弁理士の日々

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加藤雅彦「ドナウ河紀行」

2009-05-27 22:12:26 | 歴史・社会
この5月の連休、私は家内とウィーン(オーストリア)-ブラティスラヴァ(スロバキア)-ブダペスト(ハンガリー)を巡ってきました。この旅行の予備知識のため、以下の本を事前に読みました。
ドナウ河紀行―東欧・中欧の歴史と文化 (岩波新書)
加藤 雅彦
岩波書店

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1991年に出版された本で、その後、ドナウ川沿岸のチェコスロバキアとユーゴスラビアは分裂し、この地域は激変しています。それでもこの本は、過去2000年にわたるドナウ川流域の国々の歴史と現状を知る上で有益な書籍でした。

ローマ帝国が全盛の頃、ローマ帝国の領域では、住民が平和と繁栄を謳歌していました。一方でその頃、“蛮族”と呼ばれるような生活をしていたゲルマン民族がゲルマンの地に部族社会を形成しており、ローマ帝国を蛮族から守るための防壁が重要な役割を果たしていました。ローマ帝国とゲルマンの地を隔てる境界が、ライン川とドナウ川でした。
従ってドナウ川について、私は2000年前のローマ帝国側から見た状況が頭に入っています。それからの2000年間、ドナウ川流域の国々はどのような歴史と文化を育んできたのか、この本はそのような問に答えてくれます。

オーストリアの首都ウィーンは、長い間ハプスブルク帝国の帝都でした。帝国の最盛期、帝国の版図は東はハンガリーからボヘミア(現チェコ)、西はスペインまで及んでいました。その後、普墺戦争の敗北で域内の各民族が独立に向かい、第一次大戦の敗北でハプスブルク帝国は滅びます。
しかしハプスブルク帝国は、その領域内に言語・文化を異にする多くの民族を含み、600年以上の長きにわたって存続し続けたという特徴があります。それは、ハプスブルク家特有の頂民族的思考が、この帝国を支えてきた最大の力ではないかと著者は推測します。
そして旧ソ連による旧東欧諸国支配が去った後、ハプスブルク帝国の領内にあった諸国は、「ドナウ連合」といった形で結束しようとしているようです。
ハプスブルク帝国の崩壊と後継国家の独立は、これらの国民に、必ずしも幸せをもたらすものではなかったことが原因であるようです。

また、これら中欧諸国の都市は、ハプスブルク帝国時代にドナウネットワークで結ばれ、いずれも、ドイツ・マジャール・スラブ・ラテン・ユダヤ的とでも形容した方がよい町々であるそうです。

ライン川はドイツの源流に発し、オーストリアを通過するまではゲルマンの世界でした。そのドナウ川が、オーストリアとスロバキアの国境を通過してハンガリー大平原へと入っていくと、そこから先の民族分布は多様です。
下流に向かって順に挙げていくと、まずスラブ系のチェコ人とスロヴァキア人、次にアジア系のハンガリー人(マジャール人)、再びスラブ系の(旧)ユーゴスラヴィア人とブルガリア人、そして最後にラテン系のルーマニア人となります。どのようないきさつで、なぜこのような民族分布が形成されたのか、そのあたりはこの著書を読んでいただくことにしましょう。

そしてこの本は、ドナウ流域の各国について、順にその国の歴史・文化・特徴について教えてくれることになります。

取り敢えず、ウィーン(オーストリア)、ブラティスラヴァ(スロヴァキア)、ブダペスト(ハンガリー)で私が撮したドナウ川の写真を挙げておきます。
  
ウィーン近郊の電車の中からのドナウ川  ブラティスラヴァ城から見たドナウ川

ブダペストの王宮から見たドナウ川とくさり橋
コメント (2)
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