ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

こころをはぐくむ

2008年03月29日 | ノンジャンル
ケースワーカーさんに、良かったら読んでみて下さいと、
貸して頂いた、書籍のタイトルである。

アルコール依存症と、自助グループのちからという副題で、
著者はこの病気の医療関係者の中でも3巨頭の一人とされる
医師である。

いろいろと考えさせられる面も多く、非常に勉強となったが、
中でも二つの事に気付きというか発見のようなものがあり、
印象に残った。

ひとつは、人を信じるという事である。
どんな状態であれ、裏切られる事ばかりであっても、その人の
中にある「人の信頼に応えようとする心」を信じるという事だ。

何度もスリップして、何度も入院して、それでもお酒を
やめられない人に対しては、家族も医療側も燃え尽き、匙を投げる
ことにもなりかねない。
だが、本人はどう言おうと、どんな状況であろうと、死にたくない、
お酒をやめて生き続けたいという、心底の思いがあるものだ。

その心底の思いを信じるという事なのである。
自分に即してみれば、飲まないで日々の生活に向き合っていける
自分を信じるという事にもなるのだが、私の場合は少し
違ったような気がしている。

私は自分を信じてはいなかった。少なくとも、いくら反省した
ところで、後悔したところで、現実には自分でお酒をやめる事は
できなかった。

自分で病院へ行ったとはいえ、離脱に苛まれて限界に達した
だけであり、気力体力の限界を感じていたこと、カミサンの
離婚宣言が大きなきっかけとなって、止める事ができたこと、
そのあたりの記憶は年月を経るごとに鮮明になってくる。

自分を信じるというレベルではなく、冷徹に自分を見つめる事で
精一杯であったと言える。
今は、なんとなくではあるが、まだまだ生きねばならない
自分にとって、断酒は最低限の条件として落ちついた状態と
なっている。
その点でいえば、自分を信じているとも言えなくも無い。

いずれにせよ、人に信じてらえるという事は、生きていく上で
最も必要な事かもしれない。だからこそ、その信頼に応えようと
人はするのであり、その上で、人を信じようとするのであろう。

子供達が成長のさなかにある今、この信じるという事を親として
忘れてはならないと考えていた。

今ひとつは、夫婦の関係である。
それは本当にその夫婦それぞれにおいて、それぞれ特別な
関係であり、千差万別である。
マニュアルのように、一慨的にこうあるべきなどといった、
社会的規範やルールなどをベースに見るべきものではない。

そういった一般通念から外れたところに、夫婦関係はある
はずであり、結果、互いに相容れあって、力の抜ける相手であり、
その共有の場所を分かち合っているのであればそれで良い。
単に役割分担された同居人であれば、外なる社会と何ら変わり無く、
結果、特別な関係でも相手でも無くなってしまうのである。

その特別な関係と共依存というものの区別は難しいかもしれないが、
一緒にいて、互いが幸せであればそれで良いのではないかと思う。
どちらかが不幸であったり、共に不幸になるのであれば、
その関係について考えねばならない事もあるだろうが、形は
どうであれ、また他人の眼にどう映ろうと、本人同士が幸せで
あればそれで良い。

夫婦とはこうあるべきだ等と一般論で一括りにまとめようと
したところで詮が無い。
本の中に面白い例えとして載っていた。
夫が泥棒をしている時に、妻がそれを責めて、
それは悪い事です。やめなさい。警察へ連絡します。
と正しい事をいうのと、妻が見張り役として、夫の手助けを
するのと、どちらが夫婦らしいかということである。

善悪の問題は別として、夫婦の関係というものが、正論や
社会通念、規範、ルールといったものとは別のところにあると
いう点では、非常に意味深長な例えではないかと、印象深かった。

振り返って、自分たち夫婦の関係を考えると、確かに、
夫婦らしいといえる事が数多くあったことに
気がついたのである。
それこそ、社会通念で考えれば、とっくの昔に別れていた
かも知れないのである。


食事と睡眠

2008年03月24日 | ノンジャンル
何も健康に関する話ではない。
食べるという事と、寝るという事の、基本的な話である。

人は食べて活動し、疲れたなら寝て身体を休めるという、
基本的な生活リズム無しでは、生きていく事は出来ない。

昔ならこの食べるという事に皆が必死で、つまりは生きて
いく為に必死であった。
それだけ貧しく、その日の糧を得るのに精一杯という状況の中、
懸命に働いた時代であった。
食べなければ死ぬが、少々寝なくとも死にはしない。
食べる為に働き、働く為にどうしても必要な睡眠を取るという、
単純明快な時代でもあった。

今はどうか。
お腹が空く経験はあっても、食べ物が無くて飢えるという
経験がなく、溢れるほどの食べ物に囲まれて育ってきた人には、
働く動機は食べる事には直結していない。
つまり、何のために働くかが、昔とは違ってきていることになる。

ホームレスでさえ、さほど食べ物に困っているようには見えない。
なんとも豊かになったものだ。
食べる為に働き、働く為に寝るという時代から、働く為に食べ、
疲れたら寝るという時代になった今、食べる事は目的ではなく
手段となり、寝ることは必要から当然となった。

一日を元気に活動する為に、十分な睡眠を取り、食事を取る
ことが当然となったことは、いわば理想的であるはずなのに、
この十分過ぎる状況は、かえって人間にはあまり良い影響を
もたらさないらしい。
いつでも食べられるという感覚は食事を不規則にし、必然的に
睡眠も不規則になる。

食べる為という、単純な働く事の動機付けが通用しない現在、
何のために働くのかというところから人それぞれが考えねば
ならなくなっている。
食べるだけなら、いつまでも親元にいれば、さほふど大きな負担を
掛けずとも何とでもなる。
ニートやひきこもりが多いのも、そのあたりを反映している
ように思える。

結果、不規則な生活習慣が身についてしまったなら、規則的な
生活に戻す事は難しくなる。
リズムの無い生活は、気力も萎えさせていく。緩和が必要なのは、
緊張があるためであり、緊張が無ければ緩和の意味も無い。
それは単なる弛緩の継続でしかない。

生活の為に必死で働いてきた者は、今の時代は働く動機がさほど
単純ではない事を知るべきである。
むしろ、現在の自身を振り返って、何のために働いているのかを
改めて見つめ直す必要がある。

食べる事に執着が無いものは、生きるということに執着が無い。
つまり、いつかは死ぬという事実にも無頓着で、結果、他人の
生命にも関心が希薄となってしまう。
現在の世情は、ことにその無頓着さが如実に現われていると
思われる。

少子化対策には、経済的支援を、教育に関してはシステムの
改革をと、いわゆる対症療法的なことばかりが議論されているが、
抜本的な解決とは成り得ない事は、議論している本人が解って
いるのではないかとさえ思う。

生きるということは、本来、元気で楽しい事であるはずだ。
辛い事、悲しい事、苦しいことは、生きる喜びをより実感させて
くれるスパイスとなるはずである。
何も難しいことを議論したところで詮が無い。

人の活動の基本は食べる事、寝る事である。
これをおろそかにしていては全ての活動に支障をきたす。
基本をきっちりと抑えておけば、生活のリズムというものは
自然に出来上がってくる。
今社会を支える世代はいうまでもなく、将来社会を背負っていく
世代においては、なおさら、この基本をしっかりと身につける
ことである。

食が溢れているにも拘らず、食生活はどんどん貧しいものに
なってきている。
一晩中明るい社会で、眠らない子供のなんと多い事か。

一人一人が、その家族家族が、この基本に立ち返って、
元気であって欲しいと願うばかりである。
いつの時代も元気の無い大人はいるものだが、子供はその本来の
まま、元気に溢れていて欲しい。
しっかり寝て、しっかり食べて、元気な日々を過ごして欲しい。
その元気が、未来を創ることは間違いないのである。

子供に元気のないのは大人の責任である。せめて、自分自身が
今を元気に生きる努力をする事である。
その姿を見せるだけでも、大切な教育となる。
そもそも、教育とは生きる事が楽しいという、幸せを目的と
しているはすである。

物質的に豊かになった反面、心が貧しくなってしまった今、
もう一度、不便で非効率的なこと、飢えや苦労というものを
敢えて経験する必要に迫られているような気がしてならない。



経験という琴線

2008年03月15日 | ノンジャンル
歳を取ると涙腺が弱くなって、ちょっとしたことにも鼻の奥が
苦酸っぱくなり涙ぐむ。
物に感じやすくなっていくのであろうが、それだけ様々な経験を
積み重ねてきたという事であろう。

経験は自身の心の琴線を増やしたり、太くしたり細くしたりする。
つまり、若い頃には何とも思わなかったことでも、それが触れて
響く琴線を持つようになってくれば、心が奮える。

人はそれぞれの経験に応じて、それぞれの琴線を持つようになる。
センサーが敏感に、多様になればなるほど、物事に反応しやすく
なるのである。

人の痛みを自分の痛みとし、人の悲しみを自分の悲しみとし、
人の喜びを自分の喜びと出来る琴線を持つ人は、悲しみや喜びも、
辛さや苦しさも自ら経験し、自らの感受性を高めてきた人であろう。

仮に直接的に響かなくとも、似通った琴線を自ら弾くことで、
苦しみを分かち合い、互いに前進していけたなら素晴らしいと思う。
ただ単に琴線に触れて響くだけなら、それはともすれば
共振となって、互いに後退することにもなりかねない。

出来る事なら、自ら琴線を弾きたいと思い、その弾く琴線が
より多種多様でありたいとも思うのである。

その思いとは裏腹に、自分にとっては最も難しいことでもあると
自覚している。
響こうとする琴線を抑えて、その響きを止める事を男らしさと
考えてきた節があるからだ。

だが、琴線がなければ響くものは何も無い。
少なくとも響くものは確実に積み重ねてきたといえるので、
あとはそれを抑えないで響かせるか、あるいは自ら弾くかである。
自ら弾けるようになった時、それも一つの大きな成長で
あるかもしれない。



底を打つ

2008年03月13日 | ノンジャンル
断酒を決断し、継続していくにつき、しばしば底打ちをしたか
どうかが問題とされる。
この底打ちをしていないとスリップを繰り返し、断酒継続が
難しいというのも通説である。

何をもって底打ちとするのかは、人それぞれであろうが、
結論的に言えば本人が身をもってお酒を断つ意識と自覚に
立たざるを得ない状態に至らないと如何ともし難い。
いくら知識があっても、それは一つの歯止めとはなるが、本人の
情念が高まれば飲み込まれて、脆くも崩れ去る事は明白である。

実際に継続している人の話を聞くに、本当にこれ以上は無いと
いうほどのひどい経験を経て、ようやく断酒へと繋がった
ケースは珍しくない。
もう少し早い段階であったらという方も多いが、現実的には
その段階では底打ちがされていない以上無理だったのである。

どれほどひどい体験、経験をしてきたかという事を競って自慢
し合うようなバカバカしさは別として、現実的には、自分の
身をもって学び、気付かない限り、断酒継続というのは難しい。

早く気付いて、早く断酒するもの勝ちとも言われるが、これが
なかなか出来ないのも、この特異な病気の厄介さであり、
だからこそ周りに理解をしてもらおうなどという期待を持つべき
ではなく、また、期待出来ることではない。

病気の進行に伴い、自己中心的な考えに囚われてしまう以上、
その再起を期するのは、何がしかのきっかけを必要とはするものの、
自分自身の決断と奮起によるしかないのである。

一口に底打ちといっても、その人の性情、考え方、生きてきた環境、
置かれている立場などによって、千差万別で、その人にとっての
底打ちは、他の人の底打ちとはならない。
つまるところは、本人がもうそこより下は無いと実感するほどの
頭打ちをして、さて生きるか死ぬか、生きたいか死にたいかという
ギリギリのところを見た上で、決断したのが断酒して生きる事で
あったなら、その人は断酒を継続して行ける事となるだろう。

私の場合はというと、家族を失うギリギリ、仕事を失うギリギリ、
命を失うギリギリのところで、断酒に繋がった。
つまり、何も失っていないのである。であるのに、自身は底打ちを
したと自覚している。
全てを失って、どん底にまで落ちたという人から見れば、
全然底打ちなどしていないように見えるだろうが、仮に全てを
失ったとしても、底を打たない人は多くいるのである。

少し極端な例ではあるが、ビルから飛び降り自殺をして、
九死に一生を得たとしよう。
外から見れば同じではあっても、実際に飛び降りた人の状況に
よっては、その意味は大きく異なる。

飛び降りた瞬間、恐怖によって気を失えば、その瞬間の恐怖は
覚えているだろうが、助かった後にはそれも夢の中であったかの
ように感じるであろう。
これでは、九死に一生というあり得ない体験をしているにも拘らず、
底打ちとはなりにくい。

ビルから飛び降り、頭を下方向に、目はまっすぐに猛スピードで
近づく地面を見据え、数秒の間にめまぐるしい想いが駆け回り、
後悔など何の意味もない現実を感じ、いよいよ地面にぶち当たり、
肉が散り、骨が鈍い音を立てながら潰れる音までを意識した瞬間に
気を失った場合、助かった後にはその生々しい記憶が鮮明に
よみがえる。
これを、底打ちと言わずして、一体なんであるというのか。

私の底打ちというものは、そういうものであると感じている。



飲まないだけ

2008年03月12日 | ノンジャンル
お酒を飲まなくなっただけで、その他は何も変わっていない
という事を指して、ドライドランクの状態と呼ぶが、
私はこの状態を初期的なものと解釈していた。

つまり、私自身の初期の所感として記しているように、
お酒を断ったからといって、すぐに大きな変化や改善が
現われる訳ではなく、その回復は非常にゆっくりと徐々に
進むものであるが故に、それ相当の時間を要するという事である。

それ相当というのは、飲み方がおかしくなり、依存症へと
進行していった履歴と同等の時間という解釈でもあった。
それを初期の段階で、何も変わっていないなどと評したところで
詮がないと考えていたし、今もその考えに変わりは無い。

ただ、飲まないことが当たり前になってきた最近、ふと自分の
今の状態はドライドランクではないかと疑いを持った。
飲んでいた頃と比べたなら、飲まないことだけが異なるのみで、
忙しい毎日を過ごし、出張、接待を含め仕事中心の日々で、
休日は専ら身体を休めることで終わってしまうような状態である。

昨年を振り返れば、とにかくも家族を中心として頑張れた一年で
あったと思えるし、それに伴う良い方向への変化というものも
実感できたが、今年は年明けから過密なスケジュールが立て続けに
待ち受ける中、飲んでいた頃と殆んど変わらない仕事中心の生活と
なってしまっていることにふと気付いたのである。

頭の中は常に仕事のことで一杯となり、自分でも余裕がなくなって
きているのを感じつつも、それをどうにも出来ない状況がこれまで
続いていたが、どうやら身体が限界に来ていたのかもしれない。
中国出張を無事に終えた後、ようやく一息つけるとなった途端、
心身ともにダウンしてしまった。

気力も体力も萎えてしまった状態に、危険を感じたので、
思い切って自らを休ませる事にした。
気力が充実している間は、蓄積された疲れは感じにくいが、ホッと
気が抜けた途端に身体は悲鳴を上げ出すようだ。
疲れを感じないまま、物理的な疲れが限界を越える時、精神的な
破綻さえ懸念される。
まさにその余裕の無い状態は、ドライドランクの状態とも
言えるかもしれない。

やはり、疲れを溜めることは忌避すべきなのである。
早い目に疲れの蓄積に気づいて、その都度対処していきながら、
心身の平衡を保つ事が大切であろう。
何も依存症患者に対してのみ言えることではなく、一般的にも、
このバランスの乱れが常態化すると、かなり大きな反動となって
現われて来るに違いない。

日常の忙しさに流されていると、ついつい無理をしがちで、
自身の状態を冷静かつ客観的に見ることが出来ない場合も
あるだろう。
また、休む、休ませるという事に何となく罪悪感を感じて
しまうのもこの国の文化的側面である事は間違いない。
休日であるのに、する事がないと不安になるのも、その側面の
現れであろう。

私自身は、少なくとも断酒直前の状態をはっきりと記憶している。
それに比べれば、現在の状態は遥かに良い方向に変わってきて
いることも実感できる。だが、本来の自分を取り戻すには、
まだまだ時間が必要である事も理解しているつもりである。

端的に言えば、ドライドランクは断酒何年であろうが
状況によって現われる。
その状況とは、主として外的要因で心身の余裕が極端に無くなる
ケースであるといえる。
その危険なケースにおいては、飲んだくれていた時よりは
余程ましと、ある意味開き直って、必要な休養を取るべき
なのである。

気力体力の充実は、それ相応の必要な休養が無ければ、
決して継続的には望めない。
今回、身をもって肝に銘じたことである。