ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

検査結果

2007年03月31日 | ノンジャンル
そういえば、長い間検査をしていなかったと思い、先週、
血液検査をお願いした。
先生もうっかりされていたようだが、日頃の状況を把握されて
いる中で、特に必要を感じておられなかったようだ。

「ああ、前回からかなり経っていますね。煙草は吸われるん
 でしたね。やっておいた方がいいでしょう。」と、
のんきな事を仰っていた。

尿検査と血液検査を行い、今日結果をもらってきた。
先生曰くは、「完璧」だそうである。

殆どの数値が基準内で、尿酸値が基準よりも下回っている
程度であった。どうやら、お茶を日常的にかなり飲んでいるので、
尿も薄まっているらしい。まあ、下回る事自体は何ら問題なく、
「完璧な状態」と太鼓判を押して頂いた。

多少の自信はあったが、正直ホッとした面もあった。
やはり体調の良し悪しは、精神面での波の影響を大きく
受けているようだ。

ただ、メンタル面が体調に現れるというのは、極めて正常で、
普通な事なのである。
アルコールで麻痺させていた頃は、そういう当たり前の事にも
実感として気付いていなかったように思える。

そもそも、体調が悪い時は、飲み過ぎが原因で、他の原因が
あったとしても、それをほんの些細なものとしてしまう
心の麻痺があったのである。



祈り

2007年03月30日 | ノンジャンル
生命というものを知覚し、認識できる人間だけが出来る事の
ひとつに、「祈る」という事があります。

斯くありたい、斯くあってほしいという願いが、祈りという
形を取らせるのですが、その願いは、道理から外れるもの
ではなく、具体的な現実性を帯びているのが普通です。

非科学的な事をいくら祈ったところで、何も結果は出ません。
ピアノを前にして、上手に弾けますようにと、いくら祈った
ところで、練習しなければ上手にならない事は自明の理です。

実は、祈りというものは、他力本願的な消極的な行為ではなく、
心のどこかに、何とかしようとする能動的な意志の発露として、
現れてくるものなのです。

つまり、何もしないで、祈っているだけというのは、
実は「祈り」というものではなく、「自己の放棄」とも
言うべきものなのです。

いくら努力をしてもどうにもならない事に対して、仕方が
無いから祈るというのは、本来の祈りの姿ではありません。

祈りとは、行動の中にこそ、その意義があるのです。
人事を尽くして天命を待つというのは、人事を尽くす中に
祈りがあり、祈りがあるから、人事を尽くせるのです。

そこには、天命という結果がどうであれ、人事を尽くした
という事は厳然と残り、そのことは決して無駄とはなりません。

祈りがあって、願いがあって、そして具体的に行動して
いくとき、様々な可能性が開けてくるのだと思います。

生かされている自分自身と、支えてくれている周りの祈りが
冥合したとき、「奇跡」と呼ばれる事が起きるのかも
知れません。

ただ、それは奇跡に見えるかもしれませんが、実は必然で、
誰から見ても顕著な形で現れたにすぎないのです。
奇跡というものは、まるで、選ばれし者のみに訪れるように
解釈されていますが、その現れ方の違いだけであって、
事実は、日常の中に、誰にでも頻繁に起こっているのです。

なかなかその事に気付く事は難しいのでしょうけれど、
祈りがあって行動する人、そしてその行動の中に祈りが
ある人には、日常の中で、多く奇跡とも言うべきものを
感じる事ができるのです。

神がかり的なことが強調されがちですが、人間の理性や、
知性を越えたところというのは、連綿たる生命の繋がり
による、共鳴とも共振ともいうべき、脈動の現れなのです。

感謝とは、その生命の繋がりの中に、確かに自身が存在し、
生かされているという自覚と、それぞれの祈りと行動が、
その繋がりに大きな影響をもたらすという事の認識の中に、
本当の意味で生じるものだと思います。


目ちから

2007年03月29日 | ノンジャンル
目は口ほどにものを言うという言葉があるが、心身の健康状態も
顔に表れ、中でも特に目に集約して表れるという。

身体は元気でも、心が病んでいる場合は、目に光が無い。
身体の疲れや、健康状態は、ハッキリと目に表れる。

瞳が澄んで、光と力のある目は、見ていて、涼やかな気分に
させられる。

反対に光の無い、陰を落とした目というのは、それが魅力と
いう人もいるのだろうが、何となく沈んだ気分になる。

こちらへまっすぐに向けてくる子供たちの視線の元には、
曇りの無い水晶のような輝く瞳がある。
自分も、昔はこんな目をしていたのだろうか?

もともと、つぶらな瞳をしている方ではなく、どちらかと
いうと三白眼に近い自分の目だが、目ちからともいうべき
ものはあったように思える。
飲んだくれるようになってからは、どんよりと澱んだ
酔眼となり、二日酔いで迎えた朝などは、濁り切った
目をしていた。

お酒を断ってからというもの、本当に徐々にではあるが、
濁りが薄れ、再び、光と力が戻って来たようにも思えるが、
まだまだ、クリアで涼やかな目には程遠い。
健康面はともかく、精神面では、様々な葛藤を繰り返して
いる中、その状態が、如実に表れていると見ている。

鏡に向かって、普段意識する事のない自分の目をじっくりと
見ると、自分の状態というものが自ずと見えてくるのである。


コントロール

2007年03月28日 | ノンジャンル
この数ヶ月というもの、お酒どころではなかったせいもあってか、
飲む夢というものをまるで見ていなかったのだが、ここ最近、
何度か夢で飲んでいる。

これまた、今までとは違ったパターンで、飲んでしまったと
悔やんだり、また一からやり直しと、投げやりになったりとか
ではなく、ハッキリとした自覚で、1週間に1日だけを
飲酒解禁日としていて、飲んでいる。

つまりその日は飲んでいても、後の6日間は飲まないという、
コントロールが出来ている自覚と認識において飲んでいる。

裏を返して、意地悪く自分を見つめれば、もう自分は、
それなりの意識と、自覚を持って、飲酒のコントロールが
出来るまでになったという、自負というか、驕りが潜在的に
あるのかもしれない。

しかしながら、覚醒している理性は、反対に、覚醒している
からこそ、飲まないでいられるという事を強く認識している。
飲む飲まないというよりも、この自己の理性を覚醒させた状態で
生活するのか、再び麻痺させてしまうのかという選択肢において、
制御不能となる事が明らかな道を選ぶほど、軽い経験をしてきた
わけではない。

「飲めない」でも、「飲んではいけない」でもなくて、
「飲まない」ただそれだけの事である。

冷静な理性は、この夢に対しても、また新たなパターンで、
『彼』が仕掛けてきているという事を、見抜いているのである。



快楽の記憶

2007年03月23日 | ノンジャンル
いわゆる、ぬか漬けの状態なのであろう。
どっぷりとアルコールに浸かってしまった脳は、その後、
アルコールが抜けたとしても、元の全く正常な状態に
戻る事はない。

限りなく、正常な状態への回復は見込めるが、完全リセットは
望めない。
そこに大きな落とし穴がある。

生命活動の中枢とはいえ、脳自体は物理的運動をする
わけではなく、認識、思考、判断、記憶、指令、反射、
抑制、統合といったような、伝達系の働きをしている以上、
肉体上の全ての情報を掌握していながら、全ては間接的となる
経験を蓄積していく点で、脳は肉体と精神の座であるといえる。

その脳が、アルコールによる、それ自体の麻痺状態という
直接的な快楽状態を実経験として記憶してしまった時、
その記憶を消す事は、不可能である。

酩酊の中で、アルコールに浸かっていることの快楽を経験し、
その状態を常に求めるようになると、その構造上において
生じる葛藤と抑制という、コントロールを自らが放棄して
しまう。つまり、制御部が麻痺する事で得られる快楽を
維持しようとするがために、その快楽、つまりアルコールを
至上のものとし、生命活動を含めた他の一切を省みない
状態となる。

肉体が悲鳴を上げ、拒絶しようとも、アルコールを体内に
入れようとするのは、その、脳の快楽至上主義の所以である。
この経験を持つ脳に対して、その快楽を奪い、麻痺状態を
正常化させて、しかもその状態を継続的に維持していく
という事は、考えれば至難の技である。

初めからお酒の飲めない人の脳は、この経験も記憶も
持たないが故に、我々の断酒とは全く異なる状態である事は
自明の理である。
お酒を飲まないという外見上の事は同じであるが、快楽を
知らずして飲まないのと、快楽を経験していながら、
飲まないというのでは精神上では、全く隔絶してしまって
いるのである。

脳の実経験による、消えない記憶を潜在的に持っている
我々が、それを制御しようとする事は、並大抵の事では
ないと肝に銘じるべきである。
そして、断酒継続の日々の中で、その制御能力の向上に
努める事を止めてはならない。