弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

田中長徳「カメラに訊け!」

2009-05-09 11:07:22 | 趣味・読書
私は、今から40年前~20年前ぐらいの間、主にフィルム一眼レフのアサヒペンタックスSPFを用いていました。そのカメラの動きが悪くなり買い換えの時期になった頃、すでに1985年にミノルタがオートフォーカスを発売した以降であり、一眼レフはオートフォーカス・ズームレンズの時代に入っていました。オートフォーカス・ズームレンズのフィルム一眼レフは、「重い・高価」という二重苦であり、とても使う気になりません。
そこで、それ以降、20年前くらい前からでしょうか、一眼レフを止め、オートフォーカス・ズームレンズのコンパクトフィルムカメラに転向しました。その後デジカメ時代に入り、現在はコンパクトデジタルカメラです(もちろんオートフォーカス・ズームレンズ)。

フィルム一眼からコンパクトカメラ(デジタルを含む)への転向で、「写真を撮る楽しみ」が減ったように思います。できあがる写真にはさほどの差は生じないのですが、シャッターを切る瞬間の楽しみが少ないのです。違いは「ファインダーを通してみる絵に感動があるかないか」という点であるように思います。フィルム一眼では、ファインダーからの絵を見たときにすでに感動があり、“いい写真になる”と予感しつつシャッターを切ることができました。しかしコンパクトカメラでは、ファインダーの画像が小さく、感動がありません。
しかし「重い・高価」を嫌ってコンパクトカメラに転向してしまっています。自然と、楽しみで写真を撮る機会が減りました。

現在、私が写真を撮る目的は、ブログネタ、記録保存が主であり、その目的にはコンパクトデジカメが最適であり、今年の初めから
Canon デジタルカメラ IXY DIGITAL (イクシ) 920 IS シルバー IXYD920IS(SL)

キヤノン

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を使っています。


一方で、このデジカメ全盛の時代に、銀塩フィルムカメラの存在意義はあるのだろうか、あるとしたらどのような点なのだろうか、ということがずっと気になっています。

本屋で以下の本を見つけました。
カメラに訊け!―知的に遊ぶ写真生活 (ちくま新書)
田中 長徳
筑摩書房

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本の裏表紙の紹介によると、著者の田中長徳(ちょうとく)さんは、1947年生まれですから私より1年上の同世代です。日大芸術学部を卒業した写真家、カメラ評論家ということです。
写真家としての仕事にはデジカメを主に使い、それ以外に銀塩のレンジファインダーカメラであるライカを使っています。そしてこの本の主題は
「デジタルカメラ+フィルムカメラ(コラボレーション)=知的カメラ生活」
ということだそうです。

プロとしてデジカメを使いながらライカをも使っているのであれば、私の疑問に答えてくれる可能性があります。ということで読んでみました。

残念ながら、読後感としては不完全燃焼です。

「なぜ今ライカか」との疑問を、私は以下のように分解します。
① なぜデジタルでなく銀塩35mmフィルムか
② なぜフィルム一眼ではなくフィルムレンジファインダーカメラか
③ レンジファインダーの中で、なぜライカか

しかしこのように疑問を分解すること自体、私が理系であることに由来しているかも知れません。芸術家である長徳氏はこんな風には考えません。
「ライカにうっとりする最大の秘密は、旅へのいざないと、いま、ここにいることが実は『旅の途中なのではないか』と自分を錯覚させてくれることにあります。」
「デジカメを前にして一番不幸なことは、大量生産で非個性的すぎるという点もあるのではないでしょうか。旅の途中で二人のデジカメ人類が出会い、カメラの話題で意気投合するのは難しい。これは、あまりに寂しい現実です。
これがライカなら。旅先がどこであれ、ライカ人類というのは他のカメラユーザーに比較すれば絶対的にマイナーな数ですから、そのマイナーさによって生じる『ライカ引力』に引きつけられるのです。」
「(クラシック銀塩ライカを所持する)理由はすこぶる単純なもので、現在のデジタルカメラには手にしてうっとりするような、カメラ金属学の願望を満足させるようなものが一台もない、という点にあります。」
理系の私には理解不能です。

「なぜライカか」という私の疑問はまだ続きそうです。
コメント (2)
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