弁理士の日々

特許事務所で働く弁理士が、日常を語ります。

再びジーコのこと

2006-08-03 00:09:07 | サッカー
ドイツワールドカップ開催前、ジーコについて書きました(5月21日、ジーコのこと)。W杯終了には書けなくなるような予感がありました。その通りになってしまいましたが・・・。
上記記事においてなぐれっずさんと私とがコメントで交わした心配も、現実のものとなってしまいました。

ゲーテ誌9月号には、中田英寿のインタビュー記事の他、アントラーズのゴールキーパー小澤英明に関する記事が載っています。
小澤選手は、1992年にアントラーズに入団し、将来を嘱望されるゴールキーパーでした。しかし2年後から椎間板ヘルニアに悩まされ、自主退団、その後治療を続けて良くなり、いろいろなチームで10年以上も補欠を続け、アントラーズに復帰して今年からレギュラーに定着しました。

このすさまじい忍耐力について
「“今を一生懸命生きる”ということを、ジーコから教わりましたから」

「ジーコは凄い人なんですよ」
92年当時、小澤はジーコと鹿島でチームメイトでした。
「今でも覚えているのは、雨の日の練習で、みんな水たまりをよけてシュートをしていたんです。そしたら、まだ現役だったジーコが、わざわざ水たまりにダイビングヘッドをしたんですよ。全身泥だらけになりながら、ここだ、ここが大事なんだ、と叫ぶんです。鳥肌がたちましたよ。なんて人なんだ、この人は名声や栄光で生きているんじゃない、今を生きているんだと」

椎間板ヘルニアのために鹿島を自主退団する際、ジーコが声をかけてくれた。
「おまえはこのチームの家族だ。だから、いつでも好きなときに帰ってきなさい。オレたちは扉を開けておまえの帰りを待っている。今出した結論は、自信を持って貫けばいい。おまえが選んだ道なんだから、それは決して間違いじゃないから」
小澤は人目をはばからず泣いたそうです。


ゲーテ誌の中田英寿とのインタビュー記事においても、中田とジーコとの信頼関係が記されています。
トルシエサッカーに共感できなかった中田は、いったん日本代表から離れようと思っていました。しかし、新監督ジーコと会った中田は尊大ではないかれの言葉に感応し、再び代表で戦うことを決意します。
ジーコと二人きりで会う機会を作ってもらい、イタリア語で話し合います。ジーコは長い時間、ヒデが思い描くサッカーについて話を聞き、「これからも思いつくことがあればどんなことでも私に話して欲しい。ヒデの描くサッカーが代表には必要だ」といいます。

しかしこの信頼関係、他の代表選手にはただ目障りだっただけなのでしょうね。
コメント (2)
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