毒気にあてられるような気がしたが、再読したらたいしたことないようになっていたのは私がその間にいろいろ妙なものを読んだからなのだろうか。
 これは大正末期の作品、モダニズムの強い背景がある。だから、ナオミを「西洋人のような」と賛美していることも違和感はない。
 しかし、記述の山中峯太郎の世界は国粋主義で大和魂バンザイである。それにも関わらず、ヒーロー本郷義昭の容姿のかっこよさを紹介するにあたっては「西洋人のようだ」なのだ。いかに日本人の劣等感が強かったかを象徴しているではないか。
 
 ついでに『痴人の愛』にもう一言。
 青柳いづみこ『無邪気と悪魔は紙一重』は、女の目から見ての悪女論の本。ここでナオミもとりあげられている。筆者の祖父の後妻とその娘が、バタくさく(※)色っぽい美人母娘で、筆者は彼女たちから「女度が足りない」と揶揄されていた、ナオミを見てるとあの母娘を思い出す、という。ナオミの行く末を思うと、西洋体型は崩れるのが早いし節制は悪そうだし、色香が衰えたら「男性ホルモンの薄そうな譲治君がハゲない限り、力関係は逆転するだろう。ざまあみろい!」--私情まるだしで読んでいてたいへん面白かった。
 ※「バタくさい」なんて言葉もあまり使わないだろう。西洋風という意味である。「バター」を西洋の食べ物の代表扱いしているのだが、いまではもうすっかり日本の食生活になじんでいるからな。
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