昨日の記事で、「家族の回復」ということに触れたが、
そういえばと、ふと気付いたことがある。
断酒して、復職して、年を越えたあたりからだろうか、
家族が私にまとわりつくようになってきた。
おかしな言い方だが、いろいろと話を聞いてもらいたがったり、
そばに来て、引っ付いてきたりと、なにかしら、求心力の
ようなものが働いている。
仕事から帰り、一人でテレビを睨みながら、黙々と飲んで
いた頃は、いろいろと気を遣い、子供なりに心配して
いたのであろう。
今のようにまとわりつくことは少なかったように思える。
カミサンも、半ばあきらめていたようで、これも今のように
一日の様々な事について私に話し掛けるということは無かった。
心配も沢山かけたであろうが、同時に淋しい思いもさせて
いたんだなと、あらためて気付かされた。
今や、仕事から帰ると、カミサンは話に夢中、子供はそばに
寄って来てと、夜の団欒の風景は変わってきている。
正直、疲れている時など、少々うっとうしいこともあるが、
これは贅沢というものであろう。
同じ部屋にいて、一人の世界で飲んだくれている者と、
それを気遣いながらも、どうしようもない者が
共に過ごす時間ほど、苦痛で、淋しいものは無いであろう。
それを、何年も続けていたのである。
断酒によって今、やっと家族皆が楽しく、笑顔で過ごせる
時間となったのである。
継続の中で、本当に知らぬ間に、徐々に回復の兆しが自身にも、
家族にも表れてきた事に、ようやく気付き始めたのである。
積み重ねていく過程の中、こうした変化に気付く事が
出来るというのは、幸せなことだ。
が、それを壊してしまうのは、一瞬の事であることも、
心しておかねばならない。
そういえばと、ふと気付いたことがある。
断酒して、復職して、年を越えたあたりからだろうか、
家族が私にまとわりつくようになってきた。
おかしな言い方だが、いろいろと話を聞いてもらいたがったり、
そばに来て、引っ付いてきたりと、なにかしら、求心力の
ようなものが働いている。
仕事から帰り、一人でテレビを睨みながら、黙々と飲んで
いた頃は、いろいろと気を遣い、子供なりに心配して
いたのであろう。
今のようにまとわりつくことは少なかったように思える。
カミサンも、半ばあきらめていたようで、これも今のように
一日の様々な事について私に話し掛けるということは無かった。
心配も沢山かけたであろうが、同時に淋しい思いもさせて
いたんだなと、あらためて気付かされた。
今や、仕事から帰ると、カミサンは話に夢中、子供はそばに
寄って来てと、夜の団欒の風景は変わってきている。
正直、疲れている時など、少々うっとうしいこともあるが、
これは贅沢というものであろう。
同じ部屋にいて、一人の世界で飲んだくれている者と、
それを気遣いながらも、どうしようもない者が
共に過ごす時間ほど、苦痛で、淋しいものは無いであろう。
それを、何年も続けていたのである。
断酒によって今、やっと家族皆が楽しく、笑顔で過ごせる
時間となったのである。
継続の中で、本当に知らぬ間に、徐々に回復の兆しが自身にも、
家族にも表れてきた事に、ようやく気付き始めたのである。
積み重ねていく過程の中、こうした変化に気付く事が
出来るというのは、幸せなことだ。
が、それを壊してしまうのは、一瞬の事であることも、
心しておかねばならない。