ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

そのひと時

2010年03月31日 | ノンジャンル
「スルーかよ」

我が家で最近流行っている? ツッコミの言葉である。

「なあなあ、父ちゃん、聞いてえや。」(娘)

「あのさあ、父さん。。。」 (息子)

「ねえ、○○ちゃん、今日ね。。。」 (カミサン)

【因みに、機嫌次第で、○○さんとなったり、
 ○○!となったり、おっさん! となったりする。】

仕事では、同時に3人までなら話は聞けるし、対応もできる。
家に帰って、仕事モードから解放された後に、同じ集中力を
要求されると辛い。

自然、優先順位が付けられる。カミサン、娘、息子と。

その中で、話の内容によって応対も変わる。
聞くだけ聞いて、「ふ~ん」で終わると、飛び交うのが、
「って、スルーかよ!」である。

カミサンの話は、まともに聞いている。
娘の話は、大体察しが付く。部活、大学、教職。。。
息子は、自分では面白いと思っている話をするが大抵すべる。
すべるのは話だけで良かった。

で、「スルーかよ!」のツッコミは、娘と息子から
受けることが多い。
夜遅く帰宅するのを待ち構えていたように、同時に
話しかけてくる二人。時に三人。。。

そのツッコミに、「あれ? わかった?」と返して、
いつも皆で笑っている。
そのひと時が、どれほどホッとさせられる時間であることか。

幸せな父親なのであろうと思う。

多感な時期の娘が、そばに寄ってきて話しかけてくる。
これから子供でもない、大人でもない難しい時期を
迎える息子も同様だ。

娘も、息子も、共に初めての試練とも言える受験を、
一緒に乗り越えてきた。
断酒を決意したのが、娘が中学に上がった年である。
もう五年になるのか。。。

よくぞ、よくぞあの時に覚悟を決めたものだと、
我ながら薄氷を踏む思いがする。
あの時でなければならなかった。それができなければ、
今の我が家はどうなっていたことか。。。

「子供のことをしっかり見てあげなさい。」

夢でおふくろに叱られた時にもらった言葉である。
今でも鮮明に憶えている。

家族のそれぞれが、自分のするべきことを一生懸命に。
そして、一日の終わりや、休みの日には、皆で食卓を囲み、
他愛もないバカ話で笑って共にひと時を過ごす。

特別な事でもなんでもない、そのなんでもないひと時が、
本当に、本当に幸せな時なのである。

これからも、そんなささやかな、小さな幸せを
積み重ねていきたいものである。




なにもしない

2010年03月30日 | ノンジャンル
一日を具体的に行動して、充実感を得るのも、
無為に過ごして、自己嫌悪、自己憐憫に陥るのも、
全ては、誰のせいでもなく自分自身のせいである。

だからこそ、この充足と不足についてはあくまでも
主観であり、必ずしも客観とは一致しない。
自分では精一杯でも、他から見れば不十分ということも
あれば、自分では不満足であっても、他から見れば十分という
こともある。

自身の充足が、他から見ても十分であればこれほど
幸せな事はないが、なかなか主観と客観が一致する
ことは少ない。

具合が悪くて、一日寝ていたとすれば、なにもしていない
ように思えるが、調子を取り戻すために、たとえば薬を飲む、
身体を休めるということをしているのである。
なにもしていないわけではない。

少しでも具合が良くなって、自分が良かったと思えるなら、
それで良いのである。なにもしないで一日ごろごろ
していただけと周りに見られたところで、仕方がない。
それは仕方がない事としておけばよい。

不幸なのは、周りの評価ばかりが気になり、それを
満足させることに疲れ果て、自身の充足がないことである。
人の満足を自分の充足と考える人なら、疲れることはない。

さて、人が生きている以上、なにもしないということは
ありえない。
それがどんな価値を産み出すか、
つまり生産的かどうかという尺度や、意味があるのかという
見方は、あくまでも判断基準の一側面にすぎない。

人は、意味だけで生きているのでもないし、
可能性というものは、即物的な思考とは一線を画する。

やはり大切なのは、自分自身の充足なのである。
死したものでさえ、物理的には何も出来るはずがなくとも
生きるものの心に重なり、その心を支える。
自分が満足すれば、その心を支える亡きものも、
満足であろうと感ずることができるのである。

さて、「なにもしない」は、断酒においては不可欠である。
「飲む」は行動だが、「飲まない」は行動ではない。
生きることを諦めないで、お酒を飲むことは諦めたのである。

極端だが、この病気となって命を一度は失いかけた以上、
お酒を諦めないなら、生きることを諦めなければならない。

この二者択一はこの病気となってしまった以上は仕方がない。
どちらも諦めたくないと言っても無理なのである。
どちらを諦めるのか。主体は自分である以上、その選択も
自分自身の問題である。

「飲まない」を、「なにもしない」と捉えるなら、
特に初期の頃は、意識して「しない」事を心掛けるべきである。

自動販売機、コンビニのお酒販売コーナー
→ 前を通らない、見ない。

お酒のコマーシャル
→ 見ない。 チャンネルを変える。

夜の繁華街
→ 行かない。

酒席、宴会、飲み会
→ 行かない。行くなら車で行く。

案外、「なにもしない」ということが難しいことが
わかるであろう。
私は、仕事上必要な場合もあるが、あえて自分で
逆のことをしてきた。

グラスに手を伸ばし、口元で傾ければそれでおしまい
という状況にあえて自分を置いて、その覚悟を
強化してきた。
飲めたら飲みたい自分に対するサディスティックな
仕打ちである。
反面、飲みたい自分はマゾということになるだろう。

但し、これは毒をもって毒を制するような危険極まりない
例であり、絶対にお勧めはできない。
やはり、お酒に関しては、
「なにもしない」事を心掛けるのが無難である。




釣った魚

2010年03月28日 | ノンジャンル
釣った魚に餌はやらない。。。

そんなわけないと思うのだが、世のご婦人方はよくこういう
愚癡をのたまう。

釣るために餌は必要だが、釣ったあとは餌はいらない。
ただし、これは、釣った魚を食べてしまう場合である。

食べてしまえば、また魚を釣るために餌を用意する。
ごく当然の事である。

魚を釣って、それを大事に守り、共に生活するなら、
死ぬまで餌は必要である。
つまり、釣った魚に餌をやり続けるということである。

表現が悪いのだが、そういう言葉がある以上、それを借りて
言えば、そういうことになる。

自分のものにして、結婚したなら、あとは恋愛時代の
ようにプレゼントも何もしないということを言うなら、
それも間違いである。

いつもいつもとなれば話しは別だが、あれが欲しいと
おねだりをしてみれば良い。
男は、なんだかんだ言っても、それが気に掛かるものである。
さほど余裕がなくとも、何とか買ってやろうと考えるものだ。
そして、そういうことに使うお金はさらさら惜しくない。

カミサンなどは心得たもので、おねだりなど滅多にしないが、
それをする時は、結構、高価な物が多い。

今までそれを、プレゼントしなかったことはない。
限られた小遣いをやりくりして、何とか買ってきたのである。
それでも、嬉しそうな顔を見れば報われる。

釣るときも、釣ったあとも、変わりはないのである。




闘う意志

2010年03月27日 | ノンジャンル
自分ひとりではやめられない病気である。
医療も根本的な解決にはならない。
抗酒剤も、本人が飲まなければ何の意味もない。

歴史的に見て、AA、断酒会など、自助グループのもととなる、
二人のアル中の出会いが、この病気の回復の糸口となり、
現在に至っている。

自助グループによって断酒ができ、その継続を実行している
例には枚挙に暇がない。
医療がさじを投げた病気である。自助グループの果たす役割は
根本的に重大である。

ただ、自助とは、やはり主体は自分自身であることを意味する。
一人では到底やめられなかった者同志が、少なくともその問題を
自覚し、何とかしたいという思いがあったからこそ、
互いに次に会うときまでは飲まずに会おうという約束を
したのである。

この、次に会うときまでという約束を同じ病気の者同志が
交わしたことが、いわゆる二人の「きっかけ」となったに違いない。
互いに飲まずに、再び会った時の互いの喜びは如何ばかりで
あったろう。

それまで、飲まずに過ごすことがどれほど大変で、苦しかったかを
再会のときに互いにわかちあったに違いない。
そして、また、次に会うときまでは飲まずにという約束を新たに
交わしたはずである。

やめたくてもやめられない、だがなんとかしたい、
なんとかしよう。
この思いがある限り、いつかそのきっかけは来るだろう。
そのときまで、命が続くかどうかは、その人による。

お酒をやめている人が集まるのが自助グループではない。
なんとかしたい、やめたい、お酒の害から解放されたい。
その思いがあれば誰でも参加できる場である。

残念ながら、自ら自助グループに参加する人は少ない。
家族の勧めや、保健所、医療の勧めにより自助グループに
繋がったというケースが多い。

やめられないお酒をやめる場であり、やめ続ける場である。
そこには、どんな状況であれ、自らの「やめたい」がなければ
断酒も継続もかなわない。

無理矢理に本人を連れて行ったところで、本人にその気が
なければまるで意味がない。
けれども、たとえ無理矢理でも、その中で「気付き」を得る
場合もある。やめられない病気であることの認識である。
そして、やめることができるという実感である。

ひとりではやめられない病気であるけれども、回復の鍵は
本人のやめたい、やめようという意志であるという点が
非常に矛盾しているかのようで難しい。
病気であることがわかっても、それを治そうという意志が
本人になければ、回復への道はありえない。

私は病気であることを自ら知って、限界ぎりぎりのところで
病院へ駆け込んだ。そこで病識を深め、自ら断酒を決意した。
自助グループには参加していないが、私なりの認識と覚悟を
新たにする行動と、対処を講じ続けて今のところ継続できている。

だが、それもやはり私の場合という一例であって、
一例に過ぎない。
断酒仲間、医療、自助グループなど、自分のやめたい意志を
具体化していくきっかけとなる繋がりが、そこにあればよい。
そのきっかけや、気付きがどういう時期にどういう形で現れる
かは、やはりその人それぞれなのである。

一年以上の断酒へと軌道に乗っていく人は、
全体の二割未満である。
あくまでも本人次第であることがよくわかる。
早くそのきっかけや、気付きがあれよと願うのは
人情だが、こればかりはやはりその人次第である。

周りや家族に病識がなければ、その人のためと思って
していることがかえってその病気を進行させて
しまうことにもなる。
看病すればするほど、病気が悪くなるという厄介な
ものなのである。

自身の病気を知り、その病気と闘う意志を維持、
持続させてきた中で、内へ向けていた視点を、
外に向けることも経験することができた。

結論はやはり、本人次第であり、本人に病気と闘う
意志がなければ、たとえ家族であろうと、医療であろうと、
自助グループであろうと、できることは何もない
ということである。

私自身、今後そういった依存症であることが明らかな人に
関わることがあれば、専門病院を紹介し、自助グループを
紹介し、最低でも病気であるということと、その知識を
提供することぐらいしかできないし、それで十分とも
考えている。

そこからは、その人自身の問題であり、私や周りがどうこう
することでも、できることでもない。
もちろん、やめる意志があって、やめようとしていく中での
苦しみや、闘う辛さをわけあうことはできる。
自分の経験が役に立つ場合もあるだろう。

共に闘うなら、いつでも手を差し延べよう。
そして時には手を貸して欲しい。

闘う意志のないものをどうにかできる力はない。
やめているか、やめられないでいるかの問題ではない。
闘うのか、諦めるのかの問題なのである。




この季節

2010年03月25日 | ノンジャンル
春先のこの季節、冬の緊張が緩むこの季節が、一年の内で
最も情緒不安定になる時期かもしれない。

自殺衝動を持つ人にとっても、一番危険な時期である。
世間一般でも、不可解な事件が多くなるのもこの時期で、
気の緩みというものが、不安定さというものと
同義である事がよくわかる。

ネットで知り合った断酒仲間が、突然亡くなった。
50歳という若さである。
あまりにも突然の訃報に呆然とするばかりだが、
謹んでご冥福をお祈りしたい。

アルコールを止められずに身体を傷め続けてきたなら、
さして珍しいことではない。
彼は弁護士で、断酒を継続し、ダイエットを自らに課して、
日々精進されていた。

50歳の節目に、弁護士としてまた一から勉強をし直して、
新生を為そうともされていた。
その姿、志に私自身、随分励まされてもいたのである。

前日までの記事を見る限り、普段と変わらず、その死因に
ついては見当もつかない。病死とすればあまりにも突然で、
自殺とすれば、この危険な時期と重なり合う気もするが、
自ら新生を志し、人にも会うことを予定していた事から
すれば、考えられないのである。

いずれにせよ、確かめられないことをどう詮索しても
意味がない。
人は、いつか死ぬことを、逃れられない運命として
承知している。だが、少なくとも明日はまだ生きて
いるだろうと、何の根拠もなく信じている。

人の死によって初めて人は、自身に許された時間が
どれほどなのかを、まるで知らないことに改めて
気付かされる。

ただ、彼のように、自身が為そうとすることを為していく、
その、前を向いた行動の中で時間が尽きるなら、
本望だとも思う。

為すことを為して、安生の中でその時を迎えるのが
最高ではあるが、誰もがそれを実現できるわけではない。
ならばせめて、前を向いて、進んでいるその姿のままで、
その時を迎えたいものである。

アル中の最大の不幸は、寿命の短さではなく、
前を向こうとする志を毒し、失意と無為のまま、
その時を迎えることにある。

今の一瞬を生きるものは、
心して人の死に向き合わねばならない。

ここに謹んで、哀悼の意を捧げたいと思います。