応援するのは、期待を寄せている人のためなのか、期待している
自分のためなのか。
頑張っている人を応援するのは、その人のためであって、
頑張る姿に元気をもらえる自分のためでもある。
応援している人が期待を裏切ると、途端に応援する気が
なくなるのは、実は自分の応援が無駄になったという
本音があるからである。
自分が応援しているのだから、期待に応えてくれないとという、
独りよがりの本音がそこにある。
だから、期待を「裏切られた」という感覚になってしまう。
子供が頑張る姿をみて、応援している親は、いくら期待を
裏切られても、応援をやめる気にはならない。
頑張っているのだから、その事自体に自分も力をもらいながら、
応援し続けて行くところに、実は親子共に成長がある。
ところが、どうも、応援する、期待する、成果が出ない、
期待を裏切られる、落胆する、憤慨する、そして応援していた
人を非難するというおかしな図式が多いような気がする。
期待に応えようと頑張る事が、自分のためでもあると
わかって頑張り続ける人を、応援するならば応援し切って
いきたいものだ。
途中で音を上げる応援ほど性質の悪いものはない。
バース、掛布、岡田の3本柱で、日本一を飾った阪神が、
その後再び優勝するのに18年掛かった。
18年である。日本一の当時、私は大学生であった。
その後、40代になるまで一度も優勝が無かったのである。
毎年、シーズン半ばでああ、今年も駄目かということが、
18年も続いたのである。まるで親がわが子をどんな時も見守り、
応援するように、裏切られても裏切られても、阪神ファンは
チームを見守り、応援し続けてきたのである。
私は熱狂的な阪神ファンではないが、諦めずに応援を続ける
阪神ファンに、人として暖かいものを感じる。
そして、出来の悪い子が18年もかかってやっと大手柄を
立てた時の喜びは、物狂いしてもおかしくはないとも思うのだ。
常に強いチームのファンも多いだろう。だが、成果を挙げ続ける
事は難しい。
低迷しだすと途端に冷たくなるのは、ファンである自分自身の
低迷のように捉えるからである。
何がどうであろうと、励まし続ける、応援し続けるということは、
子を持つ親の心でなければ出来ない事である。
成果はどうであれ、諦めずに信じるという事がそもそも
応援ではないのか。
成果ばかりに目を奪われていては、人にも自分にも大切なものが
見えなくなってしまう。
強いから、成果を上げているから応援するのではなく、弱いから、
成果も上がらないから、でも諦めずに頑張っているから、
応援するのである。期待に応える応えないは、また別の話である。
オリンピックが終わって、「応援」という事を考えていた。
人は応援し、応援されて成長して行く。成果よりも、成長の方が
遥かに大事なのである。
成果は一瞬、成長は永遠であるのだから。。。
自分のためなのか。
頑張っている人を応援するのは、その人のためであって、
頑張る姿に元気をもらえる自分のためでもある。
応援している人が期待を裏切ると、途端に応援する気が
なくなるのは、実は自分の応援が無駄になったという
本音があるからである。
自分が応援しているのだから、期待に応えてくれないとという、
独りよがりの本音がそこにある。
だから、期待を「裏切られた」という感覚になってしまう。
子供が頑張る姿をみて、応援している親は、いくら期待を
裏切られても、応援をやめる気にはならない。
頑張っているのだから、その事自体に自分も力をもらいながら、
応援し続けて行くところに、実は親子共に成長がある。
ところが、どうも、応援する、期待する、成果が出ない、
期待を裏切られる、落胆する、憤慨する、そして応援していた
人を非難するというおかしな図式が多いような気がする。
期待に応えようと頑張る事が、自分のためでもあると
わかって頑張り続ける人を、応援するならば応援し切って
いきたいものだ。
途中で音を上げる応援ほど性質の悪いものはない。
バース、掛布、岡田の3本柱で、日本一を飾った阪神が、
その後再び優勝するのに18年掛かった。
18年である。日本一の当時、私は大学生であった。
その後、40代になるまで一度も優勝が無かったのである。
毎年、シーズン半ばでああ、今年も駄目かということが、
18年も続いたのである。まるで親がわが子をどんな時も見守り、
応援するように、裏切られても裏切られても、阪神ファンは
チームを見守り、応援し続けてきたのである。
私は熱狂的な阪神ファンではないが、諦めずに応援を続ける
阪神ファンに、人として暖かいものを感じる。
そして、出来の悪い子が18年もかかってやっと大手柄を
立てた時の喜びは、物狂いしてもおかしくはないとも思うのだ。
常に強いチームのファンも多いだろう。だが、成果を挙げ続ける
事は難しい。
低迷しだすと途端に冷たくなるのは、ファンである自分自身の
低迷のように捉えるからである。
何がどうであろうと、励まし続ける、応援し続けるということは、
子を持つ親の心でなければ出来ない事である。
成果はどうであれ、諦めずに信じるという事がそもそも
応援ではないのか。
成果ばかりに目を奪われていては、人にも自分にも大切なものが
見えなくなってしまう。
強いから、成果を上げているから応援するのではなく、弱いから、
成果も上がらないから、でも諦めずに頑張っているから、
応援するのである。期待に応える応えないは、また別の話である。
オリンピックが終わって、「応援」という事を考えていた。
人は応援し、応援されて成長して行く。成果よりも、成長の方が
遥かに大事なのである。
成果は一瞬、成長は永遠であるのだから。。。