ALQUIT DAYS

The Great End of Life is not Knowledge but Action.

応援

2008年08月28日 | ノンジャンル
応援するのは、期待を寄せている人のためなのか、期待している
自分のためなのか。
頑張っている人を応援するのは、その人のためであって、
頑張る姿に元気をもらえる自分のためでもある。

応援している人が期待を裏切ると、途端に応援する気が
なくなるのは、実は自分の応援が無駄になったという
本音があるからである。

自分が応援しているのだから、期待に応えてくれないとという、
独りよがりの本音がそこにある。
だから、期待を「裏切られた」という感覚になってしまう。

子供が頑張る姿をみて、応援している親は、いくら期待を
裏切られても、応援をやめる気にはならない。
頑張っているのだから、その事自体に自分も力をもらいながら、
応援し続けて行くところに、実は親子共に成長がある。

ところが、どうも、応援する、期待する、成果が出ない、
期待を裏切られる、落胆する、憤慨する、そして応援していた
人を非難するというおかしな図式が多いような気がする。 
期待に応えようと頑張る事が、自分のためでもあると
わかって頑張り続ける人を、応援するならば応援し切って
いきたいものだ。

途中で音を上げる応援ほど性質の悪いものはない。

バース、掛布、岡田の3本柱で、日本一を飾った阪神が、
その後再び優勝するのに18年掛かった。
18年である。日本一の当時、私は大学生であった。
その後、40代になるまで一度も優勝が無かったのである。

毎年、シーズン半ばでああ、今年も駄目かということが、
18年も続いたのである。まるで親がわが子をどんな時も見守り、
応援するように、裏切られても裏切られても、阪神ファンは
チームを見守り、応援し続けてきたのである。

私は熱狂的な阪神ファンではないが、諦めずに応援を続ける
阪神ファンに、人として暖かいものを感じる。
そして、出来の悪い子が18年もかかってやっと大手柄を
立てた時の喜びは、物狂いしてもおかしくはないとも思うのだ。

常に強いチームのファンも多いだろう。だが、成果を挙げ続ける
事は難しい。
低迷しだすと途端に冷たくなるのは、ファンである自分自身の
低迷のように捉えるからである。

何がどうであろうと、励まし続ける、応援し続けるということは、
子を持つ親の心でなければ出来ない事である。
成果はどうであれ、諦めずに信じるという事がそもそも
応援ではないのか。

成果ばかりに目を奪われていては、人にも自分にも大切なものが
見えなくなってしまう。

強いから、成果を上げているから応援するのではなく、弱いから、
成果も上がらないから、でも諦めずに頑張っているから、
応援するのである。期待に応える応えないは、また別の話である。

オリンピックが終わって、「応援」という事を考えていた。
人は応援し、応援されて成長して行く。成果よりも、成長の方が
遥かに大事なのである。

成果は一瞬、成長は永遠であるのだから。。。



心のたしなみ

2008年08月27日 | ノンジャンル
家にいて弛緩しているときと、外に出て緊張しているときの差が、
曖昧になってきているのが今の時代ともいうべきか。

一歩表に出たなら、それなりの覚悟や緊張感をもって、恥ずべき
姿を見せず、公序良俗を乱さないのが日本の文化であったように
思えるが、どうもそのあたりの境界がぼやけてきている。

男女を問わず、公たる場へ出るときには、青く冷たい光芒を持つ
刃を身にまとうくらいの緊張感が心にあったのは、さほど遠い
昔の事ではない。

武士の世であれば、女性は懐に短剣を持し、辱しめを受ける
くらいなら、自ら死を選んだ。
今では、公共の場でせっせと化ける過程をさらし、それを恥とも
思わない。
トイレは英語でパウダールームとも言い、化ける作業をするのを、
他人に見られない場でもある。
電車で化粧をする女性を見ると、不快と言うより、その人の
生活態度が垣間見える気がする。
みっともなさが、その行為だけでその人のイメージとなってしまう。

男性にしても、脇差は狭い室内での剣戟のためというよりは、
いざという時の切腹の為であったと思う。
実際にそのいざという時は殆んどないのであろうが、その覚悟の
象徴として、脇差を帯びていたのではないか。

うつむき加減でだらだら歩く、弛んだネクタイ、ワイシャツ、
そして汚れた靴。
みっともなさは、同じ事である。家族の中で団欒するのは、
弛緩であって良い。
だが、公の場に出て、人に接し、行動するときは、その立居振舞
ということを意識すべきである。

この立居振舞に切れがあり、美しい人というのは、接していて
本当に気持ちが良い。
つまり、自分のためばかりではなく、他人のためにも、
心の緊張感は必要である。
なぜなら、その緊張感のある無しが、そのまま立居振舞に
現われるものだからである。

アメリカの文化は合理的で、通勤の時は女性はスニーカーを
履いている人が多い。
オフィスに出て、ハイヒールに履き替えるのである。
日本では、ハイヒールで通勤して、オフィスではスリッパや
サンダル履きという女性が多い。
男性も、オフィスについた途端、革靴をサンダルに履き替えて
という人が多い。

文化の違いであるから、どちらが良いかは別として、少なくとも
日本では、通勤もオフィスも、公の場に出ている事に変わりは無く、
革靴やハイヒールで通していたはずである。
家と、オフィスとの境界が曖昧になってきている会社は実に多い。

話は飛躍するが、いざ戦闘となったとき、死を覚悟する以上、
死して恥ずかしい姿を見せたくないとの思いから、軍人は下着から
軍服まで、真新しい物に着替える。
欧米では、戦闘になればどうせ汚れるのだからと、古い物を
身につける。

これは文化の問題であるから、どちらが良い、悪い、優れているか
といった価値基準からは外れたところにある。
日本人であって、日本の文化の中で育まれたのなら、堂々とその
文化を享受して、他国の文化も認めながら、自国の文化を紹介して
行けば良いだけの事である。
文化の相互認識ほど大切なものはなく、これは異国間の交流に
おいて言語以上の重要性があると考えている。
そういえば、大学のゼミも、文化交流によるコミュニケーションが
テーマだった。

身動きの取れないような固陋な体制や体質は壊していけば良いとも
思うが、文化というものをないがしろにする事は革新には
繋がらない。
社会において、人が相互に尊敬しあい、互いに気持ちの良い生活を
送るという、最も根本的なところに文化は根付いている。

立居振舞を美しくさせる、心のたしなみ、つまり他人を慮る緊張感が
失われてきている事は、その根本的な文化をも実のないものに
していく。そして、行きつく先は、「ええじゃないか」のような
混沌とした世相なのである。

この、心のたしなみ、引き締めという意味で共通しているのが、
「シェイプアップ」である。
ダイエットの事ではない。
弛んだネクタイを締めなおす、気を引き締めて事に当たるという
意味である。
身体のシェイプアップよりも、心のシェイプアップが、まずもって
必要とされている時代かもしれない。

男女とも、家を出るときには戦闘モードに切り替える
シェイプアップのスイッチを持っていた方が良い。
化粧をする、ネクタイを締める、鏡の前で気合を入れる、
笑顔をつくる、等など、方法は人それぞれで良い。

要するに、出る前に、再び家に帰るまでホッとは出来ないと、
覚悟を決めるのである。





フェイルセーフ

2008年08月24日 | ノンジャンル
人は、その脳の特質上、時にミスを犯してしまうものである。
ミスを犯す脳のメカニズムについては本題では無いので省くが、
基本的に、人はミスを犯すものであるという事を前提として、
その影響や損害、被害を回避し、あるいは最小限に抑えるという
立場が、フェイルセーフのシステムである。

これは、様々な分野で適用されているが、特に生命に関わる
事故等については、一般的となっている。

結論から言うと、フェイルセーフは、人がミスを犯しても
よいようにということではなく、人が出来る限りの注意を
払う中で、予期せぬミスが発生した場合に、その効力を
発揮する。

そもそも、予め失敗する、ミスをする事がわかっていて、
失敗やミスをする事はない。うっかりミスを含め、
予期せぬ失敗、思いも寄らぬミスが殆んどである。

つまり、直接的間接的を問わず、どれだけミスや失敗の事例を
認識し、それがもたらす悪い結果について自覚しているかが、
大きなポイントとなる。

同じミスを繰り返す人は、そのミスによってもたらされた
悪い結果が軽微なものであったか、もしくは、反省するほどの事も
無いという自覚レベルであるからだろう。

懲りないということは、同じ失敗を繰り返す元となる。

買い物しようと町まで出かけたサザエさんが、財布を忘れて、
愉快だなどと言っている場合ではない。
仕事であれば、出かけた先で済む業務が、戻ってまた出直すという
三度手間となり、時間、経費の上で、これほどの無駄はない。

失敗は誰にでもある。むしろ当然の事である。大事なのは、
同じ失敗を繰り返さない事。それは貴重な自身の体験に裏付け
られているのであるから、わざわざ繰り返す必要は無い。

そして出来る限り、失敗の実例に学ぶ事である。自分が直接経験
しなくとも、様々な人が様々な失敗を経験している。
その実例を学べば、未体験のことであっても、注意すべき点が
見えてくる。
成功談よりも、失敗談にこそ学ぶべきことが多いのである。

断酒している我々は、スリップという、再飲酒の失敗を自ら
経験するも良し、他人の経験を聞いて学ぶのも良し、要するに
自身の断酒継続に繋がっていくのであれば良い。

私は、スリップについては間接的に多くを学ばせて頂いた。
自分の中では、毒を飲めば苦しむという、ごく単純且つ当然の
事として認識している。わざわざ、実際に直接体験して
立証しようとは思わない。

ただ厄介なのは、未体験の事については、好奇心が頭をもたげる
事がしばしばある。また、そのつもりは無くとも、つい魔が差して
という事も無いとは言い切れない。
我々にとっては、抗酒剤がいわゆるフェイルセーフと
なるのであろう。お守りといわれる所以である。



心で話す

2008年08月23日 | ノンジャンル
今日は通院日でした。院長先生の診察が休みとあってか、
びっくりするほど空いていました。

院長の顔を見て、話をして、それでまた1週間、1ヶ月と断酒を
継続できている人も少なく無いでしょう。

その人達にとっては、自分の断酒にはかけがえの無い存在である
院長も、お元気とはいえ、もうかなりの高齢です。
ここ数年はともかく、10年、20年という事を考えれば、いつか
お別れせねばならない時が必ずやって来ます。

心の拠り所とも言うべき人が亡くなったら、どうなってしまうの
かと考えていましたが、今、顔を合わせ、話をしているその時を
大切にしていれば、その人がいなくなったとしても、心の中で
話をし続ける事ができるだろうなとも考えていました。

縁起でもない事を考えているものだと、院長先生に対しては
不謹慎ではありますが、その日がいつ来てもおかしくは無いのが
現実です。

母親が亡くなった時も、想像すらしておらず、その突然の死は
俄かには信じがたく、呆然としていた覚えがあります。

この世でたった一人の、自分の全てを理解してくれている存在を
失う事は、自分自身を失う事と同じで、どうしようもない喪失感、
空虚感に3年ほどは苛まれていたようです。

初めの頃は、なぜか知らぬ間に生き返っていて、普通に話したり、
一緒にいたりという夢をよく見ました。

断酒初期の頃も、夢の中で飲んでしまい、しまったと思って目が
覚める事もよくありました。

ようやく落ち着いた頃には、夢も見なくなって、もうこの世では
母親に会う事はないという現実、あるいは、お酒を再び飲める
ようにはならないという現実が、だんだんと腹に座って
いきました。

今では、苦しい時、辛い時、目の前にはいないものの、心の中の
母親と話をし、彼女が生前に遺した言葉を繰り返し聞きながら、
今を生きる自分の糧としています。

人は、人と顔を合わせて話をするなかで、その人とのつながりを
自分が生きる限り感じていけるのでしょう。
そして自分もまた、人の心に遺る存在となっていくのです。

できる事であれば、心に遺る母親の存在のように、死して尚、
自分の子供達や人の心に、生きる支えの一つとして遺るような
存在でありたいものです。



回復と前進

2008年08月19日 | ノンジャンル
アルコールがもう、毒でしかなくなってしまったなら、
その人にとってアルコールは、もともと飲めない人や、抗酒剤を
服用している人にとってのそれと全く同じである。
飲めば害はあっても益する事はもう既にない。

飲まない事で、毒が身体から抜けていけば、
肉体的には回復に向かう。
つまり、害毒が消えるのであるから、快復して行くとも言える。
もちろん、毒となってしまった以上は、何がしかの障害を身体に
与えてきたわけであるから、毒が抜けたからといって、一挙に
健常な身体に戻るわけではない。

様々な後遺症とも言えるものが、その程度は別として回復過程に
おいて実感される。
アルコールが抜ける過程の離脱症状を乗り越え、安定してくると、
いわゆる肉体的快復というものを顕著に実感できるし、
後遺症についても、掛かる時間の長い短いはあるにせよ、
ある程度の期間を経て比較すれば、回復の方向に向かって
いる事を自覚も出来る。

ところが、この病気は本来、内科の科目ではなく、精神科、
神経科の科目である。
神経系統は、内科と共に肉体的な回復が主眼であり、症状も
治療も割合に具体的なものとなる。
つまり、快復から、回復へと具体的に進んでいく。

これに反して精神科で扱う領域が最も難しい要素であり、
医療側で出来る事というのは非常に限られている。
個々の状態によって、適切なアドバイスや処方をする事は
出来ても、治療という事は出来ない。回復への手助けという
位置付けでしかない。

健全な精神を維持するのに必要な要素たる、健全な生活習慣
というものを維持するための診察であり、アドバイスであり、
処置であり、処方である。あるいはデイケア、自助グループとの
連携もその意味で言えば必然的なものであろう。

断酒によって肉体の快復を実感し、回復を自覚できたところで、
本質的な問題に直面する事になる。
つまり、生きていくのに、必要不可欠とばかりに飲まざるを
得なかった自身が、飲まないで生きて行くという事である。
もともと体質的に飲めない人と異なり、アルコールの有益な
効用を経験し、認識している。

その有用性を利用して、様々な局面において精神的なバランスを
維持して来たのである。
それが、今や何ら益するものがない毒物となってしまった以上、
その認識と自覚が、過去の習慣的な経験を凌駕して、様々な
局面に飲まずに対処していくというのは、非常に困難である。
よって、主眼となる精神面で言えば、治療という事は
あり得ないし、回復といっても、健全であった過去の自分の
精神状態に回帰するという事ではない。

事に当たって、飲んで対処して来た過去の自分から一歩ずつ
脱却して、飲まずに対処して生きる道を一歩ずつ進んで行く
という事なのである。
回復というよりは、開拓、前進、成長という言葉の方が最も
ふさわしいかもしれない。

そう考えれば、まだまだ前進、成長の途についたばかりである。
いや、むしろこれまでまだまだゼロ地点、スタート地点まで
辿り着いていないと考えていたが、これもある意味体裁の良い
言い訳に過ぎない。
断酒して生きると決めた原点がある以上、前へ進むと決めた時が
いつでもスタート地点なのである。
その上で、前進か、停滞か、後退かを冷静に分析し、
自覚して行けば良い。

それにしても、こと精神的な成長という事については、
振り返れば頭を抱えたくなるような有様である。
徒に歳を重ねてきたのかと思うと呆然とするが、とまれ、
やり直しという事は、本人が心を決めればいつであれ
可能であると信じて、反省はしても後悔はしないよう、
日々、前を向いて行きたいものである。