ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

陰性

2020年07月30日 | ノンジャンル
実は、先週の連休前、強い倦怠感と微熱があった。
といっても、平熱が6度5分以上ある私にとって、
37度前後というのは何という事はない。

だが食欲もなく、息苦しさもあって、コロナ感染を
疑った。
万が一という事もあるとは思うが、仮に感染している
として、その経路などは全く心当たりがない。

最後に夜の街に出たのが7月1日。症状が出たのが
その3週間後。通勤は相変わらず自車で、出掛けると
すれば、コンビニやスーパーなど、ちょっとした
買い物のみ。
どこで感染したのか全くわからない。

連休明けの月曜日には、症状はほぼ消えていて、
保健所に相談したところでPCR検査は
してもらえないだろう。

家族、会社の事もあるので、万一の不安を
払拭するために、抗体検査を受けた。

陽性であれば、PCR検査もしてもらえるだろう。
結果は陰性。ひとまずは安心だが、それなら
あの症状は何だったのか。

どうやら長引く閉塞感による神経的なもの
だったようだ。

徹底した予防策で感染を防いでいても、
それによる心身への弊害は如実に自覚している。

働き方改革よりも、閉塞の中に解放を見出す
意識改革、つまりはこれまでにはない生き方の
選択肢プラスが必要とされているのである。





おだまり

2020年07月29日 | ノンジャンル
コロナ感染は、インフルエンザとほぼ変わらない。
接触感染、飛沫感染がその主たる伝染形態である。

異なるのは、発症までの潜伏期間が長いことと、
その人の免疫力の差によって、症状も軽微なものから
重症迄、予測ができないところだ。

インフルエンザなら、感染後すぐに高熱などの
特異的症状が現れる分、対処もしやすいし、
それほど大きな感染拡大もない。

多くの元気な感染者が、スーパースプレッダー
として、どこにでもいるというのが、コロナの
最も顕著な特徴であろう。

となると、以前にも述べたが、自身がすでに
感染しているという前提で、他に伝染させない
意識で一人一人が予防に徹するほかない。

伝染されないようにではなく、伝染さない
ようにという意味での予防対策である。

このところ、第2波的な感染拡大が取り沙汰
されているが、ひとことで言えば、予防の弛み
である。

感染形態からして、手洗い、うがいは無論の
事だが、マスク着用は必須である。
もっと言えば、口を開かない事である。

飛沫のシミュレーションによると、マスクを
しないで普通に呼吸をしているだけでも、
1メートルくらいの範囲で飛散している。

最大の防御は、マスク着用の上、口を開かない
事である。

会話が必要な場合でも、マスクを着用していれば、
それほどリスクを高めることにはならない。
マスクをしないで、口を開かないのと同レベル
かと思われる。

飲食店や、夜の街がことさら感染元として
取り上げられるのも仕方がない。

飲食にはマスクを外す、その上で会話する
というのは、いわば防御をすべて投げ出した、
丸腰状態となるからである。

検査を受けて陰性と判定されたものばかりが
集まるならともかく、誰が感染しているかも
わからない状況でのこの無防備さは、
クラスターなど感染拡大に至って当然なのである。

飲む、食べる、話すがセットになっている
場所では、マスク着用者同士の会話の
感染リスクを1.5%とすれば、そのリスクは
60倍になるだろう。

不特定多数が集合離散し、口を開けざるを
得ない場所というのは、残念ながら最も
リスクの高い場所である。

政府の支援も、むしろそういう業界にこそ
厚く指向されなければならないが、万人向けの
焦点がぼやけたものに終止している。

口を開ける、開けないの、リスク管理基準の
徹底と、リスクの高い所への支援強化が求められる。





閉塞感

2020年07月28日 | ノンジャンル
今年のコロナ禍で、自粛、ステイホーム、テレワーク
など、人の動きを止める半年だったといえるが、
珍しく長引く梅雨に、常に閉塞感がある。
来週にはようやく梅雨明けとなり、例年にも増して
猛暑となりそうだ。

考えれば、自身にとってはこの閉塞感こそが、
自身の健康を損ねる一番の要因ではないかと思う。

家庭であれ、地域であれ、職場であれ、出動、帰還、
休息の拠点としては良いが、その範囲内での
活動だけとなると、日毎に閉塞感が強まる。

半年以上、国内にいるというのは、かつて
なかったかと思う。

おかげで、その閉塞感が体調にも現れ、気怠さが
慢性化してきた。

外に打って出て、自身の五感を研ぎ澄ませ、磨くと
いう事をやめた時、流れを止めた水の様に
澱むらしい。

池の水にはなりたくない。流れの中で大海に望んで
いきたい。
換気の中になどいたくもない。風の中にこそ
いたいのである。





感受と発露

2020年07月14日 | ノンジャンル
このブログ記事にも、内容に関連して写真を
アップしているが、ジャンルを問わず、絵画や
写真は好きな方である。

枠やフレームは好きではないし、むしろ枠の中に
あっても、広がりを感じさせる絵や写真が好きである。

ところが、いざ自分が写真を撮ろうとすると、
気に入った場面を、気に入った角度で切り取る
という事をしている。

枠にはめるというより、限られた中で、しかも
広がりを感じさせてくれる構図を
意識するためである。

写真というのは、目に見える事実であるが、
多分に撮影者の心情が写し出される。
絵画というのは、作者の心の発露である。

ところが面白いのは、見る人の心情によって、
いずれも撮影者や制作者の発露とはまるで異なる
受け止め方をされることが多い。

お酒、つまりアルコールは、写真と同様、自然界に
存在する事実である。
それをどう受け止めるかは、人間の勝手である。

断酒は、無論、人間の発露であり、人間の
勝手である。それをどう受け止めるかも、
人間の勝手である。

事実としてお酒の存在を受け入れ、自身とお酒の
関係を鑑み、その向き合い方として断酒をすると
いうのも、その人の勝手なのである。

無論、それを周りがどう捉えようとも、それはまた
その人の勝手である。

人によって異なる感受と発露の中にいる以上、
いわば、人はみな自身の勝手で生きている。

自分の勝手で生きているなら、他人がどう
言おうが、それもその人の勝手だということだ。

要するに、自分の生き方において、他人の中傷や
批判などは、どうでもよい事だということだ。

様々な勝手の中に生きて、自分なりの勝手を
確立し、貫いていけば良い事なのである。





蝉の声

2020年07月09日 | ノンジャンル
長雨が続くが、その合間の晴れ間に気の早い
蝉の声が聞こえだした。

ここ数年、空梅雨の晴れの日に聞く事が
多かったのが、梅雨らしい長雨で遅く感じて
いたので、少し驚いた。

あわてんぼうのセミかもしれないが、
土の中にいて、温度や湿気から地上に出る時期を
自ずと覚る能力は不思議である。

そこには、植物と昆虫のある意味境のなさが
見て取れる。

いや、抑々、食物連鎖というのは、如何なる
生命活動も、ダイナミックな根源的リズムに乗って
安定化し、協和音を奏でるといってよい。

その中で不協和音を出し続けてきたのが
人間であろう。

蝉の声にも、その不協和音を感じるのである。

間近な夏は、また暑くなりそうである。