ケースワーカーさんに、良かったら読んでみて下さいと、
貸して頂いた、書籍のタイトルである。
アルコール依存症と、自助グループのちからという副題で、
著者はこの病気の医療関係者の中でも3巨頭の一人とされる
医師である。
いろいろと考えさせられる面も多く、非常に勉強となったが、
中でも二つの事に気付きというか発見のようなものがあり、
印象に残った。
ひとつは、人を信じるという事である。
どんな状態であれ、裏切られる事ばかりであっても、その人の
中にある「人の信頼に応えようとする心」を信じるという事だ。
何度もスリップして、何度も入院して、それでもお酒を
やめられない人に対しては、家族も医療側も燃え尽き、匙を投げる
ことにもなりかねない。
だが、本人はどう言おうと、どんな状況であろうと、死にたくない、
お酒をやめて生き続けたいという、心底の思いがあるものだ。
その心底の思いを信じるという事なのである。
自分に即してみれば、飲まないで日々の生活に向き合っていける
自分を信じるという事にもなるのだが、私の場合は少し
違ったような気がしている。
私は自分を信じてはいなかった。少なくとも、いくら反省した
ところで、後悔したところで、現実には自分でお酒をやめる事は
できなかった。
自分で病院へ行ったとはいえ、離脱に苛まれて限界に達した
だけであり、気力体力の限界を感じていたこと、カミサンの
離婚宣言が大きなきっかけとなって、止める事ができたこと、
そのあたりの記憶は年月を経るごとに鮮明になってくる。
自分を信じるというレベルではなく、冷徹に自分を見つめる事で
精一杯であったと言える。
今は、なんとなくではあるが、まだまだ生きねばならない
自分にとって、断酒は最低限の条件として落ちついた状態と
なっている。
その点でいえば、自分を信じているとも言えなくも無い。
いずれにせよ、人に信じてらえるという事は、生きていく上で
最も必要な事かもしれない。だからこそ、その信頼に応えようと
人はするのであり、その上で、人を信じようとするのであろう。
子供達が成長のさなかにある今、この信じるという事を親として
忘れてはならないと考えていた。
今ひとつは、夫婦の関係である。
それは本当にその夫婦それぞれにおいて、それぞれ特別な
関係であり、千差万別である。
マニュアルのように、一慨的にこうあるべきなどといった、
社会的規範やルールなどをベースに見るべきものではない。
そういった一般通念から外れたところに、夫婦関係はある
はずであり、結果、互いに相容れあって、力の抜ける相手であり、
その共有の場所を分かち合っているのであればそれで良い。
単に役割分担された同居人であれば、外なる社会と何ら変わり無く、
結果、特別な関係でも相手でも無くなってしまうのである。
その特別な関係と共依存というものの区別は難しいかもしれないが、
一緒にいて、互いが幸せであればそれで良いのではないかと思う。
どちらかが不幸であったり、共に不幸になるのであれば、
その関係について考えねばならない事もあるだろうが、形は
どうであれ、また他人の眼にどう映ろうと、本人同士が幸せで
あればそれで良い。
夫婦とはこうあるべきだ等と一般論で一括りにまとめようと
したところで詮が無い。
本の中に面白い例えとして載っていた。
夫が泥棒をしている時に、妻がそれを責めて、
それは悪い事です。やめなさい。警察へ連絡します。
と正しい事をいうのと、妻が見張り役として、夫の手助けを
するのと、どちらが夫婦らしいかということである。
善悪の問題は別として、夫婦の関係というものが、正論や
社会通念、規範、ルールといったものとは別のところにあると
いう点では、非常に意味深長な例えではないかと、印象深かった。
振り返って、自分たち夫婦の関係を考えると、確かに、
夫婦らしいといえる事が数多くあったことに
気がついたのである。
それこそ、社会通念で考えれば、とっくの昔に別れていた
かも知れないのである。
貸して頂いた、書籍のタイトルである。
アルコール依存症と、自助グループのちからという副題で、
著者はこの病気の医療関係者の中でも3巨頭の一人とされる
医師である。
いろいろと考えさせられる面も多く、非常に勉強となったが、
中でも二つの事に気付きというか発見のようなものがあり、
印象に残った。
ひとつは、人を信じるという事である。
どんな状態であれ、裏切られる事ばかりであっても、その人の
中にある「人の信頼に応えようとする心」を信じるという事だ。
何度もスリップして、何度も入院して、それでもお酒を
やめられない人に対しては、家族も医療側も燃え尽き、匙を投げる
ことにもなりかねない。
だが、本人はどう言おうと、どんな状況であろうと、死にたくない、
お酒をやめて生き続けたいという、心底の思いがあるものだ。
その心底の思いを信じるという事なのである。
自分に即してみれば、飲まないで日々の生活に向き合っていける
自分を信じるという事にもなるのだが、私の場合は少し
違ったような気がしている。
私は自分を信じてはいなかった。少なくとも、いくら反省した
ところで、後悔したところで、現実には自分でお酒をやめる事は
できなかった。
自分で病院へ行ったとはいえ、離脱に苛まれて限界に達した
だけであり、気力体力の限界を感じていたこと、カミサンの
離婚宣言が大きなきっかけとなって、止める事ができたこと、
そのあたりの記憶は年月を経るごとに鮮明になってくる。
自分を信じるというレベルではなく、冷徹に自分を見つめる事で
精一杯であったと言える。
今は、なんとなくではあるが、まだまだ生きねばならない
自分にとって、断酒は最低限の条件として落ちついた状態と
なっている。
その点でいえば、自分を信じているとも言えなくも無い。
いずれにせよ、人に信じてらえるという事は、生きていく上で
最も必要な事かもしれない。だからこそ、その信頼に応えようと
人はするのであり、その上で、人を信じようとするのであろう。
子供達が成長のさなかにある今、この信じるという事を親として
忘れてはならないと考えていた。
今ひとつは、夫婦の関係である。
それは本当にその夫婦それぞれにおいて、それぞれ特別な
関係であり、千差万別である。
マニュアルのように、一慨的にこうあるべきなどといった、
社会的規範やルールなどをベースに見るべきものではない。
そういった一般通念から外れたところに、夫婦関係はある
はずであり、結果、互いに相容れあって、力の抜ける相手であり、
その共有の場所を分かち合っているのであればそれで良い。
単に役割分担された同居人であれば、外なる社会と何ら変わり無く、
結果、特別な関係でも相手でも無くなってしまうのである。
その特別な関係と共依存というものの区別は難しいかもしれないが、
一緒にいて、互いが幸せであればそれで良いのではないかと思う。
どちらかが不幸であったり、共に不幸になるのであれば、
その関係について考えねばならない事もあるだろうが、形は
どうであれ、また他人の眼にどう映ろうと、本人同士が幸せで
あればそれで良い。
夫婦とはこうあるべきだ等と一般論で一括りにまとめようと
したところで詮が無い。
本の中に面白い例えとして載っていた。
夫が泥棒をしている時に、妻がそれを責めて、
それは悪い事です。やめなさい。警察へ連絡します。
と正しい事をいうのと、妻が見張り役として、夫の手助けを
するのと、どちらが夫婦らしいかということである。
善悪の問題は別として、夫婦の関係というものが、正論や
社会通念、規範、ルールといったものとは別のところにあると
いう点では、非常に意味深長な例えではないかと、印象深かった。
振り返って、自分たち夫婦の関係を考えると、確かに、
夫婦らしいといえる事が数多くあったことに
気がついたのである。
それこそ、社会通念で考えれば、とっくの昔に別れていた
かも知れないのである。