人に会ったら、挨拶しなさいと教えられた訳でもなく、
自身にとっては、それが至極普通の事である。
アメリカでは、見知らぬ人であっても、目が合えば、
こんにちはと挨拶する。
相手を見て、目がとてもきれいねとか、
素敵なスーツねとかあいさつの後に付け加える
場合も多い。
日本ではそこまでいかないだろうが、その前の
挨拶自体ができない大人が多い。
子供たちの小学校時代もそうだったが、いまだに
挨拶運動なるものをしていて、登校時のおはようを
校門で先生が立ち、率先して声をかけている。
挨拶のできない子が多いという事は、そのまま
挨拶のできない大人が多いという事である。
昔、エレベーターに乗り込むとき、先に乗っていた
人に、こんにちはと挨拶したが、その人は
無言であった。
一緒にいた息子は、大人のくせに挨拶も
できんのかと憤慨していた。
私は、息子に、それはあの人の問題であって、
こちらの問題ではないと諭した。
そして、もし、挨拶を返されないからといって
こちらが挨拶をしなくなれば、それはこちらの
問題となってしまうと。
息子は、不満ながらも納得していたようだ。
相手がどうであれ、常に挨拶する私に、
「欧米か?」とからかうこともあったが、
「YES!!」と答えてやると笑っていた。
大人になった子供たちも、人に会えば
挨拶するのが普通の事となっている。
ある日、エレベーターに乗り込むと、お母さんに
抱かれた子供が、私の挨拶より先に
おはようと声をかけてきた。
挨拶を返すとニコニコして、「えらい?」と
私に訊いてくる。
すかさず、
「えらいねえ! でも自分で言っちゃう?」と
返すと、お母さんが笑い出し、その子も笑っていた。
挨拶は人に向けての事である以上、
人のためでもある。
互いに挨拶を交わすことは、互いに良き日で
あるようにという心の交換なのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/05/582db03a83ad0c53bb2c133acf16afc4.png)
自身にとっては、それが至極普通の事である。
アメリカでは、見知らぬ人であっても、目が合えば、
こんにちはと挨拶する。
相手を見て、目がとてもきれいねとか、
素敵なスーツねとかあいさつの後に付け加える
場合も多い。
日本ではそこまでいかないだろうが、その前の
挨拶自体ができない大人が多い。
子供たちの小学校時代もそうだったが、いまだに
挨拶運動なるものをしていて、登校時のおはようを
校門で先生が立ち、率先して声をかけている。
挨拶のできない子が多いという事は、そのまま
挨拶のできない大人が多いという事である。
昔、エレベーターに乗り込むとき、先に乗っていた
人に、こんにちはと挨拶したが、その人は
無言であった。
一緒にいた息子は、大人のくせに挨拶も
できんのかと憤慨していた。
私は、息子に、それはあの人の問題であって、
こちらの問題ではないと諭した。
そして、もし、挨拶を返されないからといって
こちらが挨拶をしなくなれば、それはこちらの
問題となってしまうと。
息子は、不満ながらも納得していたようだ。
相手がどうであれ、常に挨拶する私に、
「欧米か?」とからかうこともあったが、
「YES!!」と答えてやると笑っていた。
大人になった子供たちも、人に会えば
挨拶するのが普通の事となっている。
ある日、エレベーターに乗り込むと、お母さんに
抱かれた子供が、私の挨拶より先に
おはようと声をかけてきた。
挨拶を返すとニコニコして、「えらい?」と
私に訊いてくる。
すかさず、
「えらいねえ! でも自分で言っちゃう?」と
返すと、お母さんが笑い出し、その子も笑っていた。
挨拶は人に向けての事である以上、
人のためでもある。
互いに挨拶を交わすことは、互いに良き日で
あるようにという心の交換なのである。
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