ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

めぐりあわせ

2015年03月27日 | ノンジャンル
もう新しいシーズンも目の前となってきた。

何かと気忙しい時期でもあるが、日ごとに暖かさを
増す陽気に、なんとなく心も浮き立つ。

娘もようやく赴任する学校が決まった。
4月からは教師として教壇に立つ。
いや、むしろグラウンドか体育館の方が多いだろう。

決まった先の中学校は、なんと私の母校である。
何とも不思議なめぐりあわせに、驚きを隠せない。

小学校時代は転校を繰り返したが、最後は卒業前だった。
一緒に中学に通えると思っていた友達と別れ、
まったく知らない学校へ進学となった。

制服も買えないほど家庭は困窮していた。
やっとのことで購入できたのが、入学式直前だった。

地域的に何となく馴染めず、中学時代というのは
高校・大学に比べてあまり良い想い出はない。
一言でいえば、面白くなかった。

その中学に娘が赴任する。
なんでわざわざ、よりによってというのが
正直な気持ちだ。

だが、私の時代も、体育教師というのは、なかなか
くせがあるものの、面白い先生が多かった。

部活動が盛んなところなので、娘には
打って付けかもしれない。

ともあれ、父親の母校で娘が教鞭をとる。
なんとも出来過ぎた話ではないか。





教習所

2015年03月18日 | ノンジャンル
息子が自動車教習所に通いだした。

教材や時間割などを見ると、懐かしい思いが
よみがえる。

いろいろなタイプの教官がいたが、それは
いわゆる臨機応変力という点で必要な
ことであろう。

隣に教官やベテランドライバーがいないと
運転できないようでは困る。

免許を取得して一年はかなり緊張度の高い中で
運転することだろうが、善し悪しは別として
人間は慣れるという資質を持っている。

この慣れるということが油断を生み、思わぬ
事故となることも多い。

特に、走り慣れたルートや、近隣での事故が
多いのも慣れが油断を招いた実例であろう。

飲酒運転もしかりである。
初めは、飲めば絶対運転しないという意識が、
一杯くらいならとなり、それが、1本となり、
2本3本となっていく。

したたかに飲んだ後、運転して家に帰る
ということをかなりの回数行っていた私である。

最近、脱法ハーブなど薬物による事故が
多発している。
死傷者が出ているにもかかわらず、運転していた
本人にその記憶がない。

私にはそのことについてとやかく言う資格はない。
自身も同じような事故を起こしていたかもしれない。
単に、幸いにも人身に関わるような事故を起こさ
なかったというだけなのである。

運転とは、人の命に関わる危険な行為であるが故に、
技能面、知識面共に一定の基準以上の取得が
課せられる。
その上で、その行為を許されるわけである。

この一点だけは、息子にも肝に銘じておいて
欲しいと思う。

家族や他人を巻き込む点ではこの病気と
似ているが、事故は即、命に直結している。

そして、共に最悪なのは、本人にその明確な
記憶も意識もそこにないということなのである。

巻き込まれた側に立てば、たまったものではない。

事故により、自分が窮地に立たされることを
想像するよりも、他人の命を奪い、その遺族を
苦しみのどん底に落とすということを
想像すべきである。

油断とは、すなわち、自分が責任を取りようも
ない事に対して、大丈夫だろうという、
無責任極まりない、驕りなのである。




酔態

2015年03月05日 | ノンジャンル
お酒で酔いが回ってくると、人それぞれ様々な
酔態を現す。

無口な人が饒舌になったり、明るい人がふさぎ込んだり、
おとなしい人が暴れ出したり、無愛想な人がニコニコ
していたりと、千差万別だろう。

前頭葉の理性がマヒしてくるわけであるから、
普段見せることのないその人の内面が顕れる
ということでもある。

自分は、飲めば明るく、よく喋るようになる傾向が
あったが、いつの間にか度を越すと陰々と飲み続け、
鬱のようになっていく傾向が出始めた。

その頃にはもうすでに依存症を発症して
いたのだろう。

さて、二人の子供達も成人して、お酒の場に出る
機会も増えてきたようだ。

初心者の息子は二日酔いで食事も取れないように
なると、もう二度とお酒は飲まないなどと
言っているが、これも咽喉元過ぎればに
なりがちである。

ただ、おそらくカミさんに似ているのか、
あまり強い方ではなく、気分良くなってくるぐらいで
十分なようである。
少し過ごすと、眠くなる方なので、あまり心配は
いらないようだ。

これに対して娘はめっぽう強い。
かなり飲んでいても、普段とあまり変わらない。
これはどうやら私に似たのかもしれない。

ただ、これも私と違って肉体派の彼女は、身体を動かす
ことに支障が出るほどまでは飲まないようで、二人とも
それぞれのブレーキを持っている点で安心している。

明日のことなどどうでも良いと飲んでいた私とは
ちがって、それぞれのブレーキを身につけているのは
いいことである。

毒は薬となり、薬も毒となる。

薬として楽しむことができれば、それはそれで
いいのである。

子供達と一緒に飲みたいと昔は思っていたが、
今はもうそんなことはどうでも良くなっている。

一緒に飲むことが大事なのではなく、いくつになっても
互いに話ができる相手でいることの方が
よほど大事なのである。

私自身、自分を振り返れば不思議で仕方ないほど、
子供達は私に様々な話をする。
それはつまり、私自身が話を聞いてやれるようになった
ということかもしれない。

それはそれで、私にとってもありがたい事なのである。