レーヌスのさざめき

レーヌスとはライン河のラテン名。ドイツ文化とローマ史の好きな筆者が、マンガや歴史や読書などシュミ語りします。

『名もなき毒』

2006-08-31 13:09:28 | 
 宮部みゆきの久々の現代もの新刊『名もなき毒』、珍しく夜更かしして一気読みしてしまった。ミステリーなので、本筋とあまり絡まない点について若干の感想を。

 宮部作品をあらかた読んでいるけどキャラ名をほとんど覚えていないので、「私」杉村三郎が『誰か』と共通の主人公だということにしばらく気づかなかった。妻が大会社の会長の娘という境遇が、あっ同じだ、とはすぐに思ったけど。
 彼は、事実上入り婿同然状態なので、情けないと親きょうだいにほとんど縁切りされている。これについて、彼らがヨメさんの実家にたかったりしないのは偉い、と感心されることもあるけど、男の面目にこだわりすぎるのもそれはそれでイヤだな、と私は思う。実家と疎遠になっても、妻子への愛のほうを優先させてる杉村三郎は逆説的に男らしくてあっぱれだ。
 
 本筋は、無差別連続殺人事件で、それに杉村の務める編集部でトラブル起こしてクビになったアルバイト員の問題が絡む。シックハウスとかいじめとか現代の問題がちらちらと出てくるばかりでなく、上記バイトの嘘つき女のものすごさ、非常識なんて言葉ではものたりない在り様も、たとえば(読んでないけど)「平気でウソをつく人たち」なんて現象に合っていてアクチュアルなところだろう。
 近代科学ゆえの毒は厄介だが、ひとの心の荒廃ゆえの毒はさらに忌まわしい。
 

 ささいな点でツッコミ。
「彼がいかにも劇画的に困った顔をしているので、私も調子を合わせ、平手で額をぺしりと打ってみせた」
 「劇画」とは誇張を排して写実性を重んじる方針で生まれたジャンルなので、大げさなことを表しているらしいここはむしろ「マンガ的に」のほうが適切だろうな。
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尊厳者の月の終わり

2006-08-31 13:02:51 | 雑記
 今日で8月は終わり。
先日の『サザエさん』では、夏休みの宿題ネタは例によってあったけど、「8月を31日までにした昔の人はえらい」を去年と続けてはやらなかった。

 まえにこの欄で、今月中に秋学期の講義のプリント2種を作ると書いた。おかげさまでだいたい出来ている。
 冥王星の地位降格がちょっと話題なので、神話での冥界いろいろ(といってもギリシアとゲルマンくらい)をタネにしてやろうと思いつき、いま『神曲』を読んでいる。『トロイ』にかこつけて「トロイア戦争その後」を話したときに使った『アエネイス』のプリントがまた使えるぞ。大教室だと人数が一定しなくて、だから配布物が余って困る。
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図書館で

2006-08-30 13:24:12 | 
 先日のニュースで、図書館の利用者のマナーが低下していると言っていた。ある図書館では、「汚損本」の展示会というものをしていた。(ところでこの「汚損本」という言葉、私はこれで初めて知ったのだが、すぐに変換できたので驚いた。) いまヒット中の『ダ・ヴィンチコード』が、風呂で読んだのか紙がシワシワバサバサで、完全にボツ状態。職員たちが、痛みを補強したり鉛筆での書きこみを消したり対処していても、蛍光ペンでの書きこみなんてもうお手上げ。記事が切り取られていることもある。
 私は疑問でたまらないのだが、例えば料理のレシピだったりすると、・・・なぁ、そういう不正な行為して料理して楽しいか?おいしいか?
 私の行きつけ図書館で、雑誌コバルトを借りたとき、目当ての特集記事が根元から切り取られていたことがある。こーゆーことすると、○○ファンというものに対する世間の目が冷たくなるだろ。同じファンを名乗るのが恥ずかしい。殴ってやりたいどころじゃない。


 これらとは全く違ったレベルのこと:本の分類が間違っているとき。
 作家の名前からも解説からも明らかにイギリス文学なのにドイツ文学にいれてあったことがある。ドイツの作家のブレヒトの解説本がなぜかフランスの棚だったり。こういうのは投書したら直った。
 森満喜子といえば、沖田総司の研究家で作家としてそのスジでは有名なのだが(少なくともオールド新選組ファンにはね)、純然たる小説の『沖田総司哀歌』が「伝記」にあるのは苦笑してしまう。伝記といえる本も実際あるから間違えたのか。沖田について読みたい読者にはこのほうが便利かもしれないが。
 塩野さんの『ローマ人の物語』が、必ずしも事実でない部分があるのに「歴史」の棚にあることは適切でないという意見を目にする。しかしまぁ、「歴史」の棚にあるほうが探しやすい。それよりも、『愛の年代記』が「伝記」に置いてあることがはるかにおかしいぞ!
 川原泉が、自分の愛読する短編(小説に限らない)を集めた『川原泉の本棚』は、地元図書館では「小説・エッセイ」の「か」でなく、ブックガイドの棚に置いてある。マンガ家川原泉を知らなくても、なにか面白い本を探したいな~と思う読者に選んでほしいならばこのほうが有利かもしれない。 ジャンル・題材優先か、個人名で見るか、それによって分け方の便利さが違ってくる、これはレンタルビデオでも共通している。
 ところで、この『本棚』には清水義範『言葉の戦争』が収められている。日本が欧米と英米と戦争状態になり、それまでのカタカナ語が禁止になり、無理のある言い換えが次々と出てくる。続編では、中国とも敵になったので漢語もダメとなって「やまとことば」オンリーでの不自由な会話の世界。私もお勧めしたい。
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ドートリッシュ?

2006-08-28 14:43:00 | 歴史
 図書館に新刊として並んでいた『ヨーロッパの王妃』という「ふくろうの本」を手にした。正方形に近い感じの写真の多いシリーズである。著者は石井美樹子さん。まえにヘンリー8世の最初の妃であるキャサリン・オブ・アラゴンの伝記『薔薇の冠』や、『王妃エレアノール』を読んだことがある。学習マンガのマリー・アントワネットの監修もしていた。
 とりあげてあるメンバーは、必ずしも「王妃」ではない、エリザベス1世なんて「王妃」でなく「女王」だし、シシィは「皇」妃だ(ハンガリーでは「王妃」だけど)、まぁこれは厳密にしてるとキリなしなので仕方あるまい。
 たいていは馴染みのある顔ぶれだけど、エリザベス・スチュアートは珍しかった。ジェームズ1世(スコットランドの6世。メアリの息子。「とても暗い顔をした人」と『七つの黄金郷』で書かれた。オカルトマニア。)の娘で、バイエルン公爵・プファルツ選帝侯フリードリヒ5世に嫁いだ人。ハイデルベルクの観光パンフレットの、町の歴史説明で見覚えのある名前だけど、少し詳しく読んだのは初めてだった。時は17世紀、彼女が結婚して数年後に起きた30年戦争。皇帝はハンガリーにカトリックを強いるが、国会(だったか)はそれを拒否してプロテスタントであるフリードリヒ5世を国王に引き出し、それと共にエリザベスは王妃に。しかしあっという間に皇帝軍が攻め寄せて、夫妻はオランダへ亡命。その地で5世は死亡。エリザベスの実家では、革命で弟チャールズ1世が処刑されたりしてすったもんだ。王政復古で2世が即位してようやくエリザベスは帰郷、じきに死亡。 メジャーではなさそうだけど波乱含みだ。
 この本とは関係ないけどハイデルベルクと縁のある、プファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒの娘のリゼロッテ(エリーザベト・シャルロッテ)という人がいる。ルイ14世の弟の最初の妻アンリエットはチャールズ1世の娘で中々華やかなひとだけど早死にして(男色家だった夫の愛人(男)の逆恨みで殺された?の説アリ)、その後の再婚相手がこのリゼロッテ。「プファルツのリゼロッテ」として少しは有名らしい。彼女の書簡集が『ヴェルサイユの異端公妃』という題で邦訳もされている。だから上記のエリザベスと時代はわりに近い。
 ほんと、嫁に行ったり婿に行ったり、複雑に絡んだ親戚関係だ。

 伝記コーナーにある別の本、桐生操の女性史で、「エリザベート・ドートリッシュ」という章があったので、誰のことかと思ったらシシィだった。
 少なくとも王侯貴族の縁組では、嫁いだって実家の名をひきずるものでないのか?スペイン・ハプスブルク出身のルイ13世妃はアンヌ・ドートリッシュだし(オートリッシュ=オーストリア、すなわちハプスブルク)「ド・ブルボン」なんて言わない。(%)(ヴァロワのアンリ2世妃はカトリーヌ・ド・メディシスだし。) バイエルンのヴィッテルスバッハからウィーンに来たシシィが「ドートリッシュ」なんておかしい。それにこれフランス語だし。検索してみたら、「エリザベート・ドートリッシュ」と言われるのはシャルル9世の妃だった。影薄そうだけど。デュマの『王妃マルゴ』に出ていたかどうか記憶にないな。愛妾は確かに出ていたけど。

 人のミスばかり指摘するのもナンだけど、もう一つ。
残酷童話系の某レディコミで、ヘンリー8世ネタの短編ギャグがあった。跡継ぎが中々出来ないが、「カトリックで離婚できないから王妃たちに濡れ衣きせて処刑した」とあるけど、そりゃ違うだろ、教皇とケンカしてでも離婚は2度もしてる!処刑も2度。 お笑いマンガとはいえ、こういうマチガイはいただけないぞ。 なお、ロンドン塔には王妃たちの幽霊がさまようだけではなく、王も幽霊になって観光客をナンパしている、というオチ。ヘンリー8世に声かけられても楽しくなさそうだ。

%そういえば『ベルばら』で、サギにあったローアン大司教がつかまされた王妃のニセ手紙には「マリー・アントワネット・ド・フランス」とサインしてあり、事件発覚ののちに国王が「こんなサインはしないことは宮廷ではみんな知っている」と言っていた。物語のイントロでは、「マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ・ド・ロレーヌ・オートリッシュ」と紹介されて、その長ったらしい名前に多くの読者(私を含む)はまず驚かされたに違いない。ドイツ語ならば、マリア・アントニア・ヨゼファ・ヨハンナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン?
 ローアンがよほど無知だったのか、それとも、嫁ぎ先に合わせて名乗ることも、あったにはあったということなのだろうか?
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里帰り

2006-08-28 14:27:55 |   ことばや名前
 読売新聞の「日本語日めくり」は、言葉についてのコーナー。半月ほどまえに「里帰り」がテーマになっていた。お盆や正月などで里に帰ったあとで、また現在の居場所に帰ることが前提になっているので、かつて侵略軍などに盗まれた美術品が返還されることを「里帰り」と言うのはマチガイだということだった。なるほど~。
 妻が実家に帰って、それっきり夫のところに戻らなければそれはもう「里帰り」ではなくなるのだな。
 思えば「帰る」も不思議な言葉かも。

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『イエスのビデオ』

2006-08-25 13:57:01 | 
 先月、ハヤカワ文庫の棚で目立つように置いてあるのを見つけた。ドイツ産のエンターテインメントが訳されているのは少数派なので手に取った。
 遺跡の発掘現場で、なんとビデオの解説書の埋まっていたのが発見された。どうやらこれは、タイムトラベルした現代人がイエスを撮影したものと思われ、アメリカ人の考古学者やメディア王やヴァチカンの争奪戦が始まる。  『ダ・ヴィンチコード』が売れたのでその類似品というか、重なる題材の本がいろいろ出ているが、この小説は先に書かれている。
 ドイツ人の登場人物は、奇妙な発見物から事態を推理してほしいと依頼されるSF作家のおっさんがいるけど、特別かっこいい役というわけではないのは遠慮なのだろうか。
 
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アヒル犬とカメうさぎ

2006-08-25 13:52:38 | 雑記
 「アヒルイヌです。番犬になります」
 「カメウサギです。カメなのに速い」
 私の好きなCMとなると、たいていはイヌの登場するものである。もっとも、決まって見る番組じたいが数少ない。日曜の夕方6時代には、夕飯を食べながら『まる子』『サザエさん』というありがちな習慣。その『まる子』の間の「Office24」でこのごろ2種類続けて放映しているのがこの、2種類の動物を合成したCM。アヒルの胴体にレトリーバーの頭のついた「アヒルイヌ」、カメの甲羅の中からウサギが出ている「カメうさぎ」。前者はいささかブキミ、後者は中々かわいい。でも私の本命(?)はオマケの登場の柴犬である。ああ触りたい・・・。
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『ペリカンロード』

2006-08-24 15:02:44 | マンガ
 私が好きな何本かの少年マンガの一つ。とはいえ、手元に全然持ってない。

 BY五十嵐浩一。80年代に「少年画報社」の「少年KING」で連載された。
ガリ勉(死語?)秀才の渡辺憲一は、実はバイク好き。ある日、絡まれたところをゆきずりのかっこいいおにいさんに助けられるけど、それは、憲一の家に下宿することになった父の部下のおねえさんだった。やがて、憲一の見かけによらない根性と誠意に惚れた奴らが集い、「クラブ・カルーチャ」が結成される。
 -ー始めのうちは、サワヤカ青春バイクものだったのだが、そのうち、ちょっと危険な香りのグループ「FHH」が登場すると、過激な抗争が絡んできてハードになった。ドイツ人とのクウォーターであるリーダー(コマンダーと言ってるが)の「ヤチ」さん(だからセリクにちょくちょくドイツ語がはいる)と、幹部たちとの思いのすれ違い。ヤチを熱烈に崇拝するサブリーダーのマキ(男)の焦りからの暴走行為が、アメリカ人兄弟との抗争を招いていき、ついにはヤチの死へとつながる。
 私はこの作品においては、健全なくせにサド心をそそってくれるケンちゃんをひいきしているのだが(ある意味、『南京路に花吹雪』の本郷さんと共通してる)、心理面ではFHHサイドも捨て難い。(絵は、少女マンガ美意識でも充分に鑑賞に堪える。)
 冷静に考えれば、(ミもフタもなく言えば)不良の抗争なんかで命落とすなよ、乱世ならまだしもこの現代日本でいい若いモンが~~~!!なのだ。そうとわかっていても、「どこで死んでもフェルトヘルンハレで会おう」なんて調子には感銘を受けてしまうのだ。
 (ここで説明が要る。「FHH」はFeldherrnhalleの略。「将軍廟」と訳される。バイエルンのルートヴィヒ1世が戦死者のために建てた。ミュンヘンの街中にある。(行きましたよ) しかし五十嵐浩一はこれを北欧神話のヴァルハラ(「戦死者の館」)のようなイメージで使っているようだ) たとえば、『燃えよ剣』の挿入歌の「生きるも死すも同じ同志(とも) 別れと今宵飲む酒に」とか、『三国志』の「桃園の誓い」とか(別にファンじゃないけど)、『三銃士』の「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」とか、ヤクザ映画任侠映画とか(全く見たことないけど)、はたまた「はなればなれに散ろうとも 花の都の靖国神社 春の梢に咲いて会おう」、感動のツボはたいして変わるまい。そこにお上のお墨付きがあるかないかの違いだけで、生死を共にするほどの絆、それに惹かれる心には普遍性があるだろう。
 しかし私はどうしてもバイクとお近づきになりたくはないし、乗りたいとも全く思わない。『ペリカンロード』好きでも、味わいつくすことはたぶん無理。そういう感情のせいだろうか、このマンガに対する私の愛着には、なにか屈折が、切なさがこもってしまうのだった。

 なぜいまこれを書いているかといえば、来月のコミックスのリストに、『ペリカンロード(1)青春編』なんて名を見つけてしまったからだ。「青春編」ってなんだ? 数年前に、本編とキャラが少しだけ重なった後日談『ペリカンロードⅡ』が出たのだが、また姉妹編?それとも単に復刊?文庫版なら一応出ているけど。気になる。

 ーーと書いたあとで、それは復刊であること、もしかするとコンビニ本で寄り抜きか?という推測を目にした。
 確かに、寄り抜きでのコンビニ本マンガはよくあるけど、ああいうのは完全版の売れ行きに貢献するのだろうか? 私はアンソロジーをきっかけにして百鬼園を読むようになったので 、そういう効果はないとも言えないか。
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いまごろ前のW杯話題

2006-08-23 14:55:13 | 
 作家が執筆してからそれが読者の目に触れるまでの時間は様々である。雑誌に掲載されて、それから単行本になる。そして文庫になるなら数年は先である。(さらに、それを図書館や中古で読むということもある)だから、時事ネタを読む際にはとくに、それがいつのものか注意がいるし、そのズレがかえって楽しいということもある。
 そう思う機会が今月2件。
三浦しをん『人生激場』
佐藤愛子『それからどうなる  我が老後5』
どちらも、文庫としては今月の新刊のエッセイ。そしてまえのワールドカップが話題に出てきている。
 後者では、韓国があまりに日本に敵意を向けるので憎らしくなって、韓国の敵を応援しようという気になっている佐藤愛子さん。アメリカとドイツ戦で:
「韓国がアメリカを嫌っているらしいことを思い出しだ。それで私はアメリカを応援する気になった。アメリカに肩入れするとなると、ドイツのカーンという鉄人ゴールキーパーがにくらしくなってきた。この人のご面相は一旦にくらしいと思うと、どんとん憎らしくなるというご面相だ。そのうち、「待てよ」と考え直した。アメリカがドイツに勝って韓国と戦うとなると、これは韓国が勝ちそうだ。ドイツが相手なら苦戦するだろう。そこで急遽、ドイツに変更。と、忽ちカーンのあのご面相が頼もしく、男らしく思えてきたのだから、人の心というものはまことに定めがたいものである。」
 観戦でへとへとになったのでもうサッカーは見ない、とこのとき結んでいるが、今年はどうだったのだろうか。
 前者で三浦しをんさんは、開き直ったようなミーハー丸出しのにわか観戦で、「カーン様」その他を応援している。「小説ウイングス」の当時のエッセイでは、「いつからこの大会は人類以外も出場可能になったんだ!?」などとスゴイことを書いていたものだ。
 今年の大会の話題が本になるころには、とっくに次のイベントに世間の関心が向いてしまっているのだろうか。
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ハインリヒ・ハイネ

2006-08-21 13:01:11 | ドイツ
 「新・ちくま文学の森 ことばの国」に、
「滑稽新聞」論説  より   宮武外骨
が載っていた。
「今の○○軍○○事○当○○○者は○○○○つ○ま○ら○ぬ○○事までも秘密○○秘密○○○と○○○云う○○て」という具合に、検閲で削除されたように見せた風刺である。明治37年というから、20世紀の始め。
 驚いた。
 これと同じことを、19世紀にハイネがしているのだ。特にメッテルニヒ体制の下で悪名高い「検閲」、これを逆手にとっている。
    ドイツの検閲官たちの ---- ----- -----
    ---- ------ ----- -------
    ---- ----- ----- バカヤロー
(これは行の数はでたらめです、でも意味はこんなもの)

 1830年代のドイツ語圏で、官憲側で政治的に戦闘的な文学をまとめて「若きドイツ」派と呼び、この名が文学史上も定着しているのだが、ハイネもこれに数えられている。デュッセルドルフ(※)のユダヤ系の家に生まれた「ハリー」・ハイネは、のちにプロテスタントに改宗して「ハインリヒ」に名を変え、「アンリ」・ハイネとしてパリに眠っている。
 名前がいくつもあるという事実は、守備範囲の広さと奇妙に合致しているといえるかもしれない。抒情詩、小説、紀行、ドイツとフランスの文化の架け渡しの役目も務めている。
 山本有三『女の一生』で、主人公が、息子が左傾しているのではと不安になり、机の上を調べたところハイネの詩集が出てくるので、ハイネといえば恋愛詩としか思わない彼女は安心するけど、夫に話すと、ハイネは革命詩人でもあるから危険だと言う(事実、息子は左翼にはしって家出した)エピソードがあった。
 「本の焼かれるところでは、ついには人間も焼かれる」という言葉も残している。そしてハイネはナチス時代の「焚書」の対象であったことはあまりにも有名。そういう時代、彼の『ローレライ』は、「作者不詳」として歌の本に載っていたこともたびたび言及される。

 「世界史」のレベルだと、ハイネは「ロマン派」に入れられているが、「ドイツ文学史」の常識では含まれない。むしろロマン派に批判的なのだが、なにしろ一筋縄ではいかない毒舌家の詩人だし、かつロマン的な要素を充分に持つからこそポピュラーになりえたことは確か。作曲されたことも影響が大きいに違いない。上記『ローレライ』とか、シューマンの『詩人の恋』とか。後者の『私は恨まない』、自分をふって結婚してしまった女への想いを詠んでいるのだが、・・・恨んでるぢゃないかすごく。それなりに力強いメロディにインパクトがある。
 『四季の歌』の「秋を愛する人は心深き人 愛を語るハイネのような僕の恋人」はけっこうナゾだ。「僕」の「恋人」というのは多数派の常識では女だろう。ハイネのような女?頭良くて辛辣で恨みがましい、こんなのを恋人にするのはかなり大変そうだぞ。

 私が最初にハイネになじんだのは、ドイツ語の授業で『ローレライ』を現代歌手が作曲したものをきかせてもらい、あとで数人の希望者がそのレコード(時代だ)を録音して頂いたことからだった。私はそれをくりかえしきいて部分的にでも書き取り、そして大学の図書館で原書と照らし合わせて探し、つぎに邦訳もそろえた。(一つだけ、いまだに訳の見つからない詩がある。「恋は3月に始まった」で始まる。詩として独立しているのでなく挿入詩なのだろうか?) 三十年戦争を背景にした『酒保の女の歌』は、世の荒廃をよそに大繁盛の、兵隊相手の娼婦をうたったもので、「国や宗旨なんて服みたいなもの(=脱いでしまえばみな同じ!)」とタカラカに吠えていてなんとも迫力。赤子のイエスを訪問した『東方の三博士』は、エキゾティックな趣がある。
 この先生が亡くなったときは、このテープをダビングして学生たちに進呈することで供養の代わりにしたのだった。
  
 ※ デュッセルドルフの大学は、「ハインリヒ・ハイネ大学」が本名。日本人の感覚だと奇妙だけど、正式名は創設者とか当時の君主とか、その地に縁の有名人からとっていて、通称が町の名前ということがドイツの大学には往々にしてある。
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