ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

挨拶

2018年01月31日 | ノンジャンル
人に会ったら、挨拶しなさいと教えられた訳でもなく、
自身にとっては、それが至極普通の事である。

アメリカでは、見知らぬ人であっても、目が合えば、
こんにちはと挨拶する。
相手を見て、目がとてもきれいねとか、
素敵なスーツねとかあいさつの後に付け加える
場合も多い。

日本ではそこまでいかないだろうが、その前の
挨拶自体ができない大人が多い。

子供たちの小学校時代もそうだったが、いまだに
挨拶運動なるものをしていて、登校時のおはようを
校門で先生が立ち、率先して声をかけている。

挨拶のできない子が多いという事は、そのまま
挨拶のできない大人が多いという事である。

昔、エレベーターに乗り込むとき、先に乗っていた
人に、こんにちはと挨拶したが、その人は
無言であった。
一緒にいた息子は、大人のくせに挨拶も
できんのかと憤慨していた。

私は、息子に、それはあの人の問題であって、
こちらの問題ではないと諭した。
そして、もし、挨拶を返されないからといって
こちらが挨拶をしなくなれば、それはこちらの
問題となってしまうと。

息子は、不満ながらも納得していたようだ。

相手がどうであれ、常に挨拶する私に、
「欧米か?」とからかうこともあったが、
「YES!!」と答えてやると笑っていた。

大人になった子供たちも、人に会えば
挨拶するのが普通の事となっている。

ある日、エレベーターに乗り込むと、お母さんに
抱かれた子供が、私の挨拶より先に
おはようと声をかけてきた。

挨拶を返すとニコニコして、「えらい?」と
私に訊いてくる。
すかさず、
「えらいねえ! でも自分で言っちゃう?」と
返すと、お母さんが笑い出し、その子も笑っていた。

挨拶は人に向けての事である以上、
人のためでもある。

互いに挨拶を交わすことは、互いに良き日で
あるようにという心の交換なのである。





人に会う

2018年01月30日 | ノンジャンル
今の時代、これだけ通信媒体が発達すると、
居ながらにして大抵のことはできる。

仕事にしても、画面上で顔を見ながら
会議もできるし、効率も良い。

それでも、出張で足を運ぶのは、
人に会うためである。

たかが2時間ほどの会談のために、片道
24時間近くの移動となることもあり、
時間をお金に換算する世界では不合理
この上ない。

しかしながら、それ以上の価値が
人に会うということにあるし、互いに
新たな可能性を生み出すという点で、
最も重要なことである。

大抵の停滞や行き詰まりは、
人に会うことで打ち破ることができるし、
新たな展開を見出すこともできる。

人に会い、人に接し、その現実の空気に
揉まれながら、学び、共感し、反駁し、
協調し、対立し、和解し、共同する。

人は誰しも、人によって育まれる。
それが、いつの時代にあっても変わらぬ
真理なのである。





天津の空

2018年01月29日 | ノンジャンル
短期出張ながら、珍しく時間に追われる
ことのない旅程になっている。

寒いのは覚悟していたが、常に零下と
いうのは、寒さよりも乾燥の方が問題で、
いわゆるフリーズドライを、身をもって
体験している様なものだ。

肌も乾燥し、触れる金属全てに静電気の
火花が飛ぶ。

今回は初めて、天津の空を見た。

環境規制や春節前ということもあってか、
いつもの煙さがないし、青い空が見える。

当たり前のことに思えるが、普段は雲一つない
晴天でも、前のビルが霞み、写真のように
太陽を直視できる状態なのである。

出歩くには絶好なのだが、寒すぎてそんな
気にはなれず、久し振りのゆったりとした
時間を過ごしている。

その時間こそが、何よりも贅沢なものだと
感じている。

帰国すれば、また貧乏暇なしの
日常が待っている。





抗酒剤

2018年01月27日 | ノンジャンル
断酒の三本柱の一つ、抗酒剤。

最初はシアナマイドとノックビン両方を処方されて
いたが、副作用で発疹が出だし、ノックビンのみ
になった。

不思議なことに、その後、院長先生は私に抗酒剤を
処方しなくなった。

自分からお願いして、しっかり処方してもらって、
自分できちんと服用しないとと、看護師に苦言を
頂いたが、医師が処方しないならいいではないかと
思っていた。

要するに、お酒を飲めなくする薬である。
正確に言えば、抗酒剤を服用していて
お酒を飲むと、アルコールの分解が出来ないので、
もろにその影響を受け、下手をすれば救急車で
運ばれることになる。

無理矢理飲めなくさせる薬という点で、反発心が
あった。
飲まないを生きる条件とした自分には必要がないと。

ともかくも、お酒を飲めなくさせる必要がある場合。
自ら、今日一日を飲まずに過ごすという覚悟の意味。
万が一、魔が差した時のためのお守りの意味。

抗酒剤の服用は、その人によって様々な意味が
あるだろう。

先生に訊いてみた時におっしゃっていたのは、
私にはお守りの意味となるだろうが、必要ない
でしょうということだった。

副作用のこともあるが、私の気性や傾向性を診ての
判断だったと思う。

診断も人それぞれである。
通院の時は規則で服用するが、初診から3か月後には
もう日常的に服用していなかったと思う。

まず抗酒剤を服用して、その日を飲まずに過ごすと
覚悟することを積み重ねていく人。

普段は服用していないが、自身で危険を予知し、
危ない日には服用する人。

その人それぞれであろうけれど、抗酒剤はいわゆる
お守りであって、無理矢理飲ませなくする、
いわゆる足枷ではないということだ。

お守りは、自分を守るものなのである。





再飲酒

2018年01月26日 | ノンジャンル
再飲酒を避けるために気を付けるべき四大要素が、
HALTである。

空腹、怒り、孤独、疲労と、ネガティブな要素ばかり
だが、実はポジティブな要素もあり、むしろその方が
危険な場合が多い。

つまり、苦しい、辛い、寂しい、悲しいという局面と
等しく、楽しい、嬉しい、心地好い、安堵といった
局面も再飲酒の契機となることが多い。

ネガティブな局面では、それにしらふで直面する
ことは、想像以上に困難を伴う。

だが同時に、断酒の意識があれば、こうした局面で
飲んでいたのかと、客観視ができる。

つまり、自分がどういう局面でお酒に逃げていたかが
より鮮明に見える。
そういった自分の傾向を認識しておくことは非常に
重要である。

さて、ポジティブな局面では、あまり断酒を意識
していない。
そこに油断とスキができる。

子供の受験合格、就職、一家で過ごすお正月、結婚、
出産、定年退職など、いわゆる世間の祝い事の
場面においては、常に「一杯くらいなら」という
油断が生じる。

嬉しい、楽しい、心地好いというのが、いわば
酩酊という脳の快感の記憶を呼び覚まそうとする
動機につながりやすい。

警戒すべきは、むしろポジティブな局面である
かもしれない。

さて、今再びお酒を飲んだとしたらどうなるか。
結論から言うと、何も変わらない。

アルコールの分解能力は、遺伝子で決まっている。
長年飲んでいないからといって、一杯のお酒で
酔っぱらうようなことはない。

身体的には、飲んでいた頃よりも遥かに頑健な
状態である。
たかが一日、深酒をしたところで、
何ということはないだろう。

ところが、この「大丈夫」というたった一日の
事実が、次の飲酒の動機と弁解になることは
自明である。

そして、その「大丈夫」の積み重ねが、連続飲酒に
つながっていくことは明白なのである。

断酒が軌道に乗り、巡航状況に至ったものは、
ネガティブサイドより、むしろポジティブサイドに
己の警戒を向けるべきなのである。