弁理士の日々

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「文藝春秋」にみる昭和史

2009-02-07 17:24:43 | 歴史・社会
“「文藝春秋」にみる昭和史”という本があります。第1巻は、昭和元年から昭和15年までの事件やできごとに関連して、まさにその当時の文藝春秋に掲載された記事、あるいは戦後になってからその当事者がふり返って執筆した記事から厳選し、事件の時系列で再現したものです。
「文芸春秋」にみる昭和史〈第1巻〉

文藝春秋

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しかし現在は古書でしか手に入らないのですね。それと私は文庫本で読んだのですが、アマゾンでは単行本しかヒットしませんでした。

まさに事件当時に掲載された記事の中には、
昭和6年:満蒙と我が特殊権益座談会(建川美次、森恪、神川彦松ら)
昭和7年:荒木陸相に物を訊く座談会(荒木貞夫、直木三十五、菊池寛)
昭和8年:松岡洋右縦横談(松岡洋右)
昭和9年:ナチスは日本に好意を持つか(鈴木東民)、新日本の姿を示せ(近衛文麿)
昭和10年:刺された永田鉄山(江戸川清)
昭和12年:学生の知能低下に就いて(三木清)、近衛文麿論(阿部真之助)、砲声殷々たる北平における日支両国青年座談会

また、終戦後に回顧録として書かれた記事としては、
昭和3年:私が張作霖を爆殺した(河本大作)
昭和6年:満州事変の舞台裏(花谷正)
昭和12年:組閣工作の109時間(宇垣一成)
昭和12年:通州の日本人大虐殺(安藤利男)
昭和13年:総動員法問答事件(佐藤賢了)
昭和15年:ヒットラーと悪魔(小林秀雄)

張作霖爆殺事件から支那事変勃発までの激動の歴史について、当時の人たちが何を考えていたか、事件の舞台裏で何が起こっていたか、という点を明らかにしてくれる貴重な書物であると思います。

中でもびっくりするのが、
昭和6年:満蒙と我が特殊権益座談会(建川義次、森恪、神川彦松ら)
での議論です。今回はこの記事を取り上げます。

座談会の出席者は、建川美次(陸軍参謀本部第一部長)、佐藤安之助(陸軍少将)、高木陸郎(中日実業副総裁)、森恪(政友会代議士)、中野正剛(民政党代議士)、大西斎(東京朝日新聞)、神川彦松(東京帝国大学教授法学博士)、佐佐木茂策(文藝春秋社)です。
期日は「6・10」と記されており、昭和6年10月号の記事と思われます。満州事変の元となった柳条湖事件発生は同年の9月18日であり、座談会は満州事変の直前に行われたようです。

座談会の最初は、文庫本13ページにわたって、森、中野、建川、大西、佐藤氏らが、当時の満蒙において日本の権益が損なわれ、日本がじり貧に陥っている状況について攻撃を加えます。当時の日本の国論が再現されているといっていいでしょう。

そこで突然、それまで沈黙していた神川氏(東大教授)が発言し始めます。文庫本4ページにわたって発言が続きます。それがすごいのです。
「私失礼ですが、お話を承っておりましてよく分かりましたが、私は年来外交史、国際政治を学問的に研究しておりますので、そういう立場からごく客観的に、冷静に、観察したものを一言申し上げたいと思うのであります。それは吾々学問上の見地から申しますと、満蒙問題は要するに三つの解決方法しかあり得ない。第一は帝国主義的の解決でありますし、第二は民族主義的の解決、第三は国際主義的の解決。」
《第一の帝国主義的の解決》
19世紀の普仏戦争から(第一次)世界戦争に至るまで、世界を風靡した政策で、およそ各国はこれを採りました。
日本も、日露戦争で朝鮮からロシアの勢力を逐い、さらに満蒙に向かって帝国主義的活動をすることになった。しかし日本独力でなしたのではなく、日英同盟や米国の同情があってなしたことです。従って、日本だけで満州を思うように処分することはできず、他の帝国主義国の牽制を免れません。
(第一次)世界戦争において、民族自決主義という旗印が風靡していたので、日本は時代に逆行する活動ができません。

《民族主義的解決》
帝国主義的の活動というものが、(第一次)世界戦争まで来てあれで形勢が一変したと申さなければなりません。
そうして旗印は民族自決主義、これが支那にも移ってきた。
満州は、日本の満州経営というものが幸いして、戦後の今日は漢人が二千万、三千万近く、日本人も二十万人、朝鮮人も百万人、外国人も数万人がいますが、漢人が圧倒的に優勢を占めておる。そうしますと満州は歴史的に支那の領土であり、民族的にもそうである。そして打倒帝国主義の活動が対立してくる。
もし日本が今日までのような帝国主義的活動を従来の如くやる、それを相手が拒めば武力でも発動させるという政策、-私の考えでは森さんその他松岡洋右氏などのご意見もそうではないかと思いますが、日本が依然として帝国主義的な政策を固守するとしますれば、結局問題は支那が無為にして引き下がるか、それができなければ武力的衝突というものは免れない。

《国際主義的の解決》
そこで私の考えでは満蒙問題は日露支三国が結局お互い武力に訴えて、第三者の干渉に依って国際化するか、そうでなければ両国の妥協に依って私はそこを中立化するか、そこにはいろいろの方法があるが、とにかくこの方法より途がない。

結局のところは支那が満州を民族化する、あるいは国際化するということに終わるんではないかということを実は心配しております。・・・従来の権益の上に立って日本があくまでも踏ん張るということは・・・私は公言することははなはだ憚りますけれども、いわば大動乱というものに結果して、救われないということが起こりやしないか。

私は支那における共産主義というものを重大視しております。
日支がもし敵愾心に燃えて立つというならば、第三者の術中に陥るもの、結局何方にしても大変だと思うのであります。
--神川氏の発言以上--

このあと、2ページにわたって各氏が神川氏に反論し、神川氏の議論を潰しにかかります。その後神川氏は沈黙し、残りの4ページ、元の議論に戻り、座談会は終了します。


こうして神川氏の発言をふり返ってみると、卓見としか言いようがありません。
文藝春秋誌も、満州事変勃発前後の発売で、よくぞこの意見を削除せずに掲載したものです。

神川氏の発言を読んで以下のように感じます。
第一次世界大戦を境として、帝国主義的政策の評価ががらっと変化したようです。
第一次世界大戦までは、列強と言われる強国が弱国を支配に治めることは、少なくともやむを得ないと考えられ、日本も、弱肉強食の中で強国の仲間に入ろうと努力しました。
第一次世界大戦後、それまでの帝国主義的政策は時代遅れとなり、民族自決主義が台頭しました。列強もその変化を感じ取っていたでしょう。

そこに、遅れてきた帝国主義国として、日本が登場したというわけです。
もう流行は廃れたというのに、以前の流行ファッションで身を固めた日本。世界中から冷たい目で見られることになります。
それに対し日本は、「イギリスだってアヘン戦争で中国を植民地化しているではないか」と反論しますが、「第一次大戦で流れが変わったことが分からないのか。空気読めよ。」と言われるだけです。
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